【本編】鬼の幹部が恋をした!

 イーガ団アジトの男部屋。寝息の声が響く暗闇の中で、鬼の幹部はパチリと目を覚ました。朝になったと、体内時計がそう告げた。
 上半身をむくりと起こし、肩を後ろに引いてゆっくりと筋を伸ばす。それから身体の細胞一つひとつへ行き渡るよう、静かに二度、三度と深呼吸をした。起きがけに身体を整えるのが彼の日課なわけだが、今朝はいつもと比べ、頭の中が澄んでいる。
 よく、眠れた気がする。寝ている最中、人肌の底なし沼に沈み込んだような居心地の良さがずっとあった。いつもであれば団員の寝息や気配を微睡みの中でうっすら認知し続けるものだが、今日はそれがなかった。なぜだろう。
 団員の装束に着替えようかと立ち上がり、そこでふと、腹に触れて気付く。腹を覆う、もこもことした毛糸の腹巻──そういえば、昨日はこれを履いて寝たんだったか。
 隙間風が好き勝手に入ってくる玄関と比べれば、共寝所の寒気なんて気にするほどじゃない。しかし、そうはいっても冬入りはもうじきで、明け方にかけてのゲルド地方はまるで極寒の世界へ変貌する。ここ最近、寒気で度々目を覚ましていたものだが……これひとつでこうまで変わるとは。
 伸縮性のある腹巻は、そもそもの持ち主にこそ大きすぎたのだろうが、巨漢の腹にはぴったりと纏わった。締め付けられた感覚はなく、かといって緩すぎることもない。まるで、最初から自分のために作られたみたいだ。
 柔らかい毛並みに指先を埋めると、暗闇の視界に浮かんでくるものがある。仮面もつけていない、にっこりとした丸い顔。
 ……脱ぎたくない。頭の中へ浮かんできた言葉に、幹部は内心ではっとなる。いやこれは、寝間着に忍び込んでくる冷気の所為だ。あいつから貰ったかどうかは関係ない。
 しかし腹巻をしたまま薄地の装束を着ることなどできるわけもなく、鬼の幹部は腹巻を尻から足に通し、無言のままに身支度を進めていった。


 昨日の今日で、世界が変わった。いや厳密に言えば、世界の見え方が、まったく変わった。
 至る所にかかっている提灯は、全て自分自身を祝う派手な飾りに見えたし、団員達が幹部にかける労いは、ハッピーな一日が始まる鶏鳴に聞こえた。歩く度に擦れるジャリジャリとした音で気付けば拍を刻み、今ならゲルド族の得意とする演舞の真似事さえできる気がした。
「幹部殿、もしかして良いことでもありました? 今日はやけに冴えた剣でした!」朝の模擬戦で鍛練班の幹部にまで見透かされたのは、迂闊だったかもしれない。
 彼には、世界がこうまで見違えた原因が分かっていた。縫製班の新人針子だ。素性を明かさぬことを是とする隠密集団にいながら、素のままの顔で自分を見返してきた、針子の女。あの朴訥な顔が、まるで米粒を指で擦り付けて潰したみたいに、頭の中にこびりついていて剝がれない。

 自分はおかしくなってしまったのだ。頭を振っても、水を被っても、壁にぶつけても変わらない。団員からの声掛けに気付かない失態も増えている。部下から何度「幹部殿……?」と下から覗き込まれたことか。
 これほど自らを律せないことなど、イーガの団員として育てられた幼少期のみぎりから初めてだ。どうすれば良いかは分からないが、しかし不愉快でないのも事実だった。腹巻をして寝るとやけによく眠れる。それは、腹が暖まるよりも何よりも、心の奥底がぽかぽかと暖まる感覚があるから。なんだか、気を張らずに過ごしていいのだと許された気になって。

 認めねばならんだろう。この不可思議な感情の正体を。
 自分は、落ちた。縫製班にやってきた新人の針子に。
 イーガに尽くしてきてウン十年。鬼の幹部が初めて抱く、病と呼ぶに相応しい恋慕の情であった。







 カラララ……。
 木枯らしが吹くたび、鳴子のぶつかり合う音が谷間にざわめいては消えていく。
 薄闇がカルサー谷を支配する夕暮れ時。崖の奥に太陽が落ちてから暗闇になるのは一瞬で、日が経つごと、日脚が早く感じられる。
 キンと澄み渡った寒空が遠い。そろそろ、カルサーにも冬がやってくる。

 イーガの守衛番として玄関を守る鬼の幹部も、そんな季節の移ろいを実感していた。
 日に日に厳しく、長くなっていく朝晩の冷え込みだけじゃない。商業班員だ。アジトの玄関先で物販を広げる彼らは、朝の訪れと共にブランケットを携えてやってきて、「おはようございます、幹部殿」とぼそぼそ挨拶するや否や、それにくるまって蹲る。まるで繭に包まれでもするように。
 仮面だけを覗かせる滑稽な姿に仕事への気概は感じられない。玄関業務はイーガの”顔”でもあるという自覚をもう少し持てないものかと、鬼の幹部は苦々しく思っている。

 しかし、まぁ。
 内心で一人ごちながら、幹部は冷たくなった二の腕を摩った。

 寒いのをどうにかしたいのは、確かにそうだ。
 それでなくとも天変地異を境目に、ゲルド地方の気温変化は生活するのも儘ならないほど差が激しい。木の門からビュウビュウと隙間風が吹き込んでくる玄関は外にいるようなもので、いくら多少の工夫が凝らされた装束といえど、薄い生地ですべてをガードすることはできない。
 朝は鍛錬で身体が暖まっているからいいものの、立ちっぱなしでいれば腹の芯から凍えてくる。守衛番として雄々しく腕を組むポーズは、このとき単に、熱を逃がさないための工夫になっていた。

 しかし、今日はとみに寒い。すっかり陽が落ちた暮れ合いで、確かに一日の中でも気温の下がり始める時刻だ。イーガの顔としてブランケットなんぞ肩から掛けられるわけもなく、寒くて震えているのか貧乏ゆすりなのか無意識に足を揺すり始める。
 せめて誰か来てくれないか──と、思った矢先、門の裏側でコンコンとノックの音。団員だろう。

「ただいま戻りました」
 さびぃ~、と身を縮ませて帰ってきたのはバナナ売りだった。馴染みの商人から商品を仕入れてくるといって、今日は朝から一日外出すると言っていた。
 横を通り過ぎたとき、くん、と漂ってきたのはバナナの香り。膨らんだ背嚢の中か。夕飯前で小腹も空いている。仕入れたばかりのバナナは青くて好みじゃないが、一房貰おうとしようか。

「……おい、これはなんだ」

 よろよろと持ち場についたバナナ売りが敷物に並べたのは、もちろんバナナだ。しかしなにやら様子がおかしい。いつもであればツルギバナナの房が山になるところ、バナナ売りは房からもいで、緩慢にも一本ずつ並べだした。せめて量を多く見せようという魂胆なのか、角度を変えたり立てかけてみたり、まばらなのも小癪である。
 片膝をついて覗き込むと、バナナ売りは寒さに身を震わすばかりでどんくさい。「えっとですねぇ」と芯のはっきりしない声で言われ、幹部は更に眉間の皺を深くさせた。

「なぜこんなに仕入れが少ないんだ。歴の長いお前を見込んでコーガ様が任せてくださった業務だぞ。この体たらくはなんだ! 全く足りないじゃないか!」
「いえね……そりゃ俺も充分な仕入れをしたいですよ。ただどうにも先方の機嫌とか、バナナの発育状況とか、いろいろあるんでさ……。年がら年中、常に同じ量の供給が見込めるとは思わないでくださいよ」
「しかし、それこそがお前の業務であろう。努力が足りないんじゃないか。ひとつの農家から仕入れが少なくなるんだったら、新しい農家を見つけて交渉するとか」
「あのねぇ旦那。横の繋がりってもんがあるんです。今月少なかったから別のところに頼むとか、面目が潰れちまいますよ。行商ってのぁ、相手方の信頼関係あってこそ成り立ってる部分もあるんです。そりゃ俺たちの顔は扮装で、偽りかもしれませんけど」
「だったら足を使え足を。野生のツルギバナナを探しに歩くとか、なんとかあるだろ。よくもまぁこの状態でぬくぬくと縮こまっていられるものだな」
「脚ったって……限界があるでしょ……農家が発育悪くさせてンだから、野生も同じだって……考えればさぁ」
「だからって、お前」

 バンッ! 幹部の声を遮るように、「だーっ!」と吠えながらバナナ売りが床を叩く。

「旦那! いい加減にしておくんない! あんたしつこいですよ!!」

 それまで弱弱しく鳴いていた男が急に立ち上がり、鬼の幹部は目を剥いた。
 
「いいですか! 商売人には商売人のやり方があるんです! 商売のしの字も知らないズブの素人が考えるアイディアなんて、この状況を打破する起爆剤になんかならねえって分かりませんかね!?」
「お、おぉ……」
「あっちもこっちも商売で、やり取りは腹の探り合いなんだ! 駆け引きがあるってことも知らない癖に口挟まないでくださいよ!」
「そ、そうか……すまん」
「旦那も商業班なんだから、この際勉強してつかーさい! そうだ寒さをどうにかするクスリとか、食いもんとか、見つけてきたらどうです? 行商人捕まえてくるとかして!」
「無茶言うな。俺は商業班以前に守衛番だぞ、ここから離れられるわけなかろう」
「だったらあんたも無茶言わない!」

 吠えに吠えたバナナ売りは、捨て台詞のように鼻を鳴らし、プリプリと歩いて行ってしまう。

「おい……どこ行くんだ」
「飯です!」

 バカにしている。仮面の下で咄嗟に口を開き、しかし、彼を説き伏せられる言葉が見つからない。バナナ売りの背中が廊下を曲がるのを見届けて、幹部はそのまま静かに唇を閉じた。情けないが、正論だと思ったので。

 確かに自分は商業班の幹部だが、彼らの仕事をつぶさに理解しているかと問われれば、イエスと言えない。
 何をしているかは知っている。ただ、どんな風に交渉をして、説得をするにはどんな人心掌握の技を使うのか。一商売人としての交渉テクニックなんて、人の首を刈ることだけを考えてきた鬼の幹部が知る由もない知識である。
 もっとも彼は、イーガ団の中でそれなりの地位をもつ男だ。幹部が商売業に乗り出す機会なぞこの先もないに違いなく、交渉力やコミュニケーション能力が求められているわけでもない。
「俺の知ったことではない」と頭の中で呟く。とはいえ、なんとなくしこりとなってしまうのだから、彼がバカ真面目と称される所以はこういうところにある。

 見晴らし台に戻りつつ辺りを見回せば武器屋も弓矢屋も出かけており、玄関ホールは閑散とした雰囲気だ。バナナ売りもそうだが、夕餉でも食いに行っているのだろう。

 夕餉と考えて、ぐぅ、と腹が鳴りそうになった。そういえばバナナを買いそびれたことを思い出す。数時間前の昼餉から間食もせず、真面目に守衛に努めていた。しかしこれほど空腹を実感してしまったら、どうしたってさもしい気になるものだ。
 さすがにこれほど人がいない状態で「俺もいってくる」とは言えず、手持無沙汰にまた足を揺すり始める。

「こんにちはー!お荷物届けにまいりましたー!」

 早く誰か帰ってこないものかと、つい廊下の奥へ視線を向けたその時。タイミングを合わせたように、ぬ、と小柄な構成員が現れた。──針子だ。
 ギュウッ!! 思い切り心臓を鷲掴みにされたような痛み。幹部は思わず胸へ手を当てる。
 まずい。まずいことになった。いや、よく考えたら別にまずくない。しかし、あんまり心の準備ができていない。
 ここ最近の体調不良と、岩屋の生活が変わった原因。縫製班に新しくやってきた、新人の娘。恋慕を自覚してから、初めての邂逅である。彼女にどんな顔を向ければいいのか、まったく考えていなかった。いや、向ける顔なぞイーガの仮面以外ないのだが。
 彼女がキョロキョロと辺りを見回す姿を認め、幹部は視線から逃れるように背を向ける。
「ご苦労」なんて、これまで通り大仰に接せられるか分からない。だってこんなにも心臓が騒いで、喉が勝手に絞られてしまうのに?
 しかし、覚悟ができていないからといって彼女の来訪をスルーすれば、話せる最大のチャンスを逃すだけだろう。なんと声をかけるべきだろうか。久しいな……は、たった数日ぶりなだけでおかしいか。元気だったか、最近寒いな、とか……俺はいつもこのようなことを考えている気がする。

「幹部さん!」

 すぐ真後ろで高い声。思わずビクッと身体が跳ねる。
 仮面の中で視線をさ迷わせる。視界に入るのは誰も座っていない物販と、棘板と戯れる棘売りと、砂の溜まった部屋の隅と……いや、こんなこと考えてる場合じゃない。
 ギギギ、と油の抜けたカラクリを思わせる動きで振り返ると、イーガの一つ目が自らを見上げている。もちろん針子だ。
 今日は、しっかりと仮面を身に着けてるんだな、と思った。頭の上で結った黒髪の艶やかさは健在で、胸の前で畳んだ布を抱える手の平が、ちまりと小さくいじらしい。
 幹部はゆっくりと一歩後ずさる。それから言葉を発する前に喉奥で空咳をして、「針子、なんだ。ご苦労。俺に何か用か」となんとか第一声、絞り出した。

「お疲れ様です! 台座さん……じゃなかった。幹部さんに、折り入ってお願いしたいことがありまして」
「お願い、とは。なんだ、言ってみろ」
「はい! 武器屋の団員さんから、手入れ用の布をお願いされて持ってきたのですが今いらっしゃらないようなので、だ……幹部さんから渡してくれませんか?」

 僅かに差し出されたそれは一枚布ではなく、いくつかを重ねた束であるらしい。赤色を中心に黄ばんだ白色の布が混ざっていて、どうやら使い古しの布をし立て直したもののようだった。
 確かに、武器屋の手入れ姿はよく見かける。なんとなくほっと息を吐いて、「それくらいだったら構わん」と頷けば、針子は「ありがとうございます!」と綻んだ声で布を持ち上げた。
 布は、仄かに温度があった。もちろん布自体が発熱しているわけでなく、恐らくここまで抱えてきた、彼女の体温……とまで考えて愕然とする。自分はなんちゅー変態的なことを考えているのか。痴れ者めっ。
 しかし本音を言えば、このまま武器屋に渡すのが惜しい。埃くさい古びた布にこうまで価値を感じるようになると、誰が思うだろうか。
 目の前の男がざらついた布の感触に悶々としていることなんど露とも気付かず、針子はちょこんと居住まいを正してみせる。

「最近縫製室に来られないから、どうしたのかなーって思ってたんです。元気そうで良かったです」
「あぁ……すまんな、以前は俺が業務をまとめて持ち込んでたんだが、最近仕様が変わって……」
「あ! そうだったんですね! 台座さん忙しいから仕方ありませんね……私、ずっと台座さんとお話ししたくて」

 自分と話したい? さわり、と胸の奥に走った疼きは、間違いなく期待だ。なぜなら自分も話がしたかった。
「そ、そうなのか……?」と小さく聞き返すと、「はい!」という元気な声。彼女はいつだって明るくて溌剌としている。

「この前渡した腹巻、どうだったのか聞きたかったんです! 初めて作ったから上手にできたか不安で……台座さん、大きいからちゃんと入ったかな~って気になってて。どうでした?」

 幹部は弾かれたように「あぁ!」と声を上げる。確かにそうだ。感想を本人にすぐさま伝えなかったのは不躾だった。
 
「非常に具合がいいぞ! 腹が温まるからかよく眠れるようになったんだ。腹巻ひとつであすこまで変わるとは思わなかった。ありがとうな、恩に着る」
「良かった~! 腹巻いいですよね、台座さんにも好評なら自信持てます! 私も自分のを早く編みたいんです、朝晩が寒くって」

 ひゅう、と鋭い外風の音が聞こえて、微かに空気が動いた。ほんの少し風に撫でられただけだと思うが、その途端針子は、ブルブルっと肩を大袈裟に持ち上げて、身を縮ませる。

「うわぁ玄関ってやっぱり寒い……私、そろそろ行きますね。腹巻活用してくださいねっ」
「ま、待てっ、針子! ちょっといいか!?」
「はい?」

 自らを抱きしめながら踵を返そうとする彼女に、思わず声をかけていた。
 衝動的な行動に違いなく、何を言うべきかは考えていない。しかし、実のある話題じゃなくていいから話がしたかった。腹巻が如何に冷たい夜を暖めてくれているか。彼女に会ってから、どれほど鬱蒼とした岩戸の世界が一変したか余すところなく伝えたい。
 もちろんそんな生々しい言葉をそのまま発そうなんて毛頭考えていない。丁寧に梱包しなおして、彼女に伝えるつもりだ。そのための時間と余裕が欲しい。機会を得るには、どうしたら良いか。
 彼女が改めて自分を見上げてくるコンマ秒の合間。イーガの赤い瞳が、自分へと焦点を合わせる。

「め……飯でも一緒に食わんか!?」
「……飯?」

 口に出してから、自分でもはっとなる。
 それ、名案ではないか? 首を傾げる針子に早口で言い募った。

「そうだ、飯だ。俺は今から食いに行くんだが、いつも一人でな! 夕飯時だろう! 久しぶりだし、新人のお前が何か困りごとでもあれば相談に乗ってやろうかと。アジトのまとめ役として!」
「わぁっ、台座さん優しいですね。お忙しいでしょうに、おまとめさんだからって新人にそこまで気を遣ってくださるなんて!」
「ど、どうだ?」
「でも、ごめんなさい! 実はもう、夜ご飯食べちゃったんです。また今度、お願いします!」

 ぺこ、と深くお辞儀され、幹部は知らぬ間に持ち上げていた両手を、ゆっくりと降ろした。これは、そうだな。断わられたのだな。
 一瞬なんと返せば良いか思いつかず、奇妙な間が空く。それから、「あー……そうか、また、今度……な」水をかけた後の焚火から伸びる煙みたいな声が出た。威勢は消火されたのだ。彼女の一言によって、バケツに汲んだ水をぶっかけるが如く。
 改めてぺこ、と頭を下げた針子が廊下の先に行ってしまうまで、幹部は彼女の背中から目を離さなかった。タッタッタと遠慮ない足音が廊下の奥に消えていって、そうして、玄関に改まった静寂が広がった。

 撃・沈。ひゅぅ、っと細い隙間風の音が、身体だけじゃなく心の奥まで凍らせていくようだった。ざららと乾いた砂粒が微かに転がる玄関ホールは、彼の心象風景そのものだろう。気持ちだけは、ゲルド高地で白魔を被さっているようではあったが。

 しかし──。幹部は力強く拳を握った。
 悪いことばかりでもないはずだ。なぜなら飯を食おうと誘ったとき、彼女はまず迷ってみせた。そしてごめんなさいと謝られた。断わられたこと自体は残念だったとしても、きっと考える余地があって、そこまで悪く思われていないのではなかろうか。一緒に飯を食ってもいいかもしれない、と一考する対象ではあるのだ。今日はタイミングが悪かった。ならば、度々彼女を誘ってどうにか話す機会を得て、じわじわと仲を深めていけば良いではないか。
 ともかく顔を突き合わす回数を増やす。それからはよく分からないが、……成り行きで。
 今後の目標をたてた幹部は、小さく頷く。
 まずはこの体温を失った布束を武器売り場に放り込もう。そう思って、足を踏み出した瞬間だった。

「ひゃっひゃっひゃっ……幹部殿ぉ見ちまいましたよ、今の台詞~!」

 背中から響く甲高い声。跳ね上がる心臓。勢いよくバッとふり返れば、見慣れた構成員が見晴台の下に突っ立っている。
 丸めた背中に、構成員の中でも特にあばらの浮いた痩身の男──鉄の棘を売る商業班の団員だ。ついさっきまで物販の奥で売り物の棘板と壁に間に挟まっていたのに、いつの間に背後へやってきたというのか。
 幹部は面下で顔を顰めさせる。享楽主義揃いと評され商業部員の中でも、棘売りはもっとも折り合いが悪い。ニヤついた言葉尻に、揶揄を含む物言い。売り物に対する愛情は分かるものの、かといえ物販業務に真面目というわけでは決してない。イライラさせられたことだって一度や二度ではないし、何を考えているか掴めない不気味な男だった。
 これは面倒なことになった。「お前……いつからそこに」と牽制するような低い声で唸ると、棘売りはクククと笑いながら気怠そうに正面へと回ってくる。

「ずっと居ましたよ俺ぁ。うつらうつらしてたら丁度アンタの声が聞こえてきてね」
「業務中に寝こけるな、たわけ! コーガ様からありがたく拝命した商業班員だぞ。自覚はないのか!」
「え~? 業務中に女ぁ口説いてる自分のこと棚にあげるんすか~?」

 くにい、と軟体動物のように腰を曲げ、ほとんど逆さの顔で下から覗き込まれる。
 幹部は言葉に詰まった。
 さんざ嘘や欺瞞の技を繰り、何人もの人間をだまくらかしてきた幹部にとって、ここで嘘偽りを演じることなど難しくない。しかしそれでも言い返せないのは、”それ”に対して後ろめたさがあるからに他ならない。
 業務中に、女を、口説いている。一言一句同じ言葉で自分を責めていた幹部は、唇を引き絞った。図星を突かれた人間とはかくも脆い生き物なのだ。
 ひひひ、と引き笑いを零す棘売りが恨めしい。正に鬼と呼べるような形相で睥睨するが、もちろん仮面越しに伝わるわけもない。顎に手を当てて首を伸ばす棘売りに、まるで商人が物品を眺めているようだと幹部は思った。

「いやーまさかオカテェあんたがあんな娘っ子に必死になってるなんて、笑っちまいますよ」
「……業務の話だ。口説いてるわけじゃない」
「口説いてんでしょ~! しかもだって……ぶ、断られてやんの! あんな誘い方で女が靡くかって。くく……」
「……」

 口元に拳を当て、遠慮なしに前かがみになって肩を震わせる目の前の男。上役にこうまで非礼な態度を取れるのは、むしろ称賛に値するのではなかろうか。
 否。そんなわけあるまい。イーガはバキバキの体育会系。地位による上下関係が絶対で、頭のネジが外れでもしていない限り、どんな状況だって構成員が幹部を揶揄うなんてありえない。棘売りが喉奥で笑い続けるのは、正に頭のネジが外れてるからである。
 何を言っても無駄だろう。それに、おためごかしをするほど低い矜持であるつもりはない。
 黙って揶揄を聞き続けられるほど低いかといえば、そうでもないというだけで。

「もういいか。お前がいるなら、俺はそろそろ昼飯を食いに行く」

 答えを聞く前に、幹部は棘売りの横を抜けた。
 誰かを真似したような「行ってらっしゃいませ~」という声が追いかけてくる。その後でまた、歯の奥で噛み締めたような笑い声。
 あんなふざけた奴にかまってられるか。さっき消火した焚火が燻り続け、喉を焼かれたみたいで不愉快だった。


5/5ページ
スキ