第2幕-続
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[Act 2, Scene 28]
国木田とクリスはある木造アパートに辿り着いていた。二階建てのそれは塗装が塗り直されたばかりのようで、夜でもその真新しさがわかる。
「二〇二号室ですね」
「ああ」
クリスの確認の問いに国木田は頷く。乱歩の推理では、その部屋に猟奇連続殺人事件の真犯人がいるのだという。それを捕らえれば彼女が追われるこの夜も無事終わるのだ。
「わたしが行きます」
クリスがアパートを見上げつつ言う。
「国木田さんは軍警の到着を待っていてください。五分程しても真犯人が出て来なかったら、突入を」
「俺も行く」
「国木田さんとわたしが共犯で犯人を仕立て上げていると軍警に勘違いされたら困るでしょう?」
「だが」
「大丈夫ですよ、策があります」
クリスがこちらを見上げて笑う。こんな状況でも、彼女は笑みを絶やさない。
その表情を見つめる。どこかに、彼女の本心がないかと探す。怯えていないか、不安になっていないか――けれど国木田の予想したような感情は、クリスの笑顔にはなかった。
「……本当に大丈夫なんだな」
「ええ」
しっかりとクリスが頷く。ならば信じるしかない。手法はわからないが、彼女なら上手くやるだろう。
国木田はクリスをじっと見据えた。
「無理はするな。危険になったら俺を呼べ。いいな」
「呼べ、って……相変わらずですね。わたしなら一般人相手に手こずりませんよ」
クスクスと笑うその仕草は、今から突入するとも思えない穏やかさがあった。ほ、と国木田は体の力が抜けるのを感じる。
これが彼女の力だった。相手の感情を左右するほどの演技力。きっと今彼女は心の中で綿密に計画を立てているのだろうが、目の前の少女はそれを全く感じさせない。
改めて視線を交わし合い、頷く。クリスはアパートの階段を静かに登り、目的の部屋の前に立った。しばらくして扉が開く。クリスが何かを話し、そして中に招き入れられた。パタン、と静かに扉が閉まる。その一部始終を見つめていた。
と、サイレンの音が近付いてくる。軍警か。腕時計を見、時間を確認する。
五分、とクリスは言った。彼らに状況を説明し、自然な流れで突入するには問題ない長さだ。
「探偵社の方ですか」
車両から降りてきた警官に頷く。聞けば、乱歩から推理の詳細が告げられ、太宰達の誘導もあってここに辿り着いたのだという。ここまでは予定通りか。
「本部からの情報では犯人は異能者とのことでしたが、先程お伺いした話では犯人は異能者ではないと……これは一体どういうことなのです?」
「あなた方が犯人とした人は無実だ。おそらく現場に居合わせただけの……それが偶然、異能者だった」
事前に決めていた内容を話す。上手く話せているだろうか。手帳を開きながらも、国木田の目はそこに書かれた文字を認識していない。
「乱歩さんの推理では、犯人とされた異能者は真犯人を捕らえにくる。自身の無実を証明するためにな。窓から侵入した異能者に驚き真犯人は外に飛び出してくるはずだ。そこを押さえる」
そういう手筈になっている。しかし、クリスは真犯人を無事外へ飛び出させることができるのか――否、できるだろう。彼女の演技力ならば、相手を自首させることもできるかもしれない。
演技力という名の操心術、それは彼女の才能であり武器の一つ。それがあるならば問題なく事は進むはずだ。
そう、思っていた。
――ドン!
大きな物音がアパートから聞こえてきた。バッと扉を見上げるも、動きはない。警官がざわめく中で再び物音。何かが暴れているような、壁を叩く音。
確実に、あの部屋から。
気が付けば駆け出していた。階段を駆け上がり扉の前へ。聞こえてくる音が鮮明になる。
争い合っているかのような足音。低い怒声。何かに勢いよく押しつけられたかのような音。そして――微かな悲鳴。
時間を確認する手間も惜しかった。
「突入する!」
扉を蹴破り、中へ押し入る。
――赤が、あった。
そこはワンルームの部屋だった。玄関先すぐに台所、風呂場を挟んで廊下の先奥に部屋。その道筋を示すように、床に線が描かれている。
赤い、線が。
大きな絵筆を走らせたかのような、うねる赤い曲線が――床に、壁に、天井に。
息を呑む。呼吸が浅くなり、乱れ、それでも肺には鉄と脂の臭いが押し寄せてくる。
構わず土足でその赤を踏む。廊下の先の扉は開かれ、電気がついていた。飛び込み、部屋の中を確認する。
「……な」
男がいた。
ベッドにのしかかるように四つん這いになり、その下に組み敷いたものに見入っている。手の下には包丁、そしてベッドの上には、赤。
物音に気付いた男がこちらを振り返る。何かがシーツからぼとりと落ちた。
赤い、塊。
「――うおああああ!」
男に飛びつき、その腕をひねり上げて半身振り向かせ、その胸に手根を突き込む。くの字に折れ曲がった体から一旦手を離し、すかさず手首を掴んで引き込み、その肘を支点に回転、男を床に叩きつけた。ドオッと床が軋む。
駆けつけてきた軍警が男を取り囲む。それを見守ることなく、国木田はベッドの上のものへと向き直った。名を呼ぼうとして、言葉が詰まる。
そこにあったのは彼女ではなかった。
彼女だったもの、だった。
強烈な蹴りを繰り出していた両足はだらりとベッドに横たわり、血の紋様を纏っている。放られた腕もまた血を浴び、力なく開かれた指からしずくが床へと落ちていく。シーツも、床も、全てが赤い。何より――彼女自身が。
その胴は直視すらできない。何かがぬらりと濡れている。その皮膚の下に収まっているべきものが照明に照らされているのだ。閉じられた瞼にも頬にも血は覆い被さり、あの眼差しは、微笑みは、どこにもない。
大量出血、臓器損壊。
死。
そのただ一文字に気付き、国木田は座り込んだ。膝が血に濡れる。手を伸ばし、力なく放り出されていた手に触れる。まだ体温が残っていた。それを額に擦り付ける。
彼女は策があると言った。現行犯として追われている彼女は見つかり次第逮捕されるが、真犯人を逮捕するには逮捕状が必要になる。つまり彼女と真犯人両方が軍警に見つかった場合、クリスだけが先に逮捕される。それを打開するための策だ。
――つまり、クリスを被害者に、真犯人を現行犯で逮捕させる。
そうだ、その方法があったのだ、他に方法など何があったというのか。わかっていたはずだ、なのに自分は彼女をあっさりと行かせてしまった。――言わせてくれなかったのだ。彼女はその無邪気さを装った演技で、国木田から思考を奪った。
自分はどうして気付くのが遅い。
「クリス! 国木田!」
軍警を押しのけ誰かが飛び込んでくる。与謝野だ。予定よりかなり到着が早い。
「……これは」
与謝野が言葉を失う。その後ろから来た谷崎も何も言わないまま立ち尽くした。しかし与謝野が我に返るのは早く、すぐさま国木田の隣へと駆け寄りベッドの上へと手を伸ばす。光り輝く蝶がその周囲を舞い、少女を覆い、部屋に柔らかい光を広げていく。
その光を呆然と見つつ、そうか、と気付いた。
彼女はわかっていたのだ――否、乱歩がわかっていたのだ。クリスの行動をわかっていて、乱歩は与謝野の到着を早めた。クリスもきっとそれをわかっていて、これを決断した。言葉も視線も交わさないやり取り、他者には介入できない二人だけの思考。
「……なぜだ」
問う。その答えはもう、わかっている。
「なぜ、あなたはいつも……そうなのだ」
それでも、問わずにはいられない。
彼女は決して死ねないのだ。その身に背負った運命が、そうさせている。
何度死にかけようが――死のうが、彼女は生へと舞い戻り、また苦しみの中に戻っていく。
だから彼女は死を恐れない。むしろ進んで危険に飛び込み、死を――死の連鎖の終焉を望む。
なぜだ。なぜ、この少女がそれほどのものを背負わねばならんのだ。
なぜそれを打ち明けて、助けを求めてくれないのだ。
なぜあなたはそれでも、いつも笑っているのだ。
なぜなのだ。
「何だい、これは……!」
不意に与謝野が呻いた。
「治った先から傷が生じていく……こんなのは見たことがないよ」
「何?」
与謝野の手元を覗き込む。蝶が傷を覆い皮膚を作り出していた――そのすぐ側で、目に見えない何かが傷を切り開いていく。
何かが与謝野の異能を阻害している。
「何が起こっている……?」
「わからない、とにかく異能を途切らせないようにしているけど……!」
ふと。
光が膨張していく。蝶の纏う光だけではない、何かの光――小さく、優しい、蛍のような光。それらが合わさり、重なり、混じり合って膨れ上がっていく。与謝野の手元が白んで見えなくなっていく、その様子を国木田は見つめることしかできない。
蝶が光る。蛍が舞う。やがてその光はクリスを、与謝野を、国木田を覆い、視界を真っ白に変えた。