[その関係に名前は要らない]
22. 宵の宴 -3の直後。
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映像の中のその人は、必死に相手を説得していた。その全ての言葉が本心であることなど、とうにわかっている。
だから。
だから、わたしは。
「
クリス、それは何ですの?」
ひょこと顔を覗かせてきたナオミが、
クリスの手元にあるものを見て不思議そうに首を傾げた。与謝野をはじめとした社員らに囲まれて身動きが取れなくなった国木田を横目に、
クリスは手元の機器をナオミに見せるように軽く持ち上げる。
「見ての通り、家庭用のビデオカメラです。探偵社の備品ですね」
「ですわよね……何かお撮りに?」
「いえ、太宰さんから売っていただこうと思っている映像があって」
「映像?」
「あ、そうだ、ナオミさん、谷崎さん。佐々城さんってご存じですか?」
クリスの問いに、ナオミは谷崎と顔を見合わせた。どうやら二人は知らないらしい。となると、と
クリスは国木田の周囲に集まった野次、もとい社員達を見回す。
クリスの適当な声かけにより社員のほとんどが集まっていた。酒を飲み交わす者、その飲みっぷりに歓声を上げる者、様々だがその輪から外れている人はいない。この会社は皆仲が良く、そして心から信頼し合っているのだった。意図的に何かを隠すということはそうそうないだろう。
その輪の中にいる谷崎兄妹が知らないということは、二人が入社する前にいた人物ということになる。おそらく太宰は知っているはずだ、でなくばこの映像をわざわざ見せに来たりはしない。
太宰の意図は何となくだが察していた。
「その人がどうかしたの?」
谷崎が尋ねてくる。その腕はしっかりとナオミに絡みつかれており、二人はかなり密着していた。海外を渡り歩いてきた
クリスには違和感はないが、大人しい性格の人が多い日本では随分な光景だろう。こういった光景がこの国で見られるとは思わなかった、などと思いつつ、
クリスは手元に目を落とした。
「以前、
詛いの異能でヨコハマの人達が錯乱した事態があったじゃないですか。それ、どうやら国木田さんも詛いを受けていたみたいで」
「あら」
「そうだったんだ」
「その時の映像を、太宰さんが撮ってたんです。それを買って国木田さんに売ろうと思って」
さらりと説明すると、二人は再び顔を見合わせた。
「……太宰さんらしいというか何と言うか、ですわね」
「……それは、その……国木田さん完全に被害者でしかないっていうか」
「その中に『佐々城』という名前が出てくるんです。誰のことだろうと思って。おそらく女性なんですけど」
「あ、ちょっと思い出したかも」
谷崎がふと声を上げた。その後ろで一際大きな歓声が上がる。どうやら与謝野に付き合い続けた末酔いの回ってきた国木田が一升瓶を手にしたらしい、周囲の人々に必死に止められている。その様子をちらと見た後、谷崎が「えっと」と視線を泳がせた。
「確か太宰さんから聞いたんだよ。太宰さんの入社試験の話だったかな。二年前の」
「入社試験、って確か敦さんから聞いたことがありますけど……」
「この会社では、実際の事件を介して新人の行動を見る、いわば裏審査があるんですわ」
ナオミが説明してくれる。曰く、「試験担当が新人の行動を見て探偵社に
相応しいかを
閲する」ものらしい。
「その事件で、その『佐々城』という人が?」
「うん、最初は被害者として殺されかけていたところを太宰さんと国木田さんが助けて、その後首謀者だってことがわかって……」
――俺には忘れ得ぬ人がいる。二年前、太宰が入社してきた年だ。
そうだ、と思い出す。
あの話だ。白鯨が湾に墜落したあの日、屋上で聞いた話。
――何が間違っていたのか、誰が間違っていたのか、未だにわからん。しかし事件は起き、彼女は死んだ。目の前で誰も死なせんと誓ったのはあれが初めてではない。……彼女の他にも、俺の力不足で死した者達が俺の背後に佇んでいる。俺が理想を求め足掻いている様を、ただ見つめている。
国木田はそう続けながら遠くを見つめていた。横顔を今でも鮮明に覚えている。海よりも薄い青を広げた空の下、彼は真っ直ぐに過去を見つめていた。知らない横顔がそこにあった。
クリスの知らない、国木田という男が、そこに。
「……そうか、だから……」
「どうかした?」
谷崎の問いに笑いながら「いえ」と返し、軽く礼を言ってその場を離れる。一人で考えたかった。部屋の外に行き、暗闇に沈んだ廊下に背を預けて佇む。遠くから聞こえてくるような賑やかな声が、静かな廊下に漏れてきた。
誰もが楽しげだった。見ているこちらまで頬が紅潮し心が浮き立つような、桃色の綿飴を思わせる浮ついた空気が探偵社には充満している。ここは平和だ。一時のみならず半永久的に心から笑い合い、何を心配することもなくからかい合い、酒を酌み交わしている。
その賑わいを聞きながら、
クリスは一人手元の機器へと目を落とした。
あの日――国木田は、己の背後には多くの人が佇んでいるのだと言っていた。自分の力不足で死んだ人々が今もなお、国木田が理想を求め足掻く様を見つめているのだと。そのうちの一人が、その佐々城という女性だった。彼女が国木田にとって特別であったことは明白だ。でなければ
クリスにその話をする際、他の誰でもなく彼女のことを語った真っ当な理由が他に思いつかない。
「……そっか」
「やあ、
クリスちゃん」
太宰が当然のように隣に立つ。驚く必要はない、わかっていたことだ。手元に目を落としたまま、
クリスは太宰へとぼやく。
「あなたも性が悪い」
「何のことかな」
「わたしをこの街に縛り付ける首輪に、国木田さんを使おうという戦略ですか」
太宰は答えなかった。しかしこの沈黙は肯定以外の何でもない。これはそういう男だ。
「残念ながらそういうことにはなりません。わたしが誰かに思いを寄せることはない」
「どうしてそう言い切るんだい?」
どうしてそう”言い切れる”のか、ではなく、太宰はそう問うてきた。わかっているのだろう、
クリスの心の内を。
これが、イエスかノーかの話ではなく、せざるべきというただ一つの結論であることを。
「わたしはいずれこの街を去る。その時になって少しでも遺恨があってはならないからです。残すものがある人間は逃げ切れない。わたしは、何を利用してでも、何を犠牲にしてでも逃げ切らなくてはいけない。……それに」
クリスはそっと手の中のものを胸に抱いた。
「すごく、嬉しかったんです。国木田さんが必死に『佐々城』さんへと訴えているのを見た時」
「嬉しかった?」
「ええ。ホッとした、というのが正しいのかもしれない。国木田さんにとっての一番が、確かにその心の中にいるのなら、きっと国木田さんはどんな時も間違わずに前へ進み続けられる。例えわたしがいなくなっても」
小さな録画機器から流れてきた声を思い出す。不鮮明な画面の中で、鎖に体を押さえつけられながら誰かへと叫ぶ姿を思い出す。そこにいたのは確かに、理想を追い続ける中でたくさんの死を見てきた男だった。例えその必死な眼差しが、あの日屋上で見た横顔と酷似していたとしても、それでも。
それでもあれは国木田だった。理想を追い続ける、見慣れた人だった。
「ずっと、不安だったんです。わたしのことを知った後も手を差し伸べてくれる人は初めてだったから、もしかして義務感だとか同情だとかで無理にそうしてるんじゃないかって。でも、そうじゃなかった。国木田さんは、わたしがわたしだからではなく、わたしがこの街に住む市民の一人だから気に掛けてくれてたんです。特別だからでも同情心からでもなく、何かの懺悔でもなく、ただ、わたしがこの街にいたから、国木田さんはわたしに手を差し伸べ続けている」
今まで会った誰もが、
クリスを異常だと知り、異質だと認識し、その上で手を差し伸べてきた。そのほとんどが善意とは遠くかけ離れた強欲だった。そういうものだと思っていた。それ以外の手を、知らなかったから。ただ唯一のあの人の手ですら、記憶の中では赤色を伴っている。
この身は”普通”を望めない。そう、ずっと思っていた。それ以外の可能性を知らなかった。
けれど国木田は違った。
クリスをただの人として、一人の人間として、この歪で汚れた手を掴もうとしている。それに応えることはできないけれど、それでも。
「……すごく、嬉しかった。特別じゃないということがこんなにも嬉しいことだなんて知りませんでした。特別じゃないのなら、わたしは何を気にすることもなく国木田さんの元を去ることができる。あの人は道標がなくても、わたしがいなくても、『佐々城』さんがいるから真っ直ぐに進むことができる。……追われるわけでもなく利用されるわけでもなくそばにいられて、それでいて何の後悔も残さずにさよならができる、そんな関係が築けるとは思ってもいませんでした」
「
クリスちゃんは、それで良いのかい」
「十分すぎるほどです。あり得ないと思っていましたから。だから」
だから、わたしは。
「これ以上なんて望めません。望みません。ただ一つ叶うなら、このままずっと、できる限りずっと、この些細な幸せが続いてくれたら、それだけで良いんです」
我ながら饒舌だ、と
クリスはひそかに自嘲した。少なくとも太宰に話して良いものではなかった。彼は何かを企んでいる。余計な情報は渡さない方が良かったはずなのに。
「……似た者同士、というわけか」
「はい?」
「いいや、何も」
言い、太宰は少し微笑んだようだった。その横顔は髪と暗闇に隠れて見えない。けれどわざわざ覗き込むようなものでもないだろう、と
クリスは太宰から目を離した。目の前に暗闇が広がっている。夜の色だ。耳を澄ませば笑い声が聞こえてくる。国木田はまだ、あの明るい部屋の中にいるのだろう。そちらに混ざりに行くことはできる。けれど、今はこの暗い廊下にいたい。笑顔を作って光の下に戻るのは、もう少し後で良い。
目を閉じる。瞼の裏の闇を見つめる。見慣れた暗がりに、心が安らいだ。
***
人は隠す生き物だ。真実を隠し、本心を隠し、思いを隠す。
「似た者同士、というわけか」
ふと零した言葉に、
クリスは僅かに上体を乗り出してきた。
「はい?」
「いいや、何も」
笑い、そっと顔を逸らす。
――君にとって
クリスちゃんは何だい?
そう国木田に問うたのはいつだったか。慌てふためくかと思ったのに、国木田はというと平然とパソコンのキーボードを叩きながら言ってのけたのだ。
――市民であり俺達が守るべき存在、それ以外の何ものでもない。
それは言い聞かせるような響きを持っていた。国木田の本心など、太宰はとうにわかっている。国木田の理想の女性像と
クリスが完全に一致していないだけが理由ではない。彼が
クリスの「”普通”でありたい」という叶うはずもない願いを汲み、それを実現しようとしているのは。それを頑なに言い続けているのは。
「……お互い話し合ったわけでもないだろうに」
国木田は知っているのだ。
クリスにとって重要なのは今を生き抜くことであって、未来のことなど彼女が考えられるわけもないことを。だからこそ、
クリスが今を生き続けられるように、それでいて少しでも幸せを感じていてもらえるように――”普通”の日々を与えられるように、国木田なりの最善を尽くしている。
それが見せかけであっても、一時的であっても。
クリスはそれを望み、国木田はそれに応えようとしている。
――俺は彼女の何でもない、何にもなれん。彼女の心を占めているのは亡き友なのだからな。
――国木田さんにとっての一番が、確かにその心の中にいるのなら、きっと国木田さんはどんな時も間違わずに前へ進み続けられる。例えわたしがいなくなっても。
「……似た者同士だよ、君達は」
呟き、太宰はそっと目を閉じる。
「亡き人を心に留めていたとしても、私達の目は心の中ではなく今目の前を見つめるしかないというのに」
けれどこの心の在り方が、人間なのだろうか。生きるということなのだろうか。
彼らは、迷いながら生きているのだろうか。
そして自分も。
ねえ、織田作。