【ss】ブレワイ・祠チャレンジの敬語幹部夢
ひとつだけ灯した蝋燭は、随分短くなっている。日が沈んで、手元すら覚束なくなる前に火をつけた新しい蝋燭だ。いつもならこうまで短くなるほど、彼の帰りは遅くないというのに。
本拠のアジトから離れ、暗殺という仄暗い業務を忙しくこなす彼を支える私は、どれほど一人の時間が長くなろうとも彼を待つしか術がない。実力者である彼だからこそ、絶対に帰ってくるという確信はある。しかし不測の事態とは、いつだって突然にやってくるものだ。
もしかして彼の身に何かあったのかも。と、脳裏によぎった瞬間、コンコンと扉を叩く音。一瞬開いて、またコンコン。不可思議なリズムは、事前に決めていた帰宅の合図だった。
すぐさま机の上に置いていた蝋燭を手に取って扉に向かい、閂を抜いた。内扉に引けば予想通り彼が立っていて、外からの風が中へ入ってくるのと同時に、つんとした鉄のにおいが鼻をつく。随分遅かったし、もしや怪我でも、と蝋燭の心もとない明かりで足下から顔までを照らしたけど、どうやら姿を見る分には何事も無いようでホッとした。
「お帰りなさい」と微笑み、彼のその大きな身体に飛び込もうとした、寸前。しかしそれが許されないような、言い知れない違和感を覚えて、寸でのところで踏みとどまる。
彼の空気が沈み込んでいる。説明できないけど、はっきりと感じる。「ただいま戻りました」と返ってくる口調は柔らかなのに、どうしていつにもまして無表情なの?
暗に触れ合いを拒むように彼は一切の隙なく部屋の中に入ってきて、羽織っていた外套を脱ぐ。差し出されるままに受け取ったコートを壁に吊るしていると、彼は食卓ではなく、浴場へと向かっていった。
「今日、夕餉はいりません。貴女ももう、休んでいいですから」
横目だけを覗かせる彼に分かりましたと答えれば、浴室との隔たりである暖簾をくぐって、すぐに洋服を脱ぎだしたようだった。
彼が携わっている暗殺という業務は、身体が資本なのだと彼は言う。いざというときに身体が動かせないと命に関わるので、食べられるときにしっかり食べることが絶対なのだと。
あれだけ口を酸っぱくしながら言っていた彼が、今日の夕餉はいりません、なんて。
暖簾越しに水音が聞こえてくるまで、暫し惚けてしまった。頭から水を被ったような、ざば、という音でハッとなって、彼が出て来る前に身体を拭く大きめの綿布と着替えを準備する。
夕餉はいらない、とは言われたけれど、湯浴みをしてさっぱりしたら気が変わるかもしれない。一応料理を火にかけて温めておく。
■
「まだ起きていたんですか」
机の上に蝋燭を置き、椅子で縫い物をしていると、湯浴みを終えた彼が暗がりの中から現れた。
ぬら、とした黒髪がやけに蝋燭の光を反射している。何故かと思えば、水分がほとんど拭けていないからだ。結わずに枝垂れさせた黒髪からは、今にもぽたりと水滴が垂れそうで、だから首に綿布を掛けているのかと思い至った。
いつもだったら一番上までしっかりとボタンを止めて窮屈そうですらある部屋着も、今日は一番上が開いたままになっている。
しっかり者・・・・・・というよりは、他人に隙を見せることを良しとしない普段の彼と違う。目を丸くしながら動向を見ていると、彼は私の視線なんかお構いなしに、机を挟んだ向かい側の椅子へ腰かけた。その座り姿もどこか力が抜けており、固い木の椅子なのに、まるで柔らかいソファにでも沈んでいるように見える。
「随分お疲れですね。貴方こそもう休まれては?」
「言われなくともそのつもりですよ。洗濯だけお願いできますか、いつもより汚してしまって」
「もちろん。じゃあ、私も洗濯をしてから寝に入りますから、お先にお休みなさってください」
「・・・・・・酒ありますか。赤ワインでもあれば、と思ったんですが」
立ち上がった拍子、引き留めるような遠慮がちな声に立ち止まる。
「酒、ですか・・・・・・?」と繰り返したのは、彼が平生で飲酒を避けていたからだ。万が一にでも急務や不測の事態が起こったとき、酔ってしまっていては満足に対応もできない。その一瞬の油断が命取りなのだと私に言い聞かせ、よっぽどの時以外は二人して酒を飲まないように決めていた。その彼が、酒?
「いけませんか」と力の抜けた瞳で睨まれて、肩を竦める。彼は一度こうと決めたら他人の意見は聞かないし、聞き返すこと自体が愚問だ。
「あるにはありますけど」と言いながらキッチンの奥を探ると、見当たったのは料理酒として使っている早熟の赤ワイン。そのまま飲む分には味もそっけもないし、封を開けてから時間も経っており、適当に冷所に置いてあるだけで杜撰にしているので、おそらく状態が悪い。
普段飲酒はしないものの味の良し悪しは分かる彼だ。いつもなら、一瞥しただけで「こんなもの」と断るはずだった。なのに、やる気のない瞼からチラリと赤ワインを見遣った彼は、あろうことかこれを飲むという。
やめた方が良い、とは言わなかった。美味しくないですよ、とも。彼が飲むと言ったら飲むのだ。
ボトルを置き、埃をかぶっていたワイングラスを軽く水洗いして、水気を拭き切った後に目の前で注いであげた。どれほど飲むか分からないから、まずは一口分くらいに。彼は存外酒に弱い性質だし、これくらいでも充分かもしれない。
「どうぞ」と言っても、彼は揺らつく赤い水面をジッと見つめたまま動かないので、何も言わずに私は私で浴室に向かった。もう休む、と彼は言ったものの、この夜は長いかもしれない。やることをやってしまわなくては。
浴室には彼が今日着ていただろう赤い装束が脱いであって、触ったらぐっしょりと濡れていた。本当だったら近くの川にでも持って行ってザブザブ手洗いをしたいけど、あの状態の彼を放っておくのも心にひっかかる。大変だろうけど、あらかたの汚れを落として漬け置き洗いにでもしておこう。
昼間に水を溜めておいた甕から洗濯桶に水を移し、装束を浸してから軽く揉み洗いをする。思った通り一瞬で水が真っ赤に染まるので、捨ててまた新しい水を移し、揉み洗いするのを繰り返した。水が透明なままになるまで続け、石鹸を溶かして明日の朝まで放置する。
洗濯は重労働だ。特に彼が業務から帰ってきた時は汚れを落とすのに苦労する。湿気た冷たさのある夜だったけど、終わるころには額に汗をかいていた。確かに彼の言った通り、今日の汚れはなかなか手ごわかった。これほど装束を汚すなんて、やっぱり彼にしては珍しい。
キッチンに戻ると、もう既に彼は居なかった。
グラスに注いだ赤ワインは無くなっているが、ボトルの中身は一切減っていないようだった。おかわりもせず、ほんの一口の赤ワインで満足して床に入ったということだろうか。
短くなった蝋燭の火を消して寝室に入ると、予想通り二つ並んだベッドの片方が山になっていた。新月に近いのか、月光の弱い晩だ。微かな青白い光で照らされるシーツと、息遣いや衣擦れ音すら聞こえない静けさは、ここがまるで水の底に沈んでいるのだと錯覚させる。
物音を立てないようベッドに近づくと、背を向けて寝る彼の黒髪が目に入った。でも、ここまで近づいても寝息は聞こえない。もっとも、彼はいつも死んでるんじゃないかと心配になってしまうほど静かに寝る人だ。寝息が聞こえないこと自体は、いつもと同じで珍しくはない。
「・・・・・・きょうは、・・・・・・らで」
冷たいシーツに足を潜らせていると、掠れたようなくぐもった声が聞こえて、黒い髪を枕に散らす彼の頭へ「え?」と耳を近づけた。
「・・・・・・今日は、こちらで」
弱みを見せないよう、甘えなんて一切感じさせない振る舞いに徹している彼とは思えない言葉だ。
まるで今まで聞いたことがない。でも、だからこそやっぱり今日はおかしいと思う。いつもの彼じゃない。
私は何も言わずに、背中を向けたままの彼の布団に入り込んだ。もしかして、このまま伽に。と一瞬よぎったけど、隣り合って寝転んでも、彼は微動だにせず背中を向けたままだった。
彼の身体は、布団に入っていたにもかかわらず冷えている。温めてあげたいところだけど、水仕事をしてから寝室にやってきたばかりの私の身体も、同じように冷えている。
せめて少しでも温かくなれば良いと、私は彼へぴったりと寄り添った。彼の身体は大きくて、さすがに二人並んで寝るには窮屈だし寄り添うことの言い訳にもなるだろう。
普段だったら「鬱陶しい」と嫌がられたかもしれない。でもきっと今日なら大丈夫。実際、彼は何も言わなかった。
「何か、あったんですか」
後ろ向きの頭に声をかけた。彼は答えない。相変わらず、寝たわけではないようだったけど。
もう一度、幹部さん、と声をかけると、「静かになさい」と小さな声が返ってきて救われた気になった。
「何かあったんでしょう?いつもと違います」
「・・・・・・貴女如きに私の何が分かりますか。いつもなどと、勝手に語らないでいただきたい」
「でも、貴方らしくない。その理由を聞かせてくれませんか」
「聞かせて何になりますか。貴女が理解できる何かがあったわけじゃありません」
「理解できずとも、私は幹部さんの部下なので。何があったか知る必要はあると思います」
「貴女は世話人で、私が携わる業務とは無関係です。知る必要などありません」
「世話人だからこそ、知らねばならないこともあります。普段通りのお世話ができなくなります」
滔々と返ってくる沈んだ低い声は、「とんだ屁理屈を」と残したのを最後に聞こえなくなる。幹部さん、と呼んでも無言のままだった。
彼は、業務の話を滅多にしない。それどころか、今日あった話も、過去にあった話も、どんな人生を歩んできたのかも。彼にまつわる個人的な話を、私はほとんど聞かされたことがない。食卓で話すのは、いつも私が過ごす家での話ばかりだった。
だから、今更彼に断られたところで、これはいつものこと。彼らしくはあるけれど、こんな夜は少し寂しくなる。また部屋の中が水の底に沈んだみたいに青白くなって、窓の外を見遣って呼吸したつもりになった。
このまま、寝るのかもしれない。私ももう何も言わず、大人しく空気のない天井へ視線を移す。
「・・・・・・今日の仕事は父子でしてね」
おもむろに耳を掠めていったのは、背中越しの落ち着いた声だった。
「厳しさと優しさがありありと分かる父親で、子の方もそれに応えようと必死で。・・・・・・仲の良さそうな親子でね」
「・・・・・・」
「手を掛けようとしたとき、父親が子を庇うんですよ。子だけは生かして欲しいと。自分はどうなっても良いからお願いだと。それから別の場所で子に手を掛けたんですが、そっちはそっちで父親のことを心配してました。自分が逝ったら、父はどうなってしまうのかとね」
「・・・・・・」
「美しいものを見ました。今際でもお互いに通ずるほど深い親子の愛なんて。・・・・・・実に、美しい」
掠れた声に、幹部さん、と呼ぶと、彼は少し身体を傾けて、横目でこちらを見てきた。ほとんど星明りしかない夜だけど、微かな陰の濃淡は、彼の心の中そのものが浮き出たみたいに見える。
細く睨む瞳に、ただ一の字に結ばれていた口端が歪んで、自嘲気味に笑った。
「・・・・・・貴女には、理解できないでしょうね。こんな話は」
「・・・・・・幹部さんが、ぐしゃぐしゃな気持ちになってるのは、分かります」
「ほら理解していない。そのような気持ちになどなっていません」
「じゃあ、分かっていないのは幹部さんの方です。貴方は今、ぐしゃぐしゃです。自分だってどうしたら良いか、分かって無いんです」
「・・・・・・」
「私は、貴方にぐしゃぐしゃなままでいて欲しくない」
少しだけ身体をずり上げて、彼の頭を抱き寄せる。
腕の中で見上げてくる彼からは、なにを、と咄嗟に文句が吐いて聞こえたけど、頭をぽんぽんと一定のリズムで優しく叩くと、彼は無言でされるがままになってくれた。
「心が、乱されることもありますよね。私たちは、隠密という以前に人間だから」
「・・・・・・」
「良いと思います。気が晴れるならなにをしたって。そうじゃないと誰だって折れてしまう。本当は泣いたっていいくらい」
「・・・・・・」
「私に全部いう必要はありません。でも私は、貴方がぐしゃぐしゃになったとき、少しでも寄り添える相手でありたい」
「・・・・・・」
「貴方は本当に凄い人だから。頑張ってる人だから」
彼が額に手をやって、一つ大きなため息を吐く。大きな手の平で顔を覆ったまま彼が動かなくなって、私はただぽんぽんと撫で続ける。
髪の毛は結局拭かなかったのか、湿気が残ったままだった。随分冷たい頭だったけれど、この頃には二人の体温で布団の中は暖かく、頭だって抱きしめていれば、私は冷えても体温が混ざりあって温かくなるだろうって思うことができた。
ぽんぽんと、彼の頭を撫で続ける。そのうち、私も言われたかった。と、小さな声が身体の隙間から聞こえてきて、はい、と返事した。父からさすがだと、と続いた声は、まるで本当に、子供みたいにあどけなかった。
本拠のアジトから離れ、暗殺という仄暗い業務を忙しくこなす彼を支える私は、どれほど一人の時間が長くなろうとも彼を待つしか術がない。実力者である彼だからこそ、絶対に帰ってくるという確信はある。しかし不測の事態とは、いつだって突然にやってくるものだ。
もしかして彼の身に何かあったのかも。と、脳裏によぎった瞬間、コンコンと扉を叩く音。一瞬開いて、またコンコン。不可思議なリズムは、事前に決めていた帰宅の合図だった。
すぐさま机の上に置いていた蝋燭を手に取って扉に向かい、閂を抜いた。内扉に引けば予想通り彼が立っていて、外からの風が中へ入ってくるのと同時に、つんとした鉄のにおいが鼻をつく。随分遅かったし、もしや怪我でも、と蝋燭の心もとない明かりで足下から顔までを照らしたけど、どうやら姿を見る分には何事も無いようでホッとした。
「お帰りなさい」と微笑み、彼のその大きな身体に飛び込もうとした、寸前。しかしそれが許されないような、言い知れない違和感を覚えて、寸でのところで踏みとどまる。
彼の空気が沈み込んでいる。説明できないけど、はっきりと感じる。「ただいま戻りました」と返ってくる口調は柔らかなのに、どうしていつにもまして無表情なの?
暗に触れ合いを拒むように彼は一切の隙なく部屋の中に入ってきて、羽織っていた外套を脱ぐ。差し出されるままに受け取ったコートを壁に吊るしていると、彼は食卓ではなく、浴場へと向かっていった。
「今日、夕餉はいりません。貴女ももう、休んでいいですから」
横目だけを覗かせる彼に分かりましたと答えれば、浴室との隔たりである暖簾をくぐって、すぐに洋服を脱ぎだしたようだった。
彼が携わっている暗殺という業務は、身体が資本なのだと彼は言う。いざというときに身体が動かせないと命に関わるので、食べられるときにしっかり食べることが絶対なのだと。
あれだけ口を酸っぱくしながら言っていた彼が、今日の夕餉はいりません、なんて。
暖簾越しに水音が聞こえてくるまで、暫し惚けてしまった。頭から水を被ったような、ざば、という音でハッとなって、彼が出て来る前に身体を拭く大きめの綿布と着替えを準備する。
夕餉はいらない、とは言われたけれど、湯浴みをしてさっぱりしたら気が変わるかもしれない。一応料理を火にかけて温めておく。
■
「まだ起きていたんですか」
机の上に蝋燭を置き、椅子で縫い物をしていると、湯浴みを終えた彼が暗がりの中から現れた。
ぬら、とした黒髪がやけに蝋燭の光を反射している。何故かと思えば、水分がほとんど拭けていないからだ。結わずに枝垂れさせた黒髪からは、今にもぽたりと水滴が垂れそうで、だから首に綿布を掛けているのかと思い至った。
いつもだったら一番上までしっかりとボタンを止めて窮屈そうですらある部屋着も、今日は一番上が開いたままになっている。
しっかり者・・・・・・というよりは、他人に隙を見せることを良しとしない普段の彼と違う。目を丸くしながら動向を見ていると、彼は私の視線なんかお構いなしに、机を挟んだ向かい側の椅子へ腰かけた。その座り姿もどこか力が抜けており、固い木の椅子なのに、まるで柔らかいソファにでも沈んでいるように見える。
「随分お疲れですね。貴方こそもう休まれては?」
「言われなくともそのつもりですよ。洗濯だけお願いできますか、いつもより汚してしまって」
「もちろん。じゃあ、私も洗濯をしてから寝に入りますから、お先にお休みなさってください」
「・・・・・・酒ありますか。赤ワインでもあれば、と思ったんですが」
立ち上がった拍子、引き留めるような遠慮がちな声に立ち止まる。
「酒、ですか・・・・・・?」と繰り返したのは、彼が平生で飲酒を避けていたからだ。万が一にでも急務や不測の事態が起こったとき、酔ってしまっていては満足に対応もできない。その一瞬の油断が命取りなのだと私に言い聞かせ、よっぽどの時以外は二人して酒を飲まないように決めていた。その彼が、酒?
「いけませんか」と力の抜けた瞳で睨まれて、肩を竦める。彼は一度こうと決めたら他人の意見は聞かないし、聞き返すこと自体が愚問だ。
「あるにはありますけど」と言いながらキッチンの奥を探ると、見当たったのは料理酒として使っている早熟の赤ワイン。そのまま飲む分には味もそっけもないし、封を開けてから時間も経っており、適当に冷所に置いてあるだけで杜撰にしているので、おそらく状態が悪い。
普段飲酒はしないものの味の良し悪しは分かる彼だ。いつもなら、一瞥しただけで「こんなもの」と断るはずだった。なのに、やる気のない瞼からチラリと赤ワインを見遣った彼は、あろうことかこれを飲むという。
やめた方が良い、とは言わなかった。美味しくないですよ、とも。彼が飲むと言ったら飲むのだ。
ボトルを置き、埃をかぶっていたワイングラスを軽く水洗いして、水気を拭き切った後に目の前で注いであげた。どれほど飲むか分からないから、まずは一口分くらいに。彼は存外酒に弱い性質だし、これくらいでも充分かもしれない。
「どうぞ」と言っても、彼は揺らつく赤い水面をジッと見つめたまま動かないので、何も言わずに私は私で浴室に向かった。もう休む、と彼は言ったものの、この夜は長いかもしれない。やることをやってしまわなくては。
浴室には彼が今日着ていただろう赤い装束が脱いであって、触ったらぐっしょりと濡れていた。本当だったら近くの川にでも持って行ってザブザブ手洗いをしたいけど、あの状態の彼を放っておくのも心にひっかかる。大変だろうけど、あらかたの汚れを落として漬け置き洗いにでもしておこう。
昼間に水を溜めておいた甕から洗濯桶に水を移し、装束を浸してから軽く揉み洗いをする。思った通り一瞬で水が真っ赤に染まるので、捨ててまた新しい水を移し、揉み洗いするのを繰り返した。水が透明なままになるまで続け、石鹸を溶かして明日の朝まで放置する。
洗濯は重労働だ。特に彼が業務から帰ってきた時は汚れを落とすのに苦労する。湿気た冷たさのある夜だったけど、終わるころには額に汗をかいていた。確かに彼の言った通り、今日の汚れはなかなか手ごわかった。これほど装束を汚すなんて、やっぱり彼にしては珍しい。
キッチンに戻ると、もう既に彼は居なかった。
グラスに注いだ赤ワインは無くなっているが、ボトルの中身は一切減っていないようだった。おかわりもせず、ほんの一口の赤ワインで満足して床に入ったということだろうか。
短くなった蝋燭の火を消して寝室に入ると、予想通り二つ並んだベッドの片方が山になっていた。新月に近いのか、月光の弱い晩だ。微かな青白い光で照らされるシーツと、息遣いや衣擦れ音すら聞こえない静けさは、ここがまるで水の底に沈んでいるのだと錯覚させる。
物音を立てないようベッドに近づくと、背を向けて寝る彼の黒髪が目に入った。でも、ここまで近づいても寝息は聞こえない。もっとも、彼はいつも死んでるんじゃないかと心配になってしまうほど静かに寝る人だ。寝息が聞こえないこと自体は、いつもと同じで珍しくはない。
「・・・・・・きょうは、・・・・・・らで」
冷たいシーツに足を潜らせていると、掠れたようなくぐもった声が聞こえて、黒い髪を枕に散らす彼の頭へ「え?」と耳を近づけた。
「・・・・・・今日は、こちらで」
弱みを見せないよう、甘えなんて一切感じさせない振る舞いに徹している彼とは思えない言葉だ。
まるで今まで聞いたことがない。でも、だからこそやっぱり今日はおかしいと思う。いつもの彼じゃない。
私は何も言わずに、背中を向けたままの彼の布団に入り込んだ。もしかして、このまま伽に。と一瞬よぎったけど、隣り合って寝転んでも、彼は微動だにせず背中を向けたままだった。
彼の身体は、布団に入っていたにもかかわらず冷えている。温めてあげたいところだけど、水仕事をしてから寝室にやってきたばかりの私の身体も、同じように冷えている。
せめて少しでも温かくなれば良いと、私は彼へぴったりと寄り添った。彼の身体は大きくて、さすがに二人並んで寝るには窮屈だし寄り添うことの言い訳にもなるだろう。
普段だったら「鬱陶しい」と嫌がられたかもしれない。でもきっと今日なら大丈夫。実際、彼は何も言わなかった。
「何か、あったんですか」
後ろ向きの頭に声をかけた。彼は答えない。相変わらず、寝たわけではないようだったけど。
もう一度、幹部さん、と声をかけると、「静かになさい」と小さな声が返ってきて救われた気になった。
「何かあったんでしょう?いつもと違います」
「・・・・・・貴女如きに私の何が分かりますか。いつもなどと、勝手に語らないでいただきたい」
「でも、貴方らしくない。その理由を聞かせてくれませんか」
「聞かせて何になりますか。貴女が理解できる何かがあったわけじゃありません」
「理解できずとも、私は幹部さんの部下なので。何があったか知る必要はあると思います」
「貴女は世話人で、私が携わる業務とは無関係です。知る必要などありません」
「世話人だからこそ、知らねばならないこともあります。普段通りのお世話ができなくなります」
滔々と返ってくる沈んだ低い声は、「とんだ屁理屈を」と残したのを最後に聞こえなくなる。幹部さん、と呼んでも無言のままだった。
彼は、業務の話を滅多にしない。それどころか、今日あった話も、過去にあった話も、どんな人生を歩んできたのかも。彼にまつわる個人的な話を、私はほとんど聞かされたことがない。食卓で話すのは、いつも私が過ごす家での話ばかりだった。
だから、今更彼に断られたところで、これはいつものこと。彼らしくはあるけれど、こんな夜は少し寂しくなる。また部屋の中が水の底に沈んだみたいに青白くなって、窓の外を見遣って呼吸したつもりになった。
このまま、寝るのかもしれない。私ももう何も言わず、大人しく空気のない天井へ視線を移す。
「・・・・・・今日の仕事は父子でしてね」
おもむろに耳を掠めていったのは、背中越しの落ち着いた声だった。
「厳しさと優しさがありありと分かる父親で、子の方もそれに応えようと必死で。・・・・・・仲の良さそうな親子でね」
「・・・・・・」
「手を掛けようとしたとき、父親が子を庇うんですよ。子だけは生かして欲しいと。自分はどうなっても良いからお願いだと。それから別の場所で子に手を掛けたんですが、そっちはそっちで父親のことを心配してました。自分が逝ったら、父はどうなってしまうのかとね」
「・・・・・・」
「美しいものを見ました。今際でもお互いに通ずるほど深い親子の愛なんて。・・・・・・実に、美しい」
掠れた声に、幹部さん、と呼ぶと、彼は少し身体を傾けて、横目でこちらを見てきた。ほとんど星明りしかない夜だけど、微かな陰の濃淡は、彼の心の中そのものが浮き出たみたいに見える。
細く睨む瞳に、ただ一の字に結ばれていた口端が歪んで、自嘲気味に笑った。
「・・・・・・貴女には、理解できないでしょうね。こんな話は」
「・・・・・・幹部さんが、ぐしゃぐしゃな気持ちになってるのは、分かります」
「ほら理解していない。そのような気持ちになどなっていません」
「じゃあ、分かっていないのは幹部さんの方です。貴方は今、ぐしゃぐしゃです。自分だってどうしたら良いか、分かって無いんです」
「・・・・・・」
「私は、貴方にぐしゃぐしゃなままでいて欲しくない」
少しだけ身体をずり上げて、彼の頭を抱き寄せる。
腕の中で見上げてくる彼からは、なにを、と咄嗟に文句が吐いて聞こえたけど、頭をぽんぽんと一定のリズムで優しく叩くと、彼は無言でされるがままになってくれた。
「心が、乱されることもありますよね。私たちは、隠密という以前に人間だから」
「・・・・・・」
「良いと思います。気が晴れるならなにをしたって。そうじゃないと誰だって折れてしまう。本当は泣いたっていいくらい」
「・・・・・・」
「私に全部いう必要はありません。でも私は、貴方がぐしゃぐしゃになったとき、少しでも寄り添える相手でありたい」
「・・・・・・」
「貴方は本当に凄い人だから。頑張ってる人だから」
彼が額に手をやって、一つ大きなため息を吐く。大きな手の平で顔を覆ったまま彼が動かなくなって、私はただぽんぽんと撫で続ける。
髪の毛は結局拭かなかったのか、湿気が残ったままだった。随分冷たい頭だったけれど、この頃には二人の体温で布団の中は暖かく、頭だって抱きしめていれば、私は冷えても体温が混ざりあって温かくなるだろうって思うことができた。
ぽんぽんと、彼の頭を撫で続ける。そのうち、私も言われたかった。と、小さな声が身体の隙間から聞こえてきて、はい、と返事した。父からさすがだと、と続いた声は、まるで本当に、子供みたいにあどけなかった。