■「コーガ様・スッパ」が登場する話
あれはいつのことだったか。自分は一度、コーガ様に連れられて城下へ赴いたことがある。
イーガに居ついて数年。団の末輩として日々を過ごしていた、幼少期の話だ。
がむしゃらに鍛練を積み、自分一人を守れるほどに鍛えた術と剣。その実力を師匠筋にあたる幹部殿に認められ、初めて諜報の任につく話が持ち上がった。
コーガ様は、すぐに首を振らなかった。「うーん」と腕を組み、悩まし気に首を垂らすこと寸刻。
暫くして膝をパシンと叩いたかと思うと、このようなことを申された。
「そしたらスッパ、俺様と二人で城下街にでも行ってくっか!」
なにがそしたらなのか分からず、同席の幹部殿共々「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。「我ながら良いアイディアだぜ」と歌いながらツルギバナナを食べだしたことも含めて、とかくコーガ様には驚かされることばかりである。
主曰はく、一般王国民の生活を知らない幼子に、諜報の任務が勤まるとは思えない。間諜とは空気。違和なくその場と同化するには、まず民草の常を知らねばならない、と。
熱のある演説は忌憚ない。しかし落ち込むより先に「なるほど」と納得をしてしまった。イーガにやってくる以前が一般王国民と同じだったかと問われたら、胸を張って「はい」とは頷けなかったからである。
「しかしコーガ様、コーガ様が共連れをする必要はどこにも……」
「うるへー! 敵の根城なんだから俺様が行かねえで誰が行くんだよ!」
幹部殿が発した至極真っ当な提案を無理に捻じ曲げた主君は、この時いささか横暴であった。
かくして、変装したコーガ様と二人、中央ハイラルへの行脚が決まったのである。
砂漠渡りにはスナザラシ。ゲルドキャニオンに着いてからは、馬宿で団員に準備をさせていた馬に乗って進んだ。主と二人乗りをし、身を強張らせながら馬のたてがみを必死に掴んだことを覚えている。
ゆらゆらと無理に上下する尻。ふとした瞬間に強くなる、青草と馬のにおい。
急ぎもせず、ゆったりと二日かけてやってきた旅路も、あと少しで目的地に到着する。
「スッパは、城下に行くの初めてだよな」
それまでもぽつぽつ会話していたコーガ様が、ふと改まった口調で仰った。自分がハイラルの隅にある小さな集落出身であるのは、出会ったばかりの頃にお伝えしている。
「はい。どんな街なのか楽しみです。珍しいものがたくさんあって、建物も高いって聞きました。全然想像つかなくて」
「そうさなぁ、カルサーと比べたらとんでもねぇぞ。とにかくデカいし広い! それに人もエゲつないほどいる」
「人も」
「そう、人も。でだ。どこで誰が聞き耳立ててるか分かんねえし、こいつは諜報の一環だ。そこで俺様達、今日は親子って体で城下に潜り込もうと思う」
「え、ええっ」
「俺様は今日一日、スッパの父様だからな。ほら、試しに呼んでみてくれ。父様ってな」
唐突の話に驚いて振り返れば、俄かに細められた双眼に見下ろされている。目に入った口端は、自分を揶揄うように頬骨にまで吊り上がっている。とはいえ、コーガ様の言を反対することもできない。
「と……と、と、と……」
とにかく発声し始めたのは良いものの、声が詰まって最後まで続かなかった。コーガ様を父と呼ぶ? あれをコーガ様に当て嵌めるなど、それこそ不敬に思えた。
加えて、眼前に迫る爛々としたぎょろ目に、筋の通った鷲鼻、削げ落ちた頬肉。今日のコーガ様は、本来の体つきからかけ離れた痩身の行商人へ扮している。まったく見ず知らずの男で、だからこそコーガ様だと思わずに済む気もしたが、声はそのまま主君のものなのだ。
一度生唾を飲み込んだ。もうこれ以上待たせるわけにはいかない。細い顎骨から続く大人の喉仏が小さく動いている。しゃらしゃら風に揺れる木々が後ろに次々流れていって……さあ、いざ。
「……コーガ様」
「あちゃあ、なんでそうなるんだよ~」
大袈裟な動作で額を押さえ、コーガ様は天に向かって嘆いてみせた。しかし、無理なものは無理なのだ。
「申し訳ありませぬ、その、どうしても口にするのが難しく……」
「そんなじゃ、諜報任務なんてとてもじゃねえが任せらんねえぞ? 隠密の業はだまくらかしにあり、ってな」
「しかし、子ではなく、小姓役でも変わりないのではないでしょうか? 旦那さまと呼ぶなら、僕も抵抗感はありません」
「バカだなぁ、これから親子設定で諜報に行くこともあンだろうに、どうすんだよ? それこそ子どもの”美味しい部分”だぞ」
「す、すみませぬ……」
「……ま、慣れねえ呼び方でバレちまったらしょうがねえけどよ」
見知らぬ男の口からコーガ様の御声が出てくる様子こそ、なにかしらに化かされている気になる。自分は、これを身につけねばならぬのだ──ただ「精進します……」と身を竦めた。
前を向けば、景色の彼方に青い三角屋根の城。それに、街道の奥から、荷馬車が一台やってくるところであった。
荷馬車とすれ違うのは、この行脚中に何度かあったことだった。しかし、今回は桁が違う。荷台は街道を埋めるほど幅があり、その上では誇らし気に陽光を返す真っ白な幌 が風に揺れている。毛並みの良い4頭の馬は、我らよりも偉いのだと言わんばかりの悠然とした態度だ。
馬車には、普段の生活ぶりがうかがえるほどでっぷり肥え太ったハットの男が座っていた。くるんとカールさせた口ひげを指で弄りながら、しかし道を譲ってやったこちらのことには目も向けない。
ゲルドではまず見ない尊大な見てくれに思わず首を回して、その巨大な荷馬車が小さくなっていくのを見送った。
「今日日珍しいなぁ、あんなデカい荷馬車。よっぽどいい暮らししてんだろうぜ」
「すごいですね。なにを運んでるんでしょうか」
「城下から卸して捌 けるモンっていやあ、武器か、魔物素材か……あとは、あんまり褒められねえモンとかな。労働力が欲しいやつはどこにでもいるし」
「それってどういう……えっ」
含みのある言い方にコーガ様を見上げ、そこではたりとした。
上向きに巻かれた白い口ひげ。たっぷりと肉のついた二重顎。ここまでずっと一緒にいた痩身の男じゃない。コーガ様の顔が、さっき見かけた荷馬車の男に挿げ代わっている。
目を白黒させていると、肉に埋もれる垂れた瞳と視線が合う。
「旦那さま、って呼ぶんだったら、こっちの方がいいだろ?」
口の片方を持ち上げるニヒルな笑みでそういうと、コーガ様は顔をあげて「さ、もうひと踏ん張りだ」と手綱を引いた。
にわかに馬がスピードを上げる。振り落とされないよう、自分も風に靡くたてがみを力強くつかんだ。
それから暫くし、砂地の街道が石畳へと変わる。漸く、城下街へと辿り着くことができた。
城を思わせるほど堅牢な門をくぐると、まずこの世の栄華を誇るハイラル城に出迎えられた。豪奢な噴水が輝く中央広場では、周囲を取り囲むように出店が並び、多くの人で活気づいている。
香ばしいのはパンの焼けるにおいだろうか。甘ったるいのは、今横を通り過ぎていった女の香水だろうか。ちらりと見えた横顔は血色が良く、口元がどこか柔らかい。
よく見れば、老いも若きもみんなそのような顔をしている。ぼおっと石段に座って空を眺める男、きゃらきゃらと高い笑い声を上げながら走り回る幼子。手を引かれながら歩く老人。アジトの仲間と同じ人間のはずなのに、まるで違う人種のようだ。
ここには、谷とは似ても似つかない生活がまざまざと広がっている。
人の顔ばかりで、目が回りそうだ。
「どうだ。初めて来た感想は?」
ぽかんと口を開けたままいれば、肩に柔らかな感触が降ってきた。目尻の皺を柔和に垂れさせた肉付きの良い男──そうだ、コーガ様なんだ。一瞬遅れて思い直す。
今の率直な気持ちにどうやって言葉にしようか、すぐに出てこない。
「えっと……人が、すごいです。ハイラルにここまで人がいたなんて思いませんでした」
「そうだろそうだろ。しかも、俺達の生活と全然違うだろ? だから、仕事に入る前に見といた方がいいって言ったんだ」
「そうですね……勉強になります」
「よし。じゃ、目当ての店行くぞ」
「目当ての店? 目的地があったんですか?」
とりとめもない二日間の中で、初めて聞く話だった。幾分か辺りを見回って、すぐアジトに戻るのだと思っていたのだが、目当ての店、とは。
コーガ様は、「まあな」と片側の口を持ち上げてみせる。
「はぐれるなよ。こっち、着いてきてくれ」
人込みに向かい、丸まるとした背中がズンズンと進んでいく。自分も周囲にぶつからないように気をつけながら、ぴたりと付き添うように歩いた。
コーガ様が「ここだ」と立ち止まったのは、往来に立ち並ぶ他の建物と同じく白壁の店だった。
店の前に小さな立て看板が置いてあるだけで、特徴のある風貌はしていない。黒板に白いチョークで書いてあったのは、おすすめメニュー。……ハンバーグ、オムライス、スパゲッティ、あとは……。
からんからん。頭上で小気味よい音が聞こえて振り返れば、コーガ様が扉を開けている。間を置かず、「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」と給仕人らしき女が親し気な笑みでやってきて、すぐさま奥に引っ込んでいく。
言われるまま遠慮なしに歩を進めるコーガ様を慌てて追って、自分も扉をくぐった。
陽光の照る外と比べて中はひやりとしていて、それに甘くて香ばしいにおいがする。知らないにおいだったが、思わず目いっぱい胸を膨らませるほど良い匂いだ。
外から見た時と同じ白壁の内装で、窓は往来に向かって二つだけ。光線のように伸びた外光は眩しいものの、窓辺以外はむしろ薄暗くてどこかアジトの雰囲気を思い出す。
辺りを見回したコーガ様は「あそこにすっか」と、窓辺のテーブル席へ向かった。
どっかりと腰を降ろすコーガ様に続いて小さく尻を乗せるものの、どうにも尻が落ち着かない。いつものザラついた木椅子に比べてやけに滑る。膝を揃え、それから椅子の脚の合間に自分の足をしまい込んだり、深く腰掛けてみたり。
そうしていると、こと、と目の前にグラスが置かれた。先ほどの給仕人だった。
「注文いいか?」
「はい、お伺いいたします」
「ブラックひとつと、パンケーキふたつ。スッパはー……リンゴジュースでいいか?」
唐突に顔を覗き込まれ、分からないまま咄嗟に「はい」と頷く。それから給仕人は、今しがたコーガ様がおっしゃった言葉を丁寧に繰り返し、「焼くのに時間がかかりますから、少々お待ちくださいね」と人懐こい笑みを浮かべた。そのまま、慣れた足さばきで去っていく。
たまに団員同士で小突き合いの喧嘩すら発生するアジトの食堂を思うと、店内は静かだ。席に着くどの客も、優雅な仕草で静かに座っている。
自分も膝を揃えたまま、その上で手まで揃えてコーガ様にこそりと囁いた。
「こ……旦那さま、ここで……なにを……」
「ん? パンケーキ食いに来たんだよ。食ったことねえだろ?」
「ぱんけえき?」
「ほれ、あすこのぼっちゃん見てみろ」
手壁を作ったコーガ様は、手の内側で一方に指を差す。
そこには父親と思しき壮年の男と、自分と同い年くらいの男児がいた。ちょうど、ナイフとフォークで切り分けたなにかを頬張る瞬間だった。
横目で見るに、薄焼きの茶色いパンのようななにか。たらりと粘性のある透明な液体が垂れ、男児は伸ばした舌先で受け取るように下から掬い上げている。ぱくり、と口に押し込むが、パンが大きすぎたのか、唇の隙間からは茶色い切れ端が覗いた。
大袈裟に咀嚼しながら父を見つめる男児は、まるでこの時のために生まれて来たのではないかと思うほど、はち切れんばかりの笑い顔だ。
幸せ。彼の表情から感じたのは、自分の人生とはどこか縁遠いそれを、煮詰めたようなものだった。
「あれが……ぱんけえき」周囲を見渡せば、これを食べている客はみんな同じような顔をしている。それほど美味いのか。
口の中に滲みだしてきた唾液をごくりと飲み込む。そういえば、ツルギバナナを食べたのはもう何時間も前だ。
「外を回るなら、こういうもんを一度でも食っておいた方がいいと思ってな。ただし他のやつらには内緒だぞ! 誰でも彼でも連れてこれるわけじゃねえんだから!」
「はい……でも、先輩たちに申し訳ないです。内緒で、だなんて……」
「いいんだよ、あいつらは昔に食ってるかもしれねえだろ? 対してお前は食ってねえんだから。こういうときゃ、素直に経験だと思って食っときゃいいんだよ」
机の上には、先ほど置かれたグラスが二つ。水晶を思わせるほど透明なガラスで、水面を埋めるように氷がぷかりと浮いている。
そのとき、からんからん。さっき耳にした音が聞こえた。続けて、「いらっしゃいませ」と奥から給仕の声。
外からやって来たらしい客が立っていて、扉の上側で小さな鐘が揺れている。なるほどアジトの鳴子と同じようなものだったか。
「お待たせしました、ブラックコーヒーとリンゴジュースです」
給仕人がやってきて、今度は黄色く濁った飲み物をことりと置いていく。仄かに鼻を掠める華やかな香りは、確かにリンゴそのものだ。
しかし、次にことり、と机に置かれたものに、視線を奪われる。コーガ様の前に置かれた黒い液体の方。白い陶磁のカップから、香り高い湯気がふわふわとのぼっている。店内に満ちる良い香りの正体はこれだ。しかし、やはりこんな飲み物はアジトでも見たことがなく、なにを原材料にしているのかすら見当がつかない。
慣れた仕草で、ず、と啜るコーガ様の動きに釘付けになる。
「コーヒー……って、どんな味なんですか? とてもいいにおいです」
「においはな。スッパの歳だと、ちと早いだろうな。これは」
「そうなんですか? 早いって、どういう」
「まあ気になるなら飲んでみるといい。熱いから、気をつけてな」
コップの下の皿ごと差し出してくるコーガ様に促され、挑戦的な瞳とコーヒーを見比べてから、ゆっくりと取っ手をとる。
鼻先を濡らす湯気が熱い。ふうふうと息を吹きながら啜るが、それでもまだ舌を焼くほどで、一度に飲めなかった。
なんとかわずかに口へ含むと、焦げたにおいが鼻から抜けていく。その奥には確かに華やかな香りがあって、しかしそんなことよりも、これは。
「にがいっ」
「だはははっ、ほらな。言った通りだろ!」
ひとしきり笑ったコーガ様は、机に肘をつき、はぁーとため息。
見慣れないふくよかな顔で「コーヒーだなんて、大人だねぇ」と、満足そうに瞳を眇 めてみせた。
それから暫く、他愛のない話をした。
谷には慣れたか。困ってることはないか。ちゃんと飯を食べているか。律儀にひとつずつ答えたものだが、当時どのような返答をしたかは覚えていない。
掴んだままのグラスの冷たさ。時折くつくつと喉奥で笑ってはコーヒーを啜るコーガ様の指先。そして、自分もタイミングを合わせてリンゴジュースを喉に流す。あの瑞々しくさっぱりとした甘さは、今も舌の上に残っている。
こぢんまりとした店には、入れ替わり立ち代わりで次々に客がやってきた。窓から眺める街の光景も、さっきと同じだ。ただ、なぜだろうか。往来で見遣っていた時と心持ちが随分違う。外と店内とでは、人波から守られている気になって妙にほっとした。
ゆったりと進むコーガ様との時間に割り入るように、それは遂にやってきた。
「お待たせしました。パンケーキです」
こと、こと、と机に置かれる皿。自然と口を噤み、初めて対峙するそれに目を瞠った。
真ん丸で、つやつやとして、一様にこんがりとした黄金色の生地。まるで砂上で見る満月だと思った。中心で蕩ける黄色はバターだろうか。緩く湾曲した生地に沿って流れだしそうで、見ているだけなのに喉が鳴る。
給仕人は、さきほどミルクの入っていたものより、一回り大きいサイズのピッチャーを置き「お好みでどうぞ」と言い残して去っていった。中を覗くと、琥珀色の透き通った液体が湛えられている。さきほどの男児が垂らしながら食べていたものだろうが、蜂蜜……だろうか。
すん、とにおいを嗅いだコーガ様が「あー」と得心したように唸った。
「このにおい、メイプルシロップじゃねえかなぁ。スッパは食ったことねえだろ?」
「メイプルシロップ……? 蜂蜜とは違うものなんですか?」
「蜂蜜ってのは、ミツバチが集める花の蜜だろ? メイプルシロップってのは、いわゆる樹液だな。メイプルの」
「樹液……メイプルの」
「よっしゃ、せっかくだかんな、多めにかけてやろう」
いうや否や、コーガ様がピッチャーを傾ける。粘性のあるそれが糸のように下り、線で波を描くように染みを作ってから、ぷつ、と切れた。たっぷりとかけられたメイプルシロップはパンケーキの全面を色濃く濡らし、溶けきらないバターが、それこそ琥珀の中に閉じ込められた太古の贈り物のように見えてくる。
かけすぎでは、とも一瞬思ったものの、パンケーキの正解が分からない。
ピッチャーに残ったメイプルシロップもコーガ様分のパンケーキにすべて流し、それから主君は「美味そうだな~!」と手を揉んだ。
「よっしゃ、早速いただくとするか! 腹減っちまった!」
「はい、いただきます」
コーガ様は早々とナイフとフォークを掴み、パンケーキを切り取っていく。コーガ様の見様見真似でそれらを繰り、ひとかけらのバターを乗せた。
パンケーキの断面からシロップがじゅわっと滲みだしている。見るからに甘そうで、てらっと輝くそれが自分を誘っていて。
大きく口を開けて、一口というには大きくなってしまったそれを、無理やりに押し込んだ。
まず舌を刺激したのは、暴力的なまでのメイプルシロップの甘さ。それからバターのリッチなミルク感が鼻を抜け、なにより小麦の香りに満たされる。
確かにこんなものは食べたことがなかった。
何の抵抗もなく歯を受け入れる柔らかな生地を噛みながら、さっきの少年の様子を頭に描く。
彼はこれを食べて、あんな顔をしていたのか。他の客も全員。なるほど。これが。
ふわふわと柔らかくて、とろとろに甘くて。大きいように見えて、けれどいつしかなくなってしまう。苦くて辛いところなんて一切のない、人の考える幸福をとことん詰め合わせたような。
彼らの気持ちが分かった。これをいつでも食べられる環境に羨ましさもある。
けれど、なぜだろう。咀嚼しながら考える。
自分には少し、押し付けがましいもののような気がした。
「どうだった? 美味いか?」
なにを言うべきか迷う。この妙に噛み合わない気持ちに当てはまる言葉を、自分は知らなかった。
ごくんと飲み下す。「そう、ですね」と口にしながらコーガ様を見遣ったとき。そこではたりと気付いた。
自分を見つめる細い瞳。
緩んだ頬、持ち上がった口角。
自分の感想を待つ主君は、パンケーキをまだ、一口も食べてはいない。けれど確かに、彼らと似た表情を、主君は浮かべていて。
男児ほどとは言わない。しかし自分なりに、精一杯はにかんでみせた。
「美味しいです、幸せの味だなって思います」
きょと、と目を丸くさせてから、コーガ様は「ははっ」と笑った。
■
アジトの廊下を歩いている最中のことだった。なにやら辺りに、香ばしくて甘いかおりが漂っている。ツルギバナナとも違う。普段のアジトでは絶対にしないようなかおりだ。
妙に懐かしい。これは、もしや──総長室へ向かおうとしていた足が、自然と炊事場に吸い込まれていく。
「なにを作っているのでござる」
「あっ、スッパ様」
炊事場担当の団員が、フライパンで焼き物をする際中だった。
中を覗けば、丸くて平たい黄金色の──パンケーキだ。
「アッカレのメイプルシロップが手に入ったんですよ。とくれば、パンケーキですよね! バナナもソテーにしてみました。コーガ様の今日のおやつにしようかなと」
「食べすぎではござらんか? これをおやつにするならば、夕食後のツルギバナナは調整せねばならぬでござる」
「た、確かにそうですね……ちょっとバナナソテーを減らしましょうか……それともメイプルシロップをギリギリに減らして……」
ぶつぶつと悩み始める団員に、「だったら」と満月のようなパンケーキを見遣った。
「半分にしてみてはどうでござろうか。残りは自分が食べる故」
「えっ、スッパ様が?」
「うむ。バターもあれば上々」
「ありますが……ええっ、意外です! スッパ様、パンケーキお好きなんですか?」
面の奥で、自然と口元が緩く持ち上がった。
「これこそ、幸せの味でござろう」
団員がきょと、と一瞬黙り、それから「はぁ……?」と首を傾げる。
この時ばかり、コーヒーの香りと、軽やかな扉の開く音に、身体が包まれた気がした。
イーガに居ついて数年。団の末輩として日々を過ごしていた、幼少期の話だ。
がむしゃらに鍛練を積み、自分一人を守れるほどに鍛えた術と剣。その実力を師匠筋にあたる幹部殿に認められ、初めて諜報の任につく話が持ち上がった。
コーガ様は、すぐに首を振らなかった。「うーん」と腕を組み、悩まし気に首を垂らすこと寸刻。
暫くして膝をパシンと叩いたかと思うと、このようなことを申された。
「そしたらスッパ、俺様と二人で城下街にでも行ってくっか!」
なにがそしたらなのか分からず、同席の幹部殿共々「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。「我ながら良いアイディアだぜ」と歌いながらツルギバナナを食べだしたことも含めて、とかくコーガ様には驚かされることばかりである。
主曰はく、一般王国民の生活を知らない幼子に、諜報の任務が勤まるとは思えない。間諜とは空気。違和なくその場と同化するには、まず民草の常を知らねばならない、と。
熱のある演説は忌憚ない。しかし落ち込むより先に「なるほど」と納得をしてしまった。イーガにやってくる以前が一般王国民と同じだったかと問われたら、胸を張って「はい」とは頷けなかったからである。
「しかしコーガ様、コーガ様が共連れをする必要はどこにも……」
「うるへー! 敵の根城なんだから俺様が行かねえで誰が行くんだよ!」
幹部殿が発した至極真っ当な提案を無理に捻じ曲げた主君は、この時いささか横暴であった。
かくして、変装したコーガ様と二人、中央ハイラルへの行脚が決まったのである。
砂漠渡りにはスナザラシ。ゲルドキャニオンに着いてからは、馬宿で団員に準備をさせていた馬に乗って進んだ。主と二人乗りをし、身を強張らせながら馬のたてがみを必死に掴んだことを覚えている。
ゆらゆらと無理に上下する尻。ふとした瞬間に強くなる、青草と馬のにおい。
急ぎもせず、ゆったりと二日かけてやってきた旅路も、あと少しで目的地に到着する。
「スッパは、城下に行くの初めてだよな」
それまでもぽつぽつ会話していたコーガ様が、ふと改まった口調で仰った。自分がハイラルの隅にある小さな集落出身であるのは、出会ったばかりの頃にお伝えしている。
「はい。どんな街なのか楽しみです。珍しいものがたくさんあって、建物も高いって聞きました。全然想像つかなくて」
「そうさなぁ、カルサーと比べたらとんでもねぇぞ。とにかくデカいし広い! それに人もエゲつないほどいる」
「人も」
「そう、人も。でだ。どこで誰が聞き耳立ててるか分かんねえし、こいつは諜報の一環だ。そこで俺様達、今日は親子って体で城下に潜り込もうと思う」
「え、ええっ」
「俺様は今日一日、スッパの父様だからな。ほら、試しに呼んでみてくれ。父様ってな」
唐突の話に驚いて振り返れば、俄かに細められた双眼に見下ろされている。目に入った口端は、自分を揶揄うように頬骨にまで吊り上がっている。とはいえ、コーガ様の言を反対することもできない。
「と……と、と、と……」
とにかく発声し始めたのは良いものの、声が詰まって最後まで続かなかった。コーガ様を父と呼ぶ? あれをコーガ様に当て嵌めるなど、それこそ不敬に思えた。
加えて、眼前に迫る爛々としたぎょろ目に、筋の通った鷲鼻、削げ落ちた頬肉。今日のコーガ様は、本来の体つきからかけ離れた痩身の行商人へ扮している。まったく見ず知らずの男で、だからこそコーガ様だと思わずに済む気もしたが、声はそのまま主君のものなのだ。
一度生唾を飲み込んだ。もうこれ以上待たせるわけにはいかない。細い顎骨から続く大人の喉仏が小さく動いている。しゃらしゃら風に揺れる木々が後ろに次々流れていって……さあ、いざ。
「……コーガ様」
「あちゃあ、なんでそうなるんだよ~」
大袈裟な動作で額を押さえ、コーガ様は天に向かって嘆いてみせた。しかし、無理なものは無理なのだ。
「申し訳ありませぬ、その、どうしても口にするのが難しく……」
「そんなじゃ、諜報任務なんてとてもじゃねえが任せらんねえぞ? 隠密の業はだまくらかしにあり、ってな」
「しかし、子ではなく、小姓役でも変わりないのではないでしょうか? 旦那さまと呼ぶなら、僕も抵抗感はありません」
「バカだなぁ、これから親子設定で諜報に行くこともあンだろうに、どうすんだよ? それこそ子どもの”美味しい部分”だぞ」
「す、すみませぬ……」
「……ま、慣れねえ呼び方でバレちまったらしょうがねえけどよ」
見知らぬ男の口からコーガ様の御声が出てくる様子こそ、なにかしらに化かされている気になる。自分は、これを身につけねばならぬのだ──ただ「精進します……」と身を竦めた。
前を向けば、景色の彼方に青い三角屋根の城。それに、街道の奥から、荷馬車が一台やってくるところであった。
荷馬車とすれ違うのは、この行脚中に何度かあったことだった。しかし、今回は桁が違う。荷台は街道を埋めるほど幅があり、その上では誇らし気に陽光を返す真っ白な
馬車には、普段の生活ぶりがうかがえるほどでっぷり肥え太ったハットの男が座っていた。くるんとカールさせた口ひげを指で弄りながら、しかし道を譲ってやったこちらのことには目も向けない。
ゲルドではまず見ない尊大な見てくれに思わず首を回して、その巨大な荷馬車が小さくなっていくのを見送った。
「今日日珍しいなぁ、あんなデカい荷馬車。よっぽどいい暮らししてんだろうぜ」
「すごいですね。なにを運んでるんでしょうか」
「城下から卸して
「それってどういう……えっ」
含みのある言い方にコーガ様を見上げ、そこではたりとした。
上向きに巻かれた白い口ひげ。たっぷりと肉のついた二重顎。ここまでずっと一緒にいた痩身の男じゃない。コーガ様の顔が、さっき見かけた荷馬車の男に挿げ代わっている。
目を白黒させていると、肉に埋もれる垂れた瞳と視線が合う。
「旦那さま、って呼ぶんだったら、こっちの方がいいだろ?」
口の片方を持ち上げるニヒルな笑みでそういうと、コーガ様は顔をあげて「さ、もうひと踏ん張りだ」と手綱を引いた。
にわかに馬がスピードを上げる。振り落とされないよう、自分も風に靡くたてがみを力強くつかんだ。
それから暫くし、砂地の街道が石畳へと変わる。漸く、城下街へと辿り着くことができた。
城を思わせるほど堅牢な門をくぐると、まずこの世の栄華を誇るハイラル城に出迎えられた。豪奢な噴水が輝く中央広場では、周囲を取り囲むように出店が並び、多くの人で活気づいている。
香ばしいのはパンの焼けるにおいだろうか。甘ったるいのは、今横を通り過ぎていった女の香水だろうか。ちらりと見えた横顔は血色が良く、口元がどこか柔らかい。
よく見れば、老いも若きもみんなそのような顔をしている。ぼおっと石段に座って空を眺める男、きゃらきゃらと高い笑い声を上げながら走り回る幼子。手を引かれながら歩く老人。アジトの仲間と同じ人間のはずなのに、まるで違う人種のようだ。
ここには、谷とは似ても似つかない生活がまざまざと広がっている。
人の顔ばかりで、目が回りそうだ。
「どうだ。初めて来た感想は?」
ぽかんと口を開けたままいれば、肩に柔らかな感触が降ってきた。目尻の皺を柔和に垂れさせた肉付きの良い男──そうだ、コーガ様なんだ。一瞬遅れて思い直す。
今の率直な気持ちにどうやって言葉にしようか、すぐに出てこない。
「えっと……人が、すごいです。ハイラルにここまで人がいたなんて思いませんでした」
「そうだろそうだろ。しかも、俺達の生活と全然違うだろ? だから、仕事に入る前に見といた方がいいって言ったんだ」
「そうですね……勉強になります」
「よし。じゃ、目当ての店行くぞ」
「目当ての店? 目的地があったんですか?」
とりとめもない二日間の中で、初めて聞く話だった。幾分か辺りを見回って、すぐアジトに戻るのだと思っていたのだが、目当ての店、とは。
コーガ様は、「まあな」と片側の口を持ち上げてみせる。
「はぐれるなよ。こっち、着いてきてくれ」
人込みに向かい、丸まるとした背中がズンズンと進んでいく。自分も周囲にぶつからないように気をつけながら、ぴたりと付き添うように歩いた。
コーガ様が「ここだ」と立ち止まったのは、往来に立ち並ぶ他の建物と同じく白壁の店だった。
店の前に小さな立て看板が置いてあるだけで、特徴のある風貌はしていない。黒板に白いチョークで書いてあったのは、おすすめメニュー。……ハンバーグ、オムライス、スパゲッティ、あとは……。
からんからん。頭上で小気味よい音が聞こえて振り返れば、コーガ様が扉を開けている。間を置かず、「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」と給仕人らしき女が親し気な笑みでやってきて、すぐさま奥に引っ込んでいく。
言われるまま遠慮なしに歩を進めるコーガ様を慌てて追って、自分も扉をくぐった。
陽光の照る外と比べて中はひやりとしていて、それに甘くて香ばしいにおいがする。知らないにおいだったが、思わず目いっぱい胸を膨らませるほど良い匂いだ。
外から見た時と同じ白壁の内装で、窓は往来に向かって二つだけ。光線のように伸びた外光は眩しいものの、窓辺以外はむしろ薄暗くてどこかアジトの雰囲気を思い出す。
辺りを見回したコーガ様は「あそこにすっか」と、窓辺のテーブル席へ向かった。
どっかりと腰を降ろすコーガ様に続いて小さく尻を乗せるものの、どうにも尻が落ち着かない。いつものザラついた木椅子に比べてやけに滑る。膝を揃え、それから椅子の脚の合間に自分の足をしまい込んだり、深く腰掛けてみたり。
そうしていると、こと、と目の前にグラスが置かれた。先ほどの給仕人だった。
「注文いいか?」
「はい、お伺いいたします」
「ブラックひとつと、パンケーキふたつ。スッパはー……リンゴジュースでいいか?」
唐突に顔を覗き込まれ、分からないまま咄嗟に「はい」と頷く。それから給仕人は、今しがたコーガ様がおっしゃった言葉を丁寧に繰り返し、「焼くのに時間がかかりますから、少々お待ちくださいね」と人懐こい笑みを浮かべた。そのまま、慣れた足さばきで去っていく。
たまに団員同士で小突き合いの喧嘩すら発生するアジトの食堂を思うと、店内は静かだ。席に着くどの客も、優雅な仕草で静かに座っている。
自分も膝を揃えたまま、その上で手まで揃えてコーガ様にこそりと囁いた。
「こ……旦那さま、ここで……なにを……」
「ん? パンケーキ食いに来たんだよ。食ったことねえだろ?」
「ぱんけえき?」
「ほれ、あすこのぼっちゃん見てみろ」
手壁を作ったコーガ様は、手の内側で一方に指を差す。
そこには父親と思しき壮年の男と、自分と同い年くらいの男児がいた。ちょうど、ナイフとフォークで切り分けたなにかを頬張る瞬間だった。
横目で見るに、薄焼きの茶色いパンのようななにか。たらりと粘性のある透明な液体が垂れ、男児は伸ばした舌先で受け取るように下から掬い上げている。ぱくり、と口に押し込むが、パンが大きすぎたのか、唇の隙間からは茶色い切れ端が覗いた。
大袈裟に咀嚼しながら父を見つめる男児は、まるでこの時のために生まれて来たのではないかと思うほど、はち切れんばかりの笑い顔だ。
幸せ。彼の表情から感じたのは、自分の人生とはどこか縁遠いそれを、煮詰めたようなものだった。
「あれが……ぱんけえき」周囲を見渡せば、これを食べている客はみんな同じような顔をしている。それほど美味いのか。
口の中に滲みだしてきた唾液をごくりと飲み込む。そういえば、ツルギバナナを食べたのはもう何時間も前だ。
「外を回るなら、こういうもんを一度でも食っておいた方がいいと思ってな。ただし他のやつらには内緒だぞ! 誰でも彼でも連れてこれるわけじゃねえんだから!」
「はい……でも、先輩たちに申し訳ないです。内緒で、だなんて……」
「いいんだよ、あいつらは昔に食ってるかもしれねえだろ? 対してお前は食ってねえんだから。こういうときゃ、素直に経験だと思って食っときゃいいんだよ」
机の上には、先ほど置かれたグラスが二つ。水晶を思わせるほど透明なガラスで、水面を埋めるように氷がぷかりと浮いている。
そのとき、からんからん。さっき耳にした音が聞こえた。続けて、「いらっしゃいませ」と奥から給仕の声。
外からやって来たらしい客が立っていて、扉の上側で小さな鐘が揺れている。なるほどアジトの鳴子と同じようなものだったか。
「お待たせしました、ブラックコーヒーとリンゴジュースです」
給仕人がやってきて、今度は黄色く濁った飲み物をことりと置いていく。仄かに鼻を掠める華やかな香りは、確かにリンゴそのものだ。
しかし、次にことり、と机に置かれたものに、視線を奪われる。コーガ様の前に置かれた黒い液体の方。白い陶磁のカップから、香り高い湯気がふわふわとのぼっている。店内に満ちる良い香りの正体はこれだ。しかし、やはりこんな飲み物はアジトでも見たことがなく、なにを原材料にしているのかすら見当がつかない。
慣れた仕草で、ず、と啜るコーガ様の動きに釘付けになる。
「コーヒー……って、どんな味なんですか? とてもいいにおいです」
「においはな。スッパの歳だと、ちと早いだろうな。これは」
「そうなんですか? 早いって、どういう」
「まあ気になるなら飲んでみるといい。熱いから、気をつけてな」
コップの下の皿ごと差し出してくるコーガ様に促され、挑戦的な瞳とコーヒーを見比べてから、ゆっくりと取っ手をとる。
鼻先を濡らす湯気が熱い。ふうふうと息を吹きながら啜るが、それでもまだ舌を焼くほどで、一度に飲めなかった。
なんとかわずかに口へ含むと、焦げたにおいが鼻から抜けていく。その奥には確かに華やかな香りがあって、しかしそんなことよりも、これは。
「にがいっ」
「だはははっ、ほらな。言った通りだろ!」
ひとしきり笑ったコーガ様は、机に肘をつき、はぁーとため息。
見慣れないふくよかな顔で「コーヒーだなんて、大人だねぇ」と、満足そうに瞳を
それから暫く、他愛のない話をした。
谷には慣れたか。困ってることはないか。ちゃんと飯を食べているか。律儀にひとつずつ答えたものだが、当時どのような返答をしたかは覚えていない。
掴んだままのグラスの冷たさ。時折くつくつと喉奥で笑ってはコーヒーを啜るコーガ様の指先。そして、自分もタイミングを合わせてリンゴジュースを喉に流す。あの瑞々しくさっぱりとした甘さは、今も舌の上に残っている。
こぢんまりとした店には、入れ替わり立ち代わりで次々に客がやってきた。窓から眺める街の光景も、さっきと同じだ。ただ、なぜだろうか。往来で見遣っていた時と心持ちが随分違う。外と店内とでは、人波から守られている気になって妙にほっとした。
ゆったりと進むコーガ様との時間に割り入るように、それは遂にやってきた。
「お待たせしました。パンケーキです」
こと、こと、と机に置かれる皿。自然と口を噤み、初めて対峙するそれに目を瞠った。
真ん丸で、つやつやとして、一様にこんがりとした黄金色の生地。まるで砂上で見る満月だと思った。中心で蕩ける黄色はバターだろうか。緩く湾曲した生地に沿って流れだしそうで、見ているだけなのに喉が鳴る。
給仕人は、さきほどミルクの入っていたものより、一回り大きいサイズのピッチャーを置き「お好みでどうぞ」と言い残して去っていった。中を覗くと、琥珀色の透き通った液体が湛えられている。さきほどの男児が垂らしながら食べていたものだろうが、蜂蜜……だろうか。
すん、とにおいを嗅いだコーガ様が「あー」と得心したように唸った。
「このにおい、メイプルシロップじゃねえかなぁ。スッパは食ったことねえだろ?」
「メイプルシロップ……? 蜂蜜とは違うものなんですか?」
「蜂蜜ってのは、ミツバチが集める花の蜜だろ? メイプルシロップってのは、いわゆる樹液だな。メイプルの」
「樹液……メイプルの」
「よっしゃ、せっかくだかんな、多めにかけてやろう」
いうや否や、コーガ様がピッチャーを傾ける。粘性のあるそれが糸のように下り、線で波を描くように染みを作ってから、ぷつ、と切れた。たっぷりとかけられたメイプルシロップはパンケーキの全面を色濃く濡らし、溶けきらないバターが、それこそ琥珀の中に閉じ込められた太古の贈り物のように見えてくる。
かけすぎでは、とも一瞬思ったものの、パンケーキの正解が分からない。
ピッチャーに残ったメイプルシロップもコーガ様分のパンケーキにすべて流し、それから主君は「美味そうだな~!」と手を揉んだ。
「よっしゃ、早速いただくとするか! 腹減っちまった!」
「はい、いただきます」
コーガ様は早々とナイフとフォークを掴み、パンケーキを切り取っていく。コーガ様の見様見真似でそれらを繰り、ひとかけらのバターを乗せた。
パンケーキの断面からシロップがじゅわっと滲みだしている。見るからに甘そうで、てらっと輝くそれが自分を誘っていて。
大きく口を開けて、一口というには大きくなってしまったそれを、無理やりに押し込んだ。
まず舌を刺激したのは、暴力的なまでのメイプルシロップの甘さ。それからバターのリッチなミルク感が鼻を抜け、なにより小麦の香りに満たされる。
確かにこんなものは食べたことがなかった。
何の抵抗もなく歯を受け入れる柔らかな生地を噛みながら、さっきの少年の様子を頭に描く。
彼はこれを食べて、あんな顔をしていたのか。他の客も全員。なるほど。これが。
ふわふわと柔らかくて、とろとろに甘くて。大きいように見えて、けれどいつしかなくなってしまう。苦くて辛いところなんて一切のない、人の考える幸福をとことん詰め合わせたような。
彼らの気持ちが分かった。これをいつでも食べられる環境に羨ましさもある。
けれど、なぜだろう。咀嚼しながら考える。
自分には少し、押し付けがましいもののような気がした。
「どうだった? 美味いか?」
なにを言うべきか迷う。この妙に噛み合わない気持ちに当てはまる言葉を、自分は知らなかった。
ごくんと飲み下す。「そう、ですね」と口にしながらコーガ様を見遣ったとき。そこではたりと気付いた。
自分を見つめる細い瞳。
緩んだ頬、持ち上がった口角。
自分の感想を待つ主君は、パンケーキをまだ、一口も食べてはいない。けれど確かに、彼らと似た表情を、主君は浮かべていて。
男児ほどとは言わない。しかし自分なりに、精一杯はにかんでみせた。
「美味しいです、幸せの味だなって思います」
きょと、と目を丸くさせてから、コーガ様は「ははっ」と笑った。
■
アジトの廊下を歩いている最中のことだった。なにやら辺りに、香ばしくて甘いかおりが漂っている。ツルギバナナとも違う。普段のアジトでは絶対にしないようなかおりだ。
妙に懐かしい。これは、もしや──総長室へ向かおうとしていた足が、自然と炊事場に吸い込まれていく。
「なにを作っているのでござる」
「あっ、スッパ様」
炊事場担当の団員が、フライパンで焼き物をする際中だった。
中を覗けば、丸くて平たい黄金色の──パンケーキだ。
「アッカレのメイプルシロップが手に入ったんですよ。とくれば、パンケーキですよね! バナナもソテーにしてみました。コーガ様の今日のおやつにしようかなと」
「食べすぎではござらんか? これをおやつにするならば、夕食後のツルギバナナは調整せねばならぬでござる」
「た、確かにそうですね……ちょっとバナナソテーを減らしましょうか……それともメイプルシロップをギリギリに減らして……」
ぶつぶつと悩み始める団員に、「だったら」と満月のようなパンケーキを見遣った。
「半分にしてみてはどうでござろうか。残りは自分が食べる故」
「えっ、スッパ様が?」
「うむ。バターもあれば上々」
「ありますが……ええっ、意外です! スッパ様、パンケーキお好きなんですか?」
面の奥で、自然と口元が緩く持ち上がった。
「これこそ、幸せの味でござろう」
団員がきょと、と一瞬黙り、それから「はぁ……?」と首を傾げる。
この時ばかり、コーヒーの香りと、軽やかな扉の開く音に、身体が包まれた気がした。