【ss/not夢】イーガ団員の日常話
「ヤァ!イイ天気ダね、ゼッコーのお散歩日和だね!ポカポカ陽気でサイコーな気分!」
「そうだなぁ。でも俺は昼寝でもしたいよ。リンゴでも齧りながらさぁ」
「イイネイイネ、ボクも大好き!丸くてピカピカの甘いやつ、お腹空いちゃった」
「見かけたら採ってやるな、この辺りはリンゴの木があるはずだから」
「ホント?やったぁー!楽しみ楽しみ!」
「ははっ、・・・・・・お前らってほんと、リンゴ好きだよなぁ」
「おい、何一人でぶつぶつ言ってる。静かにしろ」
「あ、スンマセン」
柔らかな日差し。草木が萌える穏やかな街道。頬を撫でていくハイラルの薫風。
そんな穏やかな日和とは全く似つかわしくない横目が、遠慮なしに俺を睨んでくる。
荷馬車の音で聞こえないだろうと思ってたのにバレちまった。まるで入団したばかりの後輩に向ける目線とは思えない、気味の悪いものでも見るような視線が痛い。
ヘラァと笑いかけると、先輩は何も言わずに、ふっと前を向き直した。言ってもしょうがないと思ったのか、頭のおかしな人間でも、受け入れなきゃしょうがないと悟ったのか。
俺には分かる。こういう顔、今までもよく見たことがあったんで。
「怒られちゃったねぇ、なんでアノ人、怒ってるのかなぁ」
今この場では似つかわしくない、呑気な声が耳をくすぐってくる。
なんで分からないかねえ。今しがた怒られた手前、首を傾げる”それ”の声へ、すぐさま答える気にはどうしてもなれない。俺は視線を落としながら口を噤んだ。
「笑ってた方が楽しいのにねぇ。だってチョウチョがパタパタで、雲もとっても美味しそう。ウフフ、楽しいこと、たくさんあるのにねぇ。キミもそう思うでしょ?」
「・・・・・・」
「ねえねえ、そう思うでしょお?」
荷馬車に座り込むコロコロした身体が、俺の視線を誘おうと小枝を揺らしてる。彼らは意外とかまってちゃんだ。仕方なく、馬を引く先達に気付かれないように、声を潜めた。
「ちょっと・・・・・・静かにしてくれ。今任務中なんだ」
「ニンム?ニンムって?」
「ツルギバナナを仕入れてくる任務!・・・・・・ほら、イーガ団じゃ、みんなたくさん食べるから」
「なるほどお、これがニンムだったのかあ!」
「そうそう。・・・・・・だから食べるなよ。これはお供えモンじゃないから」
「食べたかったなぁ、とっても良いにおい。ねえ、食べちゃダメ?」
荷馬車に積まれたツルギバナナへ”それ”が手をかける。
俺が、ダメ!っと声を上げた瞬間だった。
「おい!ごちゃごちゃゴチャゴチャうるせえって!黙って静かに歩けよ!」
「あ・・・・・・スンマセン」
先達の咎める声は、さっきよりもよっぽど鋭くてデカかった。
「怒られちゃったね・・・・・・」と続く子供のような声。俺は今度こそ唇を噛んで黙り込むだけだった。
■
ハイラルは、遥か彼方に女神が造り給うた奇跡の国。それは伽話なんかじゃなく歴史であって、それ故に説明できない不思議な物に溢れてる。
例えば、聖なる力を持つ女神の生まれ変わり。それから、7日にいっぺん、死んだ肉体が生き返るマモノ達。
あとは────彼らみたいな。
葉っぱで作ったお面に、丸みを帯びた木の身体。舌ったらずに子供っぽく喋る彼らは、一目見て「なんだこりゃ」と言いたくなる不思議な風貌をしている。
名前はコログ。彼らが自称するには森の妖精、なんだとか。
悪戯好きなコログは世界のあちこちに隠れていて、遊んでくれる人と出会えるのを心待ちにしているのだという。
とはいえ彼らは、誰にでも見える存在というわけじゃない。俺だって、俺以外に彼らが見えるという人に出会ったことは無いし、「森の妖精がね」という話を持ち出して、何度眉を顰められたことか。
なんで俺に見えるのかは分からないが、昔から第六感は強い方だった。何も無い場所を指さして母親をビビらせたこともある。俺が彼らと出会うのは早かった。
コログの存在は、父親のいない幼い俺を随分救ってくれたと思う。初めて訪れた森でも彼らがいれば道案内をしてくれるし、木の実や山菜の場所を教えてくれる。話し相手にも困らない。
だから、同じ年頃の友人が一人もいなくても、母親が黙って家を出て行ったときも、オレは意外と平気だった。
そんな俺がイーガに辿り着いたのは、ある意味当然だったんだと思う。
厄災復活が噂されてて、当時は世の中が不安定だった。俺は頭のおかしなやつとして街に居場所がなく、この先も生きていくためには、何かの集団に属するのが一番で。
砂漠にやってきたのは、第六感が働いた故の”セーゾンホンノー”ってやつに違いない。
「ヤア!おはよ!今日もバナナありがとうね!」
カルサー谷に並ぶ蛙の道祖神。そのうちのひとつにバナナを供えてやると、若芽が瞬くような光を散らしながら、コログがポフンと現れた。
任務前、お裾分けをお供えしてやるのが、イーガに来てからのお決まりだった。ここで日々のしょーもない話を交わしてからアジトを旅立っていく。
俺の話を唯一じっくり聞いてくれる相手だ。嬉しそうにバナナを抱えるコログの隣に、片膝を立てて座り込む。
「今日は何しに行くの?」
「今日は、馬宿で聞き込み。あとはー・・・・・・バナナの調達かな」
「キミだって、バレないように?」
「そ、バレないように」
「ウフフ、かくれんぼだね。楽しいね!」
「まぁ、そんなとこ」
からころからと、木の実の笑う声。タンブルウィードがカサカサと俺の横を通り過ぎていって、ツンと鼻の奥を刺激する埃っぽいにおいに、頭を撫でていく空っ風。
「あ、龍だ」
カルサー谷の隙間から、細長い旗がたなびいてるみたいな龍が、ゆっくりと泳いでいくのが見えた。
コログが、ほんとだぁ、と楽し気に手を振る。おーいと言ったって聞こえるわけもないのに、その朴訥な声は、龍に声が届くって信じて疑ってないみたいだ。つられて口元が緩んじまう。
今日は、良い日だ。こういう日には決まって懐からバナナを取り出して、後ろ手をつきながら空を仰ぐ。
任務に発つのは、これを食べきってからでも良いだろ。こんな中で食う飯が、一番美味いに決まってるんだから。
「イイ天気だねぇ、気持ちがイイねぇ」
「ああ、良い気分だ」
イーガに来てからというもの、俺はこの時間がお気に入りだった。カラコロ笑うコログと一緒に過ごす、任務前のこの時間がとても。
・・・・・・でも、そろそろ向き合わないといけないこともある。俺はそれに、薄々気が付いていた。
門に描かれたイーガの瞳。じっと睨んでくるその視線に背を向ける。
せめてコログが一緒にいるときは見たくない。今にして思えば、それは俺の精一杯の拒否だったのかもしれない。
■
イーガに入団してから数か月が経ち、俺にひとつ、大きな任務が舞い込んできた。
今日はいつもの扮装は無し。身体にぴったりと纏わる赤い装束に腕を通して、ベルトを巻く。鉄棘の暗器を布帯で腕と脚に固定し、髪の毛を頭の上で結わう。
最後に素肌を隠すのは、ここの象徴ともいえるイーガの仮面だ。
決して落ちないように、被った後で、しっかりと仮面のベルトを絞った。
二連弓を背負い、アジトの門を抜ける。
昼間と違って、カルサーの夜は思った以上に肌寒い。ひゅうひゅうと鋭い音をたてながら谷を過ぎていく風は、まるで何かの生き物が吠えているようだ。
でも、ふるっと身震いしたのはそれだけの所為じゃない。きっとこれは、武者震いってやつだった。
森の中で笑って暮らしてた俺にも闘争本能なんてあったのか。今更新しい自分に出会ったみたいでなんとなく笑える。
「夜におでかけ?珍しいねぇ!」
足を一歩踏み出した瞬間だ。谷間に声が響いてギクリとした。
振り返ると、道祖神の隙間からひょっこりと葉っぱの面が覗いている。もちろんそれは、いつもバナナをくれてやる馴染みのコログだった。
「夜は危ないよ、ホネホネがいっぱい出て来るから、おうちにいた方が安全だよぉ」
トテトテと歩いてくるコログに、俺は「はは・・・・・・」と笑みを返した。随分力が入らなくて、スカスカのリンゴみたいに抜けた吐息だった。
「今日もニンム?またかくれんぼ?」
「いや、・・・・・・違う。かくれんぼじゃない」
「なになに、何しに行くの?聞かせて聞かせて!」
「なんつーか、そうだな・・・・・・もっとすごいやつ、かな」
はっきり言えなくてうやむやにすると、コログはいたいけに首を傾げる。
「どんなニンムなの?すごいってなあに?」
「あんまり言えないけど・・・・・・これで漸く俺も一人前になれる。ここで認められる」
「イチニンマエ?ここで?」
「ああ、そうだ。この任務をこなせば、やっと・・・・・・イーガ団の一人になれるって、そう思ってるんだ」
背中へ負った二連弓をギュッと掴む。
指先に感じたのは、弓幹の表面に刻まれたたくさんの傷跡、歪み──この弓の人生経験みたいなものだ。
俺は今日、これを使って一人前になる。そしてきっと、イーガが俺の、居場所になる。
俺は、自らの手で、これからの行く先を掴み取りたいと。掴まなきゃいけないと、ずっと、・・・・・・ずっと考えていた。
「・・・・・・しない方が良いんじゃないかなぁ」
ほた、と耳を打ったのは、木の実が零れ落ちたみたいに小さな声。
視線を落とす。そこにあるのは、見慣れた虫食い穴の葉っぱ。
その表情は変わらない。・・・・・・だけど、落ちた影がどこか、物憂げだった。
「しない方が、キミのままでいられるんじゃないかなぁ」
「・・・・・・それじゃだめなんだよ。俺のまんまじゃさ」と、小さな身体の前へ、膝をついた。
「心配するなよ、そんなに変わるわけじゃない。・・・・・・ただちょっと、成長するだけ」
「そうかなぁ。そのままの方が、楽しいんじゃないかなぁ」
「・・・・・・お土産、持ってきてやるからさ」
「それまで、これ食べてて」と、懐からバナナを一本もいで、コログの小さな幹の腕へ静かに乗せた。
それから立ち上がり、行ってきます、と踵を返す。
歩き始めてから暫くして、バイバイと小さな声が背中を追ってくる。
しかし、ひゅうひゅう吹き付ける谷風の音がいやにうるさくて、俺の耳へ届く前に、それは靄みたいに掻き消えた。
■
イーガは、ハイラルの暗部と言われる隠密集団。コーガ様への忠誠の元、遥か昔に弾圧された祖先の憂いを晴らすため、王家の首を狙っている。
俺が入団してから今まで任されていたのは、馬宿での聞き込み。もしくはアジトで消費される食材の調達。こんなのは結局のところ、隠密の人間じゃなくったってできる、半人前の仕事だった。
何をしたら一人前と認められるか。・・・・・・もっと言えば、イーガの同胞として認められるのか。
入団してから、今日の任務をずっと待っていた。
湿気た森の中。ほおほおとどこからか聞こえてくる野鳥の声が、静寂の間を埋めていく。
身体に纏わりついてくるのは生温かい空気。夜霧。汗。それと────赤くて生臭い、死のにおい。
砂をかけた焚火にじくじくと残っている熱。星明かりの届かない茂みを照らすには物足りない光源だ。
しかし闇に慣れてきた目なら、地面に転がる人型くらいはそれでも確認できる。
成人を迎えたハイリア人。──さっきまではビクビクと断続的に痙攣していたが、今はもう一切動いていない。開けたままの口元に手をやる必要もなく、彼は既にこと切れている。
────俺がやった。
男は焚火で身体を暖めていた。俺は林の中から顎に照準をつけ、矢を放した。
ひゅっと弦に押し出された矢はただ真っすぐに顎を突き抜け、脳幹を通過し、後頭部から矢尻を覗かせた。そして男は倒れ込んだ。声を発することもなく、そのまま彼は動かなくなった。
・・・・・・この手で、俺が、男を射殺したのだ。
バクバクと、今まで感じたことがないくらいに、心臓が高鳴っている。仮面の下に腕を捻じ込み、大汗の滲む額を拭った。
終わってしまえば、それは酷くあっけないものだった。世間では、人の道理から外れた畜生だと言われるかもしれない。・・・・・・しかしそんなのは、考えちゃいけない。
これをしなければ生きられない場所にいる。これで、正しかったんだ。少なくとも、俺がこの世界で、生きていくためには。
だから、どれほど耳鳴りがしていても、どれだけ鼓動が止まらなかったとしても、間違ってない。これで漸く俺も、同志として受け入れられる。これで正しい。・・・・・・これが、正しいに決まっている。
不気味なくらい静まり返った森の中。さっきまでうるさいほどだった風が止み、生き物の気配すらひとつも感じない。
森が、やけに静かだった。
何かおかしい。妙な違和感だけはあったけど、俺自身の気が昂っていた所為だとしか、このときは思っていなかった。
アジトに戻ってこれたのは次の日の夜だった。
へとへとになりながら、幹部に報告した。彼から「やったな」と強く肩を叩かれたとき、その手の平が熱くて、心地良くて、仮面の下でほっとした。
はっきりと浮かれた。やっと仲間入りを果たせたんだって。
だから俺は気付かなかった。木の実の笑う声が聞こえなくなって、どこにいても感じていた視線が途絶えた。
俺の世界が少し変わってしまったことに、俺はこのとき、一切気が付かなかったんだ。
■
冒険者の格好をして、アジトの門を抜けた。途端に耳をつんざくのは、びゅうっ、という鋭い風の音。砂混じりの突風がちりちりと頬にぶつかってきて痛い。まさか仮面の有用性をこんなところで感じることになるなんて思わなかった。
砂漠を睨みつける道祖神に歩み寄って、その内のひとつに屈みこむ。そして、ため息。
数日前に供えたバナナがそのままになってる。窪んだ部分にたっぷり砂を捕まえていたそれは、既に皮が真っ黒で随分萎んでいた。
持ち上げた途端、ぐず、と溶けたもんだから驚いた。「うわ」と奇声を上げながら、そのまま砂漠の方へぶん投げる。
あんな状態のバナナなんて初めて見た。カラカラコヨーテかシマオタカのおやつにでもなってくれりゃあ良いんだが。
手を払いながら、道祖神の隣へ座り込む。
崖の間には陰が広がっていて、見上げると抜けるような青が目に痛い。小暗いこことは違って、雲一つもないんだ。酷く遠くて、真っ青で。
「やっと一人前になれたから、お前にもいろいろ任せてやるって、幹部さんが言ってくれてさ」
風が止んだ。音がひとつもなくてシンとした。俺の声だけが目的もなく辺りをさ迷って、仕方なく俺の耳へと返ってくるくらい、静かな崖のひとときだった。
「この前はラネールまで行ったんだ。大きな滝がいくつもあって綺麗だった。花とかリンゴとか、ここら辺よりよっぽどたくさん植わってた」
青空の川を、大きな鳥が渡っていく。ヒョロロ、と歌うような声が遠のいていって、あとにはまた、静寂が落ちてくる。
のどかだ。それに緩やかだし、穏やかだ。
でも、なんでだろう。今までとははっきり違って、物足りなさがある。話し相手がいないってだけじゃない。
これは・・・・・・あのときに似てる。母親が、俺を置いて出ていったときと、同じような既視感で──。
咄嗟に頭を振る。
胸に沁みる冷たさを、俺は笑って誤魔化した。
「これから、また遠いところにかくれんぼしに行くんだ。オルディン地方の手前にある、でっかい森にさ。お前だったら行けるだろって。幹部さんのお墨付きなんだ。俺、一人前になったから」
すごいだろ。道祖神は何も答えない。だから、上向きにした口角もゆるゆると力が抜けて、そのまま下がっていく。視線も一緒に。
陽射しの無いここは意外と肌寒い。吹きさらしの背中を撫でるのは、いつかに感じた木枯らしみたいに素っ気ない風だった。
遠くに見える鮮やかな青と、崖間の影を仰ぎながら、何の音もしない空間に、暫く耳を傾ける。
「・・・・・・ここって、こんなに静かだったんだなぁ」
ぽつり。道祖神はずっと、瞳の書かれた布地越しに砂漠を見つめてるだけで、何にも答えちゃあくれなかった。
よっこらせ、と口にしながら立ち上がる。
そろそろ行こう。自分はこれから、上司に任された大事な任務にいかなきゃならない。
「あ、・・・・・・バナナ」
足を一歩踏み出した瞬間、ここでの日課を思い出した。
みんなに支給されている主食のバナナ。ぽつぽつと黒い斑点の浮いたこれは、今まさに食べごろなのだとか。その話をしながら、一緒に食べるつもりだったのに。
全く抵抗なく纏わりついてきた、どろりと崩れたバナナの感覚が蘇る。
「・・・・・・」
俺は、バナナを懐へと戻した。
行ってきます。声だけをそこに残して、俺はカルサーの土坂を足早に下っていった。
■
アジトを発って数日。ハイラル平原を横断し、幾つもの谷や川を越えてきた。オルディンの雄大な山々を眼前に、次第に深まっていく木々。頬を撫でていく冷涼な空気。そして、見る見るうちに立ち込めていく霧。
ハイラル大森林へ、遂に俺は到着した。まるで湖の浮島のようにも見えるこの不思議な土地は、足を踏み入れる者を惑わす妖しい場所なのだとか。
調査の手が難航しているとぼやいた幹部に、俺は一も二もなく任務へ志願した。
森には慣れていたし、なにより一人前になったんだ。コーガ様から褒められるような大きな手柄が欲しかった。
ただ・・・・・・森の入口に立っても、どうにも一歩目が踏み出せない。
ここへ来るまで、「やってやるぞ」と気が高ぶってたもんだ。しかし、俺の行く手を遮るような霧は、意思を持って手壁を作ってるようじゃないか。まるで『よそ者は入って来るな』と、言ってるみたいに。
頬を伝ったのは露だったのか、それとも冷や汗だったのか。俺はこのとき既に分かっていたはずなんだ。なのにすぐさま後戻りしなかった。森が、俺を拒むわけがないと、そう思い込んでしまったから。
ぐっ、と拳を握り、霧の中へと足を踏み出す。
この第一歩が大きな驕りだったと気付くのに、そう長い時間はかからなかった
■
森に入って暫く経った。奥地へと進む毎に、どんどんと深まる腐葉土の香りと、白い霧。辺りは昼と思えないくらい薄暗く、カンテラが無ければ足下が覚束ないほどだった。
遠目で見たときには、ここら一帯はひとつの塊みたいに見えたもんだ。しかし中は違う。まばらに植わっている木々は、どれもこれも禿げて傾いでいる。青草が敷き詰められても、まるで全部が死んでるみたいに見える。
俺の知ってる森じゃない。この頃には、ここの異様さに確信を持っていた。
とはいえ、任務への高揚感は、未だ腹の中で熱を持ち続けている。
こんな変な森を、砂漠の同胞たちがうまいこと探索できるとは思えない。そこを俺がたった一人で探索し終えたらどうだ。きっと、俺が如何に有能かって証明になるに決まってる。
植わっている植物や、ちらっと見えた動物をメモに取る。それと、今まで通ってきた道順も。
ざくざくと青草を踏みつぶしながら、目印としてイーガの札を木の幹に貼りつける。──その時だった。
カラララ。
木の実が転がっていくような妙な音が響いた。
ドキッとするままに息を止めて、音のした方へ視線を向ける。霧が濃くて見えない。目をこらしながらそろりそろりと近づいていくと、音の正体が分かった。散らばった殻の実だ。
「なんだ・・・・・・コログじゃないのか」
安堵と共に、思わず口からついて出る。その声が自分で思ってた以上にか細くて、少し笑えた。
コログ達・・・・・・彼らが出てきたのかと思った。結局、ここ暫くは姿を見ていないんだ。理由はあまり考えないようにしてる。
手持無沙汰に座り込み、思想を散らすついでに木の実を集めようかと座り込む。
カラカラと音を立てながらかき寄せると、ふと、見慣れないものが目に飛び込んできた。伸ばした指先を、ぴたりと止める。
「・・・・・・骨・・・・・・?」
白くて、細長い棒状の物が、その場にばらばらと転がっていた。
骨・・・・・・骨だ。青草に紛れて、真っ白な骨が落ちている。
唐突だったから、呆けたままただ目を瞠った。辺りへよおく目を凝らしてみると、骨、骨、骨・・・・・・ここら一帯が骨に囲まれてる。
それは夜になると土から現れる、スタルボコブリンの骨だった。
わっと冷や汗が染み出してくる。まずい。こいつらは暗いところで息を吹きかえし、生きてるモンに襲い掛かってくる不死身のバケモノだ。もう日は暮れつつある。一匹くらいだったら対処できても、ここまでの数に囲まれたら、今持ってる弓や首刈刀なんかじゃ到底間に合わない。
すぐさま引いた方が良い。さっと首筋を撫でていく夜の気配に、俺が帰宅を決めるのは早かった。
踵を返して、今までさんざ残してきた目印を探す。そこここにイーガの札を貼りつけてきたのだ。自分の踏み荒らした雑草と合わせれば、決して森から出るのは難しくないはずだった。
しかし、今しがた貼ったばかりの札が、どこにも見当たらない。
おかしい。木の形に見覚えはあるのに、札だけが忽然と消えている。貼りきれずにその場へ落ちたか、風に吹かれたか。でも這いつくばって探しても、辺りに札が落ちてるような形跡はない。
まずい、まずい。頭の中がそればっかりになった。いや、でもパニックになるのはまだ早い。調査票には、俺がまさに歩いてきた道順を書き残してるじゃないか。カンテラを左手に、調査票を右手に持って、目の前の木と照らし合わせながら歩き出す。
少し歩いてすぐに違和感を覚えた。この木はさっきも通ったぞ。枝の向きを覚えてる。ここを曲がれば、次は苔が削れた岩が見つかるはずなんだ。なのにそれが無い。鼓動が自然と早くなる。落ち着け、冷静になれ。歩き出して、また止まる。まて。なんで俺の踏みしめてきた青草の跡が、円状になってる?俺はずっと真っすぐに歩いてきたはずなのに。
もうカンテラの燃料も切れかけで、霧に包まれた天井が、暗闇の帳を降ろし始めている。そもそもが視界の悪い霧の森だ。こんなところで迷ったとしたら、俺は、どうなる。森で迷ったら、普通どうなる?
途端、肌に纏わりついてくる湿気が、自分を離すまいと引き寄せてくる怪しげな手に思えてきた。それを振り払うように、今まで歩いてきただろう道を走り出す。これこそやっちゃいけないことだって、普段の俺なら分かっていたはずなのに。
ぐ、とつま先が何かに引っ掛かる。つんのめって派手に転んで、露の染みた落ち葉の上へ倒れ込んだ。カンテラを落として、それまでギリギリ保っていた火が消える。
あっ、と声を上げても遅かった。木も、草も、空も、何もかもが暗黒に捕らわれ、視界が黒一色に染まる。
ジャラジャラジャラ、と葉が鳴った。風も無いのに急にだ。バッと顔をあげて神経を研ぎ澄ましたけど、火の残影が残る目じゃ暗闇の中を探れない。まるで俺を襲おうと腕を振り上げる、不気味な枯れ木の陰影だけが視界に映る。
どこにも動けず、微かに震える身体を抱きしめながら、その場に蹲った。
森には慣れたんじゃなかったのか。一人でもどうにかできると思ったから、この任務に立候補したんじゃなかったのか。
自然と頭の中に、俺を責める声が響いた。
森の歩き方を、あの子たちに教わってたんじゃないのか。全然ダメじゃないか。何も一人じゃ、できないじゃないか。
腕を摩る。頭の先から、水を被ったみたいに濡れていた。木立を抜けてく細い風が、身体を撫でる度に体温を奪っていく。指先を暖める蝋燭すら、今はもう無くなっちまったって言うのに。
今まで森は、俺に寄り添ってくれる場所だった。大きくて、暗くて、ひんやりとした場所。
でも今はまるで違う。森中の空気が、俺を監視しているように見える。やけにはっきりと鼻腔をつくカビのにおいが、身体の中に染み入ってくる妖気みたいに思えてくる。
「怖い」
身体の芯からそう思った。
森が怖い。こんなの初めてだ。なんで急に実感が沸いたか分からない。
いや・・・・・・違うだろ。なんで急に森が怖くなったのか。
それは、カラコロと笑う、木の実の音が無くなったからに違いない。
『しない方が、キミのままでいられるんじゃないかなぁ』
あどけなく、俺を心配する声が蘇る。
『そのままの方が、楽しいんじゃないかなぁ」』
暗闇の黒がぼやぼやと滲んできて、俺は目を擦った。
葉の擦れるざらついた音に覆われながら、膝を抱え込む。
俺は認められたかったんだ。
父親が居なくて、友人もいなくて、母親が出ていったあの日からずっと、誰かが隣で寄り添ってくれてるって思いたかった。
それが彼らだった。森だけは、俺を拒まず迎え入れてくれていた。
「・・・・・・ごめん・・・・・・」
コログは最後まで気にかけてくれていた。それを無視して、ここまでやってきた。俺の方こそが、彼らの輪から出ていった。
こうなって当然なんだ。 俺はこの世界で一人だった。一人で、当然だった。
膝を抱きしめる手に力を込める。
謝りたいけど、もう友人はどこにもいない。いやきっと、謝る権利なんて、俺には無いに決まってる。
でも・・・・・・。
「・・・・・・かくれんぼ、またやりたかった、な」
ぽつ、と膝の中で呟く。湿気た後悔だ。誰も聞いてくれるわけがない。でも、それでももしかしたら、なんて思った俺は、とんでもない構ってちゃんだ。
このまま俺は、森に飲まれる。たった、一人で。
また黒が滲みだす。・・・・・・その時だった。
からんからん。
聞き覚えのある音。微かに視線を上げる。
──いや、まさか。そんなわけないと分かっているのに、耳を研ぎ澄ませてしまう。風の中に、あの音が聞こえた気がして。
からんからん。
まただ。今度は確かに聞こえた。
思わず顔を上げて、音の方に目を凝らす。
広がってるのは深淵。でも・・・・・・ぱっ、と何かが閃く。それはたぶん、風に靡かれて日光を反射させる、新芽の瞬き。
四つん這いになって、その光の方へにじり寄った。随分時間をかけておばけみたいに歪んだ枯れ木まで辿り着くと、今度はサラララ、と動物か何かが俺の横を通り過ぎていく。奥にまで青草が揺れていって、まるでそこで立ち止まって、こっちを振り返ってるみたいな気配。
呼ばれてる。立ち上がって、今度はそれを追った。
ゆっくりゆっくり、足下すら無くなったような暗闇の中を、ひたすら音と気配を辿っていく。
誘われるように、手招きされるように。日が落ちきった真っ暗闇を、俺はただただ進んでいった。
黄色い花が俺を呼ぶ。天蓋のように広がった葉を抜けた瞬間だった。
ザァッと一段と強い風が吹いて、落ち葉が巻き上がる。思わず顔を腕で覆った。
風が止んで、腕の隙間から覗く。今まで纏わりついていた白い霧が無い。
ゴツゴツとした岩肌の大地。それに、抜けるような空に瞬く満点の星。
────外だ。俺は。生きて森を出てこられた。
身体中の力が抜ける。その場へへなへな座り込んだ。立ってられなかった。肩から空気が抜けてくみたいに、肺の空気を萎ませた。
ふと、入口に張り付けておいたシーカーの札が目に留まる。なんだよ。今まで一枚も残ってなかったくせに。こんなところのはしっかり残ってやがる。苦笑いすると、水分の抜けたリンゴみたいな声が出た。
それから、何も言わずに振り返る。俺を捕えた森がある。その入り口に、白いベールに包まれたようにぼやける黄色い花が、風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。
俺はここまで案内された。今までずっと俺の傍にいた、俺の唯一の友達に。
ありが──、と口に出してまばたきをした瞬間、その後の言葉は続かなかった。
花が消えた。跡形もなく。さっきまで確かに、そこで揺れてたはずなのに。
これじゃ、まるで────バイバイって、手を振ってたみたいじゃないか。
急に、鼻の先がツンと痛くなってくる。森の輪郭がぼやけて、またただの塊みたいに見えてきた。
そのままばかみたいに、汗だか霧だかが頬を伝ってく。ほたほたと、青草に沁み込んでいく。
俺を迎え入れてくれた森。今はただ、大きくて恐ろしい霧の森。この光景が、色を変えてずっと記憶に刻まれる。俺には何故だかそんな予感が確かにあった。
唇をかみしめて拳を握る。土下座に近く頭を下げたのは、せめて俺ができる、さよならの挨拶だった。
■
お皿に乗っていたバナナを持ち上げる。真っ黒に縮んだそれは誰がどう見ても腐ってた。どろっと溶ける感触にいつまでも慣れず、崩れた瞬間に俺は「おわ」と声が出る。
ここまで傷むと野生動物も食べないらしい。この前のは「誰かが腐ったバナナをそこら辺に捨てていた」と朝礼で指摘され、ちょっとした騒ぎになった。
なので今日は、ジャジャーン。準備していた麻の袋なんぞに腐りバナナを回収し、自前の綿布巾で皿をきれいに拭ってやった。
懐から取り出したるは、配給されたばかりのツヤツヤバナナ。一本もいで皿に置き、それからしっかりと手を合わせる。
何となく頭の中で喋るのは、今朝の鍛錬で初めて同僚を負かしたこと。それに、揚げバナナが美味くて、最近それにハマってること。あとは・・・・・・。
「お前、何してるんだ・・・・・・そんなところで」
後ろを振り向くと、呆れたように首を傾げる先輩が立っていた。
「お供えですよ。なるべく供えるようにしてて」
「ふーん?今時殊勝だな。そこの一体だけか?皿があるから?」
「まぁ・・・・・・そうですね。ここだけにしとかないと、俺の食うもん無くなっちまうし」
「バナナなら、俺に供えてくれても良いが」
「何言ってるんスか。俺よりよっぽどバナナ貰ってるでしょ」
調子の良いことを口にする先輩はにやりと笑って、「ほら、行くぞ」と先を歩いていった。
今日は彼と二人で、バナナの調達任務だ。あとは、馬宿に立ち寄って情報の聞き込み。もちろんイーガの団員だってバレないように、念入りな変装をして。
立ち上がって、足を踏み出す。そのとき、からんころん。聞き覚えのある音が聞こえた気がした。
木の実の笑う音? 少しだけ振り返る。でも、バナナを供えた道祖神がいるだけで、他には何も、いやしない。
「・・・・・・リンゴ、持って帰って来るからさ」
ぽつりと呟いた声に返ってくるのは風の音。それでも笑ってられるのは、この世が不思議なもんに満ちていると知ってるからだ。
木の実の笑うあの音が、俺の知らない世界のどこかで、今も確かに残っている。
俺は陰間のカルサー谷を、胸を張りながらゆっくりと下っていった。
「そうだなぁ。でも俺は昼寝でもしたいよ。リンゴでも齧りながらさぁ」
「イイネイイネ、ボクも大好き!丸くてピカピカの甘いやつ、お腹空いちゃった」
「見かけたら採ってやるな、この辺りはリンゴの木があるはずだから」
「ホント?やったぁー!楽しみ楽しみ!」
「ははっ、・・・・・・お前らってほんと、リンゴ好きだよなぁ」
「おい、何一人でぶつぶつ言ってる。静かにしろ」
「あ、スンマセン」
柔らかな日差し。草木が萌える穏やかな街道。頬を撫でていくハイラルの薫風。
そんな穏やかな日和とは全く似つかわしくない横目が、遠慮なしに俺を睨んでくる。
荷馬車の音で聞こえないだろうと思ってたのにバレちまった。まるで入団したばかりの後輩に向ける目線とは思えない、気味の悪いものでも見るような視線が痛い。
ヘラァと笑いかけると、先輩は何も言わずに、ふっと前を向き直した。言ってもしょうがないと思ったのか、頭のおかしな人間でも、受け入れなきゃしょうがないと悟ったのか。
俺には分かる。こういう顔、今までもよく見たことがあったんで。
「怒られちゃったねぇ、なんでアノ人、怒ってるのかなぁ」
今この場では似つかわしくない、呑気な声が耳をくすぐってくる。
なんで分からないかねえ。今しがた怒られた手前、首を傾げる”それ”の声へ、すぐさま答える気にはどうしてもなれない。俺は視線を落としながら口を噤んだ。
「笑ってた方が楽しいのにねぇ。だってチョウチョがパタパタで、雲もとっても美味しそう。ウフフ、楽しいこと、たくさんあるのにねぇ。キミもそう思うでしょ?」
「・・・・・・」
「ねえねえ、そう思うでしょお?」
荷馬車に座り込むコロコロした身体が、俺の視線を誘おうと小枝を揺らしてる。彼らは意外とかまってちゃんだ。仕方なく、馬を引く先達に気付かれないように、声を潜めた。
「ちょっと・・・・・・静かにしてくれ。今任務中なんだ」
「ニンム?ニンムって?」
「ツルギバナナを仕入れてくる任務!・・・・・・ほら、イーガ団じゃ、みんなたくさん食べるから」
「なるほどお、これがニンムだったのかあ!」
「そうそう。・・・・・・だから食べるなよ。これはお供えモンじゃないから」
「食べたかったなぁ、とっても良いにおい。ねえ、食べちゃダメ?」
荷馬車に積まれたツルギバナナへ”それ”が手をかける。
俺が、ダメ!っと声を上げた瞬間だった。
「おい!ごちゃごちゃゴチャゴチャうるせえって!黙って静かに歩けよ!」
「あ・・・・・・スンマセン」
先達の咎める声は、さっきよりもよっぽど鋭くてデカかった。
「怒られちゃったね・・・・・・」と続く子供のような声。俺は今度こそ唇を噛んで黙り込むだけだった。
■
ハイラルは、遥か彼方に女神が造り給うた奇跡の国。それは伽話なんかじゃなく歴史であって、それ故に説明できない不思議な物に溢れてる。
例えば、聖なる力を持つ女神の生まれ変わり。それから、7日にいっぺん、死んだ肉体が生き返るマモノ達。
あとは────彼らみたいな。
葉っぱで作ったお面に、丸みを帯びた木の身体。舌ったらずに子供っぽく喋る彼らは、一目見て「なんだこりゃ」と言いたくなる不思議な風貌をしている。
名前はコログ。彼らが自称するには森の妖精、なんだとか。
悪戯好きなコログは世界のあちこちに隠れていて、遊んでくれる人と出会えるのを心待ちにしているのだという。
とはいえ彼らは、誰にでも見える存在というわけじゃない。俺だって、俺以外に彼らが見えるという人に出会ったことは無いし、「森の妖精がね」という話を持ち出して、何度眉を顰められたことか。
なんで俺に見えるのかは分からないが、昔から第六感は強い方だった。何も無い場所を指さして母親をビビらせたこともある。俺が彼らと出会うのは早かった。
コログの存在は、父親のいない幼い俺を随分救ってくれたと思う。初めて訪れた森でも彼らがいれば道案内をしてくれるし、木の実や山菜の場所を教えてくれる。話し相手にも困らない。
だから、同じ年頃の友人が一人もいなくても、母親が黙って家を出て行ったときも、オレは意外と平気だった。
そんな俺がイーガに辿り着いたのは、ある意味当然だったんだと思う。
厄災復活が噂されてて、当時は世の中が不安定だった。俺は頭のおかしなやつとして街に居場所がなく、この先も生きていくためには、何かの集団に属するのが一番で。
砂漠にやってきたのは、第六感が働いた故の”セーゾンホンノー”ってやつに違いない。
「ヤア!おはよ!今日もバナナありがとうね!」
カルサー谷に並ぶ蛙の道祖神。そのうちのひとつにバナナを供えてやると、若芽が瞬くような光を散らしながら、コログがポフンと現れた。
任務前、お裾分けをお供えしてやるのが、イーガに来てからのお決まりだった。ここで日々のしょーもない話を交わしてからアジトを旅立っていく。
俺の話を唯一じっくり聞いてくれる相手だ。嬉しそうにバナナを抱えるコログの隣に、片膝を立てて座り込む。
「今日は何しに行くの?」
「今日は、馬宿で聞き込み。あとはー・・・・・・バナナの調達かな」
「キミだって、バレないように?」
「そ、バレないように」
「ウフフ、かくれんぼだね。楽しいね!」
「まぁ、そんなとこ」
からころからと、木の実の笑う声。タンブルウィードがカサカサと俺の横を通り過ぎていって、ツンと鼻の奥を刺激する埃っぽいにおいに、頭を撫でていく空っ風。
「あ、龍だ」
カルサー谷の隙間から、細長い旗がたなびいてるみたいな龍が、ゆっくりと泳いでいくのが見えた。
コログが、ほんとだぁ、と楽し気に手を振る。おーいと言ったって聞こえるわけもないのに、その朴訥な声は、龍に声が届くって信じて疑ってないみたいだ。つられて口元が緩んじまう。
今日は、良い日だ。こういう日には決まって懐からバナナを取り出して、後ろ手をつきながら空を仰ぐ。
任務に発つのは、これを食べきってからでも良いだろ。こんな中で食う飯が、一番美味いに決まってるんだから。
「イイ天気だねぇ、気持ちがイイねぇ」
「ああ、良い気分だ」
イーガに来てからというもの、俺はこの時間がお気に入りだった。カラコロ笑うコログと一緒に過ごす、任務前のこの時間がとても。
・・・・・・でも、そろそろ向き合わないといけないこともある。俺はそれに、薄々気が付いていた。
門に描かれたイーガの瞳。じっと睨んでくるその視線に背を向ける。
せめてコログが一緒にいるときは見たくない。今にして思えば、それは俺の精一杯の拒否だったのかもしれない。
■
イーガに入団してから数か月が経ち、俺にひとつ、大きな任務が舞い込んできた。
今日はいつもの扮装は無し。身体にぴったりと纏わる赤い装束に腕を通して、ベルトを巻く。鉄棘の暗器を布帯で腕と脚に固定し、髪の毛を頭の上で結わう。
最後に素肌を隠すのは、ここの象徴ともいえるイーガの仮面だ。
決して落ちないように、被った後で、しっかりと仮面のベルトを絞った。
二連弓を背負い、アジトの門を抜ける。
昼間と違って、カルサーの夜は思った以上に肌寒い。ひゅうひゅうと鋭い音をたてながら谷を過ぎていく風は、まるで何かの生き物が吠えているようだ。
でも、ふるっと身震いしたのはそれだけの所為じゃない。きっとこれは、武者震いってやつだった。
森の中で笑って暮らしてた俺にも闘争本能なんてあったのか。今更新しい自分に出会ったみたいでなんとなく笑える。
「夜におでかけ?珍しいねぇ!」
足を一歩踏み出した瞬間だ。谷間に声が響いてギクリとした。
振り返ると、道祖神の隙間からひょっこりと葉っぱの面が覗いている。もちろんそれは、いつもバナナをくれてやる馴染みのコログだった。
「夜は危ないよ、ホネホネがいっぱい出て来るから、おうちにいた方が安全だよぉ」
トテトテと歩いてくるコログに、俺は「はは・・・・・・」と笑みを返した。随分力が入らなくて、スカスカのリンゴみたいに抜けた吐息だった。
「今日もニンム?またかくれんぼ?」
「いや、・・・・・・違う。かくれんぼじゃない」
「なになに、何しに行くの?聞かせて聞かせて!」
「なんつーか、そうだな・・・・・・もっとすごいやつ、かな」
はっきり言えなくてうやむやにすると、コログはいたいけに首を傾げる。
「どんなニンムなの?すごいってなあに?」
「あんまり言えないけど・・・・・・これで漸く俺も一人前になれる。ここで認められる」
「イチニンマエ?ここで?」
「ああ、そうだ。この任務をこなせば、やっと・・・・・・イーガ団の一人になれるって、そう思ってるんだ」
背中へ負った二連弓をギュッと掴む。
指先に感じたのは、弓幹の表面に刻まれたたくさんの傷跡、歪み──この弓の人生経験みたいなものだ。
俺は今日、これを使って一人前になる。そしてきっと、イーガが俺の、居場所になる。
俺は、自らの手で、これからの行く先を掴み取りたいと。掴まなきゃいけないと、ずっと、・・・・・・ずっと考えていた。
「・・・・・・しない方が良いんじゃないかなぁ」
ほた、と耳を打ったのは、木の実が零れ落ちたみたいに小さな声。
視線を落とす。そこにあるのは、見慣れた虫食い穴の葉っぱ。
その表情は変わらない。・・・・・・だけど、落ちた影がどこか、物憂げだった。
「しない方が、キミのままでいられるんじゃないかなぁ」
「・・・・・・それじゃだめなんだよ。俺のまんまじゃさ」と、小さな身体の前へ、膝をついた。
「心配するなよ、そんなに変わるわけじゃない。・・・・・・ただちょっと、成長するだけ」
「そうかなぁ。そのままの方が、楽しいんじゃないかなぁ」
「・・・・・・お土産、持ってきてやるからさ」
「それまで、これ食べてて」と、懐からバナナを一本もいで、コログの小さな幹の腕へ静かに乗せた。
それから立ち上がり、行ってきます、と踵を返す。
歩き始めてから暫くして、バイバイと小さな声が背中を追ってくる。
しかし、ひゅうひゅう吹き付ける谷風の音がいやにうるさくて、俺の耳へ届く前に、それは靄みたいに掻き消えた。
■
イーガは、ハイラルの暗部と言われる隠密集団。コーガ様への忠誠の元、遥か昔に弾圧された祖先の憂いを晴らすため、王家の首を狙っている。
俺が入団してから今まで任されていたのは、馬宿での聞き込み。もしくはアジトで消費される食材の調達。こんなのは結局のところ、隠密の人間じゃなくったってできる、半人前の仕事だった。
何をしたら一人前と認められるか。・・・・・・もっと言えば、イーガの同胞として認められるのか。
入団してから、今日の任務をずっと待っていた。
湿気た森の中。ほおほおとどこからか聞こえてくる野鳥の声が、静寂の間を埋めていく。
身体に纏わりついてくるのは生温かい空気。夜霧。汗。それと────赤くて生臭い、死のにおい。
砂をかけた焚火にじくじくと残っている熱。星明かりの届かない茂みを照らすには物足りない光源だ。
しかし闇に慣れてきた目なら、地面に転がる人型くらいはそれでも確認できる。
成人を迎えたハイリア人。──さっきまではビクビクと断続的に痙攣していたが、今はもう一切動いていない。開けたままの口元に手をやる必要もなく、彼は既にこと切れている。
────俺がやった。
男は焚火で身体を暖めていた。俺は林の中から顎に照準をつけ、矢を放した。
ひゅっと弦に押し出された矢はただ真っすぐに顎を突き抜け、脳幹を通過し、後頭部から矢尻を覗かせた。そして男は倒れ込んだ。声を発することもなく、そのまま彼は動かなくなった。
・・・・・・この手で、俺が、男を射殺したのだ。
バクバクと、今まで感じたことがないくらいに、心臓が高鳴っている。仮面の下に腕を捻じ込み、大汗の滲む額を拭った。
終わってしまえば、それは酷くあっけないものだった。世間では、人の道理から外れた畜生だと言われるかもしれない。・・・・・・しかしそんなのは、考えちゃいけない。
これをしなければ生きられない場所にいる。これで、正しかったんだ。少なくとも、俺がこの世界で、生きていくためには。
だから、どれほど耳鳴りがしていても、どれだけ鼓動が止まらなかったとしても、間違ってない。これで漸く俺も、同志として受け入れられる。これで正しい。・・・・・・これが、正しいに決まっている。
不気味なくらい静まり返った森の中。さっきまでうるさいほどだった風が止み、生き物の気配すらひとつも感じない。
森が、やけに静かだった。
何かおかしい。妙な違和感だけはあったけど、俺自身の気が昂っていた所為だとしか、このときは思っていなかった。
アジトに戻ってこれたのは次の日の夜だった。
へとへとになりながら、幹部に報告した。彼から「やったな」と強く肩を叩かれたとき、その手の平が熱くて、心地良くて、仮面の下でほっとした。
はっきりと浮かれた。やっと仲間入りを果たせたんだって。
だから俺は気付かなかった。木の実の笑う声が聞こえなくなって、どこにいても感じていた視線が途絶えた。
俺の世界が少し変わってしまったことに、俺はこのとき、一切気が付かなかったんだ。
■
冒険者の格好をして、アジトの門を抜けた。途端に耳をつんざくのは、びゅうっ、という鋭い風の音。砂混じりの突風がちりちりと頬にぶつかってきて痛い。まさか仮面の有用性をこんなところで感じることになるなんて思わなかった。
砂漠を睨みつける道祖神に歩み寄って、その内のひとつに屈みこむ。そして、ため息。
数日前に供えたバナナがそのままになってる。窪んだ部分にたっぷり砂を捕まえていたそれは、既に皮が真っ黒で随分萎んでいた。
持ち上げた途端、ぐず、と溶けたもんだから驚いた。「うわ」と奇声を上げながら、そのまま砂漠の方へぶん投げる。
あんな状態のバナナなんて初めて見た。カラカラコヨーテかシマオタカのおやつにでもなってくれりゃあ良いんだが。
手を払いながら、道祖神の隣へ座り込む。
崖の間には陰が広がっていて、見上げると抜けるような青が目に痛い。小暗いこことは違って、雲一つもないんだ。酷く遠くて、真っ青で。
「やっと一人前になれたから、お前にもいろいろ任せてやるって、幹部さんが言ってくれてさ」
風が止んだ。音がひとつもなくてシンとした。俺の声だけが目的もなく辺りをさ迷って、仕方なく俺の耳へと返ってくるくらい、静かな崖のひとときだった。
「この前はラネールまで行ったんだ。大きな滝がいくつもあって綺麗だった。花とかリンゴとか、ここら辺よりよっぽどたくさん植わってた」
青空の川を、大きな鳥が渡っていく。ヒョロロ、と歌うような声が遠のいていって、あとにはまた、静寂が落ちてくる。
のどかだ。それに緩やかだし、穏やかだ。
でも、なんでだろう。今までとははっきり違って、物足りなさがある。話し相手がいないってだけじゃない。
これは・・・・・・あのときに似てる。母親が、俺を置いて出ていったときと、同じような既視感で──。
咄嗟に頭を振る。
胸に沁みる冷たさを、俺は笑って誤魔化した。
「これから、また遠いところにかくれんぼしに行くんだ。オルディン地方の手前にある、でっかい森にさ。お前だったら行けるだろって。幹部さんのお墨付きなんだ。俺、一人前になったから」
すごいだろ。道祖神は何も答えない。だから、上向きにした口角もゆるゆると力が抜けて、そのまま下がっていく。視線も一緒に。
陽射しの無いここは意外と肌寒い。吹きさらしの背中を撫でるのは、いつかに感じた木枯らしみたいに素っ気ない風だった。
遠くに見える鮮やかな青と、崖間の影を仰ぎながら、何の音もしない空間に、暫く耳を傾ける。
「・・・・・・ここって、こんなに静かだったんだなぁ」
ぽつり。道祖神はずっと、瞳の書かれた布地越しに砂漠を見つめてるだけで、何にも答えちゃあくれなかった。
よっこらせ、と口にしながら立ち上がる。
そろそろ行こう。自分はこれから、上司に任された大事な任務にいかなきゃならない。
「あ、・・・・・・バナナ」
足を一歩踏み出した瞬間、ここでの日課を思い出した。
みんなに支給されている主食のバナナ。ぽつぽつと黒い斑点の浮いたこれは、今まさに食べごろなのだとか。その話をしながら、一緒に食べるつもりだったのに。
全く抵抗なく纏わりついてきた、どろりと崩れたバナナの感覚が蘇る。
「・・・・・・」
俺は、バナナを懐へと戻した。
行ってきます。声だけをそこに残して、俺はカルサーの土坂を足早に下っていった。
■
アジトを発って数日。ハイラル平原を横断し、幾つもの谷や川を越えてきた。オルディンの雄大な山々を眼前に、次第に深まっていく木々。頬を撫でていく冷涼な空気。そして、見る見るうちに立ち込めていく霧。
ハイラル大森林へ、遂に俺は到着した。まるで湖の浮島のようにも見えるこの不思議な土地は、足を踏み入れる者を惑わす妖しい場所なのだとか。
調査の手が難航しているとぼやいた幹部に、俺は一も二もなく任務へ志願した。
森には慣れていたし、なにより一人前になったんだ。コーガ様から褒められるような大きな手柄が欲しかった。
ただ・・・・・・森の入口に立っても、どうにも一歩目が踏み出せない。
ここへ来るまで、「やってやるぞ」と気が高ぶってたもんだ。しかし、俺の行く手を遮るような霧は、意思を持って手壁を作ってるようじゃないか。まるで『よそ者は入って来るな』と、言ってるみたいに。
頬を伝ったのは露だったのか、それとも冷や汗だったのか。俺はこのとき既に分かっていたはずなんだ。なのにすぐさま後戻りしなかった。森が、俺を拒むわけがないと、そう思い込んでしまったから。
ぐっ、と拳を握り、霧の中へと足を踏み出す。
この第一歩が大きな驕りだったと気付くのに、そう長い時間はかからなかった
■
森に入って暫く経った。奥地へと進む毎に、どんどんと深まる腐葉土の香りと、白い霧。辺りは昼と思えないくらい薄暗く、カンテラが無ければ足下が覚束ないほどだった。
遠目で見たときには、ここら一帯はひとつの塊みたいに見えたもんだ。しかし中は違う。まばらに植わっている木々は、どれもこれも禿げて傾いでいる。青草が敷き詰められても、まるで全部が死んでるみたいに見える。
俺の知ってる森じゃない。この頃には、ここの異様さに確信を持っていた。
とはいえ、任務への高揚感は、未だ腹の中で熱を持ち続けている。
こんな変な森を、砂漠の同胞たちがうまいこと探索できるとは思えない。そこを俺がたった一人で探索し終えたらどうだ。きっと、俺が如何に有能かって証明になるに決まってる。
植わっている植物や、ちらっと見えた動物をメモに取る。それと、今まで通ってきた道順も。
ざくざくと青草を踏みつぶしながら、目印としてイーガの札を木の幹に貼りつける。──その時だった。
カラララ。
木の実が転がっていくような妙な音が響いた。
ドキッとするままに息を止めて、音のした方へ視線を向ける。霧が濃くて見えない。目をこらしながらそろりそろりと近づいていくと、音の正体が分かった。散らばった殻の実だ。
「なんだ・・・・・・コログじゃないのか」
安堵と共に、思わず口からついて出る。その声が自分で思ってた以上にか細くて、少し笑えた。
コログ達・・・・・・彼らが出てきたのかと思った。結局、ここ暫くは姿を見ていないんだ。理由はあまり考えないようにしてる。
手持無沙汰に座り込み、思想を散らすついでに木の実を集めようかと座り込む。
カラカラと音を立てながらかき寄せると、ふと、見慣れないものが目に飛び込んできた。伸ばした指先を、ぴたりと止める。
「・・・・・・骨・・・・・・?」
白くて、細長い棒状の物が、その場にばらばらと転がっていた。
骨・・・・・・骨だ。青草に紛れて、真っ白な骨が落ちている。
唐突だったから、呆けたままただ目を瞠った。辺りへよおく目を凝らしてみると、骨、骨、骨・・・・・・ここら一帯が骨に囲まれてる。
それは夜になると土から現れる、スタルボコブリンの骨だった。
わっと冷や汗が染み出してくる。まずい。こいつらは暗いところで息を吹きかえし、生きてるモンに襲い掛かってくる不死身のバケモノだ。もう日は暮れつつある。一匹くらいだったら対処できても、ここまでの数に囲まれたら、今持ってる弓や首刈刀なんかじゃ到底間に合わない。
すぐさま引いた方が良い。さっと首筋を撫でていく夜の気配に、俺が帰宅を決めるのは早かった。
踵を返して、今までさんざ残してきた目印を探す。そこここにイーガの札を貼りつけてきたのだ。自分の踏み荒らした雑草と合わせれば、決して森から出るのは難しくないはずだった。
しかし、今しがた貼ったばかりの札が、どこにも見当たらない。
おかしい。木の形に見覚えはあるのに、札だけが忽然と消えている。貼りきれずにその場へ落ちたか、風に吹かれたか。でも這いつくばって探しても、辺りに札が落ちてるような形跡はない。
まずい、まずい。頭の中がそればっかりになった。いや、でもパニックになるのはまだ早い。調査票には、俺がまさに歩いてきた道順を書き残してるじゃないか。カンテラを左手に、調査票を右手に持って、目の前の木と照らし合わせながら歩き出す。
少し歩いてすぐに違和感を覚えた。この木はさっきも通ったぞ。枝の向きを覚えてる。ここを曲がれば、次は苔が削れた岩が見つかるはずなんだ。なのにそれが無い。鼓動が自然と早くなる。落ち着け、冷静になれ。歩き出して、また止まる。まて。なんで俺の踏みしめてきた青草の跡が、円状になってる?俺はずっと真っすぐに歩いてきたはずなのに。
もうカンテラの燃料も切れかけで、霧に包まれた天井が、暗闇の帳を降ろし始めている。そもそもが視界の悪い霧の森だ。こんなところで迷ったとしたら、俺は、どうなる。森で迷ったら、普通どうなる?
途端、肌に纏わりついてくる湿気が、自分を離すまいと引き寄せてくる怪しげな手に思えてきた。それを振り払うように、今まで歩いてきただろう道を走り出す。これこそやっちゃいけないことだって、普段の俺なら分かっていたはずなのに。
ぐ、とつま先が何かに引っ掛かる。つんのめって派手に転んで、露の染みた落ち葉の上へ倒れ込んだ。カンテラを落として、それまでギリギリ保っていた火が消える。
あっ、と声を上げても遅かった。木も、草も、空も、何もかもが暗黒に捕らわれ、視界が黒一色に染まる。
ジャラジャラジャラ、と葉が鳴った。風も無いのに急にだ。バッと顔をあげて神経を研ぎ澄ましたけど、火の残影が残る目じゃ暗闇の中を探れない。まるで俺を襲おうと腕を振り上げる、不気味な枯れ木の陰影だけが視界に映る。
どこにも動けず、微かに震える身体を抱きしめながら、その場に蹲った。
森には慣れたんじゃなかったのか。一人でもどうにかできると思ったから、この任務に立候補したんじゃなかったのか。
自然と頭の中に、俺を責める声が響いた。
森の歩き方を、あの子たちに教わってたんじゃないのか。全然ダメじゃないか。何も一人じゃ、できないじゃないか。
腕を摩る。頭の先から、水を被ったみたいに濡れていた。木立を抜けてく細い風が、身体を撫でる度に体温を奪っていく。指先を暖める蝋燭すら、今はもう無くなっちまったって言うのに。
今まで森は、俺に寄り添ってくれる場所だった。大きくて、暗くて、ひんやりとした場所。
でも今はまるで違う。森中の空気が、俺を監視しているように見える。やけにはっきりと鼻腔をつくカビのにおいが、身体の中に染み入ってくる妖気みたいに思えてくる。
「怖い」
身体の芯からそう思った。
森が怖い。こんなの初めてだ。なんで急に実感が沸いたか分からない。
いや・・・・・・違うだろ。なんで急に森が怖くなったのか。
それは、カラコロと笑う、木の実の音が無くなったからに違いない。
『しない方が、キミのままでいられるんじゃないかなぁ』
あどけなく、俺を心配する声が蘇る。
『そのままの方が、楽しいんじゃないかなぁ」』
暗闇の黒がぼやぼやと滲んできて、俺は目を擦った。
葉の擦れるざらついた音に覆われながら、膝を抱え込む。
俺は認められたかったんだ。
父親が居なくて、友人もいなくて、母親が出ていったあの日からずっと、誰かが隣で寄り添ってくれてるって思いたかった。
それが彼らだった。森だけは、俺を拒まず迎え入れてくれていた。
「・・・・・・ごめん・・・・・・」
コログは最後まで気にかけてくれていた。それを無視して、ここまでやってきた。俺の方こそが、彼らの輪から出ていった。
こうなって当然なんだ。 俺はこの世界で一人だった。一人で、当然だった。
膝を抱きしめる手に力を込める。
謝りたいけど、もう友人はどこにもいない。いやきっと、謝る権利なんて、俺には無いに決まってる。
でも・・・・・・。
「・・・・・・かくれんぼ、またやりたかった、な」
ぽつ、と膝の中で呟く。湿気た後悔だ。誰も聞いてくれるわけがない。でも、それでももしかしたら、なんて思った俺は、とんでもない構ってちゃんだ。
このまま俺は、森に飲まれる。たった、一人で。
また黒が滲みだす。・・・・・・その時だった。
からんからん。
聞き覚えのある音。微かに視線を上げる。
──いや、まさか。そんなわけないと分かっているのに、耳を研ぎ澄ませてしまう。風の中に、あの音が聞こえた気がして。
からんからん。
まただ。今度は確かに聞こえた。
思わず顔を上げて、音の方に目を凝らす。
広がってるのは深淵。でも・・・・・・ぱっ、と何かが閃く。それはたぶん、風に靡かれて日光を反射させる、新芽の瞬き。
四つん這いになって、その光の方へにじり寄った。随分時間をかけておばけみたいに歪んだ枯れ木まで辿り着くと、今度はサラララ、と動物か何かが俺の横を通り過ぎていく。奥にまで青草が揺れていって、まるでそこで立ち止まって、こっちを振り返ってるみたいな気配。
呼ばれてる。立ち上がって、今度はそれを追った。
ゆっくりゆっくり、足下すら無くなったような暗闇の中を、ひたすら音と気配を辿っていく。
誘われるように、手招きされるように。日が落ちきった真っ暗闇を、俺はただただ進んでいった。
黄色い花が俺を呼ぶ。天蓋のように広がった葉を抜けた瞬間だった。
ザァッと一段と強い風が吹いて、落ち葉が巻き上がる。思わず顔を腕で覆った。
風が止んで、腕の隙間から覗く。今まで纏わりついていた白い霧が無い。
ゴツゴツとした岩肌の大地。それに、抜けるような空に瞬く満点の星。
────外だ。俺は。生きて森を出てこられた。
身体中の力が抜ける。その場へへなへな座り込んだ。立ってられなかった。肩から空気が抜けてくみたいに、肺の空気を萎ませた。
ふと、入口に張り付けておいたシーカーの札が目に留まる。なんだよ。今まで一枚も残ってなかったくせに。こんなところのはしっかり残ってやがる。苦笑いすると、水分の抜けたリンゴみたいな声が出た。
それから、何も言わずに振り返る。俺を捕えた森がある。その入り口に、白いベールに包まれたようにぼやける黄色い花が、風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。
俺はここまで案内された。今までずっと俺の傍にいた、俺の唯一の友達に。
ありが──、と口に出してまばたきをした瞬間、その後の言葉は続かなかった。
花が消えた。跡形もなく。さっきまで確かに、そこで揺れてたはずなのに。
これじゃ、まるで────バイバイって、手を振ってたみたいじゃないか。
急に、鼻の先がツンと痛くなってくる。森の輪郭がぼやけて、またただの塊みたいに見えてきた。
そのままばかみたいに、汗だか霧だかが頬を伝ってく。ほたほたと、青草に沁み込んでいく。
俺を迎え入れてくれた森。今はただ、大きくて恐ろしい霧の森。この光景が、色を変えてずっと記憶に刻まれる。俺には何故だかそんな予感が確かにあった。
唇をかみしめて拳を握る。土下座に近く頭を下げたのは、せめて俺ができる、さよならの挨拶だった。
■
お皿に乗っていたバナナを持ち上げる。真っ黒に縮んだそれは誰がどう見ても腐ってた。どろっと溶ける感触にいつまでも慣れず、崩れた瞬間に俺は「おわ」と声が出る。
ここまで傷むと野生動物も食べないらしい。この前のは「誰かが腐ったバナナをそこら辺に捨てていた」と朝礼で指摘され、ちょっとした騒ぎになった。
なので今日は、ジャジャーン。準備していた麻の袋なんぞに腐りバナナを回収し、自前の綿布巾で皿をきれいに拭ってやった。
懐から取り出したるは、配給されたばかりのツヤツヤバナナ。一本もいで皿に置き、それからしっかりと手を合わせる。
何となく頭の中で喋るのは、今朝の鍛錬で初めて同僚を負かしたこと。それに、揚げバナナが美味くて、最近それにハマってること。あとは・・・・・・。
「お前、何してるんだ・・・・・・そんなところで」
後ろを振り向くと、呆れたように首を傾げる先輩が立っていた。
「お供えですよ。なるべく供えるようにしてて」
「ふーん?今時殊勝だな。そこの一体だけか?皿があるから?」
「まぁ・・・・・・そうですね。ここだけにしとかないと、俺の食うもん無くなっちまうし」
「バナナなら、俺に供えてくれても良いが」
「何言ってるんスか。俺よりよっぽどバナナ貰ってるでしょ」
調子の良いことを口にする先輩はにやりと笑って、「ほら、行くぞ」と先を歩いていった。
今日は彼と二人で、バナナの調達任務だ。あとは、馬宿に立ち寄って情報の聞き込み。もちろんイーガの団員だってバレないように、念入りな変装をして。
立ち上がって、足を踏み出す。そのとき、からんころん。聞き覚えのある音が聞こえた気がした。
木の実の笑う音? 少しだけ振り返る。でも、バナナを供えた道祖神がいるだけで、他には何も、いやしない。
「・・・・・・リンゴ、持って帰って来るからさ」
ぽつりと呟いた声に返ってくるのは風の音。それでも笑ってられるのは、この世が不思議なもんに満ちていると知ってるからだ。
木の実の笑うあの音が、俺の知らない世界のどこかで、今も確かに残っている。
俺は陰間のカルサー谷を、胸を張りながらゆっくりと下っていった。