第2幕-続
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***
暗闇に慣れた目でクリスはその姿を見つめる。照明の少ない夜の倉庫街で、彼の輪郭は明瞭に見ることができた。
いっそ見えなければどれほど気が楽だったか。そう思ってしまう。
先程まで使っていたナイフは夜叉白雪との交戦でヒビが入っていた。国木田との対戦を考えるならば銃撃と肉弾戦を警戒する必要がある。折れかけたナイフは使えない。
ナイフを地面に落とし、踵で踏み砕く。足元に素早く吹いた風が破片を欠片に変え、塵と共に掻き消していく。靴底から別のナイフを引き出した。
「この刃先には毒を仕込んであります。……引いてください」
「毒物も使うということか……睡眠薬も」
苦々しげな声に微笑む。その手のものに慣れているであろう国木田の飲み物に、即効性の睡眠薬を混ぜ込むのはなかなか難しかった。
「とても良く眠れたでしょう?」
「ああ。目覚めは最悪だったがな」
「それは申し訳ないです」
にこりと笑う。悪意も嘲笑もないクリスのその表情に、国木田は沈黙し――しかしなおもその鋭く強い眼光をクリスへと向けてくる。闇夜でもはっきりと見えるその輝きに、そこに宿る何かへの決意に、クリスは浮かべていた笑みに少しばかりの感情を含ませた。
そうだ、それで良い。
それが、正しい。
「――では、目覚めのない眠りをあなたに」
言い、クリスは重心を下げた。弾けるように地を蹴り出し、接近。瞬き一つの間に眼前に飛び込んできたクリスへ驚愕するその顔に、クリスはナイフを切り込む。薙ぐように一閃、それは国木田の鼻先を掠めた。しかしその回避は予測済み。振った腕の動きに沿って片足を軸に旋回、回し蹴りをその肩口に放つ。一歩引いた状態の国木田は攻撃態勢を取れず、腕を上げて防御するしかない。予想通り国木田は腕でクリスの踵を防いだ。
「待て、クリス……!」
「黙って死んでください」
踵を引き、その足で地面を蹴り出す。さらに接近、国木田は距離を取るべく退く。退避を許す間も与えずクリスはナイフの刃先をその喉元へと突きつける。しかしそれは国木田の耳元を擦過した。国木田の甲がクリスの手を払い落とすように叩く。
「話を聞け!」
「言い残すことがあるのならどうぞ」
弾かれたナイフを手の中で滑らせ、逆手に持ち直す。そのまま喉笛を掻き切るように横に振り切った。しかしそれは国木田の襟元を裂くに留まる。思った以上に動きが良い。簡単には仕留められないか。
ならば、とクリスはさらに一歩踏み込む。手を伸ばさずとも互いを掴める距離、回避も攻撃もままならない狭い空間の中で、クリスの体は最小限の動きを発揮する。胸元に畳むように膝を折り曲げ、腰を旋回、体を軸に相手のみぞおちへと膝蹴りを放つ。ぐ、と国木田が頭上で呻いた。動きの止まりかけたその顎下を間髪入れず蹴り上げる。脳震盪をも狙う一撃、国木田は顎を上げてそれを避ける。喉元が無防備にさらけ出される。
急所。
ナイフをそこへ寸分違わず突き入れる。しまった、と国木田の口元が動く。信じ難いものを見る眼差しで、こちらを見てくる。その全てを潰すようにクリスは切り込んだ。この後視界を覆うであろう赤を、絶叫を、想像しながら。
ナイフが国木田の首へと突き刺さる。
――突き刺さらなかった。
眼前にクリスの手首を掴む手があった。虎の腕だ。
「やめてください……!」
敦が、国木田の届く寸前だったナイフをクリスの手ごと掴み止めている。
「もうやめてください! 僕達はこんなことをするためにここに来たんじゃない!」
「……敦さん」
「話を聞いて下さい。僕達がここに来たのは」
「違いますよ」
脈絡のない返答に敦が言葉を切る。呆然としたその顔を、クリスは静かに見つめた。
「違いますよ、敦さん。この場合は肩です」
「……え?」
「相手の肩を切り落とすんです。ナイフの一本も持てなくさせて、痛みで動きが悪くなったところに心臓か首です。隙を与えては駄目ですよ。わたしが異能を持っていることを忘れているわけではないでしょう?」
クリスの助言に敦は絶句した。言葉を失い、何をすべきかもわからなくなった白髪の少年へ、クリスは微笑む。
「鏡花さんならわかるでしょう?」
「今の私は探偵社の社員」
クリスの背後、視界の外から幼さの残る声が答えてくる。クリスが敦へ危害を加えた瞬間、この背へ白刃を突き立てるのだろう位置に彼女はいた。
「無駄な殺しはしない」
「無駄ではないですよ。利益です。わたしは殺人犯なんですから」
「あなたは陥れられただけ」
「どうでしょう」
国木田の喉元にナイフを突きつけたまま、敦に手を押さえられたまま、クリスは続ける。
「たくさん殺してきましたよ。あなた方が知らないところで、たくさん」
「知ってる」
鏡花の声は変化がない。
「あなたは似ている。だからわかる。……連絡が来た。作戦を進められる」
「作戦?」
「そうだ」
答えたのは国木田だった。刃先が目の前にあるというのに、殺気を向けられたままだというのに、その目はいつもと変わらない。
普段クリスに向けてくるものと――変わらない。
「作戦だ。事件を解決するためのな。……俺の方も先程乱歩さんから電話があった。犯人の場所がわかったそうだ」
「犯人……?」
それが指すものは間違いなく連続猟奇殺人事件の犯人だろう。けれど今彼らは犯人とされているクリスを前にしている。にも関わらず乱歩はつい先程犯人の場所を掴んだ。
どういうことだ。
クリスの動揺を察してか、敦の手が緩む。再度切り込む気力もないまま、腕を下ろした。国木田と真正面から向かい合い、その張りのある声が告げる言葉を待つ。
「太宰が事件の主導者を裏付け、乱歩さんが真犯人の居場所を突き止めた。後は捕まえるだけだ。俺達が真犯人の元へ向かっている間、与謝野先生と谷崎、賢治と太宰、そして敦と鏡花が軍警の動きを誘導し、俺達が捕らえるタイミングで軍警が真犯人の元に辿り着くように仕向ける。これが作戦だ」
「……え?」
今何と言った。
――俺達が真犯人の元へ向かう、と。
与謝野、谷崎、賢治、太宰、敦、鏡花。彼らが軍警を錯乱し誘導する。そして国木田は真犯人を捕らえる。
国木田と共に行動するのは誰だ。
乱歩はこの手の動きには参加しない。福沢など言うまでもない。ならば、考え得る答えは。
「真犯人を捕らえるぞ、クリス」
「……何を、言って」
「俺が作成したクリスの護衛記録及びその報告書だけでは証拠としては弱い。あなたは探偵社と親しかったからな。だが、それに加えて真犯人を捕らえられたのなら、あなたの無実は明らかになる」
「まさか」
言いかけ、言葉を探す。
おかしな点はいくつもあった。クリス捕獲の依頼者である軍警を撒いた鏡花。普段ならば鏡花の殺気に戸惑うかクリスに「なんで」「どうして」等と問うてきたであろう敦の、毅然とした様子。誘導されるように辿り着いた先に控えていた国木田。
「……初めからそのつもりで、わたしを追ってきたんですか?」
「敦が言っていただろう」
国木田の声は低く、言い聞かせるように一言一言を丁寧に告げていく。
「背中に庇うことはできないかもしれないが、互いに背中を庇い合うことはできると」
――共に戦うことはできる、と。
一人ではなく。
「……ッ」
何かがこみ上げてきた。胸が熱い、痛い。唇が震え、全身が震え、呼吸が乱れる。これは何だ。これは――知っている。
これは、絶望とは真逆のものだ。
もう二度と感じてはいけないものだ。
「……な、にを、馬鹿なことを」
呆れと否定を込めて首を振る。駄目だ、と目で訴える。
駄目だ、それ以上は駄目だ。勘違いをしてしまう。また、この人達と一緒に過ごせると思い違いをしてしまう。
別れ難くなってしまう。
それが見えているだろうに、この思いがわかっているだろうに、けれど国木田は――あっさりと頷いた。
「ああそうだ、馬鹿なことだ。ただでさえポートマフィアやら何やらから襲撃やら何やらと忙しないにも関わらず海外からの攻撃にも対応せねばならなくなった。忙しいどころではない、大忙しだ、年中年末だ」
早口言葉のように一気に言い切り、国木田は眼鏡を押し上げた。年中年末、と思わず反芻したクリスの声が聞こえたのかはわからない。一息つき、国木田は「だが」と顔を上げる。
「……それも承知の上で、俺達は選択した」
「俺達、って」
「全員だ。社長も含めてな」
ふと険しい顔立ちの男を思い出す。寡黙で、社員思いのその人はなぜ会社の安全を第一に考えなかったのだろう。犯罪者と共に行動する姿を軍警に目撃されたなら、それだけで武装探偵社というものは全てを失う。クリス一人と会社一つを天秤にかけた結果がこれだというのか。なぜ。
そう考え、しかしクリスは目を伏せた。
わかっている。彼らはそういう人だ。呆れすら忘れるほどに愚かな――他者思いの人達だ。
「……やっぱり、あなたのことがわかりません。どうしてこんな無駄なことをするんですか。わたしはもう、あなた方が守るべき市民ですらないのに。どうして……どうして、見捨ててくれないんですか。どうしてそこまでして何度も気をかけるんですか。そんなことをされても……損でしかない。市民を守らなきゃいけないあなた方が市民以外を助けてしまったら、それであなた方が捕まってしまったら、死んでしまったら、誰がこの街を守るんですか」
「目の前にいる守るべき人を守る、それを成すだけだ」
「……わたしは守られるべき人間じゃない」
「なら言い換えよう。俺達にとってあなたは守るべき護衛対象だ」
「そんなもの、もはや意味がなくなっているじゃないですか……」
「ああ、そうだな」
目を逸らす。もう、何を言えば良いのかわからない。何を言えば諦めてくれるのかわからない。どうしたらこの胸に蘇ってしまった幸福への望みを再度忘れることができるのか、わからない。
何も言わなくなったクリスを、国木田は視線を逸らすことなく見つめ続けてくる。
「俺達が今していることは何か、それはもうわかっている。その上で俺達は選んだのだ」
その強い意志を向けるべきはこちらではないだろうに。
国木田は言う。
凛然と、明瞭に。
「――覚悟はできている」
その一言を。