第2幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
ふ、と意識が浮上した。
頬が床の冷たさを感じている。そっと見渡せば、連れてこられた部屋の中にまだいるようだった。窓ガラスには白いスプレーが吹き付けられており、外の明るさは見えるものの景色はわからない。部屋の扉は横開きで、しかしきっちりと閉められている様子から、鍵かつっかえ棒かが仕組まれていそうだ。
体を起こそうとし、後ろ手に縛られていることに気が付いた。どうやら足首も縛られているらしい。胸にのぼせ上がる咳の気配を押し止めつつ、息を詰めて目を閉じる。
耳元を風が通り過ぎる。
この部屋の中に生じるはずのないそれは、細く鋭く走り、銀色を伴ってクリスの手足の縄を裂いた。
はら、と縄が解ける。凝り固まった全身をゆっくりと動かしながら、床に手をついて起き上がった――瞬間、ずき、と頭に痛みが走る。
眉をしかめ、後頭部に手を当てた。
「……痛ったい」
思わず呟いた途端、喉の奥に溜まっていた咳がせり上がってくる。耐えきれず、口元を抑えて背を丸めた。
「ぐ……かは、ごほッ」
吐き出すようなそれは、口の中に血と胃液を連れ込んでくる。
「……無茶、しすぎた」
警察への録画の最中、撃ち殺されることは予想がついた。でなければ安全装置を外し引き金に指をかけた状態で録画を始めるわけがない。加えて、彼らの要求は実に簡素で、そして現実味がなかった。つまりそれが真の目的ではなかったのだ。
彼らの本当の狙いは、警察の前で人を殺すこと。堂々たる挑戦状というわけである。
そこまで予想がついていれば、対策は自然とわかる。その結果、銃弾は撃ち込まれず、代わりに気を失うほど暴力を振るわれたわけだが。
クリスは渦巻く痛みを堪えるように腹部を押さえた。これは誘拐犯によるものではない。全身を包む明瞭な痛みとは別の、内側から染み渡ってくる痛み。
「銃弾全部消したのは、さすがにきつかった……適当な犯罪集団に目をつけたけど、まさか人質を動画の中で殺すような変人だってところまでは調べてなかったな……」
あらゆる物質の存在を再構成する異能力【マクベス】は体への負担が大きすぎる。対象が遠く離れているほど、その数や量が多いほど、負担は大きくなり、体の脆いところから――内臓から、ぐずぐずと壊れていく。【マクベス】はほとんど使用不可の異能だった。理由は明白。
これは、自分自身の異能ではないからだ。
――大切な友人から奪い取った、この身にあるはずのない、拒み続けなければいけない異能だからだ。
ピッ、ピッ、という機械音が耳に届く。顔を上げ、部屋を見回し、それが部屋の隅にある機械からの音だと気がついた。
四角い、箱。
その中身はきっと爆弾なのだろう。暴力に体を痛め、縛られた状態ではその箱からの脱出は不可能。彼らはこの場所とクリスごと、周囲を破壊する予定だったらしい。人質の使い方としてはとても良いと言えるだろう。警察としては犯人捕縛よりも人質救出を優先させなくてはいけなくなる。犯人達にとっては逃亡する時間的余裕が発生するというわけだ。もっとも、クリスならば爆発前に爆風の届かない場所まで移動することが可能なわけだが。
体を引きずるようにして、箱の元へと向かう。
「……消せる、かな」
被害者として事件に関われただけで十分なのだ、爆弾を爆発させて被害を広げる必要まではない。が、爆弾処理はさすがに経験がなかった。機械をいじるのと同じ感覚ではできないだろう。なら、これごと消失させられれば問題ない。
目を閉じ、集中する。蛍の光を思わせる仄かな灯火が手のひらにあたたかさを伝えてくる。それを、箱へと向ける。
しかし。
「いッ……!」
ぶつり、と体の内側で音がした。腹部を刃物が貫いたかのような激痛が走る。耐えきれず、体を丸めた。箱に額を押しつけ、爪を立て、息を詰める。それでも喉元へと血臭がこみ上げてくる。
すぐ近くで機械音が聞こえてくる。心臓の鼓動を思わせるその規則正しい音を聞きながら、遠のきかける意識をかろうじて縫い止める。
無理、か。もう既に許容範囲を超えている。これ以上の【マクベス】の行使は死に繋がる。
――死。
「……死、ぬな」
遠い昔に聞いた言葉が口端からこぼれ落ちる。
「捕まるのも、死ぬのも、知られるのも、駄目、だ」
それはもはや呪いだった。ずっと心の中に、頭の中に、この体のあらゆるところに染みついて消えない。赤いものが散らばる中、共通の友人を失った、大切な友に言われた言葉。
だからこれは、大切な約束なのだ。決して破ってはいけない。決して背いてはいけない。もしそうしたら、また。
目の前で、赤が。
――自分の手によって。
わかっている。だからこうして、いろんな国を渡り歩いてきた。逃げるように、隠すように、探すように、移動してきた。いろんなものを壊していろんな人を殺して、騙して、そうして生きてきた。
今も。
わかっている。これは義務だ。
けれど。
「……もし、これが爆発して全てが木っ端微塵になるのなら」
考えてしまいたくなる。
「わたしも、綺麗に消えるかな」
この日々の終わりを。
鼓動に伴って響く痛みを感じながら、クリスは箱へと頬を預けた。心音と機械音、二つの音――生と死の音を、重ねて聞き入る。規則正しいそれらの音に、揺り籠のような、昼間の穏やかな日差しのような、あたたかな心地よさを覚え始める。
懐かしい心地よさだった。
「……ウィリアム」
名を呼ぶ。何度呼んでも答えの返ってこないその名を、呼ぶ。
「……もう、良いよね。わたし、頑張ったよ。ずっと、ずっと……だからもう、良いよね。死んでも良いよね」
答えはない。答えなんて、要らない。
「幸せなんて、君が死んだ世界のどこにもなかった」
ただ、君と「また明日」の続きがしたかった。
カウントダウンを続ける箱へと縋り付くように伏せる。何かを願うように箱の側面に爪を立てる。
――その時だった。
突然前触れもなく部屋の扉が弾き飛ばされた。誰かが飛び込んでくる。その姿に、クリスは思わず上体を跳ね上げて目を見開いた。
生真面目さを思わせる飾り気のない眼鏡。後ろに束ねられた長髪。きっちりとした服は部屋への強引な突入によってわずかに薄汚れている。
「あ、あなたは、探偵社の」
「……無事か」
来るとも思っていなかった救出だった。もうすぐ刻限の午後三時になるはず。爆弾処理の時間すらも犯人達は許していなかったのだ、どんなに早急にこの場所を探し出したとしても、爆弾の爆発は免れない。となればまず一番にすべきは被害拡大防止、すなわち周辺地域の住民の避難誘導と犯人捕縛だ。人質一人の救出など諦めるのが正しい。
なのになぜ、ここに。
「どうして来たんですか。近隣の人を避難させるくらいの時間しかなかったはずなのに」
「だから来たのだ。あなたを避難させるためにな」
「無茶です。もう時間がありません。あなたも爆発に巻き込まれてしまう」
「知っている」
「ならどうして」
「言っただろう」
爆弾の箱を調べていた国木田がふとクリスを見遣った。目が合う。知らず息を呑んだのは、その眼差しが他の人と違ってただひたすらに真っ直ぐだったからだろうか。
まるでこちらの心の中さえも見透かされてしまいそうなほど、愚直な。
「あなたを助け出すために来た。それ以外に理由はない」
「……爆弾を解除しに来た、とかではなく?」
「俺にそういった技術はない。床に固定されているな、動かすこともできんか……」
「ならあなたは来るべきじゃなかった。わざわざ死にに来るようなものです。死人の数が一から二になるだけです。もっと効率の良いことを考えて行動を」
「効率か」
立ち上がって部屋を見回し、国木田は呟いた。
「……人が死ぬ前提の効率など何の意味がある」
「意味、って」
そんなもの、と言いかけたクリスへと国木田の手が伸びてくる。他意のない、相手を救出するための手だ。けれど咄嗟にそれをはね除けた。
はね除けてから、国木田の手をはね除けてしまったことに気付いた。
「……あ」
予想しなかった拒絶に国木田が一瞬硬直する。それを見、しまった、と思う。
今のクリスは被害者だ。救出の手に縋りつくのが当然の行動だろう。なのに、間違った。
――怪しまれてしまう。
「ご、めんなさい」
思わずそうしてしまった、と言いたげな表情を作って国木田から目を逸らす。
「……襲われるかと思って、つい」
「こッ、この状況下で誰が!」
「冗談です冗談」
「……場所と時間を考えてもらいたい」
呆れた顔でたしなめられてしまった。冗談に対してわざわざ言葉を返してくれるあたり、かなり真面目なようだ。
「そうこうしている時間はない。あと五秒だ」
腕時計に目を落としつつ危機を知らせるその声に、しかし焦りはない。策があるのか。
国木田は窓へと向かった。そして躊躇いなくそれを蹴破る。ガシャンという騒々しい音と共にガラスが砕け散った。そこから脱出するつもりなのか。案外突発的な策だったようだ。
窓辺で振り返ってきた国木田の手が再度、今度は遠慮がちにクリスへと伸ばされる。促すようなそれへ、純潔を装ってこわごわと手を乗せた。他人の体温が染みてくる。
――ぬるいそれが、全身を捕らえて固定してくる錯覚。
目の前に広がる赤い幻像に体が強張る。息が止まる。風が耳元で逆巻き始め、視界の隅で銀色が走り始める。
「……ッ」
駄目だ。何も切り刻んではいけない。何もしてはいけない。そうはわかっていても体の震えは増大し、急かすような風の唸りは増していく。
クリスの異変に国木田は何も言わなかった。爆発への恐怖と受け取ったのだろう、「少し我慢していろ」と囁いてから、クリスをあっさりと抱き上げる。
「う、わ」
「舌を噛むなよ」
言い、国木田は窓枠へと足をかけ、それを蹴った。
浮遊、一方向の風が皮膚を撫でる感覚、そして。
――ドオオオン!
二人を押し出すように、爆弾が爆ぜた。