【ss/not夢】イーガ団員の日常話
先ほどまで降りしきっていた雨が止み、鬱蒼と茂った林の中に立ち込めた湿気が肌に冷たい。厚い雲から覗く月光は葉の天蓋を越せないらしく、辺りはまるで、常世を思わせる暗闇に沈んでいる。その中で仄明るいシノビ草だけが、ここがまだ現世だという示しになっていた。
耳に届くのは蛙と鈴虫の声音。それに、沢が風に吹かれる微かな波音。いかにも風流だが、彼にとっては集中を乱す雑音にしか聞こえない。
どれほど待ったかは分からないが、草をかき分け、何者かが近づいてくる気配。咄嗟に息を殺す。
自らが背中を預けている木の幹が揺れる。雨に晒された地面から立ち昇る土のにおいに微かな加齢臭が混ざり合い、彼の鼻を掠めていく。
暫しの静寂。先に口火を切ったのは、やってきた相手方だった。
「・・・・・・明日、いつ頃だ」
「昼頃。歩きで」
「話の筋は頭に入れたか」
「貴方の遠い血縁者とは。厄災で行方知れずだった親戚の、息子だか孫だか」
「孫だ。これからそれがお前の人生になるんだ。分かってないでどうする」
「・・・・・・すみません」
「それと殺気が駄々洩れだ。ただの村人は、そんな殺気を放っちゃいない」
嗜む声で、無意識に強張っていた肩に気づき脱力する。胸に森の空気を深く吸い込むが、これこそが慣れた砂漠とはかけ離れた死のにおいに違いない。鋭く尖った神経は、どうも思ったように緩められなかった。
「まあいいさ。じき慣れる」という笑みの滲むしゃがれ声に、ちりりと胸の奥底で摩擦熱が走る。
自分は、若手の中でも特に信頼を置かれているからこそここに居るというのに。
「・・・・・・明日から俺は、・・・・・・貴方のことを何と呼べばいい?」
「村の人間には、おやっさんと呼ばれている。お前は?」
「・・・・・・」
「なんだ、ここでの名を貰わずに来たのか。面倒なこった」
「相談した上で名を決めろと言われた。万一でも齟齬があっては困ると。前任である貴方の意見を聞きたい」
そうさな、と返ってきてから、またうるさいほどの虫の声を聞くだんまりは、ほんのひとときのはずだった。しかし、ここが敵地の真中だと無意識に沁み込んでいるからだろうか。ぬかるむ地面から立ち上る空気を嗅ぐ時間が、どうにも長く感じる。
「では・・・・・・ドゥランはどうだ。明日からお前は、ドゥランと名乗ると良い」
ドゥラン。と、一度唇を動かす。まさしくシーカー族らしい名前ではある。しかしなんと口馴染みが悪いのだろうか。
明日までに舌が慣れるかどうかも怪しい語感であるが、とはいえ伺いを立てたのは自分だ。他に妙案があるわけでもない。
一呼吸だけ間を置き、それから御意、とだけ素直に返せば、では明日、としゃがれ声の気配が雨の残り香に霞んでいく。
彼も薄れていく陰に倣ってその場を離れた。
淡いシノビ草と足裏で感じる凹凸を頼りに、深い暗闇を歩く。
足を動かす合間、口馴染みの悪い言葉を小さく口の中で繰り返した。ドゥラン。ドゥラン。これが村で過ごす間の人生で、自らの名前になる。
明日から彼が身を置くのは、現段階でもっとも最前線と言われる敵方の懐、はるか昔の先祖がかつて安住の地としていたカカリコ村だ。この身を捧げコーガ様の耳目となり、絶えつつある王家の滅亡に最後の一手をかけるための内通者となる。
任務が長期にわたることは必至であり、事実、前任は村での監視に就いてから既に数十年が経っている。重要な役目を継ぐことができるのは光栄に違いないが、それだけに気を引き締めて、ことに当たらなければならない。
林を抜け、月光に晒される。新月に向かう細い月だけが立会人となり、彼に与えられた新たな名前を祝ってくれているようだった。
■
約束通り、昼を過ぎたあたりにドゥランは辻切りのかかる谷を抜けた。
出迎えたのは、彼が本拠とするカルサー谷にも通ずる木の門構え。頬を掠める湿気た空気に身を冷やしながら最初に出会った村人へ声を掛けると、「ああ、話は聞いとるよ」と穏やかな顔で奥へと通される。
ドゥランは村人の背を追う間、初めて訪れる同族村の暮らしを密かに左見右見した。高い崖に囲まれた谷間で畑を耕し、鶏とロバを家畜にした自給自足の暮らし。土壁の茅葺き屋根などついぞハイラルでは見かけないし、聞きしに勝るとも劣らず質素な印象を受ける。
噂通り、ひなびた村だ。彼らは王家に迫害を受け、ここへ押し込められた。俗世から離れてなお細々と伝統を続ける彼らは、当時から変わらない生活を続けてきたのだろうか。
「おやっさん!噂の子、来たみたいだよ!」
畑の背中に向かって村人が親し気に声をかけた。酷く重そうに腰を持ち上げ太陽を扇いだその人は、振り返ると同時ににこやかに片手を挙げる。「あんがとなぁ」と去っていく村人と視線を交わした後、遠慮なしにドゥランの肩を叩いたのは、深く刻まれた笑い皺が印象的な老人だった。
──カカリコ村へ寄越された、内通者の前任。昨晩に初対面を迎えたばかりの相手だが、しかしドゥランは一抹の違和感を覚えていた。
「長旅ご苦労さん。大変だったろぉ。しかし今日は忙しいぞ、荷物置いてインパ様のところに挨拶行って、村での生活の仕方と皆にお前のことを紹介しにゃあならん」
「はい。今日からよろしくお願いします、おやっさん」
「その後は畑仕事を手伝ってもらうからな、へばるなよ」
「はい、頑張ります」
しゃがれた声は昨晩聞いたその通り。ただ、くしゃっと皺の寄った目尻と口角の上がった口元は、想像していた顔つきと欠片も似てはいない。
穏やかで慎ましく、若輩を導く宿老。アジトで見かけるギラついた目をした同輩とも違う。この穏やかな村で暮らす間者として、彼は卓越しているのだ。
昨晩、気配を窘められたことを思い出し、ドゥランははっとなって一度深呼吸をした。
一村人としてのおやっさんに連れられ、村の女長であるインパへお目通りをする。
二人して正座で頭を下げ、新参者がやってくる経緯をおやっさんが説明する間、ドゥランは上目遣いでこっそりと村長を窺った。
年齢は、先達より年上というところだろうか。乾燥した樹木のような皮膚には深い皺が入っているし、年齢なりにくすんだ表面に大きな染みが浮いている。痴呆などの症状は見られず頭はしっかりしているようだが、一時は王家の執政補佐官を務め、戦場を走ったこともあるとは思えないほど小柄な老婆だ。
・・・・・・家には自分達以外の誰もいない。手にかけるなら、イーガの手の者が二人も揃った今が最大のチャンスやもしれない。
「では、自分たちはこれにて。インパ様、お時間をありがとうございました」
先達が立ち上がり、穏やかに一礼をして扉へと向かっていく。
有無を言わさず置いていく彼に倣い、ドゥランも「ありがとうございました」と一礼をした後、緩やかな笑みを返すインパを残して扉を抜けた。
「よれた婆さんです。手にかければすぐ口を割るんじゃないでしょうか」
村長の家から村へと続く長い階段を下りながら、ドゥランは小声で先達に囁いた。
「多少強引な手を使うことで、歯車が動くこともありましょう」
「・・・・・・あの女がよれた婆さんか。お前の目にはそう映るのか」
「実際そうでしょう。違うのですか」
横目から覗く瞳には、尚笑い皺が乗っている。
ふっと息を漏らしたおやっさんは、口端を緩く吊り上げてみせた。
「お前はこの任務の本質を分かっちゃいない」
ドゥランには、その意味がよく分からなかった。
■
ドゥランがカカリコ村へやってきて早一ヶ月が経った。先達の手引きもあって、漸くドゥランも、一日の過ごし方が頭に入ってきていた。
村で子飼いにしている鶏の声で目を覚まし、朝一番で収穫した野菜を万屋へと卸しに行く。女神ハイリアの石像周辺を清掃し、畑仕事に勤めた後は、貰った梅の実や野菜の余りものを長期保存するために処理をする。
ラネールの気候から影響を受けているカカリコ村は甘雨も多く、気温が保たれているので野菜の発育が良い。畑に使える土地は決して広くはないものの、村内の需要に間に合うくらいには収穫量がある。
度々やってくる商人から足りないものを購入しつつも、基本的にはこのような自給自足がカカリコ村の生活を支えている。先達も、村長であるインパでさえも、村に根を生やす人間ならば一人残らず。ドゥランも早く村の生活に染まらなければならない。
ある日、先達が収穫した幾つかの野菜を村の外へ売りにいくという。鶏の声より早くに叩き起こされたドゥランは、眠い目を擦りながらも布団から引き摺り出された。
昇り始めた朝陽に首筋を焼かれつつも、食べごろを迎えた野菜を籠へと入れていく。
谷間に留まる湿気が畑仕事で汗に変わるのは早い。立ち止まって首元を拭えば、勝手に休むなとでも言いたげな親父の鋭い視線が飛んでくる。
「おはよう、今日もやってんねぇ」
唐突の声にふっと顔を上げれば、初日にドゥランが声を掛けた村人が手傘をしながら立っていた。
「おはよう」と返す先達の目尻がすぐさま緩む。首にかけた手ぬぐいで日に焼けた肌を拭い、そのまま親し気に話し込む彼へ文句を込めた細い目を向けるが、村人との会話に夢中で気付かないようだった。
他から声を掛けられた途端にこれだ。ドゥランは息を吐きながら、改めて草をかき分け、朝露に濡れて鮮やかに色づいた野菜をもぎ取っていく。
「ドゥランみたいな若モンが来てくれて良かったねぇ。おやっさんも助かってるんじゃないか?一人じゃこの畑は大変だったろ」
「なに、まだまだ使いもんにならなくてね。若いやつは手が遅くていけねえ」
「厳しいこと言ってやんなよぉ。あんただって心配してたろ。奥さん亡くなってから畑とか家とか、どうすっかなって。任せられる人が来て良かったじゃないか」
「・・・・・・だったらいいんだがねぇ」
「そうだ。これ、さっきそこで採ってきたんだ。せっかくだからドゥランに食わせてやっとくれよ」
「ああ、こりゃあ助かるわ。じゃあうちからはこいつを。丁度売りに行くとこでね、良かったら」
「いつもすまんねぇ、恩に着るわ」
魚とカボチャを物々交換した村人は、気ぃつけて行っといでねぇと残して去っていく。片手を挙げて応えていた先達が、はぁと深く息を吐きながら作業へと戻ってきて、その笑みの残った相好をドゥランは横目で迎えた。
「おやっさん、奥さんいたんですか」
「ああ、居たよ。数年前に逝っちまったが」
「村の人、ですか?」
「ああ、そうだ。村で会って、数十年一緒に居た」
「・・・・・・子供は?」
「居ない。出来なかったんだ。まぁ、俺にとってはそっちの方が良かった。子供が居たら、どうなったか分からないしな」
どういう。と言いかけたところで会話をぶつ切りにするように、先達がおもむろに立ち上がる。
「そろそろ行くぞ。今日は忙しいんだ。無駄口を叩いてる暇なんてねえ」
野菜をいっぱいに詰め込んだ籠を背負った先達が、汗を滲ませた顔でドゥランを睨む。
無駄口?それはどっちだ。と咄嗟に頭へ上るが、先達に対して反意を唱えるつもりは毛頭ない。喉元に出かかった言葉を吐息に変え、野菜の詰まった籠を背負う。
早足で彼の元へ駆けていき、それから一間分の距離を空けながら、二人でゆっくりと村の門をくぐった。
道中での会話は最小限だった。これから会うのは定期的に取引のある顔なじみの商人で、半年に一度の頻度で野菜を売りにいっている。特に村の名産であるヨロイカボチャを気に入ってる人で、重くて大変だがなるべく多めに渡してあげたいのだと。自分が知っておく必要もない、取るに足らない日常の話だ。
誰にも会話を聞かれる恐れのない二人きりでの状況で、ドゥランはよっぽど諜報の引継ぎについて教わるのかと期待したが、蓋を開けてみればくだらない話で興が削がれる。気もそぞろに相槌を打ち、話すことが無くなってからは黙々と足を動かした。
谷を抜け、久しぶりに開けたハイラルの大地を目の当たりにする。鼻の奥をつく湿気たにおいが爽やかな青草のにおいに変わり、ここ一ヶ月、ずっと村に籠っていたドゥランの心の空気も入れ替わるようだった。
谷間の生活は退屈だ。彼から教わったのは畑仕事のことや、村人との付き合い方のこと。砂漠で毎日剣を振るっていた毎日を考えれば、それらは確かに初めて触れる知識ばかりだ。しかし、そのどれもがここにいる意味に結びつかないことばかりであるように思える。
村人同士のお裾分け。互いのための畑仕事。緩みきった笑顔。土と水と花のにおい。それに、どこへいても漂ってくる野菜を煮出した料理のにおい。
国中が災禍に包まれ、数多くの村々が滅んだ過去を思えば、これこそが死にゆく人々が望んだ奇跡のような安寧に違いない。ただ、自分たちにとってこれこそが偽りであるのも間違いないというだけだ。
林を抜け、坂を下りた先に崩れかけた石橋がある。目的の商人は荷馬車を携えて待っていた。遠目ながら手を挙げて合図を送られたので、一段と笑い皺を深めて「やあやあ」と先達が駆け寄っていく。
ドゥランも下り坂に引っ張られでもするように足を動かし、小さく息を切らしながら商人に会釈した。
「お久しゅう。村の恵みを持ってきた。こっちは、今後の取引を任せることになったドゥランだ。次からはこいつを寄越すことになる、よろしく頼む」
「ええ、分かってますとも。・・・・・・しかし、感慨深いですね。大変な作業をお疲れ様でした」
「これで漸く俺も楽になれる。あとはのんびり過ごすさ」
荷馬車に籠の荷物を移し始めたので、ドゥランも静々と先達に倣った。作業の間も天気の話や家族の話、最近食べた美味い物の話を続ける二人に、次から自分もこんな風に振る舞う必要があるのかとぼんやり耳をそばだてた。
最後に仕切り状を渡し、内容に目を通した商人からルピーの入った革袋を受け取る。それだけだったらきっと、ただの農家と商人のやり取りにしか見えなかった。
「では、終いの日には俺が迎えに来ますので」
「ああ、よろしく頼む」
荷馬車の上からかけられた最後の言葉の意味が分からない。ドゥランは二人の穏やかなやり取りを黙って見聞きし、荷馬車がゆっくりと去っていく姿と、先達の満足そうな表情を見比べる。
「今のって・・・・・・。終いの日、とは?」
「お前、もしかして分かってないのか?」
「分かってないって・・・・・・」
「ばかやろうが。あれは団員だ」
えっ、と素っ頓狂に声を上げたドゥランに、呆れを強く滲ませた先達が深いため息を零す。行くぞ、とだけ断ってさっさと村へ帰っていくおやっさんに置いて行かれないよう、ドゥランは軽くなった籠を背負い直して背中を追った。
■
それからまた一ヶ月ほど経った、雨風の強い晩のことだった。
ガタガタと家屋全部が軋み音をたてている。伝統的な木造様式である先達の家は非常に古めかしく、雨こそ入ってはこないものの隙間風が著しい。行燈の火を大きく揺らして影を躍らせるが、二ヶ月も経てば意外と慣れるものだ。平然と机に座り書き物を続ける先達に倣い、ドゥランも日課となった包丁の研磨を続けた。
しゃっ、しゃっ、と砥石に擦り付ける摩擦音に、生温かい風が部屋に忍び込む鋭い音が混ざる。直せば良いのに。と無意識に頭へ上ってすぐに、そういえば良い年の爺だった、と思い直す。いくら腕達者とはいえ、先達は働き盛りとは言えない老骨で、口だけは厳しいことを言いながらも作業中に何度も座っているのを知っている。
いつか自分が修繕してやった方が良いのだろう。と内心で考えながら、意思を固めず就床の時を待つ。
「ドゥラン、ちょっといいか」
ひゅう、という音に混ざって投げられたのは、机に座ったまま自分を呼ぶ先達の声だった。
就床前に自分を呼ぶなんて珍しい。ごわついた手ぬぐいで指先を拭ったドゥランは、視線だけで返事をしながら彼の元へと近寄った。
机に広げられているのは使い古された筆記用具と手紙。無遠慮に差し出された手紙を受け取ると、墨のにおいに混ざって古びた油のようなにおいが鼻腔を掠めていく。
「今度からお前が書くことになる本拠への書簡だ。書き方、覚えとけ」
書簡。その言葉に、ドゥランの心が高鳴った。これこそが、主君からの期待を背に、この場へ寄越された自分がやるべき主要任務のひとつなのだ。
筆記具を慣れた手つきで片付け始める先達を置いて、ドゥランは些か大文字の達筆に目を走らせる。
しかし、読み始めてすぐに困惑した。まるで親戚に送る文のような書き口は理解ができる。よく分からなかったのは、書かれている内容が村人と毎日交わす井戸端会議のような、なんてことはない日々の話ばかりだったのだ。
「なんだ。変な顔をして」と、口の片方を吊り上げた先達がグッと顔を覗いてくる。ドゥランは眉尻を下げながら、書簡を裏表に何度も返した。
「なにか暗号が隠されてる、とかですか」
「いいや、暗号なんてものはない。俺が本拠へ送るのは、俺が見聞きした村での生活そのものだ」
「それって・・・・・・意味があるんですか。コーガ様がこういう情報を欲してるとは・・・・・・その・・・・・・」
「思えねえってか?」
「・・・・・・はい」
底の知れない主君がどんな情報を取捨選択するのかなんて、一団員が勝手に判断するのも不敬であろう。しかし、かといって今日食べた夕餉の品や、子飼いの鶏の話、野菜の出来を、いったい誰が知りたいと思うのだろう。
不躾ながら心の底からの戸惑いを、先達は声を上げて笑い飛ばした。行燈の灯が揺れて大きく影が蠢く。その後少し眉間を歪ませて、惑いの滲む瞳をまじと見据えて言った。
「特別な情報なんてそうそうあるもんじゃねえ。俺はここにきて既に60年はいるけどな、なあんにもなかった。聞いたのは、姫付きの騎士が生きてるだろうって情報と、その真偽を長が知ってる”かもしれない”って話だけ。それ以外に俺が60年で得た情報は、なあんもねえ」
「・・・・・・」
「そういう任務なんだ、俺もお前も。いつ得られるか分からない、もしくは得られないかもしれない餌を心待ちにして、ただただ村人になって生活するだけのな。そいで本拠には、ただ淡々と俺の暮らし様を送りつける」
つまんねえぞぉ、とからから笑った声が、どこか乾いて聞こえて仕方ない。無意識に力の抜けた指先からするりと書簡を取り去っていった先達は、ごく自然にそれを三つ折りにしていく。きっちりと丁寧に合わせられた紙の四つ角が、行燈の光を反射してやけに白かった。
「ただなぁ、つまんねえはずの生活が意外とこたえるんだ。村の連中は気の良いやつらばっかだろ。男やもめの俺を何かと気にかけたりなぁ。・・・・・・長すぎたんだわ、俺は。ここが故郷みたいになっちまって」
「故郷・・・・・・故郷ですか」
「ああ。落ち着くんだ。身体に流れる血がここを求めてたみたいでな。元々俺たちゃ王家に仕える隠密だったんだ。刻まれてんのさ。・・・・・・難儀な話だ」
「・・・・・・」
「お前も覚悟しろよ。よっぽど強い意思がない限り、俺たちに流れる血がここに根を生やそうとする。これこそを求めてたんだって、朝目が覚めると漠然と感じるんだ。野菜が美味そうに育ったときとか、ホタルを見ながら家に入るときなんかも」
「もしかして足抜けを考えたことも・・・・・・?」
ひゅう、と乾いた風が胸の戸を騒がせる。「馬鹿言うな」という咄嗟の閂で、先達はドゥランを睨みつけた。
「俺の忠義はいつだってコーガ様の元にある。それはいつだって変わんねえよ」
誰も喋らない沈黙が二人の間に染み渡った。建付けの悪い木の扉が風に吹かれ、一段と大きくガタンと揺れる。
先達はそれから暫くして、「・・・・・・ただな」と、ふっと視線を逸らした。
「ずっとここにいるとな、・・・・・・心をどこに置けば良いか、分からなくなっちまうんだ」
ぽと、と籠からひとつのトマトが落ちるような言葉だった。彼が抱えきれず、落としたまま拾うこともできず置いていくようだった。
無風を思わせる静かな瞳の中に、村での生活を綴った書簡が映る。骨ばった指先でなぞるように撫でて、「俺はどこにいるべきなんだろうなぁ」と先達は唇を微かに動かした。
行燈で伸びた彼の影は濃く、それでいてゆらゆらとぼやけて曖昧になっていた。
ある日、ドゥランが鶏の一声で目を覚ますと、先達の姿が見えなかった。
普段であれば、既に身支度を済ませた先達が「やっと起きたか」と苦言を呈してくるはず。もしくは、共用の井戸で顔でも洗っているはず。しかし先達はどこにも見当たらない。畑にも、卸し先にも、子飼いの鶏小屋にも、隣人宅にも。
数か月を共にしていて初めてのことだ。胸の奥がやけにざわつく気配もあったが、しかしそんなこともあるかと気に留めなかった。いつもの隣人から「おやっさんは?」と血の気のなくなった顔を見せられるまでは。
おやっさんがいない。どこにだって人の目がある小さな村の中で、十数人の村人の誰もがこの日、彼の姿を見ていない。
広間に集まった村人が一人残さず緊張の面持ちを浮かべる中、女長の一声で男衆を中心に捜索隊が結成され、辺りを探すことに決まった。
切り立った崖に囲まれるカカリコ村から出入りできる路は多くない。辿って行けば必ず彼の形跡が見つかるはずだと当初は誰もが思っていた。いくら足腰のしっかりした老翁とはいえ、最近は道端で足を摩りながら休憩している姿もよく見られていた。散歩の機会に少し足を延ばしたところで疲れ、動けなくなっているだけかもしれない。
太陽が傾き始めた。そろそろ松明の準備をした方が良いかもしれないと相談する声は、どの村人も酷く掠れている。疲労の濃く滲んだ顔つきで、それでも皆、「心配だよなぁ」とドゥランの肩を優しく叩き、気を落とすなよと励ましていく。
村にあるだけの松明が、カカリコ村の人々によってかき集められる。全ては先達・・・おやっさんのためにだ。ばたばたと落ち着かない村人たちの中へ、しかしどうも素直に混ざれなかった。
頭の中へ浮かんでいたのは、以前耳にした「終いの日には迎えに来る」という商人との会話だ。
もしや彼は、終いの日を迎えたのではないか。自分にも秘密裏に村を抜け出し、あの朽ちた橋で商人と合流し、彼は本当の故郷へと帰っていったのではないだろうか。
それが思い込みであると分かったのは、崖下で先達が見つかったという報せが入ったからだった。
「・・・・・・おやっさん」
先達が村へ戻ってきた。身体をしとどに濡らし、不自然に強張った体つきのまま、ぴくりとも動かずに。
背負う村人の肩にだらりと投げ出された腕が土気色に変わっている。穏やかに広間へ横たえられた彼は、濁った眼のまま虚空を見つめるだけだった。
「トッチャ湖の奥で浮かんでた。・・・・・・墓参りのとき、崖から落ちたんだ。きっと」
暗くなりつつある中で、彼の白い装束を湖中から見つけられたのは幸運に近いだろう。しかし、大判の綿布に身体を包んだ村人は、表情を歪ませながらきつく拳を握り、震えていた。
かがり火がぱきりと爆ぜる音に、どこからともなく鼻をすする音が入り混じる。後ろでただ静観していたインパが重い足取りで一歩ずつ彼に近づき、力のこもっていない瞼を緩やかに眠らせた。同じく瞳をゆっくりと伏せて、厳かな祈りを伴う合掌をする。
波がそこから広がるように、彼を取り囲む全ての人間が手を合わせる。漂う煤のにおいが鼻の奥にこびりつく。ドゥランの狼狽えに纏わりつき、心の奥底まで染み付いて離れなくなるようだった。
一人の村人が死んだ。生き物として平等にやってくる瞬間だ。ただそれだけのことなのに、この先ずっと、ドゥランはこのにおいを忘れないような予感がした。
よく晴れた蒼空の日だった。
野菜の詰まった籠を背負い、ドゥランは先達の書状を持って、谷間を抜ける。朽ちた橋の前には、以前見たままの荷馬車が止まっている。ほど近くに例の商人を見つけて、遠目でも鮮やかに見える彼に片手を挙げた。
しかし、彼からの反応は返ってこない。近くまで寄っていくと、眉間に皺を寄せた商人が遠慮なしに自分を睨んでいる。ドゥランは近づきすぎないよう、慎重に距離をあけて立ち止まった。
「お前だけか。・・・・・・あの人はどうした?」
「・・・・・・死にました。崖から落ちて」
息を飲む音が耳を掠める。瞳孔を開く商人が口元に当てた指先が微かに震えていた。
「まさか・・・・・・。足抜けじゃあるまいな、死を偽装して」
「いえ、俺もこの目で見ました。確かにあの人でした。全部冷たくて固くて、・・・・・・触ったので確かです。偽装なんかじゃありません」
「なぜ・・・・・・」
「事故・・・・・・と、村の連中は言ってます」
風の吹く音に包まれる。湿潤なラネールの穏やかな気候が、このときばかり指先から体温を奪っていく。
ドゥランは懐から書簡を取り出し、視線を左右に揺らす商人へ両手で差し出した。
「あの人が書いた、最後の任務報告書です」とだけ伝えると、商人は受け取った後、暫くしてから封を開け、中身を取り出した。
その折、ひら、と一枚の小さな紙が同時に滑り落ちる。気付かずに文字を追い始めた商人の代わりに、ドゥランは草原に伏せられた紙を拾った。
「これ、落ちました」と差し出したとき、見覚えのある大文字の達筆が視界に入って、思わず目を止めた。
紙に書いてあった文字はたった一言、「皆に、すまない」、とだけ。
「これを、あの人が?」
「・・・・・・ええ。そうです」
「・・・・・・そうか」
小さな紙も手渡す。何も言わず商人に一度頭を下げて、ドゥランは村へと戻っていく。背中に荷馬車が動き出す音を聞きながらも、彼は決して振り返ろうとは思わなかった。
おやっさんのいない村での生活が始まった。
鶏の声で目を覚ます。隣人と挨拶を交わす。畑を耕し、村人たちへ野菜のお裾分けをする。
そんななんでもない村人としての生活が、ドゥランの毎日として染み込んでいく。彼が居なくとも進んでいく。
彼は最期、どちらで居たのだろうか。
何も語らずにいってしまった身体。すまないと同輩に残した言葉。
忠義はいつでもコーガ様の元へ、と彼は言った。しかし心は、魂は、どちらの里へ帰っていくのだろう。どちらの里に帰りたかったのだろう。そして、自分は。
彼が大切にしていた畑に立っているとき、ドゥランはいつも、ふと考え込んでしまうのだ。