第2幕-続
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[その愛しさは刃のように]
拍手用に書いたけど内容が重すぎて短編に書き換えたやつ。
超序盤の頃に書いたので二人の関係性が本編よりかなり重いです。
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それは夢だった。
懐かしい日差しの下、ベンチに座って本を読んでいる夢だ。
膝に乗せた本は白い紙が何枚も綴じられていて、わたしはそれをそっとめくっていく。
細かに横並びになっている文字を追い、それが紡ぐ単語を読み、それらが描く文に景色を思い描く。
誰かが笑っている。誰かが泣いている。誰かが叫んでいる。
誰かが、生きている。
それは知らない人達だった。けれど、知っている気がした。不思議な感覚だ、まるでこの白紙に描かれた文章が、わたしの脳から”わたし”もろとも抜け出して、”わたし”の手足を操ってお人形遊びをしているかのような。
わたしは、この文字が記す”わたし”を知っている。
悲しいと思ったことも、辛いと思ったこともないわたしだけれど、その苦しさを”わたし”は、わたしは知っている。体験したことがある。
「また読んでる」
ふと声が聞こえた。ベンチの後ろからひょっこりと顔を覗かせて、その人はゆるやかに笑う。
「字、だいぶ読めるようになった?」
「うん」
ちょっと恥ずかしくなって、わたしは本をパタンと閉じた。目の端に映し込んだ銀色を振り返る。
「ウィリアムのお話、わたし好きだよ」
「そっか」
そう言ってその人はにっこり笑った。ふと、あの言葉を試しに言ってみたくなって、わたしは体を捻ったまま背もたれの向こう側へ身を乗り出した。
「あのね」
それは、わたしが知らなかったこと。この人の物語が教えてくれたこと。
「ウィリアムのことも好き」
銀色の髪のその人は、酷く驚いた顔をしていた。いつもは優しく微笑んでいる茶色の目がこれ以上なく見開かれていて、まるで瞬きを忘れてしまったかのようだった。
「……え?」
「お話だけじゃなくて、ウィリアムのことも大好きだよ。一緒にいると楽しいし、いろんなことを教えてくれるし、明日が楽しみになるの。そういう人のことを”好き”って言うんでしょう?」
だからね、とわたしは言う。
「わたし、ウィリアムのことが大好き」
「……そ、う」
まるでその言葉を知らなかったかのように、その人はようやく何度か、ゆっくりと目を瞬かせた。
「……ごめん、そう言われた時何て返すのが正しいのか、わからなくて」
「正しいって?」
「質問には答えを返すし、名前を呼ばれたら返事をするのが正しさだ。それが人間のやり取りの仕方、コミュニケーションの取り方。けど、好きだと言われたら何を言えば良いのかわからないんだよね、それはその人の感情が出した結論であって、答えを必要とする言葉ではないから」
また難しいことを言ってその人は困ったように首を傾げた。そっか、とわたしは言って、手元の本に目を落とす。
「……じゃあ、何も言わなくて良いんじゃないかなあ?」
「それも不自然な気がするよ」
「うーん、難しいねえ」
「難しいねえ」
「うん。難しい。……ふふッ」
「あははッ」
わたし達はそう言い合って、声を上げて笑った。何で笑いたくなったのかはわからないし、どちらが先に笑い始めたのかもわからない。わたし達はどうしてか笑い合った。
穏やかな日差しの下、ベンチに集まった二人の声が響いていて、わたしはずっとそれを聞いていて。
ふと目が覚めた先に、あの人はいなかった。
***
夢から目が覚めた。
は、と短く息を吐き出す。手に握り絞めていたナイフを、誰かの喉元へ突きつけていた。無意識の、抵抗。
「……すまない」
そう言って目の前にいた人は身を引いた。銀色ではない、束ねられた髪。知っている人だ。この人は敵じゃない。わかっている。それでも、息は荒いままだ。
「……ごめ、なさい」
途切れ途切れに言い、やっとの思いでナイフを下ろす。震えた手がナイフを強く握って離さない。肘を立てて上体を起こせば、体にかかっていた薄い毛布がずるりと落ちた。
周囲を見回す。見慣れた事務所――武装探偵社だ。黒い来客用ソファにわたしは横になっていて、ここが応接室であることに気がつく。体にかかった毛布をぼうっと眺めて、数度瞬きをした。
「……わたし、どうしてここに」
「覚えていないのか」
「……夢を」
再び周囲を見回す。誰かを探すわたしの目は、心配そうにこちらを見てくる人の姿を素通りする。
「……見ていた、気がする」
そうだ。
あれは、夢だ。
もうこの世界のどこにもない、穏やかで優しい、幻想だ。
だから、ここにあの人はいない。探したって呼んだって、あの人はどこにもいない。
なのに。
――そうだ。
思い出した。
だから、わたしは。
そっとそばに立つ人を窺い見る。目が合いそうになって、逃げるように俯いた。
あの場所を、あの人を失って、いろんな場所へ渡って、そうして辿り着いたこの場所で出会った人。この人に会いに来たんだ。
会いたくなってしまったんだ。
なのにわたしは。
ぐ、とナイフを握り締める。慣れた重みのそれが、憎くて仕方がなかった。
どんなに願っても、望んでも。
わたしは結局、この人を拒まずにはいられないのだ。
「……帰ります」
わたしはするりとソファから立ち上がった。相手の手がわたしを呼び止めようと伸ばされる。それを躱して、わたしはナイフをしまってその場を立ち去ろうとする。
「おい」
躊躇いがちな声がわたしを呼ぶ。どうしてか無視はできなかった。しかし何かを言いかければ、きっとわたしはこの胸に押さえ込んだ全てを吐き出してしまう。それだけは防がなくてはいけない。
「ごめんなさい」
その言葉が相手の次の言葉を遮ることなんて、わかっている。そうでもしないと、この優しい人に縋りついてしまいそうで怖かった。
「……ちょっと、疲れてるみたいなので」
「待て」
「失礼します」
背を向けたまま歩き出す。相手の顔を見ることなんて、できるわけがない。
だって、今のわたしは。
目元を拭う。雫が潰れて、べたりと指を伝っていく。ここに来たのは、会いたい人がいたからだ。その人に会えば、あの人を、あの光景を、思い出さないでいられると思った。
あの日々のわたしとは違うわたしでいられると、この人に無邪気な笑顔を向けられる剽軽な自分でいられると、半ば願うように思っていた。
けれど。
探偵社を出る直前にカレンダーが目に入る。自然と目で追ったのは、今日の日付。
あの穏やかな日々が終わった、赤色の日だ。
全身に被ったべたりとした赤いものは、あの日からずっとこの両手を汚している。どんなに洗っても落ちない汚れがこの両手を蝕み、何かを掴もうとしてもぬるりと滑り落としてしまう。
両手を握りしめる。誤魔化すように服の裾を巻き込み、握り込む。
ここに来たのは、赤色のあの日と今日の日付が同じだったから少し怖くなって、あの穏やかな日々を思い出すのすら怖くなって、ただそれだけだ。会いたかったわけじゃない。そんな感情が、この身にあるわけがない。
夜を恐れる子供と同じだ、耐えきれば朝が来る。別にここにい続ける必要はない。だから去ろうとした。
なのに。
「人の話を聞かんか」
呆れた声で、その人は言うのだ。わたしが身を躱したその手を再び伸ばして、わたしの腕を掴んで。
「その顔で表に出るな、うちが客を泣かせたように勘違いされるだろうが」
「……見たんですか」
顔を逸らして目元を手で覆う。ずっと俯いていたから、見られていないと思っていた。途端に恥ずかしさが増して、ぐいと目元を拭う。べったりとした水滴がじわりと手のひらに張り付く。
「見えただけだ、見てはいない」
「何が違うんですか」
「じ、自主性だ」
「自主性って」
思わずといった風に言われた答えに、吹き出すように笑ってしまった。それを聞いてか、腕を掴んでくる力が緩み、そして離れる。
「……まだ、外に出るな」
「あなた方を貶めるつもりはありませんよ」
「今与謝野先生は買い出しに出ている」
「え?」
「医務室に行け」
手に何かを掴まされる。呆然とそれを見た。男物のハンカチだ。
「まだ一人の方が良いだろう」
手の中に詰め込まれたハンカチから顔を上げる。目が合う。真っ直ぐな眼差しがわたしを射竦める。
脳の奥に麻酔薬を突き刺したような、しびれに似た高揚感が一瞬走り抜けた。
「与謝野先生は買い出しに出ている。医務室に行け。まだ一人の方が良いだろう」
そう言って、その人はじっとこちらを見つめてくる。真っ直ぐな目が、眼鏡越しにわたしを映し出す。
相手を見上げるわたしが、呆然と目を見開いているわたしが、その強い眼差しに映っている。
「……理由を訊かないんですか?」
「訊いたところで俺に何ができるわけでもない」
何かを押し殺すように言い、彼はふいと顔を逸らす。
「涙する理由は人それぞれだ、故に理想的な対応方法は存在しない。ならば俺がすべきことは、本人が落ち着くよう手を貸すことだけだ」
そう言った後「わかったならさっさと行け」と背中を向けられてしまう。真っ直ぐに自分の机に向かい、その人は仕事の続きを始めた。それは人の泣き顔を意図せず見てしまったことに対する、一種の照れ隠しだろうか。
手の中に押し込められた男物のハンカチを見、折りたたまれたまましわくちゃになったそれを見つめる。几帳面に折りたたまれたそれを、そっと胸に当てる。
この人は、いつもそうだ。
抱き寄せてくるようなことはしないまま、背中を向けてくる。
けれど立ち去ることもなく、この人はずっとそばにいてくれるのだ。
***
出先から帰ってきた国木田に、事務員達は彼女が来ていると伝えてきた。彼女が来るとは聞いていなかったし、何か用があった覚えはない。緊急か、それともただ遊びに来ただけか、判断がつかないまま、彼女がいるという応接室に顔を出した。
そこに、少女はいた。
黒いソファに白い肌が映える。上体を横たえた少女は、亜麻色の髪を散らして頬を覗かせていた。息と共に肩が上下する。無防備に放り出された両手が、何かを掴み損ねたように中途半端に開いている。
名前を呼ぼうとした口を閉ざす。今すぐ起こすのは申し訳ないような気がした。少なくとも国木田には彼女へ至急の用事はない。事務員に声をかけて毛布を受け取り、そっとその体にかけてやった。少女の体つきが一枚の毛布に隠れたのを見、安堵の息を漏らす。
ふと、彼女の乱れた髪を見た。細い柔らかな亜麻色が、彼女の頬を半端に覆っている。そっとそれに手を伸ばし、避けてやった。閉じられた瞼が、半開きになった唇が現れる。
けれど目が奪われたのは、そのどれでもなかった。
まつげの縁から頬へ、雫が伝い落ちる。
――思わずすくい取った指に、じとりとした透明なそれは張り付いてくる。
微かに触れてしまった指先が柔らかな頬の感触を残している。それをもみ消すように、手を強く握り込んだ。
知っている。彼女が涙する理由は、彼女の過去にしかない。そこに国木田はいない、なら国木田は彼女のために何かをしたとして、彼女の何にもなれない。目の前にいながら何もできないなど、これほど惨めなことはない。
そこまで考え、国木田は自分の思考に呆然とする。
「……俺は」
彼女の何になろうとしたのか。
これは傲慢だ。無知だ。彼女の全てを知らない人間が望むことではない。他者を拒む彼女がそれを望んでいないことは明白。
わかっている。けれど。
それでも。
再び手を伸ばす。今度は、脱力したまま放られている手を、その指を、そっと掬い上げる。決して綺麗とは言い難い、タコと傷跡の多いその手は軽かった。
いつも笑顔で振り返ってくる彼女の姿を思い出す。あの緑に縁取られた青を思い出す。
せめて、と思うのは許されないことだろうか。
せめて今だけは、と。
触れた手をそっと掴む。その硬くなった皮膚を指先で撫でる。
けれど。
――仰け反った喉元にナイフが突きつけられる。触れていたはずの手が離れ、閉じられていたはずの少女の青い目がこちらを見上げてきている。
そこにあったのは、一瞬の敵意。
その青が宿した色に、国木田は口を噤む。
わかっていた。彼女の悲しみは過去のものであり、彼女の中には亡き友が強く残っている。それを、最近会ったばかりの人間がどうにかできるわけもなかった。
わかっていたことだ。なのに、なぜ。
「……すまない」
言い、体を反らして立ち上がる。荒く呼吸を繰り返す少女は小さく謝罪を呟いて、しかし確かに安堵の色を青に灯した。金槌で胸を殴られたような衝撃が走る。
わかっていたことだった。彼女はそれを望んでいないと。なのに。
どうしてこの胸は強く痛むのだろう。