【本編】鬼の幹部が恋をした!


 今しがた会話をしていた人物が、次の瞬間にこと切れていたら、あなたはどう思うだろうか。
 しかも病などではない。首を掻っ切られて亡き者になっていたとしたら?

 周囲を見回しても何もない。人影や足音なども一つもない。森だろうと川だろうと家の中だろうと、その不可思議な毒手は突然にやってくる。
 人の手に掛けられたとは到底思えない鮮やかな凶行だ。その惨状を目の当たりにしたとき、ハイラルの国民であればはっきりと予感する。
 ああ、悪鬼の仕業かと。ハイラルには、得体の知れない鬼が住んでいるのだと。

 傾斜のきつい坂を上ったカルサー谷の奥。人を拒む重々しい空気が満ちた行き止まりに突如として現れる木の門構え。
 一切露出のない赤き装束と、この世を作った女神の系譜に裏切られ、悲しみに垂れた涙を逆さに掲げて叛心の証とした暗殺集団が存在する。

 鬼とは、谷の奥に住まう彼らのことである。





 時は、ゲルド砂漠に残月の光降る明け方。
 ハイラルの暗部と称される武闘派集団・イーガ団は、朝な夕な隠密の業務に勤しむ集団である。
 王家からの迫害を受け、同士と袂を分かってから幾星霜。現在は恨みを募らせ国家の転覆をひた狙い、団員達は一日という時間の括りなくハイラルを東奔西走する。

 とはいえ、本拠として居を構えるカルサー谷にて従事する人間は、朝陽の訪れと共に目を覚ます者が大半である。近頃は地底という新たな土地の開拓のために、集団の規模拡大を推進した結果、団員数の増加が著しい。大勢での生活を維持するためにはアジト内の炊事・洗濯を始めとした家事全般の担当が必要不可欠になっている。
 朝餉を作るにも、洗濯ものを乾かそうにも、太陽光を浴びて心身の覚醒を促すセロトニンの分泌を促そうにも、やはりまずは朝起きること。朝昼夜を意識した規則正しい生活は、人間である以上、隠密の彼らにも強いられているのだ。

 そんなことはどうでも良い。問題なのはイーガの本拠となっている穴倉が古代ゲルドの遺した遺物であり、朝陽を浴びるための窓が存在しないということ。彼らは朝がやってきた事実を、口伝いでしか知る方法がない。
 アジト内で唯一外界と接するのは、ゲルド砂漠に向かう正面玄関と、かつては集団を束ねる総長の自室として使われ、現在は物置部屋と化した裏口のみ。
 それぞれに朝晩の二交代制で守衛を据え、夜番の者は朝日が昇ったのをきっかけに団員達の寝静まる共寝所に赴き、朝の来訪を告げる。

 しかしこの日、正面玄関には寝落ちた構成員の姿があった。
 門の隙間から針のように細い陽光の筋が仮面を照らしているというのに、寝息をたてたまま起きる気配が全くない。固い石の床に座り込み、固い木の門に背中を預けてここまで熟睡できるのだから、この構成員はサボりのプロである。
 この後自らの身に降りかかる恐怖など一切予感なく、彼は今この時、微睡みの幸福を一身に受けていた。

 むにゃむにゃと腹を掻く構成員に突如として、ぬっと濃い影が落ちる。
 すっぽり身体を覆うほどの影の原因も実際に大男であり、仮面に描かれた動かないはずの瞳が、陰を纏って随分冷たく構成員を見下ろしている。オーラとして消し炭色の殺気が目に見えるようであったが、そんなことは露知らず構成員はすやすやである。
 その鈍感さが大男の癪を撫であげた。

「おい、起きろ」
「・・・・・・かぁ・・・・・・」
「いつまで寝ているつもりだ、朝だぞたわけ、さっさと起きろ」
「・・・・・・んん・・・・・・」
「お前・・・・・・おい・・・・・・」
「うぅん・・・・・・バナナは、もう・・・・・・食べられないよぉ」

 ぶちぃ。それは堪忍袋の緒が切れる音。もしくは、巨漢の面下で静かに浮き出た青筋がブチ切れる音。大男は瞬間的に、腹の奥底へ届くように深く息を吸い込んだ。

「いつまで寝とる気だ!!起きろッ!!たわけがぁッ!!」
「うええッ!?」

 岩造りの壁に追い詰められた状態で地響きに近いありったけの怒張声を浴びせられれば、音が辺りに散らず、全て鼓膜を突き抜ける。
 好物のバナナを食べるという最高の夢見で口をもぐもぐ動かしていた構成員は、刹那に飛び上がって視界に星を散らした。何が起きたのかとキョロキョロ見回して、すぐさま自身が大きな影の中にいることに気付く。いくら寝起きのボケた脳みそだったとしても、蝋燭の灯りを遮る人物が地位ある人間だと理解するのは一瞬だ。

 イーガの民としての証である仮面こそ全団員と揃いのものではあるが、頭から被った赤いフードと顔の両脇から伸びる釣り針型の鉄飾りは、団において地位ある幹部役である証拠だ。鍛え上げられた筋肉は一朝一夕で得られるものではなく、血管の浮き出た太い二の腕など構成員の腰くらいはあるし、大胸筋の発達具合なぞ、動く度にフードを固定する皮ベルトがぎちぎちと音をたてるほどである。

 ただ、それでも幹部役というだけであればまだ良かった。構成員が最悪の状況だと理解したのは、同胞にもかかわらず殺気に憚らない目の前の男が、特に団内で恐れられている人物だったから。

 泣く子も黙る鬼の幹部。目の前の男は、総長不在のアジトで総括を任せられている歴の長い幹部であった。

 サッと顔を青褪めさせ、「か、幹部殿ッ」と震える声を発した構成員の胸倉を、鍛え上げられた極太の両腕が掴む。
 夢であれば良いのに。ごつい手の平が襟首を締め上げる状況がおはようの挨拶だなんて、誰であれ到底受け入れられるものではない。
 カツン、と仮面をぶつけるほどに近づかれれば、爽やかさとは程遠い熱気が漂ってきて、五感全てで暑苦しさを覚える。彼はマッチョ揃いと評される幹部連中の中でも鍛錬に熱心で、発達した筋肉の圧迫感が段違いだった。

「貴様ぁ、いつ何時誰がやってくるかも分からんこの機運、よく恥ずかしげもなくグースカと寝ていられたものだな」
「え、えええええと、これは、その」
「貴様が団員を起こしに行かねば誰も彼も起きる術がないと分かっているのか。自分がどれほど責ある任に就いているのか、その重みが」
「も、申し訳ありませんッ、その・・・・・・仕方ないんです!俺だって寝たかったわけじゃなくてぇ!」
「言い訳があるということか?聞いてやろう。くだらんことだったら承知せんが」
「昨晩は誰も帰ってこなかったんで暇で、蝋燭の火がゆらゆらしてるのを見てたらフッと気が遠くなってそれで」

 イーガの団員は意外と素直である。嘘でも吐けば良いのにバカ真面目にそのままの事情を話せば、胸倉を掴む指先に熱が籠り、構成員は足先が宙に浮くほど持ち上げられた。

「ばかものがぁ──ッ!!!!」

 ぐるん、と視界が回る。思いっきり力任せに遠心力を掛けられて、構成員はアジトの大元となった古代遺跡の乾いた床に投げ飛ばされた。
 あまりに横暴。あまりに暴力。しかしここは暗殺も一切厭わない武闘派集団の根城である。現代においてはコンプラ違反真っ只中の行為であっても、そこは無罪放免御容赦願いたい。

 イーガの面々は、主君の宿願を叶えんという目標こそ同じくしているものの、その責任感や成就への想いは個人差が激しい。
 最近は特に、イーガとは関係のない血筋である一般王国民から入団する者も多いので、その傾向は顕著だ。共通認識や経験の共有がないために、集団内の暗黙の了解や一人ひとりの責の重さを理解できていない人間の割合が増えている。
 いや、そんな最近の傾向は関係ないかもしれない。とにかく彼らはコーガ様の役には立ちたいが、業務はなるたけサボりたいという邪な思いを抱く人間が多かった。
 鬼の幹部の粛清は、そんな不届き者にはぴったりなのだ。コンプラ違反とは呼ばないでいただこう。

 いててて・・・・・・と、堅い石床に肩から恥骨までをしこたまぶつけ、痛む半身を摩りながら座り込む構成員の背中で、鬼の幹部はパンパンと手を払った。

「早く他の者を起こしに行け。お前がそのままだと、アジトがいつまでも寝静まったままだ」
「そ、それはそうと、幹部殿はよくあんな暗い中で起きられましたね。まさか俺より早いだなんて」
「業務に入る前の鍛錬が俺の日課だ。毎朝同じ時間に起きていれば朝の訪れを知るなど造作もないわ」
「・・・・・・早く起きたなら俺の代わりに皆を起こしてくれれば良いのに」
「何か言ったか」
「いえっ、何も!」

 「では、起こしてきます!」と美しい敬礼を残し、夜番の構成員はそそくさと立ち去っていく。あれだけ間の抜けた人間だが、足音ひとつ、気配ひとつ感じさせないのは腐っても隠密の輩である。

 しん、と静まり返った玄関ホールに一人残された鬼の幹部は、鼻を鳴らしながら堅く閉じられた門構えを開け放した。
 彼が守衛の番に就くときの日課だ。外の様子を確認するついで、淀んだ空気が篭りがちなアジトに外気を取り込む。時間の感覚が狂いやすい屋内では重要な一手間であろう。
 燭台のみでぼんやりと照らされていた薄暗い穴倉に、温かな外光が差し込む。谷間では昇りかけの日輪を直接見られるわけでもないが、崖の割れ目から覗く空は白々明けの色だった。

 いつもと変わらない荒涼としたカルサーの景色。朝のにおいを孕んだ真新しい風が、鬼の幹部の仮面を冷たく撫でていく。
 ただ自らの身体に新鮮な空気を深く取り込む。それは彼の忙しない一日が幕を開けるための儀式であるのだった。





 鬼とは、架空上のマモノの一種だと言われている。
 額に角を生やし、大きな口からは鋭い牙が覗くおどろおどろしい形相。逞しい身体はひときわ大きく、見る者全てを震え上がらせる威圧感を持つ。闘気の籠った瞳で見下ろされれば、それなりに武闘の心得がある大の男と言えど腰を抜かしてその場にへたり込むのだという。

 数多のマモノ蔓延るこのハイラルにおいて、鬼という架空上の存在はひときわ異彩を放っていた。どこかの誰かが己の弱さや恐怖を形作り、ただ妄想しただけのイマジナリーとして扱われるには過ぎた存在感がある。
 語られる鬼の形容を僅かに継ぐボコブリン、彼らを束ねるボスボコブリン、現存する恐怖の代名詞とも呼ばれるライネル、いや何人もの人間が立ち向かって漸く一匹の退治に至るというヒノックスやイワロック、モルドラジークにすら及ばない。ハイラル国に住まう者全てに共通する、魂に張り付いた怖気の象徴。
 この国においての鬼とは、抗えない恐怖そのものを表す概念なのである。

 イーガ団に従事し数十年、イーガの中でも地位を手に入れている鬼の幹部は、幹部役の中でもことさらに尊敬を集める存在だった。
 一癖も二癖もあるイーガの商業班をまとめ、更にはイーガにやってくる不届き物をいの一番で出迎える役目を請け負っている。露払いとして、イーガを守る盾として、彼は身を捧げていた。全ては自らが仕える主のため。御身の目指す身命のため。

「戻ってきました幹部殿」
「遅い。さてはお前、俺に守衛を任せて朝餉を食ってきただろう」
「えッ、そんなことは・・・・・・無いです、はい」
「では仮面の端につく米つぶは一体何の冗談だッ、ばかもの!お前はそれでも隠密か!」
「ひぃっ・・・・・・」

 彼に名付けられた「鬼」のあだ名は、剣戟森森の振る舞いに由来する。厳しく自分を律し、ひとたび激昂すれば周囲を萎縮させ、畏敬を込めて平伏された。彼の前では全ての団員が清廉潔白に主君へ仕える模範的な団員となったし、揺るぎや解れの無い完璧な隠密集団の体を演じ切っていた。全ては鬼の幹部が怖いから。
 敬意は向けられても、好意や親近感とは無縁の男であった。友人もいなければ、恋人も伴侶も居ない。とはいえ鬼の幹部にとってはそれで良かった。自らが信仰を捧げる主への忠義さえあれば、自分の人生はそれで満たされるのだから。
 その経験のなさが今後暫く己を苦しめるかもしれない可能性なんて、露ほど考えたこともない。


 守衛の任務を夜番から引き継ぎ、小高く作られた玄関ホールの中心で仁王立つこと半刻。玄関口に物販をおこなう商業班の面々が揃い始めた。
 イーガの団員は補給された物資が足りなくなった場合、身銭を切って彼らから武器や食料を購入するのが決まりとなっている。

 それぞれから遠目に会釈されながら、幹部は一人の商業班員へと歩を進めた。木箱からツルギバナナ取り出し、敷物に並べる男──バナナ売りだ。
 曲者揃いの商業班の中でも、とりわけバナナ売りは割に話の分かる相手である。彼の前に仁王立ちすると、「あぁ、幹部殿」と、ゆるり片手を挙げて挨拶された。

「少し番を頼む。縫製室に新人の様子を見に行ってくるのでな」
「あい了解。ついに人手不足の縫製班にも新人ですか。いつ頃お帰りで?」
「繕いも頼みたいし、昼前にはなんとか」
「昼前ですかい?鬼の幹部ともあろう人が随分締まりのない」

 時は金なり。バナナ売りの商人根性は強かった。長い時間の頼み事には露骨に嫌な態度をとって見せる。相手が鬼の幹部だろうと平気で「いくら貰えます?」と駄賃を要求してくるものだから、返答には慎重にならねばならない。
 内心で辟易しながらも、幹部は「あー・・・・・・」と言葉を濁らせた。

「夜番の所為で朝餉を食い損ねたんだ。ついでに報告書の確認もしたい。文句ならあいつに言ってくれ、こればかりは仕方ないだろう」
「文句など言っとらんですよ。・・・・・・まぁそういうことなら分かりました。なるたけ早く帰ってきてつかーさい」
「すまんな。行ってくる」

 バナナ売りは気まぐれな男だ。駄賃を要求される前にさっと身を翻した幹部は、太陽光の一つも差し込まない廊下の奥へと進んでいった。





 イーガの総長・コーガが地底を発見してから早数年。
 彼が宿敵リンクと激戦の末に行方不明となってから、一度は解体寸前まで追いやられたイーガ団は現在、再起を果たすまでになっている。むしろ、地底という未知の世界を開拓するために、種族に限らず新人を募った結果、イーガの歴史上もっとも隆盛を誇っていると言っても過言ではない状態だ。
 元々、ハイラル国に居場所のなくなった人間や、のっぴきならない事情を持つ人間を入団させてなんとか体裁を保ってきた集団である。しかしこれほどまでに団員数が増えたのは、鬼の幹部がイーガ団へ入団してからの十数年の中では初めてのことだ。

 ただ、素性の分からない人間が増えるのは、働き手が増えるメリット以上にデメリットも存在する。例えば、主君への信仰心を持たない人間を招き入れることで、統率力や団結力に支障をきたすし、イーガを偵察しにきた間者という可能性も考えなければならない。
 新しい入団者を暫く監視することは、既存の団員が行うべき重要な任務のひとつになっている。

 総長自らが地底という前線へ赴いている今、アジトに従事する新人の監視を始めとした雑務は鬼の幹部の両肩へとのしかかっていた。歴が長く、真面目で、几帳面で、口うるさく、他人にも自分にも厳しい、アジトに従事する独り身だからこその抜擢である。
 業務が増える苦労はあれど、彼はこの拝命を快く思い、やる気に満ちている。主君の勅命とあらば、全力を尽くしてそれに応えるまで。

 これほど忙しい人間だからこそ、消耗で破れた装束を縫製班に持ち込むことは頻繁にあってしょうがないのだ。

「すまない、針子衆はいるか?頼みたいことがあってきた」

 鬼の幹部がやってきたのは、装束に関する業務が一手に集中している縫製室。
 大した壁や扉も存在していない一角に布山を積み上げ、机を配置することでなんとか部屋の様相を呈しているここは、人が2.3人座り込めば足の踏み場もなくなるほどに狭い。縫製室とは名ばかりで物置と呼んだ方がぴたりと合っているかもしれない。もちろん「いるか?」とわざわざ尋ねなくとも、この狭さであれば人がいるかいないかなど一目瞭然である。

 このとき、床に座り込んでちくちくと針仕事に徹していた構成員は一人だった。
 それまで赤い布の繕いに向けられていたイーガの仮面が、幹部の声掛けに合わせてゆっくりと起き上がる。「おはようございます、幹部殿」と淑やかな声で返すこの針子は縫製班の中でもベテランで、幹部にとっても馴染み深い人間である。

「朝も早くに珍しいですねぇ。どうなさったのです?」
「俺の装束が破れてしまってな。急ぎで直せるか」

 小脇に抱えていた赤い上着を目の前で広げてみせる。脇から背中にかけてざっくりと穴・・・・・・いや、もはや千切れかけたその赤い布は、正直既に洋服の体を為していない。
 「あらぁ」と漏らしながら装束を受け取った針子は、千切れた布端を摘まみながら酷く呆れた様子だった。

「なぜこんなことに?よっぽど酷いですよ、これは」
「ベルトと擦れる部分が薄くなっていることに気付かず、なんぞに引っかけてな・・・・・・装束の替えがない。急ぎで頼む」
「よく見ればところどころに穴もたくさん」
「ずっと着ていれば穴も開くだろう。・・・・・・あまり責めるな」
「穴は刺繍で塞ぎますが、これは・・・・・・いっそのこと新調してはどうです?まとめ役の幹部がよれた装束を着るよりよっぽど良いでしょうに」
「この物入りの時期に軽々しく新調なんかできるか。直せるんであればやってくれ」

 それでなくとも、新人が急増したことで装束の数が足りていない。元はと言えば仕立ての技術を持った針子が足りていないことに起因する問題で、今では各地に設けたイーガ団支部で、針仕事のできる王国民を拉致監禁の上、無理に作らせることでなんとか間に合わせている状況である。
 王家の人間の目につくような派手な動きは避けたいところだが、物資の補給が間にあっていない状況を鑑みると技術者の成長を悠長に待つわけにもいかず、以上これ以外の手段がない。

 苦笑いされながらも「はいはい」とボロボロの装束が引き取られていく。この針子は付き合いが長いのもあって苦言を言われることがままあり、鬼の幹部が頭ごなしに業務を言いつけられる相手ではなかった。
 朝から心にひっかかっていた雑務を託せたので、幹部は小さくため息を吐きながら「そういえば」と、もうひとつの用事を目で探る。

「新人はどうした? 姿が見えないが」
「あの子は、お直しの終わった装束を各部に届けてます。まだアジト内に慣れないみたいで、場所を覚えてもらうのにも丁度良いかと思い」
「そうか、様子を見たかったんだが・・・・・・。どうだ、使えそうか?」
「ええ、なかなか前向きで良い子ですよ、イーガのルールを教えるのが大変ですけど・・・・・・。とにかく今は人不足なんで、助かってます」
「確かマリッタ支部から寄越されたんだったか?仕立て仕事をするうちにイーガに入団したくなった娘だと聞いたが・・・・・・」

 この頃、イーガが人を欲しているという話をどこからか聞きつけた根無し草が、度々アジトの門戸を叩きにくる。本来であれば入団試験を突破した者のみを迎え入れる運びになっているが、現団員からの紹介とあらば話は別だ。
 それにしても、仕立ての仕事を無理にやらされる内にイーガへの入団を希望するとは、なかなか妙な流れではある。
 わざとイーガの手の内に潜り込もうとしている間者を思わせるが、しかし現針子の考えはそうではないらしい。返ってきた反応は「ええ」と呑気なものだった。

「そうですねぇ、嘘は吐けないタイプかと。黙っておけないみたいでちょっと聞いただけでペラペラ喋ってくれます。もしあの反応が全部演技で、喋ったことが嘘であるならば幹部顔負けですよ。何がなんでもイーガに引き抜いた方が益でしょうね」
「ふむ、お前がそうまで言うなら問題なしか。・・・・・・しかし、業務に前向きとはこの時分、なかなか殊勝な新人のようだな」
「はい。何事も一生懸命で悪い気はしませんよ」

 イーガへやってきた新人は先達から穿った目で見られるようになるのだが、にもかかわらずこうまで持ち上げられるとは、よほど期待できる人物らしい。
 縫製班が人手不足を極めていた所為もあるだろう。乾いた砂漠に染み出した水たまりみたいなもので、枯らさないように気をつけながら、より多くの水が染み出すよう慎重に深く穴を掘っていく必要がある。
 しかし、そうまで期待できる人物がやってきたとあらば喜ばしい。いつ使われるかも分からず積み上げられた布山が、漸く日の目を浴びる瞬間がやってくるというわけだ。壁際の行燈の光が、このときばかりスポットライトにでもなっているように感じられた。

 ここまで確認すればもう用はなく、幹部は「分かった、邪魔したな」と、恭しく頭を下げる構成員に踵を返す。
 いつもより随分遅い朝餉を食べるため、鬼の幹部は今にも鳴りそうな腹を気取られないよう、悠々と雄々しい足並みでアジトの岩廊下を進んでいくのだった。








 朝餉を腹に納め、ここ最近の報告書に目を通し終えた幹部が玄関先に戻ってこられたのは、やはり昼前の時刻。
 事務仕事で固まった首を回しながら玄関ホールに帰ってくると、何やらいつもより騒がしい。幹部の姿を認めた商業班が「あっ」と声を漏らしたのは、やましいことがあったからに他ならない。
 門の前を騒々しく陣取っていたのは、仮面を外した構成員が二人、手を取り合って顔を突き合わせる姿であった。

「じゃあ、行ってくるから・・・・・・僕が暫く留守にする間も、きっと僕のことを思っていてくれよ」
「貴方が行ってしまうなんて寂しすぎるっ・・・・・・アッカレだなんていつ戻って来れるか分からないし」
「そう言ってくれるな、笑顔で見送っておくれ。ゲルドに燦然と輝く太陽のような君という存在が、木枯し吹きすさぶアッカレに舞い降りる僕の心を癒やすんだから」
「貴方って本当にロマンチストね」
「ほら、そんな悲しい顔しないで。可愛らしい顔が台無しだよ」
「笑顔で見送るわ。貴方の心へいつまでも寄り添えるように」
「いつでも君を想ってるよ。じゃあ・・・・・・」
「あ、待って」
「ん?」
「最後に少しだけ。ほんの触れるだけのキスでいいから」
「ああ、ハニー」

「門を開けたまま恥も外聞もなく何をやっとるかバカモノがッッ!!」

 お互いに無事を祈る姿はなんと美しきかな。しかしここは暗殺集団の根城であり、物販をおこなう商業班の視線に憚らない門前である。
 仮面さえ外して照れや恥じなくイチャつける図太さの擬人化に、怒号に近い鉄槌が下される。もちろん声の持ち主は鬼の幹部であり、晴天の霹靂に二人して飛び上がって慄いた。
 そして自分たちに影を作るのが鬼の幹部だと気付くや否や、さぁっと顔を青褪めさせてからイーガの仮面を慌てて装着してみせる。何もかも遅いが、せめてもの取り繕いのため。

「お前らのような阿呆が所かまわずベタベタするから締まりが悪くなるんだ!見送りならチャッチャと終わらせい!たわけが!」
「すすすみません幹部殿ッ、じゃ、行ってくるから・・・・・・!」
「い、行ってらっしゃい、気をつけて・・・・・・!」

 そのまま荒涼としたカルサー谷に飛び出していった団員は、一度だけこちらを振り返った後そのまま駆けていった。残された団員も最後まで小さく手を振って名残惜しそうにしていたが、結った髪の毛が坂の下に沈み切ると、いそいそと会釈だけしてその場を逃げるように去っていく。
 扉を閉めていけ、バカモノ。と、声が出かかったが、如何に普段から鍛錬を欠かさない団員といえど、門の開閉にはそれなりの力が必要で、腕力の無い女人に任せるにはちと荷が重い。もちろん筋肉ダルマと揶揄されることもある幹部がこれを開けたり閉じたりするのはワケもないし、複雑なカラクリによって、なるべく力を入れずに開閉するような工夫もされている。それに何より、門の開閉自体は守衛である幹部の仕事だ。
 とは言え、何も言わずに開けっ放しにされるのはむかっ腹もたつ。幹部は面下で小さく舌打ちをした。

「あんな怒鳴らなくても・・・・・・若い団員にとって大事な儀式ですよ、ありゃあ」

 荒い手つきでガタガタ言わせながら門を閉めていると、気付けばバナナ売りが後ろに立っていた。

「本当に帰ってこられるかも分からないんだから、見送りぐらい好きにさせてやれば良いのに」
「物陰でやるとか、出た先でやるとか、いろいろあるだろう。ああいうのが気にせずそこかしこで乳繰り合うから、どんどんイーガが腑抜けていくんだ」
「まぁまぁ。多めに見てやりましょうよ。愛を育む時間そのものが、今はまともに無いんだから」
「そもそもが今は有事。愛などというものに現を抜かしとる場合じゃなかろうに」
「愛に有事も平時も無いもんですよ。むしろ有事だからこそ燃えるもんでい」

 バナナ売りは幹部と比べて地位こそ低いものの、歳が近いらしく、割に馴れ馴れしいきらいがあった。これだけ不機嫌を滲ませる鬼の幹部の後ろで腕を組み壁に凭れながら会話を続けるのだから、心臓に剛毛が生えている。

「旦那も困ってるでしょ、逢瀬の時間がなくて」
「俺にそんなような相手は居らん」
「ありゃ、迂闊でした。てっきりそっちで困ってるかと。居ない方でしたか」
「困ってなどおらんわ、ばかばかしい。一人で充分だと言うとるのだ」
「まぁまぁそんな不貞腐れなさんなって。旦那にもついと現れますよ。急にね」

 へらへらと軽薄に笑う男の調子良さにはこちらとて慣れたもの。バナナ売りだけでなく他の商業班員にも見られる傾向で、もはやそれなりに長い付き合いなので目上に対する口調などは今更指摘しない。
 しかし、鬼の幹部は無骨なクソマジメの堅物なので、明らかに揶揄われていると分かる話題であっても、どうしたって適当に受け流すことができない。バナナ売りの手の平の上であろうが、幹部はムシャクシャと苛立った声音のまま、「そもそもがだ」と彼に振り返った。

「コーガ様への忠を尽くす中で、どうして女を見る余裕がある?俺にそんなものは不要だ。他の腑抜けと一緒にするな。この有事の際にわざわざ面倒事を背負い込むなどと、そのような浅慮極まる人間に・・・・・・」
「おーっと、それ以上はよした方が良い。将来自分の首を絞めることになる。迂闊なことは言うもんじゃない」

 扉を締め切り、また蝋燭のぼんやりとした灯りのみが支配する玄関先、バナナ売りが片手を突き出してくる。
 上役に向かって不敬な。といつもなら口に出していたところ、有無を言わさない真剣な指先が幹部を噤ませる。代わりに面下で思い切り眉間に皺を寄せながら「どういうことだ」と凄みを利かせると、得意げになったバナナ売りが突き出した五本の指が、人差し指一本だけを残して折りたたまれた。

「今はそうかもしれませんがね、とかく愛とか恋とかは唐突に落ちるもんであって、自分でどうこうしようとしたってどうにもならないもんなんです。あんたがこの先落ちたとき、さっきの発言は全部自分に帰ってくることになる」
「バカなことを・・・・・・恥ずかしくないのか、大真面目に恋だの愛だの語るなど」
「俺にも大事な人がいるんでね。あんたよりは理解がある」
「なるほどお前は落ちた人間というわけだな。理性的でいればそうはなるまい」
「未経験者にはこの感覚分かりませんよ」

 鬼の幹部は今まで、主君との出会い以上に心を動かされる邂逅を経験したことがない。イーガの親元に生まれ、イーガに尽くすようにと忠烈の志を育んだ幼少期。成人を迎え、晴れて本拠に務めることとなってからも、主君や任務以上に大事なものなど出来はしなかった。全ては主君の大願成就のために。そして、イーガの繁栄のために。
 イーガの血を絶やさずに永続させるという一点においては、確かに恋とか愛とかは大事なことなのかもしれない。しかし、個人の思想を尊重する主君の意向を考えるのであれば、よっぽど熱烈に言い寄られでもしない限り、そこらの女と家庭を持ち、無理に子を為す選択肢など幹部にはなかった。そして言い寄られた経験もない。

 未だ恋とか愛について語ろうとする伝道師の横を抜け、うんざりしながら玄関の中心へと歩を進めようとした。鬼の幹部があまり口数の多くないのを良いことに、この男は一方的に話を押しつけるきらいがある。いつものことなのだ。
 そして話を無理に終わらせようとする鬼の背中へ、わざとらしいタイミングで「あ、そういえば!」と声を掛けるのも、いつものことである。

「装束の直しが届いてますよ、どうぞ」

 無遠慮に差し出されたのは、見覚えのある着古した装束。手に馴染むそれを受け取りながら、幹部は面の奥で微かに目を瞠った。

「早いな、朝に預けたばかりだというのに」
「初めて見る構成員が届けに来てましたね、あれが新人ですかい?」
「ああ、そうだろうな。さっきは俺も会えなかった。なかなか真面目な良い新人だと言う話だ」
「へぇ、そりゃ結構なことで」

 小さく畳まれた装束は、先ほど持っていったときと比べて四角四面、随分畏まっている風に見える。洗濯から返ってきた時と同じような既視感だ。何故一度他人の手に自分の持ち物が渡ると、こうも違った顔に見えるのか。
 一度広げれば二度と綺麗に畳めない気もして、幹部は崩れないように背中側のベルトに装束を通して引っかけた。

「商業部にも来て欲しいものだ。もっと真面目な団員が」

 玄関ホールの壁沿いにある窪みへ荷を詰め込み、物販をおこなっている商業班一同は、お世辞にもやる気がある輩とは言えない。そもそもが外部の商人と交渉し、物資を調達することが要の業務ではあるのだが、それにしても物販に対してのやる気が見られない。
 なんせ、バナナ売りは立ち話に興じ、武器屋は既に昼餉を食いに行ったのか姿が見えず、弓屋は座りっぱなしと見せかけ居眠りをしているし、棘売りに関しては売り物の鉄棘で戯れている。
 確かにアジトに居る限り客など無いに等しい。しかし、イーガの団員の中でもベテラン勢と称される商業班員は、本来であれば新人の模範たるべきだろう。彼らの振る舞いが組織全体の空気を緩める元凶なのではなかろうか、という気がしてならない。

 酷いなぁ、と喉奥で笑うバナナ売りは、幹部が面下で目を細めたのが分かったのだろう。すぐさま両手を挙げながら肩を竦め、自分の持ち場へと戻っていった。


 ほとんど伽話と化していたハイラルの姫巫女がこの地に現れ、亡国が復興の道を歩み出したのも既に数年前の話になる。
古代シーカーの技術を用い、100年前に受けた傷を完治させたという近衛の騎士を侍らせ、厄災の猛威によって荒れ果てた土地を着実に癒やす殉難の姫。今はまた詳細な理由は不明だが行方を眩ませ、王家一派もおおわらわとなっているとか。
 この千載一遇の好機。戦闘力には期待のできない内勤だろうと、やる気があり、真面目に縁の下の力持ちとなってくれる新人など、イーガへ全ての忠義を掲げる大男にとっては願ってもない逸材だった。
 とはいえ、イーガに何かもたらすなどと大仰に考えたわけではない。イーガを形作るほとんどは、社会で弱者となった居場所のない者なのだから。

 だから、考えもしなかった。その弱者の一人から鬼の幹部へと、何かがもたらされることなんて。
 ベルトに通した装束が霹靂となり、今までイーガで築いてきた晴天が狂わされることなど、谷間の穴倉に住まう鬼は露とも考え至らなかった。






 次の日の朝は、酷く平和なものだった。
 数本の蝋燭のみが頼りとなる共寝所。上役のみに支給されている大きなベッドの上で目を覚ました鬼の幹部は、未だに眠りこける団員のいびきの中で静かに起き上がる。今の今まで微睡みに浸かっていたとは思えない機敏な動きで装束に袖を通し、仮面を装着してみせるのは、もはや身体に染み付いた習癖だ。
 ただ日課通りに朝をこなした。手水場で支度をし、まだ誰もいない鍛錬場でひと汗流し、朝餉を食べようかと思ったが未だアジトが静まり返ったままだったので、正面玄関で寝こけていた夜番を叩き起こした。ここまでもいつもと変わらない朝である。

 しかし、幹部は妙な違和感を覚えていた。
 廊下で人とすれ違ったとき、夜番を叩き起こして彼に背を向けたとき、食堂で朝餉の乗った盆を受け取ったとき。どうもつき纏うような変な視線を感じる。それは大体が自分の背中に注がれていて、同時に息交じりの密やかな密談が交わされている声も聞こえるから尚更妙に思う。「あれって・・・・・・」「まさか」と聞こえた時点でぐるんと勢いよく首を回しても、蜘蛛の子を散らすように注がれていたはずの視線が明後日の方へと向けられるので、決定打には欠けるのだが。

 卓に着いて飯を食い始めれば、視線やひそひそとした声の違和感は気にならなくなった。飯を食ってる最中に目でも合おうものなら「何か文句があるか」と直談判したかもしれない。ただ悲しいことに、鬼の幹部の卓の周りはぽっかりと穴が開いたように誰も近寄らないし、目も合わそうとしない。
 これも日課のようなものだ。仕方なく、渋い顔で仮面の隙間から飯を流しいれるしかない。

 朝餉を食い終わり、盆を片付け、のしのしと食堂を後にする。するとまたしても鼓膜を揺らしたのは息交じりのひそひそ声。背中へ注がれる四方八方からの視線。バッ!と勢いよく振り返ると、魚の群れに一石投じたときのように視線が散る。
 なんなんだ、一体。違和感の正体を掴めぬまま、鬼の幹部は今度こそ食堂の扉から外へ出た。その途端、わっと火が付いたように喧騒が酷くなったのも鬼の幹部の癪を逆撫でたのだが、もう食堂へ戻る気にはなれない。
 廊下を進む中で、「おはようございます、幹部殿」と声を掛けられ「うむ」と不機嫌に突き進む。彼の背中を見送った団員達が、一人残らず呆然とした顔に変わっていることなど気付くわけもない。

 彼が玄関ホールへと戻ってくると、既に商業班の面々は持ち場に就いており、夜番がバナナ売りと談笑に耽っているところだった。
 何かと暇を持て余し気味の商業班員と別の部署の団員が話し込むのは、別に珍しいことではない。夜番に「まだ居たのか。早く寝ろよ」と短くなった導火線の声で注意はしたものの、それ以上不満を重ねるようなことはしなかった。
 彼らを通り過ぎ、「え」「まさか・・・・・・」と、先ほど聞いた声を耳にするまでは。

「お前、今なにか言ったか」
「い、いや!なにも!!」

 瞬間、それまでに募らせていた違和感がバチっと火花を散らしたようで、勢いに任せて振り返る。しかし先ほど同様、明らかに幹部の視線から逃れるようにイーガの瞳が明後日に逸らされて、どこ吹く風という様子。
 ムカムカと煮え滾ってくる感情は明らかに怒りであり、ウン十年をここで過ごしてきた男の持つ矜持と、アジトの総括を任せられているという自負が、足音高く部下へ歩を進ませる。

「なんなんだお前ら!何か言いたいことでもあるのか!?」
「いやぁ・・・・・・その・・・・・・」
「さっきから他のやつらも全員そうだ!言いたいことがあるならハッキリ言え!腹立たしい!!」

 夜番に言い募ると、押し潰されでもしているのか一生懸命に両手を突き出して縮こまるので話にならない。
 なんだ。なんだ、なんなんだ。火薬に火がついたような激昂だったが、まだこのときは爆発などしていなかった。この後に訪れる衝撃と比べれば、まだこのときは。

「尻」

 夜番と幹部の間に割り入ったのは、呆れたようなバナナ売りの一言だった。

「尻のそれ。女ですかい?昨日あれだけ担架切っといて」
「尻!?」
「ほら、ここ」

 指でとんとんとさされたのは、尻、というよりは腰の部分。グッと身体を回すが、何事かあるようには見えない。腰ベルトの下に入り込んだ装束を引き摺り出し、伸縮性に富んだ生地を伸ばしてから漸く理解した。

 刺繍があった。ただの刺繍なら良い。ハートマークだ。しかもご丁寧なことに、装束の鈍い赤色とは程遠い、可愛らしい桜色の刺繍糸で繕われたハートマークだった。

 「なっ」と漏らしたきり、鬼の幹部は愕然として声を失った。全く見覚えなく、更には自分とも全く関係のない印。唐突に現れたそれに、頭が疑問符で埋め尽くされる。

「いつもお堅い旦那が、まさかこーんなキュートなマークを尻につけてるなんてねぇ」
「知らんぞ俺は!?こんな浮かれた印なぞ!」
「って言っても、実際についてるわけじゃないですか。俺たちの知らない間に、こんなまさか」
「だからっ、俺は知らん!!」

 拳を握りながら喚いて、はたと思い出す。今日袖を通したこれは、縫製班から繕い直された例の装束だ。もはや千切れかけていた脇腹が直ったことしか確認しなかった。そもそもこの装束に腕を通したのは、行燈が一つ二つ灯っただけの朝の共寝所。こんなマークが付け足されているなど、暗がりで確認しようもない。
 そういえば昨日、装束を預けたときに「ところどころに穴が開いているから刺繍で塞ぐ」と針子がぼやいていた。この意味不明なピンクの刺繍は、そのときに黙って縫われたものに違いない。
 恥をかかされて黙っていられるか。部下が呼び止める声を無視して幹部は身を翻す。
 ずかずかと彼にしてはあり得ない足音を立てて向かったのは、もちろん件の縫製室だった。

「お針子衆ッ、いるか!昨日預けた装束について物申したいことがある!」

 声に怒気をはっきりと滲ませて戸口で叫ぶと、布の積まれた埃っぽい部屋の奥から「はーい」と明るい声が聞こえた。

「どうかしましたか?なにか御用でしょうか」

 やってきたのは女。衣装班に属する団員は、今現在全員女であったと記憶しているので、それ自体は驚くことでもない。
 鬼の幹部が声を詰まらせたのは、奥から顔をのぞかせた女構成員が、面もつけずにそのままやってきたからである。

 一瞬、頭の中を支配していた怒気という怒気が失せた。いや、本来ならここでの不文律を無視し、あまつさえ上役がやってきても意に介さず違反者で居続ける女に対し、怒気を募らせるべきなのだ。なぜ怒気が消えてしまったのか分からない。目の前の女の思惑が、分からない。
 まるで何も理解していない朴訥な顔をして、自分を見返してくる女。少女のようなあどけなさの残る相好。隠密という陰にいながらも、何にも染まっていない清らかささえ覚えてしまう雰囲気は、城下でみかければきっと誰もがいいとこのお嬢さんだと感じただろう。頭の上で結った髪の毛からも分かる。艶やかな黒い髪はきっと地毛で、つるりと光りの輪に囲われた結い髪は、人の首を刈る隠密には勿体ないほどの美しさだった。
 大きく見開かれた瞳は、正に自分を射抜いている。縫製室に掛けられた行燈は数少ないが、その灯の全てが彼女の瞳の中にあるのではないかとも感じた。きらきら輝くその瞳が不思議だった。
 それに、真正面から覗くと自分の姿が鏡のように瞳に映ると男は知らなかった。狼狽したのだ。女に、真正面から見られている。

 鬼の幹部は、自分の前でも面を取ったままである人間に初めて出会った。彼に畏怖を抱いて、誰もが彼の前では清廉潔白にコーガ様への忠誠を近い、清く正しい暗殺集団を演じた。背筋を伸ばし、人様の首を刈るために鍛錬を積んだ。幹部が、怖いから。
 アジト内で面を取り、素顔を晒すことは決してご法度などではない。しかしイーガは隠密で、素顔を晒して生活することにメリットがひとつもない。素性を晒して何になる。イーガは同志ではあるが、誰彼構わず信頼ができるかといわれればそうではないだろう。

「どうかしましたか?」

素顔に気を取られて身体が動かなくなった折、女に距離を詰められた。真下から覗き込まれて後ずさる。「いやッ」とあげた声は、少し裏返ってしまった。

「お、おおお針子衆に文句があって来た。俺の装束に、なにやら見知らぬマークがついていてな!」
「えっ、見せてください!」

 布越しでも筋が浮き出ていると分かるほど力を込めた指先で印を指すと、お針子の女はその場で膝立ちとなって幹部の太ももに手を遣った。
 細い指先が熱く、装束越しに触れた幹部の肌にチリと疼きを走らせる。うら若い女にしては突飛な行動で、こそばゆさも相まって「お前ッ」と文句が口を吐いて出たが、返ってきたのはやはり朴訥な丸い瞳。
 「幹部さん?」と、まるで身を引いた自分の方がおかしい行動をしているかのように見上げられれば、女との触れ合いに慣れぬ鬼の幹部は何も言えなくなる。俺の方が気にし過ぎなのだろうかと、考え直してしまったのだ。
 下唇をはっきりと嚙みながら改めて彼女に腰を差し出すと、お針子の女は「あ、これは私の作品ですね」とあっけらかんと言い放った。

「さ、作品?お前がこれをやったんだな?」
「はい、穴が開いたときは、刺繍で塞ぐのが定石です。ですので、幹部さんの穴も刺繍で埋めました!」
「それは良いとして、なぜこのような印にした!?まるで俺が浮かれているようだと部下に揶揄われたぞ」
「穴が隣り合うように開いていたので、ハートの印がちょうど良かったのです」
「色は!?なぜ装束と同じような色合いにしない!?桜色を選ぶ意味が分からない!」
「ふふふ・・・・・・幹部さん、遅れてますね。穴を隠すように修繕する時代は終わりましたよ。今は違う糸で繕ってこそオシャレなのです。隠すのではなく、活かす繕いこそイマドキですから」

 これだけ声を荒げて反論しても得意げなのは何故だ。理解できない状況にはっきりと頭が痛かった。しかし、額を押さえてばかりもいられない。
 きっと縫製班にやってきたという新人はこの女だ。未だイーガという集団に馴染めていないのだろう。こやつの考え方を徹底的にイーガへ染めるのは先達の針子に任せるとして、今はとにかく、この腰の目立つ印をどうにかしなくてはいけない。仮面を着けていないことや、幹部に口答えしたことはその後だ。いや、先の方が良いのかもしれないが。
 もはやどうでも良い優先順位すらまともに考えられないほど、このとき鬼の幹部は動揺を極めていた。

「分かった、もう良い。お前が縫製班にやってきたド新人で、イーガに馴染んでいないのはよく分かった。あとでお前の先達に伝えておく」
「かくいう貴方様は、取りまとめ役の幹部さんですね!初めまして、よろしくお願いいたします!」
「ああ、よろしく・・・・・・。ではなくてだな、いくらお前の中で筋の通った理由があろうと、この刺繍はやめてくれ。これじゃ仕事にならん」
「えっ、ダメなのですか」
「俺にも威厳があるし、装束は目立たぬことが最善。繕い直しだ。先達の針子にしっかりとコツを聞け。今後二度と勝手なことはせぬように」
「そんな・・・・・・とっても上手に縫えたのですが」
「口答えをするな。それがここの業務だ。文句は言わせん」

 ドスのきいた低い声で凄むと、唇をつんと尖らせた針子が落ち込んだように身を縮こまらせる。しかし素直に「分かりました」と返ってきたので、どうやら先達針子から聞いていた通り、真面目な人間ではあるらしい。商業班と比べ、それがせめてもの救いだろうか。
 怒気の腰を折られたことだし、先ほどまでの明るさがなくなりシュンと俯く針子に居たたまれなさが沸き、幹部は「ではな」と踵を返そうとした。
 しかしできない。それより先に針子の小さな手が装束の端を掴んだからだ。

「では、脱いでくださいませ。今チャチャッと繕い直しますから」
「・・・・・・は?」
「これくらいの刺繍であれば、すぐに直せます。そこまでお待たせしないはずです!」

 グイ、と力強く引っ張られ、装束からちらりと幹部の引き締まった脇腹が覗く。空気に晒された瞬間、思った以上に身体が冷えたのは、一瞬で体表面に浮き出た冷や汗のせいかもしれない。
 この場で服を脱げ?一瞬意味が分からず惚けてしまったが、装束を掴む小さな手が、存外本気であると分かってカッと顔が熱くなった。本気で拒否しなければ、この女は大真面目に今、正にここで、自分を裸に剥こうとしている。

「やめろバカモノ!ここで俺が脱ぐわけなかろう!」
「なんでですか?すぐ終わらせますから、幹部さんはその辺りに座って待っていてください」
「そこまで暇ではない!お前は少し危機感を持て!男の服を脱がせようとするな!」
「今しちゃった方が早いんです、私、まだアジトの道を覚えられてないんです。後で持っていくとなると迷っちゃって、時間がかかっちゃうから」
「お前の事情に俺を巻き込むなッ!」

 意外としつこく縋ってくる針子の手から無理やりに離れる。「あっ」と漏らした声など聞かないふりをして、幹部はひとまず縫製室の戸口へと逃げるように撤退した。

「この装束はまたあとで送り届ける!新人!お前はまず針子としてより自分の立場を弁えろ!ありえんぞ!全くありえんッ!」
「弁えているつもりです、今、必死にお勉強中ですし・・・・・・」
「ともかくだ、今回のことは通常であれば厳罰対象だ。今回限りは見逃してやる。しかし肝に銘じろ、本当に、ありえんからなッ」

 何を肝に銘じるというのか。しかし当の針子も違和感を覚えないようで、照れたように後頭部を掻いて「わかりましたぁ」と頭を下げた。
 その間延びした返事も、軽薄な態度も、いつもの彼なら徹底して矯正した。しかし今回ばかりは言葉が出ない。出ない理由は分からないが、幹部は一度唇を引き絞り、また裏返りそうになる発語の前にゴホンと咳払いするだけだ。
 「ではな」と捨て台詞を吐き、その場をまた足音高く逃げ帰っていった。


 ただ無言でダンダンと廊下を突き進んだ。気配を殺して生きることが身に付いていたはずなのに、踏み鳴らす足音すら気にできなかった。「幹部殿?」と声を掛けてくる団員の声も、耳に届かない。
 それよりもうるさいのは心臓の音だ。まるで耳に直接貼り付けているように、バクバクと高鳴って仕方ない。どうした。どうなってる。なぜ今日はここがこれほどうるさく、肺に空気が入らず、暗いはずの廊下が眩く見えるのか。
 視界にうっすらと、先ほど見かけた女の笑顔が残っている。耳管に残響しているのは、鈴のようなコロコロとした高い声。近づいた折、埃に混じったなんとなく甘い匂いもはっきりと思い出せる。熱を持った細い指が触れた、チリと火傷したような疼きも。

 囚われた。いや、囲われた?幹部はこのとき、はっきりとおかしくなった自覚があった。
 なにがどうなってる。顔にばかり集まる熱の理由が分からず、誰もいない廊下で独り言つ幹部は、夢か現か、正気か気狂いかをはっきりさせるために岩壁を握った拳でゴンッと殴った。骨に響くような痛みが走り、じんじんとした疼きが残ったままになったので、これが現であり正気であることが証明された。
 鬼の幹部は「ぐぅ」と唸るしかできなかった。


 この物語は、イーガに身を捧げてきた鬼の幹部が、一人の若きお針子構成員に人生変えられちゃうラブコメディである!

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