【ss】ティアキン・鍛錬班幹部の夢
彼らが奮った拳には、明確に目的がある。
打倒彼女持ち。打倒家庭持ち。そんな気概で鍛錬部屋に集められたイーガの男団員は合計で10を超す。全てが独身、全てが独り身。もちろん、恋人もいなければ、良い仲の異性もいない、正真正銘の寂しい男共である。
平生より鍛錬を欠かさない彼らだが、独り身がこの部屋に選り集まったのにはわけがあった。単純なこと、今日のこの日が、恋人と過ごす行事として名高い、にっくきクリスマスだったからである。
クリスマスは元々、ハイラルの地を創りあげたと言われる女神ハイリアの生誕を祝う祭りであった。それがいつしか大切な人と過ごす行事に代わり、恋人と過ごす行事の代名詞とまで呼ばれるようになっている。ハイリアの血を継ぐ王家に迫害された歴史を持つイーガにまで定着しているのだから、その浸透力はお察しのこと。
主君の手前、「俺たちクリスマスなんて興味ないっすよ」と断っている団員は多いものの、その実、業務が終われば皆一様に恋人と共に夜を過ごす算段をつけているのだから、彼らも抜け目ない。
であるからして、鍛錬部屋に集められた独身団員が打倒彼女持ちを掲げるのは、理屈を考えればイーガの目的に適っているともいえる。
大切な人と過ごすクリスマス。元はといえば王家に繋がる女神の生誕祭なのだ。寂しい独身男共が鬼気迫る顔で拳を振るうのは、彼女持ちが憎いのではなく、その先に王家への義憤や女神への反骨心を抱いているからこそである。
「一人の夜に打ち勝てッ!あと10本!」
腕立て伏せを修羅の如き勢いで続ける男共に混ざり、部屋の中央で声を張り上げる男は、イーガにおいて鍛錬班を任されている幹部役だった。
彼こそこの独身集団の引率者。ツラく厳しくストイックに十数名の団員に鍛錬をつけ、上手くいかない毎日への鬱憤を晴らさせている。その実、彼女持ちへの怨嗟に巻き込まれた被害者の一人でもある。
幹部役といえば、一人残らずイーガのエリートとして女団員から注目される存在だ。彼も同じくそうであるし、実際に現在に至るまでそれなりに愛の告白をされた経験があり、男女問わず多くの団員に慕われている。幹部役とは思えないほどの親しみやすさに加え、前向きで実直、さっぱりとした性格も、周囲から愛される大きな一因であるだろう。
常に人から囲まれている太陽のような男だが、それでも今回、鬱屈とした独り身団員らのカリスマに仕立て上げられたのには立派な理由がある。何を隠そう、恋心を寄せる一人の女団員にフラレ続けているのだ。
決まった時間にやってくるその女団員の存在は、鍛錬班の部下の間でも有名である。なにせ彼女が鍛錬部屋に訪れた際には、決まって彼が告白と紛うほど愛の籠った挨拶をする。その度「やめてください」と逃げられ玉砕する幹部の姿は、もはや鍛錬班の日常となっていた。
その見事なフラれっぷりは、部下が同情を禁じ得ないほど。クリスマス独り身鍛錬会の引率者を頼まれるくらいには、彼の恋愛は上手くいっていない。
「まだまだいくぞ!!次は組手え!!」
幹部が声をあげると同時に、それまでぜえぜえ言いながら腕をプルプルさせていた団員たちが立ち上がる。続け様、生まれたての小鹿のような足取りで次々に幹部へ襲い掛かるものの、未だに有り余るやる気を持つ幹部の相手ではない。
端から彼の太い腕によって投げ飛ばされ、鍛錬部屋に汗まみれの男共が、さながら絨毯のように広がった。いや、こんな汚らしい絨毯も無いか。
数時間に渡る鍛錬によって、独り身団員の会合はたけなわを迎えている。全員が地に伏し動かなくなったところで、幹部は漸く仁王立ちになって、彼らの惨状をゆっくりと見渡した。
「これくらいで良いだろう。各員、あとはゆっくり過ごせよ、俺たちは独り身とはいえ、仲間がいる。これを機に友情を育め!同志の絆は、打倒王家に必ず通ずるだろう!」
「は、はい・・・・・・打倒、王家ぇ・・・・・・」
「全てはコーガ様のために!よし、一本締めするぞ!」
掛け声とともに、幹部は腕を開く。一人元気を持て余した彼の威勢に鼓舞されて、倒れこんでいた団員たちはよろよろと居直り、その腕に倣った。
「ちなみに俺はこの後も鍛錬を続ける。同じく志のある者は残ると良い。共に高みへ上ろう!」
その途端、疲労を濃く滲ませた団員の間に、ざっと微かな緊張が走る。今の今までだらしなくへとへとだった顔色が一瞬にして強張ったのに気付かず、幹部は「よー!」と声を張り上げながらパンッと手を打った。一本締め。並びに解散の合図である。
一斉に立ち上がった団員たちは、鍛錬場からぞろぞろと連なって出て行く。疲労を押し出した顔つきに滲むのは、長時間に及ぶ鍛錬をやりきった晴れやかさだ。彼女持ちがどこかでイチャイチャ遊んでいる正に今このとき、彼らはストイックに自らの肉体を苛め抜いた。それは最終的に、強さと精神力に繋がるはず。そして、モテに繋っていくはず・・・・・・繋がって欲しい。
見てろよ今にモテモテになってお前らよりも可愛い彼女作ってやるからなと、見えない敵への宣戦布告を果たしたようなものなのだ。これで晴れやかにならずして、いつ晴れやかになるというのか。
それになにより、あとは湯浴みで汗を流して、酒でも飲んで、最後に糞して寝ればクリスマスとかいう憎い行事は終わりを告げ、向こう一年は安心して生活できるようになる。一本締めは、年末の大イベント終了の合図も同然だった。
「今年もやりきったな」「ああ、これがあると年末って感じがするぜ」「この後どうする」「酒でも飲むか、付き合えよ」「一杯だけだぞ~」「ばかいえお前が一杯で終わるわけないだろ」「それもそうだな、じゃあ二杯、いや三杯・・・・・・」
ワハハハ・・・・・・ハハハハ・・・・・・ハハハ・・・・・・
達成感に満ちた喧騒が去る。場に残ったのは、独身男のカリスマに仕立て上げられた被害者だけである。
まさか一人も残らないとは思っていなかった。独り身のクリスマスとはいえ、ここまで孤独を感じることもない。
「誰も・・・・・・いないのか」
ぽつんと呟いたのは状況確認。加えて、誰かにこの声が届いて欲しいと願った故だ。
しかし声は、アジトを形作る岩壁にすら反響せず、砂まみれの地面に吸収されたように立ち消えた。
俺は確かに、この後も鍛錬を続けると言ったよな。一緒に高みへ上ろうと誘ったよなと、彼の頭の中では先ほどの発言がぐるぐると回っている。
もしかして聞こえなかったとか。いや、自分の声が割と大き目なのは承知している。「うるさい」と言われたことはあれど、「ごめん聞こえなかった」なんて聞き返されたことなど今まで記憶にない。
正直、これほどの孤独感にさいなまれた状態で、改めて刀を振ろうとは思えなかった。
さっき口走ってしまったのは、まさに自分が部下に囲まれていて、ツラく長い鍛錬を越えた高揚感があったからこそ。いわばランナーズハイというやつだ。今は広い鍛錬場にたった一人残された現実と、クリスマスに男だけで何やってたんだ俺はという後悔と、パツパツにパンプアップした筋肉と、汗臭い身体に苛まれている。
ただ、「俺はこの後も鍛錬を続ける」といった手前、このまますごすごと寝床に引き上げることはできなかった。口走ったばかりの言葉に背くのは、自分の生き方そのものに背くような気がして仕方ない。
「・・・・・・素振りでもするか」
こういうとき、誰が聞いているわけでもないのに、独り言を口走ってしまうのはどうしてなのか。
静寂の居たたまれなさに身を焼きながら、得物のかかった壁際に視線を送る。鍛錬中は何度も端から端までダッシュした距離だが、今はそれが強烈に遠い。さっきまで心地良いとさえ思っていた疲労感が、まるっきり米俵にでも変わったように重く感じられる。
腰に手を当て項垂れて、「は~」と深く後悔を吐きだした。普段、何事にも前向きな彼がこうまで自らの行いを反省することも珍しい。行くか・・・・・・と、仮面越しに頬をぱしっと軽く叩いてやる気を起こし、それでも心は後ろ向きのまま、のろのろと得物に向かう。
と、その時だった。かたん、と、鍛錬場の戸口で物音がした。音につられてパッと顔を上げると、廊下の奥に人の影。はっきりとしないが、彼には確かに、身じろぐそれが見えた気がした。
「戻ってきてくれたのか!俺もさすがに一人じゃ少し寂しくて、どうしようかと・・・・・・」
米俵も疲労感も感じさせない軽やかな足取りで、すぐさま戸口の先を覗き込んだ。やはり彼の見間違いでなく、薄暗い廊下には一人の構成員がいた。
しかしどうも、想像より随分、上背が低い。そこにあるはずだろう仮面が無くて、あれと訝しがりながら下に視線をずらす。目に飛び込んできたのは、枝垂れる艶やかな黒髪に反射する行燈の光。続けて、この場に似つかわしくない甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐって、訝しさが確信へと変わる。
「・・・・・・こんばんは」
そこにいたのは汗臭い独り身男などではない。幹部が上手くいかないと思い悩む恋の相手、件の女団員が立っていた。
「あ、え、なぜ、ここに」サンケゴイのように口をパクパクとさせて、紡げたのは狼狽の塊。なにせ、今の今まで打倒彼女持ち、ひいては上手くいかない恋そのものに対して拳を掲げていた。仮面があって助かった。こんな後ろめたい阿呆面を晒してしまえば、きっと余計に愛想をつかされるに違いない。
もっとも、奥ゆかしくも俯いたままの彼女には、彼が面をつけていようがいまいが、その阿呆面には気付けなかったろう。幹部の狼狽をつむじで受け止め、女は「えっと」と更に仮面を逸らす。
「皆さんで、先ほどまで鍛錬をしていましたよね。終えられたようだったので、丁度良いかと思って」
「あ、あぁ。確かに今、終わったところだ。丁度良いって何が・・・・・・」
「その、えっと・・・・・・、贈り物を、したくて」
「・・・・・・贈り物?」
「今日、クリスマス、なので」
幹部が愛の言葉を伝えればすぐさま逃げてみせる彼女は、誰がどう見ても照れ屋である。笑う時は仮面があるにもかかわらず口元に手を当て、真正面から見つめれば露骨に面を反らす。両手で顔を覆いながら逃げていく様は最近の日課になっているほどの、彼女がだ。
クリスマスの贈り物を準備してくれた。あれだけ上手くいっていないと思っていた恋の相手から、プレゼントをもらえる?そんな夢物語、思春期の少年少女以外に誰が考えるだろうか。自分のために、プレゼントを準備してくれる、なんて。
小さく縮まった細い肩を無意識に抱きしめようとして、寸でのところで諫めることができたのは、それこそ発達させた筋力によるものである。指の関節一本一本にまで力をいれて筋繊維を緊張させれば、湧き上がる本能という衝動との合戦にも引け劣らない。
一方、頭の中ではワーワーと筋肉VS本能の図を思い描き、目の前で可愛らしく縮こまって、衝動をなお焚きつける彼女を一旦頭の外へ追いやった。じゃないと本当に、筋肉が本能に負けてしまう。
腕を戦慄かせながら本能に抗う幹部を余所に、後ろ手に持っていた贈り物を、女がおもむろに差し出してきた。
小さな両手におさまっていたのは、赤い布が被せられた網籠。十字に巻かれた緑の裂き布は中央で蝶々結びになっており、素朴な印象こそあるが、確かに贈り物の体をなしている。
バクン、バクン、と、大きく打ち鳴り始めた心臓の鼓動をはっきりと感じながら、幹部は恐る恐る両手で、それを下から包みこむように受け取った。
「お世話になっているので、なにか渡したくて・・・・・・。クッキーを焼いたんです、お口に合うと良いんですが」
言い訳めいたセリフは、照れ屋な彼女にしては、やけにはきはきしている。とはいえ、今の幹部には普段との差異なんて気付けるわけもない。
それまで抱えられていただろう網籠に彼女の体温が移っていたことだとか、手の平に乗せられた時点で甘く香ばしい匂いが強まったことだとか、他のお世話になっている団員にも同じものを渡しているのだろうかとか、考えたことと、言うべきことがゴチャゴチャに混ざりあう。整頓しようにも、身体を震わせるほど大きくなった鼓動の振動が邪魔をして、落ち着いて考えをまとめることができなかったのだ。
固まったまま身動きひとつしないままでいると、彼女にぺこりと頭を下げられた。
「お忙しいところお邪魔しました、それでは、私はこれで・・・・・・」
「ちょッ、ちょっと待ってくれ!お、俺もなにか・・・・・・!」
「いえ、良いんです!私の勝手でやったことなので、幹部殿はお気になさらずに」
せっかく彼女に会えたのにこのままでは行ってしまう。踵を返そうとした彼女を慌てて引き留めるため、身体のあちこちを弄るが、今まさに鍛錬をおこなっていた男の身に贈り物に相応しいものが仕込まれているわけもない。彼女も恐縮そうに手の平を振るが、幹部としてはそういう問題ではないのだ。
行って欲しくない。でも何もない。このままでは行ってしまう。どうする?
「い、一緒に食べないか!?少し話もしたいし!」
思わず、彼女の手の平を掴んでズイ、と迫った。
惚れた女には積極的でも、なるべく紳士的な態度を心がけていた幹部にとって一か八かの行動だった。付き合ってもいない女の身体に、鍛錬や業務でもないのに触れる。それも、多くの団員が寝所で過ごす夜半に。
贈り物を受け取った時と同じく、心臓の鼓動はばくん、ばくんと騒がしくなった。掴んだ手の平から振動が伝わってしまうのではないかと思ったほどだ。ただ、だからといって今更離すことはできない。今日はもう会うことも出来ないと思っていた彼女が、向こうからやってきてくれたのだ。このチャンスを逃してなるものか。
いつもの彼女なら、きっと目の前に迫る幹部を「近いですッ」と手の平で押し戻したことだろう。ただ今日は聖夜で、彼女にも特別な一日だったのかもしれない。
最初、戸惑ったように幹部の面を見返すだけだった彼女から、暫くして「す」と空気の漏れる音が聞こえた。
「少し、なら」
「・・・・・・良かった・・・・・・!」
この日ほど浮かれたのはいつぶりだろうか。幹部は仮面の下で満面の笑みを浮かべ、露骨に面を反らす彼女を鍛錬部屋の奥へと誘った。
積まれた木箱の上に、少し距離を空け、隣り合って座る。いつもは鍛錬をつけるときの刹那、立ったまま喋るだけだったから、二人で落ち着いて話をするのだって、これが初めてだ。
この広い鍛錬場の中で、最愛の思い人と二人きりでいる。さっきまで孤独感を増大させるばかりだった冷たい岩壁が、途端に自分たち二人を何者にも邪魔させないガードマンに思えてくるから不思議なものである。
「・・・・・・これは・・・・・・」
ゆっくりと蝶々結びを解き、被せられた赤い布を捲ると、網籠に整列していたのは丸い焼き菓子だった。
素朴な見た目ではあるがどれも一様に同じ大きさで、隙間なく詰め込まれた様子は、彼女の丁寧な性格を思わせる。
だからアジトに似つかわしくない甘くて香ばしい匂いがしていたのかと、焼き菓子に精通していない彼はそこで初めて思い至った。
「味見もしたので、不味くは無いと思うんですけど・・・・・・あまり作り慣れないので、口に合わなかったらごめんなさい」
すかさず彼女の声が耳をくすぐっていくが、この時の幹部は仮面の下で唇を噛み、どうにか緩む表情筋に耐えることしかできなかった。
なにせ、初めて彼女から貰った贈り物だ。もちろん、一緒に食べようと言った手前、すぐさまつまんで食べてみせるのが最良であろう。
しかし、ここへきて食べるのがもったいない。やっぱり食べない、なんて選択肢は無いわけだが、まずこの整列されたクッキーを一枚取り除くのが惜しく思える。きっと詰め込むときだって最善の注意を払ったはずだ。大雑把な自分ではこうはできないし、どこから摘めば彼女の丁寧な仕事を最も損なわなくて済むのか分からない。どうする?
面があるからといって眉間の皺に憚らず悩んでいれば、「・・・・・・お嫌いでしたか?」と、彼女に顔を覗き込まれ、刹那に「そんなわけない!」と勢いよく返した。悩んでいれば彼女を勘違いさせてしまう。結局、端っこから慎重に摘みとることにした。
目の高さまで持ち上げてまじまじと見つめれば、やはり彼女の仕事ぶりにうっとりとした。少し歪ではあるものの、黄金色の丸い焼き菓子は素朴そのもので、彼女を模したような慎ましさ。香ばしい匂いに混ざった甘いバターの香りは、普段焼き菓子など一切嗜まない幹部の口中に、じわりと涎を染み出させる。
鍛錬終わりのすきっ腹が催促するようにギュウ、と音を鳴らすので、思わず手で押さえると、彼女にくすくす笑われた。食べるのはもったいないが、腹の様子を考えたって、食べない選択肢はない。仮面を少しずり上げ、焼き菓子を小さく齧った。
ほろ、と柔らかく崩れたクッキーは、咀嚼をする度に唾液と混ざって滑らかになっていく。優しい甘さで、鼻を抜けるバターのコク深い香りが、肉ばかりを好む彼には新鮮だった。解けていくような食感が楽しくて、齧った残りのクッキーを口に放り込み、また香ばしい甘さに浸る。
「・・・・・・どうですか?」
立て続けに2枚3枚と無言で食べたところで彼女の心配そうな声を聞き、幹部ははっとなって下唇を噛んだ。
不躾なところを見せた。「ん、んん」と一度咳ばらいをするが、もう今更かもしれない。
「美味い!俺はクッキーを初めて食べたんだが、こんなに美味いものだとは知らなかった!
「本当に?幹部殿が甘いものを召し上がるかどうかわからなくて、心配だったんです」
「普段はあまり食べる機会はないが、お前のだったら何でも食べるぞ。嫌いなものでも、なんでも!」
「嫌いなものをわざわざ渡すつもりはありませんが・・・・・・。でもお口に合って本当に良かった」
彼女もそれまで緊張していたのだろうか。花が綻んだように柔らかくなった声色に、幹部の胸も、春のような日差しで照らされた気がした。
自分ばかりが焼き菓子を食べ、彼女をそのままにするわけにはいかない。「ほら、一緒に食べよう」と網籠を差し出すと、膝上に手の平を添えたまま微動だにしなかった彼女も、ついで「じゃあ・・・・・・」と一つ焼き菓子をつまんでいく。
仮面をずらし、おもむろに晒される彼女の素肌。焼き菓子を食べるのだから、よく考えなくても当たり前である。
しかし、結局目の前のことにいっぱいいっぱいとなっていた彼にとって、その白雪のような素肌に佇む血色の良い唇は、視線を奪って仕方ない魔性となった。
焼き菓子を迎え入れるために控えめに開けられた口元。小さな焼き菓子にかぷっと齧りつき、指先で隠しながら咀嚼するその品の良さ。
3枚でも5枚でも一口にできる自分とは違う。輪郭を露わにしたまま咀嚼を続ける彼女から、目が離せない。ほろりと崩れた粉をぺろ、と舐めとる仕草は、むしろ筋肉と本能で戦争してほしいんじゃないかと思わせる。それでなくとも、既に静謐となったこの部屋には、自分と彼女の二人だけなのに。
いや、邪なことを考えるべきではない。ここは神聖な鍛錬部屋であって、本来男女の逢瀬に使うべき場所では無いのだ。今は一時、借りているだけで。
「・・・・・・そんなに見られては困ります」
悶々と頭を働かせる最中、彼女から視線を外さずにいれば、むっと口元が山なりに変わる。文句を言われても当然というもので、無遠慮な視線は配慮に欠けていた。幹部は「すまん」と手を慌てさせる。
「いや、焼き菓子の粉が、零れてるから・・・・・・!」
「わ、本当ですね。恥ずかしい・・・・・・でも、幹部殿も」
首元に落ちた粉をパッパッと払った彼女が、幹部の首元にも指をさす。このとき、幹部役に支給されるフードの内側に粉が付着していたわけだが、いまいち場所が分からない。
見当外れな場所をはたいてフードの中に落ちようとするところ、「私が」と言いながら彼女が幹部の真正面に立った。
「失礼しますね」と断りながらもフードを少し伸ばして、粉をはたいていく。それは良い。良いのだが、幹部にとってはそればかりでは済まない。
これ以上ないほど、彼女が近い。それも、仮面はずらしたまま、素の口元がすぐ傍にある。吐息の音さえ聞こえそうだった。また、バクンバクンとなり始める心臓の音を、彼女にも聞かれそうだった。このまま捕まえて、胸板に閉じ込めれば、吐息の音も、心臓の音も、全てを共有できるのだろうか。抱きしめたい。抱きしめてしまいたい。もう筋肉なんか、負けで良いから。
「取れたと思います。少し崩れやすいのが難点ですね・・・・・・バターが多すぎちゃったみたいで」
掃除に徹していた彼女が身体を離し、顔を上げる。そして、その場の状況を視界にいれて、首を傾げた。
「・・・・・・どうなさったんですか?」
「いや、なにも・・・・・・」
首が痛くなるほど天井を見上げた大男。両の手を身体の横で握り、下唇を噛み締めているのは何故なのか。
筋肉は、本能に勝利した。彼女には、不可思議そうに首を捻られた。
・・・・・・決して恋仲などではない。良い仲になっているとも言い難い。それでも確かな恋心を胸に抱く男と、それを承知で贈り物を渡した女の夜は更けていく。
ああ、明日からまたどれだけ避けられようが、彼女への告白を続けられる。彼が彼女を諦めずに想い続けるのに、今日の出来事は充分すぎるほどの贈り物となったのだ。
しかし、そうはいっても浮かれは禁物である。後日にクリスマスの一夜が独り身集会の団員に露見され、白い目を向けられることになるのだが、それはまた別のお話。
これからの二人に、メリークリスマス。
打倒彼女持ち。打倒家庭持ち。そんな気概で鍛錬部屋に集められたイーガの男団員は合計で10を超す。全てが独身、全てが独り身。もちろん、恋人もいなければ、良い仲の異性もいない、正真正銘の寂しい男共である。
平生より鍛錬を欠かさない彼らだが、独り身がこの部屋に選り集まったのにはわけがあった。単純なこと、今日のこの日が、恋人と過ごす行事として名高い、にっくきクリスマスだったからである。
クリスマスは元々、ハイラルの地を創りあげたと言われる女神ハイリアの生誕を祝う祭りであった。それがいつしか大切な人と過ごす行事に代わり、恋人と過ごす行事の代名詞とまで呼ばれるようになっている。ハイリアの血を継ぐ王家に迫害された歴史を持つイーガにまで定着しているのだから、その浸透力はお察しのこと。
主君の手前、「俺たちクリスマスなんて興味ないっすよ」と断っている団員は多いものの、その実、業務が終われば皆一様に恋人と共に夜を過ごす算段をつけているのだから、彼らも抜け目ない。
であるからして、鍛錬部屋に集められた独身団員が打倒彼女持ちを掲げるのは、理屈を考えればイーガの目的に適っているともいえる。
大切な人と過ごすクリスマス。元はといえば王家に繋がる女神の生誕祭なのだ。寂しい独身男共が鬼気迫る顔で拳を振るうのは、彼女持ちが憎いのではなく、その先に王家への義憤や女神への反骨心を抱いているからこそである。
「一人の夜に打ち勝てッ!あと10本!」
腕立て伏せを修羅の如き勢いで続ける男共に混ざり、部屋の中央で声を張り上げる男は、イーガにおいて鍛錬班を任されている幹部役だった。
彼こそこの独身集団の引率者。ツラく厳しくストイックに十数名の団員に鍛錬をつけ、上手くいかない毎日への鬱憤を晴らさせている。その実、彼女持ちへの怨嗟に巻き込まれた被害者の一人でもある。
幹部役といえば、一人残らずイーガのエリートとして女団員から注目される存在だ。彼も同じくそうであるし、実際に現在に至るまでそれなりに愛の告白をされた経験があり、男女問わず多くの団員に慕われている。幹部役とは思えないほどの親しみやすさに加え、前向きで実直、さっぱりとした性格も、周囲から愛される大きな一因であるだろう。
常に人から囲まれている太陽のような男だが、それでも今回、鬱屈とした独り身団員らのカリスマに仕立て上げられたのには立派な理由がある。何を隠そう、恋心を寄せる一人の女団員にフラレ続けているのだ。
決まった時間にやってくるその女団員の存在は、鍛錬班の部下の間でも有名である。なにせ彼女が鍛錬部屋に訪れた際には、決まって彼が告白と紛うほど愛の籠った挨拶をする。その度「やめてください」と逃げられ玉砕する幹部の姿は、もはや鍛錬班の日常となっていた。
その見事なフラれっぷりは、部下が同情を禁じ得ないほど。クリスマス独り身鍛錬会の引率者を頼まれるくらいには、彼の恋愛は上手くいっていない。
「まだまだいくぞ!!次は組手え!!」
幹部が声をあげると同時に、それまでぜえぜえ言いながら腕をプルプルさせていた団員たちが立ち上がる。続け様、生まれたての小鹿のような足取りで次々に幹部へ襲い掛かるものの、未だに有り余るやる気を持つ幹部の相手ではない。
端から彼の太い腕によって投げ飛ばされ、鍛錬部屋に汗まみれの男共が、さながら絨毯のように広がった。いや、こんな汚らしい絨毯も無いか。
数時間に渡る鍛錬によって、独り身団員の会合はたけなわを迎えている。全員が地に伏し動かなくなったところで、幹部は漸く仁王立ちになって、彼らの惨状をゆっくりと見渡した。
「これくらいで良いだろう。各員、あとはゆっくり過ごせよ、俺たちは独り身とはいえ、仲間がいる。これを機に友情を育め!同志の絆は、打倒王家に必ず通ずるだろう!」
「は、はい・・・・・・打倒、王家ぇ・・・・・・」
「全てはコーガ様のために!よし、一本締めするぞ!」
掛け声とともに、幹部は腕を開く。一人元気を持て余した彼の威勢に鼓舞されて、倒れこんでいた団員たちはよろよろと居直り、その腕に倣った。
「ちなみに俺はこの後も鍛錬を続ける。同じく志のある者は残ると良い。共に高みへ上ろう!」
その途端、疲労を濃く滲ませた団員の間に、ざっと微かな緊張が走る。今の今までだらしなくへとへとだった顔色が一瞬にして強張ったのに気付かず、幹部は「よー!」と声を張り上げながらパンッと手を打った。一本締め。並びに解散の合図である。
一斉に立ち上がった団員たちは、鍛錬場からぞろぞろと連なって出て行く。疲労を押し出した顔つきに滲むのは、長時間に及ぶ鍛錬をやりきった晴れやかさだ。彼女持ちがどこかでイチャイチャ遊んでいる正に今このとき、彼らはストイックに自らの肉体を苛め抜いた。それは最終的に、強さと精神力に繋がるはず。そして、モテに繋っていくはず・・・・・・繋がって欲しい。
見てろよ今にモテモテになってお前らよりも可愛い彼女作ってやるからなと、見えない敵への宣戦布告を果たしたようなものなのだ。これで晴れやかにならずして、いつ晴れやかになるというのか。
それになにより、あとは湯浴みで汗を流して、酒でも飲んで、最後に糞して寝ればクリスマスとかいう憎い行事は終わりを告げ、向こう一年は安心して生活できるようになる。一本締めは、年末の大イベント終了の合図も同然だった。
「今年もやりきったな」「ああ、これがあると年末って感じがするぜ」「この後どうする」「酒でも飲むか、付き合えよ」「一杯だけだぞ~」「ばかいえお前が一杯で終わるわけないだろ」「それもそうだな、じゃあ二杯、いや三杯・・・・・・」
ワハハハ・・・・・・ハハハハ・・・・・・ハハハ・・・・・・
達成感に満ちた喧騒が去る。場に残ったのは、独身男のカリスマに仕立て上げられた被害者だけである。
まさか一人も残らないとは思っていなかった。独り身のクリスマスとはいえ、ここまで孤独を感じることもない。
「誰も・・・・・・いないのか」
ぽつんと呟いたのは状況確認。加えて、誰かにこの声が届いて欲しいと願った故だ。
しかし声は、アジトを形作る岩壁にすら反響せず、砂まみれの地面に吸収されたように立ち消えた。
俺は確かに、この後も鍛錬を続けると言ったよな。一緒に高みへ上ろうと誘ったよなと、彼の頭の中では先ほどの発言がぐるぐると回っている。
もしかして聞こえなかったとか。いや、自分の声が割と大き目なのは承知している。「うるさい」と言われたことはあれど、「ごめん聞こえなかった」なんて聞き返されたことなど今まで記憶にない。
正直、これほどの孤独感にさいなまれた状態で、改めて刀を振ろうとは思えなかった。
さっき口走ってしまったのは、まさに自分が部下に囲まれていて、ツラく長い鍛錬を越えた高揚感があったからこそ。いわばランナーズハイというやつだ。今は広い鍛錬場にたった一人残された現実と、クリスマスに男だけで何やってたんだ俺はという後悔と、パツパツにパンプアップした筋肉と、汗臭い身体に苛まれている。
ただ、「俺はこの後も鍛錬を続ける」といった手前、このまますごすごと寝床に引き上げることはできなかった。口走ったばかりの言葉に背くのは、自分の生き方そのものに背くような気がして仕方ない。
「・・・・・・素振りでもするか」
こういうとき、誰が聞いているわけでもないのに、独り言を口走ってしまうのはどうしてなのか。
静寂の居たたまれなさに身を焼きながら、得物のかかった壁際に視線を送る。鍛錬中は何度も端から端までダッシュした距離だが、今はそれが強烈に遠い。さっきまで心地良いとさえ思っていた疲労感が、まるっきり米俵にでも変わったように重く感じられる。
腰に手を当て項垂れて、「は~」と深く後悔を吐きだした。普段、何事にも前向きな彼がこうまで自らの行いを反省することも珍しい。行くか・・・・・・と、仮面越しに頬をぱしっと軽く叩いてやる気を起こし、それでも心は後ろ向きのまま、のろのろと得物に向かう。
と、その時だった。かたん、と、鍛錬場の戸口で物音がした。音につられてパッと顔を上げると、廊下の奥に人の影。はっきりとしないが、彼には確かに、身じろぐそれが見えた気がした。
「戻ってきてくれたのか!俺もさすがに一人じゃ少し寂しくて、どうしようかと・・・・・・」
米俵も疲労感も感じさせない軽やかな足取りで、すぐさま戸口の先を覗き込んだ。やはり彼の見間違いでなく、薄暗い廊下には一人の構成員がいた。
しかしどうも、想像より随分、上背が低い。そこにあるはずだろう仮面が無くて、あれと訝しがりながら下に視線をずらす。目に飛び込んできたのは、枝垂れる艶やかな黒髪に反射する行燈の光。続けて、この場に似つかわしくない甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐって、訝しさが確信へと変わる。
「・・・・・・こんばんは」
そこにいたのは汗臭い独り身男などではない。幹部が上手くいかないと思い悩む恋の相手、件の女団員が立っていた。
「あ、え、なぜ、ここに」サンケゴイのように口をパクパクとさせて、紡げたのは狼狽の塊。なにせ、今の今まで打倒彼女持ち、ひいては上手くいかない恋そのものに対して拳を掲げていた。仮面があって助かった。こんな後ろめたい阿呆面を晒してしまえば、きっと余計に愛想をつかされるに違いない。
もっとも、奥ゆかしくも俯いたままの彼女には、彼が面をつけていようがいまいが、その阿呆面には気付けなかったろう。幹部の狼狽をつむじで受け止め、女は「えっと」と更に仮面を逸らす。
「皆さんで、先ほどまで鍛錬をしていましたよね。終えられたようだったので、丁度良いかと思って」
「あ、あぁ。確かに今、終わったところだ。丁度良いって何が・・・・・・」
「その、えっと・・・・・・、贈り物を、したくて」
「・・・・・・贈り物?」
「今日、クリスマス、なので」
幹部が愛の言葉を伝えればすぐさま逃げてみせる彼女は、誰がどう見ても照れ屋である。笑う時は仮面があるにもかかわらず口元に手を当て、真正面から見つめれば露骨に面を反らす。両手で顔を覆いながら逃げていく様は最近の日課になっているほどの、彼女がだ。
クリスマスの贈り物を準備してくれた。あれだけ上手くいっていないと思っていた恋の相手から、プレゼントをもらえる?そんな夢物語、思春期の少年少女以外に誰が考えるだろうか。自分のために、プレゼントを準備してくれる、なんて。
小さく縮まった細い肩を無意識に抱きしめようとして、寸でのところで諫めることができたのは、それこそ発達させた筋力によるものである。指の関節一本一本にまで力をいれて筋繊維を緊張させれば、湧き上がる本能という衝動との合戦にも引け劣らない。
一方、頭の中ではワーワーと筋肉VS本能の図を思い描き、目の前で可愛らしく縮こまって、衝動をなお焚きつける彼女を一旦頭の外へ追いやった。じゃないと本当に、筋肉が本能に負けてしまう。
腕を戦慄かせながら本能に抗う幹部を余所に、後ろ手に持っていた贈り物を、女がおもむろに差し出してきた。
小さな両手におさまっていたのは、赤い布が被せられた網籠。十字に巻かれた緑の裂き布は中央で蝶々結びになっており、素朴な印象こそあるが、確かに贈り物の体をなしている。
バクン、バクン、と、大きく打ち鳴り始めた心臓の鼓動をはっきりと感じながら、幹部は恐る恐る両手で、それを下から包みこむように受け取った。
「お世話になっているので、なにか渡したくて・・・・・・。クッキーを焼いたんです、お口に合うと良いんですが」
言い訳めいたセリフは、照れ屋な彼女にしては、やけにはきはきしている。とはいえ、今の幹部には普段との差異なんて気付けるわけもない。
それまで抱えられていただろう網籠に彼女の体温が移っていたことだとか、手の平に乗せられた時点で甘く香ばしい匂いが強まったことだとか、他のお世話になっている団員にも同じものを渡しているのだろうかとか、考えたことと、言うべきことがゴチャゴチャに混ざりあう。整頓しようにも、身体を震わせるほど大きくなった鼓動の振動が邪魔をして、落ち着いて考えをまとめることができなかったのだ。
固まったまま身動きひとつしないままでいると、彼女にぺこりと頭を下げられた。
「お忙しいところお邪魔しました、それでは、私はこれで・・・・・・」
「ちょッ、ちょっと待ってくれ!お、俺もなにか・・・・・・!」
「いえ、良いんです!私の勝手でやったことなので、幹部殿はお気になさらずに」
せっかく彼女に会えたのにこのままでは行ってしまう。踵を返そうとした彼女を慌てて引き留めるため、身体のあちこちを弄るが、今まさに鍛錬をおこなっていた男の身に贈り物に相応しいものが仕込まれているわけもない。彼女も恐縮そうに手の平を振るが、幹部としてはそういう問題ではないのだ。
行って欲しくない。でも何もない。このままでは行ってしまう。どうする?
「い、一緒に食べないか!?少し話もしたいし!」
思わず、彼女の手の平を掴んでズイ、と迫った。
惚れた女には積極的でも、なるべく紳士的な態度を心がけていた幹部にとって一か八かの行動だった。付き合ってもいない女の身体に、鍛錬や業務でもないのに触れる。それも、多くの団員が寝所で過ごす夜半に。
贈り物を受け取った時と同じく、心臓の鼓動はばくん、ばくんと騒がしくなった。掴んだ手の平から振動が伝わってしまうのではないかと思ったほどだ。ただ、だからといって今更離すことはできない。今日はもう会うことも出来ないと思っていた彼女が、向こうからやってきてくれたのだ。このチャンスを逃してなるものか。
いつもの彼女なら、きっと目の前に迫る幹部を「近いですッ」と手の平で押し戻したことだろう。ただ今日は聖夜で、彼女にも特別な一日だったのかもしれない。
最初、戸惑ったように幹部の面を見返すだけだった彼女から、暫くして「す」と空気の漏れる音が聞こえた。
「少し、なら」
「・・・・・・良かった・・・・・・!」
この日ほど浮かれたのはいつぶりだろうか。幹部は仮面の下で満面の笑みを浮かべ、露骨に面を反らす彼女を鍛錬部屋の奥へと誘った。
積まれた木箱の上に、少し距離を空け、隣り合って座る。いつもは鍛錬をつけるときの刹那、立ったまま喋るだけだったから、二人で落ち着いて話をするのだって、これが初めてだ。
この広い鍛錬場の中で、最愛の思い人と二人きりでいる。さっきまで孤独感を増大させるばかりだった冷たい岩壁が、途端に自分たち二人を何者にも邪魔させないガードマンに思えてくるから不思議なものである。
「・・・・・・これは・・・・・・」
ゆっくりと蝶々結びを解き、被せられた赤い布を捲ると、網籠に整列していたのは丸い焼き菓子だった。
素朴な見た目ではあるがどれも一様に同じ大きさで、隙間なく詰め込まれた様子は、彼女の丁寧な性格を思わせる。
だからアジトに似つかわしくない甘くて香ばしい匂いがしていたのかと、焼き菓子に精通していない彼はそこで初めて思い至った。
「味見もしたので、不味くは無いと思うんですけど・・・・・・あまり作り慣れないので、口に合わなかったらごめんなさい」
すかさず彼女の声が耳をくすぐっていくが、この時の幹部は仮面の下で唇を噛み、どうにか緩む表情筋に耐えることしかできなかった。
なにせ、初めて彼女から貰った贈り物だ。もちろん、一緒に食べようと言った手前、すぐさまつまんで食べてみせるのが最良であろう。
しかし、ここへきて食べるのがもったいない。やっぱり食べない、なんて選択肢は無いわけだが、まずこの整列されたクッキーを一枚取り除くのが惜しく思える。きっと詰め込むときだって最善の注意を払ったはずだ。大雑把な自分ではこうはできないし、どこから摘めば彼女の丁寧な仕事を最も損なわなくて済むのか分からない。どうする?
面があるからといって眉間の皺に憚らず悩んでいれば、「・・・・・・お嫌いでしたか?」と、彼女に顔を覗き込まれ、刹那に「そんなわけない!」と勢いよく返した。悩んでいれば彼女を勘違いさせてしまう。結局、端っこから慎重に摘みとることにした。
目の高さまで持ち上げてまじまじと見つめれば、やはり彼女の仕事ぶりにうっとりとした。少し歪ではあるものの、黄金色の丸い焼き菓子は素朴そのもので、彼女を模したような慎ましさ。香ばしい匂いに混ざった甘いバターの香りは、普段焼き菓子など一切嗜まない幹部の口中に、じわりと涎を染み出させる。
鍛錬終わりのすきっ腹が催促するようにギュウ、と音を鳴らすので、思わず手で押さえると、彼女にくすくす笑われた。食べるのはもったいないが、腹の様子を考えたって、食べない選択肢はない。仮面を少しずり上げ、焼き菓子を小さく齧った。
ほろ、と柔らかく崩れたクッキーは、咀嚼をする度に唾液と混ざって滑らかになっていく。優しい甘さで、鼻を抜けるバターのコク深い香りが、肉ばかりを好む彼には新鮮だった。解けていくような食感が楽しくて、齧った残りのクッキーを口に放り込み、また香ばしい甘さに浸る。
「・・・・・・どうですか?」
立て続けに2枚3枚と無言で食べたところで彼女の心配そうな声を聞き、幹部ははっとなって下唇を噛んだ。
不躾なところを見せた。「ん、んん」と一度咳ばらいをするが、もう今更かもしれない。
「美味い!俺はクッキーを初めて食べたんだが、こんなに美味いものだとは知らなかった!
「本当に?幹部殿が甘いものを召し上がるかどうかわからなくて、心配だったんです」
「普段はあまり食べる機会はないが、お前のだったら何でも食べるぞ。嫌いなものでも、なんでも!」
「嫌いなものをわざわざ渡すつもりはありませんが・・・・・・。でもお口に合って本当に良かった」
彼女もそれまで緊張していたのだろうか。花が綻んだように柔らかくなった声色に、幹部の胸も、春のような日差しで照らされた気がした。
自分ばかりが焼き菓子を食べ、彼女をそのままにするわけにはいかない。「ほら、一緒に食べよう」と網籠を差し出すと、膝上に手の平を添えたまま微動だにしなかった彼女も、ついで「じゃあ・・・・・・」と一つ焼き菓子をつまんでいく。
仮面をずらし、おもむろに晒される彼女の素肌。焼き菓子を食べるのだから、よく考えなくても当たり前である。
しかし、結局目の前のことにいっぱいいっぱいとなっていた彼にとって、その白雪のような素肌に佇む血色の良い唇は、視線を奪って仕方ない魔性となった。
焼き菓子を迎え入れるために控えめに開けられた口元。小さな焼き菓子にかぷっと齧りつき、指先で隠しながら咀嚼するその品の良さ。
3枚でも5枚でも一口にできる自分とは違う。輪郭を露わにしたまま咀嚼を続ける彼女から、目が離せない。ほろりと崩れた粉をぺろ、と舐めとる仕草は、むしろ筋肉と本能で戦争してほしいんじゃないかと思わせる。それでなくとも、既に静謐となったこの部屋には、自分と彼女の二人だけなのに。
いや、邪なことを考えるべきではない。ここは神聖な鍛錬部屋であって、本来男女の逢瀬に使うべき場所では無いのだ。今は一時、借りているだけで。
「・・・・・・そんなに見られては困ります」
悶々と頭を働かせる最中、彼女から視線を外さずにいれば、むっと口元が山なりに変わる。文句を言われても当然というもので、無遠慮な視線は配慮に欠けていた。幹部は「すまん」と手を慌てさせる。
「いや、焼き菓子の粉が、零れてるから・・・・・・!」
「わ、本当ですね。恥ずかしい・・・・・・でも、幹部殿も」
首元に落ちた粉をパッパッと払った彼女が、幹部の首元にも指をさす。このとき、幹部役に支給されるフードの内側に粉が付着していたわけだが、いまいち場所が分からない。
見当外れな場所をはたいてフードの中に落ちようとするところ、「私が」と言いながら彼女が幹部の真正面に立った。
「失礼しますね」と断りながらもフードを少し伸ばして、粉をはたいていく。それは良い。良いのだが、幹部にとってはそればかりでは済まない。
これ以上ないほど、彼女が近い。それも、仮面はずらしたまま、素の口元がすぐ傍にある。吐息の音さえ聞こえそうだった。また、バクンバクンとなり始める心臓の音を、彼女にも聞かれそうだった。このまま捕まえて、胸板に閉じ込めれば、吐息の音も、心臓の音も、全てを共有できるのだろうか。抱きしめたい。抱きしめてしまいたい。もう筋肉なんか、負けで良いから。
「取れたと思います。少し崩れやすいのが難点ですね・・・・・・バターが多すぎちゃったみたいで」
掃除に徹していた彼女が身体を離し、顔を上げる。そして、その場の状況を視界にいれて、首を傾げた。
「・・・・・・どうなさったんですか?」
「いや、なにも・・・・・・」
首が痛くなるほど天井を見上げた大男。両の手を身体の横で握り、下唇を噛み締めているのは何故なのか。
筋肉は、本能に勝利した。彼女には、不可思議そうに首を捻られた。
・・・・・・決して恋仲などではない。良い仲になっているとも言い難い。それでも確かな恋心を胸に抱く男と、それを承知で贈り物を渡した女の夜は更けていく。
ああ、明日からまたどれだけ避けられようが、彼女への告白を続けられる。彼が彼女を諦めずに想い続けるのに、今日の出来事は充分すぎるほどの贈り物となったのだ。
しかし、そうはいっても浮かれは禁物である。後日にクリスマスの一夜が独り身集会の団員に露見され、白い目を向けられることになるのだが、それはまた別のお話。
これからの二人に、メリークリスマス。