【完結済】イーガの男は忘却女の首を刈れるのか?
「あの子と、どういう関係なんですか?」
隠密業務からの帰り。
軽い怪我を処置されている間に、そんな話を振られるとは露ほども思っていなかった俺は、面下で眉を顰めた。
唐突に切り出したのは、俺が昔から頼りにしている馴染みの医療班だ。
最近じゃあ暗殺業務が無かったものだから、自分自身は世話になっちゃいなかったが、例の女をこいつに預け、診させたこともある。業務外の世間話をするくらいには、確かに得も言えない親密さのある男だった。
とはいえ、いくら距離が近いったって限度がある。暗殺業務の話から一転、「ところで」と続いた先の話としては、ふり幅がちょっとおかしくないか。
包帯を巻きながら、天気の話でもするみたいに話を振られたものだから、一瞬意味を理解しかねた。
ただ、こいつがなにを言いたいのか、その一言で察せないほどバカじゃない。確信をもってすぐさま返事するのは気が引けたので、一旦かぶりをふってはみせるが。
「どういうって、なんだ。あの子って、どいつだ」
「またまた、分かってる癖に! 赤髪のあの子ですよ」
「あいつはもう黒く染めたろ。赤髪じゃない」
「そういうの良いですから。傍目から見てても仲良さそうですし、もしかしてと思って」
ともすれば笑い出しそうなほど上ずった声で、立てた小指を見せつけてくるものだから、ベテラン医療班としてお堅い一面しか知らなかった俺は随分驚かされた。
お前そんなに茶らけたやつだったのか。あまりの軽口に苦言でも呈そうかと思ったが、ここで話を逸らすのも露骨だろう。ため息ひとつ吐くだけで、幹部役に対するおちょくりは許すことにする。
「そんなわけない、あいつはただ面倒見てやっただけの関係だぞ」
「そうなんですか? あんなに熱心だったのに?」
「コーガ様の命とあらば当たり前だ。それに、新人に対する熱量なんか、みんなあんなもんだろ。詳しくは知らんが」
「淡泊な貴方が随分、と思ったんですが。その気も一切ないんです?」
淡泊、と口にしたこの医療班こそ、淡泊な男だと思っていた。まさかここまで下世話をしつこく迫ってくるとは考えてもおらず、「その気って・・・」と口ごもった。
確かに、女に対して、特別な思い入れが無いわけではない。
イーガに招き入れ、手ずから一人前に育て上げた女だ。外回りをしている最中、寄り添って寝たこともあるし、二人の間にしかない秘密もある。元の生家を訪ねて痕跡を消したことも。
しかし、“その気”だなんて。俺が、あいつと、どうにかなるって?
ふっと頭の中で想像しようとして、その様子がやけに新鮮さを帯びて襲ってくる。いつでも隣にいるだとか、肩を預けて寝るんだろうとか、およそ今までと同じような振る舞いだったとしても、「恋仲」という札が貼られるだけで、こうまで想像しづらくなるものか。まるで子どもの描いた絵みたいに、奇妙で稚拙な違和感があった。
「・・・考えたことも無かった」
「あちゃあ勿体ない。器量良しなのに」
小さく天井を仰いで額をつく様に、むかっぱらが立つ。
なんという芝居がかった態度か。この男はここまで面倒な性格だったのか。
それまでゆるゆると包帯を巻いていた手の平から帯を奪いとる。「あ」と小さく漏れた声に構わず、俺は勢いよくグルグルと怪我を巻き、さっさと処置を終わらせることにした。
「そんなに強く巻いたら、怪我が開きますよ」
「俺は隠密部隊だぞ。相手なんか作ったって、弱みになるだけだろ」
「そうですか?強みになることもあると思いますが」
「意味が分からんし、想像もつかん」
「でも、そう言うってことは、満更でもないってことですね?」
にやついた声音で、揶揄っているのを隠しもしない医療班に、今まで感じていた信頼や敬意が抜け落ちていく。
男と女がどうのこうのと、こういう話はとかく女がするものなのだと思っていた。良い年だろうに、思春期のような話題を持ち上げ、広げるなんて、ばかばかしい。
包帯をギュッと固く結んで立ち上がり、「くだらん」とだけ吐き捨てて、俺は彼に背を向ける。
医務室の戸口を抜ける瞬間、「お大事に」と、いつもの生真面目な声が耳に聞こえた。しかし、揶揄うときのニヤついた声も同時に再生され、頭の中でいつまでも反響したのは後者の方だった。
あいつは記憶を取り戻した後、「記憶は取り戻さなかった」という体でも、無事にイーガの一人前として認められた。
実際に人を手にかけた実績があれば、例え「記憶を取り戻した」としても、イーガに引きずり込めるだろうという、コーガ様の采配によるものだ。諜報部隊に所属し、最近は一人でハイラル平原辺りを回っているらしい。
俺は晴れて隠密部隊の業務へと返り咲き、女と同じ業務に携わることはなくなった。面倒を見るとは伝えたが、実際に尻拭いしてやるような事案もない。
未だ記憶を失ったままだという手前、医務室へ度々通っているようだったから、きっとあの女と医療班の団員の方が会う機会も多いはずだ。俺なんかより、女に直接聞いた方が早いだろうに。
まぁ、彼から揶揄われる理由に、身に覚えが無いと言えばウソになる。
「一緒に良いですか?」
一日の内、もっとも食堂が混雑する昼時。
部屋の隅の方で飯を食っていると、ふっと卓盆に影が落ちて、遠慮のない声が頭の先に振ってきた。
面の中で視線だけを上げれば、少し前まで柔らかな赤髪を頭上から枝垂れさせていた女の姿。
今や陰に染まった証としての黒髪を頭のてっぺんで結って、すっかりイーガ団員の様相が様になった例の女がそこにいた。
彼奴越しに食堂の奥を覗き込めば、いつもの連れが控えめにこちらの様子を伺っているのが目に入る。
こいつはまた、何の断りもなく彼らの輪から離れたのか。イーガは個人の業務が重要とはいえ、集団なのだ。空気の読めないような人間や、輪を乱すような輩は嫌われるだろうに。
良いとも悪いとも言わずに無言でいると、彼奴は「失礼します」と俺の卓盆を隅にやり、尻を無理やり座敷に詰め込んで隣を陣取ってくる。
食堂で彼奴に見つかると、いつもこうだった。だから部屋の隅でこそこそと飯を食っているというのに、全く空気の読めない女だ。
面をとったすぐ傍から飯を食い始めるものだから、俺は大袈裟にため息をついて女を睨みつけた。
「貴様、連れが居ただろう。俺に構うな。飯くらい一人で食わせてくれ」
「飯くらい、複数で食べたらどうですと言ってるんです。じゃないと貴方、いつも一人でしょう」
「それが隠密というものだ。常に連れが居る貴様の方が異様なんだ。ピーチクパーチクと小鳥のように」
「隠密の男にしては可愛らしい表現」
「お前は本当に面倒だな」
記憶が戻ってからというもの、それまでも面倒だった女の態度に、拍車がかかった。
元々の性格もあるのだろうが、俺のヘマによって暗殺されかかり、そして取りやめたことを弱みのように考えているらしい。揶揄う種のひとつとして扱ってくるから厄介だ。俺の方が圧倒的に役職も実力も上なのに、軽口が止まらない。
イーガの隠密と言えば、花形の部署である。幹部役ともなれば、どの団員だってそれなりに敬意を見せるものだ。今まで女のような下っ端構成員にここまでの軽口を叩かれることは無かった。
舐められているようで腹が立つし、対応が面倒だし、何より調子が狂って、いつもの俺じゃなくなるようで。
こんな面倒な女と、どうにかなる? 医療班員から言われた言葉がふいに頭の中にチラついた。
いつでもへらへらした笑みを浮かべていて、色気のいの字もない女。面下でジッと見つめても、俺の視線にいっさい気付かない、間抜けな女。
記憶のない時分には、ときたま見せる切ない顔にはっとなったものだが、今はどうだ。デカい口を開けて次々に飯を頬張り、リスみたいな頬袋を作って咀嚼する様は、女らしさの欠片もない。
俺は静かな女が好きだ。貞淑で、淑やかで、くだらない口を入れないような女が好きだ。
目の前で「おいひい」とかなんとか、飯くらいで幸せそうに目を細める女とは、程遠い女が好きだった。
こいつとどうこうなる、なんて、ありえないだろ。
想像してみるが、やっぱり違和感ばかりが先に立つものだから、頭をふってばかばかしい空想を散らした。
「そういえば、貴方にも、お休みってあるんですか?」
こいつはいつだって唐突だ。脈絡もなく、かつ突然顔を向けるものだから、視線を送っていたことに勘付かれたのかと思って少しギクリとした。
が、どうもそういうわけではないらしい。昼餉のつみれを口に入れ、言葉を考えている風を装いながら、ゆっくり咀嚼する。
その間もしつこくジッと見つめてくるものだから、飲み込んだ後に一旦茶碗を置き、ため息をついた。
「・・・藪から棒だな、どういう意味だ」
「そのままの意味です。隠密部隊の皆さんは忙しそうなので、きちんとした休日があるのかなと思って」
「隠密は一度の業務期間が長いからな、休暇を頂戴するときは一気にもらうんだ」
「はぁー、なるほど。もしかして今、休暇中ですか?」
「アジトに居る間は、大概そうだな」
「いつまで?」
「あと三日は、休みだが」
なぜこうまで質問責めされるのか、わけが分からない。俺も応えるべきでは無かったのかもしれない。ただ、彼奴とは正直に言ってつうつうの仲になっていたし、教えを説いていたときの癖で、聞かれたら答える流れが身体に染み付いてしまっていた。特に違和感なく、素直に質問へ答えたのが運の尽きだ。
にんまりとした笑みを浮かべた瞬間、そこで初めて嫌な予感が頭をよぎっていった。
「少し、遊びに行きませんか?」
何を言い出すのかと思えば、こいつは。
今まで同志と休みの日にどこかで、なんて考えたことも無かった俺は、彼奴の笑顔を凝視した。わざわざ言葉にせずとも、俺の拒否感が伝われば良いのに、と思ったが、彼奴は察しが悪い。にんまりした笑みから微動だにしないので、俺は茶碗を手に取って、再び飯を食い始めた。
「嫌だ」
「なぜです」
「休みの日はアジトで寝ると決めている」
「退屈な過ごし方。だから少し、常識が無いのではないですか?」
反射的に「なに?」と眉間にしわが寄った。
俺の休日が退屈? 少し、常識がない? お前にだけは言われたくない、と咄嗟に口をついて出ようとしたが、いや、そも俺はこいつの休日を知らない。
反論できない、と言葉に迷った瞬間、追撃がきた。
「それに、貴方ってイーガの理しか詳しくないし。プロなのかもしれませんが、それ以外の知識が抜けてたらねぇ、いつか足を掬われますよ」
「ここで生きるには、それで十分だ」
「つまらない人生ですね。だからいつも一人で飯を食べてるんでしょう。友人の一人もいないなんて」
腹立たしい。
こいつの方こそ、人間としての常識を放棄していた時分もあるくせに、好き勝手言ってくれる。俺がずっと面倒を見てやったというのに、なんという言い様なんだ、こいつは。
いや、分かっている。これは戦術の一だ。わざと相手の怒りを煽り、冷静な判断を鈍らせる戦術。話術で情報を収集していく諜報らしいやり方である。
そんな戦法が日常生活にまで身についているのは称賛に値する。しかしだ、タネさえ理解していれば、口車に乗せられることもない。
俺は、すぐそこまで出かかった苛立ちを、汁で流し込む。
「私が友人になってあげても良いですよ」
「黙れ。何が友人だ。誰が貴様と友人なんぞになるか」
「でも実際に、友人の一人もいないですよね?ずっとここにいるのに」
「まずその友人という概念がおかしい。ここにいるのは皆同志だ。仲良しこよししたいわけじゃない」
「普段人と喋らないから、粗雑な話し方しかできないんでしょう。貴方の口の利き方は、大人として常識が無さ過ぎます」
「貴様に言われたくない。人のことを舐めくさって」
「それは貴方です、自覚が無さ過ぎる!幹部役のくせに、自分のことまで分かってないなんて」
芝居がかった仕草で両手を挙げ、目を見開いてみせる。俺はチッと大きく舌打ちをした。
こいつは、なんなんだ。なぜ俺にここまで突っかかってくる。面倒を見れば今まで通りの生活が戻ってくると思っていたのに、とんだ見当違いだった。
さっさと飯を食って、こいつから離れたい。俺は残りの漬物と味噌汁を米にかけ、一気に流し込んだ。
「うわぁ、嫌な食べ方」とかなんとか、また口を挟まれたが、無言で咀嚼し、口元を拭った。
その間、女の箸は完全に止まっている。それでなくとも飯を食うのが遅いのに、これじゃいつまでたっても完食なんて程遠いだろう。俺の隣へ彼奴が腰かけるとき、いつだって食べ終わるのは俺の方が早かった。
何も言わず盆を手に立ち上がり、そのまま卓を後にするのが普段のお決まりだったが、今回は意外としつこかった。
「待ってください、話が終わってない」
袴下の裾をガッと力強く掴まれて、動くに動けない。「離せ」と足を引っ張るが、一切弛緩しない手の平に、下穿きが見えそうになる。蹴りでもしようかと思ったが、さすがに女相手だと呵責がよぎる。
「明日、ちょっと出かけましょうよ。寝るだけなら一日くらい、私にくれたって良いでしょう」
「なぜ貴様に俺の休日をやらんといかんのだ」
「貴方が私の面倒を見ると言ったから」
適当なことをぬかしやがって、と思う一方、真剣に見開かれた瞳に、責任感を引きずり出されるような感覚を覚えた。
こいつの面倒を見ると言ったのは、俺だ。確かに、はっきりと、自分の意思でそういったことがある。言ったがしかし、それとこれとは話が違う。
「お前も休みなんだろう。休みの日の面倒まで見ると言った覚えはない」
「見ない、とも聞いてません」
「屁理屈だ」
「理に適ってます」
「貴様は・・・」
「責任、取ってください!」
ひと際大きな声ではっきりと言われて、それまでざわついていた食堂が一瞬、静まり返った。
いや、それは俺の気の所為かもしれない。キリッとした面持ちで、瞳に強い光を浮かべながら宣言するものだから、ほんの一瞬、思考を奪われた。外界の音が耳に入らなくなっただけやも。
それよりも、休日をくれてやる、という話から、なぜ責任を取る、という話になってるんだ。理解に苦しむ。
「おい」と苦々し気に断ろうとしたところ、彼奴はまたもや俺の声に、デカくてよく通る声を被せてきた。
「貴方が面倒を見ると言ったんですよ!認めずに逃げるのですか!責任取ってください!」
「声がデカい。やめろ。騒ぐな。認めずに逃げるの意味が分からん」
「明日一日だけ面倒を見てくれるだけで良いのです、一日だけ見てください!そしたらもう、面倒なことは言いませんから!」
ざわざわと聞こえる食堂のざわめきはいつも通りだろうか。いや、何やら少し様子が違う気もする。「責任って、まさか」「もしかして、面倒見ないつもりで・・・」微かに耳に入ってくる単語は、今しがた女が口にしたことばかり。
最悪だ。完全に話題の中心となっている。すべからくお互いを黙認するのがイーガでの暗黙の了解だが、こうまで騒ぎになってしまってはお手上げだ。違う違うと周囲に言って回っても良いのだろうが、俺はそこまで人に、自分に熱心じゃない。隠密としても矜持が廃る。
俺は仕方なく、「分かったから騒ぐな」と女を諫めた。
「・・・明日だけだ。一日なら良い。お前に休日をくれてやる」
「本当ですか?言いましたね?朝から動いてもらいますよ」
「最悪な気分だが、・・・良いだろう」
それでなくとも、医療班から言われた言葉も頭に残っている。これ以上、彼奴とのうわさ話に尾鰭をつけさせたくない。こんなところで周囲を勘違いさせるようなことを騒がれちゃ、居心地の良い俺の居場所は瓦解するに違いない。
渋々ではあったが了承の言葉を受け取って、女は漸く袴下から手を離した。
片手をあげて「じゃ、また明日」と随分調子の良いことをいうものだから、俺の眉間の皺は深くなるばかりだった。舌打ちを残して去った後、彼奴がどれだけの満面の笑みで飯を食っているかなんて、露ほども気付かないくらいには。
■ ■ ■
次の日。
普段であれば昼過ぎまで寝ているところ、しようがないので日の出と共に目を覚まし、支度を整えて玄関先で彼奴を待っていた。
あいつが誘ってきたにもかかわらず、まさか俺の方が早く支度を整え、玄関先で待つことになるとは思わなんだ。
冒険者の身に扮装し、いつまでも腕を組んで人を待つ俺は、傍から見たら異様だったのだと思う。次々出立していく団員たちから、随分奇異な目を向けられた。イーガに人を待たせるノロマなんて居ないことの証左でもあろう。あの女とは違って。
「お待たせしました」と耳に入ってきた時、それまで募らせていた叱責の言葉が湧きたった。とはいえそれらは、俺の口から出ることは無かった。大きく舌打ちをして、「お前な」と振り返った先、想像していた女が、そこにいなかったからだ。
彼奴は、変装をしていなかった。とはいえ、素の顔、というわけでもなかった。
薄付きだが化粧を施し、はっきりとした目鼻立ちを、更に際立たせた相好が目に飛び込んできた。
服装も、今までアジト内で見たことの無い服装だった。身体にぴったりと纏わった上半身から、腰部分を境にふわりとしたスカートが広がる青い服。
おそらく、彼奴が元の生家から持ってきた一張羅だ。生家でも目にしたはずだが、彼奴が袖を通すと、ここまで印象が変わるのかと我が目を疑った。
まるで城下で見かけるような令嬢・・・は、言い過ぎかもしれないが、ともかく、今までのガサツな印象とは程遠い。貞淑で、淑やかな見た目。少なくとも、喋らなければそう見える。
しかし、俺の頭を占めるのは疑問だけだ。なぜそんな顔をしている?なぜそんな服を着ている?小さい足取りで俺の傍まで寄ってきて、眉尻を下げる彼奴の装いに心当たりはない。
「ごめんなさい、準備に手間取ってしまって」
「・・・」
「久しぶりだったので、手入れから始めてたら、つい」
「お前、いつもの冒険者の装いは、どうした」
「今日は、遊びに行くと言ったでしょう。相応しい恰好だと思いますが」
ついで、俺の全身に視線を這わせた彼奴は、呆れたように深くため息を吐いた。「本当に、常識がない人」と言ったのは、服装を指摘してのことだと思う。俺はイーガの理に則って、一見身なりの汚い、どこにでもいる冒険者を装っていたのだから。
俺が悪いのか?遊びに行くときは、こんな格好をするものなのか?
「行きましょう」と先を行く女の揺れる裾を視界に入れながら、俺は反論もせずにただ黙って背中を追いかけた。
砂漠を渡り、馬に乗って、アジトからかなり遠いところまでやってきた。
平原を駆ける間、双子山が正面にずっと見えていた。恐らくハイラル大橋の付近なのだと思うが、正直この辺りは何もないと記憶していた。めぼしい村や物があるわけじゃない。普段の業務なら、全く意に介さず通り過ぎるだけの場所だ。
「どこへ行くんだ」
「ハイラルを回ってる時に、綺麗な場所を見つけたんです。そこに行こうかなと思って」
遊びに行くと言ったのはこいつなのに、蓋を開けてみればそんなものだ。
とはいえ、外回りの業務に就いて長い俺に、わざわざ声を掛けて連れ出したんだ。よっぽど自信のある場所なんだろうと、微かに興味が沸いたのも事実だった。
女の繰る馬の背に乗っている最中、微かな鼻歌がずっと耳に聞こえていた。手持ち無沙汰で横顔を見れば、女の口端はゆるりと持ち上がっていて、楽しげな様子を隠しもしない。
無感の暗殺集団が聞いてあきれる。が、それももう今更だろうか。
天気が良くて、穏やかな風があるとき、女はいつもそうだった。まるで俺に見せつけてくるような仕草には、太陽光と同じく辟易させられる。
「そういえば、お天気の日が好きな理由を思い出したんですよ」
くる、と勢いよく振り返り、何を言うかと思えば。
記憶の無い時分には、天気が良い日になぜそこまで上機嫌になれるのか、自分でも分からなかったと言っていた。思い至った理由をわざわざ聞かせたいのか。律儀なやつだ。面倒なやつだ。
だが、俺が反応を返そうが返すまいが、彼奴は太陽みたいな笑みを浮かべて勝手に告げてくる。
「お天気だと、野菜が良く育つんです!」
ふざけた理由だと思った。と同時に、こいつらしいな、とも。
「分かったから、前を向け」と促すと、女はそのままの顔で「はーい」と正面に向き直った。それからも微かに覗く横顔は、ニコニコと太陽を感じさせる笑みのままだった。
「到着しました」と馬を降りたのは、大きな木が一本立った、丘の上。
見晴らしは良く、湖面の輝くハイラル湖や、遠くにそびえる双子山、奥にハイラル城を収めた平原に囲まれた場所だ。いつも見ている景色と何一つ変わらない、ただのハイラルの景色だった。
感動なんてものはない。こんな景色は、いくらでもある。少し期待した先だったので、今更なんなんだと、余計に無味乾燥とした気持ちになった。
文句の一つも言いたくなり、彼奴を見返すと、女は俺と違って、瞳に太陽光を反射させるくらい、目をまん丸に見開いていた。
「こんなに綺麗な場所、初めて見たんです。綺麗だって、思いませんか?」
女は上機嫌を隠さない。高揚して上ずった声に、持ち上がった口端、頬。それらすべてが、己の高揚を俺に伝えてくる。
村から出たことが無かった女には、ハイラルを回る全ての景色が新鮮に映るんだろう。こんな大したことない景観でも、俺を連れてきたいと思うほどに。
こいつは幼少期に親を亡くし、それからずっと一人で生きてきたと言った。感覚が、経験が、稚拙なのだ。
だから俺を巻き込んで、感動を誰かと共有したいだなんて考えて、実行に移せる。俺だったらできない恥ずかしいことでも。
「まぁ、綺麗だな」
確かに、女の高揚した横顔越しに見る何でもない景色は、少し新鮮だった。
「そういえば、お弁当を、準備してきたんです。そろそろ食べましょうか!」
ひとしきり二人で景色を眺めて、女がパッと弾かれたように手を打った。
弁当とは、聞いてない。だから朝の支度に手間取ったのかと、俺は鞄を弄る女を見ながら、内心で小さく納得した。
首尾よく帆布の敷物まで持ってきていた女は、その場で広げて敷いて見せた。風で煽られる前に尻を乗せ、「貴方も」と手招きされたので、片膝を立てて座りこむ。
敷物は、大の大人が二人で座っても、十分な大きさがあった。その場に荷物を広げ、弁当を置いて丁度良い程度だ。
だから、包みを開けて握り飯を一口齧ったとき、彼奴が食堂で飯を食うみたいに隣へ詰めてきて、苦虫を噛み潰したような気分になった。
「狭い。卓が無いんだから、くっつく必要ないだろ。離れろ」
「貴方って、本当に常識がない人」
「どういう意味だ。なにが常識だっていうんだ」
「普通、包みを開けたら労いのひとつでも声を掛けるべきでしょう。そのまま食べ始めるなんて」
言われてから、彼奴の呆れた顔と弁当の中身を交互に見た。握り飯が二つと、卵焼きに漬物。それらを、何かの大きな葉でくるんだ弁当だ。
イーガの飯炊き番にでも頼んで作らせたのかと思ったが、労いとは?まさか、自分が作って準備した、とでもいうのだろうか。
「お前が作ったのか?」
「それ以外になにがあるんです」
至極当然というように返されて、咄嗟に言葉を返せなかった。
確かに、不躾だったかもしれない。俺が頼んだわけじゃないとは言え、昼飯を準備したにも関わらず、当然とばかりに食われては嫌な気にもなろう。
しかし、労うって、何をどう、労えば良いんだ。
そして、それと隣り合って食うことの、何が関係しているんだ。
何を言うべきか言葉を考えていたら、弁当の卵焼きを攫われた。
「あっ」
「下っ端に取られるなんて、プロが泣きますね」
見せつけるように口へ放り込んで咀嚼するので、逆に女の卵焼きを奪おうかと考える。しかし、如何せんこういうときは抜け目ないものだ。既に卵焼きは食った後のようで、弁当の包みには握り飯と漬物が残るのみだった。
腹が立つ。くすくすと笑みを零されて、余計に胸の内がざわついた。やつには背を向けて、黙って握り飯にかじりついた。中身は魚の解し身で、俺好みの塩気が美味かった。
飯を食い終われば、暇になる。今更、女と話すようなこともない。俺はその場に寝転んだ。
身体の半分は敷物から出ているが、さわさわとした草の感触は悪くない。地面の湿気た冷たさも心地よかった。木陰を通る風は爽やかだし、腹も満たされている。
このまま睡魔が訪れれば、潔く寝てやろう。徐々に重くなる瞼の隙間から、なんでもないハイラルの景色を眺めていたら、ふと「確かに外へ出てきて良かったな」と、じわじわ思った。アジトで寝ているだけじゃ、決してあり得ない体験だろうし。
「寝るんですか?ここまできて」
「することもないんだ。いいだろ、別に」
「じゃあ、私の話、聞いててください」
「断る。なんでお前の話なんか」
「いいでしょう、することもないと言ったのは、貴方です」
相変わらず俺の隣に座ったまま景色を眺める彼奴は、随分勝手な物言いで、俺の耳を借りていくと宣言した。
もう諦めてる。この女は、俺の言うことなんて何一つ聞きゃしないんだ。
記憶がない時からずっと、そうだった。今まで面倒を見てきて、数か月も俺自身を貸してやったんだ。耳くらいで目くじらを立てるのも、ばかばかしいか。
物言わずに黙っていると、女は了承と受け取ったのか滔々と話し出した。
「私、行きたいところがたくさんあって」
女が口にしたのは、単なる夢の話だった。
「アッカレも行きたいし、デスマウンテンも見てみたい。ラネールのゾーラの里とか、海の綺麗なウオトリーにも」
「・・・」
「野菜が美味しいハテノ村も、最果てって言われるヘブラも、リトの村も、全部行きたい。私、どこにも行ったことが無いから」
「そうか」
「いろんなところへ行けるようになって、嬉しいんです」
遠く、霞んで白けて見えるほど遠くを見ていた女が、その場にごろんと寝転んだ。仰向けになったまま空でも見ていれば良いのに、俺と真向かいになって、それは嬉しそうに顔を綻ばせてくる。
間近で相対するのは、いつぶりだろうか。それも、これほどまでに穏やかに笑いかけられるなんて。
「イーガに来てから人生が変わった。記憶を失って良かった」
顔を覗き込まれた折、瞳の中に俺がいるのが見えた。
ゆらつく木の葉の影が、楽しげだった。目の前の女の髪は黒いのに、なぜか赤く波打っているように感じられた。
実感の籠った声音に、穏やかな笑顔。およそ今まで経験したことのない瞬間だ。隠密でありとあらゆることを経験しつくしたと思っていたが、こんな何気ない未体験があるのかと、気付かされる思いだった。
ふわりと、髪が風に靡く。まるで俺を誘っているみたいだ。女が乱れた髪をそのままにするものだから、そのまま、つと手を差し出し、赤く思えた黒髪を押さえてやった。猫っ毛で、綿みたいに柔らかく、沈んだ指先がその場で寝ちまうんじゃないかと錯覚する。絡ませて遊ぶと、彼奴はくすぐったそうに瞼を伏せた。
そのまま指先を滑らせて、ピンクに染まった頬にも触れる。撫でると、髪の毛よりも柔らかく、ふわふわとした心地だった。俺の肌とは随分違う。女の肌とは、これほどきめ細やかで、すべすべした手触りなのかと、新鮮だった。
よく考えたら、初めて会ったときよりも肥えた気がする。きっと一人で暮らしている最中は、最低限の飯しか食っていなかったのだろう。今は鍛錬の積み重ねでほどよく筋肉がついているし、女らしい身体つきに変わっている。
しかし、今日はいつもの女と違う。ふざけた笑みを浮かべる口元は大人しくしているし、人を揶揄う目つきは閉じられて、まるで音楽にでも夢中になっているみたいだ。
それどころか、目元には赤の墨が跳ねているし、薄く引かれた眉墨が、彼女の顔立ちを洗練させていた。器量よしと表現されたのも分かる。唇に塗られた紅も瑞々しく、なにか、誘われている気になってしまう。
ふわ、と柔らかそうなそれを撫でると、掠れた赤が指の腹に付着して、やってしまったと指先同士を擦り合わせた。
「貴方の顔は、本当の顔ではないんですよね」
薄く瞼が開いたと思ったら、大人びた顔で当然のことを聞いて来る。いつも唐突なんだ。こいつは本当に。
「そりゃそうだ。変装してる」
「どんな顔してるのか、気になる」
「見せないぞ。俺は隠密だ」
「ええ、別に構いません。そこまでの強い興味じゃありませんし」
「おい」
「私の顔が分かってるのに、ズルいって思っただけ」
「他の奴らも知ってるんだろ。食堂で散々、面を取って食ってた」
「貴方に、見せつけたくて」
どういう意味だ。理解しかねて、小さく眉間に皺を寄せた。女はまた瞼を伏せて、髪の毛に通した俺の指先に、手の平を重ねてくる。
「貴方に、人生に悲観した顔がむかつくって言われたでしょ?」
「・・・あぁ、言ったかもな。お前がまだ、記憶を失ってた時分に」
「最近はどうですか? そんな顔になってますか?」
どうやら、いっちょう前に気にしていたらしい。あの時は、死んでもどうなっても構わないという態度が気に食わなくて、咄嗟に口から出た言葉だった。質問の多いこいつを突き放すために言ったんだった気もする。
当時の意地悪さを突き付けられているようで、バツが悪い。穏やかに、少し笑みの含まれた上ずり声で呟いたのだから、決してそんな裏を込めたわけではないのだろうが。
「まぁ、悪くない顔してる」
仕方ないので、思ったままを口にした。
女が手の平に擦り寄ってくる。傷だらけで、マメだらけの掌なんぞ、硬くて、良いもんじゃないだろうに。女の柔肌に傷がつくんじゃないかと気になった。
そのまままた、瞼が薄く持ち上がって、真正面から女が覗き込んでくる。ピンク色に薄づいた頬をまた撫でて、柔らかい肌を確かめた。人に触ることなんて、今後二度と無いかもしれないと思いながら。
「するなら、してください」
それまで何の感慨もない表情をしていた女の眉間が歪んで、小さく皺が寄った。
その瞳に宿るのは批難だろうか。しかし、唐突な変化の理由に、理解が及ばない。
「何を」
「・・・常識が、ないんですね。本当に」
「どういう意味だ」
「他の女性にも、そうなんですか?」
「だから、なにが」
「急に手を取って手の平を包んだり、お腹が空いてるからって、好物を渡したり」
「・・・」
「頭を撫でたり、頬を撫でたり、人の唇に触れてきたり」
「・・・」
「本当に、常識がない」
真顔で滔々ともっともな非難をされて、俺は手の平をひっこめた。
「・・・それはすまん。遠慮が無かった」と、素直に謝っても、彼奴の口から溢れる言葉が止まらない。
「そもそも、貴方がヘマをしたのに、口封じで殺そうとしてくるなんて、意味が分からない」
「・・・すまん」
「そのまま飲まず食わずで半日以上移動させられたのも、つらかった」
「・・・今更言うなよ」
「医務室で診てもらうときも、出ていこうとしなかったし」
「女への配慮なんか知らない」
「鍛錬もきつくて、休憩も挟んでくれないし」
「・・・すまん」
「いつ会っても、舌打ちしてくるし、ぶっきらぼうだし」
「・・・」
「愛想もないし、文句ばっかりでうるさいし」
「お前だろ、いつも小うるさいのは」
「私の面倒を、見ていたくせに」
「それがどうした」
「私のこと、何も分かっていない」
「知るか。意味の分からないことばかりする、お前がいけないんだろ」
「ばーか」
「なに」
「ばーか、ばーかばーかばーか」
子供じみた悪口を繰り返す内、あっという間に開かれた瞳が揺らめいて、焦点が合わなくなった。と思ったら、そのまま女は上半身をもちあげ、瞳を手の甲でぐしぐしと擦った。
意味が分からなくて俺も上半身を持ち上げる。「おい」と声を掛けても、女は手の腹で瞳を抑え、俯くままで微動だにしない。
幾ら常識が無いと散々言われようが、さすがに俺でも分かる。泣いた。いや、泣かせた。しかし、泣いた女なんか、どうしたら良いか分からない。何をしても文句を言われそうで、全く行動に思い至らない。
慰めれば良いのか、背中を摩れば良いのか、小さく空を仰ぎながら面倒に思っていると、突然女が振り向いた。
瞼に引いていた紅がよれてる。しかしそれよりも、見開いた瞳の中に強い光を見た気がして、その美しさに目を奪われた。意思の強い表情だ。自分はまさにここで生きていて、これからも生き抜いてやるんだと、そう思わせるような。
きっと、一瞬の出来事だったはずなのに、酷くゆっくりに感じられた。彼奴の顔がずい、と近づいてくる。瞼を伏せ、くっと仰け反らせた喉元と、突き出された唇。
距離を縮めるように襟首を掴まれて、引き寄せられて、どこまで、と刹那に思った。思っている間に、唇へ柔らかい肉感がぶつかった。さっき指先で撫でた、女の唇だった。
ふわ、とした肉を実感した後、女が唇を交差させて、俺を食んでくる。まるで甘噛みによって、本当に食べでもしているかのように。身動きできずに固まっている合間に、女は身を引いた。
気付けば、さっきと同じように目を見開き、俺を睨みつけながら唇を引き絞る女の姿が、真正面に戻っていた。
違うのは、頬のピンクが、一層濃くなったことか。
今、何したんだ。と声にする間もなく、女は勢いよく立ち上がる。
「もう、行きましょう。今帰らないと、夜になるから」
俺に背を向けたまま、もう一度手の甲で目を擦った。自分を落ち着かせるように深く息を吐く様は、まるで俺に見せつけてるみたいだ。
急になんなんだと、腹が立った。腹が立ったが、それ以上に、衝動に駆られた。
身体の奥底から湧き上がってくる衝動。俺を見据え、意思の光を宿した瞳で、襟首を引き寄せた力強さ。何を思って身体が動いたのかを考えると、居てもたってもいられなくなる。これがどんな感情の衝動なのかは、自分で考えてもよく分からないが。
体の横に降ろされた女の手の平を寸分もせずに捕まえて、俺は彼奴を思い切り引き寄せた。「うわっ」と女らしからぬ声をあげ、転げるように俺へ寄りかかり、「なにを」と文句と同時に見上げてくる。
油断しきった彼奴の唇へ、俺は唇を重ねた。
その途端の、見開かれた瞳が新鮮だった。こいつがしたことと同じことをしてるだけなのに、なんでそこまで驚くのか。
掴んだままの手首を更に引き寄せ、呆けたように開かれた唇の隙間から舌先を潜り込ませる。「んっ・・・」と小さく呻くだけで抵抗もないので、そのまま口内を弄りながら、彼奴を草原に押し倒した。
両手に指先を絡め、深く深く、口づけを施す。その頃には見開かれた瞼は閉じられていて、ぬるつく口内の刺激に没頭しているようだ。股に差し込んだ太ももに彼奴自身の足を摺り寄せてくるものだから、口づけだけでどれほど昂っているのかお察しだろう。そして、その昂りにこそ、俺自身が誘因され、湧き上がってくるものがある。
もっと、欲しいと思った。女の唇も、指先も、太ももも、これだけじゃ足りない。
あれだけ生に頓着無かった女の顔付きがよぎる。淡泊で、諦めの滲んだ表情。女を変えたのは、俺だろう。俺に違いなかった。もっと変えたいと思った。こいつの、この先すら。
口づけをやめるタイミングが分からない。深く潜りこみ、強く握り込み、小さく喉奥で喘ぐ女を見ていると、このままずっと、と思う。
が、そうもいかないらしく、薄く開いた瞼の奥で、潤む批難の目付きを見つけた。何か言いたげだと思って離れると、「っはぁ」と勢いよく女が深呼吸し、その後は肩での呼吸を繰り返す。酸欠になってたのだとその時やっと気付いた。
空気が恋しくて荒く呼吸を繰り返すのか、ただ心が奮っているから荒い吐息を繰り返すのか、分からない。ただ俺としては、女が望むことをしてやったつもりだ。物言いたげな表情ながら無言を貫く女を見下ろすのは、気分が良い。
「常識が無いと言ったか」
「いい、ました」
「これでも、常識はないか」
「無いです、無い。いきなりッ」
「じゃあ、お前も常識無いじゃないか」
「貴方よりはある・・・!」
唇を震わせて小言を言ってくるものだから、そのまままた唇を塞いだ。角度を変えて何度も啄むと、どんどんと胸を叩いていた手の平が、次第に力なく縋るのみになる。女と知り合ってからずっと翻弄されていたものだが、やっと御し方が分かった。小うるさい文句を言ってくる口元を、己の唇で塞げば良いだけだったんだ。
水音を立てながら唇を離すと、それまで文句しか紡がなかった口元が、漸く大人しくなる。やっぱり物言いたげな瞳のままではあったが、批難の目付は既にない。それどころか、俺に縋り、どこか物欲しげな顔にさえ見える。俺の思い過ごしだろうか。
「普通だったら、この後どうするんだ」
常識常識、と小うるさい口元を親指で撫でる。今しがた深く口づけしたそこは、紅がすっかりなくなって、代わりに唾液で酷く濡れていた。拭ってやるつもりで触れたのだが、指先でも感じる柔らかさに、またひとたびかぶりつきたくなるから不思議なものだ。
ふっ、と、むくれ顔を作って、彼奴は指先から逃げるように首を回した。
「知らない、自分で考えて」
「俺は、常識を知らない男だぞ」
「良いです、分かってます。諦めてます」
「良いんだな、常識外れなことをしても」
「・・・私だって、常識から外れちゃったし・・・」
薄目で睨まれても、上を取ってる状況なら腹も立たないもんだ。
女の顎を捕まえて、物欲しげな口元に迫った。
「面倒見てやる」
「・・・うん」
彼奴に跨るのはこれで二度目だ。
視界に重なるのは、月光もない暗闇で、諦めを滲ませた笑い顔。
今はどうだ。太陽の下で俺を睨む女は、ともすれば泣き出しそうな顔をしている。
意思の強い顔は嫌いじゃない。仕方ないからこのまま面倒を見ようかと思うほどには。
口づけで泣き顔を宥めながら、俺は彼女の髪を撫でた。
黒に染まったそれが、俺にはいつまでも赤く、色づいて見えるようで好きだった。
隠密業務からの帰り。
軽い怪我を処置されている間に、そんな話を振られるとは露ほども思っていなかった俺は、面下で眉を顰めた。
唐突に切り出したのは、俺が昔から頼りにしている馴染みの医療班だ。
最近じゃあ暗殺業務が無かったものだから、自分自身は世話になっちゃいなかったが、例の女をこいつに預け、診させたこともある。業務外の世間話をするくらいには、確かに得も言えない親密さのある男だった。
とはいえ、いくら距離が近いったって限度がある。暗殺業務の話から一転、「ところで」と続いた先の話としては、ふり幅がちょっとおかしくないか。
包帯を巻きながら、天気の話でもするみたいに話を振られたものだから、一瞬意味を理解しかねた。
ただ、こいつがなにを言いたいのか、その一言で察せないほどバカじゃない。確信をもってすぐさま返事するのは気が引けたので、一旦かぶりをふってはみせるが。
「どういうって、なんだ。あの子って、どいつだ」
「またまた、分かってる癖に! 赤髪のあの子ですよ」
「あいつはもう黒く染めたろ。赤髪じゃない」
「そういうの良いですから。傍目から見てても仲良さそうですし、もしかしてと思って」
ともすれば笑い出しそうなほど上ずった声で、立てた小指を見せつけてくるものだから、ベテラン医療班としてお堅い一面しか知らなかった俺は随分驚かされた。
お前そんなに茶らけたやつだったのか。あまりの軽口に苦言でも呈そうかと思ったが、ここで話を逸らすのも露骨だろう。ため息ひとつ吐くだけで、幹部役に対するおちょくりは許すことにする。
「そんなわけない、あいつはただ面倒見てやっただけの関係だぞ」
「そうなんですか? あんなに熱心だったのに?」
「コーガ様の命とあらば当たり前だ。それに、新人に対する熱量なんか、みんなあんなもんだろ。詳しくは知らんが」
「淡泊な貴方が随分、と思ったんですが。その気も一切ないんです?」
淡泊、と口にしたこの医療班こそ、淡泊な男だと思っていた。まさかここまで下世話をしつこく迫ってくるとは考えてもおらず、「その気って・・・」と口ごもった。
確かに、女に対して、特別な思い入れが無いわけではない。
イーガに招き入れ、手ずから一人前に育て上げた女だ。外回りをしている最中、寄り添って寝たこともあるし、二人の間にしかない秘密もある。元の生家を訪ねて痕跡を消したことも。
しかし、“その気”だなんて。俺が、あいつと、どうにかなるって?
ふっと頭の中で想像しようとして、その様子がやけに新鮮さを帯びて襲ってくる。いつでも隣にいるだとか、肩を預けて寝るんだろうとか、およそ今までと同じような振る舞いだったとしても、「恋仲」という札が貼られるだけで、こうまで想像しづらくなるものか。まるで子どもの描いた絵みたいに、奇妙で稚拙な違和感があった。
「・・・考えたことも無かった」
「あちゃあ勿体ない。器量良しなのに」
小さく天井を仰いで額をつく様に、むかっぱらが立つ。
なんという芝居がかった態度か。この男はここまで面倒な性格だったのか。
それまでゆるゆると包帯を巻いていた手の平から帯を奪いとる。「あ」と小さく漏れた声に構わず、俺は勢いよくグルグルと怪我を巻き、さっさと処置を終わらせることにした。
「そんなに強く巻いたら、怪我が開きますよ」
「俺は隠密部隊だぞ。相手なんか作ったって、弱みになるだけだろ」
「そうですか?強みになることもあると思いますが」
「意味が分からんし、想像もつかん」
「でも、そう言うってことは、満更でもないってことですね?」
にやついた声音で、揶揄っているのを隠しもしない医療班に、今まで感じていた信頼や敬意が抜け落ちていく。
男と女がどうのこうのと、こういう話はとかく女がするものなのだと思っていた。良い年だろうに、思春期のような話題を持ち上げ、広げるなんて、ばかばかしい。
包帯をギュッと固く結んで立ち上がり、「くだらん」とだけ吐き捨てて、俺は彼に背を向ける。
医務室の戸口を抜ける瞬間、「お大事に」と、いつもの生真面目な声が耳に聞こえた。しかし、揶揄うときのニヤついた声も同時に再生され、頭の中でいつまでも反響したのは後者の方だった。
あいつは記憶を取り戻した後、「記憶は取り戻さなかった」という体でも、無事にイーガの一人前として認められた。
実際に人を手にかけた実績があれば、例え「記憶を取り戻した」としても、イーガに引きずり込めるだろうという、コーガ様の采配によるものだ。諜報部隊に所属し、最近は一人でハイラル平原辺りを回っているらしい。
俺は晴れて隠密部隊の業務へと返り咲き、女と同じ業務に携わることはなくなった。面倒を見るとは伝えたが、実際に尻拭いしてやるような事案もない。
未だ記憶を失ったままだという手前、医務室へ度々通っているようだったから、きっとあの女と医療班の団員の方が会う機会も多いはずだ。俺なんかより、女に直接聞いた方が早いだろうに。
まぁ、彼から揶揄われる理由に、身に覚えが無いと言えばウソになる。
「一緒に良いですか?」
一日の内、もっとも食堂が混雑する昼時。
部屋の隅の方で飯を食っていると、ふっと卓盆に影が落ちて、遠慮のない声が頭の先に振ってきた。
面の中で視線だけを上げれば、少し前まで柔らかな赤髪を頭上から枝垂れさせていた女の姿。
今や陰に染まった証としての黒髪を頭のてっぺんで結って、すっかりイーガ団員の様相が様になった例の女がそこにいた。
彼奴越しに食堂の奥を覗き込めば、いつもの連れが控えめにこちらの様子を伺っているのが目に入る。
こいつはまた、何の断りもなく彼らの輪から離れたのか。イーガは個人の業務が重要とはいえ、集団なのだ。空気の読めないような人間や、輪を乱すような輩は嫌われるだろうに。
良いとも悪いとも言わずに無言でいると、彼奴は「失礼します」と俺の卓盆を隅にやり、尻を無理やり座敷に詰め込んで隣を陣取ってくる。
食堂で彼奴に見つかると、いつもこうだった。だから部屋の隅でこそこそと飯を食っているというのに、全く空気の読めない女だ。
面をとったすぐ傍から飯を食い始めるものだから、俺は大袈裟にため息をついて女を睨みつけた。
「貴様、連れが居ただろう。俺に構うな。飯くらい一人で食わせてくれ」
「飯くらい、複数で食べたらどうですと言ってるんです。じゃないと貴方、いつも一人でしょう」
「それが隠密というものだ。常に連れが居る貴様の方が異様なんだ。ピーチクパーチクと小鳥のように」
「隠密の男にしては可愛らしい表現」
「お前は本当に面倒だな」
記憶が戻ってからというもの、それまでも面倒だった女の態度に、拍車がかかった。
元々の性格もあるのだろうが、俺のヘマによって暗殺されかかり、そして取りやめたことを弱みのように考えているらしい。揶揄う種のひとつとして扱ってくるから厄介だ。俺の方が圧倒的に役職も実力も上なのに、軽口が止まらない。
イーガの隠密と言えば、花形の部署である。幹部役ともなれば、どの団員だってそれなりに敬意を見せるものだ。今まで女のような下っ端構成員にここまでの軽口を叩かれることは無かった。
舐められているようで腹が立つし、対応が面倒だし、何より調子が狂って、いつもの俺じゃなくなるようで。
こんな面倒な女と、どうにかなる? 医療班員から言われた言葉がふいに頭の中にチラついた。
いつでもへらへらした笑みを浮かべていて、色気のいの字もない女。面下でジッと見つめても、俺の視線にいっさい気付かない、間抜けな女。
記憶のない時分には、ときたま見せる切ない顔にはっとなったものだが、今はどうだ。デカい口を開けて次々に飯を頬張り、リスみたいな頬袋を作って咀嚼する様は、女らしさの欠片もない。
俺は静かな女が好きだ。貞淑で、淑やかで、くだらない口を入れないような女が好きだ。
目の前で「おいひい」とかなんとか、飯くらいで幸せそうに目を細める女とは、程遠い女が好きだった。
こいつとどうこうなる、なんて、ありえないだろ。
想像してみるが、やっぱり違和感ばかりが先に立つものだから、頭をふってばかばかしい空想を散らした。
「そういえば、貴方にも、お休みってあるんですか?」
こいつはいつだって唐突だ。脈絡もなく、かつ突然顔を向けるものだから、視線を送っていたことに勘付かれたのかと思って少しギクリとした。
が、どうもそういうわけではないらしい。昼餉のつみれを口に入れ、言葉を考えている風を装いながら、ゆっくり咀嚼する。
その間もしつこくジッと見つめてくるものだから、飲み込んだ後に一旦茶碗を置き、ため息をついた。
「・・・藪から棒だな、どういう意味だ」
「そのままの意味です。隠密部隊の皆さんは忙しそうなので、きちんとした休日があるのかなと思って」
「隠密は一度の業務期間が長いからな、休暇を頂戴するときは一気にもらうんだ」
「はぁー、なるほど。もしかして今、休暇中ですか?」
「アジトに居る間は、大概そうだな」
「いつまで?」
「あと三日は、休みだが」
なぜこうまで質問責めされるのか、わけが分からない。俺も応えるべきでは無かったのかもしれない。ただ、彼奴とは正直に言ってつうつうの仲になっていたし、教えを説いていたときの癖で、聞かれたら答える流れが身体に染み付いてしまっていた。特に違和感なく、素直に質問へ答えたのが運の尽きだ。
にんまりとした笑みを浮かべた瞬間、そこで初めて嫌な予感が頭をよぎっていった。
「少し、遊びに行きませんか?」
何を言い出すのかと思えば、こいつは。
今まで同志と休みの日にどこかで、なんて考えたことも無かった俺は、彼奴の笑顔を凝視した。わざわざ言葉にせずとも、俺の拒否感が伝われば良いのに、と思ったが、彼奴は察しが悪い。にんまりした笑みから微動だにしないので、俺は茶碗を手に取って、再び飯を食い始めた。
「嫌だ」
「なぜです」
「休みの日はアジトで寝ると決めている」
「退屈な過ごし方。だから少し、常識が無いのではないですか?」
反射的に「なに?」と眉間にしわが寄った。
俺の休日が退屈? 少し、常識がない? お前にだけは言われたくない、と咄嗟に口をついて出ようとしたが、いや、そも俺はこいつの休日を知らない。
反論できない、と言葉に迷った瞬間、追撃がきた。
「それに、貴方ってイーガの理しか詳しくないし。プロなのかもしれませんが、それ以外の知識が抜けてたらねぇ、いつか足を掬われますよ」
「ここで生きるには、それで十分だ」
「つまらない人生ですね。だからいつも一人で飯を食べてるんでしょう。友人の一人もいないなんて」
腹立たしい。
こいつの方こそ、人間としての常識を放棄していた時分もあるくせに、好き勝手言ってくれる。俺がずっと面倒を見てやったというのに、なんという言い様なんだ、こいつは。
いや、分かっている。これは戦術の一だ。わざと相手の怒りを煽り、冷静な判断を鈍らせる戦術。話術で情報を収集していく諜報らしいやり方である。
そんな戦法が日常生活にまで身についているのは称賛に値する。しかしだ、タネさえ理解していれば、口車に乗せられることもない。
俺は、すぐそこまで出かかった苛立ちを、汁で流し込む。
「私が友人になってあげても良いですよ」
「黙れ。何が友人だ。誰が貴様と友人なんぞになるか」
「でも実際に、友人の一人もいないですよね?ずっとここにいるのに」
「まずその友人という概念がおかしい。ここにいるのは皆同志だ。仲良しこよししたいわけじゃない」
「普段人と喋らないから、粗雑な話し方しかできないんでしょう。貴方の口の利き方は、大人として常識が無さ過ぎます」
「貴様に言われたくない。人のことを舐めくさって」
「それは貴方です、自覚が無さ過ぎる!幹部役のくせに、自分のことまで分かってないなんて」
芝居がかった仕草で両手を挙げ、目を見開いてみせる。俺はチッと大きく舌打ちをした。
こいつは、なんなんだ。なぜ俺にここまで突っかかってくる。面倒を見れば今まで通りの生活が戻ってくると思っていたのに、とんだ見当違いだった。
さっさと飯を食って、こいつから離れたい。俺は残りの漬物と味噌汁を米にかけ、一気に流し込んだ。
「うわぁ、嫌な食べ方」とかなんとか、また口を挟まれたが、無言で咀嚼し、口元を拭った。
その間、女の箸は完全に止まっている。それでなくとも飯を食うのが遅いのに、これじゃいつまでたっても完食なんて程遠いだろう。俺の隣へ彼奴が腰かけるとき、いつだって食べ終わるのは俺の方が早かった。
何も言わず盆を手に立ち上がり、そのまま卓を後にするのが普段のお決まりだったが、今回は意外としつこかった。
「待ってください、話が終わってない」
袴下の裾をガッと力強く掴まれて、動くに動けない。「離せ」と足を引っ張るが、一切弛緩しない手の平に、下穿きが見えそうになる。蹴りでもしようかと思ったが、さすがに女相手だと呵責がよぎる。
「明日、ちょっと出かけましょうよ。寝るだけなら一日くらい、私にくれたって良いでしょう」
「なぜ貴様に俺の休日をやらんといかんのだ」
「貴方が私の面倒を見ると言ったから」
適当なことをぬかしやがって、と思う一方、真剣に見開かれた瞳に、責任感を引きずり出されるような感覚を覚えた。
こいつの面倒を見ると言ったのは、俺だ。確かに、はっきりと、自分の意思でそういったことがある。言ったがしかし、それとこれとは話が違う。
「お前も休みなんだろう。休みの日の面倒まで見ると言った覚えはない」
「見ない、とも聞いてません」
「屁理屈だ」
「理に適ってます」
「貴様は・・・」
「責任、取ってください!」
ひと際大きな声ではっきりと言われて、それまでざわついていた食堂が一瞬、静まり返った。
いや、それは俺の気の所為かもしれない。キリッとした面持ちで、瞳に強い光を浮かべながら宣言するものだから、ほんの一瞬、思考を奪われた。外界の音が耳に入らなくなっただけやも。
それよりも、休日をくれてやる、という話から、なぜ責任を取る、という話になってるんだ。理解に苦しむ。
「おい」と苦々し気に断ろうとしたところ、彼奴はまたもや俺の声に、デカくてよく通る声を被せてきた。
「貴方が面倒を見ると言ったんですよ!認めずに逃げるのですか!責任取ってください!」
「声がデカい。やめろ。騒ぐな。認めずに逃げるの意味が分からん」
「明日一日だけ面倒を見てくれるだけで良いのです、一日だけ見てください!そしたらもう、面倒なことは言いませんから!」
ざわざわと聞こえる食堂のざわめきはいつも通りだろうか。いや、何やら少し様子が違う気もする。「責任って、まさか」「もしかして、面倒見ないつもりで・・・」微かに耳に入ってくる単語は、今しがた女が口にしたことばかり。
最悪だ。完全に話題の中心となっている。すべからくお互いを黙認するのがイーガでの暗黙の了解だが、こうまで騒ぎになってしまってはお手上げだ。違う違うと周囲に言って回っても良いのだろうが、俺はそこまで人に、自分に熱心じゃない。隠密としても矜持が廃る。
俺は仕方なく、「分かったから騒ぐな」と女を諫めた。
「・・・明日だけだ。一日なら良い。お前に休日をくれてやる」
「本当ですか?言いましたね?朝から動いてもらいますよ」
「最悪な気分だが、・・・良いだろう」
それでなくとも、医療班から言われた言葉も頭に残っている。これ以上、彼奴とのうわさ話に尾鰭をつけさせたくない。こんなところで周囲を勘違いさせるようなことを騒がれちゃ、居心地の良い俺の居場所は瓦解するに違いない。
渋々ではあったが了承の言葉を受け取って、女は漸く袴下から手を離した。
片手をあげて「じゃ、また明日」と随分調子の良いことをいうものだから、俺の眉間の皺は深くなるばかりだった。舌打ちを残して去った後、彼奴がどれだけの満面の笑みで飯を食っているかなんて、露ほども気付かないくらいには。
■ ■ ■
次の日。
普段であれば昼過ぎまで寝ているところ、しようがないので日の出と共に目を覚まし、支度を整えて玄関先で彼奴を待っていた。
あいつが誘ってきたにもかかわらず、まさか俺の方が早く支度を整え、玄関先で待つことになるとは思わなんだ。
冒険者の身に扮装し、いつまでも腕を組んで人を待つ俺は、傍から見たら異様だったのだと思う。次々出立していく団員たちから、随分奇異な目を向けられた。イーガに人を待たせるノロマなんて居ないことの証左でもあろう。あの女とは違って。
「お待たせしました」と耳に入ってきた時、それまで募らせていた叱責の言葉が湧きたった。とはいえそれらは、俺の口から出ることは無かった。大きく舌打ちをして、「お前な」と振り返った先、想像していた女が、そこにいなかったからだ。
彼奴は、変装をしていなかった。とはいえ、素の顔、というわけでもなかった。
薄付きだが化粧を施し、はっきりとした目鼻立ちを、更に際立たせた相好が目に飛び込んできた。
服装も、今までアジト内で見たことの無い服装だった。身体にぴったりと纏わった上半身から、腰部分を境にふわりとしたスカートが広がる青い服。
おそらく、彼奴が元の生家から持ってきた一張羅だ。生家でも目にしたはずだが、彼奴が袖を通すと、ここまで印象が変わるのかと我が目を疑った。
まるで城下で見かけるような令嬢・・・は、言い過ぎかもしれないが、ともかく、今までのガサツな印象とは程遠い。貞淑で、淑やかな見た目。少なくとも、喋らなければそう見える。
しかし、俺の頭を占めるのは疑問だけだ。なぜそんな顔をしている?なぜそんな服を着ている?小さい足取りで俺の傍まで寄ってきて、眉尻を下げる彼奴の装いに心当たりはない。
「ごめんなさい、準備に手間取ってしまって」
「・・・」
「久しぶりだったので、手入れから始めてたら、つい」
「お前、いつもの冒険者の装いは、どうした」
「今日は、遊びに行くと言ったでしょう。相応しい恰好だと思いますが」
ついで、俺の全身に視線を這わせた彼奴は、呆れたように深くため息を吐いた。「本当に、常識がない人」と言ったのは、服装を指摘してのことだと思う。俺はイーガの理に則って、一見身なりの汚い、どこにでもいる冒険者を装っていたのだから。
俺が悪いのか?遊びに行くときは、こんな格好をするものなのか?
「行きましょう」と先を行く女の揺れる裾を視界に入れながら、俺は反論もせずにただ黙って背中を追いかけた。
砂漠を渡り、馬に乗って、アジトからかなり遠いところまでやってきた。
平原を駆ける間、双子山が正面にずっと見えていた。恐らくハイラル大橋の付近なのだと思うが、正直この辺りは何もないと記憶していた。めぼしい村や物があるわけじゃない。普段の業務なら、全く意に介さず通り過ぎるだけの場所だ。
「どこへ行くんだ」
「ハイラルを回ってる時に、綺麗な場所を見つけたんです。そこに行こうかなと思って」
遊びに行くと言ったのはこいつなのに、蓋を開けてみればそんなものだ。
とはいえ、外回りの業務に就いて長い俺に、わざわざ声を掛けて連れ出したんだ。よっぽど自信のある場所なんだろうと、微かに興味が沸いたのも事実だった。
女の繰る馬の背に乗っている最中、微かな鼻歌がずっと耳に聞こえていた。手持ち無沙汰で横顔を見れば、女の口端はゆるりと持ち上がっていて、楽しげな様子を隠しもしない。
無感の暗殺集団が聞いてあきれる。が、それももう今更だろうか。
天気が良くて、穏やかな風があるとき、女はいつもそうだった。まるで俺に見せつけてくるような仕草には、太陽光と同じく辟易させられる。
「そういえば、お天気の日が好きな理由を思い出したんですよ」
くる、と勢いよく振り返り、何を言うかと思えば。
記憶の無い時分には、天気が良い日になぜそこまで上機嫌になれるのか、自分でも分からなかったと言っていた。思い至った理由をわざわざ聞かせたいのか。律儀なやつだ。面倒なやつだ。
だが、俺が反応を返そうが返すまいが、彼奴は太陽みたいな笑みを浮かべて勝手に告げてくる。
「お天気だと、野菜が良く育つんです!」
ふざけた理由だと思った。と同時に、こいつらしいな、とも。
「分かったから、前を向け」と促すと、女はそのままの顔で「はーい」と正面に向き直った。それからも微かに覗く横顔は、ニコニコと太陽を感じさせる笑みのままだった。
「到着しました」と馬を降りたのは、大きな木が一本立った、丘の上。
見晴らしは良く、湖面の輝くハイラル湖や、遠くにそびえる双子山、奥にハイラル城を収めた平原に囲まれた場所だ。いつも見ている景色と何一つ変わらない、ただのハイラルの景色だった。
感動なんてものはない。こんな景色は、いくらでもある。少し期待した先だったので、今更なんなんだと、余計に無味乾燥とした気持ちになった。
文句の一つも言いたくなり、彼奴を見返すと、女は俺と違って、瞳に太陽光を反射させるくらい、目をまん丸に見開いていた。
「こんなに綺麗な場所、初めて見たんです。綺麗だって、思いませんか?」
女は上機嫌を隠さない。高揚して上ずった声に、持ち上がった口端、頬。それらすべてが、己の高揚を俺に伝えてくる。
村から出たことが無かった女には、ハイラルを回る全ての景色が新鮮に映るんだろう。こんな大したことない景観でも、俺を連れてきたいと思うほどに。
こいつは幼少期に親を亡くし、それからずっと一人で生きてきたと言った。感覚が、経験が、稚拙なのだ。
だから俺を巻き込んで、感動を誰かと共有したいだなんて考えて、実行に移せる。俺だったらできない恥ずかしいことでも。
「まぁ、綺麗だな」
確かに、女の高揚した横顔越しに見る何でもない景色は、少し新鮮だった。
「そういえば、お弁当を、準備してきたんです。そろそろ食べましょうか!」
ひとしきり二人で景色を眺めて、女がパッと弾かれたように手を打った。
弁当とは、聞いてない。だから朝の支度に手間取ったのかと、俺は鞄を弄る女を見ながら、内心で小さく納得した。
首尾よく帆布の敷物まで持ってきていた女は、その場で広げて敷いて見せた。風で煽られる前に尻を乗せ、「貴方も」と手招きされたので、片膝を立てて座りこむ。
敷物は、大の大人が二人で座っても、十分な大きさがあった。その場に荷物を広げ、弁当を置いて丁度良い程度だ。
だから、包みを開けて握り飯を一口齧ったとき、彼奴が食堂で飯を食うみたいに隣へ詰めてきて、苦虫を噛み潰したような気分になった。
「狭い。卓が無いんだから、くっつく必要ないだろ。離れろ」
「貴方って、本当に常識がない人」
「どういう意味だ。なにが常識だっていうんだ」
「普通、包みを開けたら労いのひとつでも声を掛けるべきでしょう。そのまま食べ始めるなんて」
言われてから、彼奴の呆れた顔と弁当の中身を交互に見た。握り飯が二つと、卵焼きに漬物。それらを、何かの大きな葉でくるんだ弁当だ。
イーガの飯炊き番にでも頼んで作らせたのかと思ったが、労いとは?まさか、自分が作って準備した、とでもいうのだろうか。
「お前が作ったのか?」
「それ以外になにがあるんです」
至極当然というように返されて、咄嗟に言葉を返せなかった。
確かに、不躾だったかもしれない。俺が頼んだわけじゃないとは言え、昼飯を準備したにも関わらず、当然とばかりに食われては嫌な気にもなろう。
しかし、労うって、何をどう、労えば良いんだ。
そして、それと隣り合って食うことの、何が関係しているんだ。
何を言うべきか言葉を考えていたら、弁当の卵焼きを攫われた。
「あっ」
「下っ端に取られるなんて、プロが泣きますね」
見せつけるように口へ放り込んで咀嚼するので、逆に女の卵焼きを奪おうかと考える。しかし、如何せんこういうときは抜け目ないものだ。既に卵焼きは食った後のようで、弁当の包みには握り飯と漬物が残るのみだった。
腹が立つ。くすくすと笑みを零されて、余計に胸の内がざわついた。やつには背を向けて、黙って握り飯にかじりついた。中身は魚の解し身で、俺好みの塩気が美味かった。
飯を食い終われば、暇になる。今更、女と話すようなこともない。俺はその場に寝転んだ。
身体の半分は敷物から出ているが、さわさわとした草の感触は悪くない。地面の湿気た冷たさも心地よかった。木陰を通る風は爽やかだし、腹も満たされている。
このまま睡魔が訪れれば、潔く寝てやろう。徐々に重くなる瞼の隙間から、なんでもないハイラルの景色を眺めていたら、ふと「確かに外へ出てきて良かったな」と、じわじわ思った。アジトで寝ているだけじゃ、決してあり得ない体験だろうし。
「寝るんですか?ここまできて」
「することもないんだ。いいだろ、別に」
「じゃあ、私の話、聞いててください」
「断る。なんでお前の話なんか」
「いいでしょう、することもないと言ったのは、貴方です」
相変わらず俺の隣に座ったまま景色を眺める彼奴は、随分勝手な物言いで、俺の耳を借りていくと宣言した。
もう諦めてる。この女は、俺の言うことなんて何一つ聞きゃしないんだ。
記憶がない時からずっと、そうだった。今まで面倒を見てきて、数か月も俺自身を貸してやったんだ。耳くらいで目くじらを立てるのも、ばかばかしいか。
物言わずに黙っていると、女は了承と受け取ったのか滔々と話し出した。
「私、行きたいところがたくさんあって」
女が口にしたのは、単なる夢の話だった。
「アッカレも行きたいし、デスマウンテンも見てみたい。ラネールのゾーラの里とか、海の綺麗なウオトリーにも」
「・・・」
「野菜が美味しいハテノ村も、最果てって言われるヘブラも、リトの村も、全部行きたい。私、どこにも行ったことが無いから」
「そうか」
「いろんなところへ行けるようになって、嬉しいんです」
遠く、霞んで白けて見えるほど遠くを見ていた女が、その場にごろんと寝転んだ。仰向けになったまま空でも見ていれば良いのに、俺と真向かいになって、それは嬉しそうに顔を綻ばせてくる。
間近で相対するのは、いつぶりだろうか。それも、これほどまでに穏やかに笑いかけられるなんて。
「イーガに来てから人生が変わった。記憶を失って良かった」
顔を覗き込まれた折、瞳の中に俺がいるのが見えた。
ゆらつく木の葉の影が、楽しげだった。目の前の女の髪は黒いのに、なぜか赤く波打っているように感じられた。
実感の籠った声音に、穏やかな笑顔。およそ今まで経験したことのない瞬間だ。隠密でありとあらゆることを経験しつくしたと思っていたが、こんな何気ない未体験があるのかと、気付かされる思いだった。
ふわりと、髪が風に靡く。まるで俺を誘っているみたいだ。女が乱れた髪をそのままにするものだから、そのまま、つと手を差し出し、赤く思えた黒髪を押さえてやった。猫っ毛で、綿みたいに柔らかく、沈んだ指先がその場で寝ちまうんじゃないかと錯覚する。絡ませて遊ぶと、彼奴はくすぐったそうに瞼を伏せた。
そのまま指先を滑らせて、ピンクに染まった頬にも触れる。撫でると、髪の毛よりも柔らかく、ふわふわとした心地だった。俺の肌とは随分違う。女の肌とは、これほどきめ細やかで、すべすべした手触りなのかと、新鮮だった。
よく考えたら、初めて会ったときよりも肥えた気がする。きっと一人で暮らしている最中は、最低限の飯しか食っていなかったのだろう。今は鍛錬の積み重ねでほどよく筋肉がついているし、女らしい身体つきに変わっている。
しかし、今日はいつもの女と違う。ふざけた笑みを浮かべる口元は大人しくしているし、人を揶揄う目つきは閉じられて、まるで音楽にでも夢中になっているみたいだ。
それどころか、目元には赤の墨が跳ねているし、薄く引かれた眉墨が、彼女の顔立ちを洗練させていた。器量よしと表現されたのも分かる。唇に塗られた紅も瑞々しく、なにか、誘われている気になってしまう。
ふわ、と柔らかそうなそれを撫でると、掠れた赤が指の腹に付着して、やってしまったと指先同士を擦り合わせた。
「貴方の顔は、本当の顔ではないんですよね」
薄く瞼が開いたと思ったら、大人びた顔で当然のことを聞いて来る。いつも唐突なんだ。こいつは本当に。
「そりゃそうだ。変装してる」
「どんな顔してるのか、気になる」
「見せないぞ。俺は隠密だ」
「ええ、別に構いません。そこまでの強い興味じゃありませんし」
「おい」
「私の顔が分かってるのに、ズルいって思っただけ」
「他の奴らも知ってるんだろ。食堂で散々、面を取って食ってた」
「貴方に、見せつけたくて」
どういう意味だ。理解しかねて、小さく眉間に皺を寄せた。女はまた瞼を伏せて、髪の毛に通した俺の指先に、手の平を重ねてくる。
「貴方に、人生に悲観した顔がむかつくって言われたでしょ?」
「・・・あぁ、言ったかもな。お前がまだ、記憶を失ってた時分に」
「最近はどうですか? そんな顔になってますか?」
どうやら、いっちょう前に気にしていたらしい。あの時は、死んでもどうなっても構わないという態度が気に食わなくて、咄嗟に口から出た言葉だった。質問の多いこいつを突き放すために言ったんだった気もする。
当時の意地悪さを突き付けられているようで、バツが悪い。穏やかに、少し笑みの含まれた上ずり声で呟いたのだから、決してそんな裏を込めたわけではないのだろうが。
「まぁ、悪くない顔してる」
仕方ないので、思ったままを口にした。
女が手の平に擦り寄ってくる。傷だらけで、マメだらけの掌なんぞ、硬くて、良いもんじゃないだろうに。女の柔肌に傷がつくんじゃないかと気になった。
そのまままた、瞼が薄く持ち上がって、真正面から女が覗き込んでくる。ピンク色に薄づいた頬をまた撫でて、柔らかい肌を確かめた。人に触ることなんて、今後二度と無いかもしれないと思いながら。
「するなら、してください」
それまで何の感慨もない表情をしていた女の眉間が歪んで、小さく皺が寄った。
その瞳に宿るのは批難だろうか。しかし、唐突な変化の理由に、理解が及ばない。
「何を」
「・・・常識が、ないんですね。本当に」
「どういう意味だ」
「他の女性にも、そうなんですか?」
「だから、なにが」
「急に手を取って手の平を包んだり、お腹が空いてるからって、好物を渡したり」
「・・・」
「頭を撫でたり、頬を撫でたり、人の唇に触れてきたり」
「・・・」
「本当に、常識がない」
真顔で滔々ともっともな非難をされて、俺は手の平をひっこめた。
「・・・それはすまん。遠慮が無かった」と、素直に謝っても、彼奴の口から溢れる言葉が止まらない。
「そもそも、貴方がヘマをしたのに、口封じで殺そうとしてくるなんて、意味が分からない」
「・・・すまん」
「そのまま飲まず食わずで半日以上移動させられたのも、つらかった」
「・・・今更言うなよ」
「医務室で診てもらうときも、出ていこうとしなかったし」
「女への配慮なんか知らない」
「鍛錬もきつくて、休憩も挟んでくれないし」
「・・・すまん」
「いつ会っても、舌打ちしてくるし、ぶっきらぼうだし」
「・・・」
「愛想もないし、文句ばっかりでうるさいし」
「お前だろ、いつも小うるさいのは」
「私の面倒を、見ていたくせに」
「それがどうした」
「私のこと、何も分かっていない」
「知るか。意味の分からないことばかりする、お前がいけないんだろ」
「ばーか」
「なに」
「ばーか、ばーかばーかばーか」
子供じみた悪口を繰り返す内、あっという間に開かれた瞳が揺らめいて、焦点が合わなくなった。と思ったら、そのまま女は上半身をもちあげ、瞳を手の甲でぐしぐしと擦った。
意味が分からなくて俺も上半身を持ち上げる。「おい」と声を掛けても、女は手の腹で瞳を抑え、俯くままで微動だにしない。
幾ら常識が無いと散々言われようが、さすがに俺でも分かる。泣いた。いや、泣かせた。しかし、泣いた女なんか、どうしたら良いか分からない。何をしても文句を言われそうで、全く行動に思い至らない。
慰めれば良いのか、背中を摩れば良いのか、小さく空を仰ぎながら面倒に思っていると、突然女が振り向いた。
瞼に引いていた紅がよれてる。しかしそれよりも、見開いた瞳の中に強い光を見た気がして、その美しさに目を奪われた。意思の強い表情だ。自分はまさにここで生きていて、これからも生き抜いてやるんだと、そう思わせるような。
きっと、一瞬の出来事だったはずなのに、酷くゆっくりに感じられた。彼奴の顔がずい、と近づいてくる。瞼を伏せ、くっと仰け反らせた喉元と、突き出された唇。
距離を縮めるように襟首を掴まれて、引き寄せられて、どこまで、と刹那に思った。思っている間に、唇へ柔らかい肉感がぶつかった。さっき指先で撫でた、女の唇だった。
ふわ、とした肉を実感した後、女が唇を交差させて、俺を食んでくる。まるで甘噛みによって、本当に食べでもしているかのように。身動きできずに固まっている合間に、女は身を引いた。
気付けば、さっきと同じように目を見開き、俺を睨みつけながら唇を引き絞る女の姿が、真正面に戻っていた。
違うのは、頬のピンクが、一層濃くなったことか。
今、何したんだ。と声にする間もなく、女は勢いよく立ち上がる。
「もう、行きましょう。今帰らないと、夜になるから」
俺に背を向けたまま、もう一度手の甲で目を擦った。自分を落ち着かせるように深く息を吐く様は、まるで俺に見せつけてるみたいだ。
急になんなんだと、腹が立った。腹が立ったが、それ以上に、衝動に駆られた。
身体の奥底から湧き上がってくる衝動。俺を見据え、意思の光を宿した瞳で、襟首を引き寄せた力強さ。何を思って身体が動いたのかを考えると、居てもたってもいられなくなる。これがどんな感情の衝動なのかは、自分で考えてもよく分からないが。
体の横に降ろされた女の手の平を寸分もせずに捕まえて、俺は彼奴を思い切り引き寄せた。「うわっ」と女らしからぬ声をあげ、転げるように俺へ寄りかかり、「なにを」と文句と同時に見上げてくる。
油断しきった彼奴の唇へ、俺は唇を重ねた。
その途端の、見開かれた瞳が新鮮だった。こいつがしたことと同じことをしてるだけなのに、なんでそこまで驚くのか。
掴んだままの手首を更に引き寄せ、呆けたように開かれた唇の隙間から舌先を潜り込ませる。「んっ・・・」と小さく呻くだけで抵抗もないので、そのまま口内を弄りながら、彼奴を草原に押し倒した。
両手に指先を絡め、深く深く、口づけを施す。その頃には見開かれた瞼は閉じられていて、ぬるつく口内の刺激に没頭しているようだ。股に差し込んだ太ももに彼奴自身の足を摺り寄せてくるものだから、口づけだけでどれほど昂っているのかお察しだろう。そして、その昂りにこそ、俺自身が誘因され、湧き上がってくるものがある。
もっと、欲しいと思った。女の唇も、指先も、太ももも、これだけじゃ足りない。
あれだけ生に頓着無かった女の顔付きがよぎる。淡泊で、諦めの滲んだ表情。女を変えたのは、俺だろう。俺に違いなかった。もっと変えたいと思った。こいつの、この先すら。
口づけをやめるタイミングが分からない。深く潜りこみ、強く握り込み、小さく喉奥で喘ぐ女を見ていると、このままずっと、と思う。
が、そうもいかないらしく、薄く開いた瞼の奥で、潤む批難の目付きを見つけた。何か言いたげだと思って離れると、「っはぁ」と勢いよく女が深呼吸し、その後は肩での呼吸を繰り返す。酸欠になってたのだとその時やっと気付いた。
空気が恋しくて荒く呼吸を繰り返すのか、ただ心が奮っているから荒い吐息を繰り返すのか、分からない。ただ俺としては、女が望むことをしてやったつもりだ。物言いたげな表情ながら無言を貫く女を見下ろすのは、気分が良い。
「常識が無いと言ったか」
「いい、ました」
「これでも、常識はないか」
「無いです、無い。いきなりッ」
「じゃあ、お前も常識無いじゃないか」
「貴方よりはある・・・!」
唇を震わせて小言を言ってくるものだから、そのまままた唇を塞いだ。角度を変えて何度も啄むと、どんどんと胸を叩いていた手の平が、次第に力なく縋るのみになる。女と知り合ってからずっと翻弄されていたものだが、やっと御し方が分かった。小うるさい文句を言ってくる口元を、己の唇で塞げば良いだけだったんだ。
水音を立てながら唇を離すと、それまで文句しか紡がなかった口元が、漸く大人しくなる。やっぱり物言いたげな瞳のままではあったが、批難の目付は既にない。それどころか、俺に縋り、どこか物欲しげな顔にさえ見える。俺の思い過ごしだろうか。
「普通だったら、この後どうするんだ」
常識常識、と小うるさい口元を親指で撫でる。今しがた深く口づけしたそこは、紅がすっかりなくなって、代わりに唾液で酷く濡れていた。拭ってやるつもりで触れたのだが、指先でも感じる柔らかさに、またひとたびかぶりつきたくなるから不思議なものだ。
ふっ、と、むくれ顔を作って、彼奴は指先から逃げるように首を回した。
「知らない、自分で考えて」
「俺は、常識を知らない男だぞ」
「良いです、分かってます。諦めてます」
「良いんだな、常識外れなことをしても」
「・・・私だって、常識から外れちゃったし・・・」
薄目で睨まれても、上を取ってる状況なら腹も立たないもんだ。
女の顎を捕まえて、物欲しげな口元に迫った。
「面倒見てやる」
「・・・うん」
彼奴に跨るのはこれで二度目だ。
視界に重なるのは、月光もない暗闇で、諦めを滲ませた笑い顔。
今はどうだ。太陽の下で俺を睨む女は、ともすれば泣き出しそうな顔をしている。
意思の強い顔は嫌いじゃない。仕方ないからこのまま面倒を見ようかと思うほどには。
口づけで泣き顔を宥めながら、俺は彼女の髪を撫でた。
黒に染まったそれが、俺にはいつまでも赤く、色づいて見えるようで好きだった。