第2幕-続
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「――国木田さん? 与謝野先生?」
谷崎の声にハッと我に返った。目の前で傷の塞がったクリスが眠っている。あれほど治らなかった傷が綺麗に治っているという事実、そして先程見たもの――まだ頭の中が整理できていない。呆然と与謝野を見れば、与謝野もまた呆然と国木田を見返した。
「今……」
「国木田も見たのかい? 異国の中庭を、一人の男を」
頷けば、与謝野は「そうかい」と呟いた。少しだけの同僚とのやり取りが、国木田にゆっくりと平常心を取り戻させる。
あれは白昼夢か。否、あの男は――ウィリアムは特異点と言っていた。異能現象だ。後で調べてみなくては。
「えっと、どうしたんです? 二人とも。与謝野先生の治療中に押し黙って……」
谷崎が戸惑ったように国木田達を交互に見遣る。谷崎にあの光景は見えなかったらしい。視線を下ろして触れたままのクリスの手を見、それを改めて握る。
彼女に触れていた者だけが、見たのか。
「いや、何でもないよ」
与謝野が首を振る。言葉で表現するには難しい感覚だった。現実味のある白昼夢――しかし国木田はその中にいた男と会話している。夢ではない。あれは、何だ。特異点とは何だ。
「……あ、クリスちゃん」
谷崎が声を上げた。国木田の手の中で細い指がピクリと動く。う、と短い呻き声と共に、瞼が開かれ青が覗いた。
生気のある、青。
透き通りそうな程の。
その視界に入り込むように身を乗り出す。
「クリス」
青に国木田が映り込む。
「俺がわかるか」
問う。そのぼんやりとした眼差しが、目覚めたばかりのような口元が、何かを言ってくれるのを待つ。
吐息のようなかすれ声が聞こえてきたのはしばらくしてからだった。
「……く、に、き、だ、さん」
一音一音を区切るように小さく呟かれた声は、予想以上に幼く聞こえた。
「……おわり、ましたか?」
「馬鹿者が」
それしか、言えなかった。
「大馬鹿者だ、あなたは。……どうしていつもそうなのだ。こちらの身が持たん」
国木田の言葉にクリスは静かに微笑んだ。そのセリフはとうに予想していたと言わんばかりだった。
「体調はどうだい?」
与謝野の優しい声音にクリスはそちらへ顔を向ける。
「大丈夫、です。たぶん、体も、起こせる」
与謝野の手を借りながら上体を起こす。べちゃ、と濡れたシーツが音を立てた。自らの血に汚れた両手を見、そして体全体を見、クリスは困ったように眉をひそめる。
「……服が駄目になった」
「そうだねえ。後で良いのを買ってやるよ」
「いえ、お金には困ってないので……あ、でもお買い物は一緒に行きたいです」
「良いね、じゃあ荷物持ちに国木田を連れて行こう」
「え」
「後で日取り決めましょう。国木田さんの予定もあるでしょうし」
「いや待て」
国木田を無視して女性二人の会話は進んでいく。とんだとばっちりだ。
血の臭いの充満する部屋で穏やかなやり取りを始めた探偵社の様子に、周囲の軍警は戸惑ったように顔を見合わせていた。「あの」とようやくそのうちの一人が国木田達へと話しかけてくる。
「お話の途中にすみません。そちらの方がクリス・マーロウさんでよろしかったでしょうか」
その手には、紙。
「現行犯として逮捕するよう通達されています。ご同行願えるでしょうか」
そうだった。
国木田はクリスを見遣る。目を伏せた彼女は強く拳を握り締めていた。何を考えているだろうか。国木田もまた、思考する。現行犯を軍警から逃がす方法――そんなもの、手帳にも書いていない。
どうしようもない。
どうしようも、ないのか。
――沈黙は僅かだった。
「失礼します」
突然理性的な声が現場に入ってくる。カツ、カツと革靴の靴音が大きく聞こえてきた。部屋に入ってきたのはスーツ姿の丸眼鏡の男。軍警ではない。血濡れた部屋に眉一つ動かさないその毅然さは一般人とは呼び難く、探偵社やポートマフィアに近いものがある。
「異能特務課です。彼女の身柄はこちらで預かります」
「異能特務課……?」
探偵社だけでなく軍警もどよめく。その混乱をものともせず、男は真っ直ぐにクリスの元へと歩み寄った。
「坂口安吾と申します。太宰君から話を聞いていますので、至急我々と来てもらいたいのですが」
落ち着いた声が告げた名に、国木田は驚きを隠せない。
「太宰だと……?」
太宰が異能特務課の人間と知り合いであることは知っている。が、この件に特務課が首を突っ込んでくるとは聞いていない。そもそもこの事件は軍警が担当することになったはずだ。
「どういう意味だい?」
「彼女には正式な書類がありません。異能の詳細がわからない者を軍警に預けることはできないのですよ」
「坂口さん、でしたね」
ふとクリスが口を挟む。頷いた坂口に、クリスは顔を上げた。
「太宰さんから、話が行ったと?」
「ええ」
「……わかりました」
しばらく考え込んだ後、先程までの様子が嘘のように、彼女はあっさりと頷いた。ベッドから降り、血に汚れた床の上を歩いて坂口の隣に立つ。見上げる眼差しは強い。決意がそこにあった。
何を、決意しているのか。
ぞっと背筋が悪寒に凍る。
「クリス」
国木田は思わず一歩踏み出していた。彼女がまたどこかに行ってしまう気がした。その根拠はない。けれど、なぜか、引き留めなければいけない気がした。
もう二度と、彼女を一人きりにしてはいけない気がした。
けれど――くるりとクリスは身軽な動作で国木田達に向き直る。
「いってきます」
――さよならではなく。
「帰っておいで」
与謝野が言う。その言葉に目を見張った後、クリスは頰を綻ばせる。
「はい」
坂口の背を追い、少女は軍警の波の中へ消えていく。その背に一瞬かかった光に気付き、国木田は窓を見た。
カーテンの向こうが明るい。
谷崎がそれを開け放つ。眩しい朝日が差し込んでいた。
――終わったのだ、と唐突に思った。
終わったのだ、長い夜が。