【完結済】イーガの男は忘却女の首を刈れるのか?
暫く鍛錬を続け、漸く一通り、女は暗器の使い方や術を使えるようになった。
使い物になるかといわれれば疑問があるが、このアジト内で業務をこなす分には問題ないはず。入団して数週間の新人の腕など、これくらいなものだろう。
ただ人から入団したにしては、女はよく努力を重ねた方だと思う。記憶がないからこそ、乾いた綿布が水を吸うが如く、知識や技術をすんなりと身につけられたのかもしれない。
これで漸く、俺もお役御免か。俺は彼奴の成長ぶりを、コーガ様へ直談判しにいった。
「どうでしたか」
総長室の戸口を抜けた折、暇そうに壁へ凭れ待っていた彼奴が面を上げる。その声はどこか落ち着かず、勇んでいるように聞こえた。それほど彼奴も、俺から離れて自由を得るのを心待ちにしているのかもしれない。
言葉に迷った。コーガ様から伝えられた指示を思い出し、彼奴にどう伝えるべきか考える。・・・いや、どう伝えても結果は同じこと。はぁ、とため息をひとつ吐き、彼奴の面を見返した。
「一人前になるまで面倒を見ろと言われた」
つまり、まだ一緒に居ろということだ。そして、俺の本業はまだお預け、ということだ。
すんと立ちすくみ「あらら」と溢した反応に、こいつはどこまでもふざけた女だと頭に上るが、徒労感が強くて何も言えない。眉間に皺すら寄りもしない。
「暫しまた、貴方と二人ということですか」
「そういうことだ」
「本来の業務じゃないのでしょう?大変ですね、貴方も」
「他人事を辞めろ」
「他人事ですもん、貴方のことでしょう」
やはりふざけてる。俺がこれほどまでに頭を悩ませているのは、お前の所為だ。口から出かかった言葉だが、やり取りをするのも疲労が募る。代わりに大きな舌打ちで苛立ちを返した。
「しかし、イーガでの一人前とは?既に一通りのことはできますが」
歩き出そうかと一歩足を持ち上げた途端、背にかかったのは素朴な疑問だった。
イーガでの一人前。それは暗殺を生業にする隠密であれば、当然、行きつく業務。
要するに、人殺しだ。この世に蔓延る魔物を倒すでも、生きるために必要な狩りでもない。人を殺すことこそが、イーガで一人前に値する業務である。
「・・・」
こいつは本当に、イーガで生きるために、人を殺せるのだろうか。イーガの理を教え込む最中、今まで拒絶するような素振りは見せなかった。むしろ、「私なら大丈夫」と、言葉だけは殊勝なことを言っていた。その言葉が本心かどうか、そしていざ目の前にして怖気づかないかどうか、俺には判断がつかない。
女の質問には答えず、面を見ながら考えた。その判断は恐らく俺にしかつかない。なぜなら、イーガへやってきて彼奴の面倒を見ていたのは俺で、彼奴をもっとも近くで見て、もっともよく知っているのは、俺だった。今生では、世界中にいる誰よりも、彼奴について俺が一番詳しい人間のはずだった。
「一人前になれば、髪も染まりますか」
微動だにせず重ねられた質問は、とはいえ予想していなかった内容だ。
イーガの団員は、入団と同時に髪の毛を黒く染める風習がある。陰に染まる証として、黒髪はイーガの誇りだった。
女の髪は、相変わらず血のように赤い髪のままだ。整髪もしていないものだから、軽く波打った細髪が、頭上高くで結っても肩辺りまでの長さを保っている。隠密にしては、確かに長すぎるし、あまりに目立ちすぎている。
しかし記憶喪失の現状を考えると、本質的に入団したとは言い難い。俺は染髪の機会を敢えて逃していた。
女は幸いなことに、風習を未だ耳にしていなかったらしい。けれども心算を覗かれた気がしてバツが悪く、俺は気付かれないのを良いことに面下で目を逸らす。
「染めたいのか?」
「そりゃあ、目立ちますし」
「嫌なのか」
「浮いてる気がするから嫌なんです」
「俺は嫌いじゃないが」
「え」と短く返ってきた声に、聞き覚えはない。なぜそうまで新鮮な反応をされるのか心当たりがなく、かと思ったら、つい今、口にした自分の言葉を頭で反芻して、自分で自分が信じられなくなった。なぜそんな言葉が咄嗟に口へ出たのか。嫌いじゃない、なんて、明確に思ったこともないのに
「・・・目立つし」
即座に付け足した言葉で誤魔化せるわけがなかった。しかし彼奴は暫く阿呆のように黙ったかと思えば、「・・・そうですか」と小さく呟く。いや、阿呆のようだったのはきっと俺の方だった。
いたたまれずに「行くぞ」と歩き出した俺に着いて来る彼奴の方が、よっぽどしっかりとした足取りだったに違いない。ただもう、それ以上は考えない。咄嗟に出た言葉のことなんか、深く考えない方が人生上手くいくに決まっているんだ。
彼奴は、布団の上で跨ったときと比べて随分変わった。
未だやる気があるんだか無いんだか分からない態度ではあったが、笑うことが増えた。俺に対する軽口も増えた。それは全て、あの弓矢の鍛錬の日から変わったのかもしれなかった。
コーガ様は確かに、「一人前になるまで面倒を見ろ」と仰ったが、実際は、女に人殺しの術を身につけさせたいわけでは無いのだろう。彼奴は未だ、記憶が戻った後に足抜けをする可能性を孕んでいる。人殺しの覚悟すら身につけさせるのは、我らに歯向かう牙を研ぐのと同じだ。
殺しに必要なのは技術ではなく、覚悟だ。殺しを体験できる心構えと、実際に殺しを体験した心姿は、天と地ほどの違いがある。コーガ様が求めているのは、きっと覚悟を持つ直前の状態。面倒を見るのは、殺しを体験させる直前までで良いはずだ。
女と共に、外回りの任務へ発った。
内勤をしていてはいつまで経っても腕が上達しない。変装してハイラルを回り、王家の動きや世情を探る諜報活動をおこなうようになった。本来であれば、一人でハイラルを回り、情報を集めるのが通例だが、彼奴の腕で一人にさせるのは心もとない。
なんせ、変装もままならず、髪の毛の色さえ術で変えることのできない体たらく。弓も刀も未だに覚束ないし、これではボコブリンにさえ敵わないかもしれない。まずは一人で諜報をおこなえるほどの実力がつくまで、二人一組の冒険者を装うことにした。
ただ諜報のためにハイラルを回るなんて、ただ散歩をしているようなもの。道中で旅人とすれ違ったら挨拶をして適当にくっちゃべり、噂話や裏話を聞きだした。
緊張感の欠片もない日々が続き、じじいにでもなった気分だ。体力のない女に付き合い、日に何度も道端に座り込んで休憩をしたのも、年寄りめいていた。俺は何になっちまったんだと、木の根もとに座り、流れる雲を見ているときに何度も何度も頭に浮かんだ。
女と出会ってからというもの、俺の矜持でもあった暗殺の業務はおこなっていない。
殺すか、殺されるか。そんなキリキリした毎日を恋しいなどとは思わないが、色褪せた毎日に、俺自身も染まって戻らなくなるような気がして、なんとなく焦りを感じる。
岩戸での生活ではなく、この安穏とした毎日そのものが灰色だった。隠密たるイーガにいながらそう思うのだから、俺の色盲はよっぽどだ。空の青も、木の葉の緑も、焚火の橙も、全部が全部、色を失ったように見える。
「お待たせしました、情報を聞いてきました」
「ご苦労。何か新しい話はあったか」
「飼っている家畜が子を産んだのと、近々祭りをおこなうらしいのと、最近、野生動物の気が立っているので注意した方が良いと聞きました」
「祭りについて詳しく聞いてこい。何の祭りか、規模と、参加する人間の素性と」
「参加したいのですか?」
「違う。王家の人間が来る可能性があるかもしれないと言っとるのだ。早く行け」
分かりましたぁ、と間の抜けた返事は相変わらずだが、くるりと反転した身のこなしは、随分様になってきた。
不思議なのは、そのまま歩き出し、あっという間に小さな点になったとしても、彼奴の赤髪がいつまでも目に残ること。結ってもふわふわと揺れるそれが、色盲の世界ではっきり見えるのには、どうも理由が思い当たらなかった。
彼奴とは諜報の際中、他愛ない話を度々した。
特に雨に降られた時、木陰や岩室、朽ちた小屋に身を寄せて雷雨が過ぎる間は、ぽつぽつとよく喋った。
なんとはなし、理由などない。俺と彼奴の間には既に奇妙な絆が出来ていたし、喋らない空気が気まずいだとか、お互いをもっと知りたいだとか、そんなくだらないことを考えたわけではない。そもそも、彼奴と交わしたのは、取るに足らない話ばかりだ。覚えてもいられないほど、取るに足らない話ばかりだった。
唯一記憶に残っているのは、降りしきる雨を見ながら、不意に彼奴が呟いた一言から始まった会話くらいなものだ。
「思い出したくないなぁ」
打ち捨てられた荷馬車に乗り込み、突然の雷雨を凌ぐ。
肩が触れ合うか合わないか、という距離に座り込み、雨で隠れる景色を見つめていた女が独り言のように呟いた。
女はそれまで、記憶を取り戻すことに執心する様子は見せていなかった。生や死に対しての態度と同じく、心根がどこにあるのか分からない言葉を紡ぐばかりだった。
そのときに、はっきりと思い出したくないと言われて、まぁ確かに、そうだろうと思っていた俺は、否定も肯定もせずに雨を見続けた。
するとまた「思い出したくない」と繰り返されたので、俺は面倒に思いながらも、彼奴の呆けた横顔を覗き込んだ。
「だが、怖くないのか。記憶が無いのは、自分が分からないのと一緒だろ」
「日記がすべてだと思います。嫌な思い出なら、思い出さない方が良いと思って」
「あれは、所詮毒を抜く先だったに過ぎないだろう。あれで人の生を全て語れるとは到底思えぬ」
「でも、それこそ怖いんです。日記に書かれたことが本当だったと知るのが怖い。本当のことだって知りたくない」
俺は、あの日記を星明りでパラパラと目を通しただけだ。それでもそこで見た文字は、女にとって酷く残酷な出来事だった。心に傷を負い、集落民から距離を置き、妙齢の女が苦労の生活を選ぶには十分すぎるほどの、残酷な文字だった。
「少なくとも、イーガへ来てからの記憶は、温かい、ので」
呟いた言葉にこそ、暖かな実感が伴っている気がした。
雨が降りしきる。一段と強く地面を打ち付ける雨の音に耳を塞がれながら、俺と女はただ灰色の世界に居続けた。
「思い出したら、貴方に殺されてしまうのかな」
その声は、空想だった。
「殺されたいのか、貴様は」と問うたのは、実感のない空想に付き合う気なんて無かったから。
「どうだろう」と顎に手をかけて考え込む彼奴は真面目で、漸く少し、この世に興味の沸いたような瞳の色を浮かべていた。
ただ、にへらと笑って見せた先、俺に向けたのは諦めの濃く滲んだ、やっぱりむかつく顔だったが。
「あの日記の生活に戻るくらいなら、その方が幸せなんじゃないかなって、今も思ってます」
真正面、間近で見るその顔はむかつくが、同時になんだか、泣きそうにも見えた。空が泣いていたからかもしれない。これはつられ泣きだろう。雨に降られてこいつはおセンチになっていた。
慰めたかったわけじゃ無い。同情したわけでもない。俺はただ、彼奴に事実を伝えようとしただけだ。
彼奴のむかつく笑顔から視線を背け、俺は雨の向こう側を見た。
「お前が思い出したところで、日記の生活には戻らない」
「思い出したら、殺されるから?」
「思い出したとして、イーガを選べば良いだけだからだ」
選んでくれれば良いと、微かに思った。
「それも、そうですね」
また女は、泣きそうな顔をして笑った。
会話は無くなり、それでも雨は止まない。俺と女を包むしじまは、妙な気がしたがやけに心地よい。あれほど心を騒めかせていた存在だったにもかかわらず、隣から熱を感じることが当たり前になってしまっていた。そしてそれは結局、女も一緒だったのだろう。
女が何も言わず、肩に頭を預けてきた。そのままゆっくりと俺の腕に頬を擦り、恐る恐る体重をかけて寄りかかってくる。湿気でうねった赤い髪の毛は柔らかく、まるでワタのように肌をくすぐった。ただ隣にいるよりも、触れた部分は何倍も熱かった。
女は、俺を頼っている。頼らざるを得なかった。心の拠り所にしていた。命を狙った男だと分かっていながら、俺にしか、寄りかかれなかった。
憐れだ。記憶があれば、決してこんなことにはならなかっただろう。記憶を失ってからの記憶は温かいかもしれない。しかしそれは、こいつが無理に掴まされただけの話だというのに。
ただ、拒絶することも、引き寄せることもせず、俺はそのまま雨を見続けた。
「私の髪の毛は、染めてくれないのですか」
この頃にはすでに、風習について知っていたはずだ。
日が暮れてきたのもあって、「少し寝ろ」と言っただけで、俺は何も答えられなかった。
使い物になるかといわれれば疑問があるが、このアジト内で業務をこなす分には問題ないはず。入団して数週間の新人の腕など、これくらいなものだろう。
ただ人から入団したにしては、女はよく努力を重ねた方だと思う。記憶がないからこそ、乾いた綿布が水を吸うが如く、知識や技術をすんなりと身につけられたのかもしれない。
これで漸く、俺もお役御免か。俺は彼奴の成長ぶりを、コーガ様へ直談判しにいった。
「どうでしたか」
総長室の戸口を抜けた折、暇そうに壁へ凭れ待っていた彼奴が面を上げる。その声はどこか落ち着かず、勇んでいるように聞こえた。それほど彼奴も、俺から離れて自由を得るのを心待ちにしているのかもしれない。
言葉に迷った。コーガ様から伝えられた指示を思い出し、彼奴にどう伝えるべきか考える。・・・いや、どう伝えても結果は同じこと。はぁ、とため息をひとつ吐き、彼奴の面を見返した。
「一人前になるまで面倒を見ろと言われた」
つまり、まだ一緒に居ろということだ。そして、俺の本業はまだお預け、ということだ。
すんと立ちすくみ「あらら」と溢した反応に、こいつはどこまでもふざけた女だと頭に上るが、徒労感が強くて何も言えない。眉間に皺すら寄りもしない。
「暫しまた、貴方と二人ということですか」
「そういうことだ」
「本来の業務じゃないのでしょう?大変ですね、貴方も」
「他人事を辞めろ」
「他人事ですもん、貴方のことでしょう」
やはりふざけてる。俺がこれほどまでに頭を悩ませているのは、お前の所為だ。口から出かかった言葉だが、やり取りをするのも疲労が募る。代わりに大きな舌打ちで苛立ちを返した。
「しかし、イーガでの一人前とは?既に一通りのことはできますが」
歩き出そうかと一歩足を持ち上げた途端、背にかかったのは素朴な疑問だった。
イーガでの一人前。それは暗殺を生業にする隠密であれば、当然、行きつく業務。
要するに、人殺しだ。この世に蔓延る魔物を倒すでも、生きるために必要な狩りでもない。人を殺すことこそが、イーガで一人前に値する業務である。
「・・・」
こいつは本当に、イーガで生きるために、人を殺せるのだろうか。イーガの理を教え込む最中、今まで拒絶するような素振りは見せなかった。むしろ、「私なら大丈夫」と、言葉だけは殊勝なことを言っていた。その言葉が本心かどうか、そしていざ目の前にして怖気づかないかどうか、俺には判断がつかない。
女の質問には答えず、面を見ながら考えた。その判断は恐らく俺にしかつかない。なぜなら、イーガへやってきて彼奴の面倒を見ていたのは俺で、彼奴をもっとも近くで見て、もっともよく知っているのは、俺だった。今生では、世界中にいる誰よりも、彼奴について俺が一番詳しい人間のはずだった。
「一人前になれば、髪も染まりますか」
微動だにせず重ねられた質問は、とはいえ予想していなかった内容だ。
イーガの団員は、入団と同時に髪の毛を黒く染める風習がある。陰に染まる証として、黒髪はイーガの誇りだった。
女の髪は、相変わらず血のように赤い髪のままだ。整髪もしていないものだから、軽く波打った細髪が、頭上高くで結っても肩辺りまでの長さを保っている。隠密にしては、確かに長すぎるし、あまりに目立ちすぎている。
しかし記憶喪失の現状を考えると、本質的に入団したとは言い難い。俺は染髪の機会を敢えて逃していた。
女は幸いなことに、風習を未だ耳にしていなかったらしい。けれども心算を覗かれた気がしてバツが悪く、俺は気付かれないのを良いことに面下で目を逸らす。
「染めたいのか?」
「そりゃあ、目立ちますし」
「嫌なのか」
「浮いてる気がするから嫌なんです」
「俺は嫌いじゃないが」
「え」と短く返ってきた声に、聞き覚えはない。なぜそうまで新鮮な反応をされるのか心当たりがなく、かと思ったら、つい今、口にした自分の言葉を頭で反芻して、自分で自分が信じられなくなった。なぜそんな言葉が咄嗟に口へ出たのか。嫌いじゃない、なんて、明確に思ったこともないのに
「・・・目立つし」
即座に付け足した言葉で誤魔化せるわけがなかった。しかし彼奴は暫く阿呆のように黙ったかと思えば、「・・・そうですか」と小さく呟く。いや、阿呆のようだったのはきっと俺の方だった。
いたたまれずに「行くぞ」と歩き出した俺に着いて来る彼奴の方が、よっぽどしっかりとした足取りだったに違いない。ただもう、それ以上は考えない。咄嗟に出た言葉のことなんか、深く考えない方が人生上手くいくに決まっているんだ。
彼奴は、布団の上で跨ったときと比べて随分変わった。
未だやる気があるんだか無いんだか分からない態度ではあったが、笑うことが増えた。俺に対する軽口も増えた。それは全て、あの弓矢の鍛錬の日から変わったのかもしれなかった。
コーガ様は確かに、「一人前になるまで面倒を見ろ」と仰ったが、実際は、女に人殺しの術を身につけさせたいわけでは無いのだろう。彼奴は未だ、記憶が戻った後に足抜けをする可能性を孕んでいる。人殺しの覚悟すら身につけさせるのは、我らに歯向かう牙を研ぐのと同じだ。
殺しに必要なのは技術ではなく、覚悟だ。殺しを体験できる心構えと、実際に殺しを体験した心姿は、天と地ほどの違いがある。コーガ様が求めているのは、きっと覚悟を持つ直前の状態。面倒を見るのは、殺しを体験させる直前までで良いはずだ。
女と共に、外回りの任務へ発った。
内勤をしていてはいつまで経っても腕が上達しない。変装してハイラルを回り、王家の動きや世情を探る諜報活動をおこなうようになった。本来であれば、一人でハイラルを回り、情報を集めるのが通例だが、彼奴の腕で一人にさせるのは心もとない。
なんせ、変装もままならず、髪の毛の色さえ術で変えることのできない体たらく。弓も刀も未だに覚束ないし、これではボコブリンにさえ敵わないかもしれない。まずは一人で諜報をおこなえるほどの実力がつくまで、二人一組の冒険者を装うことにした。
ただ諜報のためにハイラルを回るなんて、ただ散歩をしているようなもの。道中で旅人とすれ違ったら挨拶をして適当にくっちゃべり、噂話や裏話を聞きだした。
緊張感の欠片もない日々が続き、じじいにでもなった気分だ。体力のない女に付き合い、日に何度も道端に座り込んで休憩をしたのも、年寄りめいていた。俺は何になっちまったんだと、木の根もとに座り、流れる雲を見ているときに何度も何度も頭に浮かんだ。
女と出会ってからというもの、俺の矜持でもあった暗殺の業務はおこなっていない。
殺すか、殺されるか。そんなキリキリした毎日を恋しいなどとは思わないが、色褪せた毎日に、俺自身も染まって戻らなくなるような気がして、なんとなく焦りを感じる。
岩戸での生活ではなく、この安穏とした毎日そのものが灰色だった。隠密たるイーガにいながらそう思うのだから、俺の色盲はよっぽどだ。空の青も、木の葉の緑も、焚火の橙も、全部が全部、色を失ったように見える。
「お待たせしました、情報を聞いてきました」
「ご苦労。何か新しい話はあったか」
「飼っている家畜が子を産んだのと、近々祭りをおこなうらしいのと、最近、野生動物の気が立っているので注意した方が良いと聞きました」
「祭りについて詳しく聞いてこい。何の祭りか、規模と、参加する人間の素性と」
「参加したいのですか?」
「違う。王家の人間が来る可能性があるかもしれないと言っとるのだ。早く行け」
分かりましたぁ、と間の抜けた返事は相変わらずだが、くるりと反転した身のこなしは、随分様になってきた。
不思議なのは、そのまま歩き出し、あっという間に小さな点になったとしても、彼奴の赤髪がいつまでも目に残ること。結ってもふわふわと揺れるそれが、色盲の世界ではっきり見えるのには、どうも理由が思い当たらなかった。
彼奴とは諜報の際中、他愛ない話を度々した。
特に雨に降られた時、木陰や岩室、朽ちた小屋に身を寄せて雷雨が過ぎる間は、ぽつぽつとよく喋った。
なんとはなし、理由などない。俺と彼奴の間には既に奇妙な絆が出来ていたし、喋らない空気が気まずいだとか、お互いをもっと知りたいだとか、そんなくだらないことを考えたわけではない。そもそも、彼奴と交わしたのは、取るに足らない話ばかりだ。覚えてもいられないほど、取るに足らない話ばかりだった。
唯一記憶に残っているのは、降りしきる雨を見ながら、不意に彼奴が呟いた一言から始まった会話くらいなものだ。
「思い出したくないなぁ」
打ち捨てられた荷馬車に乗り込み、突然の雷雨を凌ぐ。
肩が触れ合うか合わないか、という距離に座り込み、雨で隠れる景色を見つめていた女が独り言のように呟いた。
女はそれまで、記憶を取り戻すことに執心する様子は見せていなかった。生や死に対しての態度と同じく、心根がどこにあるのか分からない言葉を紡ぐばかりだった。
そのときに、はっきりと思い出したくないと言われて、まぁ確かに、そうだろうと思っていた俺は、否定も肯定もせずに雨を見続けた。
するとまた「思い出したくない」と繰り返されたので、俺は面倒に思いながらも、彼奴の呆けた横顔を覗き込んだ。
「だが、怖くないのか。記憶が無いのは、自分が分からないのと一緒だろ」
「日記がすべてだと思います。嫌な思い出なら、思い出さない方が良いと思って」
「あれは、所詮毒を抜く先だったに過ぎないだろう。あれで人の生を全て語れるとは到底思えぬ」
「でも、それこそ怖いんです。日記に書かれたことが本当だったと知るのが怖い。本当のことだって知りたくない」
俺は、あの日記を星明りでパラパラと目を通しただけだ。それでもそこで見た文字は、女にとって酷く残酷な出来事だった。心に傷を負い、集落民から距離を置き、妙齢の女が苦労の生活を選ぶには十分すぎるほどの、残酷な文字だった。
「少なくとも、イーガへ来てからの記憶は、温かい、ので」
呟いた言葉にこそ、暖かな実感が伴っている気がした。
雨が降りしきる。一段と強く地面を打ち付ける雨の音に耳を塞がれながら、俺と女はただ灰色の世界に居続けた。
「思い出したら、貴方に殺されてしまうのかな」
その声は、空想だった。
「殺されたいのか、貴様は」と問うたのは、実感のない空想に付き合う気なんて無かったから。
「どうだろう」と顎に手をかけて考え込む彼奴は真面目で、漸く少し、この世に興味の沸いたような瞳の色を浮かべていた。
ただ、にへらと笑って見せた先、俺に向けたのは諦めの濃く滲んだ、やっぱりむかつく顔だったが。
「あの日記の生活に戻るくらいなら、その方が幸せなんじゃないかなって、今も思ってます」
真正面、間近で見るその顔はむかつくが、同時になんだか、泣きそうにも見えた。空が泣いていたからかもしれない。これはつられ泣きだろう。雨に降られてこいつはおセンチになっていた。
慰めたかったわけじゃ無い。同情したわけでもない。俺はただ、彼奴に事実を伝えようとしただけだ。
彼奴のむかつく笑顔から視線を背け、俺は雨の向こう側を見た。
「お前が思い出したところで、日記の生活には戻らない」
「思い出したら、殺されるから?」
「思い出したとして、イーガを選べば良いだけだからだ」
選んでくれれば良いと、微かに思った。
「それも、そうですね」
また女は、泣きそうな顔をして笑った。
会話は無くなり、それでも雨は止まない。俺と女を包むしじまは、妙な気がしたがやけに心地よい。あれほど心を騒めかせていた存在だったにもかかわらず、隣から熱を感じることが当たり前になってしまっていた。そしてそれは結局、女も一緒だったのだろう。
女が何も言わず、肩に頭を預けてきた。そのままゆっくりと俺の腕に頬を擦り、恐る恐る体重をかけて寄りかかってくる。湿気でうねった赤い髪の毛は柔らかく、まるでワタのように肌をくすぐった。ただ隣にいるよりも、触れた部分は何倍も熱かった。
女は、俺を頼っている。頼らざるを得なかった。心の拠り所にしていた。命を狙った男だと分かっていながら、俺にしか、寄りかかれなかった。
憐れだ。記憶があれば、決してこんなことにはならなかっただろう。記憶を失ってからの記憶は温かいかもしれない。しかしそれは、こいつが無理に掴まされただけの話だというのに。
ただ、拒絶することも、引き寄せることもせず、俺はそのまま雨を見続けた。
「私の髪の毛は、染めてくれないのですか」
この頃にはすでに、風習について知っていたはずだ。
日が暮れてきたのもあって、「少し寝ろ」と言っただけで、俺は何も答えられなかった。