【本編】鬼の幹部が恋をした!
膝に手をついて肩を激しく上下させる針子は、見るからに息も絶え絶えという様子だ。二人での鍛錬を始め、暫くの時間が経った頃のことである。
とはいえ、こうなって当然でもあった。真剣の素振りに始まり、その場での腰落とし、腕立て伏せ、上体起こし、走り込み。あげく短時間のうちに、弓のつがえ方や剣の振り方までも教え込んだ。幹部にとっては日課にすら及ばない寸刻のことだが、普段糸と針しか手に持たない彼女にとって、これが如何にスパルタなトレーニングメニューだか想像に難くない。
しかし一つひとつの鍛錬で、幹部が期待するほどの成果を彼女があげられない。「もう無理です」「腕上がりません」と半泣きの声でぴーぴーと弱音を吐くから、仕方なく次々に別メニューへ移っているだけなのだ。今は「ちょっと……待ってください、台座さん……」と大袈裟なくらい掠れた声で手を翳す針子の言う通り、体力が回復するのを仕方なく待っている。
腰に手を当てた仁王立ちのスタイルのまま、幹部は手に提げた模擬刀でカツンと床を叩いた。
「軟弱者め。お前はそれでもイーガの団員か!」
「だ、だからって急に、こんな……厳しすぎますっ、いくらなんでもっ」
「新人団員の基礎メニューでしかないんだぞ、これくらいで泣き言をいってどうする! せめて最後に素振りをして……」
「あんまり無理したら、このあと動けなくなっちゃいます! まだ繕い物もたくさんあるのにっ」
「む……」
「ちょっと、タンマです。ほんとに、今日はもうおしまいにしてください……! 後生ですからっ」
自らを見上げてくるイーガの一つ目。なぜだかそれが、うるうると涙で滲んでいるように感じられ、幹部の胸に妙な居心地の悪さが迫った。仮面を着けている状態で良かった。水気を帯びた真ん丸の瞳を直視したら、今日一日は立ち直れない後悔に駆られたことだろう。危ない危ない
幹部は面の下で視線を背け、「……仕方ない、今日はこれで終いにしよう」とボソリ呟く。すると、針子は「良かった~」と露骨に安堵を滲ませながら、その場に尻をついた。
「……幹部どの、ちょっと良いですか」
やり取りの隙を縫うように、幹部の背中に声がかかった。
気配を悟らせず端正に佇むのは、先ほどまで櫓の上で方々 に指示を出していた鍛錬班の幹部だった。気の遣える彼のことだ、きっと話しかけるタイミングを逐一見計らっていたに違いない。
いやしかし、彼の後ろに控える構成員たちが気にかかる。ずらりと横並びになるのは、その姿勢の良さからして鍛錬班の団員だろう。全員が全員、両手の指を軽く腿に揃え、まるで師範代を前にする門下生といった姿で立っていた。
何か用か、と彼らの佇まいに応じて、ほんの気持ちばかり凛々しい声で問う。
鍛錬班の幹部は、親指で小さく彼らを指さした。
「折り入っての頼み事なんですが、できればこいつらに、鍛錬をつけてやってくれませんか? 部員同士の組手は限界があるんで、せっかく幹部殿が日中にいらしてるんだったら丁度良いと思って」
言い切った傍から、「お願いします!」と一斉に頭が下がる。謙虚な団員が多いのは、鍛錬班を率いる彼がまじめだからだろうか。と一瞬考えたが、その言は認めたくない。なぜなら商業班がちゃらんぽらんなのは、すべて自分が腑抜けている所為だと言っているようなものだ。
鍛錬。今から。と腕を組みながら、どうしたものかと考える。
針子の鍛錬を見てやった後は、すぐさま解散の予定だった。ここから彼らと組手をするとなると、些か業務を放りすぎてしまう。あまりに遅くなれば、商業班の野暮天どもから「あんた、幹部だからってちいとほっつき歩きすぎじゃありませんか!?」だの、文句を言われそうな気がする。バナナ売り辺りは特に。あの男は、時間と金の勘定に関しては口うるさいのだ。
しかし……。背後で未だ天井を仰ぐ針子へ、視線をくれる。
正直言って、ここまで上手くいっている気がしていない。
そればかりか、むしろ彼女の機嫌を損ねている気がしている。重心の取り方や刀の構え方、矢尻への視線の合わせ方なんぞを丁寧に教えてやったつもりだが、彼女から感心したような言葉も感謝の言葉も聞かれなかった。これでは、ただ彼女を怒鳴り散らしただけ。幹部としては正しい姿でも、一個人として最悪の印象になっていやしないだろうか?
それに棘売りの言葉が蘇る。「組み手をやってるところなんか見せてやったらいいんじゃないですか?」という、あの半笑いの声だ。
自分が如何に頼りがいのある男なのかを知ってもらうためにも、実力ある鍛錬班部員との組手は、またとない好機に違いない。
「……良いだろう、ちょうど時間もある。かかってくるといい」
雄々しく首肯すれば、一同から「よろしくお願いします!」と、割れんばかりの大声で返事が返ってきた。
幹部は鍛錬部屋の一角で、刀を構えた。
手に掴むのは馴染みの風斬り刃で、すぅ……と細く長い息を吐きだし、精神統一をする。鍛錬に入る前に必ずおこなう、儀式のようなものだった。
これからおこなわれるのは、鍛錬班一同による組手演技だ。一日のうちでも何度か取り交わされる鍛錬プログラムだが、鬼の幹部が参加することは珍しい。一種の模範演技として、鍛錬部屋に集まっていた団員の多くが手を止め、固唾を飲んで見守った。
その中には、針子の姿もある。壁際の木箱に膝を揃えて座る姿は、組手の観戦というには行儀が良く見える。休憩がてら見ているといい、と誘ったときは下心が見透かされやしないか変に舌が回ったが、こうやって距離が開くと冷静になれるものだ。
これは神聖な鍛錬の場。しかしそれ以前に、そもそも彼女に良いところを見せたくてここにやってきた。その愚かさを自分は胸に刻むべきだろう。しかし、だからこそ開き直ってやるしかない。せめて結果を出すべきだ。この場を穢すようなものなのだから。
櫓の上から鍛錬場を見守っている件の幹部に視線を遣った。「すまない」という謝罪を込めた視線だったわけだが、彼には準備完了の合図とでも受け取られたらしい。
「はじめ!」
威勢の良い声が響いた途端、発火札の光がぱっ、ぱっ、と幹部の周りで閃いた。
煙幕の隙間からきらりと覗く矢尻がこちらを狙う。正面だけじゃない、後ろも──囲まれた。連携をとる作戦はさすが鍛錬班のつわもの共だが、とはいえこの程度の策を打開するなど、実地で力をつけてきた鬼の幹部にとっては造作もない。
発火札をその場に叩きつけた。ばふ、と破裂した目くらましの煙に紛れ、大きく飛びずさる。するとすぐさま、とす、とす、と元居た場所に矢の刺さる音がした。音は四回。矢を番える時間だ。未だ晴れきらない煙の中から猛然と姿を表すと、ちょうど正面でぶつかった団員が「げぇっ」と仰け反り、体よくラリアットを食らってくれた。まずは一人目。
煙幕の落ち切る前に視線を振れば、ふと影が落ちる。高い位置をとって改めて弓を引く弓兵で、気付いたと同時に矢が空を割いて向かってきた。
近い。が、咄嗟に顔を逸らして、間一髪回避する。団員が着地する瞬間を見計らって模擬クナイを投げるが当たらない。しかし、それも織り込み済みだ。
飛来物に気を取られる間に距離を詰め、大太刀で横なぎに────する前に刃をくるりと翻し、棟で薄い腹を吹っ飛ばした。二人目。
幹部は腕を突き出して振り返る。微かなザザザという小走りの音を耳が捕まえたのだ。ギャンッ、と劈 く鈍い音。腕の鉄板が受けたのは小太刀であった。剣客隊だ。骨にまで響くその一太刀に腕が震えたが、競り合いは体格の差が物を言う。力任せに弾き飛ばすと、後ずさりした団員の胸倉を掴み取り、そのまま投げ飛ばした。三人目。
幾ら徒党を組もうと、煙に巻きつつ後ろから襲われようと、幹部と一般構成員の間には埋められない力量の差が存在する。
一斉に矢を放たれれば大太刀で全てを弾き、逆にかまいたちの刃で諸共吹き飛ばした。真後ろからこっそりと刃を振り上げた団員には、回転をつけて足技をお見舞いした。地面に刺さった矢を投げ返し、団員の仮面に直撃させたのも我ながらよくやったと思っている。
ダンッ。最後の一人が地面に伏した拍子、顔の真横に太刀の切っ先を突き立てた。
「ひぃっ」と情けなく漏れる悲鳴。恐る恐るというようにゆっくり両手が挙がったのを見て、幹部は大きく息を吐く。
降参、並びに鍛錬終了の合図だ。
「そこまで!」
やおら立ち上がると、鍛錬班幹部のしゃっきりした声が部屋に響き渡る。その途端、「おー」という歓声と拍手が部屋のあちこちから沸き起こった。うっすらと浮き出た首筋の汗を手の甲で押さえつつ、辺りを見回す。
胸を大きく上下させながら、四肢をだらしなく投げ出す団員。いちちとかすり傷を押さえながら呻く者や、俯いたまま微動だにしない者もいる。
死屍累々。ここまで大人数の組手をおこなったのは久しぶりだが、一切の攻撃を受けずにやり切った。上出来じゃないだろうか。
いつのまにか櫓を降りていた鍛錬班の幹部が、破裂音のような大きい拍手を響かせつつ、幹部の偉業を讃えてくる。
「いやー今日も苛烈なお手並み、圧巻の一言でした! 部員の貴重な経験になりました!」
「そうか、ならば良かったが」
「また時間があれば、お願いしますね。やはり格上の人間を相手にすると、経験値が段違いですから!」
最後に「ありがとうございました」と締めた鍛錬班幹部は、寝転ぶ団員たちにパンパンと手を打つ。「さ! お前ら次の鍛錬に移るぞ!」と促す彼はスパルタだ。しかしあの屈託のなさが、部下から愛される理由にもなっているらしい。
「ありがとうございました~」というくたびれた合唱に、鬼の幹部は手を挙げて応える。そしてくるりと踵を返した。
さあ、実力は遺憾なく発揮できた。あとは針子の元へ戻るだけ。
これだけの大立ち回りを実演できたのだ、彼女に見直される自信は、充分、ある。
遠目で彼女を見遣ると、針子は先ほどと同じ場所で、ちまりとした同じ格好のまま、自分を待っている。
「針子、待たせたな」
ずんずんと歩み寄ると、第一声が自然と飛び出た。もちろん。自信満々なので。彼女からは「お疲れ様です」と小さい声が返ってくる。
ざわざわと騒がしい胸のまま、「どうだった?」と発した声は上ずってしまった。それももちろん、自信満々だったから。
しかし針子は、幹部の予想に反して肩を竦めてみせた。
「えっと……台座さんって、いつもあんな厳しい鍛錬を?」
敬意。いや違う。憧れ。でもない。
様子を窺うような声に漂うのは、不安、が一番正しいか。
「そ、うだな。基本は一人だが、たまにな」暖まった喉のまま明るい声を出すのは場違いな気がした。無理やり声色を調整しつつ、幹部は曖昧に頷く。
「たまに、ああやって人のことを投げ飛ばしたり、鍛錬でも真剣で戦ったり、思いっきり蹴ったり……ってことですか……?」
雲行きが怪しい。
事実なので「まぁ……」と一言応じると、腹の前で組んだ彼女の指先が、きゅっと小さく強張った。
「怖い……」
「えっ」
「だって……痛そうです、鍛錬って、練習じゃないんですか? 血も出てたし……私も台座さんとお手合わせしたら、こうなっちゃうってことですか?」
幹部は慌てて首を振った。
「いやっ、違うっ、彼らは鍛錬班で、お前とは違うだろ! あれはその、本気でやるからこそ実力がついてだな! 仕方なく」
「そう……なんですね。でもちょっと、すごい勢いだったから、びっくりしちゃいました」
針子の声に笑みが乗る。いや、正しく言えば、口端を持ち上げたときの声、というだけだった。声音にははっきりと疲労が滲み、なんと言えばいいのか迷うような気まずさが漂っていた。明るくて元気いっぱいな彼女から発される初めての音に違いない。
「……台座さんとは鍛錬したくないなぁ」
ガンッ。くぐもった言葉が、幹部の頭を直撃する。
「あっ、私そろそろ行かなくちゃ! きっと先輩も待ってるし……台座さん、今日はありがとうございました! 失礼します!」
返事も待たずに針子は踵を返す。逃げるように去っていく小さな背中を留めることもできず、幹部は彼女を見送った。
僅かに浮き出ただけなのに、汗の揮発は体温を奪っていく。幹部はこのとき、雪山に放られたみたいに寒くて仕方なくなった。
■
会釈を送る鍛錬班部員に一瞥やって、鬼の幹部は部屋を後にした。
時刻は、そろそろ昼餉がピークとなる頃だろうか。玄関へ向かう道中、数人の団員と廊下ですれ違った。「幹部殿、お疲れ様です」と声を掛けられるが、幹部はただ真っすぐに前を見つめて生返事すら返せない。すれ違ってから背中を覗きこまれていたわけだが、そんなのにも一切気付きはしなかった。
頭の中でぐるぐると回っているのは、どこか悩ましい針子の声と、彼女が発した内容だ。
『怖い……』
『すごい勢いだったから、びっくりしちゃいました』
『……台座さんとは鍛錬したくないなぁ』
ひとつずつ思い出す度、心臓がぎゅ、ぎゅ、と両手で絞られるようにキリキリ痛んだ。
あの怯えたような声。まるで野獣やマモノに対して喋っていたようじゃないか。幾ら色恋沙汰や、異性の機微に疎い幹部だったとしても、彼女の反応にどんな意味が含まれているかくらい察せられる。
やりすぎた。そして、彼女にドン引かれたのだ。
「……はぁ」
ため息と共に自然と肩が丸まった。情けない姿だったとして、普段通り背中をぴんと伸ばす体力が残っていない。自分自身を見て見ぬふりするしか他になかった。
玄関へ戻ると、朝に出掛けたときよりガランとしている。出入りの団員がいないのはもちろんのこと、商業班員もほとんど離席しているようだった。
昼餉の刻というだけでなく、商業班の部員には、行商人との交渉だとか物資の搬入だとか、離席するに足る理由が数多く存在する。バナナ売りは最近の欠品続きをどうにかしようと足掻いているようだし、弓屋や武器屋も、流通班との相談で物販を空けることは別段珍しいことじゃない。
とりあえず一人でも玄関に残っていれば問題ない。とはいえ、その残った一人が問題である。今一番会いたくない人物の棘売りだ。より一層、玄関ホールに進む脚が重くなった。
それでも、じゃり、と玄関の床を踏みしめる。こういうときほど目敏く気付くらしい。棘売りが手を振る姿も視界に入るが、幹部はグルンと視線を背ける。酷く露骨に。
そのままズンズンと持ち場に向かい、腕を組み、門を睨みつけ────と思ったら。
「幹部殿、幹部殿ぉ」と背後から聞き覚えのあるねっとりした声が耳に入った。
それでも無視して前を向き続けていると、下からぬっと細い腕が現れる。無理やり視界に入ってきてはゆらゆらと手招きするのだから、いまいましい。
「……なんだ。何か用か」自分でも驚くほどぶすくれた声が出た。
相変わらずの猫背で突っ立つ棘売り。その背後に、失敗を悟った瞬間の光景が流れていくようだった。針子の縮こまった肩。逃げるような足取り。いやしかし、失敗した事実と彼からの助言を紐づけたくはない。失敗したのはあくまで自分の振る舞いが良くなかったのだ。そんなの大人のするべきことじゃない。そんなのはきっと、責任転嫁というやつだろう。
幹部の健気な配慮を意に介さず、棘売りは「ひひひ」と引き攣り笑いを漏らす。他人の神経を撫で上げるような、あの声だ。
「いやー、どうだったのかなと思いまして。こんだけ遅かったんだ、試したんでショ? 聞かせてくださいよ~こういうときは結果を報告するもんでしょ」
「……なぜ報告せねばならん。貴様に言う筋合いなどなかろう」
「あれっ、その反応、もしやダメだったんじゃないスか? さっきの話をまんま鵜呑みにして試した、とか!?」
口元をぱっと押さえてみせる棘売りに、幹部は思わず顔を上げていた。
「……どういう意味だ。お前が、組手でも見せて強いところをアピールすれば、なんて言ったんだろ」
「え!? ほんとに試したってこと!? いや~だって、まさか本気にするなんて! ほんとの本気で、民間人だった娘っ子に血なまぐさい取っ組み合い見せたんスか!? アピールのつもりで!? そりゃこえ~よ!」
ひゃひゃひゃと膝を叩いて棘売りが笑う。玄関ホールの高い天井で反響し、エコーを帯びるその声。まるで幹部の頭の中に入り込み、頭蓋の中で反響しているような錯覚を覚えた。
こいつの言ったことは舌先三寸でしかなかったのか。ちょうどいい玩具として、自分をおちょくりたいだけ。俺はまんまと、その与太言に乗っかってしまった。
こめかみに青筋が浮く。幹部は一気に沸騰した怒りの情動のまま、棘売りの胸倉をつかみとって引き寄せた。
「貴様、もしやこうなることを見越していたのではあるまいな。わざと俺が失敗するように仕向け、貴様の愉悦を満たすために」
仮面の裏で呟かれた声は、まるで地獄と繋がると噂される深穴の底から這い上がってきたかのような迫力がある。
さすがの棘売りも「ぐ……」と苦し気に唸り、白旗を上げるようにそろそろと両手を挙げた。へへへ、と続けた声は笑ったわけではなく、幹部の射殺すような空気に怯えて引き攣った喉の音だ。
「い、いやだなぁそんなわけねぇって……俺はあんたに、上手くいって欲しいから助言しただけで……」
「戯言を。今しがた貴様が言ったんだろう、本気にするとは思わなかったと。詭弁であると自覚もあろうな」
「あ、あくまで俺は提案で、それを採用したのはアンタでしょ!? 俺になすりつけねえでくださいよ、台座さん」
「その名前で、呼ぶな」
かつ、と仮面をぶつけて直接怒りを流し込む。しかし返ってくるのは、やはり喉の奥で引っ掛かっているような息の音だけだ。
もはや一触即発だった。怒りを越えたこの激情はもはや害意であって、それがぐつぐつと煮立っている自覚もあった。寸でのところで吹き零れないのは、正に棘売りが言った通り。自分の選択によって招いたことだと、うっすら分かっているからだった。
痛みを感じるほど顔を顰めたのはいつぶりだろう。自らの感情を律しないのは隠密の人間としてあるまじき。しかし、掴み上げた拳を諫める理由に辿り着けない。
こいつは昔からこうだ。自分が楽しければ上司だろうが仲間だろうが知らんふり。業務での成果を上げることよりも自分の愉悦を優先する。むしろ、幹部役に舐めた態度をとるなと、説教の一環で一発殴ってやった方が良いのではないか。こいつの態度は、いつか大きな失態を犯しかねない。その前に、一度大きな雷を落としておいた方が、イーガの益になるのではないか────。
「あーーーッ!! 台座さん! ダメです! 何してるんですか! 仲間割れは良くありませんよっ!」
その声は唐突だった。玄関ホールに、聞き覚えのある甲高い声が響いた。
バッと声のする方へ顔を向ければ、廊下の先にいたのは針子。先ほどまで一緒にいた、新人の針子だった。
「針子!」と素っ頓狂な声が出る。なぜここに、どうして今。惑う合間にも針子がテテテと小走りで近寄ってきて、すぐ傍まで来た、と思ったら、彼女がやにわに幹部の剛健とした腕をバシバシと叩いてくるではないか。
「ダメですっ、台座さん! 鍛錬場でもないのにそんなことしちゃいけません! 離してあげてください!」
そんなことを強気で言ってくるのだから、幹部は目を剥いた。この娘の物怖じの無さはどうなってるんだ。別れ際の怯えたような声は、どこにいった?
しかし幹部は、言われた通りパッ、と手を離す。すぐさま首を擦って距離を取る棘売りと入れ違いに、なぜだか針子が詰め寄ってくる。幹部は彼女が胸に突き立ててくる人差し指の圧におされ、仰け反った。
「なんで喧嘩してるんですかっ? もしかしてこんなところでも鍛錬してるって言うんですかっ!?」
「いや違う。こいつがあまりにふざけているから、その、指導の一環で」
「その指導の仕方はどうかと思います! 外から疲れた皆さんが帰ってくる場所なのに……怖いです! ダメですよ!」
怖い。また言われた。プリプリ怒ってみせる針子に悪意は無いのだろうが、この「怖い」という言葉はどうも、胸にズキンと来る。
すっかり敵愾心 を折られた幹部は「……肝に銘じる」とぼそりと呟く。針子はふんすと鼻を鳴らし、「その方が良いと思います!」と腰に手を当てた。全く、なんという団員が入ってきたというのだろうか。
気まずさもあって「……それで、お前はなんでまたここに……」と話の接ぎ穂を差し出せば、針子は「あっ、そうでした」と、張りつめた声の圧を緩めてみせた。
「これです、先ほど頼まれた布を持ってきたんです! どうぞ!」
差し出されたものを素直に受け取れば、どうやら先ほど預けた布ではない。「ちょっとボロボロすぎるから、新しいの持って行ってあげてって言われたんです」と言葉を付け足される。やはり玄人の目から見ても直し難かったかと、穴の開いたぼろぼろの磨き布が頭の中に蘇る。
感謝と労いを伝えて用事は終いかと思いきや、「それで、あのぉ……」と針子が手を組むので、幹部は首を傾げた。
「まだ何かあるのか」
「実は、だい……幹部さんに、お願い事があって」
「……お願い?」
「はい、でも個人的なことだから大丈夫かなって。……いいですか?」
お願い。それも個人的な。
思ってもみなかった唐突の展開に、幹部は仮面の下で目をぱちくりさせた。
「ああ、いいぞ」と言いかけて、針子の背後に棘売りが立ったままなのに気付く。じっと恨みがましく喉を押さえる棘売りに布を押し付け、派手にシッシッと手で払う。男の丸い背中が仕方なさそうにノロノロ去っていくのを見送った後、幹部は改めて「いいぞ」と頷いた。
手壁を作った針子に応じ、咳ばらいをしてから少し屈む。存外近くて落ち着かないが、確かに棘売りには話を聞かれたくない。
「……で、お願い、というのは」
幹部の潜ませた声に呼応したのか、針子も内緒話をするようにこそこそ喋り出した。
「私、編み物をしてるって言ったと思うんですが、実は……あと少しで完成なのに、毛糸がちょっと足りないんです! どうしようかなって思ったんですが、これから冬に入るし、この辺りを歩く行商人でも持ってるかもしれないって聞いて、だから、買いに行こうと思ってて!」
「ふむ」
「でも、外には魔物がうようよいるし、私一人じゃ出られなくて……。だから、外回りをしている団員さんに着いていけないかなって。どなたかに頼めませんか?」
「代わりに、誰かに購入してもらうよう頼むのでは駄目なのか?」
「うーん……糸の種類とか、色とか細さもあるので……なるべく私が見たいんです」
そこまで聞いて、幹部は「なるほど」と唸りながら腕を組む。
イーガは隠密武闘派集団。内勤といえどほとんどの団員が鍛錬に勤しみ、たとえ魔物と遭遇しても対処に困る人間など一人もいない。しかしそれは新人を除いての話だ。
これからどれほどみっちり鍛錬をおこなったとして、彼女が一人で魔物に対処できるようになるには、当分先の話だろう。そうなれば毛糸の時節は過ぎ、行商人から手にいれるのは難しくなってしまう。購入の機会はまた来年だ。
確かに彼女が提案した通り、外回りの団員にくっつかせるのは、理に適っているかもしれない。
いや、しかし。────行商人、か。
『旦那も商業班なんだから、この際勉強してつかーさい! そうだ寒さをどうにかするクスリとか、食いもんとか、見つけてきたらどうです? 行商人捕まえてくるとかして!』
昨日、バナナ売りが放言した言葉が蘇る。
幹部は暫く考え込んだ後、「よし、分かった」と胸を張って答えた。
「その頼み、俺が着いて行こう」
えっ、と素っ頓狂な声を出す針子に、幹部は続けた。
「実は商業班のやつらに行商人との交渉を頼まれている。お前の用事も同時に済むなら丁度良い。日を合わせて一緒に行けば、一石二鳥だ」
「いいんですか? でも、台座さんって、忙しいって聞いたし……」
「忙しいのは事実だが、行商人との交渉について詳しくなれと言われたんだ。いわば業務の一環。こればかりは仕方あるまい」
肩を竦めると、針子は仮面越しにも分かるほどポカンと呆けてみせた。それから大きく息を吸って、「ありがとうございます!」と元気よく放った。指先を膝に揃えたお辞儀は、彼女が見せる最大限の敬意であった。
居直った針子は、改めて嬉し気に華奢な肩を持ち上げて、こてんと首を傾けてみせる。
「台座さん強いし、安心ですねっ」
最後に付け足された言葉。言う者が言えば、きっと単なるお世辞にしか聞こえなかったのだろう。
しかし他でもなく、針子が口にした。鍛錬を怠けてることすら嘘の言えなかった、あの針子だ。朗らかな柔らかな声音というだけでも心が絆されるようなのに、幹部ははっきりと、それまでにこびりついていた後悔の塊が溶けてなくなっていくのを感じ取っていた。
外出の相談は、また日を改めて……。針子はそう言って、小さくスキップしながら玄関ホールを去っていく。
最後にぺこりと頭を下げた彼女に極々小さく頷き返す。そうして廊下の奥へと消えていく彼女を最後まで視線で追っていた幹部は、正直鼻歌でもうたいたい気分になっていた。
「どわッ、お前、なんだ。そこにいたのかッ」
「……」
ゆらり。正面に視線を戻した幹部が目にしたのは、こちらをじっとりと睨む棘売りであった。
自分の持ち場へ戻っていったはずでは? どぎまぎ騒ぐ心臓を悟られないよう、声だけは勇ましく「なんだ、何か言いたいことでもあるのか」と顎をあげる。
棘売りは、すう、と深く息を胸の中に落とし、威嚇するように放った。
「デートじゃん、死ねッ」
ありったけの怨恨が籠った濁声が、玄関ホールに響き渡った。
とはいえ、こうなって当然でもあった。真剣の素振りに始まり、その場での腰落とし、腕立て伏せ、上体起こし、走り込み。あげく短時間のうちに、弓のつがえ方や剣の振り方までも教え込んだ。幹部にとっては日課にすら及ばない寸刻のことだが、普段糸と針しか手に持たない彼女にとって、これが如何にスパルタなトレーニングメニューだか想像に難くない。
しかし一つひとつの鍛錬で、幹部が期待するほどの成果を彼女があげられない。「もう無理です」「腕上がりません」と半泣きの声でぴーぴーと弱音を吐くから、仕方なく次々に別メニューへ移っているだけなのだ。今は「ちょっと……待ってください、台座さん……」と大袈裟なくらい掠れた声で手を翳す針子の言う通り、体力が回復するのを仕方なく待っている。
腰に手を当てた仁王立ちのスタイルのまま、幹部は手に提げた模擬刀でカツンと床を叩いた。
「軟弱者め。お前はそれでもイーガの団員か!」
「だ、だからって急に、こんな……厳しすぎますっ、いくらなんでもっ」
「新人団員の基礎メニューでしかないんだぞ、これくらいで泣き言をいってどうする! せめて最後に素振りをして……」
「あんまり無理したら、このあと動けなくなっちゃいます! まだ繕い物もたくさんあるのにっ」
「む……」
「ちょっと、タンマです。ほんとに、今日はもうおしまいにしてください……! 後生ですからっ」
自らを見上げてくるイーガの一つ目。なぜだかそれが、うるうると涙で滲んでいるように感じられ、幹部の胸に妙な居心地の悪さが迫った。仮面を着けている状態で良かった。水気を帯びた真ん丸の瞳を直視したら、今日一日は立ち直れない後悔に駆られたことだろう。危ない危ない
幹部は面の下で視線を背け、「……仕方ない、今日はこれで終いにしよう」とボソリ呟く。すると、針子は「良かった~」と露骨に安堵を滲ませながら、その場に尻をついた。
「……幹部どの、ちょっと良いですか」
やり取りの隙を縫うように、幹部の背中に声がかかった。
気配を悟らせず端正に佇むのは、先ほどまで櫓の上で
いやしかし、彼の後ろに控える構成員たちが気にかかる。ずらりと横並びになるのは、その姿勢の良さからして鍛錬班の団員だろう。全員が全員、両手の指を軽く腿に揃え、まるで師範代を前にする門下生といった姿で立っていた。
何か用か、と彼らの佇まいに応じて、ほんの気持ちばかり凛々しい声で問う。
鍛錬班の幹部は、親指で小さく彼らを指さした。
「折り入っての頼み事なんですが、できればこいつらに、鍛錬をつけてやってくれませんか? 部員同士の組手は限界があるんで、せっかく幹部殿が日中にいらしてるんだったら丁度良いと思って」
言い切った傍から、「お願いします!」と一斉に頭が下がる。謙虚な団員が多いのは、鍛錬班を率いる彼がまじめだからだろうか。と一瞬考えたが、その言は認めたくない。なぜなら商業班がちゃらんぽらんなのは、すべて自分が腑抜けている所為だと言っているようなものだ。
鍛錬。今から。と腕を組みながら、どうしたものかと考える。
針子の鍛錬を見てやった後は、すぐさま解散の予定だった。ここから彼らと組手をするとなると、些か業務を放りすぎてしまう。あまりに遅くなれば、商業班の野暮天どもから「あんた、幹部だからってちいとほっつき歩きすぎじゃありませんか!?」だの、文句を言われそうな気がする。バナナ売り辺りは特に。あの男は、時間と金の勘定に関しては口うるさいのだ。
しかし……。背後で未だ天井を仰ぐ針子へ、視線をくれる。
正直言って、ここまで上手くいっている気がしていない。
そればかりか、むしろ彼女の機嫌を損ねている気がしている。重心の取り方や刀の構え方、矢尻への視線の合わせ方なんぞを丁寧に教えてやったつもりだが、彼女から感心したような言葉も感謝の言葉も聞かれなかった。これでは、ただ彼女を怒鳴り散らしただけ。幹部としては正しい姿でも、一個人として最悪の印象になっていやしないだろうか?
それに棘売りの言葉が蘇る。「組み手をやってるところなんか見せてやったらいいんじゃないですか?」という、あの半笑いの声だ。
自分が如何に頼りがいのある男なのかを知ってもらうためにも、実力ある鍛錬班部員との組手は、またとない好機に違いない。
「……良いだろう、ちょうど時間もある。かかってくるといい」
雄々しく首肯すれば、一同から「よろしくお願いします!」と、割れんばかりの大声で返事が返ってきた。
幹部は鍛錬部屋の一角で、刀を構えた。
手に掴むのは馴染みの風斬り刃で、すぅ……と細く長い息を吐きだし、精神統一をする。鍛錬に入る前に必ずおこなう、儀式のようなものだった。
これからおこなわれるのは、鍛錬班一同による組手演技だ。一日のうちでも何度か取り交わされる鍛錬プログラムだが、鬼の幹部が参加することは珍しい。一種の模範演技として、鍛錬部屋に集まっていた団員の多くが手を止め、固唾を飲んで見守った。
その中には、針子の姿もある。壁際の木箱に膝を揃えて座る姿は、組手の観戦というには行儀が良く見える。休憩がてら見ているといい、と誘ったときは下心が見透かされやしないか変に舌が回ったが、こうやって距離が開くと冷静になれるものだ。
これは神聖な鍛錬の場。しかしそれ以前に、そもそも彼女に良いところを見せたくてここにやってきた。その愚かさを自分は胸に刻むべきだろう。しかし、だからこそ開き直ってやるしかない。せめて結果を出すべきだ。この場を穢すようなものなのだから。
櫓の上から鍛錬場を見守っている件の幹部に視線を遣った。「すまない」という謝罪を込めた視線だったわけだが、彼には準備完了の合図とでも受け取られたらしい。
「はじめ!」
威勢の良い声が響いた途端、発火札の光がぱっ、ぱっ、と幹部の周りで閃いた。
煙幕の隙間からきらりと覗く矢尻がこちらを狙う。正面だけじゃない、後ろも──囲まれた。連携をとる作戦はさすが鍛錬班のつわもの共だが、とはいえこの程度の策を打開するなど、実地で力をつけてきた鬼の幹部にとっては造作もない。
発火札をその場に叩きつけた。ばふ、と破裂した目くらましの煙に紛れ、大きく飛びずさる。するとすぐさま、とす、とす、と元居た場所に矢の刺さる音がした。音は四回。矢を番える時間だ。未だ晴れきらない煙の中から猛然と姿を表すと、ちょうど正面でぶつかった団員が「げぇっ」と仰け反り、体よくラリアットを食らってくれた。まずは一人目。
煙幕の落ち切る前に視線を振れば、ふと影が落ちる。高い位置をとって改めて弓を引く弓兵で、気付いたと同時に矢が空を割いて向かってきた。
近い。が、咄嗟に顔を逸らして、間一髪回避する。団員が着地する瞬間を見計らって模擬クナイを投げるが当たらない。しかし、それも織り込み済みだ。
飛来物に気を取られる間に距離を詰め、大太刀で横なぎに────する前に刃をくるりと翻し、棟で薄い腹を吹っ飛ばした。二人目。
幹部は腕を突き出して振り返る。微かなザザザという小走りの音を耳が捕まえたのだ。ギャンッ、と
幾ら徒党を組もうと、煙に巻きつつ後ろから襲われようと、幹部と一般構成員の間には埋められない力量の差が存在する。
一斉に矢を放たれれば大太刀で全てを弾き、逆にかまいたちの刃で諸共吹き飛ばした。真後ろからこっそりと刃を振り上げた団員には、回転をつけて足技をお見舞いした。地面に刺さった矢を投げ返し、団員の仮面に直撃させたのも我ながらよくやったと思っている。
ダンッ。最後の一人が地面に伏した拍子、顔の真横に太刀の切っ先を突き立てた。
「ひぃっ」と情けなく漏れる悲鳴。恐る恐るというようにゆっくり両手が挙がったのを見て、幹部は大きく息を吐く。
降参、並びに鍛錬終了の合図だ。
「そこまで!」
やおら立ち上がると、鍛錬班幹部のしゃっきりした声が部屋に響き渡る。その途端、「おー」という歓声と拍手が部屋のあちこちから沸き起こった。うっすらと浮き出た首筋の汗を手の甲で押さえつつ、辺りを見回す。
胸を大きく上下させながら、四肢をだらしなく投げ出す団員。いちちとかすり傷を押さえながら呻く者や、俯いたまま微動だにしない者もいる。
死屍累々。ここまで大人数の組手をおこなったのは久しぶりだが、一切の攻撃を受けずにやり切った。上出来じゃないだろうか。
いつのまにか櫓を降りていた鍛錬班の幹部が、破裂音のような大きい拍手を響かせつつ、幹部の偉業を讃えてくる。
「いやー今日も苛烈なお手並み、圧巻の一言でした! 部員の貴重な経験になりました!」
「そうか、ならば良かったが」
「また時間があれば、お願いしますね。やはり格上の人間を相手にすると、経験値が段違いですから!」
最後に「ありがとうございました」と締めた鍛錬班幹部は、寝転ぶ団員たちにパンパンと手を打つ。「さ! お前ら次の鍛錬に移るぞ!」と促す彼はスパルタだ。しかしあの屈託のなさが、部下から愛される理由にもなっているらしい。
「ありがとうございました~」というくたびれた合唱に、鬼の幹部は手を挙げて応える。そしてくるりと踵を返した。
さあ、実力は遺憾なく発揮できた。あとは針子の元へ戻るだけ。
これだけの大立ち回りを実演できたのだ、彼女に見直される自信は、充分、ある。
遠目で彼女を見遣ると、針子は先ほどと同じ場所で、ちまりとした同じ格好のまま、自分を待っている。
「針子、待たせたな」
ずんずんと歩み寄ると、第一声が自然と飛び出た。もちろん。自信満々なので。彼女からは「お疲れ様です」と小さい声が返ってくる。
ざわざわと騒がしい胸のまま、「どうだった?」と発した声は上ずってしまった。それももちろん、自信満々だったから。
しかし針子は、幹部の予想に反して肩を竦めてみせた。
「えっと……台座さんって、いつもあんな厳しい鍛錬を?」
敬意。いや違う。憧れ。でもない。
様子を窺うような声に漂うのは、不安、が一番正しいか。
「そ、うだな。基本は一人だが、たまにな」暖まった喉のまま明るい声を出すのは場違いな気がした。無理やり声色を調整しつつ、幹部は曖昧に頷く。
「たまに、ああやって人のことを投げ飛ばしたり、鍛錬でも真剣で戦ったり、思いっきり蹴ったり……ってことですか……?」
雲行きが怪しい。
事実なので「まぁ……」と一言応じると、腹の前で組んだ彼女の指先が、きゅっと小さく強張った。
「怖い……」
「えっ」
「だって……痛そうです、鍛錬って、練習じゃないんですか? 血も出てたし……私も台座さんとお手合わせしたら、こうなっちゃうってことですか?」
幹部は慌てて首を振った。
「いやっ、違うっ、彼らは鍛錬班で、お前とは違うだろ! あれはその、本気でやるからこそ実力がついてだな! 仕方なく」
「そう……なんですね。でもちょっと、すごい勢いだったから、びっくりしちゃいました」
針子の声に笑みが乗る。いや、正しく言えば、口端を持ち上げたときの声、というだけだった。声音にははっきりと疲労が滲み、なんと言えばいいのか迷うような気まずさが漂っていた。明るくて元気いっぱいな彼女から発される初めての音に違いない。
「……台座さんとは鍛錬したくないなぁ」
ガンッ。くぐもった言葉が、幹部の頭を直撃する。
「あっ、私そろそろ行かなくちゃ! きっと先輩も待ってるし……台座さん、今日はありがとうございました! 失礼します!」
返事も待たずに針子は踵を返す。逃げるように去っていく小さな背中を留めることもできず、幹部は彼女を見送った。
僅かに浮き出ただけなのに、汗の揮発は体温を奪っていく。幹部はこのとき、雪山に放られたみたいに寒くて仕方なくなった。
■
会釈を送る鍛錬班部員に一瞥やって、鬼の幹部は部屋を後にした。
時刻は、そろそろ昼餉がピークとなる頃だろうか。玄関へ向かう道中、数人の団員と廊下ですれ違った。「幹部殿、お疲れ様です」と声を掛けられるが、幹部はただ真っすぐに前を見つめて生返事すら返せない。すれ違ってから背中を覗きこまれていたわけだが、そんなのにも一切気付きはしなかった。
頭の中でぐるぐると回っているのは、どこか悩ましい針子の声と、彼女が発した内容だ。
『怖い……』
『すごい勢いだったから、びっくりしちゃいました』
『……台座さんとは鍛錬したくないなぁ』
ひとつずつ思い出す度、心臓がぎゅ、ぎゅ、と両手で絞られるようにキリキリ痛んだ。
あの怯えたような声。まるで野獣やマモノに対して喋っていたようじゃないか。幾ら色恋沙汰や、異性の機微に疎い幹部だったとしても、彼女の反応にどんな意味が含まれているかくらい察せられる。
やりすぎた。そして、彼女にドン引かれたのだ。
「……はぁ」
ため息と共に自然と肩が丸まった。情けない姿だったとして、普段通り背中をぴんと伸ばす体力が残っていない。自分自身を見て見ぬふりするしか他になかった。
玄関へ戻ると、朝に出掛けたときよりガランとしている。出入りの団員がいないのはもちろんのこと、商業班員もほとんど離席しているようだった。
昼餉の刻というだけでなく、商業班の部員には、行商人との交渉だとか物資の搬入だとか、離席するに足る理由が数多く存在する。バナナ売りは最近の欠品続きをどうにかしようと足掻いているようだし、弓屋や武器屋も、流通班との相談で物販を空けることは別段珍しいことじゃない。
とりあえず一人でも玄関に残っていれば問題ない。とはいえ、その残った一人が問題である。今一番会いたくない人物の棘売りだ。より一層、玄関ホールに進む脚が重くなった。
それでも、じゃり、と玄関の床を踏みしめる。こういうときほど目敏く気付くらしい。棘売りが手を振る姿も視界に入るが、幹部はグルンと視線を背ける。酷く露骨に。
そのままズンズンと持ち場に向かい、腕を組み、門を睨みつけ────と思ったら。
「幹部殿、幹部殿ぉ」と背後から聞き覚えのあるねっとりした声が耳に入った。
それでも無視して前を向き続けていると、下からぬっと細い腕が現れる。無理やり視界に入ってきてはゆらゆらと手招きするのだから、いまいましい。
「……なんだ。何か用か」自分でも驚くほどぶすくれた声が出た。
相変わらずの猫背で突っ立つ棘売り。その背後に、失敗を悟った瞬間の光景が流れていくようだった。針子の縮こまった肩。逃げるような足取り。いやしかし、失敗した事実と彼からの助言を紐づけたくはない。失敗したのはあくまで自分の振る舞いが良くなかったのだ。そんなの大人のするべきことじゃない。そんなのはきっと、責任転嫁というやつだろう。
幹部の健気な配慮を意に介さず、棘売りは「ひひひ」と引き攣り笑いを漏らす。他人の神経を撫で上げるような、あの声だ。
「いやー、どうだったのかなと思いまして。こんだけ遅かったんだ、試したんでショ? 聞かせてくださいよ~こういうときは結果を報告するもんでしょ」
「……なぜ報告せねばならん。貴様に言う筋合いなどなかろう」
「あれっ、その反応、もしやダメだったんじゃないスか? さっきの話をまんま鵜呑みにして試した、とか!?」
口元をぱっと押さえてみせる棘売りに、幹部は思わず顔を上げていた。
「……どういう意味だ。お前が、組手でも見せて強いところをアピールすれば、なんて言ったんだろ」
「え!? ほんとに試したってこと!? いや~だって、まさか本気にするなんて! ほんとの本気で、民間人だった娘っ子に血なまぐさい取っ組み合い見せたんスか!? アピールのつもりで!? そりゃこえ~よ!」
ひゃひゃひゃと膝を叩いて棘売りが笑う。玄関ホールの高い天井で反響し、エコーを帯びるその声。まるで幹部の頭の中に入り込み、頭蓋の中で反響しているような錯覚を覚えた。
こいつの言ったことは舌先三寸でしかなかったのか。ちょうどいい玩具として、自分をおちょくりたいだけ。俺はまんまと、その与太言に乗っかってしまった。
こめかみに青筋が浮く。幹部は一気に沸騰した怒りの情動のまま、棘売りの胸倉をつかみとって引き寄せた。
「貴様、もしやこうなることを見越していたのではあるまいな。わざと俺が失敗するように仕向け、貴様の愉悦を満たすために」
仮面の裏で呟かれた声は、まるで地獄と繋がると噂される深穴の底から這い上がってきたかのような迫力がある。
さすがの棘売りも「ぐ……」と苦し気に唸り、白旗を上げるようにそろそろと両手を挙げた。へへへ、と続けた声は笑ったわけではなく、幹部の射殺すような空気に怯えて引き攣った喉の音だ。
「い、いやだなぁそんなわけねぇって……俺はあんたに、上手くいって欲しいから助言しただけで……」
「戯言を。今しがた貴様が言ったんだろう、本気にするとは思わなかったと。詭弁であると自覚もあろうな」
「あ、あくまで俺は提案で、それを採用したのはアンタでしょ!? 俺になすりつけねえでくださいよ、台座さん」
「その名前で、呼ぶな」
かつ、と仮面をぶつけて直接怒りを流し込む。しかし返ってくるのは、やはり喉の奥で引っ掛かっているような息の音だけだ。
もはや一触即発だった。怒りを越えたこの激情はもはや害意であって、それがぐつぐつと煮立っている自覚もあった。寸でのところで吹き零れないのは、正に棘売りが言った通り。自分の選択によって招いたことだと、うっすら分かっているからだった。
痛みを感じるほど顔を顰めたのはいつぶりだろう。自らの感情を律しないのは隠密の人間としてあるまじき。しかし、掴み上げた拳を諫める理由に辿り着けない。
こいつは昔からこうだ。自分が楽しければ上司だろうが仲間だろうが知らんふり。業務での成果を上げることよりも自分の愉悦を優先する。むしろ、幹部役に舐めた態度をとるなと、説教の一環で一発殴ってやった方が良いのではないか。こいつの態度は、いつか大きな失態を犯しかねない。その前に、一度大きな雷を落としておいた方が、イーガの益になるのではないか────。
「あーーーッ!! 台座さん! ダメです! 何してるんですか! 仲間割れは良くありませんよっ!」
その声は唐突だった。玄関ホールに、聞き覚えのある甲高い声が響いた。
バッと声のする方へ顔を向ければ、廊下の先にいたのは針子。先ほどまで一緒にいた、新人の針子だった。
「針子!」と素っ頓狂な声が出る。なぜここに、どうして今。惑う合間にも針子がテテテと小走りで近寄ってきて、すぐ傍まで来た、と思ったら、彼女がやにわに幹部の剛健とした腕をバシバシと叩いてくるではないか。
「ダメですっ、台座さん! 鍛錬場でもないのにそんなことしちゃいけません! 離してあげてください!」
そんなことを強気で言ってくるのだから、幹部は目を剥いた。この娘の物怖じの無さはどうなってるんだ。別れ際の怯えたような声は、どこにいった?
しかし幹部は、言われた通りパッ、と手を離す。すぐさま首を擦って距離を取る棘売りと入れ違いに、なぜだか針子が詰め寄ってくる。幹部は彼女が胸に突き立ててくる人差し指の圧におされ、仰け反った。
「なんで喧嘩してるんですかっ? もしかしてこんなところでも鍛錬してるって言うんですかっ!?」
「いや違う。こいつがあまりにふざけているから、その、指導の一環で」
「その指導の仕方はどうかと思います! 外から疲れた皆さんが帰ってくる場所なのに……怖いです! ダメですよ!」
怖い。また言われた。プリプリ怒ってみせる針子に悪意は無いのだろうが、この「怖い」という言葉はどうも、胸にズキンと来る。
すっかり
気まずさもあって「……それで、お前はなんでまたここに……」と話の接ぎ穂を差し出せば、針子は「あっ、そうでした」と、張りつめた声の圧を緩めてみせた。
「これです、先ほど頼まれた布を持ってきたんです! どうぞ!」
差し出されたものを素直に受け取れば、どうやら先ほど預けた布ではない。「ちょっとボロボロすぎるから、新しいの持って行ってあげてって言われたんです」と言葉を付け足される。やはり玄人の目から見ても直し難かったかと、穴の開いたぼろぼろの磨き布が頭の中に蘇る。
感謝と労いを伝えて用事は終いかと思いきや、「それで、あのぉ……」と針子が手を組むので、幹部は首を傾げた。
「まだ何かあるのか」
「実は、だい……幹部さんに、お願い事があって」
「……お願い?」
「はい、でも個人的なことだから大丈夫かなって。……いいですか?」
お願い。それも個人的な。
思ってもみなかった唐突の展開に、幹部は仮面の下で目をぱちくりさせた。
「ああ、いいぞ」と言いかけて、針子の背後に棘売りが立ったままなのに気付く。じっと恨みがましく喉を押さえる棘売りに布を押し付け、派手にシッシッと手で払う。男の丸い背中が仕方なさそうにノロノロ去っていくのを見送った後、幹部は改めて「いいぞ」と頷いた。
手壁を作った針子に応じ、咳ばらいをしてから少し屈む。存外近くて落ち着かないが、確かに棘売りには話を聞かれたくない。
「……で、お願い、というのは」
幹部の潜ませた声に呼応したのか、針子も内緒話をするようにこそこそ喋り出した。
「私、編み物をしてるって言ったと思うんですが、実は……あと少しで完成なのに、毛糸がちょっと足りないんです! どうしようかなって思ったんですが、これから冬に入るし、この辺りを歩く行商人でも持ってるかもしれないって聞いて、だから、買いに行こうと思ってて!」
「ふむ」
「でも、外には魔物がうようよいるし、私一人じゃ出られなくて……。だから、外回りをしている団員さんに着いていけないかなって。どなたかに頼めませんか?」
「代わりに、誰かに購入してもらうよう頼むのでは駄目なのか?」
「うーん……糸の種類とか、色とか細さもあるので……なるべく私が見たいんです」
そこまで聞いて、幹部は「なるほど」と唸りながら腕を組む。
イーガは隠密武闘派集団。内勤といえどほとんどの団員が鍛錬に勤しみ、たとえ魔物と遭遇しても対処に困る人間など一人もいない。しかしそれは新人を除いての話だ。
これからどれほどみっちり鍛錬をおこなったとして、彼女が一人で魔物に対処できるようになるには、当分先の話だろう。そうなれば毛糸の時節は過ぎ、行商人から手にいれるのは難しくなってしまう。購入の機会はまた来年だ。
確かに彼女が提案した通り、外回りの団員にくっつかせるのは、理に適っているかもしれない。
いや、しかし。────行商人、か。
『旦那も商業班なんだから、この際勉強してつかーさい! そうだ寒さをどうにかするクスリとか、食いもんとか、見つけてきたらどうです? 行商人捕まえてくるとかして!』
昨日、バナナ売りが放言した言葉が蘇る。
幹部は暫く考え込んだ後、「よし、分かった」と胸を張って答えた。
「その頼み、俺が着いて行こう」
えっ、と素っ頓狂な声を出す針子に、幹部は続けた。
「実は商業班のやつらに行商人との交渉を頼まれている。お前の用事も同時に済むなら丁度良い。日を合わせて一緒に行けば、一石二鳥だ」
「いいんですか? でも、台座さんって、忙しいって聞いたし……」
「忙しいのは事実だが、行商人との交渉について詳しくなれと言われたんだ。いわば業務の一環。こればかりは仕方あるまい」
肩を竦めると、針子は仮面越しにも分かるほどポカンと呆けてみせた。それから大きく息を吸って、「ありがとうございます!」と元気よく放った。指先を膝に揃えたお辞儀は、彼女が見せる最大限の敬意であった。
居直った針子は、改めて嬉し気に華奢な肩を持ち上げて、こてんと首を傾けてみせる。
「台座さん強いし、安心ですねっ」
最後に付け足された言葉。言う者が言えば、きっと単なるお世辞にしか聞こえなかったのだろう。
しかし他でもなく、針子が口にした。鍛錬を怠けてることすら嘘の言えなかった、あの針子だ。朗らかな柔らかな声音というだけでも心が絆されるようなのに、幹部ははっきりと、それまでにこびりついていた後悔の塊が溶けてなくなっていくのを感じ取っていた。
外出の相談は、また日を改めて……。針子はそう言って、小さくスキップしながら玄関ホールを去っていく。
最後にぺこりと頭を下げた彼女に極々小さく頷き返す。そうして廊下の奥へと消えていく彼女を最後まで視線で追っていた幹部は、正直鼻歌でもうたいたい気分になっていた。
「どわッ、お前、なんだ。そこにいたのかッ」
「……」
ゆらり。正面に視線を戻した幹部が目にしたのは、こちらをじっとりと睨む棘売りであった。
自分の持ち場へ戻っていったはずでは? どぎまぎ騒ぐ心臓を悟られないよう、声だけは勇ましく「なんだ、何か言いたいことでもあるのか」と顎をあげる。
棘売りは、すう、と深く息を胸の中に落とし、威嚇するように放った。
「デートじゃん、死ねッ」
ありったけの怨恨が籠った濁声が、玄関ホールに響き渡った。