【ss】ブレワイ・祠チャレンジの敬語幹部夢
机に伏したまま朧気に瞼を開けると、思ったよりも辺りが暗くて、蝋燭つけなきゃと頭にのぼった。
突っ伏していた机に手をつく。身体を持ちあげようとして、でもなぜか、力が入らない。
なんでだろう、と思ったけど、そういえば昼ごはんを抜いたんだった。朝ごはんもだ。食事は隠密の資本、といつかに聞いた声がよみがえる。
部屋の掃除もしていないし、食料だってもうなんにもない。あの人が帰ってくるまえに、私は私の仕事を終わらせなきゃいけないのに。
湯あみしたいな。髪の毛も洗いたい。洋服も着替えたいし、おけしょうも。
首だけ横にむけた。視界がすぐについてこない。玄関がぼやけてる。
吐息が熱い。息をひっしで吸ってるのに、ぜんぜん身体にはいっていかなくって、喉でひゅうひゅう音がなっている。
寒くて寒くてしかたないのに、汗だけはじわじわと沁みだし続けた。はりついた服が気持ち悪い。
このまま死んじゃうかも。そんな予感が、胸の中に沁みだしてくる。
彼がそろそろ帰ってくるというのに、その前に、ひとりで?
こんこん。
音がした。視界も頭もぜんぶぼやぼやした私の、幻聴でなければ。
こんこん。間をあけて、もう一度確かに、音が聞こえた。
二人で決めたノックのリズム。彼が、帰ってきた。いつもだったらとびおきて、私から扉をあけた。でも今、からだが動かない。せめて、はいって、返事しようとしたのに声が出ない。自分の吐息の音しかきこえない。はぁ、はぁ、はぁって、そんな掠れた、音しか。
ごめんなさい。あなたをここでお世話するのが、私の任務だったはずなのに。
それからぐるん、といしきが頭の向こう側へいって、わたしは、それから、ぜんぶが黒くしずんでいった。
■
微睡みに訪れた違和感は唐突だった。全部が曖昧にぼやける中、それだけが唯一、輪郭を伴っていた。
私の額の上。ひたり、と、何か柔らかくて冷たいものが乗せられたのだ。
「んっ・・・・・・」
ざらつく喉で呻く。微かに身じろいだ拍子、額に乗せられたそれがずるりと滑り落ちていく。どうやらそれは濡れていたみたい。湿った肌膚が隙間風に撫でられて、ひやりと冷たい形が鮮明だ。
重い瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは、柔らかな外光に照らされる寝室の天井だった。
「・・・・・・目が、覚めましたか」
隣から低い声。錆でもついたみたいに軋む首を回すと、本を片手にした大男────私がお世話を命じられている幹部さんから、イーガの瞳で見下ろされていた。
「幹部さん・・・・・・」思わず身体を持ち上げようとしたけれど、頭が酷く重くて緩慢にしか動けない。「そのまま寝てなさい」と叱責を口にする彼は、ぱたんと緩やかに本を閉じてみせる。
いつの間に帰ってきたんだろう。仕事着でもある赤い装束を脱いで、身軽なインナーのみで過ごす姿は随分砕けている。仕事は?こんなところでゆっくりしていられるほど、貴方は暇な人じゃないはずなのに。
ずきずきと痛む頭ではいまいち状況が飲み込めない。熱を測るように額へ手を添えてくる彼のことを、戸惑いを込めてじいと見つめる。
「幹部さん、えっと・・・・・・任務、は」
「貴女ね・・・・・・机に伏せたまま死にかけてたんですよ、高熱を出して。丸二日寝っぱなしです。私が任務にいけると思いますか」
「それは・・・・・・その」
「まぁでも、起きたのなら良かったです。食事にしますよ。食欲はないでしょうが、食べねば治るものも治らないですから」
床をぎし、と軋ませながら立ち上がる彼に対し、そういえば食材が底を尽きかけていたことを思い出す。
「何が作れるかな・・・・・・今、何もなくて・・・・・・」寝る前のことが随分朧気で、いまいち戸棚の中のことを思い出せない。
身体を起き上がらせて布団から出ようとすれば、彼から「はあ」と大袈裟なため息。
「貴女、ばかなのですか?その状態で炊事などできるわけないでしょう。大人しく寝てなさい」
背中を丸めた彼に指を突きつけられる。それから肩を掴まれて、ぼすん、と布団の海に沈められた。
意識よりも少し遅れてついてくる世界に、どうしても目が回る。幹部さん、と声を上げる間もなく、彼は何も言わず、寝室の戸を抜けて行ってしまった。
────彼が作ってくれる、ということだろうか。私のために、食事を?
ここでの食事は全て、私に課せられている業務だった。カカリコ村を始め、剣士の手がかりを知るシーカーを監視する彼が、イーガのアジトから遠い地でも業務に集中できるように世話をする。そのために遣わされたのが私、いわば家政婦役だ。
だからこの隠れ家に居る間、彼が家事をすることなど一度たりともありはしなかった。食事はおろか、洗濯も、掃除も。ベッドのシーツ交換だって。
その彼が、戸の向こうで、食事を準備してくれている?
俄かに聞こえるカチャカチャという食器の音が、素直に受け止めきれない頭の中に割り入ってくる。
申し訳なさに身を縮めるべきだろう。実際、胸の内に灯ったのは罪悪感だった。だけど同時に、胸がぽわんと暖かくもなって、どうにも緩んでしまう唇を噛み締めた。
窓の外では、林立した針葉樹が物寂しげに枝を揺らしている。その向こうには、青空をうっすらと覆う雲。雨の多いラネールらしい天候だけど、蝋燭をつけずに済む程度に、寝室は外光で満たされている。
雲の流れが早いなぁ。何もすることがなく、ぼおっと眺めていたら、コトコトと湯の煮立つ音が微かに耳へ入ってくる。それに、お米を炊いたときの瑞々しいニオイも。
その途端、ここ数日まともにご飯を食べていなかったお腹が、ぐぅと音を鳴らした。お腹が空いていたことも、このとき久しぶりに思い出した。
早く、出来ないかな。お腹空いちゃった。雲も散り散りに流れていくし。
布団から飛び出して、ひょこりと戸を覗けばいいんじゃないかしら。小さな炊事台に合わせて、背中を丸めてる幹部さん。着地する感覚のない床を走りながら、幹部さんと後ろから抱き着いて、もう元気になりましたから、貴方は座っててくださいって彼を引っ張るのだ。
いいんですか?と柔らかく困っている間に、サササッとコース料理を作って、ワインを開けて、グラスへたぷたぷと注いだそれを一度に飲んで、彼の話を、笑って聞いて、それで────。
「・・・・・・寝てるのですか、貴女」
低い声にぱちりと瞼を開けると、見覚えのある木の梁・・・・・・天井だ。目玉だけを右に左に動かすと、なにかおかしい。今まさに食べようとしていたコース料理がない。
サイドテーブルにはいつのまにかお盆が置かれ、ゆらゆらとした湯気が立ち昇っている。
食事が出来たんだ。今まで目の前に広がっていたのは、荒唐無稽な夢だった。
重い身体をなんとか持ち上げて壁に凭れる。残念な気持ちが頭の片隅にこびりついていたけれど、実際にご飯が食べられるのだから気にするべきじゃない。彼が作ってくれたのだ、それはきっと、私が作るコース料理より特別だ。
お盆を覗くと、淡いお米のにおいと湯気を立たせる土器に、卵粥が湛えられていた。あとは小さな取り皿。その隣の小鉢には、てらてらとツユのかかったかぼちゃの煮つけが添えられている。
二品も?と目を丸くしたら、カボチャの方は事前に作り置きしていたのだとか。
「滋養に良いと聞き及んだので、カカリコに忍び入る団員に分けてもらいましてね」
外光を艶やかに跳ね返す山吹色は、今年の育ちが如何に良いかを思わせる。いつか訪れた村の様子──茅葺の家根が並ぶ穏やかな景色を、つい思い出した。
どっちから食べようかな。いまいち働かない頭でぼおっと考えていると、「食べないのですか」と彼。
どっちから食べようか考えている、とそのまま答えると、「はぁ」と息を吐かれて、小鉢が攫われていった。
視界から消えたそれを一拍遅れて目で辿ると、「世話が焼けますねぇ」とぼやきながら、彼がお箸でカボチャを割っていく。
「幹部さん、私、さすがに自分で食べられます」
「貴女の挙動を待ってたら日が暮れますよ。いいから一口でも食べなさい」
手皿の上、お箸に摘ままれた山吹色を突き出され、彼の仮面を見遣った。でも、「ほら」と改めて近寄せてくるものだから強く断れない。言われるがまま、カボチャの欠片を口の中に閉じ込める。
咀嚼の度、蕩けるように形を崩すかぼちゃは、蜂蜜を沁みこませたと思うほどねっとり甘かった。微かに醤油の風味も感じるけれど、料理というよりは苦い茶に合わせるお茶菓子・・・・・・みたらしみたいなお味かも。
「どうですか」とどこか得意げに聞いてくる幹部さんに、こくりと飲み下した私は、なんと答えるか少し迷った。
「美味しいです。・・・・・・お菓子みたいで」
「そうでしょう。かぼちゃの煮つけはこれくらいが好みでね」
「結構、甘いのが好き・・・・・・なんですね。意外です」
「意外? 貴女は好みではありませんか?」
微かに眉を寄せたのが分かって、「いえ、好きですよ」と笑った。続け様「卵粥も食べていいですか?」と下から覗き込むと、彼は何も言わず、そのまま小さなお椀にお粥をよそってくれた。
微かに立ち昇る湯気の向こうには、白濁したスープみたいなお粥。卵の大きな白身がごろんと入っていて、卵の混ぜ方を失敗したのかなと思った。でも、湿った空気は空腹感を刺激する美味しそうなにおいがする。それだけで、満たされる気になる。暖かい料理は久しぶりだった。
冷める前に、一匙掬う。緩い湾曲に留まるそれは、やっぱりふつふつとした形すら残っていない液体状だ。火傷しないように空気と混ぜながら口へ入れると、うん・・・・・・やっぱりお米の粒感がほとんど舌先に残らない。きっとこれは、煮過ぎてるんだと思う。
「どうかしましたか」
一口をこくりと飲み込んでから、何も言わなかったのが気になったらしい。顔を覗かれた私は、咄嗟に「いえ、とっても美味しいです。ありがとうございます」と、改めてスープ・・・・・・お粥を掬った。
■
どうにも食欲がなく、完食は無理だった。けれど、お腹に食べ物を入れて随分落ち着いた私は、もう暫くの間、ベッドの上で休むことになった。
水音と食器の擦れる音が、こじんまりとした隠れ家の中に響いている。私は彼が後片付けをする気配を感じながら、手持無沙汰に外の様子をぼおっと眺めた。
さっきまでうっすらと陽を遮っていた雲は、随分厚くなっていた。まだ辛うじて日は差し込んでいるけれど、ややもすれば蝋の火が欲しくなるほど暗くなるに違いない。この調子だと、夜には雨が降り出しそうだ。
彼からは、「寝てなさい」と言いつけられた。
でも、このまままた寝ようという気にはどうしてもなれない。なんだか、ざわざわと胸の奥が落ち着かなかった。背中を預けた木の壁へ沈むように凭れたまま、どうしたって横になって寝たくない。
「貴女・・・・・・まだ寝てないのですか」
ぎ、と床の軋む音。視界の端に入ってきたのは、本を片手にした彼だ。
寝てなさいと言われた手前、彼が丸椅子へ腰かける合間に慌てて布団に潜りこむ。呆れたように「貴女ねぇ」と言われたけれど、それ以上の文句から逃げるように、鼻先までを掛け布団に埋めた。
「今は寝ることが最善です。瞼だけでも閉じてなさいな。・・・・・・治らなければ、面倒なことにここへ医者を連れてこなければならなくなる」
「えっと・・・・・・たくさん寝たから、なんだか寝付けなくて」
「まぁ、一理ありますけどね、しかし病人なのですから」
「それに、その・・・・・・暑くて、寝苦しくって」
視線だけで見上げると、呼応するように彼の手のひらが私の額に被さってくる。
彼の末端はいつだって冷たいけれど、今しがたの水仕事で肌は氷のように冷えていた。いつもだったらひゃっと声を上げて身震いしたかもしれない。でも、逆上せたような今の私にその冷たさが丁度良く、無意識にほぉっと息が出る。
「ああ、これはいけませんね。濡れ布巾を持ってきます」やおら立ち上がろうとした彼の腕を、私はクッと捕まえた。
「布巾より、幹部さんの手の方が・・・・・・」
「手?」
「はい、気持ち良くて・・・・・・その、できればそのまま、触っててくれませんか」
「・・・・・・」
「そっちの方が、・・・・・・眠れそうです、私」
普段だったらこんな甘え方をしても、彼はきっと「何を言ってるんです」と一笑に付しただろう。でも今回は、そうならない自信があった。
「・・・・・・仕方ありませんね」
浮かしかけた腰を元に戻し、椅子を軋ませる彼。手のひらがまた額に添えられて、髪を梳くように撫でられる。心地良い擦過につい瞼を閉じた。
傷だらけで、皮の厚い、豆だらけの手だ。氷のように冷たくて、気持ちの良い手。何人もの命を奪った、血に濡れている手。
こんなのおかしいんだろうな。そんな手なのに、今は私を寝かせようと頬に添えられている。その手に愛着が湧いていて、今はただ、ありがたいなんて。
今までより深く、息が吸える気がした。
「眠れそうですか、これで」
「だいぶ。・・・・・・でも・・・・・・」
「でも?」
「なんだか、・・・・・・寝るのが怖くって」
意識を手放したら、この手は、彼は、離れてしまうんじゃないかって。
例えば私の代わりに家事をして。もしくは、滞った業務を済ませるために。
誰にも会わない間に、このまま死ぬかもしれないって考えて、怖かった。一人になるんじゃないかって、そう思って、怖かった。
このまま帰ってこないんじゃないかって思って。
「・・・・・・」
ぽつ、ぽつ、と呟いた言葉に返ってくるのは、冷たい指先の摩擦。宥めるためか、返事のつもりか。それとも単なる指遊びだったかもしれない。
でも、彼なりの慰めだったんじゃないかって思った。そうだって、思いたかった。
だから次に続いた言葉は、そんな彼の心根を知りたいと思ってしまった、愚かな私の我儘だ。
「なにか・・・・・・話をしてくれませんか」
話? 彼がオウム返しに聞いてくる。
急な提案が意外だったのだろう。誰にも過去や個人を明け透けにしない彼は、今まで自分が語り部となるのを避けていて、私もそれを知っていた。
「イーガとして当然の振る舞い」とは、彼が私に、度々言って聞かせていた言葉だ。
彼が、小さく肩を竦めてみせる。
「私が貴女に聞かせられる話など、なにも・・・・・・」
「なんでも良いです、幹部さんの声、聞いてると落ち着くから・・・・・・子供の頃の話とか、なんでも」
「子供の頃の話、ですか」
「あとは・・・・・・伽話とか・・・・・・」
「・・・・・・そうですねぇ」
顎に手をかけて考え込む彼は、いつになく前向きなようだ。普段だったらきっと、「何をバカな」と一蹴されていたに違いないのに。
今日の幹部さんは、なにか違う。体調不良の免罪符があれば、彼に少し、近づける。
「・・・・・・あれは私がまだ6歳ごろ、村に住んでた時のことですが・・・・・・」
ふと紡がれる話。それは私がリクエストした通り、幼少期の頃の思い出だった。
「私も、風邪を引いたことがあるんですよ。うなされるほどの酷い風邪をね。数日生死をさ迷い、衰弱しました。思えばあの時が、最初に死を覚悟した瞬間だったかもしれない」
「それは・・・・・・大変でしたね」
「ええ。しかしね、両親は厳しかったものですから、体調不良よりも、彼らから弱い男だと叱責されるんじゃないかと恐れました。でも彼らはそうしなかった。この時ばかりは甲斐甲斐しく世話されて、良い気になったものです。まるで愛されてるみたいだと思えた」
「・・・・・・実際、そうなのではないですか」
「それはどうでしょうねぇ。手ずから育て上げた同輩を死なせたくなかったのではないですか」
一度幹部さんは仮面に影を落として、ふっと息を漏らした。
「でもまぁ、体調不良だったにしては、悪くない思い出です。卵粥と、カボチャの煮つけ。父の下手な子守歌や、母がつたなく喋り続けた時間なんかがね」
「・・・・・・」
「・・・・・・私は、こんな話しかできませんよ。これで満足しましたか」
微かに笑みの乗った声なのに、それがむしろ、寂しく聞こえた。
カタカタと窓を揺らしながら吹き込む隙間風は、雨が降る直前の湿気を帯びている。
でも、その雨はなんだか、ただ冷たいのではなく、包み込んでくれる暖かさがある気がして。まるで、彼の声音、みたいで。
熱の移った堅い手の平へ、私の柔い手の平を重ねる。彼の骨ばった指先に、私のそれを絡めて握る。
「もっと・・・・・・もっと聞きたいな、幹部さんの話。私が、寝るまで」
見上げても、彼は身じろぎもしない。きっと面倒だって思ってる。
幹部さん、お願い。と繰り返したところで、漸く彼は肩で息を吐いて、「しょうがないですねぇ」と一言漏らした。
あとに続く思い出は、掠れたようなバリトン。つたない子守歌のようなそれが、二人きりの隠れ家を満たしていく。
振り始めた雨音が、彼の声と溶けるように重なる。包み込まれる安心に、私はそのまま、微睡みの中へと落ちていった。
突っ伏していた机に手をつく。身体を持ちあげようとして、でもなぜか、力が入らない。
なんでだろう、と思ったけど、そういえば昼ごはんを抜いたんだった。朝ごはんもだ。食事は隠密の資本、といつかに聞いた声がよみがえる。
部屋の掃除もしていないし、食料だってもうなんにもない。あの人が帰ってくるまえに、私は私の仕事を終わらせなきゃいけないのに。
湯あみしたいな。髪の毛も洗いたい。洋服も着替えたいし、おけしょうも。
首だけ横にむけた。視界がすぐについてこない。玄関がぼやけてる。
吐息が熱い。息をひっしで吸ってるのに、ぜんぜん身体にはいっていかなくって、喉でひゅうひゅう音がなっている。
寒くて寒くてしかたないのに、汗だけはじわじわと沁みだし続けた。はりついた服が気持ち悪い。
このまま死んじゃうかも。そんな予感が、胸の中に沁みだしてくる。
彼がそろそろ帰ってくるというのに、その前に、ひとりで?
こんこん。
音がした。視界も頭もぜんぶぼやぼやした私の、幻聴でなければ。
こんこん。間をあけて、もう一度確かに、音が聞こえた。
二人で決めたノックのリズム。彼が、帰ってきた。いつもだったらとびおきて、私から扉をあけた。でも今、からだが動かない。せめて、はいって、返事しようとしたのに声が出ない。自分の吐息の音しかきこえない。はぁ、はぁ、はぁって、そんな掠れた、音しか。
ごめんなさい。あなたをここでお世話するのが、私の任務だったはずなのに。
それからぐるん、といしきが頭の向こう側へいって、わたしは、それから、ぜんぶが黒くしずんでいった。
■
微睡みに訪れた違和感は唐突だった。全部が曖昧にぼやける中、それだけが唯一、輪郭を伴っていた。
私の額の上。ひたり、と、何か柔らかくて冷たいものが乗せられたのだ。
「んっ・・・・・・」
ざらつく喉で呻く。微かに身じろいだ拍子、額に乗せられたそれがずるりと滑り落ちていく。どうやらそれは濡れていたみたい。湿った肌膚が隙間風に撫でられて、ひやりと冷たい形が鮮明だ。
重い瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは、柔らかな外光に照らされる寝室の天井だった。
「・・・・・・目が、覚めましたか」
隣から低い声。錆でもついたみたいに軋む首を回すと、本を片手にした大男────私がお世話を命じられている幹部さんから、イーガの瞳で見下ろされていた。
「幹部さん・・・・・・」思わず身体を持ち上げようとしたけれど、頭が酷く重くて緩慢にしか動けない。「そのまま寝てなさい」と叱責を口にする彼は、ぱたんと緩やかに本を閉じてみせる。
いつの間に帰ってきたんだろう。仕事着でもある赤い装束を脱いで、身軽なインナーのみで過ごす姿は随分砕けている。仕事は?こんなところでゆっくりしていられるほど、貴方は暇な人じゃないはずなのに。
ずきずきと痛む頭ではいまいち状況が飲み込めない。熱を測るように額へ手を添えてくる彼のことを、戸惑いを込めてじいと見つめる。
「幹部さん、えっと・・・・・・任務、は」
「貴女ね・・・・・・机に伏せたまま死にかけてたんですよ、高熱を出して。丸二日寝っぱなしです。私が任務にいけると思いますか」
「それは・・・・・・その」
「まぁでも、起きたのなら良かったです。食事にしますよ。食欲はないでしょうが、食べねば治るものも治らないですから」
床をぎし、と軋ませながら立ち上がる彼に対し、そういえば食材が底を尽きかけていたことを思い出す。
「何が作れるかな・・・・・・今、何もなくて・・・・・・」寝る前のことが随分朧気で、いまいち戸棚の中のことを思い出せない。
身体を起き上がらせて布団から出ようとすれば、彼から「はあ」と大袈裟なため息。
「貴女、ばかなのですか?その状態で炊事などできるわけないでしょう。大人しく寝てなさい」
背中を丸めた彼に指を突きつけられる。それから肩を掴まれて、ぼすん、と布団の海に沈められた。
意識よりも少し遅れてついてくる世界に、どうしても目が回る。幹部さん、と声を上げる間もなく、彼は何も言わず、寝室の戸を抜けて行ってしまった。
────彼が作ってくれる、ということだろうか。私のために、食事を?
ここでの食事は全て、私に課せられている業務だった。カカリコ村を始め、剣士の手がかりを知るシーカーを監視する彼が、イーガのアジトから遠い地でも業務に集中できるように世話をする。そのために遣わされたのが私、いわば家政婦役だ。
だからこの隠れ家に居る間、彼が家事をすることなど一度たりともありはしなかった。食事はおろか、洗濯も、掃除も。ベッドのシーツ交換だって。
その彼が、戸の向こうで、食事を準備してくれている?
俄かに聞こえるカチャカチャという食器の音が、素直に受け止めきれない頭の中に割り入ってくる。
申し訳なさに身を縮めるべきだろう。実際、胸の内に灯ったのは罪悪感だった。だけど同時に、胸がぽわんと暖かくもなって、どうにも緩んでしまう唇を噛み締めた。
窓の外では、林立した針葉樹が物寂しげに枝を揺らしている。その向こうには、青空をうっすらと覆う雲。雨の多いラネールらしい天候だけど、蝋燭をつけずに済む程度に、寝室は外光で満たされている。
雲の流れが早いなぁ。何もすることがなく、ぼおっと眺めていたら、コトコトと湯の煮立つ音が微かに耳へ入ってくる。それに、お米を炊いたときの瑞々しいニオイも。
その途端、ここ数日まともにご飯を食べていなかったお腹が、ぐぅと音を鳴らした。お腹が空いていたことも、このとき久しぶりに思い出した。
早く、出来ないかな。お腹空いちゃった。雲も散り散りに流れていくし。
布団から飛び出して、ひょこりと戸を覗けばいいんじゃないかしら。小さな炊事台に合わせて、背中を丸めてる幹部さん。着地する感覚のない床を走りながら、幹部さんと後ろから抱き着いて、もう元気になりましたから、貴方は座っててくださいって彼を引っ張るのだ。
いいんですか?と柔らかく困っている間に、サササッとコース料理を作って、ワインを開けて、グラスへたぷたぷと注いだそれを一度に飲んで、彼の話を、笑って聞いて、それで────。
「・・・・・・寝てるのですか、貴女」
低い声にぱちりと瞼を開けると、見覚えのある木の梁・・・・・・天井だ。目玉だけを右に左に動かすと、なにかおかしい。今まさに食べようとしていたコース料理がない。
サイドテーブルにはいつのまにかお盆が置かれ、ゆらゆらとした湯気が立ち昇っている。
食事が出来たんだ。今まで目の前に広がっていたのは、荒唐無稽な夢だった。
重い身体をなんとか持ち上げて壁に凭れる。残念な気持ちが頭の片隅にこびりついていたけれど、実際にご飯が食べられるのだから気にするべきじゃない。彼が作ってくれたのだ、それはきっと、私が作るコース料理より特別だ。
お盆を覗くと、淡いお米のにおいと湯気を立たせる土器に、卵粥が湛えられていた。あとは小さな取り皿。その隣の小鉢には、てらてらとツユのかかったかぼちゃの煮つけが添えられている。
二品も?と目を丸くしたら、カボチャの方は事前に作り置きしていたのだとか。
「滋養に良いと聞き及んだので、カカリコに忍び入る団員に分けてもらいましてね」
外光を艶やかに跳ね返す山吹色は、今年の育ちが如何に良いかを思わせる。いつか訪れた村の様子──茅葺の家根が並ぶ穏やかな景色を、つい思い出した。
どっちから食べようかな。いまいち働かない頭でぼおっと考えていると、「食べないのですか」と彼。
どっちから食べようか考えている、とそのまま答えると、「はぁ」と息を吐かれて、小鉢が攫われていった。
視界から消えたそれを一拍遅れて目で辿ると、「世話が焼けますねぇ」とぼやきながら、彼がお箸でカボチャを割っていく。
「幹部さん、私、さすがに自分で食べられます」
「貴女の挙動を待ってたら日が暮れますよ。いいから一口でも食べなさい」
手皿の上、お箸に摘ままれた山吹色を突き出され、彼の仮面を見遣った。でも、「ほら」と改めて近寄せてくるものだから強く断れない。言われるがまま、カボチャの欠片を口の中に閉じ込める。
咀嚼の度、蕩けるように形を崩すかぼちゃは、蜂蜜を沁みこませたと思うほどねっとり甘かった。微かに醤油の風味も感じるけれど、料理というよりは苦い茶に合わせるお茶菓子・・・・・・みたらしみたいなお味かも。
「どうですか」とどこか得意げに聞いてくる幹部さんに、こくりと飲み下した私は、なんと答えるか少し迷った。
「美味しいです。・・・・・・お菓子みたいで」
「そうでしょう。かぼちゃの煮つけはこれくらいが好みでね」
「結構、甘いのが好き・・・・・・なんですね。意外です」
「意外? 貴女は好みではありませんか?」
微かに眉を寄せたのが分かって、「いえ、好きですよ」と笑った。続け様「卵粥も食べていいですか?」と下から覗き込むと、彼は何も言わず、そのまま小さなお椀にお粥をよそってくれた。
微かに立ち昇る湯気の向こうには、白濁したスープみたいなお粥。卵の大きな白身がごろんと入っていて、卵の混ぜ方を失敗したのかなと思った。でも、湿った空気は空腹感を刺激する美味しそうなにおいがする。それだけで、満たされる気になる。暖かい料理は久しぶりだった。
冷める前に、一匙掬う。緩い湾曲に留まるそれは、やっぱりふつふつとした形すら残っていない液体状だ。火傷しないように空気と混ぜながら口へ入れると、うん・・・・・・やっぱりお米の粒感がほとんど舌先に残らない。きっとこれは、煮過ぎてるんだと思う。
「どうかしましたか」
一口をこくりと飲み込んでから、何も言わなかったのが気になったらしい。顔を覗かれた私は、咄嗟に「いえ、とっても美味しいです。ありがとうございます」と、改めてスープ・・・・・・お粥を掬った。
■
どうにも食欲がなく、完食は無理だった。けれど、お腹に食べ物を入れて随分落ち着いた私は、もう暫くの間、ベッドの上で休むことになった。
水音と食器の擦れる音が、こじんまりとした隠れ家の中に響いている。私は彼が後片付けをする気配を感じながら、手持無沙汰に外の様子をぼおっと眺めた。
さっきまでうっすらと陽を遮っていた雲は、随分厚くなっていた。まだ辛うじて日は差し込んでいるけれど、ややもすれば蝋の火が欲しくなるほど暗くなるに違いない。この調子だと、夜には雨が降り出しそうだ。
彼からは、「寝てなさい」と言いつけられた。
でも、このまままた寝ようという気にはどうしてもなれない。なんだか、ざわざわと胸の奥が落ち着かなかった。背中を預けた木の壁へ沈むように凭れたまま、どうしたって横になって寝たくない。
「貴女・・・・・・まだ寝てないのですか」
ぎ、と床の軋む音。視界の端に入ってきたのは、本を片手にした彼だ。
寝てなさいと言われた手前、彼が丸椅子へ腰かける合間に慌てて布団に潜りこむ。呆れたように「貴女ねぇ」と言われたけれど、それ以上の文句から逃げるように、鼻先までを掛け布団に埋めた。
「今は寝ることが最善です。瞼だけでも閉じてなさいな。・・・・・・治らなければ、面倒なことにここへ医者を連れてこなければならなくなる」
「えっと・・・・・・たくさん寝たから、なんだか寝付けなくて」
「まぁ、一理ありますけどね、しかし病人なのですから」
「それに、その・・・・・・暑くて、寝苦しくって」
視線だけで見上げると、呼応するように彼の手のひらが私の額に被さってくる。
彼の末端はいつだって冷たいけれど、今しがたの水仕事で肌は氷のように冷えていた。いつもだったらひゃっと声を上げて身震いしたかもしれない。でも、逆上せたような今の私にその冷たさが丁度良く、無意識にほぉっと息が出る。
「ああ、これはいけませんね。濡れ布巾を持ってきます」やおら立ち上がろうとした彼の腕を、私はクッと捕まえた。
「布巾より、幹部さんの手の方が・・・・・・」
「手?」
「はい、気持ち良くて・・・・・・その、できればそのまま、触っててくれませんか」
「・・・・・・」
「そっちの方が、・・・・・・眠れそうです、私」
普段だったらこんな甘え方をしても、彼はきっと「何を言ってるんです」と一笑に付しただろう。でも今回は、そうならない自信があった。
「・・・・・・仕方ありませんね」
浮かしかけた腰を元に戻し、椅子を軋ませる彼。手のひらがまた額に添えられて、髪を梳くように撫でられる。心地良い擦過につい瞼を閉じた。
傷だらけで、皮の厚い、豆だらけの手だ。氷のように冷たくて、気持ちの良い手。何人もの命を奪った、血に濡れている手。
こんなのおかしいんだろうな。そんな手なのに、今は私を寝かせようと頬に添えられている。その手に愛着が湧いていて、今はただ、ありがたいなんて。
今までより深く、息が吸える気がした。
「眠れそうですか、これで」
「だいぶ。・・・・・・でも・・・・・・」
「でも?」
「なんだか、・・・・・・寝るのが怖くって」
意識を手放したら、この手は、彼は、離れてしまうんじゃないかって。
例えば私の代わりに家事をして。もしくは、滞った業務を済ませるために。
誰にも会わない間に、このまま死ぬかもしれないって考えて、怖かった。一人になるんじゃないかって、そう思って、怖かった。
このまま帰ってこないんじゃないかって思って。
「・・・・・・」
ぽつ、ぽつ、と呟いた言葉に返ってくるのは、冷たい指先の摩擦。宥めるためか、返事のつもりか。それとも単なる指遊びだったかもしれない。
でも、彼なりの慰めだったんじゃないかって思った。そうだって、思いたかった。
だから次に続いた言葉は、そんな彼の心根を知りたいと思ってしまった、愚かな私の我儘だ。
「なにか・・・・・・話をしてくれませんか」
話? 彼がオウム返しに聞いてくる。
急な提案が意外だったのだろう。誰にも過去や個人を明け透けにしない彼は、今まで自分が語り部となるのを避けていて、私もそれを知っていた。
「イーガとして当然の振る舞い」とは、彼が私に、度々言って聞かせていた言葉だ。
彼が、小さく肩を竦めてみせる。
「私が貴女に聞かせられる話など、なにも・・・・・・」
「なんでも良いです、幹部さんの声、聞いてると落ち着くから・・・・・・子供の頃の話とか、なんでも」
「子供の頃の話、ですか」
「あとは・・・・・・伽話とか・・・・・・」
「・・・・・・そうですねぇ」
顎に手をかけて考え込む彼は、いつになく前向きなようだ。普段だったらきっと、「何をバカな」と一蹴されていたに違いないのに。
今日の幹部さんは、なにか違う。体調不良の免罪符があれば、彼に少し、近づける。
「・・・・・・あれは私がまだ6歳ごろ、村に住んでた時のことですが・・・・・・」
ふと紡がれる話。それは私がリクエストした通り、幼少期の頃の思い出だった。
「私も、風邪を引いたことがあるんですよ。うなされるほどの酷い風邪をね。数日生死をさ迷い、衰弱しました。思えばあの時が、最初に死を覚悟した瞬間だったかもしれない」
「それは・・・・・・大変でしたね」
「ええ。しかしね、両親は厳しかったものですから、体調不良よりも、彼らから弱い男だと叱責されるんじゃないかと恐れました。でも彼らはそうしなかった。この時ばかりは甲斐甲斐しく世話されて、良い気になったものです。まるで愛されてるみたいだと思えた」
「・・・・・・実際、そうなのではないですか」
「それはどうでしょうねぇ。手ずから育て上げた同輩を死なせたくなかったのではないですか」
一度幹部さんは仮面に影を落として、ふっと息を漏らした。
「でもまぁ、体調不良だったにしては、悪くない思い出です。卵粥と、カボチャの煮つけ。父の下手な子守歌や、母がつたなく喋り続けた時間なんかがね」
「・・・・・・」
「・・・・・・私は、こんな話しかできませんよ。これで満足しましたか」
微かに笑みの乗った声なのに、それがむしろ、寂しく聞こえた。
カタカタと窓を揺らしながら吹き込む隙間風は、雨が降る直前の湿気を帯びている。
でも、その雨はなんだか、ただ冷たいのではなく、包み込んでくれる暖かさがある気がして。まるで、彼の声音、みたいで。
熱の移った堅い手の平へ、私の柔い手の平を重ねる。彼の骨ばった指先に、私のそれを絡めて握る。
「もっと・・・・・・もっと聞きたいな、幹部さんの話。私が、寝るまで」
見上げても、彼は身じろぎもしない。きっと面倒だって思ってる。
幹部さん、お願い。と繰り返したところで、漸く彼は肩で息を吐いて、「しょうがないですねぇ」と一言漏らした。
あとに続く思い出は、掠れたようなバリトン。つたない子守歌のようなそれが、二人きりの隠れ家を満たしていく。
振り始めた雨音が、彼の声と溶けるように重なる。包み込まれる安心に、私はそのまま、微睡みの中へと落ちていった。
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