「コーガ様・スッパ」が登場する話

 旧き確執により離反の道を歩んでいた隠密の輩が、王家との和解を選んだのは何十年も前の話。
 暗殺や諜報といった血なまぐさい活動から足を洗った彼らは、今やハイラルの一員として社会に組み込まれ、安穏とした日常を送っている。

 当時、イーガのまとめ役でもある総長・コーガの心労は相当のものであったろう。悩みに悩んだ決断がどう転ぶか想像もつかなかった。しかし蓋を開けてみれば、彼は三食昼寝付き、おまけに日に五度はおやつのバナナを食べ、仕事を部下に丸投げする毎日だ。彼を慕う団員たちも、中央と対立していた時分と比べれば遥かに良い生活を送っている。
 きっと、この選択は間違いでなかったに違いない。長らく闇に身を賭していたイーガ団に平穏が訪れた。いつ終わるかも分からない平穏が漸く。


「暇だなー」


 深穴の広間で昼寝をしていたコーガは、今日も今日とてバナナに齧りつきながら、空を見上げている。
 ぐるりと広間を囲うような岩崖は高く、抜けるような青空が丸く縁どられている。真っ白な塊の雲が右から左へぷかぷかと流れ征くのはいつだって変わらない眺めだが、退屈しのぎにちょうど良い。
 総長である彼が雲の観察をしているだけで、イーガという集団が回っていけるのには理由がある。
 部下が優秀だから。主が行動を起こさずとも、気を利かせて皆が率先して動いてくれるから。
 彼は信仰対象として、ただ毎日、寝ているだけで良い。

「コーガ様、お忙しいところ申し訳ござらぬ。暫しご相談したいことがあるでござる」

 予兆もなく、突如として広間に響き渡ったのは、低いしゃがれ声。
 「なんだぁ?」と、寝転んだまま首だけを声の方へ向けると、そこには実質的にイーガ団をとりまとめている筆頭幹部のスッパが立っていた。
 朝餉を食べ、昼餉を食べ、少し寝て、夕餉を食べる。総長としての日々に、必ずスッパと過ごす時間が割り込んでくるようになって、既に数十年だ。
 見上げるほどの上背が少し縮んでも、艶のある低音がしゃがれた声になっても、地毛の黒髪に白髪が混じるようになっても、彼は毎日甲斐甲斐しくコーガを横で支えている。

 コーガが作り上げたバナナの皮の山を横切って、甘ったるい発酵臭を漂わすそれに一瞥もくれず、スッパは緩い動作で片膝をついた。

「この度、ガーディアンの出現により破壊された大聖堂の修繕が10数年の歳月をかけて叶ったので、イーガの総長としてコーガ様にも式典へ参加して欲しいとの書簡が王家より届いたでござる。如何いたしましょうか」

 コーガは、緩やかに動く雲から視線を逸らさずに、「あー」と力の入ってない喉で唸った。

「この前もなんかの式典やったよなぁ、確か交易所だったか?分かってんのかね、俺たちゃ隠密を捨てたつもりは無いんだが」
「王家の権威を示し、イーガとの和解を喧伝する魂胆でござろうな。長が出席しているという事実が彼奴等にとっては重要でござる」
「面倒だな。王家の言いなりを続けんのも、行くこと自体も。俺様そこまで暇じゃないっつの」
「では、コーガ様に扮装した団員に行かせましょう。あすこの執政補佐にはもしや露呈する可能性もあるでござるが、同族という立場上、おいそれと指摘できますまい」

 二の次には最適案を出してくるのだから、さすがの老成である。幼少期から今に至るまでを、隠密に捧げた男の言だ。業務を丸投げするコーガが無下にはねつける理由なぞどこにもない。
 「おう、じゃ、それで」と、なんとなくぬるつく指先を擦り合わせながら、視線を空へと戻す。
 御意、というしゃがれた声が結元にかかった。それに、巨漢が立ち上がる衣擦れの音と、コーガの鼻歌、遠くで聞こえるシマオタカの鳴き声が、重なっていく。

 余計な世間話などしない。主君の昼寝を邪魔しないよう、無言で去っていくのがスッパの毎日だった。いくら全盛期と比べて背が曲がり、引き摺るような足並みになったとしても、音一つなく、気配一つ悟らせない。その場の空気と同化できたのは、間違いなく彼の人生が隠密であったから。
 だから、痰の絡んだ濁音の空咳をスッパが漏らしたとき、違和感を覚えたのは確かだった。「風邪か?用心しろよ」と声だけ投げて、それ以上は気にしなかった。
 掠れ声でも返事が返ってきたものだから、それでよしと新しいバナナに手を伸ばす。このとき改めて、遠くでシマオタカの鳴き声が聞こえるだけの、静かで退屈な平穏が谷間に広がっていた。ほんの、一瞬だけ。

 どさ、と音がした。それは唐突に。重い何かがかさついた砂地に放り出されたような音だった。
 スッパ? と呑気に首を回したコーガは視線を辿る。白い雲から、青い空、赤茶の地層壁、黄土色の砂地。
 横たわる、赤い装束の塊。
 それは間違いなく、長らく彼の右腕として動いていた老骨だった。

 右腕の男の名を叫びながら駆け寄る。膝をつき、ゆさゆさと身体を揺さぶるが、しかし反応がない。意識が無い。
 おい誰かと叫ぶ緊迫した声が、カルサーの崖間に反響していく。雲の間に紛れ込んでいくように、声は蒼空へと吸い込まれていった。





 戸をノックすると、しんと静まり返った部屋の奥で、微かな衣擦れの音。その後に、どうぞと枯れた声が続く。
 引き戸を開ければ、いの一番に飛び込んできたのは手狭な部屋に敷かれた白い布団と、上半身を持ち上げた状態でこちらを見るスッパだった。
 普段は見慣れない着流しは寝間着だろう。髪の毛は結わず、しかししっかりと仮面を身に着けて主君を出迎えるのだから、律儀なやつだとコーガは内心で苦笑する。

「調子はどうだ、スッパ」
「・・・・・・コーガ様」

 業務中にスッパが倒れてから半月が経つ。
 団員は一人残らず肝を冷やした事態ではあったが、数日後には意識が戻ったので胸を撫で下ろした。医療班からは年齢の割に働きすぎだと言われ、自室で養生するように釘を刺されている。

 背筋を伸ばして布団から出ようとするスッパを、コーガは「無理すんな」と手で制した。どっかりと座り込んだ折、傍に置いてある行燈の灯が風で煽られ、二人の仮面を影で揺らす。
 なぜここに、と言いたいイーガの瞳に、コーガは肩を持ち上げてみせた。

「たまにはゆっくり話がしてえと思ってな。他のやつらにも頼んだんだ。二人っきりにさせてくれってな」

 スッパが倒れてからというもの、こうしてじっくり話をするのは初めてだ。度々顔は出しているものの、筆頭幹部に投げていた仕事が全て自分の元に返ってくるようになったのだから、時間がとれずに部屋から去っていくことが続いていた。
 集団の主として、それこそが本来あるべき姿だろう。今まで締まりがなさ過ぎただけで。

 「かたじけない」とこぼすスッパの声は、長く共に歩んできた中で初めて聞くほど弱く掠れていた。

「あんまり食ってないって聞いたぞ。まずは体力つけんとな。食欲なくても食ってくれよ。肉とか、米とか特によ」
「頭では理解しているつもりでござるが、どうしても・・・・・・。コーガ様にも御心配頂くとは、申し訳なく・・・・・・」
「まぁ、俺様のことは気にすんな。一番大変なのはお前だろ」

 肩をぽん、と叩けば、装束越しに筋肉の削げた骨の感覚が伝わってくる。普段なら装束に隠されている手の甲には細い骨の筋が浮いており、肌は水気が抜けきったようにしわがれ、生きている人間とは思えないほど血色が無い。
 きっと彼は面下でも酷い顔をしているに違いなかった。眼孔は落ち窪み、目の下には隈が宿り、皺は深くなり、頬はこけ、いつ死んでもおかしくないほど老いさらばえた相好。
 ある意味で年相応なのかもしれないが、そんな顔を今眼前に出されたら、コーガですら動揺を隠し切れなかったかもしれない。

「・・・・・・そういえば、大聖堂の式典は如何なされたのでござるか」

 スッパがふと口へ出したのは、倒れる直前に相談していた業務の話だ。あれから日が経つが、どう片が付いたのか彼に詳細を教えていない。
 こんなときくらい忘れれば良いのにと思ったって、それが叶う相手でないと分かっている。あれかとぼやきながら、コーガは散らかった頭の中をひとつひとつ辿っていく。

「お前がこんな状態じゃ、おいそれ俺様がアジトを離れるわけにもいかねえだろ?予定通り、俺様に扮装させた団員を行かせた」
「・・・・・・では、人手不足の件はどうなりましたか。各地の復興に人員を割き、アジトで従事する団員が減り過ぎている件でござる」
「それも宮の奴らによおく言い聞かせたから心配すんな。まずはこっちで奉公に出る頭数を決めた上であっちに提案するって流れに決まったぜ」
「では、ゲルドがカルサーの遺跡に関して口を出している件は」
「結構厳しいけどな、今度使節団がやってくるってよ。遺跡を無暗に壊したりしてなければ免除になりそうだ」
「王家への派遣時に受け取る給金の値上げについては・・・・・・」
「なあ、スッパ」

 どっしりと構えているようで、スッパは度々心配性の気質を覗かせる。スッパ自身が完璧であろうとする心構えのせいかもしれない。堰を切ったように続く質問を真面目な声で制すると、スッパはぴたりと口を噤んだ。
 古強者といえど、命を捧げた主君の声は絶対である。いつまでも変わらないその瞳を、コーガは同じ色の瞳でグッと覗き込む。

「お前が心配するようなことは何一つねえ、安心しろ。ちゃんとイーガは回ってる」
「しかし・・・・・・」
「俺様だってこの何十年、しっかりとコーガ様をやってきてンだ。お前が倒れたくらいで狼狽なんかしない。もうヒヨッコじゃねえんだから」

 コーガが今の跡目を継いだのは、もう全てが終わった後のことだった。厄災との戦争も、王家とのいざこざも片が付き、長らくハイラルの暗部に身を落としていた集団は平穏無事な毎日を手にしていた。
 一団員として一部始終を見届け、彼はコーガとなった。
 当時からこのスッパという男が取りまとめ役となり、イーガが回っていたのは間違いのない事実である。彼が唐突に現れた違うコーガを受け入れ、支えていたのも間違いようのない事実である。
 しかし、あれから何十年が経った。いつまでも彼は、責ある立場に慣れない男ではない。

 何も言わず、スッパは動かない瞳を見つめ返してくる。かつて王家から迫害され、復讐に身を捧げ、仲間のために頭を下げ、世界の一部となるのを受け入れた、瞳の証。
 今はただ、一族の誇りの象徴となった、瞳の証を。

「・・・・・・きっと、もう大丈夫なのでござろうな」
「あぁ。俺様はもう、大丈夫だ」

 業務を終える時がやってきたのだ。布団に移った視線の先に、慈愛を込めたコーガの穏やかな声が重なる。
 今まさに背中へ負っていた荷を降ろしたかのように、スッパの肩から力が抜け、寝込んでいた人間とは思えないほど伸ばされた背筋が、漸く老骨らしい曲線を描いた。
 ふっ、とスッパの仮面の隙間から息が漏れる。笑みとも、安堵とも分からぬ吐息だった。

「・・・・・・これで漸く、自分もいけるでござる」

 低い掠れ声は、微かに喜びを含んでいる。その意味を理解したくはない。コーガは一笑に付したく、口端を無理に持ち上げた。

「いくって、どこにだよ」
「隠密のあるべきところへ」
「動けねえくせに、何言ってんだ」
「身体は動かずとも、いける場所はあるでござる」
「業務が終わっただけだ。どっかいくなんて、俺様許してねえぞ」
「実際、長くはないのでござろう。だから貴方がここへ来た。自らの身体の事、なんとなし分かるでござる」

 感情を押し殺す声音は、少しでも揺れれば水面に大きな波紋を立たせたろう。静謐で、一切揺れのない空気を震わせる会話は、何十年と共に過ごした彼らだからこそ成り立つ。
 受け入れている。むしろ、迎え入れている。仮面の奥の相好が緩み、その口元に笑みさえ乗っているかもしれないと考えて、コーガは握った拳に力を込めた。

「・・・・・・なんか、やりてえこととかねえのか」

 だからせめて、足掻いてやりたい。このままいかせるなんて、そんなのは一族の長として許すことができない。

「やりたいこと」
「なんでも言えよ。せめてもの手向けだ。望むことなんでもやってやる」

 刹那、考え込むような静寂。俯き加減に面を伏せると、耳にかかっていた彼の長髪がさらりと零れた。

「では、・・・・・・髪の毛を、染めたく」

 「髪の毛?」わずかに傾いだ瞳から返ってきたのは、思ってもみない要望だった。
 スッパの髪の毛は長い間、黒の地毛であったが、ここ数年は白髪が混じり、折を見ては染髪していることを知っていた。暫く寝て過ごしているからか、根元が白み始めている。彼はその白すら気にしているらしい。

「そんなのでいいのか? 最後に見ておきたい景色とか、そんなんじゃなくて」
「貴方の手で、黒に。・・・・・・頼むでござる」

 本人たっての、それも何十年と隣で自らを支えてくれた筆頭幹部・スッパの要望だ。
 「ああ、いいぜ」と随分小さく頼りなくなった肩を、コーガはぽんと叩いて約束の代わりとした。














 染髪は、天気の良い日に決行された。
 スッパが団員たちの肩を借りて連れてこられたのは、深穴の広間に臨む総長室。日に透かしながら色を見たいというコーガの主張を元に、普段は決して染髪に使われないここが選ばれた。
 開け放った扉から乾いた風が吹き込み、スッパの黒髪を揺らしていく。総長室から眺める景色は崖の所為で手狭に思えるが、雲一つない碧空は心の中まで澄ませていくようで気分が良い。
 普段はコーガが腰かけている座椅子に促され、恐縮しながらもゆっくりと背中を預ける。次いでコーガがよっこらせと唸りながら、背後に膝立ちとなった。

 かたん、かたん、と背後で染髪の準備を進めていく間、スッパは深穴を眺めながら、陽光と緩い風の流れに目を細めた。

「今、自分の髪の毛はどうなっているでござる?」
「根が親指の先くらい白んでるな。しかしシーカーの白髪とはやっぱ感じが違うなぁ、真っ白だ」

 シーカー族と言えば、日に透かせば透明と見間違うような白髪が特徴である。人によっては銀髪と称すこともあり、加齢による白毛とは印象が違う。
 コーガの指先が髪の束に通されて、染髪材を染みこませた刷毛で頭皮の際から毛先に向かって撫でられた。普段は染め師に頼む繊細な作業だが、コーガは非常に器用な男である。染め師と遜色ない手さばきで、スッパの白毛を元の黒檀のような色合いに染め上げていく。

「これくらいまばらな白だったら、気にしなくても良かったんじゃねえか? 別に目立たねえぞ」
「染髪をすると気持ちが切り替わります故。やはりイーガといえば漆黒の髪でござる」
「とはいえよぉ、染髪すんのに長時間座りっぱなしは、お前だってしんどいだろ」
「それでも、いく前に染髪はしておきたく」
「・・・・・・なんでそこまで」
「シーカーでない自分が皆と同じく染髪の機会を得るのは、まるで血縁であるかのように思えるので」

 おそらく、数時間をかけておこなう染髪など、どの団員も面倒で避けたい作業であろう。
 それでもコーガを始め、イーガの大半を占めるシーカーが染髪をおこなう様は、幼少期から見続けたスッパにとって憧れだった。
 歳をとり、身体が思うように動かなくなって失ったものは多い。しかし、彼らだからこその儀式を自らおこなえるようになったあの日、また一つこの集団に馴染めた気がしたのは、確かだった。

「・・・・・・血縁なんて、関係ねえよ。お前は誰がどう言おうと、イーガの一員だろ」

 言い聞かせるような主君の声。はい、と答えた口先が緩む。主君は、こんなぼやきにさえ寄り添ってくれるのだ。

 それから暫く、何も喋らない[[rb:静寂 > しじま]]が辺りを包んだ。刷毛が髪の毛を撫でつける小さな音と、開け放たれた扉からシマオタカの微かな鳴き声が耳を過ぎる和やかな空間。深穴の間は相変わらず日陰に包まれているが、わずかに見える崖上は陽光を跳ね返してやけに白く見え、穏やかに頬を撫でる風は春を思わせた。
 いつもと変わらない、いつもの景色だ。自分が主君を訪れるとき、何十年と変わらずに見つめていた景色が、ここにはただ端然と存在している。

「・・・・・・情けないでござる。自分はずっと、床では死なぬと思っていたのに」

 隠密の生き方しか知らず、主君に命を賭すことを至上としていた。それはきっとスッパだけなく、イーガに属する人間全ての思いだ。
 しかしあれから随分、世情が変わってしまった。団員の至上が世の流れと相対するのは今に始まったことではないが、イーガそのものが変わってしまえば迎合するしかない。

「死ぬか殺されるかのヒリついた戦場なんてトンとねえんだ。むしろ床以外で死ぬなんぞ、今となっちゃあ不名誉の証だ。」
「それでも死に場所を求めてここを去った者もいるでござる。せめて自分も隠密の人間として、生をまっとうしたかった」
「どこで死のうと、お前はイーガをまっとうしてるはずだ。後悔があるなんて言わせねえぞ」
「後悔がある、とは・・・・・・」
「そういう言い方じゃねえか。まさか、あの人と一緒にいきたかったなんて、言うなよ」

 あの人。と聞いて、くっと胸が痛むのは、彼の言葉を聞き流せない理由と同じだ。
 誰と言わなくても分かる。自分と主君しか知らない名もなき団員のことだ。主君の前にコーガを名乗っていた前代。・・・・・・スッパをイーガに引き入れた張本人。
 スッパは眉尻を下げる。何十年と共に過ごした彼から、こうまで明確な叱責を浴びせられるとは思わなかった。それも、たった一度でも触れたことのない、あの人の話に踏み込むなんて。

 しかし、ふと、思い出したこともある。彼には話したことのない過去で、隠していたつもりでもなく、今まで彼に話す機会を得られなかっただけのくだらない話だ。今更話すのは、遅すぎるに違いない話だ。

「一度」

 ただ、言いたくなった。言っておきたくなった。
 きっとそれに、意味なんて出来っこないだろう。しかし、何十年と共に過ごし、誰にも明かせない秘密を分かち合うイーガの盟友に、自分の話を知っていてもらいたい。

「一度だけ、自分は、あの人の元へいこうとしたことがあるでござる」

 ひた、とそれまで途切れずに動かし続けていた刷毛が止まった。
 たっぷりの静寂の後、ほお、とだけ唸ったコーガは、それまでよりも緩やかに根元を刷毛で撫で始める。

「それは、俺様も知らなかった。そんなこと考えてたのか、スッパ」
「夜半にアジトを抜け出て、崖から一思いに身を投げたら、と」
「でも、やめたわけだ。今も生きてるわけだしな」
「その日の晩。夢を見たので」
「・・・・・・夢?」

 慇懃にイーガに仕えてきた男が、幻でしかない夢の話をいつまでも覚えている。それに囚われている、と明かすようなものだ。
 しかし、彼なら許してくれるだろう。なぜなら、もう耄碌している。夢か現か判断のつかぬ微睡みと、ほとんど同じく霞がかった脳みそなのだ。その話をする相手が主君であるのなら、これ以上の人はない。

 扉から覗く黄土色の砂地。赤茶の地層壁。青い空。いつの間にか、白い雲。
 焦点が上手く合わなくなって、あの時見た、夢の光景が広がっていく。

「自分は、幼き子供。イーガに来た時と同じ年頃の子供になっていてござった。
 腹が減っており、なにか食い物をと探す折、遠目に見つけたのは人影。それはたった一人で立ちすくむ、あの人だったのでござる。
 自分はあの人がバナナを持っていることを知っており、なにか食べ物を、と縋った自分は、バナナを貰えることを期待した。
 しかし、あの人はバナナを手に持っただけで、決して自分に渡してはくれなかったのでござる。
 どれほど頼み込み、頭を下げ、涙を流しても、決して」

 お願いします、と繰り返すうわごとで目を覚ましたあの瞬間。汗にまみれた身体と、無意識に荒くなった呼吸。気分は最悪だった。
 今まで自分の居場所だと思っていた場所が、そうではなく、それこそが夢なのかもしれないという一抹の疑念。

「・・・・・・それは、スッパがイーガに来た時の」
「はい。自分があの人に拾われた際の、追体験のようなものでござる」

 しかし、と続けたスッパは、太ももに爪を立てた。その指先が白むほど強く、力を込めて。

「あれは夢ではござらぬ。あれはおそらく、黄泉でござった」

 アジトを背後に、深穴の間の向こうにいつまでも続く砂漠は何もなかった。果てすらも。

「まだ来るなと。俺はあの人に、拒まれたのでござる」

 こんな話、荒唐無稽だと思うだろうか。しかし、そうとしか思えない実感を自分は持っている。
 一緒にいきたいと願った言葉は、黄泉の前でさえ聞き届けられはせず、あの人はただ、自分をこの地獄のような平穏に押し留めて、先にいってしまうのだ。
 自分がついてこられぬよう、ただ一人で、どこかに。

「・・・なんつーか」

 耳に届くのは、あの人としか思えない盟友の声。
 もうこの耄碌した鼓膜では、その判断さえつかなくなりそうなほど、あの人に似た声だった。

「スッパが居なきゃあ、イーガはあのまま無くなっちまってただろう。お前が居てくれて助かった」

 そうだろう。そうならないために、あの人は自分に最後の任務を言い渡した。自分もそれに全力だった。

「あの人との時間は大切だったろう。でも俺様は、お前と過ごしたこの何十年が、かけがえのない時間になった」

 そうだ。あの人との時間は大切だった。自分も一緒にいきたいと願うほど。
 しかし貴方との時間がかけがえのないものだったのは、俺だって同じだ。だから今までを賭してきた。

「俺様は、スッパと共に生きたかったんだ。
 ありがとな、スッパ。お前と生きられて俺様、本当に良かったって思ってるんだぜ」

 それを言いたいのは俺の方だった。貴方はあの人ではないが、確かに俺の主君であった。
 しかし許して欲しい。俺は、あの人に囚われすぎた。貴方はいつでも、俺をスッパだと認めてくれていたのに。
 俺の居場所は確かにずっと、この場にあったのに。

「スッパ」

 ・・・・・・ああ、そうか。そうか。自分がいたのは安穏な地獄ではなかった。
 ただ、自分の求めた毎日があっただけ。それに今まで気が付かなかっただけだった。

「スッパ」

 すまないと言いたい。ありがとうと言いたい。でも、どうにも貴方の指が心地良い。吹き抜ける風が心地良い。だからか分からないが、声が出ない。振り返れない。視界にあるのは、染み付いたようないつもの深穴と崖、碧空の景色だけ。
 さいごに、俺とあの人と貴方を思い出せる、ここへ来られて良かった。




「スッパ・・・・・・?」

 返事がなくなった。微動だにしなくなった。染髪用の手袋を脱いで、コーガはスッパの前に回った。
 開いた瞼の奥に、何物も見ていない白濁した瞳。首筋に手を当て、彼の脈動を探る。
 数秒の後、それから力が抜けたようにコーガはずるりと指先を下げ、尻もちをついた。ため息を吐き、額を手の平で覆った。
 暫くして、イーガを何十年と支え続けた老骨の、皺の入った頬をただ撫でる。

「任務、ご苦労さん」

 筆頭幹部の仮面を外した男の瞼が、漸く閉じられる時がきた。









 甘ったるいにおいが風に乗って漂ってきて、スッパは目を覚ました。
 どうやら座椅子に座ったまま少し眠っていたらしい。開け放たれた扉から見える景色は、ほとんど変わっていない。相変わらず遠目に白く反射する地面があるだけで崖間は日陰、抜けるような碧空に、雲がぷかぷか浮いているだけだ。
 いや、深穴の間に、赤い装束の誰かが寝転んでいる。誰かなんて考えるまでもない。自分が身を捧げたイーガ団の総長、コーガ様以外に誰が居られようか。
 何をしているのか問うために立ち上がる。不思議と身体が軽く、いつもより大股で歩ける気がする。なぜだかは、分からないが。

 コーガ様、と遠目に呼びかけると、首だけぐるりと回した主君が、「おおっ!」と大袈裟な声を上げて立ち上がった。

「やっと来たかスッパ!俺様待ちくたびれたぜ~!」
「申し訳ござらぬ。まさか染髪の最中に寝落ちるとは一生の不覚」
「それだけ疲れたってことだろ。大変だったもんな~!」
「コーガ様、そろそろ日が落ちるでござる。アジトの中に戻らねば」
「いやあ、おれたちぁもう、そっちには戻れねえからさ」

 どういう、と言いかけて、スッパは口を噤む。先ほど抜けてきたアジトの門が閉じている。木でできた扉はたてつけが悪く、動かすときはいつも大きな音が鳴るのに、気付かなかった。
 奇妙な違和感にジッと門を見つめていると、背中から「いこうぜ、スッパ」と穏やかな主君の声。
 振り返れば、深穴の先、ゲルド砂漠へと向かおうとする主君が手招きしながら待っている。

「どこにでござる」
「場所なんて知ったこっちゃねえよ、おれたちゃ、いくしか他にねえんだからよ。退屈な旅だぞ。でもまぁ、お前がいりゃあ大丈夫だ」
「そうでござるな。不肖スッパ、コーガ様にどこまでもお供致しまする」
「おうおう、その意気やよし。あ、そうだ」

 何事か思い出したように、突然ゴソゴソと懐を弄ったコーガは、取り出したものをひとつ、スッパに差し出す。

「ほれ、バナナ食うか?」

 手の平に乗っていたのは、バナナ。スッパの好物である、一本のバナナだった。
 その黄色を見て、息を飲んだ。震えながら指先を伸ばして、主君から静かに受け取り、手の中に収まったバナナをジッと見た。
 「食べねえのか」という笑い声に促され、力の入らない指先で皮を剥いた。仮面を口元の分だけずらすと、甘ったるい果実の香りが鼻腔をくすぐる。よく知った香りだ。アジトのどこにいても微かににおう、ねっとりとした南東の香り。
 一口分だけ小さく口唇を開け、齧りつく。さんざ食べてきた果実のはずなのに、しかし全く知らない味だった。
 ここのバナナはこんな味がするのか。ひどく苦くて、塩っ気があった。それに水っぽいし、鼻で呼吸ができなくなる。
 でも、しっかり優しく、温かい。慈しみを感じる味だった。

「ははっ」

 主君が笑った。懐かしい笑い声だった。そういえばこんな風に笑う人だった。自分はこの人から、バナナを貰いたいと考えていた。ずっと。ずっと前から。
 鼻をすすりながら、嗚咽を堪えながら、バナナを食べきった。仮面の中は水気でぐちゃぐちゃだ。この人にこんな姿を見せるのは二度目だ。
 笑いながら今度は、背中をとんとんと叩いてくれた。その手の平は、よくよく知っている手の平だった。

「頑張ったなぁ、お前。でもこっから更に頑張んなきゃだぞ。一緒にいこうや」
「どこへ?どこまで?」
「どこまでもだ。どこまでも。一緒に。一緒にな」

 彼に背中を支えられながら、二人してゆっくりと歩き出した。今までどれほど大変だったか、どれほど待ってくれていたか。そんな話をしながらゆっくりと。

 貴方といきたいと願ったいつかの祈りが、砂漠の果てへと道を作っていく。
 冥府の旅路をどこまでも。二人なら大丈夫だと、いつまでも。

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