【ss】ティアキン・鍛錬班幹部の夢
「日に日に弓の精度が上がってるな! 鍛錬をつけてる俺としても誇らしい限りだ! お前ほど真面目な人間は他にいないが、でも・・・・・・無理はしないでくれ、そこだけがいつも心配なんだ・・・・・・!」
「大丈夫です、無理なんてしてませんし、最近は自分でも上達してるって分かって楽しいんです。それに、ダメそうなときはお休みしますよ。子供じゃないですし・・・・・・」
「それはそうなんだが・・・・・・、まぁ休むときは俺から会いに行けば良いしな! それより、今日はこれでおしまいか? 夕餉を一緒に食べよう! いつものところで待ってるな」
「湯浴みをしてから行くので少し待ってもらうかも・・・・・・。先に食べてても良いですからね」
「食べるわけないだろ。お前と一緒に居るためならいつまでも待つぞ! それに、俺も片付けをするから、丁度良い時間になるはずだ。じゃあ名残惜しいが、またあとでな」
「はい、じゃあ、・・・・・・またあとで」
そのやり取りは、イーガの鍛錬部屋において決して珍しいものではない。新人に鍛錬をつける部署の幹部と、その恋人との日常的な会話だ。彼らは、いや主に彼だが、人前で恋人とのやり取りに憚らないし、声がデカいことで有名だった。
またやってらあ、と部下達からは当然のようにスルーされて、もはや空気の如し。最初こそ戸惑っていたシャイな彼女も、次第にそれが常態化していったのだから、慣れとは怖いものである。
ただ、今日この日、初めてその光景を見た女は我が目を疑っていた。彼と彼女が恥ずかしげもなく恋人の会話を繰り広げるのに、胸のざわつきが抑えられず、鍛錬終わりで垂れ流したままの汗を拭きもしないで彼らを凝視した。
どれくらい抑えきれなかったのかといえば、鍛錬後、岩廊下を進む彼女へ思わず声を掛けてしまうほどには。
「ねえ、彼、大変でしょ」
汗を拭いながら静々と歩いていく彼女は、「え?」と立ち止まって振り返る。
このイーガにおいて、全員が全員仮面をつけるのが当たり前なので、よっぽど親しい人間でない限り、即座に目の前の人物が誰かを察することは難しい。しかし、今目の前に居るのは、少なくとも一切の見覚えがない構成員である。
急な問いかけにもだが、知らない人間から話しかけられることに慣れない彼女は、分かりやすく辺りをキョロキョロと見回して困惑した。名前も顔も所属先もお互いに知らない、完全なる初対面だろうに。
女は近づきながら、ふふふと口元に指を宛てがって笑う。その笑みは決して愛想の良さから来たものではないが、警戒で身を強張らせた彼女の緊張を、少し緩めるのには役立ったらしい。
「彼、いつでも明るいのは良いけど、元気すぎるし、圧が凄いし、結構空回りすることも多いでしょ。大変だろうなーと思って」
「えっと・・・・・・彼、というのは」
「あれ、付き合ってるんじゃないの? 鍛錬班の幹部殿と」
今しがた鍛錬をつけてもらっていた相手だ。抜け出てきたばかりの鍛錬部屋を女がチラリと見遣ると、彼女は恐縮そうに肩を縮ませた。初対面の人間に何と答えるべきか、言葉に惑っているのだ。それでも最後には素直に「そうです」と、はにかんだときの上ずり声のまま仮面を俯かせた。
「やっぱり」と返した女は、ゆっくりと歩き出す。追いかける形で彼女も隣に立ち、なんとはなし二人で足を揃えた。
「いいわねー、付き合いだしたのは最近?幹部殿にこんな彼女がいるなんて知らなかった」
「そうですね、つい先日・・・・・・。まだ、あんまり実感はないんですけど」
「へ~。幹部殿ってすごくできる御人だから、貴女が羨ましい! だって彼、人気者でしょ?」
「私にはもったいない人です、本当に・・・・・・。最初は何の冗談かなって、思っちゃって」
「どこで告白したの?すぐOKもらえた?」
「えっと・・・・・・鍛錬をした後に、告白してくれて、それで・・・・・・」
告白、してくれて? 恥ずかしそうに俯きながら、指をこねこねと絡ませる彼女に面白くない気持ちが沸き立ち、唇の端が勝手にヒクついた。それは何者も邪魔しない砂漠に立ったとき、じゃりじゃりとした砂嵐に吹かれ、服の中にまで砂が入り込んできたような感覚に似ている。
その憚らない照れに、きっと幸せな恋人生活を送っているんだろうと女は思った。赤の他人に恥や恋心を開け広げにできるのは、恋人に愛されている人間だけが持つ自惚れがあるからこそだ。
どれだけ彼が勢い良かったか、自分はどれだけ困ったかを控えめに説いてくる彼女の話を「へえ」と聞きながら、女の気持ちは半分、この場に居なかった。半分どころか、完全にいなかったかもしれない。薄く開いた瞼から、彼女ではなく過去の自分を重ねて眺めていたのだ。しかし、過去に浸る余韻は、無理に耳に捻じ込んでくる彼女の声によって掻き消される。遠慮がちだが、はっきりと陶酔が籠った声だ。それは胸中に入り込んだ砂が摩擦で肌を傷つけるように、小さく小さく心の痛覚を刺激していく。
その痛みに耐えきれなくなったとき、女は「私も」と、半ば彼女の言葉をさえぎって口に出していた。
「私も、・・・・・・大変だったんだ。彼と付き合ってたとき」
「え?」と小首を傾げる彼女の顔を見ずに、女は言った。
「私、彼と昔、付き合ってたんだよ。貴女が入団するより、ずっと前に」
言葉を忘れたように、途端に黙り込んだ彼女は、足を緩やかに止める。
その仮面の下に浮かべているのは驚きだけだろうか。きっと急に目の前で、パチンと手を打たれた時のように、目を丸くしているに違いない。
良い気味。ぽっと頭に上った気持ちのままに、女は少しだけ、過去の話を聞かせてやろうと決めた。
──記憶をたどること、数年前の話だ。
イーガ団に入団したばかりの女は、アジト内に保管されている資材を管理する「資材管理班」に所属していた。
外から持ち込まれた物資をそれぞれの保管庫に振り分けたり、流通班や地底班と相談して必要な品数を計算して引き渡したり、時には壊れかけた弓や矢なんかを回収し、補修作業をおこなうこともある部署だ。アジト内で働く内勤としてもっとも武術が必要なく、端的に言えば入ってきたばかりの使えない新人でもなんとかやっていける場所として、物資管理班は有名だった。
そんな部署に配属された女が現在の幹部と知り合ったのは、まさに鍛錬部屋でのこと。弓矢や得物の消耗が激しい鍛錬班へ、必ず日に一度、外から調達された物資を送り届ける日課があった。当時の鍛錬班で末席にいた彼は、物資の受け取り役を担っていた。
業務上で、極たまに喋るだけの顔見知りだったはずの彼から「付き合って欲しい」と言われた女は驚いた。まさか、弓を渡し終えた手首を掴まれて告白されるなんて誰が想像したろうか。それでなくとも、自分は彼のことを、何も詳しく知らないというのに。
ただ、イーガは男所帯で女団員が少なく、入団とほぼ同時期に男団員から声を掛けられるという通例を聞いて知っていた。男団員は良い相手を見つけたら一途にアタックし、すぐさま口説き落とそうとするのだと。この話を明け透けに教えてくれた先達も、新人の頃に声をかけられてそのまま付き合っている恋人がいたものだから、女は咄嗟に「そんなものか」と考えた。
「いいよ、付き合ってあげる」
「ほんとか!?」
物資の配達でいつも早々と応じてくれる彼に対し、女は悪い気を持っていなかった。断る理由がない。それだけで女は彼の告白を受け入れた。
大げさに飛び跳ねて喜ぶ彼の姿がなんとなく大型犬を思わせて、可愛いじゃんと素直に微笑ましく思ったのも事実である。
彼との恋人生活は、付き合い始めた当初こそ楽しかった。
会う度に、彼は女のことを褒めちぎった。今日も正確な時間に来てくれて凄いだとか、髪の毛がつやつやで綺麗だとか。他の鍛錬班員が後ろでじっと見つめる中、大声で次々に褒めてくるから照れ臭かったが、そんなところも最初は可愛いなと思っていた。
ありがと、と一言返して物資を渡し、いつまでも女を見送る彼にヒラヒラ手の平を振って別れるのが日課になっていく。
二人は、ごく普通の、どこにでも居る恋人関係であった。会えば愛の言葉を伝えられて、食堂でご飯を食べれば好物を彼が譲ってくれた。休みの日を合わせてカラカラバザールに出かけ、砂漠名産の果物なんかをお土産に買ってもらってアジトで食べた。
今考えても、悪くない人だったろう。じゃあ付き合い続けられるかといえば、少し違ったというだけで。
物資管理班での働きを認められ、女が諜報班に移動してからというもの、彼とのすれ違いが多くなった。会う時間、考え方、何もかもが一気に変わった。まるでお盆をひっくり返したみたいに。
諜報班といえば、イーガにおいての花形だ。技術を認められた人が諜報に選出される。日々の訓練の成果が、しっかりと評価されたのだ。
その一方で、彼は鍛練班の末端から変わる気配がなかった。出会った当初よりもよっぽど休みを削って、最愛のはずである恋人と会うこともせず鍛練や業務に打ち込んでいたのに、鍛錬班の末席のまま、いつまでも変わらない。
その頃、たまに会って今まで通りに褒めそやされても、素直に喜べなくなっていった。
それに、諜報という新たな舞台を与えられ、知見が広くなった女は上昇志向を強めていた。彼から気持ちが離れていたのは、事実であって誤魔化すつもりもない。
別れよ、と告げたときの彼は、可哀想なくらいがっくりと肩を落とし、面越しにも分かるほどのショックの受けようだった。
そもそも、彼と添い遂げるつもりで告白を受けたつもりはない。
彼の方は分からないが、添い遂げるつもりがあるのなら、外回りが増えて時間に融通の利かなくなった自分に合わせて欲しかったし、いつでもできる鍛錬なんて、少しくらい休んでほしかった。
好きだ、すごい、と単純に繰り返したり、いつも同じカラカラバザールでデートするのではなくて、直属の幹部がしてくれたみたいに、夜空の海辺に連れて行くくらい、して欲しかった。
「・・・・・・だから、大変だろうなー、と思って。猪突猛進っていうか、頑固なところがあるからさ。貴女も気をつけなよ、と思って」
そう締めくくった女は、少し鼻を高く上げながら、静かに聞き入っていた彼女にちらりと視線を落とす。
彼女はといえば、身に着けるイーガの仮面をどんどんと沈めていって、ほとんど後頭部しか見えない格好になっていた。どんよりと影を背負った風に見えるのは、きっとアジトの岩廊下が暗いだけが原因じゃないだろう。その姿に、入り込んだ砂粒が少し、服の隙間から滑り落ちていった気がしたのは確かだ。
ただ、このままでは単なる嫌味な先達になってしまう。イーガの花形部署に身を置く女は抜け目ない。黙り込む彼女の肩をポンと叩いて、「何かあったら相談してね。きっと私の方が詳しいと思うから」と告げた。
嫌味もあるが、それはおそらく事実でもあるだろう。彼が幹部に昇りつめるまでの努力を、女は隣で見て知っている。幹部になった後の彼しか知らない彼女より、自分の方が詳しいに決まっているのだ。
彼女は途端、弾かれたように「ごめんなさい、私はこれで・・・・・・」と小さく断って、顔も上げずに廊下の奥へと走り去っていった。小さく丸まったシルエットは、弓の訓練で見たピッと伸びた背筋と程遠い。廊下の暗がりに身を沈めていくのが様になっている、と女は思った。
話をしている限り、どうやら小心者でシャイな人みたいだ。主が地底を見つけ、人が増え始めたこの時期に入団した若者としてはありがちで、打たれ弱いに違いない。もしかしたら自らの言葉がたがねとなり、人目を憚らず愛し合う彼らに、ひびが入る可能性だってあるだろう。
そうなったら良い、と本気でこの時思ったわけではないが、それでもじゃりじゃりとした気持ちの悪さは無くなるに違いないと、女は確信を持っていた。
彼女が消えていった廊下の先に、ふぅとため息を零し、踵を返す。湯浴みをして、今日はもう寝るとしよう。この時の女はまだ、ひとつのゲームに興じるような感覚で、二人の関係に首を突っ込んだだけだった。
■
彼女との初対面を迎えた日から数日後。
任務の合間に鍛錬部屋へやってきた女は、部屋に入る直前、異質な空気を感じ取ってたじろいだ。何か一枚布でも覆いかぶさっているのかと思うほど、部屋の中が明らかにどんよりと曇っている。
そもそもイーガのアジトは窓もなく、最低限の提灯しか明かりが灯っていないため、輝かしく明るい場所など存在しない。しかし、輪をかけて肩が重くなるような空気の澱みを感じるのは何故だ。と思ったが、答えはすぐに視界の中に入ってきた。
鍛錬班を取り仕切る幹部に生気がない。いつもなら耳にうるさいくらいの大声で「よく来たな!」と、訪れた団員を一人ひとり出迎えて鬱陶し気にされるのに、部屋の隅、彼は壁に凭れかかるように脱力したままだった。菌類でも撒けばそのままキノコでも生えそうな時化た雰囲気。さながら廃墟で打ち捨てられた置物のよう。
彼という個人を考えてもあの状態は目を疑うし、鍛錬班の幹部役という意味でも、少々あり得ない状態だろう。確かに今は鍛錬業務に入る前の自由時間だが、しかしやる気を擬人化したような普段の姿を知っている団員からしてみれば、異常事態の何者でもない。
歴の長い団員から「幹部の癖になんたるはしたなさ!」と叱責されてもおかしくない姿だが、純粋に「何があったの・・・・・・?」と心配される人徳が彼にはあった。鍛錬部屋を訪れる団員は皆が皆、ギョッとしたように部屋の隅でいじける彼を凝視し、事情を知る鍛錬班の団員に理由を聞こうと手壁を作っている。
女も例に漏れず、手ごろな団員を捕まえて耳打ちしてもらった。すると、どうやら最近お付き合いに至った彼女から、別れ話が持ち上がっているということだ。
彼が即座に拒否したことで話は無くなったものの、なんとなくギクシャクした空気が続いているようで、いまいち幹部も鍛錬に身が入らないのだとか。
ワケを話してくれた団員に「なるほど」と返しながら、女はそわついてくる胸の内を感じ取っていた。人目が無ければちょっとしたガッツポーズでもしたかもしれない。それくらい、ワクワクしてしまった。
これは間違いなく、女が彼女に打ったたがねがきっかけになっている。少し意地悪するだけのつもりだったが、このまま破局、という可能性も? 彼と本気でヨリを戻そうと考えていたわけではなかったが、そんな可能性も?
「幹部殿!鍛錬の時間です!」と、部下からの呼びかけに、彼が凭れていた壁からのっそりと身を正す。
鍛錬部屋に集まった団員の前に立つ彼は、ぴっしりした立ち姿をして見せた。・・・・・・はずなのに、なぜこうもどんよりと影を背負ったように感じるのか。結局それは、幹部からにじみ出る負のオーラがそうさせているのに違いないが。
とはいえ、オンとオフの切り替えはしっかりできる人なので、さすがに鍛錬中の姿はいつも通りの凛々しい姿を見せている。てきぱきとした指示に、そつのない指導。何が足りないか、何を意識するべきなのかを見抜き、過不足なしで伝える言葉の正確さ。その堂々とした姿には、幹部役の中ではまだ若くて経験も浅いはずなのに、誰もが憧れと羨望を込めて「はい!」と元気よく彼を見る。
やっぱりいいな、と女は鍛錬中の彼の仮面を見ながら思った。誰よりも真面目に業務に取り組み、前向きな言葉で周囲を鼓舞していく姿、太くたくましく育った腕や胸。時折覗かせる大型犬のような無邪気さも、弓の弦を引きながらついつい一緒に過ごした思い出を起こさせる。
彼とヨリを戻すつもりはない。戻すつもりはなかった。だが、このまま誰かの物にもなって欲しくない。誰かの物になるのなら、それは私であって欲しい。もう一度、私の物になって欲しい。そんな突然の願望が頭をもたげていく。
「お疲れ様です」
鍛錬の終わりに、女は堪らず声を掛けていた。
幹部役として、監督をするだけで良いはずの彼は、いつも団員に混ざって鍛錬をおこなっているのだろうか。フードの下に隠れた装束をグイッと伸ばし、晒した首元の地肌に手扇をする彼は、酷く汗まみれで暑そうだ。
壁際に置かれた木箱に座り、鍛錬を終えて部屋から出て行く団員たちをぼうっと眺めていた彼は、女に一瞥をくれ、「おう、お疲れ」とだけ返す。
どうやら女が誰だか分かっていないらしい。心ここにあらず、という風だから、女はしびれを切らして、幹部の視界を遮るように前へ躍り出た。
「私だよ、覚えてる?昔、物資管理班にいたときに君と知り合って、その後、諜報に移った・・・・・・」
そこまで言うと、幹部はハタ、と手扇を止めて、女をまじまじと見つめた。それでもいまいち要領を得ずに首を傾げられたので、女はしょうがなく仮面を取る。
「覚えてないの?」と苦笑いすると、幹部はそこでやっと思い出したように「あ」と声をあげた。さすがに付き合った元恋人の顔を忘れたと言われたら、彼が幹部でも、頭の容量を疑ってしまうところである。
女は彼に、満面の笑みを向けた。
「忘れられてたらどうしようかと思った!君が幹部役になってから初めて話すね、元気にしてたかな」
「あぁ・・・・・・。まぁ、元気だな。そっちは」
「元気だよ。あのときから随分変わってたからびっくりしちゃった。もうすっかり幹部役が板についてるね!すっごく頼もしい感じ!」
誉めそやすと、彼はどこか落ち着かない様子で「ありがとうな」と頭を掻いた。きっと照れてるんだ。女はなおも続けた。
「弓も刀も、ずっと頑張ってたもんね。強くなって当然だし、幹部に昇進できたのも当然だなって思うよ!本当は昇進したときにおめでとうって言えれば良かったんだけど・・・・・・遅くなっちゃったね、本当におめでとう」
「あの当時は、忙しそうだったから、仕方ないんじゃないか」
「でも、言えなかったのは事実だから」
仮面があるから本当のところは判別がつかないが、幹部はそっぽを向いたままである。ずっと鍛錬部屋の戸口を見たまま、上の空という風だ。女の話を聞いているようで、その実、聞いていないような。
他に何を気にすることがあるというんだろう。このまま二人で話を続けたかった女は、彼が腰かけていた木箱に座ろうとする。気の利く彼なら、お尻を少しずらして、スペースを空けてくれると確信があった。
しかし女が腰かけようとした瞬間に、幹部は呼応するようにパッと立ち上がった。刀と鞘が違うことに気付かず、入りそうで入らないことにイライラするみたいに、もやもやとした燻りが胸の内にじわっと染み出してくる。
私が言いたいこと、やりたいこと、彼なら分かってるはずなのに。そしてそっちの方が彼にとって、悪いことではないって、予感があるだろうに。歪みそうになる口角を必死に吊り上げて、女は穏やかな微笑みを作る。
「ねえ、これからまた、ここに通っても良いかな。諜報任務の合間に、貴方に会いたい。昔みたいにさ」
「通うのは好きにしたら良い。でも俺に会いたいってのはやめてくれ。そこまでの時間は無いから」
「そんな事言わないでよ、友達で良いから、またやり直したいな」
「・・・・・・ああ、そういうことか。なら余計に無理だ。他を当たってくれないか、俺にはもう大切な人がいる」
「大切にしたいって、内勤っぽい構成員の子でしょ? 弓の下手な」
完全に背中を向けて、面倒くさそうに腰に手を当てていた幹部がぴくりと身じろぐ。
やっとこっちを見てくれたのが分かって、「やっぱり」と女は前のめりになった。
「この前見たんだ。貴方って声が大きいからすぐに分かっちゃった。でも珍しいね、結構地味系だし、貴方の趣味と違う気がして」
「彼女の芯の強いところが好きなんだ。慎ましいところも全部」
「ふーん。でも彼女は負担になってそうだったけどなぁ。控えめな人っぽいから、貴方とのお付き合いは荷が重いこともあるんじゃない?」
「待ってくれ。話したのか、彼女と。なんの話を?」
「ちょっとだけね? 貴方のこと、元気で大変って言ってたから、変わってないんだなって笑っちゃった。私と付き合ってるときと同じだなーって」
「・・・・・・」
「彼女、貴方の圧の強さに困ってたよー。でも付き合うなら、自分のこと理解してくれる子じゃないと貴方もツラいでしょ。私だったらそんなことないのにな」
この頃、幹部は完全に女の方へと身体を向けていて、その言葉に聞き入っている風だった。
真剣に耳を傾けているのがよく分かって、それだけでも胸の内側から、何かが膨らんでくるみたいに女は高揚していた。
もしかしたら本当に、エリートで人気者の彼と、ヨリを戻せるかもしれない。別れた当時、唯一足りなかったものを満たした彼と、また。
想像してしまった。鍛錬班で団員を導く彼の横にいる自分を。このまま、ヨリを戻そうと言ってみようか。言葉にして直接伝えれば、少しは本気で考えてくれるかもしれない。
言っちゃう?言っちゃおうか。
現実味を帯びた妄想が今まさに口をついて出ようとして、その前に一回ごくりと唾を飲み込む。急に喉が乾燥して発声できなかったのを潤したかった。
動かず、喋らず、じっとイーガの仮面を向け続ける彼に、女は身を乗り出して「ねえ」と興奮を紡ぐ。
「私たち」
「俺たちに二度と近づかないでくれ」
低くて、はっきりとした彼の声が、女の上ずり声に被さった。
滲むのは怒気。え、としか返せない女に、幹部が音もなく近寄る。椅子に座ったまま動かなかった女を、幹部は見下ろした。
照明の逆光を背負って、深穴を思わせるほど陰ったイーガの瞳が、女にその恨みや失望を向けてくる。
「彼女との間を邪魔してみろ。俺は一生、お前を許さない」
ひゅ、と血の気が一度に下がった。
深穴の底から這い出てきたような声。血による全ての体温が、身体の末端という末端から一度に無くなっていく。刃を心臓に突き刺されたんだと錯覚するほど、その言葉は冷たく、鋭い。
動けない。当然だ。女は今、彼の言葉で心臓を刺されて絶命した。体の中の筋肉が固まって、血液が滴って無くなり、氷のように冷たくなって。これで動けという方が無理なのだ。
だから、幹部が踵を返して去っていく姿に、何も言えない。追いかけられない。視神経が引っ張られていると勘違いするくらい瞼を開き、口も閉じられなかった。乾燥で目が痛くなってきたとき、初めて彼女はまだ生きてると自覚した。
動けなかったのが、ただ恐怖に竦んだだけだと実感できたのは、彼が完全に鍛錬部屋から去っていった後のこと。
鍛錬部屋を取り仕切る幹部すらいなくなったこの部屋に残るのは、自らの面目を潰したばかりの女だけだった。
最初に動いたと思ったのは、鼻の頭だった。
じん、とマチ針でも刺さったみたいな痛みが、目の周りにまで広がった。じわじわと眼球の奥から染み出してきたのは涙というやつで、女自身は微動だにしていないのに、それは次々溢れてほたほたと首元の装束に滴っていった。
振られた。本気でヨリを戻したかったわけじゃない、と自らに言い聞かせる。それは確かに事実だと思う。振られて、そこまで悲しかったわけでもないはずだ。ではなぜこうも涙が出るのだろう。
自らに向けた幹部の瞳を思い出す。それは確かに木の面に刻まれた動かない印でしかなかったはず。
しかし彼の素顔を知る女には、その奥に潜む真意が見えていた。
殺意だ。自らの願望のために邪魔をする人間を排除するという、イーガの血に刻まれた決意そのものだ。
元恋人としてなんかじゃない。幹部は、王家に向けるのと同じ衝動を、女に向けていた。
涙を拭うこともなく自分の身体を抱きしめる。カタカタと震えが止まらないのは、物資管理班でも、諜報の任務でも感じたことのない生々しい死を、まさに実感したからに他ならない。それを、アジトで向けられた。他でもない彼に。誰にでも好かれ、周囲にも情を惜しみなくふりまく彼に、自分だけは殺意を向けられた。
幹部と件の女団員が、仲良くやっていると風の噂で耳にした。
また鍛錬部屋で仲良く愛を囁いているのだろう。周囲に呆れられながら、幸せそうに。しかし、彼の面を思い出すたび震える女には、もうどうでも良いことである。
「大丈夫です、無理なんてしてませんし、最近は自分でも上達してるって分かって楽しいんです。それに、ダメそうなときはお休みしますよ。子供じゃないですし・・・・・・」
「それはそうなんだが・・・・・・、まぁ休むときは俺から会いに行けば良いしな! それより、今日はこれでおしまいか? 夕餉を一緒に食べよう! いつものところで待ってるな」
「湯浴みをしてから行くので少し待ってもらうかも・・・・・・。先に食べてても良いですからね」
「食べるわけないだろ。お前と一緒に居るためならいつまでも待つぞ! それに、俺も片付けをするから、丁度良い時間になるはずだ。じゃあ名残惜しいが、またあとでな」
「はい、じゃあ、・・・・・・またあとで」
そのやり取りは、イーガの鍛錬部屋において決して珍しいものではない。新人に鍛錬をつける部署の幹部と、その恋人との日常的な会話だ。彼らは、いや主に彼だが、人前で恋人とのやり取りに憚らないし、声がデカいことで有名だった。
またやってらあ、と部下達からは当然のようにスルーされて、もはや空気の如し。最初こそ戸惑っていたシャイな彼女も、次第にそれが常態化していったのだから、慣れとは怖いものである。
ただ、今日この日、初めてその光景を見た女は我が目を疑っていた。彼と彼女が恥ずかしげもなく恋人の会話を繰り広げるのに、胸のざわつきが抑えられず、鍛錬終わりで垂れ流したままの汗を拭きもしないで彼らを凝視した。
どれくらい抑えきれなかったのかといえば、鍛錬後、岩廊下を進む彼女へ思わず声を掛けてしまうほどには。
「ねえ、彼、大変でしょ」
汗を拭いながら静々と歩いていく彼女は、「え?」と立ち止まって振り返る。
このイーガにおいて、全員が全員仮面をつけるのが当たり前なので、よっぽど親しい人間でない限り、即座に目の前の人物が誰かを察することは難しい。しかし、今目の前に居るのは、少なくとも一切の見覚えがない構成員である。
急な問いかけにもだが、知らない人間から話しかけられることに慣れない彼女は、分かりやすく辺りをキョロキョロと見回して困惑した。名前も顔も所属先もお互いに知らない、完全なる初対面だろうに。
女は近づきながら、ふふふと口元に指を宛てがって笑う。その笑みは決して愛想の良さから来たものではないが、警戒で身を強張らせた彼女の緊張を、少し緩めるのには役立ったらしい。
「彼、いつでも明るいのは良いけど、元気すぎるし、圧が凄いし、結構空回りすることも多いでしょ。大変だろうなーと思って」
「えっと・・・・・・彼、というのは」
「あれ、付き合ってるんじゃないの? 鍛錬班の幹部殿と」
今しがた鍛錬をつけてもらっていた相手だ。抜け出てきたばかりの鍛錬部屋を女がチラリと見遣ると、彼女は恐縮そうに肩を縮ませた。初対面の人間に何と答えるべきか、言葉に惑っているのだ。それでも最後には素直に「そうです」と、はにかんだときの上ずり声のまま仮面を俯かせた。
「やっぱり」と返した女は、ゆっくりと歩き出す。追いかける形で彼女も隣に立ち、なんとはなし二人で足を揃えた。
「いいわねー、付き合いだしたのは最近?幹部殿にこんな彼女がいるなんて知らなかった」
「そうですね、つい先日・・・・・・。まだ、あんまり実感はないんですけど」
「へ~。幹部殿ってすごくできる御人だから、貴女が羨ましい! だって彼、人気者でしょ?」
「私にはもったいない人です、本当に・・・・・・。最初は何の冗談かなって、思っちゃって」
「どこで告白したの?すぐOKもらえた?」
「えっと・・・・・・鍛錬をした後に、告白してくれて、それで・・・・・・」
告白、してくれて? 恥ずかしそうに俯きながら、指をこねこねと絡ませる彼女に面白くない気持ちが沸き立ち、唇の端が勝手にヒクついた。それは何者も邪魔しない砂漠に立ったとき、じゃりじゃりとした砂嵐に吹かれ、服の中にまで砂が入り込んできたような感覚に似ている。
その憚らない照れに、きっと幸せな恋人生活を送っているんだろうと女は思った。赤の他人に恥や恋心を開け広げにできるのは、恋人に愛されている人間だけが持つ自惚れがあるからこそだ。
どれだけ彼が勢い良かったか、自分はどれだけ困ったかを控えめに説いてくる彼女の話を「へえ」と聞きながら、女の気持ちは半分、この場に居なかった。半分どころか、完全にいなかったかもしれない。薄く開いた瞼から、彼女ではなく過去の自分を重ねて眺めていたのだ。しかし、過去に浸る余韻は、無理に耳に捻じ込んでくる彼女の声によって掻き消される。遠慮がちだが、はっきりと陶酔が籠った声だ。それは胸中に入り込んだ砂が摩擦で肌を傷つけるように、小さく小さく心の痛覚を刺激していく。
その痛みに耐えきれなくなったとき、女は「私も」と、半ば彼女の言葉をさえぎって口に出していた。
「私も、・・・・・・大変だったんだ。彼と付き合ってたとき」
「え?」と小首を傾げる彼女の顔を見ずに、女は言った。
「私、彼と昔、付き合ってたんだよ。貴女が入団するより、ずっと前に」
言葉を忘れたように、途端に黙り込んだ彼女は、足を緩やかに止める。
その仮面の下に浮かべているのは驚きだけだろうか。きっと急に目の前で、パチンと手を打たれた時のように、目を丸くしているに違いない。
良い気味。ぽっと頭に上った気持ちのままに、女は少しだけ、過去の話を聞かせてやろうと決めた。
──記憶をたどること、数年前の話だ。
イーガ団に入団したばかりの女は、アジト内に保管されている資材を管理する「資材管理班」に所属していた。
外から持ち込まれた物資をそれぞれの保管庫に振り分けたり、流通班や地底班と相談して必要な品数を計算して引き渡したり、時には壊れかけた弓や矢なんかを回収し、補修作業をおこなうこともある部署だ。アジト内で働く内勤としてもっとも武術が必要なく、端的に言えば入ってきたばかりの使えない新人でもなんとかやっていける場所として、物資管理班は有名だった。
そんな部署に配属された女が現在の幹部と知り合ったのは、まさに鍛錬部屋でのこと。弓矢や得物の消耗が激しい鍛錬班へ、必ず日に一度、外から調達された物資を送り届ける日課があった。当時の鍛錬班で末席にいた彼は、物資の受け取り役を担っていた。
業務上で、極たまに喋るだけの顔見知りだったはずの彼から「付き合って欲しい」と言われた女は驚いた。まさか、弓を渡し終えた手首を掴まれて告白されるなんて誰が想像したろうか。それでなくとも、自分は彼のことを、何も詳しく知らないというのに。
ただ、イーガは男所帯で女団員が少なく、入団とほぼ同時期に男団員から声を掛けられるという通例を聞いて知っていた。男団員は良い相手を見つけたら一途にアタックし、すぐさま口説き落とそうとするのだと。この話を明け透けに教えてくれた先達も、新人の頃に声をかけられてそのまま付き合っている恋人がいたものだから、女は咄嗟に「そんなものか」と考えた。
「いいよ、付き合ってあげる」
「ほんとか!?」
物資の配達でいつも早々と応じてくれる彼に対し、女は悪い気を持っていなかった。断る理由がない。それだけで女は彼の告白を受け入れた。
大げさに飛び跳ねて喜ぶ彼の姿がなんとなく大型犬を思わせて、可愛いじゃんと素直に微笑ましく思ったのも事実である。
彼との恋人生活は、付き合い始めた当初こそ楽しかった。
会う度に、彼は女のことを褒めちぎった。今日も正確な時間に来てくれて凄いだとか、髪の毛がつやつやで綺麗だとか。他の鍛錬班員が後ろでじっと見つめる中、大声で次々に褒めてくるから照れ臭かったが、そんなところも最初は可愛いなと思っていた。
ありがと、と一言返して物資を渡し、いつまでも女を見送る彼にヒラヒラ手の平を振って別れるのが日課になっていく。
二人は、ごく普通の、どこにでも居る恋人関係であった。会えば愛の言葉を伝えられて、食堂でご飯を食べれば好物を彼が譲ってくれた。休みの日を合わせてカラカラバザールに出かけ、砂漠名産の果物なんかをお土産に買ってもらってアジトで食べた。
今考えても、悪くない人だったろう。じゃあ付き合い続けられるかといえば、少し違ったというだけで。
物資管理班での働きを認められ、女が諜報班に移動してからというもの、彼とのすれ違いが多くなった。会う時間、考え方、何もかもが一気に変わった。まるでお盆をひっくり返したみたいに。
諜報班といえば、イーガにおいての花形だ。技術を認められた人が諜報に選出される。日々の訓練の成果が、しっかりと評価されたのだ。
その一方で、彼は鍛練班の末端から変わる気配がなかった。出会った当初よりもよっぽど休みを削って、最愛のはずである恋人と会うこともせず鍛練や業務に打ち込んでいたのに、鍛錬班の末席のまま、いつまでも変わらない。
その頃、たまに会って今まで通りに褒めそやされても、素直に喜べなくなっていった。
それに、諜報という新たな舞台を与えられ、知見が広くなった女は上昇志向を強めていた。彼から気持ちが離れていたのは、事実であって誤魔化すつもりもない。
別れよ、と告げたときの彼は、可哀想なくらいがっくりと肩を落とし、面越しにも分かるほどのショックの受けようだった。
そもそも、彼と添い遂げるつもりで告白を受けたつもりはない。
彼の方は分からないが、添い遂げるつもりがあるのなら、外回りが増えて時間に融通の利かなくなった自分に合わせて欲しかったし、いつでもできる鍛錬なんて、少しくらい休んでほしかった。
好きだ、すごい、と単純に繰り返したり、いつも同じカラカラバザールでデートするのではなくて、直属の幹部がしてくれたみたいに、夜空の海辺に連れて行くくらい、して欲しかった。
「・・・・・・だから、大変だろうなー、と思って。猪突猛進っていうか、頑固なところがあるからさ。貴女も気をつけなよ、と思って」
そう締めくくった女は、少し鼻を高く上げながら、静かに聞き入っていた彼女にちらりと視線を落とす。
彼女はといえば、身に着けるイーガの仮面をどんどんと沈めていって、ほとんど後頭部しか見えない格好になっていた。どんよりと影を背負った風に見えるのは、きっとアジトの岩廊下が暗いだけが原因じゃないだろう。その姿に、入り込んだ砂粒が少し、服の隙間から滑り落ちていった気がしたのは確かだ。
ただ、このままでは単なる嫌味な先達になってしまう。イーガの花形部署に身を置く女は抜け目ない。黙り込む彼女の肩をポンと叩いて、「何かあったら相談してね。きっと私の方が詳しいと思うから」と告げた。
嫌味もあるが、それはおそらく事実でもあるだろう。彼が幹部に昇りつめるまでの努力を、女は隣で見て知っている。幹部になった後の彼しか知らない彼女より、自分の方が詳しいに決まっているのだ。
彼女は途端、弾かれたように「ごめんなさい、私はこれで・・・・・・」と小さく断って、顔も上げずに廊下の奥へと走り去っていった。小さく丸まったシルエットは、弓の訓練で見たピッと伸びた背筋と程遠い。廊下の暗がりに身を沈めていくのが様になっている、と女は思った。
話をしている限り、どうやら小心者でシャイな人みたいだ。主が地底を見つけ、人が増え始めたこの時期に入団した若者としてはありがちで、打たれ弱いに違いない。もしかしたら自らの言葉がたがねとなり、人目を憚らず愛し合う彼らに、ひびが入る可能性だってあるだろう。
そうなったら良い、と本気でこの時思ったわけではないが、それでもじゃりじゃりとした気持ちの悪さは無くなるに違いないと、女は確信を持っていた。
彼女が消えていった廊下の先に、ふぅとため息を零し、踵を返す。湯浴みをして、今日はもう寝るとしよう。この時の女はまだ、ひとつのゲームに興じるような感覚で、二人の関係に首を突っ込んだだけだった。
■
彼女との初対面を迎えた日から数日後。
任務の合間に鍛錬部屋へやってきた女は、部屋に入る直前、異質な空気を感じ取ってたじろいだ。何か一枚布でも覆いかぶさっているのかと思うほど、部屋の中が明らかにどんよりと曇っている。
そもそもイーガのアジトは窓もなく、最低限の提灯しか明かりが灯っていないため、輝かしく明るい場所など存在しない。しかし、輪をかけて肩が重くなるような空気の澱みを感じるのは何故だ。と思ったが、答えはすぐに視界の中に入ってきた。
鍛錬班を取り仕切る幹部に生気がない。いつもなら耳にうるさいくらいの大声で「よく来たな!」と、訪れた団員を一人ひとり出迎えて鬱陶し気にされるのに、部屋の隅、彼は壁に凭れかかるように脱力したままだった。菌類でも撒けばそのままキノコでも生えそうな時化た雰囲気。さながら廃墟で打ち捨てられた置物のよう。
彼という個人を考えてもあの状態は目を疑うし、鍛錬班の幹部役という意味でも、少々あり得ない状態だろう。確かに今は鍛錬業務に入る前の自由時間だが、しかしやる気を擬人化したような普段の姿を知っている団員からしてみれば、異常事態の何者でもない。
歴の長い団員から「幹部の癖になんたるはしたなさ!」と叱責されてもおかしくない姿だが、純粋に「何があったの・・・・・・?」と心配される人徳が彼にはあった。鍛錬部屋を訪れる団員は皆が皆、ギョッとしたように部屋の隅でいじける彼を凝視し、事情を知る鍛錬班の団員に理由を聞こうと手壁を作っている。
女も例に漏れず、手ごろな団員を捕まえて耳打ちしてもらった。すると、どうやら最近お付き合いに至った彼女から、別れ話が持ち上がっているということだ。
彼が即座に拒否したことで話は無くなったものの、なんとなくギクシャクした空気が続いているようで、いまいち幹部も鍛錬に身が入らないのだとか。
ワケを話してくれた団員に「なるほど」と返しながら、女はそわついてくる胸の内を感じ取っていた。人目が無ければちょっとしたガッツポーズでもしたかもしれない。それくらい、ワクワクしてしまった。
これは間違いなく、女が彼女に打ったたがねがきっかけになっている。少し意地悪するだけのつもりだったが、このまま破局、という可能性も? 彼と本気でヨリを戻そうと考えていたわけではなかったが、そんな可能性も?
「幹部殿!鍛錬の時間です!」と、部下からの呼びかけに、彼が凭れていた壁からのっそりと身を正す。
鍛錬部屋に集まった団員の前に立つ彼は、ぴっしりした立ち姿をして見せた。・・・・・・はずなのに、なぜこうもどんよりと影を背負ったように感じるのか。結局それは、幹部からにじみ出る負のオーラがそうさせているのに違いないが。
とはいえ、オンとオフの切り替えはしっかりできる人なので、さすがに鍛錬中の姿はいつも通りの凛々しい姿を見せている。てきぱきとした指示に、そつのない指導。何が足りないか、何を意識するべきなのかを見抜き、過不足なしで伝える言葉の正確さ。その堂々とした姿には、幹部役の中ではまだ若くて経験も浅いはずなのに、誰もが憧れと羨望を込めて「はい!」と元気よく彼を見る。
やっぱりいいな、と女は鍛錬中の彼の仮面を見ながら思った。誰よりも真面目に業務に取り組み、前向きな言葉で周囲を鼓舞していく姿、太くたくましく育った腕や胸。時折覗かせる大型犬のような無邪気さも、弓の弦を引きながらついつい一緒に過ごした思い出を起こさせる。
彼とヨリを戻すつもりはない。戻すつもりはなかった。だが、このまま誰かの物にもなって欲しくない。誰かの物になるのなら、それは私であって欲しい。もう一度、私の物になって欲しい。そんな突然の願望が頭をもたげていく。
「お疲れ様です」
鍛錬の終わりに、女は堪らず声を掛けていた。
幹部役として、監督をするだけで良いはずの彼は、いつも団員に混ざって鍛錬をおこなっているのだろうか。フードの下に隠れた装束をグイッと伸ばし、晒した首元の地肌に手扇をする彼は、酷く汗まみれで暑そうだ。
壁際に置かれた木箱に座り、鍛錬を終えて部屋から出て行く団員たちをぼうっと眺めていた彼は、女に一瞥をくれ、「おう、お疲れ」とだけ返す。
どうやら女が誰だか分かっていないらしい。心ここにあらず、という風だから、女はしびれを切らして、幹部の視界を遮るように前へ躍り出た。
「私だよ、覚えてる?昔、物資管理班にいたときに君と知り合って、その後、諜報に移った・・・・・・」
そこまで言うと、幹部はハタ、と手扇を止めて、女をまじまじと見つめた。それでもいまいち要領を得ずに首を傾げられたので、女はしょうがなく仮面を取る。
「覚えてないの?」と苦笑いすると、幹部はそこでやっと思い出したように「あ」と声をあげた。さすがに付き合った元恋人の顔を忘れたと言われたら、彼が幹部でも、頭の容量を疑ってしまうところである。
女は彼に、満面の笑みを向けた。
「忘れられてたらどうしようかと思った!君が幹部役になってから初めて話すね、元気にしてたかな」
「あぁ・・・・・・。まぁ、元気だな。そっちは」
「元気だよ。あのときから随分変わってたからびっくりしちゃった。もうすっかり幹部役が板についてるね!すっごく頼もしい感じ!」
誉めそやすと、彼はどこか落ち着かない様子で「ありがとうな」と頭を掻いた。きっと照れてるんだ。女はなおも続けた。
「弓も刀も、ずっと頑張ってたもんね。強くなって当然だし、幹部に昇進できたのも当然だなって思うよ!本当は昇進したときにおめでとうって言えれば良かったんだけど・・・・・・遅くなっちゃったね、本当におめでとう」
「あの当時は、忙しそうだったから、仕方ないんじゃないか」
「でも、言えなかったのは事実だから」
仮面があるから本当のところは判別がつかないが、幹部はそっぽを向いたままである。ずっと鍛錬部屋の戸口を見たまま、上の空という風だ。女の話を聞いているようで、その実、聞いていないような。
他に何を気にすることがあるというんだろう。このまま二人で話を続けたかった女は、彼が腰かけていた木箱に座ろうとする。気の利く彼なら、お尻を少しずらして、スペースを空けてくれると確信があった。
しかし女が腰かけようとした瞬間に、幹部は呼応するようにパッと立ち上がった。刀と鞘が違うことに気付かず、入りそうで入らないことにイライラするみたいに、もやもやとした燻りが胸の内にじわっと染み出してくる。
私が言いたいこと、やりたいこと、彼なら分かってるはずなのに。そしてそっちの方が彼にとって、悪いことではないって、予感があるだろうに。歪みそうになる口角を必死に吊り上げて、女は穏やかな微笑みを作る。
「ねえ、これからまた、ここに通っても良いかな。諜報任務の合間に、貴方に会いたい。昔みたいにさ」
「通うのは好きにしたら良い。でも俺に会いたいってのはやめてくれ。そこまでの時間は無いから」
「そんな事言わないでよ、友達で良いから、またやり直したいな」
「・・・・・・ああ、そういうことか。なら余計に無理だ。他を当たってくれないか、俺にはもう大切な人がいる」
「大切にしたいって、内勤っぽい構成員の子でしょ? 弓の下手な」
完全に背中を向けて、面倒くさそうに腰に手を当てていた幹部がぴくりと身じろぐ。
やっとこっちを見てくれたのが分かって、「やっぱり」と女は前のめりになった。
「この前見たんだ。貴方って声が大きいからすぐに分かっちゃった。でも珍しいね、結構地味系だし、貴方の趣味と違う気がして」
「彼女の芯の強いところが好きなんだ。慎ましいところも全部」
「ふーん。でも彼女は負担になってそうだったけどなぁ。控えめな人っぽいから、貴方とのお付き合いは荷が重いこともあるんじゃない?」
「待ってくれ。話したのか、彼女と。なんの話を?」
「ちょっとだけね? 貴方のこと、元気で大変って言ってたから、変わってないんだなって笑っちゃった。私と付き合ってるときと同じだなーって」
「・・・・・・」
「彼女、貴方の圧の強さに困ってたよー。でも付き合うなら、自分のこと理解してくれる子じゃないと貴方もツラいでしょ。私だったらそんなことないのにな」
この頃、幹部は完全に女の方へと身体を向けていて、その言葉に聞き入っている風だった。
真剣に耳を傾けているのがよく分かって、それだけでも胸の内側から、何かが膨らんでくるみたいに女は高揚していた。
もしかしたら本当に、エリートで人気者の彼と、ヨリを戻せるかもしれない。別れた当時、唯一足りなかったものを満たした彼と、また。
想像してしまった。鍛錬班で団員を導く彼の横にいる自分を。このまま、ヨリを戻そうと言ってみようか。言葉にして直接伝えれば、少しは本気で考えてくれるかもしれない。
言っちゃう?言っちゃおうか。
現実味を帯びた妄想が今まさに口をついて出ようとして、その前に一回ごくりと唾を飲み込む。急に喉が乾燥して発声できなかったのを潤したかった。
動かず、喋らず、じっとイーガの仮面を向け続ける彼に、女は身を乗り出して「ねえ」と興奮を紡ぐ。
「私たち」
「俺たちに二度と近づかないでくれ」
低くて、はっきりとした彼の声が、女の上ずり声に被さった。
滲むのは怒気。え、としか返せない女に、幹部が音もなく近寄る。椅子に座ったまま動かなかった女を、幹部は見下ろした。
照明の逆光を背負って、深穴を思わせるほど陰ったイーガの瞳が、女にその恨みや失望を向けてくる。
「彼女との間を邪魔してみろ。俺は一生、お前を許さない」
ひゅ、と血の気が一度に下がった。
深穴の底から這い出てきたような声。血による全ての体温が、身体の末端という末端から一度に無くなっていく。刃を心臓に突き刺されたんだと錯覚するほど、その言葉は冷たく、鋭い。
動けない。当然だ。女は今、彼の言葉で心臓を刺されて絶命した。体の中の筋肉が固まって、血液が滴って無くなり、氷のように冷たくなって。これで動けという方が無理なのだ。
だから、幹部が踵を返して去っていく姿に、何も言えない。追いかけられない。視神経が引っ張られていると勘違いするくらい瞼を開き、口も閉じられなかった。乾燥で目が痛くなってきたとき、初めて彼女はまだ生きてると自覚した。
動けなかったのが、ただ恐怖に竦んだだけだと実感できたのは、彼が完全に鍛錬部屋から去っていった後のこと。
鍛錬部屋を取り仕切る幹部すらいなくなったこの部屋に残るのは、自らの面目を潰したばかりの女だけだった。
最初に動いたと思ったのは、鼻の頭だった。
じん、とマチ針でも刺さったみたいな痛みが、目の周りにまで広がった。じわじわと眼球の奥から染み出してきたのは涙というやつで、女自身は微動だにしていないのに、それは次々溢れてほたほたと首元の装束に滴っていった。
振られた。本気でヨリを戻したかったわけじゃない、と自らに言い聞かせる。それは確かに事実だと思う。振られて、そこまで悲しかったわけでもないはずだ。ではなぜこうも涙が出るのだろう。
自らに向けた幹部の瞳を思い出す。それは確かに木の面に刻まれた動かない印でしかなかったはず。
しかし彼の素顔を知る女には、その奥に潜む真意が見えていた。
殺意だ。自らの願望のために邪魔をする人間を排除するという、イーガの血に刻まれた決意そのものだ。
元恋人としてなんかじゃない。幹部は、王家に向けるのと同じ衝動を、女に向けていた。
涙を拭うこともなく自分の身体を抱きしめる。カタカタと震えが止まらないのは、物資管理班でも、諜報の任務でも感じたことのない生々しい死を、まさに実感したからに他ならない。それを、アジトで向けられた。他でもない彼に。誰にでも好かれ、周囲にも情を惜しみなくふりまく彼に、自分だけは殺意を向けられた。
幹部と件の女団員が、仲良くやっていると風の噂で耳にした。
また鍛錬部屋で仲良く愛を囁いているのだろう。周囲に呆れられながら、幸せそうに。しかし、彼の面を思い出すたび震える女には、もうどうでも良いことである。