【完結済】イーガの男は忘却女の首を刈れるのか?
やつは随分諜報の仕事にも慣れ、弓や刀の扱いが上手くなった。
魔物の対処法も実践を交えて教え込み、モリブリンくらいでは後れを取ることも無くなった。
最近では、アジトを発つ前に業務内容を伝え、帰ってきてから成果を聞くくらいなもの。外部から入ってきた団員ということを考えれば、「一人前」といって差し支えないかと思う。
コーガ様へ進言すれば、きっと俺は色のある毎日に戻れるし、彼奴もここでの生活を享受することになる。お互いが干渉する日々への終止符は、もう近い。ずっとそれを望んでいたはずだが、灰色の毎日に愛着が湧き始めているのには、我ながら苦笑する。
夕餉を食っている最中、食堂で彼奴を見かけた。
数人で食堂へ入ってきて、談笑しながら盆に料理を受け取っていた。
元来、人懐っこい性分なのかもしれない。遠からぬ距離で話をしている様は、すぐそこで出会った、という関係ではなさそうだ。隠密としてアジトを留守にしがちな俺よりも、よっぽどイーガに馴染んでいるように見えた。
彼奴をなんとなく眺めていたら、視線の気配に気づいたのか、面がこちらを向いた。そのまま数人の輪から外れて、遠慮なしにずんずんと近づいて来る。
まさか、と思う時間もなくあっという間に机を挟んだ向こう側に到着し、味噌汁を掴んだまま動かずにいた俺を見下ろしてきた。
「こんにちは。一緒に良いですか?」
このとき、卓は他にも空いていた。そもそもこいつと食堂へ入ってきた団員が、彼奴のために席をひとつ空けて待っている。じっと彼らが見つめてきているのが視界に入っていたので、俺は彼奴の素っ頓狂な提案よりも、彼らの同行の方が気になった。
「なぜお前と食わねばならんのだ」
「飯は複数で食べた方が美味いです」
「連れがいただろう。彼らと食え」
「貴方が一人です。私と一緒に食べれば、貴方も飯が美味くなる」
「俺はそうは思わん」
「なぜ」
「じゃないと、お前とは居る時間が長すぎる」
はっきりと丁寧に、理由までつけて断ってやったにもかかわらず、彼奴は遠慮なく俺の盆を隅にやり、空いたところへ自分の盆を置いた。「おい」と低い声を出しても、意に介さずそのまま身体を捻じ込み、狭い座敷で隣り合って座った。
そうだ、こいつには脅しが利かないのだ。そのまま面を取り払って飯を食いだすので、俺は聞こえるように「チッ」と舌打ちした。
「もう、綺麗に食えるだろ。面など上げずとも」
「汚したくありませんから」
「隠密が素顔を晒すのも恥だといっている」
実際、イーガの食堂では多くが面を付けたまま飯を食っている。
素面を晒すのは新人の証だ。こいつを一人前に育てた自負もあったので苦言を言ったが、彼奴には響かなかったらしい。いつものように「そうですか」とだけ返された。
文句を続けるほど、俺は人に熱心ではない。手に持ったままだった味噌汁を口につけ、彼奴への苛立ちを腹底へと流し込んだ。
その後は何もしゃべらずに、黙々と飯を食う。イーガの食堂は一人で飯を食う者も多いが、同志と何でもない話の出来る数少ない機会なので、アジト内では珍しく人の声が絶えない場所だ。その中で、わざわざ「一緒に食おう」と言いながら何も喋らず飯を食う俺たちは異様だったと思う。こいつと一緒に食堂へやってきた団員たちは、姦しくも楽しげに話し込んでいるというのに、気まずい無言を貫くなんて何を求めてやってきたのか皆目見当もつかん。
「友人が、できたんだな」と、何気なく口に出した。先ほど談笑していた彼奴の喋る姿が、不意に頭へ上ったからだ。
彼奴からは「はんへふか」と、咀嚼を隠しもしない言葉が返ってきた。
「食いながら喋るな。大したことは言ってない」
「なんですか」
「・・・食堂で見かける貴様は、いつも誰かと喋ってるなと言ったんだ」
実際、業務外で彼奴を見かける度、女は別の団員と共にいた。
箸でつまんだ白米を口に入れる直前、はたと思い返したように面を上げる。共に食堂へやってきた団員と目が合ったのか、軽く笑みながら手をひらひらと振った。
「みんな良くしてくれるんです。赤い髪で目立つし、記憶が無いことも知ってるから」
「言ってるのか?他の団員にも」
「別に隠すことでもないでしょう」
「隠密たるもの、出自をそう簡単にバラすものじゃない。足を掬われる」
「でも、居場所を作れといったのは、貴方です」
芯の入った声で俺の過去を引き合いに出されて、咄嗟の反論が思いつかない。いやそれよりも、以前のような生気のない瞳ではなく、強い意志を持つ瞳で見上げられて、言葉が出なかった。
俺の所為だと非難するその表情は活き活きとしている。普段良い様にされているからか、ここぞとばかりに俺を責めているのかもしれない。
あまり見覚えのない顔に、また音をたてて味噌汁を飲みこんだ。
「他の団員も過去を捨てた者ばかりだ。記憶を失くしたなんて、わざわざ言う必要がない」
イーガは脛に傷のある人間の寄せ集め。二度と思い出したくない過去を持つ者も多い。
そうだと説明してあったはずだが、女はここで「あ、そっかぁ」と納得したような声を出した。そのまま真正面を向き、共に食堂へ連れ立った団員が話しているのを見つめる瞳は、柔らかく細まっていた。
「だからみんな受け入れてくれるんだ」
続け様、「ここへ来て良かったなぁ」と言いながら、女はまた、しみじみとした笑みを浮かべて見せた。
女の信じる過去は、日記から得た文字の羅列だ。
だが、記憶を失い、村人から遠ざけられたのは事実であった。それがより、日記の恨みつらみを信じる手助けになっている。
女は記憶を失う前から、集落で受け入れられていなかった。手の内を晒すのは、同じ轍を踏まないための処世術だったかもしれない。
「そうだな」と、ただ簡単に相槌を打った。白米を口に入れ、咀嚼する暫しの間、女は随分と嬉しそうに、食堂の賑やかな様子を黙って見つめるだけだった。
いつか彼奴が口にしたように、記憶を思い出さないなら、思い出さない方が幸せだろう。彼奴はイーガの生活を受け入れ、拒否感なくコーガ様へ貢献している。
いつ何時、記憶を取り戻し、イーガを拒否するか分からないと言ったって、今ここで幸せそうに飯を食う彼奴を見ていると、足抜けするようには思えない。
かつて医療班が口にした「同じ現場を見れば記憶が戻るかもしれない」という言葉を思い出す。そして、コーガ様がおっしゃった、「一人前になるまで面倒を見ろ」という言葉も。
暗殺の現場に立たせることで、彼奴の記憶が戻る可能性は高い。
しかし、それは正しいのだろうか。思い出したくないという彼奴の願いを無下にして、過去を無理やり引きずり出すよりも、記憶を失っていることに目を瞑り、見て見ぬふりした方が良いんじゃないか。
なにより彼奴はここへ来た時と違い、「今を生きる人間」として、一人前になっている。
彼奴の人生はきっと、上手く回り始めている。俺が改めて掻きまわす必要が、一体どこにあるというのか。
しかし結局それは、甘さだった。迷いだった。曖昧にことを済まそうという狡さを、コーガ様は見抜いていたのだと思う。
「一通りの任務はできるようになりました。一人前といって差し支えないです」
俺はコーガ様に、状況報告をおこなった。
記憶が戻らない限り、これを最後の報告にするつもりであった。それほど彼奴の腕は申し分なくなっていたし、イーガの生活に馴染んでいた。未だ人殺しは未体験ではあるが、暗殺を経験せずにイーガに身を置く団員なんて、正直珍しくない。手ずから育て上げた俺自身の口で、どれほど彼奴が成長したかを説明すれば、コーガ様とて納得させる自信があった。
しかし、コーガ様は俺の自負に反して渋い反応を見せる。
「暗殺は」
「それはまだ。しかし、必ずしも暗殺を経験せねばイーガに身を置けぬわけではないでしょう」
「そりゃそうだ。絶対に経験しなきゃいけないわけじゃねえ。ヤれるやつがやりゃあいい」
「なら」
「だがなぁ、あの女はまだ記憶がない状態なわけだろ。それも殺しの現場を見たのが原因で」
「はい」と応えながら、ざわざわと胸の内が落ち着かなくなる。腕を組み、真正面から覗き込まれて、「ああだめだ」と自然に頭へ上った。先ほどまではっきりと感じていた自負はなんだったのか、砂山が風に吹かれるが如く、さらさらと説得の言葉が流れて消えていく。
「記憶が戻れば、イーガを拒絶する可能性があるわけだろ。しかも、いつ戻るかも分からんときた。爆弾抱えてるようなもんだ」
「医療班から聞いたぞ。なんでも記憶に繋がるような出来事があれば、思い出すきっかけになるかもしれねえって。先に済ませちまった方がいいんじゃねえか?」
「せっかくここに居ついてるのに、急に記憶が戻って足抜けでもされたら、お前だって面白くねえだろ」
「殺しの業務に行かせて、もし記憶が戻ってイーガを受け入れるんだったら御の字。拒絶すんだったら、そんときは」
・・・そうだろう。そうだろうな。それが恐らく、最善の策だ。記憶が戻っても足抜けしない、なんてのは、ただ俺が抱いていた願望に過ぎない。むしろ、殺しの瞬間を思い出し、イーガを、俺を拒絶する可能性の方が、はるかに高いかもしれない。
そしてそうなれば、女を片付けるのは俺の役目だ。なぜなら記憶を失った原因を作り、口封じを辞め、イーガに招き、彼奴を隠密に染めたのは、俺だった。全てに俺へ責がある。俺の尻拭いを、今の俺がする。今までおこなってきた隠密の業務と、なにひとつ変わらない。だって彼奴は未だに、髪の毛さえ染まっていないのだから。
「おい、聞いてるか」と面を覗かれ、コーガ様へ言葉を返していないことに思い当たる。ハッとなって「分かりました」と答えたが、随分掠れた声しか出なかった。
「イーガの足抜けは死あるのみ。どうにか、収めてこいよ」
その言葉は慈愛だ。せめてもの、願いだ。
俺は深く、正面からしっかりと面を見つめるコーガ様へ、深々と頭を下げた。
コーガ様へ報告をしてから、数日が経ち、暗殺業務がひとつ、俺の元へ舞い込んだ。
内容はいたって簡単。王家に暗器を流す商売人に兵士のふりをして接触し、首を刈る。
女をイーガへ連れ帰ってから、久しぶりの暗殺業務だ。相手は身体を鍛えた人間でもないし、これならば、人殺しが初めてという女でも、容易く完遂できる相手であるに違いない。
女には、暗殺業務だと伝えた。分かりましたと返ってきた声は、いつものように平坦だった。
■ ■ ■
新月の晩。
兵士に身を扮した女は、月光も届かない暗い林の中へ、件の商売人を誘い込んでいた。
表向きには鉄くずを取り扱うみすぼらしい商人と昼間の内に接触し、「今晩の取引は林の奥で」と書いた書簡を渡しておいた。女を先に林の奥へ立たせ、俺は暗がりで様子を伺うことにした。
かさ、かさ、と音を立てながら、灯りがひとつ、カンテラを持った女に近づいていく。現れたのは件の商人で、昼間と同じ貧しさを装った服に身を包んでいた。しかしその実、肥えた私腹があるのは、ボロボロの布では隠せていないが。
「お待たせしたかな」
その声は随分親しげだった。それも当たり前で、女が変装していたのは商人と取引をおこなっている、顔なじみの兵士だった。今は王直々の命令だという偽の書簡によって、アッカレに出向いているだろう兵士だ。鉄の兜を目深にかぶり、「いやあ、今来たとこです」と、声音もしっかり似せれば、きっと男は気付かない。
「こちらです」と、慣れた様子で商人が手先で先導を切る。商売道具を見せるつもりなのだろう。ゆっくりと歩み出す二人の後を、気配を殺しながら着いていった。
「しかし、珍しいですな、林の奥で商談なぞ。何かあったのですか」
「近頃、暗器を狙う族がいるようでして、少しでも人目につかぬようにという配慮ですよ」
「なるほど、確かにその噂は耳にします。この前、知り合いの商人も一人被害に遭ってまして・・・いやはや物騒です、貴方が居てくれてよかった」
言いながら、商人はガサガサと草むらをかき分け始めた。遠目では分かりづらいが、草に得物を隠しているようだ。「これが、例の」と一段と顰めた言葉が微かに耳へ届いた。
暗器の場所さえ分かれば後は用無し。集めるのに苦労しただとか、今回の目玉は何々でとか、屈んだまま喋り続ける商人へ、兵士に扮した女が近づく。暗がりの中で、腰に提げていた短刀がカンテラの灯りに閃くのが見えた。
最小限の動きでまずは抵抗心を失わせる。武器に注視する商人の背めがけて、女が短刀を振り上げる。まずは、一撃、動けなくさせるために。
ガキッ、と、静かな林の中を、想像していなかった金属音が駆け抜けた。ぼろ布の下に鎧を仕込んでいたらしい。しくじった、と俺なら咄嗟に判断もつくが、しかし女は、未だ人の首を刈ったことの無い半人前だった。「ひやあッ」と商人の悲鳴が聞こえ、その後何事かを喚き散らす声。草に紛れて散らばる木の枝が、恐らく二人が揉める間に踏まれて、バキバキと乾いた音を鳴らす。加勢に向かうかと足を踏み出せば、「う」と男のうめき声が聞こえ、それから途端に静かになった。
木の影から姿を出し、灯りに照らされた二人を見る。葉を散らされた暗器の傍に、倒れたカンテラが一つ。雑草の伸び放題だった林の中は二人が争った跡で拓けており、樹の幹に押し付けられた商人の男が、目を見開いてこちらを見ていた。
いや、それよりも、急に頸動脈を切ったからか、女が噴出した血で真っ赤に染まっている。目深にかぶった兜も、争いの中でどこかに転げたらしい。結ってしまいこんでいたはずの赤い髪が乱れていた。膝立ちになって肩で息をして、男に向かったまま動かない。
「まだ息の根がある。できるか」
この血の量だ、おそらく放っておいてもじきに息絶える。しかし、暗殺業務とは、死を見届けてこそだ。失敗なんぞ許されない。
ただ、聞こえてないのか、女が動かない。こひゅー、こひゅーと喉から空気を漏らしながら、もう声も出せない男が逃げるとは思えないが、このままでいるのも痛かろう。俺は小さく息を吐き、何事か言いたげに見上げてくる男の髪の毛を鷲掴みにする。そうして首に首刈刀の窪みを嵌め、力任せに引き抜いた。
「よくやったな。これでお前も一人前だ」
どさり、と重い頭を転がして、俺は倒れたカンテラを木にかけた。その間も、女は動かない。ただ、正直初めての暗殺任務で呆けてしまうのは、割によくある話だと聞いて知っていた。
女が動かなかった理由はそうではないと、俺が咄嗟に気付けなかっただけだ。
ゆっくりと、首だけで女が振り返る。血に濡れた瞳孔が見開いている。見たことの無い顔つきだった。はぁはぁと荒い呼吸を憚らず、肩で息を繰り返すのは、きっと疲労なんかの所為ではなかった。
何か、異様だ。もっと早く、女の様子に気が付くべきだった。
「おもい、だしました」
ざ、と、血が一斉に冷え切った気がした。
俺を見る瞳が揺れる。「なにを」と、口にした声は、狼狽に近い。女は肩で息をしているが、俺の心臓だって、同じくらいに騒ぎ始めていた。
「新月の晩、林の奥で、人影を見た。首のない身体が跳ねて、樹の幹に血が滴っていた」
覚えがある。女の記憶というだけでなく、それは俺の記憶でもあったから。
女よりもよっぽど、その光景を俺は、間近で知っている。
「あなたが人を殺している様です」
今、高揚で血の気のあった顔色が、オレンジ色の光に染められているにも関わらず、真っ白だった。その白を、両手で縋るように掻くと、指先に付着した血が筋を残した。まるで瞳から、涙でも零してるみたいに。
「全部、思い出した」
足を一歩踏み出し、ぱき、と枝を踏み鳴らしたと同時に、「ひ」と短く悲鳴を漏らして、女が身体を抱きしめながら後ずさりした。
今しがた物となった男にぶつかり、また息を飲みながら、それからも距離をとる。目を見開き、かちかちと歯を鳴らし、俺を一心に見続ける。激しい呼吸を繰り返すのは、既に過呼吸にでも陥ってるかのようで。
初めて見た恐怖の顔だ。それは生にしがみ付く、どこにでもいる平凡な女の顔だった。
「怖いです、貴方が・・・!」
拒絶の声だ。はっきりと。
ただ身動ぎせず、立ち尽くした。
「貴方が怖い、とても怖い・・・!」
拒絶だ。拒絶。女ははっきりと、俺を拒絶していた。
女の瞳が涙に溢れ、過呼吸を繰り返し、叫びながら拒絶する。それをずっと頭に繰り返してきた。このときをずっと想像していた。覚悟するために、準備するために、俺はこの時を想像しながら待っていた。
女の揺れる瞳を一心に見続けながら、腰に提げていたクナイに指をかけた。親指から、人差し指、中指、薬指、小指と、一本一本、意識して、握り込んだ。そうでもしないと、無意識の震えでクナイが滑り落ちていきそうだった。
これから俺は、自分自身の尻拭いをする。そもそも、一度は殺すと決めた女だ。あの時と何が違うかと言えば、俺が女を知ってしまっただけ。たったそれだけの違いだ。他には何も違わない。何も。何も違わない。
その僅かな違いが、俺の覚悟をこれほど揺るがすと、今の今まで思いもよらなかったんだ。
「でも、私も同じ道にいる。その居場所を、貴方が作ってくれた」
俺は知ってしまった。女の酷く悲しい残酷な過去を。
知ってしまった。いつも幸せそうに米を頬張る飯時の顔を。楽しく話せる間柄の人間ができたことを。
女が死に抵抗なくとも、イーガで努力し続けていたのは、間違いなく、無自覚な生への執着だったと。
それだけだ。それだけの違いのはずだ。それだけなんだ。なのに。なのにどうしてだろう。なぜこうも、クナイを持つ手が震えてしまうのか。
「貴方を初めて見たときと、今が、混ざってて分からない」
かすれ声でぼやくな。虚ろに土を見てくれるな。
それ以上喋るな。俺の覚悟をぐらつかせるな。
頼む。頼むから。拒絶するなら、はっきりと、俺を拒絶してくれ。じゃないと、あの晩に戻れない。
「やっぱり、思い出したくなかった」
足を踏み出す。未だ揺れる女の心算に、手を伸ばして、拒否をされる間も無く強く抱きしめた。初めて腕に抱く体は、濡れて、冷たくて、強張っていた。
だが、大きく上下する肩が徐々に緩やかになるにつれ、俺は思っていたよりも、さほど拒絶されていないことを知った。
良かった。
良かったと思った、思ってしまった。
「私を、殺しますか。殺しの理由に、足りますか」
腕の中で小さく見上げる瞳は、相変わらず揺れている。
決めてしまおうか。言い切ってしまおうか。俺はこいつの人生を振り回した。それは仕事だったが、ここからは違う。ここからは、俺自身の勝手で、こいつの人生を、決めてしまおうか。いいんだろうか、それで。受け入れるだろうか、あのときみたいに。
「足りない」
この先、俺が尻拭いをしていけば、それで良い。
いいだろきっと。良いって、言ってくれ。受け入れろ。今までみたいに。なんでもない顔をして。
死への恐怖が無いのなら、このまま俺に、人生を預けたってかまいやしないだろ。
「もう足りなくなった」
頭に回した片手に力を込めて、女を胸板に押し付けた。心臓が随分騒いでいる。この音さえ女に伝えたいと思って、同時に女が生きていることを感じたいと思って、俺は女の首元に顔を埋めた。血のにおいに混ざって、この場に似つかわしくない甘いにおいがした。血に濡れていても、その赤い髪は綿のように柔らかかった。
「このまま居たらいい。覚えてないと、記憶喪失のふりをして。自分すら騙すんだ。お前はもうイーガの者だ。可哀想な赤髪の女じゃない。そうすれば良い。そうすれば良いだろ。そうしてくれないか、なあ、頼むから」
それは、コーガ様が見せた慈愛とは程遠い。俺の我儘だ。勝手だ。横暴だ。でも、願いだった。
胸に付けた額から汗が滲むほど、血の気が下がって冷えた女の身体が、温かくなっていく。すっかり呼吸を落ち着かせた女が、封じ込めた体の中で身じろぐ。見上げてくる瞳には、生気がある。色がある。自分が何をすべきか決心したような、強く美しい瞳に見えた。
「そうすれば、イーガで、貴方と、生きられますか」
「ああ、そうだな。そうすれば、ここで生きられる」
一度、唇を引き絞り、瞼を伏せる。次に開けられた時、やっぱり女の瞳は、美しかった。
「・・・忘れます。全部。私は記憶を取り戻してなんかいない。騙します。自分を」
「受け入れるんだな、この道を」
ふっと顔が緩む。女はいつも飯時で見る、朗らかな表情を浮かべていた。
「貴方がそうしろって言ったんでしょ」
「そうだな、そうだ。それで良い。お前の面倒を見るのは、この頃随分、慣れたから」
クナイを落とした。音もなく、それは草むらの闇に吸い込まれた。やっと両手で女を抱きしめて、俺自身も、背に回された細い指を感じ取った。グッと力を込め、また改めて赤い髪の毛に埋まった。
記憶は、取り戻さなかった。もうこの先、どれほど人を殺しても、彼女の記憶は戻らない。その代わり、女はイーガの、一人前になった。死と殺しの道が同じと言った女は消え失せ、自らの生を掴み取った女が、ここにいた。
「やっと、お前を黒く染められるなぁ」
これも我儘だろう。毎日の中で唯一赤いそれが色を失うのが少し残念で、惜しく思えてしまった。
魔物の対処法も実践を交えて教え込み、モリブリンくらいでは後れを取ることも無くなった。
最近では、アジトを発つ前に業務内容を伝え、帰ってきてから成果を聞くくらいなもの。外部から入ってきた団員ということを考えれば、「一人前」といって差し支えないかと思う。
コーガ様へ進言すれば、きっと俺は色のある毎日に戻れるし、彼奴もここでの生活を享受することになる。お互いが干渉する日々への終止符は、もう近い。ずっとそれを望んでいたはずだが、灰色の毎日に愛着が湧き始めているのには、我ながら苦笑する。
夕餉を食っている最中、食堂で彼奴を見かけた。
数人で食堂へ入ってきて、談笑しながら盆に料理を受け取っていた。
元来、人懐っこい性分なのかもしれない。遠からぬ距離で話をしている様は、すぐそこで出会った、という関係ではなさそうだ。隠密としてアジトを留守にしがちな俺よりも、よっぽどイーガに馴染んでいるように見えた。
彼奴をなんとなく眺めていたら、視線の気配に気づいたのか、面がこちらを向いた。そのまま数人の輪から外れて、遠慮なしにずんずんと近づいて来る。
まさか、と思う時間もなくあっという間に机を挟んだ向こう側に到着し、味噌汁を掴んだまま動かずにいた俺を見下ろしてきた。
「こんにちは。一緒に良いですか?」
このとき、卓は他にも空いていた。そもそもこいつと食堂へ入ってきた団員が、彼奴のために席をひとつ空けて待っている。じっと彼らが見つめてきているのが視界に入っていたので、俺は彼奴の素っ頓狂な提案よりも、彼らの同行の方が気になった。
「なぜお前と食わねばならんのだ」
「飯は複数で食べた方が美味いです」
「連れがいただろう。彼らと食え」
「貴方が一人です。私と一緒に食べれば、貴方も飯が美味くなる」
「俺はそうは思わん」
「なぜ」
「じゃないと、お前とは居る時間が長すぎる」
はっきりと丁寧に、理由までつけて断ってやったにもかかわらず、彼奴は遠慮なく俺の盆を隅にやり、空いたところへ自分の盆を置いた。「おい」と低い声を出しても、意に介さずそのまま身体を捻じ込み、狭い座敷で隣り合って座った。
そうだ、こいつには脅しが利かないのだ。そのまま面を取り払って飯を食いだすので、俺は聞こえるように「チッ」と舌打ちした。
「もう、綺麗に食えるだろ。面など上げずとも」
「汚したくありませんから」
「隠密が素顔を晒すのも恥だといっている」
実際、イーガの食堂では多くが面を付けたまま飯を食っている。
素面を晒すのは新人の証だ。こいつを一人前に育てた自負もあったので苦言を言ったが、彼奴には響かなかったらしい。いつものように「そうですか」とだけ返された。
文句を続けるほど、俺は人に熱心ではない。手に持ったままだった味噌汁を口につけ、彼奴への苛立ちを腹底へと流し込んだ。
その後は何もしゃべらずに、黙々と飯を食う。イーガの食堂は一人で飯を食う者も多いが、同志と何でもない話の出来る数少ない機会なので、アジト内では珍しく人の声が絶えない場所だ。その中で、わざわざ「一緒に食おう」と言いながら何も喋らず飯を食う俺たちは異様だったと思う。こいつと一緒に食堂へやってきた団員たちは、姦しくも楽しげに話し込んでいるというのに、気まずい無言を貫くなんて何を求めてやってきたのか皆目見当もつかん。
「友人が、できたんだな」と、何気なく口に出した。先ほど談笑していた彼奴の喋る姿が、不意に頭へ上ったからだ。
彼奴からは「はんへふか」と、咀嚼を隠しもしない言葉が返ってきた。
「食いながら喋るな。大したことは言ってない」
「なんですか」
「・・・食堂で見かける貴様は、いつも誰かと喋ってるなと言ったんだ」
実際、業務外で彼奴を見かける度、女は別の団員と共にいた。
箸でつまんだ白米を口に入れる直前、はたと思い返したように面を上げる。共に食堂へやってきた団員と目が合ったのか、軽く笑みながら手をひらひらと振った。
「みんな良くしてくれるんです。赤い髪で目立つし、記憶が無いことも知ってるから」
「言ってるのか?他の団員にも」
「別に隠すことでもないでしょう」
「隠密たるもの、出自をそう簡単にバラすものじゃない。足を掬われる」
「でも、居場所を作れといったのは、貴方です」
芯の入った声で俺の過去を引き合いに出されて、咄嗟の反論が思いつかない。いやそれよりも、以前のような生気のない瞳ではなく、強い意志を持つ瞳で見上げられて、言葉が出なかった。
俺の所為だと非難するその表情は活き活きとしている。普段良い様にされているからか、ここぞとばかりに俺を責めているのかもしれない。
あまり見覚えのない顔に、また音をたてて味噌汁を飲みこんだ。
「他の団員も過去を捨てた者ばかりだ。記憶を失くしたなんて、わざわざ言う必要がない」
イーガは脛に傷のある人間の寄せ集め。二度と思い出したくない過去を持つ者も多い。
そうだと説明してあったはずだが、女はここで「あ、そっかぁ」と納得したような声を出した。そのまま真正面を向き、共に食堂へ連れ立った団員が話しているのを見つめる瞳は、柔らかく細まっていた。
「だからみんな受け入れてくれるんだ」
続け様、「ここへ来て良かったなぁ」と言いながら、女はまた、しみじみとした笑みを浮かべて見せた。
女の信じる過去は、日記から得た文字の羅列だ。
だが、記憶を失い、村人から遠ざけられたのは事実であった。それがより、日記の恨みつらみを信じる手助けになっている。
女は記憶を失う前から、集落で受け入れられていなかった。手の内を晒すのは、同じ轍を踏まないための処世術だったかもしれない。
「そうだな」と、ただ簡単に相槌を打った。白米を口に入れ、咀嚼する暫しの間、女は随分と嬉しそうに、食堂の賑やかな様子を黙って見つめるだけだった。
いつか彼奴が口にしたように、記憶を思い出さないなら、思い出さない方が幸せだろう。彼奴はイーガの生活を受け入れ、拒否感なくコーガ様へ貢献している。
いつ何時、記憶を取り戻し、イーガを拒否するか分からないと言ったって、今ここで幸せそうに飯を食う彼奴を見ていると、足抜けするようには思えない。
かつて医療班が口にした「同じ現場を見れば記憶が戻るかもしれない」という言葉を思い出す。そして、コーガ様がおっしゃった、「一人前になるまで面倒を見ろ」という言葉も。
暗殺の現場に立たせることで、彼奴の記憶が戻る可能性は高い。
しかし、それは正しいのだろうか。思い出したくないという彼奴の願いを無下にして、過去を無理やり引きずり出すよりも、記憶を失っていることに目を瞑り、見て見ぬふりした方が良いんじゃないか。
なにより彼奴はここへ来た時と違い、「今を生きる人間」として、一人前になっている。
彼奴の人生はきっと、上手く回り始めている。俺が改めて掻きまわす必要が、一体どこにあるというのか。
しかし結局それは、甘さだった。迷いだった。曖昧にことを済まそうという狡さを、コーガ様は見抜いていたのだと思う。
「一通りの任務はできるようになりました。一人前といって差し支えないです」
俺はコーガ様に、状況報告をおこなった。
記憶が戻らない限り、これを最後の報告にするつもりであった。それほど彼奴の腕は申し分なくなっていたし、イーガの生活に馴染んでいた。未だ人殺しは未体験ではあるが、暗殺を経験せずにイーガに身を置く団員なんて、正直珍しくない。手ずから育て上げた俺自身の口で、どれほど彼奴が成長したかを説明すれば、コーガ様とて納得させる自信があった。
しかし、コーガ様は俺の自負に反して渋い反応を見せる。
「暗殺は」
「それはまだ。しかし、必ずしも暗殺を経験せねばイーガに身を置けぬわけではないでしょう」
「そりゃそうだ。絶対に経験しなきゃいけないわけじゃねえ。ヤれるやつがやりゃあいい」
「なら」
「だがなぁ、あの女はまだ記憶がない状態なわけだろ。それも殺しの現場を見たのが原因で」
「はい」と応えながら、ざわざわと胸の内が落ち着かなくなる。腕を組み、真正面から覗き込まれて、「ああだめだ」と自然に頭へ上った。先ほどまではっきりと感じていた自負はなんだったのか、砂山が風に吹かれるが如く、さらさらと説得の言葉が流れて消えていく。
「記憶が戻れば、イーガを拒絶する可能性があるわけだろ。しかも、いつ戻るかも分からんときた。爆弾抱えてるようなもんだ」
「医療班から聞いたぞ。なんでも記憶に繋がるような出来事があれば、思い出すきっかけになるかもしれねえって。先に済ませちまった方がいいんじゃねえか?」
「せっかくここに居ついてるのに、急に記憶が戻って足抜けでもされたら、お前だって面白くねえだろ」
「殺しの業務に行かせて、もし記憶が戻ってイーガを受け入れるんだったら御の字。拒絶すんだったら、そんときは」
・・・そうだろう。そうだろうな。それが恐らく、最善の策だ。記憶が戻っても足抜けしない、なんてのは、ただ俺が抱いていた願望に過ぎない。むしろ、殺しの瞬間を思い出し、イーガを、俺を拒絶する可能性の方が、はるかに高いかもしれない。
そしてそうなれば、女を片付けるのは俺の役目だ。なぜなら記憶を失った原因を作り、口封じを辞め、イーガに招き、彼奴を隠密に染めたのは、俺だった。全てに俺へ責がある。俺の尻拭いを、今の俺がする。今までおこなってきた隠密の業務と、なにひとつ変わらない。だって彼奴は未だに、髪の毛さえ染まっていないのだから。
「おい、聞いてるか」と面を覗かれ、コーガ様へ言葉を返していないことに思い当たる。ハッとなって「分かりました」と答えたが、随分掠れた声しか出なかった。
「イーガの足抜けは死あるのみ。どうにか、収めてこいよ」
その言葉は慈愛だ。せめてもの、願いだ。
俺は深く、正面からしっかりと面を見つめるコーガ様へ、深々と頭を下げた。
コーガ様へ報告をしてから、数日が経ち、暗殺業務がひとつ、俺の元へ舞い込んだ。
内容はいたって簡単。王家に暗器を流す商売人に兵士のふりをして接触し、首を刈る。
女をイーガへ連れ帰ってから、久しぶりの暗殺業務だ。相手は身体を鍛えた人間でもないし、これならば、人殺しが初めてという女でも、容易く完遂できる相手であるに違いない。
女には、暗殺業務だと伝えた。分かりましたと返ってきた声は、いつものように平坦だった。
■ ■ ■
新月の晩。
兵士に身を扮した女は、月光も届かない暗い林の中へ、件の商売人を誘い込んでいた。
表向きには鉄くずを取り扱うみすぼらしい商人と昼間の内に接触し、「今晩の取引は林の奥で」と書いた書簡を渡しておいた。女を先に林の奥へ立たせ、俺は暗がりで様子を伺うことにした。
かさ、かさ、と音を立てながら、灯りがひとつ、カンテラを持った女に近づいていく。現れたのは件の商人で、昼間と同じ貧しさを装った服に身を包んでいた。しかしその実、肥えた私腹があるのは、ボロボロの布では隠せていないが。
「お待たせしたかな」
その声は随分親しげだった。それも当たり前で、女が変装していたのは商人と取引をおこなっている、顔なじみの兵士だった。今は王直々の命令だという偽の書簡によって、アッカレに出向いているだろう兵士だ。鉄の兜を目深にかぶり、「いやあ、今来たとこです」と、声音もしっかり似せれば、きっと男は気付かない。
「こちらです」と、慣れた様子で商人が手先で先導を切る。商売道具を見せるつもりなのだろう。ゆっくりと歩み出す二人の後を、気配を殺しながら着いていった。
「しかし、珍しいですな、林の奥で商談なぞ。何かあったのですか」
「近頃、暗器を狙う族がいるようでして、少しでも人目につかぬようにという配慮ですよ」
「なるほど、確かにその噂は耳にします。この前、知り合いの商人も一人被害に遭ってまして・・・いやはや物騒です、貴方が居てくれてよかった」
言いながら、商人はガサガサと草むらをかき分け始めた。遠目では分かりづらいが、草に得物を隠しているようだ。「これが、例の」と一段と顰めた言葉が微かに耳へ届いた。
暗器の場所さえ分かれば後は用無し。集めるのに苦労しただとか、今回の目玉は何々でとか、屈んだまま喋り続ける商人へ、兵士に扮した女が近づく。暗がりの中で、腰に提げていた短刀がカンテラの灯りに閃くのが見えた。
最小限の動きでまずは抵抗心を失わせる。武器に注視する商人の背めがけて、女が短刀を振り上げる。まずは、一撃、動けなくさせるために。
ガキッ、と、静かな林の中を、想像していなかった金属音が駆け抜けた。ぼろ布の下に鎧を仕込んでいたらしい。しくじった、と俺なら咄嗟に判断もつくが、しかし女は、未だ人の首を刈ったことの無い半人前だった。「ひやあッ」と商人の悲鳴が聞こえ、その後何事かを喚き散らす声。草に紛れて散らばる木の枝が、恐らく二人が揉める間に踏まれて、バキバキと乾いた音を鳴らす。加勢に向かうかと足を踏み出せば、「う」と男のうめき声が聞こえ、それから途端に静かになった。
木の影から姿を出し、灯りに照らされた二人を見る。葉を散らされた暗器の傍に、倒れたカンテラが一つ。雑草の伸び放題だった林の中は二人が争った跡で拓けており、樹の幹に押し付けられた商人の男が、目を見開いてこちらを見ていた。
いや、それよりも、急に頸動脈を切ったからか、女が噴出した血で真っ赤に染まっている。目深にかぶった兜も、争いの中でどこかに転げたらしい。結ってしまいこんでいたはずの赤い髪が乱れていた。膝立ちになって肩で息をして、男に向かったまま動かない。
「まだ息の根がある。できるか」
この血の量だ、おそらく放っておいてもじきに息絶える。しかし、暗殺業務とは、死を見届けてこそだ。失敗なんぞ許されない。
ただ、聞こえてないのか、女が動かない。こひゅー、こひゅーと喉から空気を漏らしながら、もう声も出せない男が逃げるとは思えないが、このままでいるのも痛かろう。俺は小さく息を吐き、何事か言いたげに見上げてくる男の髪の毛を鷲掴みにする。そうして首に首刈刀の窪みを嵌め、力任せに引き抜いた。
「よくやったな。これでお前も一人前だ」
どさり、と重い頭を転がして、俺は倒れたカンテラを木にかけた。その間も、女は動かない。ただ、正直初めての暗殺任務で呆けてしまうのは、割によくある話だと聞いて知っていた。
女が動かなかった理由はそうではないと、俺が咄嗟に気付けなかっただけだ。
ゆっくりと、首だけで女が振り返る。血に濡れた瞳孔が見開いている。見たことの無い顔つきだった。はぁはぁと荒い呼吸を憚らず、肩で息を繰り返すのは、きっと疲労なんかの所為ではなかった。
何か、異様だ。もっと早く、女の様子に気が付くべきだった。
「おもい、だしました」
ざ、と、血が一斉に冷え切った気がした。
俺を見る瞳が揺れる。「なにを」と、口にした声は、狼狽に近い。女は肩で息をしているが、俺の心臓だって、同じくらいに騒ぎ始めていた。
「新月の晩、林の奥で、人影を見た。首のない身体が跳ねて、樹の幹に血が滴っていた」
覚えがある。女の記憶というだけでなく、それは俺の記憶でもあったから。
女よりもよっぽど、その光景を俺は、間近で知っている。
「あなたが人を殺している様です」
今、高揚で血の気のあった顔色が、オレンジ色の光に染められているにも関わらず、真っ白だった。その白を、両手で縋るように掻くと、指先に付着した血が筋を残した。まるで瞳から、涙でも零してるみたいに。
「全部、思い出した」
足を一歩踏み出し、ぱき、と枝を踏み鳴らしたと同時に、「ひ」と短く悲鳴を漏らして、女が身体を抱きしめながら後ずさりした。
今しがた物となった男にぶつかり、また息を飲みながら、それからも距離をとる。目を見開き、かちかちと歯を鳴らし、俺を一心に見続ける。激しい呼吸を繰り返すのは、既に過呼吸にでも陥ってるかのようで。
初めて見た恐怖の顔だ。それは生にしがみ付く、どこにでもいる平凡な女の顔だった。
「怖いです、貴方が・・・!」
拒絶の声だ。はっきりと。
ただ身動ぎせず、立ち尽くした。
「貴方が怖い、とても怖い・・・!」
拒絶だ。拒絶。女ははっきりと、俺を拒絶していた。
女の瞳が涙に溢れ、過呼吸を繰り返し、叫びながら拒絶する。それをずっと頭に繰り返してきた。このときをずっと想像していた。覚悟するために、準備するために、俺はこの時を想像しながら待っていた。
女の揺れる瞳を一心に見続けながら、腰に提げていたクナイに指をかけた。親指から、人差し指、中指、薬指、小指と、一本一本、意識して、握り込んだ。そうでもしないと、無意識の震えでクナイが滑り落ちていきそうだった。
これから俺は、自分自身の尻拭いをする。そもそも、一度は殺すと決めた女だ。あの時と何が違うかと言えば、俺が女を知ってしまっただけ。たったそれだけの違いだ。他には何も違わない。何も。何も違わない。
その僅かな違いが、俺の覚悟をこれほど揺るがすと、今の今まで思いもよらなかったんだ。
「でも、私も同じ道にいる。その居場所を、貴方が作ってくれた」
俺は知ってしまった。女の酷く悲しい残酷な過去を。
知ってしまった。いつも幸せそうに米を頬張る飯時の顔を。楽しく話せる間柄の人間ができたことを。
女が死に抵抗なくとも、イーガで努力し続けていたのは、間違いなく、無自覚な生への執着だったと。
それだけだ。それだけの違いのはずだ。それだけなんだ。なのに。なのにどうしてだろう。なぜこうも、クナイを持つ手が震えてしまうのか。
「貴方を初めて見たときと、今が、混ざってて分からない」
かすれ声でぼやくな。虚ろに土を見てくれるな。
それ以上喋るな。俺の覚悟をぐらつかせるな。
頼む。頼むから。拒絶するなら、はっきりと、俺を拒絶してくれ。じゃないと、あの晩に戻れない。
「やっぱり、思い出したくなかった」
足を踏み出す。未だ揺れる女の心算に、手を伸ばして、拒否をされる間も無く強く抱きしめた。初めて腕に抱く体は、濡れて、冷たくて、強張っていた。
だが、大きく上下する肩が徐々に緩やかになるにつれ、俺は思っていたよりも、さほど拒絶されていないことを知った。
良かった。
良かったと思った、思ってしまった。
「私を、殺しますか。殺しの理由に、足りますか」
腕の中で小さく見上げる瞳は、相変わらず揺れている。
決めてしまおうか。言い切ってしまおうか。俺はこいつの人生を振り回した。それは仕事だったが、ここからは違う。ここからは、俺自身の勝手で、こいつの人生を、決めてしまおうか。いいんだろうか、それで。受け入れるだろうか、あのときみたいに。
「足りない」
この先、俺が尻拭いをしていけば、それで良い。
いいだろきっと。良いって、言ってくれ。受け入れろ。今までみたいに。なんでもない顔をして。
死への恐怖が無いのなら、このまま俺に、人生を預けたってかまいやしないだろ。
「もう足りなくなった」
頭に回した片手に力を込めて、女を胸板に押し付けた。心臓が随分騒いでいる。この音さえ女に伝えたいと思って、同時に女が生きていることを感じたいと思って、俺は女の首元に顔を埋めた。血のにおいに混ざって、この場に似つかわしくない甘いにおいがした。血に濡れていても、その赤い髪は綿のように柔らかかった。
「このまま居たらいい。覚えてないと、記憶喪失のふりをして。自分すら騙すんだ。お前はもうイーガの者だ。可哀想な赤髪の女じゃない。そうすれば良い。そうすれば良いだろ。そうしてくれないか、なあ、頼むから」
それは、コーガ様が見せた慈愛とは程遠い。俺の我儘だ。勝手だ。横暴だ。でも、願いだった。
胸に付けた額から汗が滲むほど、血の気が下がって冷えた女の身体が、温かくなっていく。すっかり呼吸を落ち着かせた女が、封じ込めた体の中で身じろぐ。見上げてくる瞳には、生気がある。色がある。自分が何をすべきか決心したような、強く美しい瞳に見えた。
「そうすれば、イーガで、貴方と、生きられますか」
「ああ、そうだな。そうすれば、ここで生きられる」
一度、唇を引き絞り、瞼を伏せる。次に開けられた時、やっぱり女の瞳は、美しかった。
「・・・忘れます。全部。私は記憶を取り戻してなんかいない。騙します。自分を」
「受け入れるんだな、この道を」
ふっと顔が緩む。女はいつも飯時で見る、朗らかな表情を浮かべていた。
「貴方がそうしろって言ったんでしょ」
「そうだな、そうだ。それで良い。お前の面倒を見るのは、この頃随分、慣れたから」
クナイを落とした。音もなく、それは草むらの闇に吸い込まれた。やっと両手で女を抱きしめて、俺自身も、背に回された細い指を感じ取った。グッと力を込め、また改めて赤い髪の毛に埋まった。
記憶は、取り戻さなかった。もうこの先、どれほど人を殺しても、彼女の記憶は戻らない。その代わり、女はイーガの、一人前になった。死と殺しの道が同じと言った女は消え失せ、自らの生を掴み取った女が、ここにいた。
「やっと、お前を黒く染められるなぁ」
これも我儘だろう。毎日の中で唯一赤いそれが色を失うのが少し残念で、惜しく思えてしまった。