【本編】鬼の幹部が恋をした!

 砂塵で薄靄のかかるカルサーの朝ぼらけ。地平線から覗き始めた太陽の光線が、徐々に寝ぼけた岩戸を照らし始める時刻である。
 そもそもが人気のない、いや人気を感じさせない谷間ではあるが、今日に限って耳を澄ませば聞こえる断続的な金属音。空気をつんざくようなキンッという鋭さは、寒々しい朝に良く似合っている。
 音の正体は、イーガ団アジトの鍛錬部屋にて二人の大男──鬼の幹部と鍛錬班の幹部が、シーカーに伝わる片刃の太刀・残心の太刀での激しい打ち合いが原因だった。

 実は、イーガのアジトでよく見かける光景である。鬼の幹部の日課である朝の鍛錬中、鍛錬班幹部がひょっこりと現れて組手に誘ってくるのだ。幹部役の中でも若手の彼は、よく食べよく寝て元気いっぱいと評判の男だが、時折早くに目が覚めて時間を持て余すらしい。
 今日も「お疲れ様です。一戦どうですか?」と、起き抜けとは思えないほど快活に誘われた。筋トレが終わったタイミングということもあって、鬼の幹部は二つ返事で刀を手に取ったのだ。

 太刀を構えた睨み合いの中、先に動いたのは鍛錬班の幹部であった。はっ、と息の混じった一声と同時に大きく振りかぶった唐竹割り。十字で受け止めて弾き返した鬼の幹部は、すぐさま袈裟切りに移るが身を翻されて当たらない。そのまま切っ先を突き出されたのを鬼の幹部も同じくいなし、流れるように次の一手を繰り出していく。

 一進一退の攻防に見えるこれは、実のところお互いの実力を把握しているからこそ可能な剣戟だ。特に隠密歴の長い鬼の幹部が斬撃を加減することで、ちょうど良い模擬線の体を為している。

 ばふ、と突如広がる煙と共に鍛錬班幹部が姿を眩まし、部屋に一瞬の静寂が広がる。彼が煙と共に改めて現れたのは部屋の奥、障害物として幾つも置かれた木箱を隔てた向こう側だった。
 振りかぶって閃いた刃の瞬き。彼に合わせて同じように刃を振り抜くと、残心の太刀から肌をも切り刻む風の刃が放たれる。二人がほぼ同時に放った一陣の風は見事に真中でぶつかり合い、消滅と共に周囲を巻き込む暴風となった。

 びゅう、と鋭い空気の音が耳を過ぎる。身体が傾ぐほどの風圧はお互い様で、環境を味方に付けることが隠密で生きるための鉄則である。風が収まりきらない間に、鬼の幹部がもう一度大げさな動きで刃を振り抜くと、咄嗟に相手も合わせた動きで太刀を振る。放たれた風がぶつかり、再び暴風を巻き起こす直前が好機。
 かまいたちがぶつかり合った暴風の中へ、鬼の幹部は飛び込んだ。彼は巨漢ぞろいと言われる幹部役の中で一、二を争うほどガタイが良い。鍛錬班幹部が風圧に負けぬよう腹筋に力を入れる間、ぬっと目の前に現れた鬼の幹部が、一切の揺れなく太刀を構えて突進してくる。体躯を活かした戦法に意識を取られた若造が急いで対応を試みるが、もう遅い。
 ばふ、と彼の目の前に札を放って、煙を散らした。彼の視界を奪うためだけの札だ。
 気配を消した瞬間に背後へ回る手法は、世間で言えば卑怯で姑息な手段と言われるかもしれない。しかし隠密集団の手としては鮮やかであり、だまくらかしこそが至上。真正面からの斬り合いに乗っかった鍛錬班幹部の青臭さは、鬼の幹部に言わせてみればまだまだヒヨッコの証なのである。

 がら空きとなった背中に掲げるのは鈍く光る銀の太刀。貰った、と刃を振り下ろそうかという直前。彼の視界に飛び込んできたのは思ってもみず、よくよく見覚えのある色だった。
 鍛錬班幹部の頭巾のてっぺんだ。まだ若い時分にハイラル中を回っていた折、どこかの山で見かけた桜の花。その一枚の花弁が揺れもせず落ちもせず、真っ赤な頭巾の上へ乗ったままとなっている。
 違う。桜の花弁じゃない。その花弁様のものは、糸で縫われたものだ。桜色の糸で丸い形に糸が連なった・・・・・・所謂、刺繍だ。
 気付いた瞬間、身体中からぶわっと冷や汗が噴出す。主に顔回りが熱くなり、そして急激に冷えていく。しかし耳と頬には熱が残ったままだ。どれほど体躯を動かしても熱なんて残りはしなかったのに、幼少期に風邪を引いたときのようにぽっぽっと発熱してしょうがない。
 反射的に頭へ浮かんできたのは、最近イーガへやってきた新人針子の顔。自分の姿が鏡のように映る、朴訥に見開かれた丸い瞳だった。
 鬼の幹部に現れた一瞬の隙を現役の幹部が見過ごすわけもなく、肘を突き出しながら振り返り、回転を活かした攻撃の一手──腕に仕込んだ鉄製の荊が脇腹を掠めていく。
 肌膚が割かれる感覚。鬼の幹部は久しく感じていなかった鋭い痛覚の刺激に、仮面の下で微かに顔を歪めた。

 あっ、と相手方から緊張感の切れたような素の声を耳にしながら、鬼の幹部は大きく後ろに跳躍する。
 神経を尖らせたまま改めて太刀を構えた彼とは反対に、視界に飛び込んできたのは地面に向けられる刀の切っ先。彼は、予想外に先達へ一撃食らわせてしまった事実に、動揺してしまったらしい。
 集中が途切れた以上、これで終わるしか他にない。ふぅ、と一度大げさに肩で呼吸をして手の平の力を抜けば、組手終了の空気が鍛錬部屋に満ちていく。

「今日はここまでにするとしよう。そろそろ皆が起きる頃だ」
「そうですね、そろそろ。・・・・・・珍しいですね、俺から一撃もらうなんて。いつもなら余裕で躱すでしょうに。何かありました?」

 イーガに所属する全ての団員が腕に仕込む鉄の荊は、近接戦闘において優秀な武器であり、振り向きざまに肘を突き出す奇襲は団員がまず初めに身に着ける所作の一つだ。
 即ち、見慣れたはずの同輩がこの一手の餌食になることなどほとんどあり得ない。いくら幹部が相手と言えど、対処など造作もないはずだった。

 掠っただけとはいえ、対処が難しくないはずの一撃を食らった。それも鍛錬を怠らず、現場仕事で鍛え上げた歴の長い鬼の幹部がだ。若手の幹部が気を回すのは当然だろう。
 何気ない配慮の声に、鬼の幹部は「あー・・・・・・」とだけ唸った。真剣なイーガの瞳から視線を逸らしてしまったのは、彼が自分に対してそれなりに敬意を覚えていることを理解しているからである。
 そんな相手に、まさか神聖な鍛錬の場で女の顔がよぎったからだとは口が裂けても言えない。

「いや・・・・・・少し、調子がな」
「大丈夫ですか?今はコーガ様ご不在で、幹部殿の比肩に業務がのしかかっている状態です。大事に至る前に休んだ方がいいんじゃ?」
「休みを取るほどではない。・・・・・・貴公の心遣い痛み入る」
「なら良いですけど・・・・・・。しかしその傷、どのみち医務室へ行きますよね?ついでに相談したら良いんじゃないですか?」

 ほら、それ。と指さされた場所に視線を落とすと、脇腹の辺りで装束が横に割け、微かに血が垂れている。
 厚い筋肉の壁があるためもちろん致命傷などではないし、痛みもそれほどではない。普段であれば白布を一枚噛ませるだけで、わざわざ医務室に向かうことなんてあり得ないかすり傷だ。
 この程度、と言いかけて、しかし鬼の幹部ははたと考え直す。

「・・・・・・そうだな、良い機会だ。ついでに聞いてみるとするか」

「そうですよ!何かあってからじゃ遅いですからね」と頷く幹部に、演習用の業物を託す。先達への敬意が籠った綺麗な会釈に、鬼の幹部は「ではな」と踵を返した。
 外では太陽が徐々に頭上へと昇り始め、カルサーの岩戸内にも朝がやって来る頃合いである。岩戸内では感じられない太陽の気配を頭に描きながら、鬼の幹部は軽い足取りで医務室に向かっていった。







 実はこのところ、先ほど身に起こったような身体の異変が度々続いている。
 不意に訪れる動悸、心臓の痛み、顔の火照り、寝つきの悪さに加えて、時折胸が酷く苦しくなるような異変だ。思い当たる原因があったり無かったりもするのだが、そんなのは気のせいに違いないと見て見ぬふりを続けていた。
 それに、もしやそれこそが自分自身の思い込みであり、なにかしらの病気を患ってしまった可能性が無きにしも非ず。

「恋の病ですね」

 しかし幹部の淡い期待とは裏腹に、木の椅子を軋ませながら振り返った医療班が告げたのは、単純な一言だった。

「・・・・・・は?」
「幹部殿の仰る症状全てを満たすのは恋の病です。お疲れさまでした」

 口を挟む余地すら与えずに言い切る男に、突きつけられたラベルの意味を理解できない幹部は、ただ動かずに彼を見返すだけである。

 鍛錬で受けた傷を処置された後、ここ最近自らを悩ませる不調について洗いざらい喋って下された診断がこれだった。
 恋の病。大の大人が聞くにはなんとも恥ずかしく居たたまれない響きをもつ言葉である。
 今にも掴みかかりそうな衝動をなんとか抑え、鬼の幹部はグッと前のめりに医療班へ迫った。

「貴様、バカにしてるのか? 恋の病だと? ふざけるのも大概にしろよ。この俺が恋の病だと?」

 脅しに近い不機嫌な声に、「ふざけてなどいませんよ」とこれまた不服そうに一言漏らした構成員は、無遠慮に足を組んでみせる。

「動悸に心痛、顔の火照りと寝つきの悪さが、とある女性と出会った頃から始まって、極めつけは彼女のことを考えると胸が苦しくなるんですよね? 逆に恋の病以外に何かありますか?」
「だから、それを聞きに来たんだろ。何か別の病が隠されてるんじゃなかろうかと・・・・・・」
「無いです。恋の病です。お疲れさまでした」

 こちらは真面目にどうにかしたいと考えているのに、なんだその態度は。惚気を無理やり聞かせられた、とでも言いたげな言葉遣いに「お前なぁ・・・・・・」と苦言を漏らすが、カルテに筆を走らせ始めた彼は一切聞き入れない。

「まぁ、平たく言えばストレスですよ。最近は特に忙しくなさってますし」
「ストレス?」
「幹部殿が仕事大好き人間なのは分かっていますが、だからと言って最近はコーガ様代理として負担が大きくなってますからね。ほどよく休暇をとったりスッキリできるようなことをしないと潰れますよ」

 幹部の顔色を伺い、遠回しな物言いをする人間が多い中で「潰れますよ」というストレートな言葉は重量がある。
 休日らしい休日はなく、睡眠時間も削られ、決めねばならないことが山のようにある。責任感の重さが段違いなのだ。医療班の言葉は、身体面・精神面全てにおいて、幹部の図星を射抜いていた。
 目線を逸らしながら「・・・・・・うむ」と唸れば、納得していないと受け取られたのか呆れたため息が聞こえてくる。
 医療の心得が無い者にとって、医療班のため息は心臓に悪い。

「そういう意味では、忙しい仕事の最中に恋の病ってのは丁度良いもんです。何事も意識は分散させた方が自分を俯瞰できますから。謹厳な幹部殿にとって良い息抜きになるはずですよ」
「・・・・・・体に不調があるんだが」
「今だけです、今だけ。慣れたら丁度良い刺激になります。でも、のめり込むのは避けた方がよろしいですよ。なんせ叶わなきゃ不治の病ですし。年齢的にその先もお考えでしょうが、成就させたいんだったら距離感を考えることをお勧めします」
「だから、そういうんじゃ・・・・・・」
「相手が誰だか知りませんが、真面目過ぎるのは相手にとって重いこともありますからね。仕事と恋とストレス解消の三すくみ、しっかりバランスとって行きましょう」

 何を言っても恋の病と断じる医療班にどう足掻いても無駄だろう。それでなくともなぜか惚気を無理やり聞かせた体になっており、プロたる医療班員の機嫌を若干損ねている。

 とりあえず話を終わらせたくて「肝に銘じる」とだけ小さく呟けば、彼もそれで満足したらしい。「お大事に」と軽やかな挨拶によって無事に会話は締められた。
 すごすご戸口へ向かうと、最後に「鬼の幹部殿が恋か~」などと耳を掠めていって振り返りそうになった。が、彼は矜持のある幹部役。いつまでも診断結果に対し不平不満を繰り返すわけにいかない。
 グッと拳を握って沸き立った衝動を堪え、大人しくその場を退散することにした。

 医務室を出ると、今日こそは夜番がしっかり仕事をこなしたのか俄かにアジト内が活気づいている。既に大半の人間が業務に就き始めた時刻で、幹部もそれに倣わなければ、さすがに交代番から文句を言われかねないので足早に移動する。
 暗い岩廊下を歩く最中、彼の眉間の皺の深さに気付かないまま「おはようございます、幹部殿」と横切っていく団員たちへ、生返事を返しながら考える。さきほど医療班に指摘されたこっぱずかしい病についてだ。

 恋の病。まさか医療の心得ある人間に、大真面目な顔をしてそんなくだらないことを言われるとは露ほども考えていなかった。
 確かに、諸症状に悩まされ始めたのは、とある女に出会ってからだと口を滑らせた。滑らせた、というかしつこく聞かれたから答えざるを得なかった。その瞬間、前かがみになってニヤけ声に憚らなくなった、あの医療班員の態度といったら今思い出しても腹が立つ。

 不調の原因が縫製班の女に帰結していることは何となく察しがついていたが、「恋」という不明瞭かつ奇々怪々な名前を突き付けられるとは誰が思ったろうか。
 イーガに務めてきて何十年、自分にそれは無関係だった。何人もの先達が家庭を築き、隠遁村に居を移してから子供の話しかしなくなっても、それらは全て別世界の話のはずだった。
 このまま主君を支え、イーガそのものの宿願を果たすために身を捧げ、命を費やすことこそが自分の本懐。個人の思いなどなく、いや自分個人の思いがまさにイーガの抱く思いと同じであり、国家転覆をひた狙う暗殺の信徒であった。はずなのに。

 いやしかし、恋とは突きつけられたものの、むざむざと認めるわけにはいかない。なんせ彼は主君のいない間の総括役。そして鬼を冠する男なのだ。
 重い空気を纏い、自他への厳しさに憚らない男。そんな男が、己を律せない証左ともいえる恋に現を抜かして良いだろうか。否。断じて否。

 自分の不調は、恋などという訳の分からないものではなく、ストレスによるものだろう。そのストレスは件の新人があまりに隠密らしからぬ女だったからだろう。
 自分の持ち場へ到着する前に、彼の思いはこのような結論を迎えた。この年代の男は医者の言うことを素直に認められない輩が多いのだ。無論、偏見である。

 ここ最近は地底班との橋渡しに、アジト内部署の管理、新人の動向調査、各部署から上がってきた報告書のチェックに、普段の守衛番と商業班としての業務もおこなっていててんやわんやだった。それに加えて日課の鍛錬も欠かしていないのだから、そもそもが趣味のない男だったとしてもあまりに自分の時間がなさすぎる。
 要するに根を詰めすぎていたのだ。恋の病と言われたのは聞かなかったことにするにせよ、医療班への相談は自分を見つめ直す良い機会になった。
 まずはストレス解消とやらに注力するべきだろう。しなければならない。してやるぞ!と思いを新たにしたのが、既に半月ほど前の話。

「だからって滝行たあ、旦那も物好きでさーね」

 まるで理解できない、とばかりに呆れた声で長話の感想を漏らしたのは、守衛の任を肩代わりしていたバナナ売りだ。

 医務室で診断を受けた鬼の幹部が、物は試しと始めたストレス解消は既に多岐にわたる。
 最初は鍛錬での打ち込み、次にカルサー谷での走り込み、それからゲルド砂漠でのサウナ体験に、ツァボ雪原での寒修行。扮装の上、カラカラバザールで食べ歩きという豪遊をおこなったのも記憶に新しい。
 常人にとってはストレス発散というより新たなストレスを得るつもりかと疑わしい内容もある。今回の滝行もそのひとつであろう。冷たく痛い滝の水を浴びにわざわざ遠出するなんて、享楽主義揃いの商業班員としては耳を疑う行動だった。
 ちなみに、彼が自分の時間に勤しむ間の守衛番は、駄賃を掴ませた上で商業班員に順繰り任せている。金を払った上で事実上の修行三昧なのだから、輪をかけて彼は奇異な目で見られているのだが、本人は知る由もなし。
 朝も早よからよおやるわ、と呆れた視線で出迎えられた鬼の幹部は、しかし今までになく晴れやかな仮面の表情であった。

「ストレス解消には今までで一番良かったぞ!何やら煩悩が全て洗い流された気持ちだ。帰りの道中で装束も乾くし、滝行は俺に合っていたな」
「そろそろ世間様は冬を迎えるってーのに、ちょいと始めるのが遅すぎたんじゃないですかい?」
「何を言う、俺は冬もやるぞ。あのキッとした冷たさが良いんだ。夏じゃあただの水遊びにしかならんだろ」
「俺としてはこの前やった札遊びも盛り上がって楽しかったですがね。若い衆のストレス解消といったらアレですよ、旦那」

 ストレス解消に何をしたら良いか、という相談を持ち掛けたときに、いの一番で提案されたのが札遊びだ。娯楽の少ないイーガ団アジト内ではもっともポピュラーな暇つぶしであり、相撲や喧嘩と違って体格の違いによるハンデがない。物は試しに商業班員を集めて何度か興じたのは、何日前の話だったか。
 その時、ルピーを賭けようという商業班の提案を飲んでしまい、負けに負けて大損こいた。ビギナーズラックで何度か勝利を収めていたので、調子に乗ったがのが裏目に出たのだ。ルールを知らなかったズブの素人が、心理戦を得意とする販売員に勝てる見込みなどハナからあるわけもなく、一杯食わされたと知っても後の祭りだった。
 仮面の下でどれほど自分をあざ笑っているかも想像がつき、悔しさに拳を震わせながらルピーを机に叩きつけたことを思い出す。「あれは二度とせん」と、鬼の幹部は苦虫を嚙み潰したような声で吐き捨てた。

 けけけ、と嫌な笑みで逃げていく男の背中を睨んでいたが、ここからはお互いに業務の時間となる。鬼の幹部は鼻を鳴らしながら玄関ホールの中央部に上った。
 守衛番として彼の定位置であるそこは階段が設けられた高座となっており、円状である玄関ホールの壁で物販をおこなう商業班や来訪する人間まで一望できる見晴らし台として利用されている。
 古代ゲルド七賢者の巨像の視線が一点に混じる仰々しい場所で、本来は祭壇かなにかに使われていたのだろうが、武闘派隠密脳筋集団がそのような歴史的ロマンチズムに思いを寄せることなどありはしない。

 彼が燭台に囲まれた見晴らし台に仁王立ちすると、それまでどこか緩んだ空気が蔓延していた玄関ホールがピッと引き締まる。鬼の幹部は厳しく、どれだけ巧みに業務をサボろうにも彼に見つかってしまうので、「背中に目でもついてるんじゃないか」と商業班の間ではもっぱらの噂だ。
 こうして高台から見回していると、久しぶりにすっきりと心が落ち着いている感覚が如実にあった。きっとそれは滝行で煩悩が洗われたからに違いない。と、皮膚全部を持っていかれるほどの水勢を思い出しながら考える。
 やはり自分の体調不良はストレスに起因するものだったのだ。新人針子へ抱いているのは恋の病なんてものではなく、むしろお荷物が増えたことへの危機心理。彼奴のような困った輩の面倒もみなければならなくなったことへの疲労感。
 そうだ、そうに違いない。一人でうんうんと頷いていた鬼の幹部はそこまで考えて、「そういえば」と一つの用事を思い出す。

 「おい、ちょっといいか」と、すっかり持ち場についていたバナナ売りを手招きで呼ぶと、「よっこらせ」と立ち上がってゆるゆる近づいてくる。面倒そうな素振りを一切隠しはしないのだから、やはり心臓に剛毛が生えている。

「縫製班の団員は来てないか? 装束の直しをひとつ頼んであったんだが」

 鍛錬部屋での演習時、鉄の荊で貰った一撃による傷は、肌だけでなく装束も切り裂いた。
 前回の修理依頼から日が浅いため、すぐさま縫製班に装束を持ち込むのが憚られた幹部は、様子を見てつい昨日割かれた上着を預けたのだ。
 手がいっぱいなので次の日・・・・・・つまり今日に返すと、ベテラン針子から呆れ気味に言われたことを思い出した。

「俺が立っている間は何も来てませんね」
「そうか。ではこれから来るのだろうな。今日には返すと針子から言われた」
「針子と言やあ、あの尻の刺繍はどうなったんです?ほら、ピンクのハートの、キュートなやつ」

 仮面越しに口元を抑え、含みを持たせた笑い声。揶揄している事実を隠そうともしない。
 商業班員の悪い癖だった。いや厳密に言えば、歴の長い構成員にはおしなべてそのような傾向が見て取れた。普段は隙を見せない幹部の弱みとして、日常の鬱憤をそんなところで小さく吐き出していくのだから始末が悪い。
 享楽主義者共の思惑に乗ってやるものかと、毅然とした態度で幹部は鼻を鳴らした。

「預け直して既に戻ってきている。今着てるこれがそれだ。珍妙な刺繍は跡形も無いだろう」
「あぁ、本当ですね。よく見れば刺繍で塞がってら。上手いもんだなぁ」
「何度も言うが、あれは新人針子が勝手にやったことだからな。珍妙な形も、ピンクの糸も、俺は全く、無関係だぞ」

 あの一件以来、幹部はムキになってハートの刺繍事件を否定し続けている。特に頻繁に顔を合わせる商業班には、毎日目が合う度に「刺繍と俺は関係ない」と言い聞かせるほど躍起だった。その必死さが逆に怪しさを誘うものだが、だからといって静観し、噂に尾ひれがつくのは我慢ならない。
 毎日の努力により、なんとか商業班の連中は事実として受け入れたらしい。「刺繍は」と言いかけて「はいはい幹部殿には関係が無いんでしょ」と返ってくるようになったので、幹部も漸く安心しかけているところである。
 しかし、尻に刻まれたピンクのハート刺繍は、多くの団員が目にした事実。未だに陰で「鬼の幹部の尻にはハートの刺繍が刻まれていた」と話のネタになることもあれば、根も葉もない噂がアジト内で闊歩している事実を彼は知らない。

 浅慮で阿呆な新人が縫製班にやってきて、自分はそれに巻き込まれた。何度も繰り返された内容にバナナ売りもまともに取り合わず、さっさと歩を進めようとするので怒気が逆撫でられていく。

 「話を最後まで聞け」と燭台に囲まれた見張り台から腕を伸ばした折、たったったった、と人の走る音が聞こえてきて声を止めた。
 こんな騒がしい靴音、イーガでは聞いたことがない。何せイーガは隠密である。足音は元より、気配すら消して過ごすのが常態なのに、この騒がしさはなんだ。
 廊下の奥から徐々に近づいてくる足音。暗闇を湛えた岩廊下からひょこ、と顔を出してきたのは、イーガの仮面を額にかけ、素の表情を晒す例の新人針子であった。

「台座さんお疲れ様です!お直しの装束持ってきましたよ~!」

 素の表情を晒すことも、仕事中に満面の笑みを浮かべていることも、恥ずかしげもなく大声で人を呼ぶことも、全てイーガに背く行為で面食らう。
 いやしかし今回に限っては、それら全ての背信行為より聞かねばならぬ言葉がある。
 台座さん、がなんだって?
 針子が目の前にやってくるまで、耳にしたことのない単語に硬直して動けない。
 壁際で物販をおこなう商業班の「台座さん・・・・・・?」「まさか鬼の幹部の」などというヒソヒソ声で、幹部はやっと我に返った。

「台座さん!今回の刺繍は完璧です!はいどうぞ!」
「ば、ばかものッお前、台座って誰のことだ!?まさかとは思うが俺の事か!?」

 ダンダンと足を踏み鳴らして階段を降り、戦慄かせながら人差し指を鼻先に突きつければ、反対に針子はキョトンと目を丸くして首を傾げる。まるで何も分かっていない朴訥な顔は、初対面で見たときと同じあどけなさだった。

「だって、イーガの皆さんは皆、名前を隠しているでしょう?それじゃあ呼びづらいと思ってあだ名を考えてみました! 台座に立っているので、台座さんです。だめですか?」

 何の疑いもなく見開かれ、純朴な目で針子が自分を見つめてくる。蝋燭の橙色の灯が、彼女の丸くて潤いある瞳に宿っている。そしてその中にはっきりと映る、自分自身の姿。
 まただ。きらきら輝く鏡のような目に見つめられ、そのまま真っ黒な瞳の深淵に吸い込まれそうになる。

 視線、いや意識そのものが彼女の美しい瞳にとらわれる寸前、幹部ははっと我に返り慌てて「仮面をッつけろ!」と針子の額にかけられたイーガの仮面をずり下ろした。
 下ろしたときに鼻の頭を擦ったのかもしれない。「いたいですっ」とか弱く文句を言い、すぐさま仮面を持ち上げた先、確かに小さくて柔らかそうな鼻の頭が、少し赤くなっている感じがした。
 真正面から潤んだ瞳で睨みつけられて、真っ向勝負で自分に不平不満を垂れてくる構成員など相対したことも無かった鬼の幹部は何も言えなくなる。よっぽど痛かったのかと、一瞬頭の隙に申し訳なさが入り込んできた故に。

「だって、仮面を着けたままでは、台座さんが私だって分からないんじゃないかなって」
「わ、分からいでか・・・・・・!貴様のような酔狂な娘、面があろうと無かろうと判別できぬ俺ではないわ!!」
「そうなんですか?台座さんは凄いです! 私は今凄く苦労してるので・・・・・・でも、私のこと覚えてくださってとっても嬉しいです!ありがとうございます!」

 自らの狼狽を打ち消すための大声に対し、ひるむでもなく気抜けしたような表情を浮かべたおぼこ娘は、手を打ってヘラァっと表情を弛緩させた。
 あどけなく赤らんだ顔は、まるでいつか見たハイラルの景色に馴染むリンゴのようだ。決して目立っているわけではないのに、しっかりと視線が誘われる。恥もなく照れた顔が視界全てを奪っていくものだから、幹部が目を見開いて奥歯を噛み締めたのは、ほとんど無意識だった。
 まさか、叱責したにもかかわらず嬉しいなんて言葉が返ってくるなんて誰が思うだろうか。少なくとも、幹部役として従事してきた今まででは初めてだ。やはりこいつは変わっているのだ。イーガは様子の可笑しな奴らが集まってくる場所だとは百も承知だが、こいつの可笑しさは群を抜いている。
 なぜこの状況で笑っていられる。なぜ未だに仮面を取っていられる。なぜ屈託なくありがとうと言い切れる。こいつは、おかしい!

 仮面を軽く持ち上げたまま頬を掻く針子は、素性を隠す隠密の振る舞いが一切身に染みて理解できていないらしい。唐突に「あ、でも」と針子は改めてにこーっと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
 まるで、嬉しいと思っていることを自分に伝えたくて仕方ないみたいに。隠密とかけ離れたただどこにでもいる娘の笑顔が、幹部の極めつけになるなんて思わなかった。

「私も、台座さんのことは分かりますよ。なんてったって我らが幹部さんですからね、一目瞭然ですぐ分かります!」

 その瞬間、今までもざわざわと騒がしかった胸の内が、ドゥンッと一段大きく高鳴った。
 病の原因となった女が、他の人間の判別がつかないと苦労している中で、自分のことはすぐに分かると言った。唐突に痛み出した心臓の辺りを片手でぐうっと掴んだ。せめて肌に爪を立てることで痛みを分散させたかった。しかし事実として心臓の痛みと肌の痛みが二倍になっただけだった。ただただ痛い。鍛錬で刃に割かれる痛みより、よっぽどつらい。

 あれだけ言ったのにまた額に仮面を掛け直して、針子は「はいっ、台座さんの装束、確かにお届けしましたから!」と両手で差し出してくる。それをすっかり猫背になった男が、静々と受け取る。
 ぺこっ、と頭上で結った髪の毛が前下がりになるほど深いお辞儀を向けられ、お針子女は無遠慮に踵を返し、またタッタッタッタと足音高くその場から去っていった。
 走っていく彼女の背中を視線だけで追いかけた。廊下を曲がる際まで、あの娘はずっと仮面を額にかけたままだった。
 ばかものが。あれだけ言ったのに。と心の内では真面目な自分が呟くが、今はそんな奴どうでも良い。体の不調が酷すぎる。

「前々から明るい娘だとは思ってましたが、ありゃあなかなか大変ですね。肝が据わってるというか、マイペースというか」

 突っ立ったまま成り行きを見ていたバナナ売りが、壇上の傍から幹部に声を掛ける。返ってくると思った返事はなく、「ねえ旦那?」と訝し気に仮面を覗き込むものの、幹部は露とも動かない。

 と思えば、幹部が唐突に懐をごそごそと弄り始めた。動向をじっと静観していたバナナ売りに物言わず突き出されたのは、紫色のルピー。
 え、と一言漏らすバナナ売りの手の平にギュッと握らされる。

「だ、旦那、これは」
「守衛を頼む。すぐ帰る」
「は? 守衛?」
「滝行に行ってくるでな。では」

 そのまま有無を言わさずに歩きだした鬼の幹部の背中に、バナナ売りの「また!?」という素っ頓狂な声がかかった。
 もうすぐカルサーには冬がやってくる。肌を突き刺すような冷たさが、少しでも逆上せを鎮めてくれるようにと彼は祈るだけだ。


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