【本編】鬼の幹部が恋をした!
明くる日のことである。今日も今日とて清々しい一日の始まりを迎えた幹部だったが、つい今朝方の出来事により、普段の威勢は消沈しきっていた。
針子を見かけたのだ。朝餉を食い終わり、揚々と玄関に戻ったら彼女が立っていた。荷物を届けにやってきていたらしいのだが、幹部がホールへたどり着いたときには、踵を返して立ち去るところだった。
まさか、出勤と同時に彼女の姿を拝めると誰が思っていたろうか。幹部は面食らった。そしててんやわんやで脳みそを働かせたが、これがまた気の利いた朝の挨拶が思い浮かばない。それもそうだろう。なんだかんだ彼女との会話では、先方がコミュニケーションを主導している。彼女と会話が続くのは幹部側の会話スキルなんかではなく、針子のコミュ力が高いだけの話でしかないのだ。
「あっ! 台座さん! お疲れ様でーす!」
「お、おお! ご苦労!」
他の団員に向けるよりは幾分トーン高めに返したが、だからといって状況は変わらなかった。忙しいのだろう。小さな会釈だけを残し、針子はパタパタと廊下の奥へ消えていく。
幹部といえば、その小さな背中が見えなくなるまで視界で追い続けるだけ。その背中も見えなくなれば無意識に耳を澄まし、微かな足音を追った。音さえ聞こえなくなって仕方なく視線を落とすと、今度は砂粒に残った小さな足跡が目に入る。門を開閉する度に吹き込んでくる砂粒はどれほど掃除してもキリがないので放置されっぱなしだが、今は絨毯としてこんなにも彼女の痕跡を残してくれている。なんとありがたいことか。……恋の病は膏肓 に入っている。
今日は縫製室を訪ねる用事などないし、彼女が改めて玄関へやってこない限り再会は望めないだろう。と頭の中で考えた途端、自分でもおそろしくなるほど身体中から力が抜けた。
いや、入らなくなったと言った方が正しいかもしれない。それまでピッと伸ばされた背筋が緩み、普段は仮面の下で凛々しく吊り上がった眉が、今ばかり嘆かわしくも垂れている。上手く喋れなかっただけで情けない、という気もしたが、どうせ仮面があるのだ。誰もわかりはしまい。
足跡を辿りながら見張り台まで歩く。階段が視界に入って顔を上げると、嫌なものが目に入った。
玄関ホールの壁際で、ゆらゆらと揺れるなにか──棘売りだ。後ろ手をつきながら胡坐を開け広げにし、もう片方で手招きしていた。その偉そうな態度と言ったら。
下の人間が上の人間を呼ぼうなぞ、なんと無礼な。幹部は最初、見て見ぬふりしてやろうかと考えた。しかし改めて「旦那ぁ~」と声を張られ、ひそひそ話をするように手壁を作るジェスチャーをされては敵わない。他の商業班員からも視線を向けられるものだから、こちらから行くしかないのかと諦めが生まれた。昨日の今日で会話なんぞしたくない。しかし棘売り仕込みの面倒を背負いたくはないので、見張り台に掛けていた足を渋々方向転換する。
「フラれちまいましたか」
顔を合わせた瞬間の、開口一番がこれだ。
笑みが隠せてない、隠密のやり直し! といいたいところだが、フラれたことを悟られる自分こそやり直しである。しかし、目の前の男には関係のないことだ。
ふんぞりがえって顎を突き出し、これでもかと害意を込めた鋭い瞳で見下ろしてやれば、「そんな怖い顔しないでくださいよ~」と猫なで声で甘えてくる。上目遣いをするな。気色の悪い。
「あんたって意外と不器用なんすね。搦め手でもなんでもしちまえばいいのに。押し倒したりとか」
「お前……俺がそんなことをすると思ってるのか? そんな下卑た行為を、この俺が」
「わーってますって。正攻法で責めたいんでしょ? 旦那ったら奥ゆかしいんだからぁ」
「……もしや、これだけ言いたいがために呼んだのか? こんなくだらんことを言うためだけに?」
「くだらんとはあんまりじゃないっすか。苦戦してそうだから助言してやろうと思ったのに」
「余計なお世話だ」
「でも、実際困ってるんっしょ?」
ぐ、といい淀む。確かに事実だ。
分からないなりに誰彼へ相談すべきなのだろうが、如何せん恋バナを明け透けに話せる間柄の団員なぞいない。だからといって目の前の男に手の内を晒し、あまつさえ助言を求めるのかといわれれば断固として拒否したいところだ。まぁ、勝手に呟かれる独り言であれば、聞いてやらないこともないが。
押し黙っていると、勝手に沈黙の意味を解釈したらしい。棘売りが「ひゃっひゃっひゃ」と派手に膝を叩いた。
「マ、女はとかく頼りがいのある男に好意を抱くモンですからね。強さのアピールはした方が良いんじゃないっすか?」
「強さのアピール? 幹部役が、わざわざか?」
「肩書きだけじゃア説得力なんてありませんよ。組み手をやってるところなんか見せてやったらいいんじゃないですか? バッタバッタと次々に敵をなぎ倒す様子なんざ、あれほど気持ち良いものもないざんしょ。どんだけ腕っぷしが強いのか、実際に見せておやりなさいよ」
「……それがなにかのアピールになるとは思えんが……」
「幹部殿すごーい! 私ときめいちゃう! ってね」
「やめろ、気味の悪い」
似てもいない針子の物まねに尖った声を浴びせるが、棘売りは相変わらず引き攣った笑みを漏らすだけだ。
ふざけた人間だ。やはり耳を貸して損したか? と一瞬の後悔が頭をもたげたものの、しかしと思い直す。
今しがた口にしたアドバイスは、一考の余地があるのではなかろうか。
幹部は顎を手で覆い、仮面の内側に広がる暗がりに焦点を合わせた。
自らの生を脅かす魔物が跋扈するハイラルの国で、強さはいつだって常人の憧れになる。他よりも恵まれた体格が、鍛練と共に発達した筋肉が、この過酷な世の中でどれほど尊敬を集めているかは分かっているつもりだ。
それに今までの所業を考えると、この鍛え上げた鋼のような肉体は、身体の小さな彼女を威圧する肉壁くらいにしか思われていない可能性だってある。
実際に彼女を守れるほどの力があると証明できれば、異性として興味を引くこともできるのではあるまいか?
幹部は、彼女が去っていった廊下の奥へ、僅かに視線を遣った。
正しいのかどうかは分からない。しかし試す価値はありそうだ。
思い立ったが吉日。すぐにでも向かいたいところだが、しかし幹部は足を踏み出せなかった。なぜならアプローチの内容よりなによりも、彼女と顔を合わせるような理由がない。
仮面の下で眉を歪ませて「まず、会う理由が……」と言葉を濁せば、棘売りはなにを言いたいのか悟ったのか「あー、なるほどね」と手を打った。
「じゃ、これ持ってってくださいよ。オレの用事ってことで」
言うや否や、棘売りは物販の端に寄せてあった布をヒラリと広げ、壁に立てかけてあった棘板に突き刺した。あ、と声をあげる間もなく、布からは鈍く光る棘の頭が現れた。見事な貫通である。
突然の所業に面食らって黙っていれば、穴の開いたそれを無造作に突き出された。
「直してほしいって言ってきてくださいよ。これで娘に会う理由になるっしょ」
なんという悪行を。物資が行き届いていないイーガにおいて、資源の無駄遣いは徹底して忌避されているのにこの男ときたら。
幹部は言葉を失ったまま、差し出された布を見下ろした。鉄棘を磨くのに使っていたらしい布は、油か煤かでまっ黒く汚れている。中心にぽっかりと穴も開いたことだし、もはやこのままゴミとして処分しても誰も文句は言うまい。むしろこれを「直してくれ」と縫製班に持って行くのは、先方に迷惑ではないかとすら思う。
棘売りのことを叱責するべきだろう。そして、もはやなんにもならないと布を処分するべきだったろう。しかし、そのすべてが憚られる。なぜならそれらすべてが自分に起因していた。自分がこの男の話に耳を貸さなければ、こんなことにはならなかった。
幹部役の矜持が頭の中で渦巻く。仮面の下に潜む棘売りの笑みを想像した。遠慮のない、浅ましい笑みだ。しかしその背後には、縫製室に行けば会える、自らの想い人の顔がちらつく。こちらはニコやかで、あどけなくて、まどやかな笑みだ。その瞳には自分が映ってる。
幹部はぐう、と両手で拳を握った。動かぬ者に、成功を掴むチャンスなど得られない。
「……感謝する」
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、布が逃げるようにぱっと上に持ち上がった。
その代わりにズイと現れたのは、棘売りの迫真としたイーガの白い面。
「これは貸しですからね~。上手くいった暁には、旦那。オレのことよろしく頼みますよ」
嫌な奴だ。半ば強引に布を奪い、「わかっとる!」と捨て台詞を残した幹部は、その場をずんずんと去っていった。
■
岩屋の中は既に始業時間を迎えている。気配を消して生活する隠密集団ではあるが、朝方はアジトがもっとも活気づく時間帯といっても過言ではない。
研究班員が振るう槌の音や、指示出しの声。岩廊下に立っていると、さまざまな音が岩壁に反響して混ざり合っていくのがよく分かる。どこからやって来た音なのか。反響音が織りなす不鮮明な音の中をひた歩いていると、その中に知った声が紛れ込み、耳に飛び込んでくるような気さえする。
『女はとかく頼りがいのある男に好意を抱くモンですからね。強さのアピールはした方がイイんじゃないっすか?』
揶揄を伴った、あの粘っこい声。胡散臭いにもほどがある。
とはいえ、考えれば考えるほど、意外と真っ当な提案であるように思えた。
幹部役ともなれば、自らが他に対して「俺は強いんだ」と嘘か誠か分からぬ言葉を並べ立てずとも、第三者によって「この人めちゃ強いんですよ」とお墨付きをもらってるようなもの。イーガにおいては性格に難でも無い限り、幹部というだけで激モテ人生を送れることが約束されているのも同然のはずだった。
それなのに、なぜ鬼の幹部には今まで春が来なかったのか。単純明快。異性を引き寄せるには、性格に決定的な難があったのだ。
他人には厳しくとも自分にだけは優しくしてくれる恋人を好む女子が多い中、鬼の幹部は自分を含む全ての人間に等しく厳格だ。規則に背く素振りを見せれば容赦なく怒張声を浴びせるし、好いた相手だからといって手加減などしない。結婚適齢期を迎えても尚独り身で居たのには、悲しくも辛辣な理由が存在していたからなのである。
しかし、そんな男が恋に落ちた。経験値の少ない頭をウンウンと悩ませ、これまで積み上げてきた矜持も後回しにするほど、真剣に。
「……」
黙って廊下を歩き続けていた幹部はふと足を止め、壁際に寄った。縫製室に着いたのだ。
幹部は全身全霊で息を殺し、クナイの刃を部屋へと翳す。鏡面磨きを施した刃を傾けると、鈍色の中に曖昧な人影が映っているのが見えた。誰かまでは分からないが、二人と存在していないのは確かだ。
例の針子娘であるなら良し。しかし、古参の針子であるならこのまま引き返したい。彼女には目の敵にされつつある。この前聞かされた苦言は、未だ幹部の胸の奥深いところに刺さったまま抜けていない。心底迷惑そうなため息の音を思い出すだけでちくちくと痛みだし、その度に胸を掻いて唸りたくなる。
どうやら中の人物は、壁際の布山の方に座っているらしい。どちらかは分からない。意を決して、そろそろと顔を覗かせた。
……針子だ。新人の方。ぐっ、と思わずガッツポーズをする。
例の体調不良にも見舞われたが、今やそれは不快を表すものではなくなっていた。ばくばくと鳴り始める心臓も、急激に沁みだしてくる手汗も、いわばこれは戦う前の武者震い。高揚の一種だ。
幹部は頭をひっこめてから胸に手を当てる。一つ息を吸い、ゆっくり吐く。すうはあすうはあ何度か繰り返して、武者震いを落ち着かせた。そして誰ともなく頷く。
気配を消したまま、一旦そろそろと部屋から離れた。数十歩分の場所で静止。心の中で「よし」と呟き、やっと勇ましく足を踏み出した。
「針子、ちょっといいか」
それまで俯いていた顔がパッ、と持ち上がる。
「台座さん!」とよく動く口元は相変わらず晒されていて、瞳は爛々。しっかりと自分を捉えているのがはっきりと分かった。しかし、以前のように混乱するほどの発汗はもうしない。成長である。
この部屋で、二人きりで話すのはいつぶりだろう。天気の話をするだけで満たされたあの日々。俺はここに、また戻ってこられたのだ。
それまで手元で弄っていた布を部屋の隅に寄せた針子は、ぴょこんと飛ぶように立ち上がって、幹部の元へパタパタと寄った。
「お疲れ様です、台座さん! もしかしてさっき、ご用事がありましたか? 私急いでたからさっさと帰って来ちゃって……すみませんでした」
「いや、気にするな。あの時に用事はなかったのでな。今しがた棘売りに頼まれてきたんだ」
「そうだったんですねぇ」と何度も顎で頷いてみせる針子に布を差し出すと、彼女は一も二もなくその場で開いてみせる。顔の真ん前にまで上げて、まあるい片目で穴を覗き込んだ。
改めて考えると、自然にできたとは到底思えない真円だ。縫製の手利きならば「わざと開けたんじゃないか」と見破ってもおかしい話じゃない。ひやりと背筋を伝ったのは、後ろめたさだったか、冷や汗だったか。
しかし、やや合間をあけて彼女が告げたのは「キレイに空いてますねぇ」という一言。正直言ってホッとした。彼女は、棘売りの頼まれ事にしてはよくあるのだと続ける。どうしてそうなるのか分からない。彼奴にはやはり説教をせねばならないらしいと、幹部は心の中で決意した。
「じゃあ、さっそく繕いますね! 今ちょうど暇してたんで、すぐ取り掛かります!」
「縫製班も暇ということがあるんだな。常に修理で大忙しというイメージだったが」
「先輩が出かけてて、帰り待ちなんです。縫物の練習してたんですけど、編み物しようか、たまには鍛練にでも行こうか、って考えてて」
ちらりと後ろを振り返った針子の視線の先には、先ほどまで手に収まっていた赤い布。糸が繋ぎっぱなしになったそれには、乱雑な模様のように黒い線や刺繍が繕われていた。
入ってきたばかりの新人が、自らの裁量で仕事に取り掛かれないのは珍しいことじゃない。特にイーガという集団は上下関係に厳しく、暗黙の了解だって存在する。この前みたいに余計な気を利かせてハートの刺繍を繕われても困る。新人が何もせずにちんまりと正座しているのは正しい判断だったろう。
しかしそんなことより幹部が気になったのは、彼女がふと口に出した「鍛練」という言葉だった。つい先ほど、俺は同じ言葉を聞いたじゃないか。
『組み手をやってるところなんか見せてやったらいいんじゃないですか? バッタバッタと次々に敵をなぎ倒す様子なんざ、あれほど気持ち良いものもないざんしょ。どんだけ腕っぷしが強いのか、実際に見せておやりなさいよ』
棘売りの言葉が脳裏に蘇る。これは、実際、またとないチャンスなのではなかろうか?
「針子」
「台座さん」
パッと、針子が口元を押さえてみせる。呼ぶ声が重なった。
真ん丸に瞳が見開かれ、「かぶっちゃった」とくぐもった声が、手の隙間から聞こえてくる。幹部は思わず奥歯を噛み締めた。
声が被っただけなのに、胸がこうまで昂るのは何故だ。同じタイミングで喋りだそうとした相性の良さを感じるからか、それとも突発的に繰り出されたあどけない仕草が、小動物のようで可愛らしかったからか。
緩みそうになる頬を内側から噛んでることなぞひとつも気付かない様子で、針子はニヘラとはにかんでみせる。「台座さん、先にどうぞ」と差し出す動作がやけに大げさだ。それにいたいけで、飾っていなくて。
喉の奥で咳ばらいをする。じゃないと、また声が上ずりそうだった。「すまん」と頷いて、幹部は狼狽を悟られないよう大仰に腕を組んでみせた。
「実は俺もこれから鍛練に行くつもりなのだが……お前も付き合わんか」
「鍛錬、ですか?」
「ああ。この前、弓の引き方が分からんとぼやいてたろう。先達の帰りを待つ間、暇ならついでにと思ってな。……どうだ」
咄嗟に口をついて出たにしては悪くない。彼女との会話に慣れてきた成果が出ているのではなかろうか。
その割に針子には「うーん」と悩む素振りを見せられてハラハラしたが、最終的には「いいですよ! 行きましょう!」と了承されてホッとした。
かくして、幹部の思惑通り、針子と共に鍛錬部屋へ訪れることと相成った。
鍛錬部屋は、イーガのアジトの中でももっとも広い面積の部屋である。障害物を想定した木箱や柱が一見乱雑に設置され、中央には鍛錬部屋のシンボルでもある櫓が聳え立つ。壁際には練習用の小太刀に大太刀、それに二連弓がずらりと並ぶ。着の身着のままでもやってきさえすれば、すぐさま鍛練を始められるというわけだ。
部屋の外にまで響く雄たけびは、鍛練の激しさと物々しさを雄弁に語っている。
幹部が足を踏み入れると、中では十数人もの団員が各々の方法で身体を鍛えていた。的に向けて弓を引く者、複数を連れ立って筋肉トレーニングをおこなう者、ただ黙々と刀を振り上げる者。幹部としては今日既に訪れた場所であるが、やはり日中の様子は朝と一線を画す。
「あれっ、幹部殿じゃないですか! 日中にも来られるとは珍しい!」
なにに手をつけようかと辺りを見回せば、櫓の上できびきびと声を張り上げていた鍛錬班の幹部に見つかった。
来訪者一人ひとりに逐一目配せしているのだから、律儀な男だと感心する。「邪魔をする」と緩く手を挙げると、鍛錬班の幹部は会釈をして、組手中の団員へと視線を向けた。
「普段は……日中に来ないんですか? 忙しいから?」
後ろからひょっこり顔を覗かせた針子が、鍛錬の様子を興味深そうに眺めながら言う。
「そうだな、俺は大体、業務前に鍛練を終わらせている。日中は時間がとれんしな」
「台座さんはすごいですねぇ、そんなに忙しいのに鍛練も欠かさずに頑張ってるなんて……。私も見習わなくちゃ」
すごい、と感嘆され、いい気にならない片思いの男はいないだろう。そわりと胸の内が擽られるような心地になったが、はたりと思い返す。やけに物珍しそうに辺りを見回す針子の様子と、見習わなくちゃという言葉が引っかかった。
「お前は普段、どの程度鍛練をしてるんだ」
何気なく紡いだ言葉に、針子はギクリと肩を縮めて、露骨に顔を俯かせる。この態度。まさか?
「え、えっと~……業務が暇なとき、ご飯食べた後、とか! です、かねぇ……」
「……もしやお前、そこまで熱心じゃないんだな?」
「ね、熱心ですよぉ! ただ、だって……あんまり得意じゃない、というか……」
人差し指をつんつんとつつく針子は声を萎ませた。こうまで分かりやすい態度を取る隠密がどこにいるだろうか。もはやなにを言えばいいのかも分からず、幹部は一層小さく見える彼女の頭を黙ったまま見下ろした。
イーガは、この国に居場所を失った人間の寄せ集めの側面が強い。昨今はとかく人手を求めている風潮も相まって、昔ほど厳格な入団規則を設けているわけでもなく、志の低い人間が紛れ込むケースも増えている。民間人からの入団が増えている昨今の風潮を考えれば、針子の怠慢さは決して少数派というわけではなかった。
とはいえ、誰彼構わず受け入れているわけでないのも確かだ。ハイラルの僻地に存在する支部を訪ね、イーガの装束を集めてくること。その足をもって、イーガへの入団審査の合格としている。
……だが目の前の女は、マリッタ支部の幹部から紹介され、アジトへやってきた。つまるところ、もしやこのアジト内でもっとも非力な存在なのではないだろうか?
幹部は未だ俯いたまま指先を捏ねる針子をしげしげと眺める。
見るからに薄い体の線に、一切の筋肉がついていない二の腕。首元の鎧に隙間ができるほど細い首。いつもポテポテと愚鈍な歩き方をしてみせるのも、隠密の身のこなしが身についていないのだろう。だって鍛練を積んでいないのだから。
どうにかせねば。
このとき胸に灯った責任感が、周囲に「鬼」と呼ばれる熾烈さを呼び覚ましてしまった。
「針子」
ずん、と腹から響くような低い声に、針子が「は、はいっ」と跳ねあがる。
「イーガ団たる者、いつなんどきの不慮にも対応できねばならん。それは縫製業務に携わる内勤とて同じこと。その細腕のままで良いと、お前とて考えているわけじゃないだろう」
「そ、それはそう、ですけど……」
「ならば、今日から鍛錬の時間はしっかりと確保するのだ。もしくは、せめて素振りをする習慣をつけろ。幸い今日は俺がその筋を見てやれる。ついて来い。みっちり扱いてやろう」
言葉の帰ってこない針子をその場に置き、幹部はずんずんと奥へ進む。
壁際に立てかけられた馴染みの大太刀を左手に持ち、右手で小太刀を彼女へ差し出すと、彼女は一拍遅れて「ひぃっ」と悲鳴をあげた。
針子を見かけたのだ。朝餉を食い終わり、揚々と玄関に戻ったら彼女が立っていた。荷物を届けにやってきていたらしいのだが、幹部がホールへたどり着いたときには、踵を返して立ち去るところだった。
まさか、出勤と同時に彼女の姿を拝めると誰が思っていたろうか。幹部は面食らった。そしててんやわんやで脳みそを働かせたが、これがまた気の利いた朝の挨拶が思い浮かばない。それもそうだろう。なんだかんだ彼女との会話では、先方がコミュニケーションを主導している。彼女と会話が続くのは幹部側の会話スキルなんかではなく、針子のコミュ力が高いだけの話でしかないのだ。
「あっ! 台座さん! お疲れ様でーす!」
「お、おお! ご苦労!」
他の団員に向けるよりは幾分トーン高めに返したが、だからといって状況は変わらなかった。忙しいのだろう。小さな会釈だけを残し、針子はパタパタと廊下の奥へ消えていく。
幹部といえば、その小さな背中が見えなくなるまで視界で追い続けるだけ。その背中も見えなくなれば無意識に耳を澄まし、微かな足音を追った。音さえ聞こえなくなって仕方なく視線を落とすと、今度は砂粒に残った小さな足跡が目に入る。門を開閉する度に吹き込んでくる砂粒はどれほど掃除してもキリがないので放置されっぱなしだが、今は絨毯としてこんなにも彼女の痕跡を残してくれている。なんとありがたいことか。……恋の病は
今日は縫製室を訪ねる用事などないし、彼女が改めて玄関へやってこない限り再会は望めないだろう。と頭の中で考えた途端、自分でもおそろしくなるほど身体中から力が抜けた。
いや、入らなくなったと言った方が正しいかもしれない。それまでピッと伸ばされた背筋が緩み、普段は仮面の下で凛々しく吊り上がった眉が、今ばかり嘆かわしくも垂れている。上手く喋れなかっただけで情けない、という気もしたが、どうせ仮面があるのだ。誰もわかりはしまい。
足跡を辿りながら見張り台まで歩く。階段が視界に入って顔を上げると、嫌なものが目に入った。
玄関ホールの壁際で、ゆらゆらと揺れるなにか──棘売りだ。後ろ手をつきながら胡坐を開け広げにし、もう片方で手招きしていた。その偉そうな態度と言ったら。
下の人間が上の人間を呼ぼうなぞ、なんと無礼な。幹部は最初、見て見ぬふりしてやろうかと考えた。しかし改めて「旦那ぁ~」と声を張られ、ひそひそ話をするように手壁を作るジェスチャーをされては敵わない。他の商業班員からも視線を向けられるものだから、こちらから行くしかないのかと諦めが生まれた。昨日の今日で会話なんぞしたくない。しかし棘売り仕込みの面倒を背負いたくはないので、見張り台に掛けていた足を渋々方向転換する。
「フラれちまいましたか」
顔を合わせた瞬間の、開口一番がこれだ。
笑みが隠せてない、隠密のやり直し! といいたいところだが、フラれたことを悟られる自分こそやり直しである。しかし、目の前の男には関係のないことだ。
ふんぞりがえって顎を突き出し、これでもかと害意を込めた鋭い瞳で見下ろしてやれば、「そんな怖い顔しないでくださいよ~」と猫なで声で甘えてくる。上目遣いをするな。気色の悪い。
「あんたって意外と不器用なんすね。搦め手でもなんでもしちまえばいいのに。押し倒したりとか」
「お前……俺がそんなことをすると思ってるのか? そんな下卑た行為を、この俺が」
「わーってますって。正攻法で責めたいんでしょ? 旦那ったら奥ゆかしいんだからぁ」
「……もしや、これだけ言いたいがために呼んだのか? こんなくだらんことを言うためだけに?」
「くだらんとはあんまりじゃないっすか。苦戦してそうだから助言してやろうと思ったのに」
「余計なお世話だ」
「でも、実際困ってるんっしょ?」
ぐ、といい淀む。確かに事実だ。
分からないなりに誰彼へ相談すべきなのだろうが、如何せん恋バナを明け透けに話せる間柄の団員なぞいない。だからといって目の前の男に手の内を晒し、あまつさえ助言を求めるのかといわれれば断固として拒否したいところだ。まぁ、勝手に呟かれる独り言であれば、聞いてやらないこともないが。
押し黙っていると、勝手に沈黙の意味を解釈したらしい。棘売りが「ひゃっひゃっひゃ」と派手に膝を叩いた。
「マ、女はとかく頼りがいのある男に好意を抱くモンですからね。強さのアピールはした方が良いんじゃないっすか?」
「強さのアピール? 幹部役が、わざわざか?」
「肩書きだけじゃア説得力なんてありませんよ。組み手をやってるところなんか見せてやったらいいんじゃないですか? バッタバッタと次々に敵をなぎ倒す様子なんざ、あれほど気持ち良いものもないざんしょ。どんだけ腕っぷしが強いのか、実際に見せておやりなさいよ」
「……それがなにかのアピールになるとは思えんが……」
「幹部殿すごーい! 私ときめいちゃう! ってね」
「やめろ、気味の悪い」
似てもいない針子の物まねに尖った声を浴びせるが、棘売りは相変わらず引き攣った笑みを漏らすだけだ。
ふざけた人間だ。やはり耳を貸して損したか? と一瞬の後悔が頭をもたげたものの、しかしと思い直す。
今しがた口にしたアドバイスは、一考の余地があるのではなかろうか。
幹部は顎を手で覆い、仮面の内側に広がる暗がりに焦点を合わせた。
自らの生を脅かす魔物が跋扈するハイラルの国で、強さはいつだって常人の憧れになる。他よりも恵まれた体格が、鍛練と共に発達した筋肉が、この過酷な世の中でどれほど尊敬を集めているかは分かっているつもりだ。
それに今までの所業を考えると、この鍛え上げた鋼のような肉体は、身体の小さな彼女を威圧する肉壁くらいにしか思われていない可能性だってある。
実際に彼女を守れるほどの力があると証明できれば、異性として興味を引くこともできるのではあるまいか?
幹部は、彼女が去っていった廊下の奥へ、僅かに視線を遣った。
正しいのかどうかは分からない。しかし試す価値はありそうだ。
思い立ったが吉日。すぐにでも向かいたいところだが、しかし幹部は足を踏み出せなかった。なぜならアプローチの内容よりなによりも、彼女と顔を合わせるような理由がない。
仮面の下で眉を歪ませて「まず、会う理由が……」と言葉を濁せば、棘売りはなにを言いたいのか悟ったのか「あー、なるほどね」と手を打った。
「じゃ、これ持ってってくださいよ。オレの用事ってことで」
言うや否や、棘売りは物販の端に寄せてあった布をヒラリと広げ、壁に立てかけてあった棘板に突き刺した。あ、と声をあげる間もなく、布からは鈍く光る棘の頭が現れた。見事な貫通である。
突然の所業に面食らって黙っていれば、穴の開いたそれを無造作に突き出された。
「直してほしいって言ってきてくださいよ。これで娘に会う理由になるっしょ」
なんという悪行を。物資が行き届いていないイーガにおいて、資源の無駄遣いは徹底して忌避されているのにこの男ときたら。
幹部は言葉を失ったまま、差し出された布を見下ろした。鉄棘を磨くのに使っていたらしい布は、油か煤かでまっ黒く汚れている。中心にぽっかりと穴も開いたことだし、もはやこのままゴミとして処分しても誰も文句は言うまい。むしろこれを「直してくれ」と縫製班に持って行くのは、先方に迷惑ではないかとすら思う。
棘売りのことを叱責するべきだろう。そして、もはやなんにもならないと布を処分するべきだったろう。しかし、そのすべてが憚られる。なぜならそれらすべてが自分に起因していた。自分がこの男の話に耳を貸さなければ、こんなことにはならなかった。
幹部役の矜持が頭の中で渦巻く。仮面の下に潜む棘売りの笑みを想像した。遠慮のない、浅ましい笑みだ。しかしその背後には、縫製室に行けば会える、自らの想い人の顔がちらつく。こちらはニコやかで、あどけなくて、まどやかな笑みだ。その瞳には自分が映ってる。
幹部はぐう、と両手で拳を握った。動かぬ者に、成功を掴むチャンスなど得られない。
「……感謝する」
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、布が逃げるようにぱっと上に持ち上がった。
その代わりにズイと現れたのは、棘売りの迫真としたイーガの白い面。
「これは貸しですからね~。上手くいった暁には、旦那。オレのことよろしく頼みますよ」
嫌な奴だ。半ば強引に布を奪い、「わかっとる!」と捨て台詞を残した幹部は、その場をずんずんと去っていった。
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岩屋の中は既に始業時間を迎えている。気配を消して生活する隠密集団ではあるが、朝方はアジトがもっとも活気づく時間帯といっても過言ではない。
研究班員が振るう槌の音や、指示出しの声。岩廊下に立っていると、さまざまな音が岩壁に反響して混ざり合っていくのがよく分かる。どこからやって来た音なのか。反響音が織りなす不鮮明な音の中をひた歩いていると、その中に知った声が紛れ込み、耳に飛び込んでくるような気さえする。
『女はとかく頼りがいのある男に好意を抱くモンですからね。強さのアピールはした方がイイんじゃないっすか?』
揶揄を伴った、あの粘っこい声。胡散臭いにもほどがある。
とはいえ、考えれば考えるほど、意外と真っ当な提案であるように思えた。
幹部役ともなれば、自らが他に対して「俺は強いんだ」と嘘か誠か分からぬ言葉を並べ立てずとも、第三者によって「この人めちゃ強いんですよ」とお墨付きをもらってるようなもの。イーガにおいては性格に難でも無い限り、幹部というだけで激モテ人生を送れることが約束されているのも同然のはずだった。
それなのに、なぜ鬼の幹部には今まで春が来なかったのか。単純明快。異性を引き寄せるには、性格に決定的な難があったのだ。
他人には厳しくとも自分にだけは優しくしてくれる恋人を好む女子が多い中、鬼の幹部は自分を含む全ての人間に等しく厳格だ。規則に背く素振りを見せれば容赦なく怒張声を浴びせるし、好いた相手だからといって手加減などしない。結婚適齢期を迎えても尚独り身で居たのには、悲しくも辛辣な理由が存在していたからなのである。
しかし、そんな男が恋に落ちた。経験値の少ない頭をウンウンと悩ませ、これまで積み上げてきた矜持も後回しにするほど、真剣に。
「……」
黙って廊下を歩き続けていた幹部はふと足を止め、壁際に寄った。縫製室に着いたのだ。
幹部は全身全霊で息を殺し、クナイの刃を部屋へと翳す。鏡面磨きを施した刃を傾けると、鈍色の中に曖昧な人影が映っているのが見えた。誰かまでは分からないが、二人と存在していないのは確かだ。
例の針子娘であるなら良し。しかし、古参の針子であるならこのまま引き返したい。彼女には目の敵にされつつある。この前聞かされた苦言は、未だ幹部の胸の奥深いところに刺さったまま抜けていない。心底迷惑そうなため息の音を思い出すだけでちくちくと痛みだし、その度に胸を掻いて唸りたくなる。
どうやら中の人物は、壁際の布山の方に座っているらしい。どちらかは分からない。意を決して、そろそろと顔を覗かせた。
……針子だ。新人の方。ぐっ、と思わずガッツポーズをする。
例の体調不良にも見舞われたが、今やそれは不快を表すものではなくなっていた。ばくばくと鳴り始める心臓も、急激に沁みだしてくる手汗も、いわばこれは戦う前の武者震い。高揚の一種だ。
幹部は頭をひっこめてから胸に手を当てる。一つ息を吸い、ゆっくり吐く。すうはあすうはあ何度か繰り返して、武者震いを落ち着かせた。そして誰ともなく頷く。
気配を消したまま、一旦そろそろと部屋から離れた。数十歩分の場所で静止。心の中で「よし」と呟き、やっと勇ましく足を踏み出した。
「針子、ちょっといいか」
それまで俯いていた顔がパッ、と持ち上がる。
「台座さん!」とよく動く口元は相変わらず晒されていて、瞳は爛々。しっかりと自分を捉えているのがはっきりと分かった。しかし、以前のように混乱するほどの発汗はもうしない。成長である。
この部屋で、二人きりで話すのはいつぶりだろう。天気の話をするだけで満たされたあの日々。俺はここに、また戻ってこられたのだ。
それまで手元で弄っていた布を部屋の隅に寄せた針子は、ぴょこんと飛ぶように立ち上がって、幹部の元へパタパタと寄った。
「お疲れ様です、台座さん! もしかしてさっき、ご用事がありましたか? 私急いでたからさっさと帰って来ちゃって……すみませんでした」
「いや、気にするな。あの時に用事はなかったのでな。今しがた棘売りに頼まれてきたんだ」
「そうだったんですねぇ」と何度も顎で頷いてみせる針子に布を差し出すと、彼女は一も二もなくその場で開いてみせる。顔の真ん前にまで上げて、まあるい片目で穴を覗き込んだ。
改めて考えると、自然にできたとは到底思えない真円だ。縫製の手利きならば「わざと開けたんじゃないか」と見破ってもおかしい話じゃない。ひやりと背筋を伝ったのは、後ろめたさだったか、冷や汗だったか。
しかし、やや合間をあけて彼女が告げたのは「キレイに空いてますねぇ」という一言。正直言ってホッとした。彼女は、棘売りの頼まれ事にしてはよくあるのだと続ける。どうしてそうなるのか分からない。彼奴にはやはり説教をせねばならないらしいと、幹部は心の中で決意した。
「じゃあ、さっそく繕いますね! 今ちょうど暇してたんで、すぐ取り掛かります!」
「縫製班も暇ということがあるんだな。常に修理で大忙しというイメージだったが」
「先輩が出かけてて、帰り待ちなんです。縫物の練習してたんですけど、編み物しようか、たまには鍛練にでも行こうか、って考えてて」
ちらりと後ろを振り返った針子の視線の先には、先ほどまで手に収まっていた赤い布。糸が繋ぎっぱなしになったそれには、乱雑な模様のように黒い線や刺繍が繕われていた。
入ってきたばかりの新人が、自らの裁量で仕事に取り掛かれないのは珍しいことじゃない。特にイーガという集団は上下関係に厳しく、暗黙の了解だって存在する。この前みたいに余計な気を利かせてハートの刺繍を繕われても困る。新人が何もせずにちんまりと正座しているのは正しい判断だったろう。
しかしそんなことより幹部が気になったのは、彼女がふと口に出した「鍛練」という言葉だった。つい先ほど、俺は同じ言葉を聞いたじゃないか。
『組み手をやってるところなんか見せてやったらいいんじゃないですか? バッタバッタと次々に敵をなぎ倒す様子なんざ、あれほど気持ち良いものもないざんしょ。どんだけ腕っぷしが強いのか、実際に見せておやりなさいよ』
棘売りの言葉が脳裏に蘇る。これは、実際、またとないチャンスなのではなかろうか?
「針子」
「台座さん」
パッと、針子が口元を押さえてみせる。呼ぶ声が重なった。
真ん丸に瞳が見開かれ、「かぶっちゃった」とくぐもった声が、手の隙間から聞こえてくる。幹部は思わず奥歯を噛み締めた。
声が被っただけなのに、胸がこうまで昂るのは何故だ。同じタイミングで喋りだそうとした相性の良さを感じるからか、それとも突発的に繰り出されたあどけない仕草が、小動物のようで可愛らしかったからか。
緩みそうになる頬を内側から噛んでることなぞひとつも気付かない様子で、針子はニヘラとはにかんでみせる。「台座さん、先にどうぞ」と差し出す動作がやけに大げさだ。それにいたいけで、飾っていなくて。
喉の奥で咳ばらいをする。じゃないと、また声が上ずりそうだった。「すまん」と頷いて、幹部は狼狽を悟られないよう大仰に腕を組んでみせた。
「実は俺もこれから鍛練に行くつもりなのだが……お前も付き合わんか」
「鍛錬、ですか?」
「ああ。この前、弓の引き方が分からんとぼやいてたろう。先達の帰りを待つ間、暇ならついでにと思ってな。……どうだ」
咄嗟に口をついて出たにしては悪くない。彼女との会話に慣れてきた成果が出ているのではなかろうか。
その割に針子には「うーん」と悩む素振りを見せられてハラハラしたが、最終的には「いいですよ! 行きましょう!」と了承されてホッとした。
かくして、幹部の思惑通り、針子と共に鍛錬部屋へ訪れることと相成った。
鍛錬部屋は、イーガのアジトの中でももっとも広い面積の部屋である。障害物を想定した木箱や柱が一見乱雑に設置され、中央には鍛錬部屋のシンボルでもある櫓が聳え立つ。壁際には練習用の小太刀に大太刀、それに二連弓がずらりと並ぶ。着の身着のままでもやってきさえすれば、すぐさま鍛練を始められるというわけだ。
部屋の外にまで響く雄たけびは、鍛練の激しさと物々しさを雄弁に語っている。
幹部が足を踏み入れると、中では十数人もの団員が各々の方法で身体を鍛えていた。的に向けて弓を引く者、複数を連れ立って筋肉トレーニングをおこなう者、ただ黙々と刀を振り上げる者。幹部としては今日既に訪れた場所であるが、やはり日中の様子は朝と一線を画す。
「あれっ、幹部殿じゃないですか! 日中にも来られるとは珍しい!」
なにに手をつけようかと辺りを見回せば、櫓の上できびきびと声を張り上げていた鍛錬班の幹部に見つかった。
来訪者一人ひとりに逐一目配せしているのだから、律儀な男だと感心する。「邪魔をする」と緩く手を挙げると、鍛錬班の幹部は会釈をして、組手中の団員へと視線を向けた。
「普段は……日中に来ないんですか? 忙しいから?」
後ろからひょっこり顔を覗かせた針子が、鍛錬の様子を興味深そうに眺めながら言う。
「そうだな、俺は大体、業務前に鍛練を終わらせている。日中は時間がとれんしな」
「台座さんはすごいですねぇ、そんなに忙しいのに鍛練も欠かさずに頑張ってるなんて……。私も見習わなくちゃ」
すごい、と感嘆され、いい気にならない片思いの男はいないだろう。そわりと胸の内が擽られるような心地になったが、はたりと思い返す。やけに物珍しそうに辺りを見回す針子の様子と、見習わなくちゃという言葉が引っかかった。
「お前は普段、どの程度鍛練をしてるんだ」
何気なく紡いだ言葉に、針子はギクリと肩を縮めて、露骨に顔を俯かせる。この態度。まさか?
「え、えっと~……業務が暇なとき、ご飯食べた後、とか! です、かねぇ……」
「……もしやお前、そこまで熱心じゃないんだな?」
「ね、熱心ですよぉ! ただ、だって……あんまり得意じゃない、というか……」
人差し指をつんつんとつつく針子は声を萎ませた。こうまで分かりやすい態度を取る隠密がどこにいるだろうか。もはやなにを言えばいいのかも分からず、幹部は一層小さく見える彼女の頭を黙ったまま見下ろした。
イーガは、この国に居場所を失った人間の寄せ集めの側面が強い。昨今はとかく人手を求めている風潮も相まって、昔ほど厳格な入団規則を設けているわけでもなく、志の低い人間が紛れ込むケースも増えている。民間人からの入団が増えている昨今の風潮を考えれば、針子の怠慢さは決して少数派というわけではなかった。
とはいえ、誰彼構わず受け入れているわけでないのも確かだ。ハイラルの僻地に存在する支部を訪ね、イーガの装束を集めてくること。その足をもって、イーガへの入団審査の合格としている。
……だが目の前の女は、マリッタ支部の幹部から紹介され、アジトへやってきた。つまるところ、もしやこのアジト内でもっとも非力な存在なのではないだろうか?
幹部は未だ俯いたまま指先を捏ねる針子をしげしげと眺める。
見るからに薄い体の線に、一切の筋肉がついていない二の腕。首元の鎧に隙間ができるほど細い首。いつもポテポテと愚鈍な歩き方をしてみせるのも、隠密の身のこなしが身についていないのだろう。だって鍛練を積んでいないのだから。
どうにかせねば。
このとき胸に灯った責任感が、周囲に「鬼」と呼ばれる熾烈さを呼び覚ましてしまった。
「針子」
ずん、と腹から響くような低い声に、針子が「は、はいっ」と跳ねあがる。
「イーガ団たる者、いつなんどきの不慮にも対応できねばならん。それは縫製業務に携わる内勤とて同じこと。その細腕のままで良いと、お前とて考えているわけじゃないだろう」
「そ、それはそう、ですけど……」
「ならば、今日から鍛錬の時間はしっかりと確保するのだ。もしくは、せめて素振りをする習慣をつけろ。幸い今日は俺がその筋を見てやれる。ついて来い。みっちり扱いてやろう」
言葉の帰ってこない針子をその場に置き、幹部はずんずんと奥へ進む。
壁際に立てかけられた馴染みの大太刀を左手に持ち、右手で小太刀を彼女へ差し出すと、彼女は一拍遅れて「ひぃっ」と悲鳴をあげた。