第2幕-続
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半ば強引にヘカテを国木田から引き剥がし、クリスは国木田と並んで帰路についた。背中に強い視線を感じるのは気のせいだろう。
「すみません、同僚がご迷惑をおかけして」
「いや、問題ない。同僚からも慕われるとはな」
「同僚は同僚ですけど、彼はリアに憧れて入団していますから」
「そうか。ところでポケットの中に何かあるのか」
さらりと言われた言葉に息が止まる。あまりに自然と放たれたため、足取りも一瞬止まってしまった。それでも余裕のある動作でその顔を見上げ、虚言を許さない鋭い目つきに微笑んでみせる。
「いえ、何も……ありませんけど」
「さすがのあなたも不意を突かれるとわかりやすくなるな」
「う……」
誤魔化しきれなかった。
忘れかけていたが、この人は探偵なのだった。つまり、目敏い。
「……えっと」
突然の事態に言葉が思いつかない。どうやら動揺しすぎていたようだ。仕事熱心な国木田が、事件現場が目の前にあったにも関わらずあっさりと帰宅に応じた点で気付くべきだった。
クリスの護衛任務を優先したのではない。現場を見るよりも先に、問い質す対象が――ポケットに何かを隠しているクリスが、そこにいたからだったのだ。
「何だ、言え」
「その、別に大したことじゃなくて」
「事件に関わるものか」
「そういうわけじゃ」
適当な言い訳も思いつかないまま、口を噤む。
――今宵、赤き獣が降りた地にて。
あれはクリスに向けたメッセージだ。偶然ではない、偶然にしては一致しすぎている。
〈赤き獣〉とはかつての場所で、人の形を失った化け物のことを指した。あの研究施設で作られた、人の部位を繋ぎ合わせられた化け物。人の原型を失ったそれは、人間を過ちへ導く悪しき者として断罪された。
――あの人も、その一人。
それを断罪したのは――無実の罪で殺したのは、クリスだ。
「……ッ」
寒気に体を抱き込む。ゆらり、といくつもの手がクリスへと伸ばされる感覚。先程の光景がそれに重なる。
切り裂かれた胴体、そこから引き出されたもの。手が、足が、赤い塊が、散らかっている。そばに落ちてくるのは見知った顔の断片。
知っている。
あの光景とよく似た光景を、知っている。
その光景が作り出されていく経過を、この目で見ている。
「……ッ、あ」
胸が呼吸を拒む。強く体を抱き込み、地面に膝をつく。
誰かが肩に触れてくる。その手は誰のものだ。化け物の手――違う、あの人とは違うぬくもりだ。これは捕らえようとしてくる手ではない。では、何だ。
「クリス」
この声は誰のものだ。
「俺の声が聞こえるか」
この、落ち着いた低い声は。
あの人の声では、ない。
「……わ、たし」
「よく聞け、まずは深呼吸をしろ。ゆっくりで良い、ゆっくり、息を吐き出せ」
言われた通りにする。視界が開けてくる。目の端が濡れていた。唇が戦慄く。それでも、ゆっくりと、呼吸を繰り返す。
「そうだ、ゆっくりとで良い。俺が誰かわかるか」
そちらを見上げる。静かな眼差しがそこにある。震える喉から声を絞り出す。
「……国木田さん」
「ああそうだ。落ち着いたか」
いつもは強い光を宿しているそれが、安堵に緩む。指が目尻の涙を拭ってきた。慣れない接触に、しかし怯えは現れない。あの人以外の人に怯えないでいられるのは初めてだった。拒む理由がないわけだけれどこうして触れられるのはやはり落ち着かない。しかしはね除けるほどのものではない気がする。どうしたら良いのだろう。
戸惑いながらも頷き、胸を強く押さえた。まだ、声がうまく出ない。
「……すみま、せん」
「まるで発作だな。何がきっかけだ」
その問いには答えず、首を横に降る。詳しく話すことはできそうになかった。吐息が震える。体を縮めると、肩に置かれた手と別の手がそっと頭に乗せられた。
「無理に話すな」
髪を梳くようにクリスを撫で、国木田が囁く。優しいそれに恐怖とは違う震えが全身に走る。
これは何だ。恐怖ではないのは確かなのに、体が強張ってしまう。わからない、何なのかわからない。
経験のないこの感覚が、感情が、こわい。
「動けるか」
支えられるように立ち上がり、道の隅に寄る。ようやく呼吸が通るようになり、クリスは大きく息を吐き出した。
「……すみません」
「いや、問題ない。……何があった。何もなかったとは言わせんぞ」
問い詰めるような響きを孕んだその声に口を閉ざす。
答えるには〈赤き獣〉について話さなければいけない。それに、遺体のそばにあった紙についても言わなければいけなくなる。
あの紙は明らかにクリスに向けて置かれていた。クリスがあの現場に行くことを――もしくはクリスがあの近くの劇場に通っていることを――そしてその紙を拾うことを予測していたかのようだ。
――この場にいない誰かに見られている不快感。
〈赤き獣〉、クリスを狙ったメモ書き、猟奇殺人事件。これらが指し示すもの。
今宵、赤き獣が降りた地にて。
あれはただの詩篇か、それとも誘導か。
これらの話を、どこまで話すか。
思考。
しばらくの沈黙の後、ようやくクリスは口を開いた。
「……現場を見て、ちょっと思い出してしまって」
「思い出す?」
「……ウィリアムの最期が、ああだったから」
言えばやはり国木田は言葉を詰まらせた。予想通りの反応に、クリスはそっと微笑んでみせる。
「正確には違って、あの状態でわたしの前に現れたんですけど。〈赤き獣〉――この世の悪の権化として。実験で要らなくなった部品を組み合わせたものを、見せ物として処分していたんです。〈退魔の儀〉と呼ばれていました。村の人皆が見守る中で、わたしはそれを殺す役目で、向こうはわたしを殺すことだけを考えるように改造されていて、だから、どうしようもなく、て」
息が詰まる。
あの化け物が、〈赤き獣〉が、目の前にいる。おびただしい数の腕、足。腹から溢れる臓器は床を引きずり、骨格を失った顔は平たく歪んで、剥き出しになった舌から唾液をこぼす。
「気がついたら、【テンペスト】で切り刻んでしまっていて、そんなこと、したくなかったのに、わたし、ウィリアムを」
「クリス」
「今もそこにいて、いつもわたしのそばにいて、幻覚だってわかってるのに、わたし、あれに捕まるたび、何度も、切り刻んでしまって、何度も、あの日のことが、繰り返されて」
口を抑える。
肺が縮む。
その体を包むぬくもりがある、腕がある――濡れた縄状のものが、頰に触れてくる。
懐かしい声が、名を呼んでくる。
「ッ……!」
耳を塞ぐ。それも意味がない。彼は、クリスの中にいる。逃れられない。
だから――切り刻むしか、ない。
「い……や、だ……!」
ころしたくない。
もう、あの人をころしたくない。
突然、耳を塞いでいた腕が掴まれた。強引に引き剥がされる。
「落ち着け!」
張りのある声が鼓膜に突き刺さる。思わずそちらを見た、その視界の中に目の前に真っ直ぐな双眸がある。金糸を思わせる髪が眩しい。
「それは幻覚だ。惑わされるな」
手首を強く掴み上げ、国木田は言い聞かせるように言う。その強い声が、脳の中を侵食していた化け物を消していく。は、と呼吸が戻ってくる。
「……ごめんなさい、わたし、また」
「まだショックを引きずっているな。どこかで休むか」
「大丈夫です、別に、珍しいことじゃ、ない」
それに、あの紙片が気になる。今宵、とあった。つまり今夜だ。
今夜、何かが起こる。
「大丈夫ではないだろう。探偵社にまだ与謝野先生がいたはずだ。何ならうずまきでも」
「大丈夫です」
首を振る。この状態で与謝野に会ったら、きっと今夜は解放してもらえない。喫茶うずまきには太宰が来る。自分を制御できていない様子を、彼に見せたくはない。
「大丈夫、ですから。帰って一人で落ち着いていれば。だから」
「……うちに来い」
「もう慣れてますから、って……え?」
今、何と言ったか。思わず見上げた先で、国木田は冷静を装った焦燥の表情で必死に眉をしかめていた。これはどんな様子だろうか。頑張って通常の国木田を演出しようとしている、ということで良いのだろうか。
「変な意味合いはないぞ、言っておくがな。一人で、と言うからには大人数が来るところは嫌なのだろう。だがこの状態で放置できるわけもない。茶なら出せる。どうだ」
「……かなり肩に力が入っていますけど」
「そんなことはない」
「目が泳いでいます」
「そんなことはない」
「あ、太宰さん」
「何ッ……くそ、こんなところを見られては後々何を言われるかわからん……どこだ!」
「嘘です」
「あなたまでそうやって俺で遊ぶのかああッ!」
「すみませんゲンコツはやめて、痛いのはちょっと、あ痛ッ」
軽く叩かれた。
「こちらは散々気遣っているというのに、人をからかいおって……!」
「……ふふッ」
憤慨する国木田に思わず笑みが漏れる。その怒りが照れ隠しであることなど容易にわかっていた。
この人は、愚かなほどに優しい。何かを意図的に隠している相手にどうしてそこまで気を回せるのだろう。やはり理解できない。明らかに敵、そうでなくとも味方ではない相手をどうして気遣うのか。そんなことをするよりも、事件現場へ行って現場検証をする方が何倍も有益だ。
なのに、この人は。
いつも。
「……やっと笑ったな」
「はい?」
「何でもない、行くぞ」
そう言って先に行こうとする国木田の背を慌てて追う。
「どこへ行くんです?」
「何度も言わせるな」
「本当にどこへ行くんでしたっけ。ど忘れしちゃって」
「……だんだん太宰に似てきていないか?」
「やだなあ、そんなわけが……そんなはずないです、あり得ないです、嫌です」
「そ、そうか、怒るな、悪かった」
再び並んで道を行く。それだけなのにどうしてか心は軽くて。
けれど、とクリスはポケットの上から紙片に触れる。
この紙切れが何を意図しているのか、十分に考える必要があった。国木田には話せない。いずれこの街を離れることになるのだから、彼に余計なことを背負い込ませたところで何の意味もない。
そう、何の意味もない。これはクリスの問題なのだから。
ポケットから手を離す。指に残った紙片の感触を誤魔化すように、強く握り込んだ。