【ss】ブレワイ・祠チャレンジの敬語幹部夢
任務で外回りをする際、私には、必ず立ち寄る馴染みの馬宿がありました。
「あ、こんにちは」
最初にここへ訪れたのはいつだったか。変装をした偽りの姿ではあるものの、私を見つけた瞬間、世話役の娘が遠くから手を振るほどには常連となった場所です。
辺境という土地が災いしているのでしょう。街道沿いにありながら人通りの少ないこの馬宿は、いつ訪れても静かで、穏やかで、居心地が良い。
何より、馬宿のスタッフが、誰に対しても不干渉なのもお気に入りです。人手が少ない故に、何が起きても見て見ぬふりせざるを得ないと思い込んでいる。どこか薄暗さの蔓延る、小さな馬宿でした。
だから、余計だったのでしょうか。旅人の訪れを面倒そうにいなす老齢の馬宿スタッフと違い、世話役の娘はいつも甲斐甲斐しく私に接してくれました。
彼女の丸い瞳は夕暮れ時の薄暗さの中でさえ、いつも若さたる好奇心で輝いていたのです。
「お元気でしたか?最近、お見かけしませんでしたね、遠くの方に行かれてたんです?」
「そうですねぇ、今回はヘブラを掠めてここへ。雪山からデスマウンテンの方を回って来たので、なかなか大変な旅路でした」
それまでの掃き掃除を中断し、箒を片手に喋りかけてくるのはいつものこと。彼女は私が来ると必ず、どこへ行っていたのかという旅の話を聞きたがったので、なるたけ彼女の心を満たせるような話を聞かせてやるのが常でした。
雪山から火山を通ってきた話に、遠慮なく彼女は「すごい」と、口をあんぐり開けてみせます。彼女はいつだって、素直な態度に憚りません。
私は少し笑って、「これ、お土産です」と、ここへ来るまでに仕留めてきたカエンバトを手渡しました。
正にデスマウンテンにしか生息していない野鳥で、木々の深いここいらではまず見かけません。溶岩を思わせる真っ赤な鳥に、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げました。
「いつもすみません・・・・・・お土産なんて、別に良いのに」
「いえいえ、これは恩返しのつもりですから」
「そんな大げさです・・・・・・。もう充分、返していただいてますし」
「あのときは本当に助かったんです。こんな心ばかりのことしか、私にはできませんのでねぇ」
初めてここへ来たとき、情けないことに、私は空腹の極限を迎えていました。
遠いゲルド地方からの旅路で、食料の準備を疎かにしていたのが悪かったんです。干ばつの続いた年で、冬に入りかけた時期もあって野の物が予想以上に見つからなかった。油断という言葉で片付けるには、私はあまりに大きな失態を積んでしまっていました。
馬宿に駆け込み、腹を鳴らしながら恥を忍んで「食料を分けて欲しい」と頭を下げました。しかし、どのスタッフも目を合わせてくれない。この馬宿にとって客は面倒な存在であり、粗末な格好をした私は、金払いの悪そうな厄介者に違いなかったのです。
そんな中、「これをどうぞ」と。ただ一人、私に手を差し伸べてくれたのが彼女でした。
そのときに渡されたのが好物のツルギバナナだったのも、増して彼女との邂逅を運命のように感じた一因になりました。
「これからも受け取っていただけると嬉しいです」と続ければ、彼女は照れ臭そうに肩を竦めてみせます。小さくこくりと頷いたその頬に、かわたれどきの残光が薄く乗っていました。
慎ましやかにカエンバトを受け取った彼女は、手に乗せたそれがひどく珍しいようで、まじまじと見つめました。
昼に締めたばかりのそれは羽並みも良く、彼女があまり目にしたことのない珍しい生き物だったという以前に、美しかった。
ぼんやりと「あとでシチューにしますね」と、暗に私にもご馳走すると告げる彼女に、私は自然と滲んだ笑みを返しました。
「旅人さんはすごいですねぇ。私は近場しか行ったことが無くて。火山や雪山に、いつか行ってみたいなぁ」
「行けば良いのではないですか?他の地方を見て回るのも、経験ですよ」
「そんな、剣も持ったことないのに無理ですよ。第一、ここから離れたことも無いし」
「街道沿いを歩けば、そこまで危険もありません。一つ処に縛られていては、もったいないでしょうに」
辺境の馬宿は人通りが少なく、数人を雇っていられるほどの収入があるようには見えません。正直に言って、傍から見る分にはいつ閉業へ追い込まれてもおかしくない状況です。雇われているのだという彼女にも、しっかりと給金が払われているかどうか怪しいものでした。
こんなところに縋る必要などない。暗にそう伝えたつもりでしたが、彼女は黙って視線を伏せるだけ。
それから後ろの馬の世話係の男をちらりと一瞥し、困ったような笑みを浮かべました。
「・・・・・・行けませんよ、そんな簡単に」
「なぜ、行けないと思い込んでるんです? まだ若いのに、選択肢など幾らでもあるでしょう」
「だって、私には・・・・・・いえ、やっぱりだめです、行けません」
「行けますよ、勇気さえあれば」
言ったきり、彼女は箒を握りしめて俯いてしまいました。
頑なな彼女に肩を竦め、私は腰かけとして置かれていた丸太に腰を下ろしました。歩き続けた疲れが足に来ていたものですから、これくらいの粗相は許してもらいたい。
すると彼女が、忘れていたとでも言うように、「あっ」と声をあげてから薪に向けて火打石を擦りました。
火のついた途端、馬宿の空気そのものみたいに染み付いていた濃い暗がりが、ユラユラと踊る火に照らされます。
もうすぐ夜がやってくる。私という客が無かったとしても、その火はきっと、馬宿が夜を迎えるためには必要な備えだったでしょう。
ただ、この周囲を明るく照らす火は、ときに余計なものまで暴くのだから始末が悪い。
「おや、その痣は」
今の今まで夕闇でぼやけていた彼女の首元に、うっすらと紫に変色した肌が僅かに見えました。
これまで、日に焼けた彼女の首元に、そんな痣があるところは見たことが無い。場所を示すように指先を伸ばせば、パッと小さな手の平に首元を隠されました。
「あっ、えっと、なんでもないんです、私の不注意で」
「マモノか何か、襲われたのですか?」
「そう、そうなんです! マモノにこの前、手を掛けられて・・・・・・それで・・・・・・」
必死な声が弁明に聞こえる。まるで明るみに出したくない嘘だと証言しているようなもので、それをする必要があるのかと彼女に問いかけたくなりました。だって彼女自身に、後ろめたさがあるわけじゃないでしょうに。
更に質問を重ねようとしたところ、突如として「おい!」と後ろから声がかかりました。
声の主は、さきほどからこちらをチラチラと見ていた馬の世話係。怒気に近い声音に、何事かイライラしている風だというのも分かります。
しかし、彼女が瞬間、びくりと大げさに肩を震わせて振り向いたのは、ただ怒られたからというには些か過剰な反応に思えました。
「ごめんなさい」と私に小さく会釈をして、すぐさま男の元へ向かっていきます。身を縮こませながら何度も頭を下げた彼女は、男に無理やり手を引かれて、馬宿の裏側へと連れられて行きました。
次に彼女が私の前に戻ってきた時、無理に笑ったその顔が痛々しかった。
さっきよりもやけに歪んで見えたのは、きっと、その口端が切れていたからだけでは無いのでしょう。
その日の晩のことです。
虫の声しか聞こえない、ひどく静かな夜でした。馬宿を取り囲む林が一段と鬱蒼とし、森の湿気た空気が肌に纏わりついてくる。月がないのも関係していたかもしれません。薄気味悪さに拍車がかかって、私はこんな夜が好きでした。
夜更けにはよっぽど人が来ないと分かっているからか、馬宿の主人すら暖簾を下げて布団に入るのです。この馬宿のやる気の無さは推してはかるべきでしょう。
客である私、例の娘と、馬の世話係、そして主人と老齢なスタッフを含めた全員が、本来であればこの時、床に就いているはずでした。
しかし、今馬宿内で寝に入っているのは、主人と老人のみのはず。
何故知っているかと言えば、その他の人間と私は、外で出会っていたもので。
こんばんは。林の奥に進む彼へ丁寧に声を掛けただけなのに、彼は私を見るや否や猛然と拳を振り上げてきました。
きっと、私が怪しげな出で立ちをしていたからかもしれません。彼は酷く体格の良い男で、少し喧嘩の強い男くらいであれば、それだけで追い払ってきた武勇があったのでしょう。
その拳には実際のところ、覚悟や勇気など篭っていなかった。残念なことです。せっかく話し合いで済ましてあげようかと、夜の挨拶から始めたというのに。
私は、彼の腹に膝をめり込ませるのと同時に、その驕りをしっかりと折ってあげました。
前かがみになって唾液を吐き出す彼の肩を掴み、そのまま二度三度と膝を打ち込みます。その度に汚らしい液体を吐き出す彼のそれが、唾液なのか血液なのか、月のない濃い暗闇では分かりません。
手を離した途端に蹲るのでそのまま頭を蹴り飛ばすと、彼は受け身も取らずにごろごろと転がりました。
げほげほとうるさく騒ぐのも、煩わしい。静かになってほしくて喉を締め上げ、目線の高さに持ち上げます。
暗がりではいまいち彼の表情が見えづらく、じいっと近くで覗き込みました。仮面の印が映る瞳が恐怖に染まっている。彼に声を掛けた途端、唸るように向かってきたときとは大違いだ。
あのときの表情は勇ましかった。おそらく、現状の私の立場が、自分になるものだと信じて疑っていなかったのでしょう。こんな風に、根拠のない自信は自らの身を滅ぼすだけだというのに。
「弱い人間が策も無く向かってくるのは感心しませんねぇ。自分ならやれると思ったんでしょう? この程度の悪漢なら問題なく撃退できるだろうと。貴方は本当に、見る目がありませんねぇ~」
「ぐっ・・・・・・ご・・・・・・」
「苦しいですよねぇ、貴方が彼女にしたのと同じですよ。痣を見れば分かります、あれは首を絞められたときの指の痕だった。きっと貴方にも残るでしょうねぇ。私はこう見えて、握力が強いので」
「・・・・・・ったずげ・・・・・・」
「ただまぁ、気絶させたいわけでもないのでね」
後ろにあった木の幹に突き飛ばすと、彼は唸りながら一瞬呼吸が止まったようでした。それから一拍空いて、ひゅーひゅー言いながら、一生懸命に呼吸をし出して滑稽だった。
男の前髪を掴み、そのまま木の幹にごりごりと頭を打ち付けました。グッと近づくと、瞳の焦点が小刻みに揺れている。私は彼の赤くなった頬を、ぺちぺちと叩きました。
「ほら、しっかりしてください。この程度で気絶してもらったら困ります」
「が・・・・・・ごほっ・・・・・・」
「もうお喋りもできるでしょう?今、喉はさほど締めていませんよ」
「あ、んた、・・・・・・っなん、なんだ・・・・・・俺を、ごろずのが、なんで・・・・・・っ」
「殺しはしません、今日は仕事じゃありませんし。ただ少し、消えて欲しいと思いまして」
泥と汗で汚れきった顔から、さっと血色が失せる。
顔面蒼白となった彼に、私は面裏に額を擦るほど近寄りました。
「貴方の所業は少し、見てられません。両親に捨てられ、天涯孤独となった娘の面倒を見る代わり、まるで奴隷のように扱って・・・・・・。性処理と暴力、恐怖で抑えつけて良い様にこき使っている。畜生にも勝るとも劣らないクソの所業ですよ」
「あ、あいつがバラしたのか・・・・・・、お前みたいな、怪しいやつに・・・・・・」
「いえいえ、彼女は一言も。ただ、少し調べれば分かることですので」
懐にしまっておいたペンと紙を、彼に差し出しました。
「あの子の幸せに貴方は少々邪魔のようです。一筆書いてくれませんか? 俺はもうここから出て行く、お前は好きに生きろと」
「ほ、本気で言ってるのか?! あんな女のために、俺がなんでこんな目に・・・・・・」
「いいえ、それは違います。お前如きのために、あの子がなんであんな目に、が正しい」
くるっと持ち直して彼の喉元に鋭いペン先を突きつけると、ひっ、と短い悲鳴のような音で、男が息を吸いました。
そのまま震える呼吸で、私に視線だけで「助けて」と訴えかけてくる男。無様にその瞳が揺らめいて、目端から次々と涙がこぼれていく様は酷く可笑しかった。やはり男の巨漢は、見せかけだけのハリボテのようだ。
「別の生を生きるのが貴方にとっても良いはずですよ。なんせ私が目をつけている」
「い、いのち、だけは・・・・・・」
「なら文字だけ書いて失せなさい。私の気まぐれが変わらないうちに」
喉へ垂直にたてていたペンを、震えた手の平に置き、ぎゅう、と握らせてあげました。もう片方の手の平には紙を乗せ、掴んでいた髪の毛を解放します。
酷く乱れた彼の襟元を丁寧に正してやりました。最後に、彼が首へ巻いていたスカーフを抜き取ってから、ゆっくりと一歩、身を引きます。
涙でべしゃべしゃになった顔で、呆けたように私を見つめてくる彼。「おや?」と首をゆっくり傾ぐと、彼は息を呑んで、握りこぶしのままペンを走らせ始めました。
まるで学のないペン捌き。でも仕方ありませんね、拳そのものが震えていたのですから。ペン先が紙から浮いたのを見計らって、私はその手紙を受け取りました。
ペン捌きから想像し得る通り、辛うじて読むことのできるミミズの這ったような文字です。「まあいいでしょう」と頷きました。
「助かりましたよ。これであの子も、貴方から解放されるはず。ありがとうございました」
「・・・・・・んで」
「ん?」
「なんで・・・・・・あんた、こんなことを・・・・・・あいつの、ために」
紙を懐にしまった拍子、男の声が耳を打ちました。
驚きました。きっと彼は、私が彼の命をいつでもとれることを身体の芯から理解したはずなのに。それでも言葉を紡げるとはなかなかどうして肝が据わっている。
その臆病な勇気に、私は敬意を表したい。私は仮面の奥で、はっきりと笑いかけました。
「なに、恩返しですよ。彼女には助けられましたから」
「助けた・・・・・・?あいつが?」
「私は彼女から、バナナを貰っているのでね」
まるで理解ができないらしく、彼の瞳が揺れました。その顔は人と相対しているというよりも、まるでマモノを見る目付のそれだった。
それで良いのです。私は、私たちは、王国の民に共感されるような存在ではありませんから。
ぬらりと閃く刀を取り出しました。すると彼は無様にひぃ、と短く叫び、足を縺れさせながら走っていきます。
林の奥、月光の無い暗闇へと、そうして彼は、姿を眩ませていきました。
ざわざわと、林を駆けていく音が聞こえなくなるまで、私は立ち尽くしました。
そうして辺りに静寂が漂い始めた頃合いに、彼が去っていった方角とは違う林の奥へ、歩を進め始めました。
気配を殺すのも、一切の音をたてずに歩くことも簡単です。しかし、過剰に息を殺すのは、この場において悪手だったに違いない。わざとらしく、青草や木の枝を踏みしめながら歩いていきました。
すると、林立した木の奥に、小さなカンテラの灯りが目に入る。向こうも気付いたのでしょう。「—―さん?」と微かな女の声が聞こえました。
世話係の男が逢引きのために待たせていた、件の彼女です。
「遅かったですね」と駆け寄ってくる彼女は、どうやら世話係と勘違いしていた。しかし、途中で足を止め、唐突にカンテラを突き出しました。ふわ、と柔らかい灯りに、彼女と私が映し出されます。
彼女は瞬時に顔を強張らせて、「誰ッ!?」と鋭く強い言葉で、後ずさりしました。
この時、私は昼間の旅人の格好をしていなかった。私が所属する暗殺集団の装束を身にまとい、素性が分からないように、白い木の仮面を着けていました。
王家の関係者だったらば、仮面に刻印された印の意味を知っていたでしょう。しかし彼女は辺境の馬宿に勤める、ただの娘です。
滅亡を迎えた王家に止めを刺さんとする人間が存在することを、彼女は知るはずもありませんでした。
だからまず私は、恭しく胸に手を当て、髪が枝垂れるような拝礼をしました。
「こんばんは、お嬢さん。貴女に用があってきました」
「用事・・・・・・!?あなたは・・・・・・」
「馬の世話係の男性から、これを預かってきました」
懐から手紙を差し出すと、彼女は恐る恐る私の手からそれを受け取っていきました。
カンテラの灯りの元、瞳が何度も何度も文字の通りに往復する動きがはっきり見えます。きっと信じられないのでしょう。そこまで複雑なことも書いていませんし、小さな文字で書いているわけでもない。
彼女はミミズの這った汚らしい文字の意味に納得できないのか、何度も何度も瞳を上下に往復させました。
「あの男は、もうここには戻ってこないと言っていました」
「嘘・・・・・・嘘です、そんなの。信じられない。こんな字、あの人の物とも思えない」
「では、これで信じていただけませんか?貴女ならお分かりかと思います」
続けて差し出したのは、去り際に男の首から引き抜いたスカーフでした。
おそらくこれは、この馬宿の従業員としての証。長く彼と共に従事していた彼女にとって、決して見紛うことのない一部分のはずです。
私の予想は正しく、手に受け取るまでもなく、彼女は息を飲みました。口元に手を当てて、言葉を失い、それから瞳がゆらゆらと遠慮なく揺らめいていく。
カンテラの灯りを強く跳ね返すその瞳は、まるで暁暗の海辺のように美しかった。
震える手でスカーフを受け取る。そのまま何も言わないかと思えば、ぼろぼろと涙の玉が瞳から零れ落ちていきました。
ああぁ・・・・・・と呻くように顔を歪めて、スカーフに全てを押し付ける。
彼女は、また置いて行かれてしまったのです。それはきっと、もっとも心の傷を深める事態であったはずです。
「私と共に来ませんか?」
だから、彼女の肩に、そっと手の平を添えました。
それでも彼女の肩は、震えることをやめない。
「ここにいても何も変わらない。貴女の寂しさやツラさを、ここの人間は今まで見て見ぬふりをしてきた。居てもしょうがないのです。ならば馬宿の娘はここで死んだことにして、全く違う生を生きてみたいとは思いませんか?」
「・・・・・・急にっ・・・・・・そんなこと・・・・・・」
「急でしょうか? 貴女はここから出たかったのでは? 窮屈で、何も変わらず、誰も助けてくれないここから」
「むりですっ・・・・・・頼る人もない、私には何もできない!・・・・・・もう置いていかれたくない、どうせ皆、私を置いていくんです・・・・・・!私にはあの人しかいなかったのに・・・・・・!」
「大丈夫。貴女が一歩踏み出せば、全て受け入れてくれる場所がある。手を差し伸べてくれる人がいる。私と共に行きましょう」
「行けない・・・・・・行けません・・・・・・私は、ここでしか生きられない、行けません・・・・・・!」
「行けますよ。勇気さえあれば」
その途端、それまで嗚咽交じりに震えていた彼女がぴたりと止まり、しゃくりあげながら私の仮面を見上げてきました。
「行きませんか?私と一緒に」
今すぐに消えたいと、まるで顔に書いてあるかのような表情。
私は彼女に手の平を差し出しました。
痙攣する胸を抑えながら、見開かれた瞳に閃くのは疑心もあったでしょう。しかし彼女は、力が抜けたように手紙とスカーフをはらりと落とし、何も持たぬ震える手で、私の指先に触れました。
そのまま柔らかく引き寄せて、胸元に収め、湿気た森の空気で冷えた髪の毛を、何度も何度も撫でおろします。その度に、彼女自身がどうにもできない胸の痙攣が、ゆっくりゆっくりおさまっていくのが、愛おしくて仕方がありませんでした。
「これで漸く、恩返しができそうですねぇ」
居心地の良かった馴染みの馬宿。もうここへは二度と来ることもないでしょう。
暗闇へと身を沈める直前。彼女は一度だけかつての住処を振り返りました。
その瞳を手の平で覆い、私はこの薄暗さの蔓延る孤独な箱から、彼女を攫って行きました。
少なくとも二人の人間が突如として消えたこの馬宿が、この後でどうなったのか私は知りません。
恩返しで訪れていた私には、もう関係がなくなったことですから。
「あ、こんにちは」
最初にここへ訪れたのはいつだったか。変装をした偽りの姿ではあるものの、私を見つけた瞬間、世話役の娘が遠くから手を振るほどには常連となった場所です。
辺境という土地が災いしているのでしょう。街道沿いにありながら人通りの少ないこの馬宿は、いつ訪れても静かで、穏やかで、居心地が良い。
何より、馬宿のスタッフが、誰に対しても不干渉なのもお気に入りです。人手が少ない故に、何が起きても見て見ぬふりせざるを得ないと思い込んでいる。どこか薄暗さの蔓延る、小さな馬宿でした。
だから、余計だったのでしょうか。旅人の訪れを面倒そうにいなす老齢の馬宿スタッフと違い、世話役の娘はいつも甲斐甲斐しく私に接してくれました。
彼女の丸い瞳は夕暮れ時の薄暗さの中でさえ、いつも若さたる好奇心で輝いていたのです。
「お元気でしたか?最近、お見かけしませんでしたね、遠くの方に行かれてたんです?」
「そうですねぇ、今回はヘブラを掠めてここへ。雪山からデスマウンテンの方を回って来たので、なかなか大変な旅路でした」
それまでの掃き掃除を中断し、箒を片手に喋りかけてくるのはいつものこと。彼女は私が来ると必ず、どこへ行っていたのかという旅の話を聞きたがったので、なるたけ彼女の心を満たせるような話を聞かせてやるのが常でした。
雪山から火山を通ってきた話に、遠慮なく彼女は「すごい」と、口をあんぐり開けてみせます。彼女はいつだって、素直な態度に憚りません。
私は少し笑って、「これ、お土産です」と、ここへ来るまでに仕留めてきたカエンバトを手渡しました。
正にデスマウンテンにしか生息していない野鳥で、木々の深いここいらではまず見かけません。溶岩を思わせる真っ赤な鳥に、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げました。
「いつもすみません・・・・・・お土産なんて、別に良いのに」
「いえいえ、これは恩返しのつもりですから」
「そんな大げさです・・・・・・。もう充分、返していただいてますし」
「あのときは本当に助かったんです。こんな心ばかりのことしか、私にはできませんのでねぇ」
初めてここへ来たとき、情けないことに、私は空腹の極限を迎えていました。
遠いゲルド地方からの旅路で、食料の準備を疎かにしていたのが悪かったんです。干ばつの続いた年で、冬に入りかけた時期もあって野の物が予想以上に見つからなかった。油断という言葉で片付けるには、私はあまりに大きな失態を積んでしまっていました。
馬宿に駆け込み、腹を鳴らしながら恥を忍んで「食料を分けて欲しい」と頭を下げました。しかし、どのスタッフも目を合わせてくれない。この馬宿にとって客は面倒な存在であり、粗末な格好をした私は、金払いの悪そうな厄介者に違いなかったのです。
そんな中、「これをどうぞ」と。ただ一人、私に手を差し伸べてくれたのが彼女でした。
そのときに渡されたのが好物のツルギバナナだったのも、増して彼女との邂逅を運命のように感じた一因になりました。
「これからも受け取っていただけると嬉しいです」と続ければ、彼女は照れ臭そうに肩を竦めてみせます。小さくこくりと頷いたその頬に、かわたれどきの残光が薄く乗っていました。
慎ましやかにカエンバトを受け取った彼女は、手に乗せたそれがひどく珍しいようで、まじまじと見つめました。
昼に締めたばかりのそれは羽並みも良く、彼女があまり目にしたことのない珍しい生き物だったという以前に、美しかった。
ぼんやりと「あとでシチューにしますね」と、暗に私にもご馳走すると告げる彼女に、私は自然と滲んだ笑みを返しました。
「旅人さんはすごいですねぇ。私は近場しか行ったことが無くて。火山や雪山に、いつか行ってみたいなぁ」
「行けば良いのではないですか?他の地方を見て回るのも、経験ですよ」
「そんな、剣も持ったことないのに無理ですよ。第一、ここから離れたことも無いし」
「街道沿いを歩けば、そこまで危険もありません。一つ処に縛られていては、もったいないでしょうに」
辺境の馬宿は人通りが少なく、数人を雇っていられるほどの収入があるようには見えません。正直に言って、傍から見る分にはいつ閉業へ追い込まれてもおかしくない状況です。雇われているのだという彼女にも、しっかりと給金が払われているかどうか怪しいものでした。
こんなところに縋る必要などない。暗にそう伝えたつもりでしたが、彼女は黙って視線を伏せるだけ。
それから後ろの馬の世話係の男をちらりと一瞥し、困ったような笑みを浮かべました。
「・・・・・・行けませんよ、そんな簡単に」
「なぜ、行けないと思い込んでるんです? まだ若いのに、選択肢など幾らでもあるでしょう」
「だって、私には・・・・・・いえ、やっぱりだめです、行けません」
「行けますよ、勇気さえあれば」
言ったきり、彼女は箒を握りしめて俯いてしまいました。
頑なな彼女に肩を竦め、私は腰かけとして置かれていた丸太に腰を下ろしました。歩き続けた疲れが足に来ていたものですから、これくらいの粗相は許してもらいたい。
すると彼女が、忘れていたとでも言うように、「あっ」と声をあげてから薪に向けて火打石を擦りました。
火のついた途端、馬宿の空気そのものみたいに染み付いていた濃い暗がりが、ユラユラと踊る火に照らされます。
もうすぐ夜がやってくる。私という客が無かったとしても、その火はきっと、馬宿が夜を迎えるためには必要な備えだったでしょう。
ただ、この周囲を明るく照らす火は、ときに余計なものまで暴くのだから始末が悪い。
「おや、その痣は」
今の今まで夕闇でぼやけていた彼女の首元に、うっすらと紫に変色した肌が僅かに見えました。
これまで、日に焼けた彼女の首元に、そんな痣があるところは見たことが無い。場所を示すように指先を伸ばせば、パッと小さな手の平に首元を隠されました。
「あっ、えっと、なんでもないんです、私の不注意で」
「マモノか何か、襲われたのですか?」
「そう、そうなんです! マモノにこの前、手を掛けられて・・・・・・それで・・・・・・」
必死な声が弁明に聞こえる。まるで明るみに出したくない嘘だと証言しているようなもので、それをする必要があるのかと彼女に問いかけたくなりました。だって彼女自身に、後ろめたさがあるわけじゃないでしょうに。
更に質問を重ねようとしたところ、突如として「おい!」と後ろから声がかかりました。
声の主は、さきほどからこちらをチラチラと見ていた馬の世話係。怒気に近い声音に、何事かイライラしている風だというのも分かります。
しかし、彼女が瞬間、びくりと大げさに肩を震わせて振り向いたのは、ただ怒られたからというには些か過剰な反応に思えました。
「ごめんなさい」と私に小さく会釈をして、すぐさま男の元へ向かっていきます。身を縮こませながら何度も頭を下げた彼女は、男に無理やり手を引かれて、馬宿の裏側へと連れられて行きました。
次に彼女が私の前に戻ってきた時、無理に笑ったその顔が痛々しかった。
さっきよりもやけに歪んで見えたのは、きっと、その口端が切れていたからだけでは無いのでしょう。
その日の晩のことです。
虫の声しか聞こえない、ひどく静かな夜でした。馬宿を取り囲む林が一段と鬱蒼とし、森の湿気た空気が肌に纏わりついてくる。月がないのも関係していたかもしれません。薄気味悪さに拍車がかかって、私はこんな夜が好きでした。
夜更けにはよっぽど人が来ないと分かっているからか、馬宿の主人すら暖簾を下げて布団に入るのです。この馬宿のやる気の無さは推してはかるべきでしょう。
客である私、例の娘と、馬の世話係、そして主人と老齢なスタッフを含めた全員が、本来であればこの時、床に就いているはずでした。
しかし、今馬宿内で寝に入っているのは、主人と老人のみのはず。
何故知っているかと言えば、その他の人間と私は、外で出会っていたもので。
こんばんは。林の奥に進む彼へ丁寧に声を掛けただけなのに、彼は私を見るや否や猛然と拳を振り上げてきました。
きっと、私が怪しげな出で立ちをしていたからかもしれません。彼は酷く体格の良い男で、少し喧嘩の強い男くらいであれば、それだけで追い払ってきた武勇があったのでしょう。
その拳には実際のところ、覚悟や勇気など篭っていなかった。残念なことです。せっかく話し合いで済ましてあげようかと、夜の挨拶から始めたというのに。
私は、彼の腹に膝をめり込ませるのと同時に、その驕りをしっかりと折ってあげました。
前かがみになって唾液を吐き出す彼の肩を掴み、そのまま二度三度と膝を打ち込みます。その度に汚らしい液体を吐き出す彼のそれが、唾液なのか血液なのか、月のない濃い暗闇では分かりません。
手を離した途端に蹲るのでそのまま頭を蹴り飛ばすと、彼は受け身も取らずにごろごろと転がりました。
げほげほとうるさく騒ぐのも、煩わしい。静かになってほしくて喉を締め上げ、目線の高さに持ち上げます。
暗がりではいまいち彼の表情が見えづらく、じいっと近くで覗き込みました。仮面の印が映る瞳が恐怖に染まっている。彼に声を掛けた途端、唸るように向かってきたときとは大違いだ。
あのときの表情は勇ましかった。おそらく、現状の私の立場が、自分になるものだと信じて疑っていなかったのでしょう。こんな風に、根拠のない自信は自らの身を滅ぼすだけだというのに。
「弱い人間が策も無く向かってくるのは感心しませんねぇ。自分ならやれると思ったんでしょう? この程度の悪漢なら問題なく撃退できるだろうと。貴方は本当に、見る目がありませんねぇ~」
「ぐっ・・・・・・ご・・・・・・」
「苦しいですよねぇ、貴方が彼女にしたのと同じですよ。痣を見れば分かります、あれは首を絞められたときの指の痕だった。きっと貴方にも残るでしょうねぇ。私はこう見えて、握力が強いので」
「・・・・・・ったずげ・・・・・・」
「ただまぁ、気絶させたいわけでもないのでね」
後ろにあった木の幹に突き飛ばすと、彼は唸りながら一瞬呼吸が止まったようでした。それから一拍空いて、ひゅーひゅー言いながら、一生懸命に呼吸をし出して滑稽だった。
男の前髪を掴み、そのまま木の幹にごりごりと頭を打ち付けました。グッと近づくと、瞳の焦点が小刻みに揺れている。私は彼の赤くなった頬を、ぺちぺちと叩きました。
「ほら、しっかりしてください。この程度で気絶してもらったら困ります」
「が・・・・・・ごほっ・・・・・・」
「もうお喋りもできるでしょう?今、喉はさほど締めていませんよ」
「あ、んた、・・・・・・っなん、なんだ・・・・・・俺を、ごろずのが、なんで・・・・・・っ」
「殺しはしません、今日は仕事じゃありませんし。ただ少し、消えて欲しいと思いまして」
泥と汗で汚れきった顔から、さっと血色が失せる。
顔面蒼白となった彼に、私は面裏に額を擦るほど近寄りました。
「貴方の所業は少し、見てられません。両親に捨てられ、天涯孤独となった娘の面倒を見る代わり、まるで奴隷のように扱って・・・・・・。性処理と暴力、恐怖で抑えつけて良い様にこき使っている。畜生にも勝るとも劣らないクソの所業ですよ」
「あ、あいつがバラしたのか・・・・・・、お前みたいな、怪しいやつに・・・・・・」
「いえいえ、彼女は一言も。ただ、少し調べれば分かることですので」
懐にしまっておいたペンと紙を、彼に差し出しました。
「あの子の幸せに貴方は少々邪魔のようです。一筆書いてくれませんか? 俺はもうここから出て行く、お前は好きに生きろと」
「ほ、本気で言ってるのか?! あんな女のために、俺がなんでこんな目に・・・・・・」
「いいえ、それは違います。お前如きのために、あの子がなんであんな目に、が正しい」
くるっと持ち直して彼の喉元に鋭いペン先を突きつけると、ひっ、と短い悲鳴のような音で、男が息を吸いました。
そのまま震える呼吸で、私に視線だけで「助けて」と訴えかけてくる男。無様にその瞳が揺らめいて、目端から次々と涙がこぼれていく様は酷く可笑しかった。やはり男の巨漢は、見せかけだけのハリボテのようだ。
「別の生を生きるのが貴方にとっても良いはずですよ。なんせ私が目をつけている」
「い、いのち、だけは・・・・・・」
「なら文字だけ書いて失せなさい。私の気まぐれが変わらないうちに」
喉へ垂直にたてていたペンを、震えた手の平に置き、ぎゅう、と握らせてあげました。もう片方の手の平には紙を乗せ、掴んでいた髪の毛を解放します。
酷く乱れた彼の襟元を丁寧に正してやりました。最後に、彼が首へ巻いていたスカーフを抜き取ってから、ゆっくりと一歩、身を引きます。
涙でべしゃべしゃになった顔で、呆けたように私を見つめてくる彼。「おや?」と首をゆっくり傾ぐと、彼は息を呑んで、握りこぶしのままペンを走らせ始めました。
まるで学のないペン捌き。でも仕方ありませんね、拳そのものが震えていたのですから。ペン先が紙から浮いたのを見計らって、私はその手紙を受け取りました。
ペン捌きから想像し得る通り、辛うじて読むことのできるミミズの這ったような文字です。「まあいいでしょう」と頷きました。
「助かりましたよ。これであの子も、貴方から解放されるはず。ありがとうございました」
「・・・・・・んで」
「ん?」
「なんで・・・・・・あんた、こんなことを・・・・・・あいつの、ために」
紙を懐にしまった拍子、男の声が耳を打ちました。
驚きました。きっと彼は、私が彼の命をいつでもとれることを身体の芯から理解したはずなのに。それでも言葉を紡げるとはなかなかどうして肝が据わっている。
その臆病な勇気に、私は敬意を表したい。私は仮面の奥で、はっきりと笑いかけました。
「なに、恩返しですよ。彼女には助けられましたから」
「助けた・・・・・・?あいつが?」
「私は彼女から、バナナを貰っているのでね」
まるで理解ができないらしく、彼の瞳が揺れました。その顔は人と相対しているというよりも、まるでマモノを見る目付のそれだった。
それで良いのです。私は、私たちは、王国の民に共感されるような存在ではありませんから。
ぬらりと閃く刀を取り出しました。すると彼は無様にひぃ、と短く叫び、足を縺れさせながら走っていきます。
林の奥、月光の無い暗闇へと、そうして彼は、姿を眩ませていきました。
ざわざわと、林を駆けていく音が聞こえなくなるまで、私は立ち尽くしました。
そうして辺りに静寂が漂い始めた頃合いに、彼が去っていった方角とは違う林の奥へ、歩を進め始めました。
気配を殺すのも、一切の音をたてずに歩くことも簡単です。しかし、過剰に息を殺すのは、この場において悪手だったに違いない。わざとらしく、青草や木の枝を踏みしめながら歩いていきました。
すると、林立した木の奥に、小さなカンテラの灯りが目に入る。向こうも気付いたのでしょう。「—―さん?」と微かな女の声が聞こえました。
世話係の男が逢引きのために待たせていた、件の彼女です。
「遅かったですね」と駆け寄ってくる彼女は、どうやら世話係と勘違いしていた。しかし、途中で足を止め、唐突にカンテラを突き出しました。ふわ、と柔らかい灯りに、彼女と私が映し出されます。
彼女は瞬時に顔を強張らせて、「誰ッ!?」と鋭く強い言葉で、後ずさりしました。
この時、私は昼間の旅人の格好をしていなかった。私が所属する暗殺集団の装束を身にまとい、素性が分からないように、白い木の仮面を着けていました。
王家の関係者だったらば、仮面に刻印された印の意味を知っていたでしょう。しかし彼女は辺境の馬宿に勤める、ただの娘です。
滅亡を迎えた王家に止めを刺さんとする人間が存在することを、彼女は知るはずもありませんでした。
だからまず私は、恭しく胸に手を当て、髪が枝垂れるような拝礼をしました。
「こんばんは、お嬢さん。貴女に用があってきました」
「用事・・・・・・!?あなたは・・・・・・」
「馬の世話係の男性から、これを預かってきました」
懐から手紙を差し出すと、彼女は恐る恐る私の手からそれを受け取っていきました。
カンテラの灯りの元、瞳が何度も何度も文字の通りに往復する動きがはっきり見えます。きっと信じられないのでしょう。そこまで複雑なことも書いていませんし、小さな文字で書いているわけでもない。
彼女はミミズの這った汚らしい文字の意味に納得できないのか、何度も何度も瞳を上下に往復させました。
「あの男は、もうここには戻ってこないと言っていました」
「嘘・・・・・・嘘です、そんなの。信じられない。こんな字、あの人の物とも思えない」
「では、これで信じていただけませんか?貴女ならお分かりかと思います」
続けて差し出したのは、去り際に男の首から引き抜いたスカーフでした。
おそらくこれは、この馬宿の従業員としての証。長く彼と共に従事していた彼女にとって、決して見紛うことのない一部分のはずです。
私の予想は正しく、手に受け取るまでもなく、彼女は息を飲みました。口元に手を当てて、言葉を失い、それから瞳がゆらゆらと遠慮なく揺らめいていく。
カンテラの灯りを強く跳ね返すその瞳は、まるで暁暗の海辺のように美しかった。
震える手でスカーフを受け取る。そのまま何も言わないかと思えば、ぼろぼろと涙の玉が瞳から零れ落ちていきました。
ああぁ・・・・・・と呻くように顔を歪めて、スカーフに全てを押し付ける。
彼女は、また置いて行かれてしまったのです。それはきっと、もっとも心の傷を深める事態であったはずです。
「私と共に来ませんか?」
だから、彼女の肩に、そっと手の平を添えました。
それでも彼女の肩は、震えることをやめない。
「ここにいても何も変わらない。貴女の寂しさやツラさを、ここの人間は今まで見て見ぬふりをしてきた。居てもしょうがないのです。ならば馬宿の娘はここで死んだことにして、全く違う生を生きてみたいとは思いませんか?」
「・・・・・・急にっ・・・・・・そんなこと・・・・・・」
「急でしょうか? 貴女はここから出たかったのでは? 窮屈で、何も変わらず、誰も助けてくれないここから」
「むりですっ・・・・・・頼る人もない、私には何もできない!・・・・・・もう置いていかれたくない、どうせ皆、私を置いていくんです・・・・・・!私にはあの人しかいなかったのに・・・・・・!」
「大丈夫。貴女が一歩踏み出せば、全て受け入れてくれる場所がある。手を差し伸べてくれる人がいる。私と共に行きましょう」
「行けない・・・・・・行けません・・・・・・私は、ここでしか生きられない、行けません・・・・・・!」
「行けますよ。勇気さえあれば」
その途端、それまで嗚咽交じりに震えていた彼女がぴたりと止まり、しゃくりあげながら私の仮面を見上げてきました。
「行きませんか?私と一緒に」
今すぐに消えたいと、まるで顔に書いてあるかのような表情。
私は彼女に手の平を差し出しました。
痙攣する胸を抑えながら、見開かれた瞳に閃くのは疑心もあったでしょう。しかし彼女は、力が抜けたように手紙とスカーフをはらりと落とし、何も持たぬ震える手で、私の指先に触れました。
そのまま柔らかく引き寄せて、胸元に収め、湿気た森の空気で冷えた髪の毛を、何度も何度も撫でおろします。その度に、彼女自身がどうにもできない胸の痙攣が、ゆっくりゆっくりおさまっていくのが、愛おしくて仕方がありませんでした。
「これで漸く、恩返しができそうですねぇ」
居心地の良かった馴染みの馬宿。もうここへは二度と来ることもないでしょう。
暗闇へと身を沈める直前。彼女は一度だけかつての住処を振り返りました。
その瞳を手の平で覆い、私はこの薄暗さの蔓延る孤独な箱から、彼女を攫って行きました。
少なくとも二人の人間が突如として消えたこの馬宿が、この後でどうなったのか私は知りません。
恩返しで訪れていた私には、もう関係がなくなったことですから。