【本編】鬼の幹部が恋をした!

 さて、イーガの玄関にまた新たな朝がやってきた。
 鬼の幹部は、出勤と共に商業班員を中央に呼び寄せる。今だ寝ぼけ眼で自分を見つめる団員らに告げたのは、この部署においての、急なルールの変更だった。

「今度から、他部署に任せる業務は一旦俺が受け取り、まとめて管轄の部署へ引き渡すことになった。他に業務を持ち込むときは、まず俺へ相談をするように。例外はない。分かったな」

 鬼の幹部の発言に異を唱える者はいない。彼は総長が居ない間のまとめ役。そも商業班員はやる気に乏しい団員の集まりで、寝起きの気怠さのまま、へーいと返事するだけである。

 ただ、そんな中でもただ一人、「幹部殿」と小さく挙手をする者もいた。商業班の中では割と真面目な性分である、武器屋の構成員だ。
 幹部は腕を組んだまま、「なんだ」と顎で先を促した。

「それはなんでですか。自分で持ってった方がちゃっちゃと済ませられるし、こっちとしては楽なんですけど」
「昨今はとかく団員の数が増え、それに伴い内勤の業務も増えている。別々に仕事を持ち込んでは、対応に時間がかかりすぎるだろう。それにお前たち、行った先での無駄口が多すぎる。俺がまとめて持ち込んだ方がメリットがあると判断したのだ」
「それだと、幹部の負担が大きすぎませんか?あんた忙しいんじゃあ・・・・・・」
「心配には及ばん、部署の管理こそ幹部の役目よ。それに各部の様子を伺う機会になって一石二鳥なのだ」

 なーる・・・・・・。納得したように小さく頷く武器屋は、それ以上の言葉を続けなかった。
 
「了承を得られたと判断する。では早速聞こう。現段階で余所に案件を持ち込みたいやつはいるか?」

 その瞬間、今までやる気の無さそうだった団員らから、ザッと手が上がる。
 腕の数は、1本、2本、3本、4本。・・・・・・要するに、この場に集まった商業班、全員分の腕だった。

「・・・・・・暫し待て。筆録をとるから」

 面下で目を丸くした幹部は、慌てて取り繕いながら懐を弄った。
 鬼の幹部はこの時、縫製室へ向かうための代償を、初めて思い知ったのだった。





 商業班員は人使いが荒い。雑務を人任せにできると分かるや否や、細々とした案件すら幹部に押し付けるようになった。
 やれ流通班に持って行って欲しい物があるとか、やれ洗濯場に言伝を頼みたいとかを平気でのたまう。これでは業務のまとめ役というよりも、やってきたばかりの新人扱いだ。
 さすがに「鍛錬班の幹部に、今日は休むと伝えておいてください」と言われた時は突っぱねたが、それにしたって良いように扱き使われ過ぎている。
 とはいえ、ルールの変更を決定し、皆に告げたのは自分自身だ。どんな小さな業務でも、断れば自らの沽券にかかわる。・・・・・・朝から昼にかけての貴重な時間が、ただ歩き回るだけで潰れてしまったとしても。
 対策として、昼餉を掻っ込むように食い、玄関の見晴らし台で立ったまま帳面をつける。業務に業務を重ね、なんとか一日の帳尻を合わせる日々が始まった。

 では、肝心の縫製室への訪問はどうかというと、実はこれがまた上手くいっている。今までの悩みはなんだったんだと、拍子抜けするほどに。

「あっ、台座さん、おはようございます!今日も業務の持ち込みですか?」

 縫製室の前に直立すると、声を掛ける前に例の針子の顔が持ち上がった。
 そのままトットット、と床に広がる布を器用にすり抜けて、近づいてくる。目の前までたどり着いた途端に向けられる、にこぉと満面の笑顔。薄暗い洞穴の中で、まるで太陽のようにそれが眩く見えた。

 「うむ・・・・・・。お前も、元気そうだな」

 ここへ来ると、途端に声が掠れるから不思議だ。喉の奥で小さく咳払いをしてから、「あー」と視線を泳がせる。

「今日は棘屋と弓矢屋から、装束の直しを預かってきた。繕いを頼みたい」
「はーい分かりました。すぐやりますね」
「いや・・・・・・、そこまで急ぎじゃない。他の案件があるなら、そっちを優先してくれて構わないから」
「お気遣いありがとうございます、でも今日中に終わると思います。終わったら、すぐに持っていきますから!」

 パッと無邪気に差し出される小さな両手。傷も豆もなく、白くて柔らかそうな手の平に見慣れず、いつもながらどきっとしてしまう。
 幹部は柔らかく、その手の平に装束を託した。
 続け様、針子は慣れたように布地を広げ、上から下までを視線で辿っていく。修繕箇所がどこなのかと探る、ひどく真面目な顔だった。眉根をきゅっと寄せ、しかし皺にはならずにツルッとし眉間のままなのだから、きっと普段はこんな表情なんてしないのだろう。

 やっぱり、一生懸命な娘だ。装束の上を辿る、分かりやすい視線の動きに思わず見入ってしまう。が、一瞬空けて、幹部ははっと我に返った。
 見つめている場合じゃない。「ん、んん」と咳払いすると、針子の真ん丸の瞳がふと気づいたように仮面へ向けられる。
 反対に幹部は、天井の隅の方に視線を逃してから口を開いた。

「さ・・・・・・最近、調子はどうだ?何か変わったことは無いか?」

 つかえた。しかし概ね想像通りに言えた。
 針子は丸い目を更にキョトンとさせる。しかし、次の瞬間には花がパッと咲いたような笑みを浮かべて、「大丈夫です!」と言い切った。およそアジト内で聞いたことがないくらい、元気いっぱいの宣言だった。
 それだけで、ここへ来るまでの焦りも、達成感も全部包まれる気がする。彼女の笑顔が、まるでご褒美みたいに思えて仕方ない。

「最近はアジトを迷わず歩けるようになりました!これでやっとお待たせせずに済みますね」
「そうか、それは良かったな。しかし、アジトの中は罠もあるから気を付けて歩けよ」
「鍛錬場の奥の部屋ですよね、初めて見たときびっくりしました。でも大丈夫です!怖いし、近づかないようにしてます」
「そうだな、それが良い。たまに酔った団員があすこに引っ掛かったりするんだ。お前も騒がしいからな・・・・・・くれぐれも注意するように」
「ご心配には及びません。お酒も飲みませんし、あそこには用事もなにもありませんので!」

 両腕でガッツポーズしてみせる彼女の、得意げな顔といったら。
 なんでそこまで自慢げなんだ。思わず笑い声を漏らすと、彼女もえへへと照れたように舌を出した。

 それから、「それにしても、最近は冷えますねぇ」と天気の話題に続いていく。幹部も自然と相槌を打ち、溢れるような彼女の話に耳を傾けた。

 この前たまたま外へ出たら、空気がキラキラ光ってて綺麗で、びっくりしました。
 でも寒くて仕方ないから、一枚上に羽織ものが欲しくて・・・・・・。
 そういえば最近、箱の中に毛糸を見つけて、編み物をしてるんですよ。
 完成したら台座さんにも見せますね。

 笑ったり困ったり難しい顔をしたり、ころころと表情を変える針子は見ていて飽きない。日々のなんでもない話を自分からするのは苦手だが、こうして彼女の話を聞いている時間ならいくらでも平気だ。大して重大な内容でもないのに、もっと聞いていたいとすら思うから不思議だった。
 穏やかな笑顔が、柔らかい声が、どこか張りつめたアジトの生活を緩ませてくれる。だからもっと、話をしたいと思ってしまう。

 そういえば、最近はブランケットにくるまる団員をよく見かけるようになった。雪だるまみたいなへんちくりんな商業班の姿を思い出す。これを彼女に伝えたら、ふわふわとした笑みで応えてくれるだろうか。
 そう思って、面下で口を開いた瞬間だった。

「あら、幹部殿、いらしてたんですか。縫製室に何か御用です?」

 突然、背中へかかったのは品の良い女の声。
 「あ、お帰りなさい!」という朗らかな針子の声と共にバッと振り返る。気配もなく幹部の背後に立っていたのは、縫製班でも古参の針子であった。

「お疲れ様です、幹部殿。やけに楽しそうじゃないですか、何を話されてたんですか」

 その声には笑みが混ざっている。しかしどこか淡泊だ。ただの塗料であるはずのイーガの瞳が、厳しく細まっているような気もする。まるで「仕事もせずに何を喋っているんだ」とでも言っているかのように。
 幹部は下から見上げてくる仮面を見返すことができず、「いや・・・・・・」と面裏で視線を背けた。

「繕い物を頼みに来たのだ。・・・・・・詳しい話はこいつから聞いてくれ」
「左様ですか。分かりました。お忙しいところ幹部殿、連日 お疲れ様でございます」

 朗らかな声と共に首を垂れる。・・・・・・しかし上品なだけだろうか。彼女の言葉に、なにやら待ち針のような含みがある気がしてならない。
 このままいれば余計な反感を買いそうだ。咄嗟に判断した幹部は一も二もなく「ではな、邪魔をした」と踵を返す。
 後ろ髪に「お疲れさまでした!」という鈴の声が追ってくる。
 その声に気を緩ませてしまったからだろうか。隣から、ちくちくとした視線が注がれていることなど、このときの幹部は露とも気が付かなかった。






 廊下を歩く幹部は、妙に晴れ晴れとした面持ちだった。
 最近、薄暗いはずの廊下がなぜか明るく感じる。固く埃っぽいはずの岩廊下がふわふわと柔らかく、歩くと跳ねでもするような感覚があるし、そもそも体重そのものが減ったように身体が軽い。
 「お疲れ様です」と会釈する団員に「うむ、ご苦労」と片手を挙げながら応える間、彼はしみじみとした確信を抱いていた。
 針子と会話をするという作戦が、如実に功を奏し始めているのだ。

 昨日は弓の引き方について彼女に教え、その前は夕餉の話から発展して、米の美味さについての話を聞いた。
 更にその前は、朝が起きられなくて困っているという話を、相談がてらに零されたのも記憶に新しい。

 少しずつだが、確実に彼女とのコミュニケーションは深まっている。これは大きな進歩であり、必要な第一歩だ。
 きっとこのまま続けていれば、体調不良だとか、彼女に対するもやもやだとか、何が原因なのか、どうすれば良いのかはっきりするはず。

 ・・・・・・ただどうも、最近は不思議なのだ。
 彼女と会話を交わす度、動悸はするし、息切れもあるし、顔の火照りや胸の苦しさだってある。
 しかしこの頃、それらを悪くないと思っている自分がいる。彼女と出会ってから話をし続けるうちに、日々の体調不良が身体の中へ馴染んでいくような。むしろこれがあるからこそ、普段の業務を頑張ろうと思えるような。そんな不思議な感覚。

 鬼の幹部にとって、こんなのは未知だった。主君の命を叶えることこそが生きがいであり、やりがいだったはずなのに。この世の終わりを願うイーガとしての日々で、明日が来るのを待つようになるなんて思わなかった。
 不敬かもしれない。そう思う間もなく、彼はこの日々が新鮮で、心を引き付けられていた。

 明日はどんな話ができるだろうか。何をして驚かせてくれるのだろうか。
 彼女のことを考える時間が、忙しくも単調なイーガの生活に、いっときの気晴らしとなっていったのは疑いようのない事実なのであった。





 明くる日の朝のことである。
 他部署への業務は既に済ませ、残りは針子へ任せる業務のみ。幹部は軽い足取りで縫製室へ向かっていく。
 今日は、もう少し踏み込んだ話をすると決めていた。商品を覆う被せ布が欲しいと伝えた後は、間髪入れずに食の好みを聞く予定だ。
 なんでも、好きな食べ物の話は、どんな人間相手でも盛り上がるものだとか。バナナ売りからそう聞いた。とはいえ、商業班で聞いたときは全員がバナナと答えたものだから、「そりゃそうだ」と呆れ調子で会話は終了してしまったのだが。

 暗い廊下の先、縫製室から行燈の光が漏れているのを見ると、いつも心臓が一段と高鳴り始める。
 しかし、最近はこれがあるからこそ、彼女に会えるのだと割り切り始めていた。いわば準備体操みたいなもので、深呼吸して鼓動を落ち着かせるのも、ここ最近の儀式になっている。
 四角く切り取られたような扉の奥に、背中を丸める構成員の姿。
 幹部は肺を膨らませたと同時に、「失礼する、少しいいか」と凛々しい声を吐き出した。

「はい、なんでございましょう」

 振り返った先に見えたのは、あどけなく笑う口元と、真ん丸に見開かれた丸い瞳。
 ・・・・・・ではない。想像と違い、彼を迎えたのは仮面に描かれた赤い一つ目だ。
 新人じゃない。縫製室に居たのは、先達の針子だった。
 幹部は、中に入る寸前の右足を、その場で雷に打たれたかのようにビタリと止めた。

「お前・・・・・・だけか?新人は?」
「お前だけとは不躾ですね。あの子は少し早い昼餉に行ってもらってます」
「あ、あぁ・・・・・・そうか。そういうこともあるよな」
「何か御用ですか?また、商業班の業務で?」

 面食らったまま素直に言葉が出ない。「いや、その・・・・・・なんだ」と誤魔化しながら、どうすべきか頭にめぐる。
 彼女には会いたいが、・・・・・・目の前に古参団員がいるのだ。このまま業務を告げずに退散するなんて、幹部の立場上できるわけもない。

「えーとだな・・・・・・バナナ売りに、商品の被せ布を頼まれたんだ。急ぎじゃないから、繕ったら後で届けてくれると、その、・・・・・・助かるんだが」
「ああ、被せ布でしたら、少々お待ちくださいな」

 ゆったりとした動作ですっと立ち上がった針子が、迷いなく隅の布山に向かう。
 まさか今から繕うのか。幹部の頭に蘇ったのは、先日の新人の振る舞い。「いや、後でいいから」と慌てて断ったが、しかし先達は意に介さない。
 手首のスナップをきかせた無駄のない動きで布を抜き出すと、彼女は広げもせずにそれを幹部に差し出した。

「被せ布はよく必要になるんで、いくつか縫って置いてあるんです。これをどうぞ」
「・・・・・・」

 今ここで受け取れば、後々に新人が玄関へ届けてくれることもない。しかし受け取らなければ不自然だ。布と彼女の面を視線だけで交互に見つめ、静々とそれを引き取った。
 布端をつまんで広げてみれば、なるほど確かにバナナ売りが言った通りの大きさである。布端は糸で解れ止めがなされており、完璧な出来の一枚布だ。
 「感謝する」と、歯ぎしりするのをなんとか諫め、言葉をねじり出して適当に畳んだ。

「その・・・・・・なんだ、あー」
「まだ何か?」
「えーとだな。あいつは、・・・・・・新人は何か言ってるか?イーガがどうとか、なんとか」
「慣れてきてはいるようですよ。最近はアジトの中をようやく迷わずに歩けるようになったと嬉しそうです」
「そうか、それは俺も聞いたな。良かったよな。・・・・・・うむ」

 もう今日は、新人と言葉を交わすことはできないらしい。その事実に、ここへ来るまでにピークを迎えていた身体の不良自体は治まり始めていたが、今度は腹の奥底がざわざわと落ち着かないような気がしてくる。
 せめてなにか聞きたい。そんな藁にもすがる思いだったが、突如として先達からの「はぁ」というため息が、幹部の耳を打つ。
 「幹部殿、少し良いですか」と低い声が続き、視線を泳がせていた大男へ、グッと柔らかい圧力が迫った。

「あの子のことをなにやら気にしてらっしゃるようですが、少し過剰ではありませんか?今まで新人に対して、そこまで親身ではなかったでしょう」
「そ、そうか?あいつがとびきり無作法ものだから、その・・・・・・」
「あまり甲斐甲斐しくされては業務に障ります。それに・・・・・・こういうことはあまり口出ししたくありませんが、”そういうこと”は控えた方がよろしいかと」
「・・・・・・そういうこと、とは」
「噂になりますよ。まとめ役の幹部が、うら若い娘の尻を追いかけている、なんて」

 「しッ・・・・・・!!」と言いかけて、幹部はそれ以上の言葉を失った。
 尻を追いかけている。まさかそんな疑いがかけられているとは誰が思ったろう。自分は、業務を持ち込むついでに彼女と少し話がしたかっただけ・・・・・・いや、そもそもその業務は他の団員から請け負ったもので、自分が持ち込む必要はなかったのは確かだが。
 よくよく考えてみれば、疑いどころではなく、れっきとした事実じゃないか。と気付いてから以降、彼女の言を真っ向から否定する術が、幹部にあるはずもない。
 文句を言おうと面下で開かれた口は、何事を言葉にすることなく閉じたり開いたりを繰り返すだけだ。

「・・・・・・幹部殿にこのようなことは言いたくありませぬが、今はセクハラだなんだとうるさい時代です。気を付けてくださいませ」

 仰々しく頭を下げた針子は、「それでは失礼いたします」と一方的に告げた。すんとした様子で座り込んだ背中には、まるで「もう話してくれるな」とでも書いてあるように見える。
 沈黙のままにまた繕いを始めた彼女へ、上役に対しての態度ではないと叱責でもすれば良かった。
 しかし、うら若い娘の尻を追いかけている。その恥ずかしい事実が、彼の言葉を失くさせる。恥の上塗りができるほど、彼は厚顔な仮面を被っていない。

 結局、何事も言わずに唇を引き絞り、幹部は踵を返した。
 新たなに張られたレッテルが酷く重い。鬼の幹部に不釣り合いな引き摺り足は、まるで足枷でもはめているように見えたとか。







「おや、旦那。今日はやけに早いお帰りで。・・・・・・なにかあったんですか」

 玄関に辿り着いた幹部を出迎えたのは、バナナ売だった。彼は適当な男だが、なんだかんだと人の機微に目敏い。
 「いや・・・・・・なんでもない」と返したものの、その言葉だけで上手く取り繕えるだろうか。しつこくされたら面倒だ。聞かれたところで、馬鹿正直に事実を伝えられるわけがない。
質問を重ねられる前に、頼まれていた敷物をぽいと投げて渡す。
 「ありがとうございます」との声に幹部は何も応えずに、いつもの見張り台へと歩を進めた。床に散る砂がまるっきり泥にでも変わったみたいに、なんだか足が重かった。

 普段通り、玄関ホールの中央で仁王立ちになって腕を組む。鬼の幹部という称号に相応しい[[rb:益荒男 > ますらお]]の姿は、敵だろうと味方だろうと畏怖を感じさせる。
 しかしその頭で、数年前に民を困らせたヴァ・ナボリスの砂嵐が再現されていると、誰が察せられただろう。
まさか本人も、縫製室に行ったことでこうまで頭の中がぐちゃぐちゃになるなんて、朝の段階では思っていなかった。

『噂になりますよ。まとめ役の幹部が、うら若い娘の尻を追いかけている、なんて』

 先ほど胸に深く刺さった待ち針の言葉が蘇る。
 同時に、ここ数日で浮かれていた自らの愚行も。

 嬉々として天気の話をした自分。得意げになって弓の弾き方を教えた自分。ああ、そんな恥ずべき振る舞いをしてくれるなと、自ら殴って黙らせてやりたい。
ここが共寝所ならば、きっと毛布を頭からかけて丸まっていた。ここが荒涼とした崖の上ならば、きっと言葉にならない雄たけびを上げていた。また滝行にでも行くか?と思ったが、今しがた帰ってきたばかりでそれも気が引ける。
 過去は変えられないので腕に指を食いこませ、痛みをもって自らの罰とするしかどうしようもない。

 もうきっと、暫く縫製室へ行くのは止した方が良いだろう。ああまで言われてのこのこ顔を出せるほど、面の皮は厚くない。

 ただ・・・・・・。縫製室へは行かない、と自分に誓った途端、なぜか急激に腹の奥底がズン、と重くなったような気がした。
それに、玄関の天井に厚い雲が留まっているように、じっとりとした湿気とモノクロを感じる。縫製室へ行く前までは、あれだけさっぱりと晴れやかな心持ちだったのに。

 ふいに、布山に囲まれた新人針子の姿が脳裏に思い浮かぶ。真剣な表情で、繕い物をする姿が。
 ──そんな顔だけでも、見られたら良かったのに。
 頭に上った言葉。幹部ははっと我に返り、慌てて頭を左右に振った。

 バカげたことを。何を考えてるんだ俺は。
 縫製室へ行っていたのは、あくまで体調不良の原因を探るため。そして情報は既に出そろったと言っても過言ではない。本来であれば、もう彼女と会話を重ねる必要などないのだ。

 ・・・・・・それでも、まだあすこへ行きたいと思うなら、やはり、医療班員が言った例の──。

「幹部殿ぉ、ちょっといいっすか」

 前方を睨む幹部の視界に、ぬっと影が割り込んでくる。先ほど言葉を交わしたバナナ売りだ。
 身を縮ませて揉み手するのは、何か裏があるときの彼の癖。それにわざわざ”幹部殿”、なんて。
 悪い相談でもするように「へへへ」と笑いを漏らすバナナ売りに、「なんだ」と口にした声が自然と低くなる。

「帰ってきたばっかで申し訳ないんですけどね、そういえば、荷運び用の風呂敷が足りないのを思い出しちまって、そのぉ」
「・・・・・・もしやまた縫製班に行けと?」
「ええ、頼めます?」

 イーガの瞳で上目遣いをされる。自分がそれなりの年齢の男だという自覚がないのだろうか。可愛げのある素振りをしたところで、気色の悪さしか振り撒けないというのに。
 幹部は思い切り渋い顔を浮かべた。
 「せめて明日に出来んのか」といえば、「すいやせん、ちょいと急ぎで」と間髪入れず返ってくる。

 まるきり使いっ走り扱いだが、とはいえここ最近であったら、渋々といった風を装って引き受けたことだろう。
 今また縫製室を訪ねれば、きっと彼女が帰ってきているはず。改めて、日々のなんてことはない会話を交わせるに違いなく、そうすれば、胸中に広がった雲を晴らせた可能性だってある。
 ・・・・・・しかし。

「・・・・・・急ぎなら、自分で行ってこい」

 恥を重ねるだけだ。行けるわけがなかった。
 重々しく呟いた言葉に対して、「え?良いんですかい?」とバナナ売りの素っ頓狂な声が玄関に響く。

「もう今後、他部署への案件は、俺に相談しなくとも良い。行きたい時に勝手に行ってくれ」
「前に言ってたルールは? 無し、っちゅーことで?」
「ああ、撤回だ。・・・・・・すまんが、他の奴らにもそう伝えてくれ。ただし、他部署に行った時に油を売りすぎるなよ」

 バナナ売りは一瞬なにかを言いかけたが、結局「分かりやした」と緩く敬礼をしてみせた。ふざけてはいるが、察しの良い男なのだ。
 これで良い。猫背でダラダラと去っていく背中を見つめながら、幹部は自らに言い聞かせる。そして廊下の奥に彼の姿が消えたとき、深く息を吐いて、無意識に詰まっていた肺を緩ませた。

 さて・・・・・・問題事をひとつ回避したとはいえ、今度は通常の業務が待っている。さんざ溜まった書類整理。守衛として立ちながら、今度はこれをこなしていかなくてはならない。

 足下に置いていた各部署からの報告書を拾い上げ、幹部はつらつらと書かれた文字を追い始める。

 ・・・・・・しかし、頭の中で文章を読み上げる間、彼の頭の中へうっすらとへばりついていたのは、自分を見つめる朴訥な丸い瞳。それに、一生懸命に口を回す、新人の鈴を転がしたような高い声。
 彼女に会いたい。・・・・・・いや、もう会っても意味がない。
 でも言葉を交わしたい。・・・・・・いや、もう情報は充分なはず。
 
 口では報告書をブツブツと読み上げ、頭の中は砂嵐。倒しても倒しても溢れ出る、言葉にしきれない感情。
 幹部の忙しい書類整理の業務は、このまましっかりと夕方まで続いていくのだった。





 砂漠の砂を焼く日輪が、地平線へ沈む暮れ合い。

 どんどん、と木の門を叩く音が、ただ仁王立ちしていた幹部の耳に届いた。
 気配を消しつつ門の覗き穴を静かに覗き込むと、そこにいたのは旅人の服に身を包んだ男。一見して民間人の様相だが、背中に背負った二連弓や、鞄から飛び出すバナナの皮が、誰だかを物語っている。イーガの団員だ。

 ぎぃ、と門を開けた瞬間に、鋭い音を立てながら寒風が吹き込んでくる。それに、腕をしきりに摩っていた団員も、「ありがとうございます」と会釈しながら入ってくる。
 寒い寒いとぼやく声を背中に聞きながら、幹部は門戸から顔だけ出して、空を仰ぎ見た。

 カルサー谷の隙間から、どんよりとした夜の空が見える。星も月も見えなくて、どことなく靄がかった薄墨色の空。砂漠に砂埃が多く舞った日は、いつもこんな空だ。

 びゅうびゅう音を立てながら、痛いほどの寒さが体に叩きつけられる。ただ、寒いとはいっても、ダイヤモンドダストが現れるほどではないらしい。──ふと、針子が口にしていた話を唐突に思い出した。

 大気がキラキラ輝いて綺麗だったとあいつは言っていた。一日の内でも特に気温の下がる日の出、日の入り時刻特有の現象だ。近頃はすっかり見慣れたものだが、せめて今見られれば、少しは気でも晴れたかもしれないのに。

 ふぅ、と長く息を吐く。今日はやっぱり、なんとなく上手くいかない一日らしい。体の芯が冷え切る前に、幹部は黙って門を閉めた。

「旦那ぁー、先に飯貰ってきます」

 見張り台へ登ろうとした折、廊下の暗がりに足を向けるバナナ売りの声が聞こえてきた。
 玄関がもぬけの殻にならないように、商業班では時間をずらして食事をとるのが決まりだ。誰が一番最初に食いに行くか、なんてのは決まっておらず、手持無沙汰になったやつから玄関を去っていく。
 
 普段なら、多忙故に幹部がしんがりを務めることが多かった。分かった、といつもの癖で返事しようとして、しかしそこで、ふと考え直す。

「すまない、今日は俺が先でも良いだろうか」

 ほとんど背を向けて歩き出していたバナナ売りが「えっ」と振り返る。

「珍しいですね。どうしたんです、よっぽど腹減ったんですか?」
「いや・・・・・・実は昼飯を食い損ねてな。こうまで空腹だと、まともに動けん。先に行っても良いか?」

 後頭部を掻きながら、今にも鳴りそうな腹に力を込める。
 日頃から「飯はしっかり食え」と口を酸っぱくさせていた男だ。バナナ売りは大げさに「昼飯を!?」と声を上げた。

「早く言ってくださいよ~!そういうことならバナナくらい売ったじゃないですか~!」
「どのみち業務中だろ。少し腹が減ったところで食わん。・・・・・・まぁ、そういうことだ。すまんが、守衛だけ頼みたい」
「仕方ないですねえ。ゆっくりしてきておくんなまし」

 ゆるゆるとバナナ売りが玄関に戻っていく。幹部は一度玄関を振り返って、商業班全体に視線をくべた。
 誰からも文句が出ないことを確認し、それから薄暗い廊下の先へと足を進めていった。





 廊下のずっと奥から反響してくる団員の声。それ以外はただ静かな岩廊下を、幹部はゆっくりと歩いていく。
 夕餉の時刻としては、ピークを迎えているらしい。廊下に人っ子一人見当たらず、岩壁の凹凸すら物悲し気な陰に見えるのはその所為だろう。
 がらんどうになった岩廊下。この鬱屈とした静けさは、まさに復讐心を持ってお上に刃を向ける集団として相応しい。ついでに、空腹の限界を迎えている今の自分にもぴったりだ。

 さっさと食堂に行き、飯を食って気を紛らわしたい。今日は酒を飲んだって良い。それくらいしないと、今日は割に合わない。
 ただどうにも、早足で廊下を駆けていこうという気にはなれなかった。何か食べたい切実さとは裏腹に、・・・・・・情けないが、頭の中には未だに砂嵐が留まっていたのだ。
 一人になったからだろうか。それともやはり、腹が切なく萎んでさもしいからだろうか。昼間に刺された待ち針の苦言が、じわじわと頭に蘇ってくる。そしてそのまま居座り続けるのだから嫌になる。

 そもそも、自分は何故、彼奴との対話を望んでいた? それは、体調不良の原因を突き止めるため。親しくない彼女の情報が欲しかったからだろう。
 それが果たされた今、自分はこの原点に立ち返るべきじゃないのか。
 しっかりと廊下の奥を睨みつけながら、自分に今一度問いかける。
 答えは出たのか?と。

「・・・・・・」

 食堂までの道中。幹部はおもむろに足を止めた。ここ最近随分通った場所。縫製室へ続く曲がり角に差し掛かったからだ。
 行燈がぽつぽつと掛けられた岩廊下の先を見つめる。その灯りの奥に自然と思い浮かんだのは、あの朴訥な表情だった。
 笑うと目が山なりの線になって、つやつやの頬が食べごろのリンゴみたいにぽっと照る。にへら、と崩れた口元は締まりがないが、唐突に真剣な顔になる一瞬。視線の全てが引き込まれそうになるのだ。

 目が離せないのはそれだけじゃない。ふざけてるのかと思えば、意外に筋の通ったことを口にするのにも驚かされた。思った以上に我が強く、立場も身体も上をいく男に対してすら、目を吊り上げて怒った顔を突き付けてくるのだ。
 あの肝の据わり方はなんなんだ。といってもそれは、皺の入らない眉間から察するに経験不足・・・・・・状況判断が未熟なだけかもしれないが。

 イーガに身を賭して数十年。ここまで視線を奪われる団員はいなかった。
 彼女の人となりを知るには充分な期間があったはずなのに、・・・・・・未だに彼女がつかめない。

 遠くの方から、団員たちの声が反響してくる。それを、沈黙のまま、静かな中で耳にした。
 行燈の光は暗く、じりじりと影が揺れている。風なんて一切ないのに。

 あいつは今も廊下の先・・・・・・縫製室に居るのだろうか。
 また仮面を外して、うろうろと慣れない手先で業務に勤しんでいるのか。もしくは業務を終えて、このアジト内のどこかで既に暇をとっているのだろうか。

 この先に行けば会える──と考えた瞬間、唐突に、胸の奥がくぅっと、無理に丸められてるように痛みだす。耳の先まで熱を持ち、トクトクと脈動が徐々に早くなっていく。
 でも、不思議と嫌じゃない。・・・・・・嫌じゃなくなった。あと少しで、この体調不良の原因を突き止められそうなのに。

 ふぅ、と息を吐いてから、無理やりに仮面を逸らす。
 もう何も考えず、自分も早く飯を食って寝た方が良いに違いない。気付けば落ちてしまう視線を、くっと持ち上げる。
 大きく呼吸をしてから、一歩踏み出そうとした。 そのときだった。

「あ、台座さんこばんは~、お疲れ様でーす!」

 聞き慣れた声と共に、ぱっとそれが横を通り過ぎていった。一瞬の出来事で、今、何が通っていったのかを幹部はすぐに理解できなかった。

 「は・・・・・・」と声の混じった息を漏らして、勢いよく振り返る。
 僅かに見えた横顔から確認できたのはイーガの白い面。顔つきは分からない。
 しかし、さらりと揺れる黒い髪の毛に、鈴を転がしたような高い声。それに何より、遠慮なしに台座さんと呼ぶ女なんて、このアジトでは一人しかいない。

 それは、今まさに会いたいと願った、新人の針子であった。

 どく、と心臓が一度飛び跳ねて、身体が固まって動けなくなる。
 ただ、そのまま行かせて良いわけがない。自分は今日、彼女に会いたかったのだ。その眩しいくらいの笑顔を見たかった。何を話そうか、ずっと考えていた。

「は、針子ッ」

「はいっ、針子です!何か御用でしょうか?」

 気付けば、幹部は裏返った声で彼女を呼び止めていた。
 パタパタと駆けていた針子が、声を掛けた途端にクルンと振り返る。指先を揃え、直立不動の体勢で真っすぐに幹部へと向き合った。
 その小さな肩とあどけない仕草に、咄嗟に言葉を失う。でもそれじゃあダメだ。何かを言わねば、またすぐさま行ってしまう。何か。針子を引き留められるような言葉を、一言でも。

「げ・・・・・・元気かッ!?」
「はい、元気ですよぉ」
「変わりないか!?」
「はい、変わりないです!」
「最近は冷えるなあ!」
「朝と夜は寒いですね!!・・・・・・あ、玄関に立ってるから余計でしょう!?あそこは隙間風がびゅーびゅー入ってくるし、温かくしないと風邪引いちゃいます!私、良い物持ってますよ!」

 ちょっと待っててくださいね、と言い残すと、針子はまたパタパタと足音を立てながら廊下の奥へと走って行ってしまう。彼女が通っいった風で、行燈の影が踊るように揺らめいている。
 暫くして帰ってきた時、彼女の両手には、見慣れないふわふわしたものが収まっていた。

「これ、私が編んだ腹巻です!試作品で、台座さんが着られるならどうぞどうぞ!」

 突き出されたのは、一見して赤い塊のニット製品。そういえば昨日、寒いから羽織ものを編んでいると話した記憶が蘇る。

「こ、これは・・・・・・自分のために編んだもの、ではなかったか、確か・・・・・・」
「はい!ほんとは私用だったんですけど、思ったより大きくなっちゃって・・・・・・解くのももったいないなと思ってたので、台座さんが使ってくれるなら嬉しいです!」

 「ささ、遠慮せず」とおどけながら、針子は半ば無理やり幹部の手の平に押し込めた。
 指が沈むほど柔らかいそれは、見た目に反して意外と重い。それに、とても暖かかった。持った瞬間からしっかりと熱を内包していく腹巻に、確かにこれがあれば寒さは気にならなくなりそうだ、と自然と予感する。
 端を持って広げると、確かにどう見ても針子の身体に沿うような大きさではない。「編み物ってちょうど良い大きさで作るの難しいんですよ~」と、針子が照れたように言い訳を零す。
 もちろん幹部は編み物の造詣が深くないので、「そういうものなのか」と曖昧に返すことしかできない。

「では私はこれで!腹巻、活用してくださいね!」
「あ、あぁ・・・・・・気遣い、感謝する。ありがとな」

 ぺこ、と勢いよく頭がさげられて、そのまま機嫌よく針子が去っていく。穏やかな行燈の灯りが、彼女の花道を照らしているように思えて仕方がなかった。
 華奢な背中が、廊下の奥へと消えていく。すっかり一人になったというのに、しかし幹部は、暫く呆けたように廊下の最奥から視線を外せなかった。

 つと、手の中に納まった暖かいニットへ、視線を落とす。
 彼女から受け取った腹巻。しかも、彼女が手ずから編んだものだという。それが正に今、自分の手の中に収められている。寒いだろうからと、心配までされて。

 どく、と高鳴る心の臓。それから思い出したように脈動が騒ぎ出し、全身の発汗と頬の火照りが、幹部の身体をここぞとばかりに蝕み始める。
 例の体調不良が巻き起こったのは明白だ。しかし、今の彼には、それよりどうしようもないことがある。大問題を、はっきりと今、この場で、自覚した。

 緩んで仕方ない顔の筋肉。意識しなければ勝手に吊り上がる口角。かと思えば目尻がゆるゆると勝手に下がり、深呼吸したときみたいに、胸がいっぱいに詰まっている。
 この膨れ上がった感情は、なんだ。・・・・・・いや、分かってる。これは、やっと彼女に会えた嬉しさだった。

「はあ~~~」

 その場に蹲って丸まった。
 じゃないと、逆にその場で飛び跳ねてしまいそうだった。

 今日もう会えないと思っていた彼女に会えた。あれほど暗かった廊下が、途端に明るく見え、足の先にバネでも仕込んだかと思うほど軽やかになっている。

 バナナ売りの鋭い声を思い出す。医療班員の淡泊な声も。そして、先達の針子が呈した苦言すら。

 ああ、そうだ。そろそろ認めた方が良いだろう。彼奴と出会って初めて知るこの感情の名前を。身体をじわじわと侵食する、不思議な高揚感の正体を。

 俺は、思いを遂げねば決して治ることのない、とんでもない病に侵されてしまったのだと。


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