第2幕-続
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[夜に憩う]
夏祭りネタは定番だと思っています。
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「夏祭り、ですか?」
駅から帰る道中、クリスはきょとんと与謝野を見た。ホームで偶然顔を合わせた与謝野は買い物帰りのようで、賢治を連れていた。賢治はというとその小さな体に似合わないほど高く積まれた荷物を軽々と運んでいる。さながらサーカス団員のような賢治は周囲の目を集めていた。
「そ。今度の土日にね。そこに探偵社も顔を出すのさ、勿論仕事でね。警備服の人間がいちゃ盛り上がるものも盛り上がらないってもんさ」
「探偵社の社員はみんな、私服同然ですからねえ」
民衆の背丈の倍以上に積み上げられた荷物を難なく持ち運びながら賢治が笑う。あれで前が見えているのかはわからないが、むしろ行き交う人々が賢治を避けているようなので大丈夫なのだろう。
「それで警備スケジュールの立案に国木田さんが躍起になってて、乱歩さんは事前に調べ上げた出店の巡る順番を考えていて、太宰さんは敦さんに夏祭りのあることないこと吹き込んで遊んでいて、谷崎兄妹の間ではいつにも増して放送禁止用語が連呼されてて、鏡花さんはやる気満々に小刀を手入れしていると」
「言ってしまえばいつも通りなんですよ」
のほんと賢治が言う。確かにそうだ、別段困った事態ではない。なのに与謝野は盛大にため息をついた。
「いつも通りすぎて大問題さ。これは地元の祭りを無事に終わらせる一種の任務だ。このままじゃうちらが祭りで大騒動を起こしちまう」
「な、なるほど」
容易に想像がついてしまったのは、想像力が豊かになったという認識で良いのだろうか。それとも、彼らのことをより理解できるようになったということになるのだろうか。いずれにしろ心底から喜ぶには何か違う気がする。
「そこでアンタにも手伝ってもらえないかと思ってね」
「夜ですよね? 劇団の仕事の後でしょうし、構いませんが……何をするんです?」
「まず第一に太宰の悪巧みを阻止する。第二に谷崎達がヒートアップしてきたら殴ってでも制する。第三に乱歩さんが迷子にならないように見張る。主に三つだ」
ものを数えるように、与謝野は指を伸ばしていく。
「……主に、ということは……」
「細かく数えるとキリがないからね。来賓として社長が呼ばれてる祭だ、社員が粗相をするわけにはいかないのさ。乱歩さんは妾が側にいるし、谷崎達には賢治についてもらおうと思ってる。賢治ならさすがの谷崎達も自粛するだろうしね」
「賢治さんに殴られたら谷崎さん達のお命が危ういですもんね。……それで、わたしに太宰さんの目付け役を?」
「いや、太宰には何をしても無駄だろうから、太宰から国木田を守って欲しいのさ。奴の標的はきっと敦と国木田だ、鏡花には話をしてあるから敦の方は問題ない」
だから鏡花は小刀の手入れに専念しているのか。守る、の程度を間違えている気もしなくはないが、さすがの太宰も鏡花相手にちょっかいを遂行する度胸はないだろう。安心できるような、一周回って不安になってくるような。心強いことは確かだ。
「全く、祭りの日くらい、大人しく川を流れていて欲しいものだけど」
与謝野が呆れたように何度目かのため息をつく。祭りの日に自殺未遂をされてはそれこそ迷惑になるのでは、という意見は胸の中にとどめておいた。
「……夏祭り、か」
「クリスさんの故郷には夏祭りはあったんですか?」
賢治の問いに、クリスと与謝野は同時に息を呑んだ。
賢治には悪意などない。それもそうだ、賢治はクリスの過去を知らない。クリスの故郷が軍事施設だったことなど、彼は知らないのだ。
「……いえ」
だから、笑って誤魔化すしかない。
「イースターとかクリスマスとかはありましたけど」
「イースター?」
「春のお祭りです。復活祭ですね。日本にはあまり馴染みがないイベントだと思いますよ」
へえ、と目を輝かせる賢治に笑顔を向ける。彼の無邪気は他者を救うものだ。クリスのような、人に言えない何かを隠している人間にとって、賢治の存在はどこまでも明るく心地良い。
「キリストの復活を祝う祭りだね。卵とウサギが象徴的な祭りだ」
与謝野が様子を窺う素振りを見せつつ話題に乗ってくる。言外に大丈夫だと伝えようと、クリスは明るい声で答えた。
「ええ。卵は生命の始まりを、ウサギは繁栄を意味します。日本の夏祭りは何を祝うんです?」
「いや、祝うというよりは願うのが主だね。元は豊作だとか健康だとかを願ったり、慰霊の意味があったりしたけど、今じゃ皆が花火を見たり屋台で遊んだりするのが主な楽しみ方さ」
「花火?」
目を丸くしたクリスに、与謝野は驚いたように目を瞬かせた。
「まさか知らないのかい?」
「いえ、知ってます。知ってるんですけど、楽しむというイメージがなくて」
花火は音が大きいし人の目を引く。祝い事などで盛大に打ち上げられるそれは、暗殺や裏取引に最適だった。それだけの存在なのだ、クリスにとっての花火は。だからそれを楽しむという発想がない。けれど、とクリスは色鮮やかな爆発物を思い出し、一人頷いた。
「……確かに、普通の爆弾より楽しめるかもしれない」
「良い機会だ、見てみると良いよ」
与謝野が優しく微笑んでくれる。クリスのことを初めから気遣ってくれていたこの女医は、クリスの過去と危険性を知ってもなおその気配りをやめない人の一人だ。彼女が見せかけだけの優しさでクリスに接しているのではないことなど、見ればわかる。
「……はい」
頷けば、与謝野はさらに笑みを深めた。
***
そして、夏祭り当日。
ウィン、と探偵社の印刷機から吐き出された紙を手に取り、国木田は大きく一つ頷いた。整然と表に並ぶ文字達。分刻みで組まれたスケジュール。傑作である。
夏祭りというものは人を浮かれさせる。浴衣がどうのだとか出店がどうのだとか、そんなものに国木田は興味はない。興味があるのはただ一つ、この仕事を完遂させることだ。
「完璧だ。今から待ち遠しい」
にやける頰を必死に落ち着かせる。これほどまでに完璧な計画はそうそう立てられない。これを完遂したその時の感動はいかほどであろうか、今から想像してしまうほどに国木田もまた心浮き立っていたーー否、と強く首を振る。
「浮き立ってなどいない。俺は武装探偵社の社員だぞ、完璧な計画を立てそれを完遂するのが仕事だ、当然のことだ」
社長が来賓として招待されている夏祭りの警備とあっては、力が入らないわけにはいかなかった。これは社の看板を背負う重大な仕事だ、少しのミスが社の、そして社長の名を汚す。緊張はしている、それよりも重要な仕事であるという責任感の方が強く国木田の心に重くのしかかっている。
そうだ、これは重大な仕事だ。
だのに。
「――そうそう、上手いじゃない、敦君。で、次にこっちの帯をこうして」
「こ、こうですか? 谷崎さん」
「敦君賢治君、昨日話した串焼き五連のことだけれどもね、こうやって指の間に串を挟めば良いのだよ。ほら、これで片手だけで五種類の串焼きを好きな時に好きな順番で食べられるのさ!」
「本当ですね、太宰さん! 都会にはそんな串焼きの食べ方があるんですね!」
「まだまだだな太宰、それを両手でできるのが真の祭り男というものだ。――名付けて串焼き十連!」
「おおおおー」
「――貴様ら何をしとるんじゃ!」
バァンと印刷機を叩いた。十本のボールペンを両手の指に挟んだ乱歩へ男衆が拍手喝采を送っている。ノリが小学生だ。
「あれ、国木田君ったらまだ着替えてないの? ほらほら、浴衣着なきゃ浴衣」
「誰が着るか馬鹿者。これは遊びではない、仕事だ、社の看板を背負った仕事だ!」
「頭固いなあ、国木田君は」
太宰が呆れたように言い、それに全員がうんうんと頷くのだから、こちらとしては怒り心頭である。グシャ、と手元の紙が音を立てた。
「わかっておらんようだから言うがな、これは社長が来賓として招待された我が社の命運かかった仕事だぞ。少しの失敗にも社の名前がついてくる。場合によっては社の権威に関わるのだ」
「わかってるよ国木田君。だからこそ、こうして祭りを楽しもうとしてるんじゃない」
ひら、と浴衣の袖を摘み上げ、太宰は飄々と続けた。
「今回の仕事は警備だけれど、まず第一は祭りの参加者が心から祭を楽しめることだ。その盛り上げ役にも抜擢されたのさ。ということは我々も楽しまなくちゃいけない。ユニフォームは大事だよ国木田君、ほら着替えた着替えた」
「普段着の方が動きに支障がない。もしもの時に動けることが最重要だろうが」
「皆が浴衣着て楽しんでる中一人だけ眼鏡で普段着だったら浮いちゃうじゃない」
「眼鏡は余計だ!」
ぎゃんと吠えた国木田へ、太宰は気にした風もなくキメ顔を向けてくる。無駄に整った顔が「キラリ」と擬態語を発した気がした。
「安心したまえよ、私達だってわかっているさ」
「……貴様の言葉ほど安心できないものはないのだがな……」
確かに、とそっと呟いたのは敦だ。太宰が何かを仕掛けてくると予測しているのは過剰反応ではない、防衛本能である。
まあ良い、と国木田は彼らに歩み寄りつつ手の中の紙へと目を落とす。その内容を皆に説明しようとした瞬間だった。
何かが突然、目の前を通り過ぎていった。
「あぁん兄様ぁ!」
――ナオミがどこからともなく谷崎へと突撃してきたのだ。
飛びつかれた谷崎はというと見事にもろとも吹っ飛んだ。ぐは、と呻いた声が聞こえた気がしたが、いつものことだ、命に別状はないだろう。
「ナオミも着替えましたのよ。うふふ、浴衣姿の兄様も素敵! 特にこの辺とか、あの辺とか、ふふ、浴衣って脱がしやすくって、こうとか、ああとか」
「な、ナオミ待ッ、待って、お願いちょっと、ねえ、ッてば、あの」
この兄妹は無視するに限る。
「おや、国木田はまだ着替えてなかったのかい」
黒字に蝶の浴衣を着た与謝野が驚いたように国木田を見た。そういえば、女性陣は医務室で着替えていたのだった。資料作りで忙しくて忘れていた。がしかし、浮かれていたのが男衆だけではなかったとは。
「……与謝野先生まで」
「何だい、不満そうじゃないか」
「これは業務です、武装探偵社として規律ある服装と行動をすべきだと俺は思います」
「けど、祭りを楽しんで、かつ祭りの安全を確保できたなら、妾達の評判もうなぎ登りになると思うけどねえ? 行事の雰囲気を大切にしてくれるってのは依頼人側からしたら最重要事項だろう?」
「それは」
「まあ、あの二人ほどになるとさすがに問題だけどねえ」
あの二人、というのは無論谷崎兄妹である。ちらと与謝野が目を向けた先で、賢治がピンと片手を上げた。
「任せてください! 僕がお二人を見ていますから!」
「頼んだよ賢治」
「はい!」
「……いや、殴るなよ? 投げ飛ばすなよ? 何かと振り回すなよ?」
「大丈夫です! 慣れてますから!」
「……逆に心配になってきたんだが……」
心なしか胃がキリキリと痛んできた。大きく息を吐き出す。その横で与謝野は「安心しなよ」と笑って肩を叩いてきた。
「皆わかっているさ、社長の名前がかかっているからね。そのために助っ人も呼んでおいたし」
「助っ人?」
「あ、鏡花ちゃん……?」
敦が部屋に入って来た鏡花に気がつく。その声が僅かに上ずったのは、鏡花がいつもと違う浴衣姿で、いつもと違ううなじの露わになった髪型だからだろう。わかりやすい。
「と、あれ?」
ふと敦が驚愕した声を上げた。
「クリスさん?」
思わずそちらを見てしまった。そこに、いた。
彼女が。
肩まである亜麻色の髪を結い上げ、大判の花の簪を差していた。朝顔の柄が大きく入った浴衣の色は、白。
――白い着物が、その姿に重なる。
「……なぜここにいる」
「あ、国木田さん!」
顔をこれ以上なく輝かせ、彼女は駆け寄ってきた。
「見てください、浴衣です、浴衣! 初めて着ました! ずっと憧れていたんです、鏡花さんはいつも着てたから! 見てください髪もナオミさんにやってもらったんです!」
ほら、と国木田に編み込まれた髪を見せてくるクリスへ、鏡花がふるふると首を振った。
「あれは着物。浴衣じゃない」
「え、違うんです?」
「違う。……今度着てみれば良いと思う」
「はい、是非! 民族衣装ってやっぱり憧れますね、まさか着れる時が来るなんて! 手触りも薄くて涼しいし、日本文化は良いですね! ……あれ、国木田さんは着ないんですか?」
ようやく口を閉ざして、クリスはこちらを見上げてくる。
「せっかくのお祭りなのに」
――一番はしゃいでいるのはどうやら彼女らしい。
額に手を当てて大きくため息をつく。国木田の呆れ顔に、クリスはきょとんと目を瞬かせた。
***
夏祭りは午後五時から開場し、式典そのものは午後七時から始まる。式典の一番の目玉が花火の打ち上げだ。それが終わり民衆が皆無事に帰るまでを見送るのが、探偵社の任務だった。
「結局着たんですね」
「俺の意思ではない」
「多数決でしたもんね、仕方がないですよ。今まではこのお祭りに会社として呼ばれたことはなかったんです?」
隣を歩きながらクリスが首を傾げる。与謝野の案と国木田の計画を合わせ、今回は四組にわかれて警備を行うこととなった。広い会場を規則正しく時計回りに巡回するように計画されている、どこで何があっても誰かしらがそこに駆けつけられるようになっているのが特徴だ。
「ああ。先の民間人多数錯乱事件、そして白鯨墜落阻止……その功績が認められた形だな。通常ならば民間企業でしかない武装探偵社がこのような場に呼ばれることはまずない」
「それは良かった」
そう言ってクリスは笑った。
「少しはお役に立てたようですね」
その笑顔から、国木田は目を逸らした。言うべきではなかったかもしれない。探偵社にとってあの事件は無事に終えられた思い出だが、彼女にとってはそうではないのだ。
あの事件は、彼女にとっては、数少ない理解者と居場所を失った事件なのだから。
なのに。
なのに、彼女は。
「国木田さん、あれ可愛いですね」
クリスはすれ違った子供の手にあった水風船をそっと指差しつつ袖を引っ張ってくる。その手つきは、自分の話を聞いてくれとせがむ子供のそれとは異なっているように思えた。
失ったものへの悲しみを、誰にも縋れないままその体の中に押し込めて、かろうじてその手で国木田へ求めてきているような。
助けを。
許しを。
だから、拒むこともできなかった。仕事中だと怒鳴ることもできなかった。
「……水風船か」
「水が入っているんです?」
「ああ。水ヨーヨーとも言うが……」
「ヨーヨー?」
日本の夏祭りが初めてだからか、クリスは何も知らないようだった。説明するにも大変だ、ここは実物を手にした方が良いだろう。見回せば、ヨーヨー釣りの屋台はすぐ近くにあった。クリスを連れて行き、水の張られた水槽の中で隙間なく並ぶ風船達を指差す。
「どれが良い」
「え?」
「選べ」
「……じゃあ、あれ」
指差されたのは黄色の風船だった。屋台の親父に金を渡し、水槽にしゃがみこんだ。紙を縒った釣り針でそれを釣り上げる。祭りの屋台などポートマフィアとの抗争に比べれば大したものではない。立ち上がり、国木田はそれをクリスへと手渡した。クリスはそれを、両手を皿のようにして受け取る。ぽん、と風船がその手の中で跳ねる。水滴が黄色の上を滑り落ちていく。水滴に黄色が映り込み、透き通る。
クリスは突然目の前に現れた水風船に目を丸くしていた。青に黄色が映り込む。暗がりの中でも、その青ははっきりと見ることができた。
「……あ、ありがとうございます」
「輪ゴムがあるだろう、そこに指を通して」
「は、はい」
「こう」
輪ゴムに指を通したのを確認し、その手を下に向けてやる。輪ゴムに引っ張られた水風船がグンと下に垂れ下がった。黄色に張り付いていた水滴が落ちる。クリスの手を持って上下に動かしてやった。しゅぽ、と風船の中で水が叩かれる音と共に水風船が上下に弾ける。
「わあ……!」
クリスが歓声を上げる。タイミングが合わないまま、何度も何度も水風船を叩いた。やがて慣れてきたのか連続して水風船が上下する。
「見てください国木田さん!」
クリスが声を上げてこちらを見上げてくる。満面の笑みがそこにあった。簪から下がる小さな花が、揺れる。
「これ、わたし好きです!」
「……そうか」
「風船の中に水を入れるなんて誰が考えたんでしょう? 音も面白いし、動きも面白いですね!」
クリスは夢中になって水風船を叩いている。その姿は、年相応というにはいささか幼すぎた。それが彼女の生い立ちを表しているようで、国木田は俯く。けれど国木田の気持ちとは裏腹に、クリスは己の過去を気にする様子もなく心の底から楽しげにするのだ。
彼女は普通でないことに慣れている。それが何よりも彼女の不幸であることは確かなのに、クリスはそれを全く表に出さない。彼女が意図的に隠しているからだ。周囲が憂えてくるのを意図的に避けているからだ。
彼女は幸せを知っている。だから、自分がどうすれば皆が幸せになるかも知っている。
「……クリス」
彼女の真の幸せは、どこにあるのだろう。
俯いたまま、国木田は時計を確認した。もうすぐ花火が打ち上げられる時間だ。
――ぽつ、と時計に水が落ちた。
空を見上げる。夜空を厚い雲が覆っていた。それから雫が落ちてくる。パタパタ、と屋台のテントに水滴が落ちる音。
クリスが手のひらで雫を受けた。
「……雨」
――やだ、雨じゃん。
――これから花火上がるんじゃなかったっけ?
ざわざわと人々が騒めく。今夜の天気は不安定だ、花火の打ち上げが中止になるほどに荒れるとは思えないが、雨が降っては人々の動きが変わるのも確か。警備スケジュールに支障はないが、警戒しておく必要はあるだろう。その点は良い、他の社員達が不安だ。雰囲気に呑まれて仕事を放棄していないと良いが。
――ふと。
クリスが数歩、歩き出した。
「おい」
勝手にどこかに行かれては仕事が増える。が、彼女は数歩先で立ち止まった。雨水が亜麻色に落ちる、白に落ちる。
雨が強くなっていく中、彼女はその手を真っ直ぐに空へ伸ばす。白の浴衣から伸ばされる、白い腕。その腕を巻くのは――風だ。
ふわりと浴衣が揺れる。簪の花が野バラのように振れる。亜麻色が霞む。空を見上げる横顔は遠くを見つめていた。布地に描かれた赤い朝顔が、目にこびりつく。
――白に浮かぶ、赤。
――鳴り響く銃声。
「……ッ!」
記憶の底から湧き出ようとするそれを拒むように手を伸ばした。ここではないどこかを見つめる少女の、水風船を下げた手を掴み取る。
「クリス……!」
少女は驚いたようにこちらを振り返った。目が合う。青が、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「……国木田さん?」
聞き馴染んだ声が名を呼んでくる。ああ、そうだ、と思う。
彼女はクリスだ。かの女性ではない。なのになぜ、これほどに面影が重なるのか。似ても似つかぬ二人なのに。
「……何を、していた」
「ちょっとした仕掛けです」
そう言って彼女は笑った。国木田が掴んだ手を掴み返してくる。手を繋ぐように、互いの手のひらを馴染ませ合う。
「……向こう、行きましょう。ここだと見えないから」
何が、と問うことはできなかった。クリスが黙ってそちらへと歩き出す。屋台のない、祭りの会場から外れた場所へと向かう彼女に何も言えないまま、国木田は引きずられるように後を追った。
彼女は夜を恐れているのだと思っていた。夜は窓から外を眺めて過ごすのだと、かつて彼女は言っていたからだ。ギルドとの戦争が激化していた時、閉じ込められた部屋で月明かりに照らされた少女を、その生気の失われた眼差しを、今でも覚えている。
けれど今のクリスは違った。
「ここからなら見えますね」
そう言って彼女は笑って両手を広げた。
「星が、たくさん!」
見上げた先には、厚い雲はなかった。あったのは無数の。
夜闇に散りばめられた、星々だ。
「初めて夜を見たのは、故郷から逃げ出したあの日の後でした」
そう言って彼女は暗闇の中で笑う。
「故郷では夕方に家の中に入った後に外を見ることはなかったんです。だから初めて夜を外で過ごした時、空にはこんなに綺麗なものがあるんだって、初めて知って」
彼女は改めて空を見上げてくるりと回る。
「空に星が現れて、それがやがて朝日に消えていって……その時のことが、今でも忘れられません。だからあの後も、夜を眺めてしまうんです。たまにこうして勝手に晴れ間を作って見上げたりして」
そういえば、雨は降っていなかった。雨雲すらない。片手を空に伸ばしていたクリスの姿を思い出す。あれは、天候操作だったのだ。人を傷付けるためではない、本来の彼女の異能の使い方。
亜麻色の髪の少女が空へ手を伸ばしていたあの光景を思い返す。赤く灯る提灯の並ぶ屋台の側、黄色い水風船を手に下げた少女の、闇に浮かぶ白い浴衣の裾を、空に伸ばされた腕を、遠くを見つめる青の眼差しを。
鮮やかな、一枚絵を。
――ヒュルルル……
遠くから花火の打ち上がる音が聞こえてきた。やがてその音を皮切りに、次々に空へ色鮮やかで巨大な火花が散る。
「わあ……!」
クリスが星空の下に現れては消えていく花火に目を見開いた。その目に映り込む光を見る。一瞬で消えていく花のような光。次々と照らされる白い浴衣、煌めく亜麻色。いつもは昼の日差しを映し込んで鮮やかに揺らめく青が、花火が咲いて散るその一瞬だけ闇に浮かび上がる。
あの青が、緑の縁取りが、見たかった。
彼女は光の下が相応しいのだ。このような一瞬の光や小さな光を憩う夜ではなく、常に彼女を照らす昼こそが彼女には相応しかった。あの青がそれを証明している。彼女の青は、太陽の下でこそ一番美しい色となる。
「国木田さん!」
なのに彼女は、闇の中で笑う。
「見ましたか! すごいおっきい花火です! パアッて広がって、星と一緒にキラキラして! すごいですね!」
そこが自分の居場所だと言わんばかりに、自ら闇の中に溶け込んで。
「……クリス」
国木田はいつの間にか手放していた少女の手をもう一度掴んだ。
「一つ教えてやる」
その眼差しを、こちらに向けさせる。暗闇で見えにくくなった青が、大きく見開かれ、花火を映し込んで鮮やかな色を宿す。
「花火は明るいところで見ても良いのだ。来い」
「え、あの、国木田さん……?」
強引に引っ張り、国木田はクリスを屋台の並ぶ明るい会場へと連れ戻す。これ以上暗闇の下にいさせてはいけないと思った。一刻も早く、連れ出さなければと。
それは錯覚か、それとも予感か。どちらでも良かった。
***
花火が次々と上がる中、福沢と乱歩はそろって空を見上げていた。並んで同じものを見上げる二人を見、与謝野は笑みをこぼす。
夏祭りは滞りなく終わりそうだった。来賓としての役割を終えた福沢と合流してしまえば、乱歩の奔放さは和らぐ。つまり与謝野の役割もここで終了というわけだ。
予想外だったのは太宰だろうか。ちらと横へ目を移し、与謝野はそこにいた同僚へと笑いかけた。
「アンタが何もせずにいるとはね」
「嫌だなあ与謝野先生。私だって時と場所は弁えますって」
太宰はへらりと笑ってうちわを扇ぐ。
「敦君と鏡花ちゃん、それにクリスちゃんにとっては初めての夏祭りになるわけですから」
「アンタにとっては初めてじゃないのかい」
「私ですか?」
ふと、そのへらへらとした笑顔が寂しさを帯びたように見えた。遠い思い出を見る時のような、目を細めた笑み。
「……どうでしょうね」
――花火は暗殺や裏取引に向いているんです、だから花火を楽しむという発想がなかったんですよね。
数日前、駅で偶然顔を合わせたクリスがそう言っていたのを思い出す。その時のクリスと同じ目を、今の太宰はしていた。
だから、言った。
「じゃあアンタも十分楽しみなよ。今年だけじゃなくて、来年も、その次もさ」
「そうさせてもらいます」
そう言って太宰は空を見上げた。その暗い目に一瞬を繰り返す光が映り込む。その鮮やかな色に、与謝野はそっと微笑んだ。
***
永遠だと思っていた幸せが赤い液体と塊をまき散らした、その後。
わたしは故郷を離れ、ただひたすらに歩き続けた。丘を登っては下って、木々の間を抜けて、露に濡れる草を掻き分けて。
サイズの合わない靴が足を痛めつけて、一歩踏み出すたびに肉の抉られる痛みを耐えたことはよく覚えている。村を出たことは一度もなかったけれど、どちらに向かえば隣街に行けるといったことは世間話の中でウィリアムから聞いていて、わたしはぼんやりとそれを思い出しながら歩き続けていた。
その足を止めたのは、太陽が完全に沈んだ時だ。わたしは恐怖した。太陽が沈んだ後何がこの空を、空気を、大地を支配するのか知らなかったからだ。
わたしは初めて「夜」を見た。
夜は美しかった。大小様々なキラキラしたものが宙に浮いていた。手を伸ばして、それが手の届かないものであることを知って、あれは空の模様なのだと気がついた。昼間は太陽の光で隠されていた、小さい煌めきをたくさん散りばめた黒布。あたたかな陽だまりを与えてくれていた太陽が、その優しさの裏で隠していたもの。
あの場所にいたら見ることができなかったもの。あの場所から逃げ出したから見れたもの。
――友を失ったから、知ることができたもの。
美しいと一瞬でも思ってしまったわたしを、わたしは憎んだ。叫んで、叫んで、それでも叫び足りなくて地面を殴った。手が痛くなって、喉も痛くなって、何もできなくなったわたしは空を見上げた。キラキラと輝く見知らぬ空を見上げていた。
あの日から、わたしは夜を見つめ続けている。
あの日の美しさを思い出すために。
友を殺めたあの日、この空を美しいと思ってしまったわたしを、忘れないために。
きっと、わたしは、もう二度と。
――この煌めく暗い空から抜け出すことはできないのだ。
ずっと、そう、思っていた。