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男は、目に飛び込んできた妻の様子に、何も言えず立ち尽くしてしまった。
「おかえりなさい、台座さん・・・・・・私、頑張りましたよぉ・・・・・・!」
ベッドに座ったまま自分を迎えてくれた妻は、嬉しそうに声を綻ばせている。しかし、その眼孔にはクマが落ち、いつもリンゴのようだと思っていた頬は真っ白だ。艶やかな黒髪だって、糸がほつれたように酷く乱れている。
それでも彼女は、遅れてやってきた自分を迎えてくれた。幸せそうに。それでいて、やり切ったように、笑みを浮かべて。
カルサーの谷での業務を無理に抜けてやってきた男は、部屋へ入る前に、仮面の下で下唇をグッと噛んだ。
彼女の穏やかな目線を受けながらゆっくり近づいていく。
腕の中には、この日のために彼女があつらえたという、小さな布の塊。
大事に大事に抱きかかえられたそれに、女は愛おし気に細められた瞳を落とした。
柔らかく埋まっていたのは、彼らが手にした、初めての宝物だ。
「男の子です。赤ちゃんにしては大きい方なんですって」
布から頭だけを出す我が子は、静かに眠っていた。
本当に生きているのかと疑ってしまうくらい、微動だにせず、母の腕に抱かれて。
閉じた瞳はまっすぐで、丸くて小さな鼻先が可愛らしい。それに、つんと先が尖った唇が、彼女にそっくりだった。なにより、リンゴのように血色の良い頬。どう見たって自分ではなくて彼女似なのに、彼女は「台座さんに似たのかなぁ」とぼやいてみせる。
触れるか触れないかという繊細な指先で、彼女が赤子の頬に触れていく。慈しみに溢れた瞳。そして、赤子の柔らかそうな、赤い頬。
じわじわと、腹の底から染み出してくる。この暖かさはなんだろう。まるで、彼女から貰った腹巻を、初めて巻いたときのような。
「抱っこしてあげてください。とっても良く寝てくれる子だから、きっと起きないですよ」
ふわっと妻の瞳が持ち上がる。ただ、そう言って見つめられても、男は黙ったままどうにも動けなかった。
麻のカーテンが、外からの風で揺らめく。小昼の光が、その隙間から細く彼女を照らした。
笑み綻んでみせる妻は、しかし男からなんの反応も返ってこないので小首を傾げる。
いつもなら、こうまで押し黙ることなんてしないのに。
部屋の影にいたまま、男は、一度緩めた拳を改めて握りこむ。
「・・・・・・俺なんかが、触れて良いのだろうか」
仮面の下で、男は妻の頬にまでしか、焦点を合わせられなかった。
眠り続ける我が子は、まだ純粋で、清くて、それでいて美しい。
そんな我が子を、血に濡れた自分が触れることを、許されるのだろうか。
彼女の胎の中で十月十日を過ごし、この世に産まれ出でたばかりの我が子。自分と彼女が知り合って、愛し合って、そうして生まれてきてくれた宝物。
清くて、美しくて、光ってるんじゃないかとさえ感じる、大事な、大事な。
「台座さんが、お父さんなんですから」
細い指先が、男の分厚い皮の手のひらに触れる。
優しくて、暖かくて、心の深いところにまで染み入っていくような声だ。見上げてくる彼女の丸い瞳に視線を移して、見つめ合う。
それから、男はゆっくりと、誘われるままに腕を伸ばす。
彼女から宝物を受け取り、自らの腕に、抱きかかえた。
初めて抱く、我が子だ。小さくて、柔らかくて、嗅いだことのないような、甘いにおいがした。
小さな唇から、微かな寝息が聞こえる。生きている。全部がふにゃふにゃで、まるで同じ生き物とは思えない。
男は、今まで生きてきた意味が、今ここで漸く理解ができた気がした。
今日この日。自分には、守るべき宝物がまた一つ増えたのだ。
彼女や彼のような宝物を人生で増やすために、自分はきっと、今まで一生懸命だったに違いない。
「・・・・・・泣いてますか?」
肺にこみ上げてきた情感を細く吐き出していたら、妻が露骨に仮面を覗き込んできた。
いつもふわふわと笑って見せる妻は、意外と目敏い。しかし認めるわけもなく、泣くわけなかろうとすぐさまに返す。
顔を隠すものがあって良かった。真偽を有耶無耶にする道具として、イーガのこれより優秀なものはない。
実際には、彼女にバレていようと、いまいとも。
とはいえ、予想外だったこともある。声を発した瞬間、腕の中の子がビクリと身体を震わせて、腕をぱっと上げた。それにこそ男は目を見開いたものだが、こちらは大の大人だ。驚いたとてなにがあるわけでもない。
しかし、腕の子は赤子であった。ゆっくりと瞼が持ち上がって、焦点がよろよろと定まらずに揺れ動く。
射干玉ぬばたまの瞳。いや、小豆色かもしれない。濡れた瞳が艶やかで、やっぱり妻そっくりだ。カーテン越しの光が瞬く色味に、男はくぎ付けとなった。
「ふぇ・・・・・・っ・・・・・・えええぇぇ・・・・・・」
あ、と思う間もなくか弱い声で泣き始め、赤子の表情がくしゃっと崩れていく。
細い腕をゆるゆると上下左右に揺らすのは、何かを探している様子。きっとそれは母だろう。そして同時に、父を嫌がっていた。
「お、おお・・・・・・ど、どうしたら」
「あやしてあげてください!ゆらゆら揺れたり、上下にスクワットしたり!」
「こ、こうか!?」
「仮面が怖いのかも・・・・・・とったらいいんじゃないですか!?」
覚束ない赤子の声は、父も母をも慌てさせる。
妻に言われた通り、慌てた男は咄嗟に仮面を取った。
その濡れた頬を見て、妻は目を丸くさせた後にぷっと噴き出した。
「おかえりなさい、台座さん・・・・・・私、頑張りましたよぉ・・・・・・!」
ベッドに座ったまま自分を迎えてくれた妻は、嬉しそうに声を綻ばせている。しかし、その眼孔にはクマが落ち、いつもリンゴのようだと思っていた頬は真っ白だ。艶やかな黒髪だって、糸がほつれたように酷く乱れている。
それでも彼女は、遅れてやってきた自分を迎えてくれた。幸せそうに。それでいて、やり切ったように、笑みを浮かべて。
カルサーの谷での業務を無理に抜けてやってきた男は、部屋へ入る前に、仮面の下で下唇をグッと噛んだ。
彼女の穏やかな目線を受けながらゆっくり近づいていく。
腕の中には、この日のために彼女があつらえたという、小さな布の塊。
大事に大事に抱きかかえられたそれに、女は愛おし気に細められた瞳を落とした。
柔らかく埋まっていたのは、彼らが手にした、初めての宝物だ。
「男の子です。赤ちゃんにしては大きい方なんですって」
布から頭だけを出す我が子は、静かに眠っていた。
本当に生きているのかと疑ってしまうくらい、微動だにせず、母の腕に抱かれて。
閉じた瞳はまっすぐで、丸くて小さな鼻先が可愛らしい。それに、つんと先が尖った唇が、彼女にそっくりだった。なにより、リンゴのように血色の良い頬。どう見たって自分ではなくて彼女似なのに、彼女は「台座さんに似たのかなぁ」とぼやいてみせる。
触れるか触れないかという繊細な指先で、彼女が赤子の頬に触れていく。慈しみに溢れた瞳。そして、赤子の柔らかそうな、赤い頬。
じわじわと、腹の底から染み出してくる。この暖かさはなんだろう。まるで、彼女から貰った腹巻を、初めて巻いたときのような。
「抱っこしてあげてください。とっても良く寝てくれる子だから、きっと起きないですよ」
ふわっと妻の瞳が持ち上がる。ただ、そう言って見つめられても、男は黙ったままどうにも動けなかった。
麻のカーテンが、外からの風で揺らめく。小昼の光が、その隙間から細く彼女を照らした。
笑み綻んでみせる妻は、しかし男からなんの反応も返ってこないので小首を傾げる。
いつもなら、こうまで押し黙ることなんてしないのに。
部屋の影にいたまま、男は、一度緩めた拳を改めて握りこむ。
「・・・・・・俺なんかが、触れて良いのだろうか」
仮面の下で、男は妻の頬にまでしか、焦点を合わせられなかった。
眠り続ける我が子は、まだ純粋で、清くて、それでいて美しい。
そんな我が子を、血に濡れた自分が触れることを、許されるのだろうか。
彼女の胎の中で十月十日を過ごし、この世に産まれ出でたばかりの我が子。自分と彼女が知り合って、愛し合って、そうして生まれてきてくれた宝物。
清くて、美しくて、光ってるんじゃないかとさえ感じる、大事な、大事な。
「台座さんが、お父さんなんですから」
細い指先が、男の分厚い皮の手のひらに触れる。
優しくて、暖かくて、心の深いところにまで染み入っていくような声だ。見上げてくる彼女の丸い瞳に視線を移して、見つめ合う。
それから、男はゆっくりと、誘われるままに腕を伸ばす。
彼女から宝物を受け取り、自らの腕に、抱きかかえた。
初めて抱く、我が子だ。小さくて、柔らかくて、嗅いだことのないような、甘いにおいがした。
小さな唇から、微かな寝息が聞こえる。生きている。全部がふにゃふにゃで、まるで同じ生き物とは思えない。
男は、今まで生きてきた意味が、今ここで漸く理解ができた気がした。
今日この日。自分には、守るべき宝物がまた一つ増えたのだ。
彼女や彼のような宝物を人生で増やすために、自分はきっと、今まで一生懸命だったに違いない。
「・・・・・・泣いてますか?」
肺にこみ上げてきた情感を細く吐き出していたら、妻が露骨に仮面を覗き込んできた。
いつもふわふわと笑って見せる妻は、意外と目敏い。しかし認めるわけもなく、泣くわけなかろうとすぐさまに返す。
顔を隠すものがあって良かった。真偽を有耶無耶にする道具として、イーガのこれより優秀なものはない。
実際には、彼女にバレていようと、いまいとも。
とはいえ、予想外だったこともある。声を発した瞬間、腕の中の子がビクリと身体を震わせて、腕をぱっと上げた。それにこそ男は目を見開いたものだが、こちらは大の大人だ。驚いたとてなにがあるわけでもない。
しかし、腕の子は赤子であった。ゆっくりと瞼が持ち上がって、焦点がよろよろと定まらずに揺れ動く。
射干玉ぬばたまの瞳。いや、小豆色かもしれない。濡れた瞳が艶やかで、やっぱり妻そっくりだ。カーテン越しの光が瞬く色味に、男はくぎ付けとなった。
「ふぇ・・・・・・っ・・・・・・えええぇぇ・・・・・・」
あ、と思う間もなくか弱い声で泣き始め、赤子の表情がくしゃっと崩れていく。
細い腕をゆるゆると上下左右に揺らすのは、何かを探している様子。きっとそれは母だろう。そして同時に、父を嫌がっていた。
「お、おお・・・・・・ど、どうしたら」
「あやしてあげてください!ゆらゆら揺れたり、上下にスクワットしたり!」
「こ、こうか!?」
「仮面が怖いのかも・・・・・・とったらいいんじゃないですか!?」
覚束ない赤子の声は、父も母をも慌てさせる。
妻に言われた通り、慌てた男は咄嗟に仮面を取った。
その濡れた頬を見て、妻は目を丸くさせた後にぷっと噴き出した。