イーガ団員相手の夢

 このところ、彼の存在は彼女の中で、はっきりと気重になっていた。
 いや、正しくは、彼の期待に応えられない自分自身が、はっきりと気重であった。
 幹部の悩みの種になっている。駒として、傀儡として、あり得ない失態だ。繰り手の指先ひとつで自在に動く傀儡なのに、どこかで自分を吊った紐が絡まっているのだ。彼にも私にも、解くことが出来ないほど頑丈に。
 完璧で、冷静で、失敗のないイーガの駒は消え失せた。きっと彼が自分に目を掛けなくなるのも、時間の問題に違いない。

 いつまでも頭の中に、丸まった背中と、触られた折、身体中に伝播した熱があった。自分でもどうにも冷ませない熱が、いつまでもいつまでも、低温火傷でもしたみたいに肌膚に残っていた。
 最近は、熱に振り回されることが多くなっている。食事の最中、少し触れ合うだけでもすぐさま引っ込んでいく彼の指先。その暖かさを自覚した途端、あの時撫でられた熱の線が導火線に変わり、身体の奥底に沈み込んでいた衝動にまで火が走る。
 なにをするための衝動かは分からない。それこそ手を掴もうかと思い立つくらいなもので。
 「・・・どうかしたか?」と止まる箸先に声を掛けられれば、「なんでもありません」と返す。
 そう。なんでもないのだ。律しきれない衝動を感じ取っているだけで、意思無き傀儡はなんでもないと答えるしかないのだ。



 ピンと張った彼女の糸が切れたのは、全く突然のことだった。
 いつもと変わらない食事。近況報告。そろそろ解散しようか、という就床の挨拶。これから一日の疲れを湯浴みで流し、それぞれの共寝所で寝に入る。
 彼が食事の際中に話してくれたラネール山の話を思い出しながら、彼女は「では幹部殿、また明日」と廊下で彼に頭を下げた。
 踵を返す直前、「あ」と発した彼に、手首が取られる。なんでしょうかと応える前に、彼の手の平が頭部に添えられ、軽く引き寄せられた。
 続け様に、ちゅ、というリップ音。すぐさま身体を離した彼を見やれば、先ほどまでは仮面に隠れていた唇が、照れたように引き絞られていた。

「おやすみ」

 小さく動いた唇が、さっとまた面に隠されて、彼が踵を返す。黙ったままの女を残し、彼はその場を去って行った。
 今、何をされたのだろうか。手首を掴まれた折、導火線につけられた熱が身体を這う間に、彼が額に近づいた。
 面への、口づけ? その事実に思い当たった瞬間、ぶわっと体の奥底へ沈んでいた衝動がはじけ飛んだ気がした。
 空気を大きく吸い込んで、吐き出しもせずにお腹に力を込める。じゃないと、湧き上がる熱に翻弄されて過呼吸にでもなってしまいそうだ。それでなくとも、なぜか肺が膨らんだままになったようで、空気があまり入らない。
 彼が消えていった廊下を見開いたままの瞳で眺め、女はまともに呼吸もしないまま、ギクシャクとその場を後にした。

 その後は散々だった。熱を冷ますために湯浴み場で幾度と水を被っても、低温火傷のような疼きが取れない。身体自体は凍えたものだから、ガチガチと奥歯が勝手になり出して、身体を洗ってすぐに出た。
 いつもなら相部屋の住民が遅くまでお喋りをしているが、今日に限って静かなものだ。女衆が寝静まった共寝所の中、彼女も黙って布団に潜り込む。しかし、風邪にでもかかったときのように拍動がうるさく早く、眠気は一向にやってこない。何かに集中した方が良いかと思い立ち、瞼裏で焦点を合わせようとすれば、むしろ目が冴え睡魔を邪見にしてしまったらしい。
 彼に掴まれた手首が、今更ながらに熱を持っている。あとは、仮面が無ければ柔らかい唇を迎えただろう額にも。
 あのときを境に頭に居残り続ける彼の丸い背中と、身体を這う導火線の熱に、瞼裏の焦点がぴたりと合ってしまう。
 このままではダメになる。イーガの傀儡として、使い物にならなくなる。
 夜半過ぎ。人の寝静まった女部屋の中、気配を殺しながら起き上がった。




 どうにも発散できない熱を晴らすために訪れたのは、夜の鍛錬場。
 日中夜に関係なく誰かしらいるのが鍛錬場の常だが、さすがに夜更け過ぎともなると人っ子一人居らず、部屋は物寂しい静けさに沈んでいる。
 アジトの中でも特別に広い部屋だから、余計に一人で剣を振るう音が響いて寂寥感が募った。が、今の彼女にとってはその寂しさが丁度良い。イーガの傀儡として今の自分は褒められるものでない。人に見られれば後ろめたさに襲われるのは必然だろうから。

 しかし、呼吸音さえ響く岩戸の静寂の中では、彼女が剣を振り、空を切る音は奇妙そのものだったのだろう。はぁはぁと息切れしながら励む中、踵を返した折、一人の幹部が戸口で仁王立ちとなっているのに気が付いた。

「こんな夜更けに鍛錬してるなんて、殊勝だな」

 面の瞳がかち合い、居たたまれない空気が漂う前に幹部が近づいてくる。その幹部役に見覚えは無い。褒められはしたものの、言われた内容に共感はできず、女は後ろめたさで頭を下げた。
 すぐ手の届く距離に来た幹部は顎に手を掛け、無遠慮に女を見つめる。

「あんた、隠密班の新人だな?なぜこんな夜更けに鍛錬を?」
「すみません、少々、眠れなかったもので」
「聞いた通り真面目なんだな。良い団員が入ってきたって、団員の中でもっぱらの噂になってるぞ」
「ありがとうございます」
「なんでも、上役の命令は絶対厳守で、完璧超人なんだってな?あんたの上役もしっかり者で助かってるって言ってたぜ」
「・・・恐れ多いことです、私如きが」

 彼の話が出て、胸の辺りがふわりとくすぐられるような気がした。と同時に、その彼の命令に応えられない事実が浮き彫りになり、重石を乗せられた気にもなる。
 面下で陰った女の表情など気付かずに、幹部は「なあ、ちょっと聞きたいんだが」と神妙な声音で迫る。

「幹部役の命令なら何でも答えるって聞いたんだが、本当か?」
「両親にきつく言い聞かせられましたので。それこそがイーガの駒として最善だと」
「なるほどねぇ。噂は嘘じゃないってことか。なら、俺も頼みたいことがあるんだが」
「はい、幹部殿の言うことでしたら、仰せのままに」
「俺の相手をしてくれないか?」
「分かりました。全力を尽くします」

 額の汗を拭いながら剣を構えると、「違う違う」と笑いながら幹部は手を振った。

「布団の上でだ」

 あまりにあっけらかんと話すものだから、その言葉の意味が分からない。
 女は一拍、二拍を置いて「え?」と幹部に聞き返した。

「最近、女ひでりでな。慰安所にも行けないし、相手を探していたんだ」
「え、えっと」
「聞いたぞ、あいつの相手もしてやったんだろ?命令を断らないからって」
「それは・・・」
「なんだ、これも上官命令だが、断るのか?上役の言うことならなんでも聞く駒だって、自分が言ったんじゃないか」

 男は笑っていた。その声は嘲りだった。揶揄われているのだ。しかし悲劇は、恋人以外に異性との交遊経験がなく、本気なのか揶揄されているのか判別がつかないことだった。
 考えてもみなかった発言に面食らって呆けてしまい、如実ににやついた声で「なあ」と近づかれても動けない。
 血の気が下がったにもかかわらず、更に発汗した汗の所為で、ただただ身体が凍えるように冷たくなっていく。

 幹部役の命令に、従わなければ。頭の中で響くのは、いつかに聞かされた両親の言いつけだった。
 女にとって、それは強迫観念に近い。今までであれば二の次に「仰せのままに」と返せたはずである。
 しかし、これまでと違い、なぜだか純朴には応えられなかった。口を動かし、喉を絞り「はい」と空気を押し出すだけの動作を、身体がはっきりと拒絶していた。
 なぜ動けないのか分からない。ただ確実なのは、このとき脳裏に浮かんだ姿が彼女を諫めた。
 額に手をつき、丸まった巨漢の背中。いつまでも甲斐甲斐しい、自らの上司の背中だ。

「な、なぜ・・・私が・・・その、理由、は・・・」

 精一杯の声は震えた。呼吸が上手く制御できなかった。
 すぐ目の前に迫っていた幹部の仮面が「うーん」と遠のいていく。そうさなぁ、と気まぐれを隠しもしない言葉を口にしながら、男は顎に手をあてた。

「男って、性欲が溜まってたら仕事に精が出ないんだよな。集中できないっていうかさ。お前が相手をしてくれると、俺の業務が捗る」
「そう、ですか・・・。存じませんでした」
「あんたを食ったあいつも、たぶん同じだったと思うぜ。溜まってたみたいだし?」
「そうなんですね・・・彼も・・・」
「ほらな、これもイーガのためになる。駒として、当然なんだろ?上官の命令に従うのは」
「はい・・・はい。分かりました、幹部殿が、仰る、なら」

 自分に言い聞かせるように繰り返し、首をゆっくり縦に振ると、幹部は「おほ、やった」と憚りもせずに拳を握った。
 浅く呼吸を繰り返す女の肩を抱き、部屋の隅に誘導した幹部は、照明を背に彼女を壁に追いやる。
 女は今日初めて見る太い腕で壁際に囚われ、濃い影に染まったイーガの仮面に上から見降ろされた。

「じゃあ、まず口淫でもしてもらうか。あいつとシたんだったら、やり方分かるよな?」

 業務とは程遠い揶揄うような声色で言われれば、女に反意の気持ちが微かに灯る。しかし、業務命令と言われた手前、どうしても「分かりました」と口が勝手に動いてしまう。
 囲われたまま、身じろぐような小さい動きで膝立ちになり、男の腰を眼前にした。
 この前は、自らの恥ずべき裸体を、初めて大人の男に晒した。今日は、男の恥ずべき秘所を、初めて目にすることになるのか。
 手が震える。それは身体が冷めきっているからではない。身体がどうにも、自由に動かなかった。緊張。恐怖。遣る瀬無さ。全ての感情がないまぜになって、肺が上手に呼吸するのを邪魔してくる。
 とはいえ、これは決して初めての感情ではない。こんなにも自分が嫌で、今すぐ消えてしまいたいと思うのは、いつぶりだろうか。確かに覚えがある。意思を手放した日。イーガの駒として動くと決めた日。自分の存在を、それ以外に見いだせなくなった、きっかけの日。
 毛玉の友人が居なくなった日。自らの失態を夜通しなじられたあの時と今が、確かに重なって見えている。

 腰に手を当てた幹部が股間をつきだしてくる。男のベルトに震える指先をかけ、袴下をずり下ろそうかと息を飲む。
 これは業務だ。イーガの駒として、正しい選択だ。イーガをまとめる幹部役の命令だ。自分はただ、彼の言葉に従っていれば良い。
 息が乱れる。鼻先が熱を持つ。涙が出てくる。喉が痙攣する。指先に力が入らない。
 あの人に言われたことと同じことをしようとしているだけだ。なのに、なんでこうも身体が動かないのか、なんでこうも泥みたいな感情が湧き上がってくるのか分からない。黒くて、身体に纏わりつき、緊張しきった筋肉を、更に凍えさせて動けなくさせるような、イーガの駒として、あり得ない、あってはならない感情。
 じわじわと、目頭が熱くなって、涙が溜まっていくのを感じ取っていた。そして目に溜まった涙が決壊した瞬間、女はそれまでの全部が、崩れ去っていくのをはっきりと感じた。

「い・・・、す・・・」
「は?」
「いや・・・です。できません、口淫っ、なんて・・・できない。やりたくありません・・・。上官の命令でもっ、それは・・・っ」

 面下ではらはら涙を流しながら、嗚咽交じりに頭を下げた。しゃくりあげて両手で面を覆い、そのまま静かに肩を震わせる。「話が違うな」と不満げな声が降ってきたが、それすらもう応えられなくて、女は唇を嚙む力を込めた。

「じゃあ、胸だけでも見せてくれるとか・・・」
「お前、なにしてるんだ、そこで!」

 女に合わせて男が屈んだ瞬間、二人だけの静寂を、突如別の声が切り裂く。幹部が「げ」と漏らしながら振り返った先にいたのは、別の幹部役。
 アジトの警邏に駆り出されていた、恋人であった。
 へたりこむ団員と、幹部役が鍛錬場で二人きり。異様な空気感を察知して、じろりと男を睨みつける。

「なにがあった。お前、なにかしたのか」
「あ、いやぁ、その・・・」

 へへへ、と軽薄な笑みを残し、「俺、そろそろ行くわ」と、男が逃げるようにその場を去っていく。幹部は怪訝に首を捻るが、そのまま女の元へと歩み寄った。
 そこで初めて、その場に蹲るのが自らの恋人だと気付く。幹部はギョッとした様子で彼女の肩を掴んだ。

「ど、どうして君がここにいる。寝たんじゃなかったのか。いや、それよりも何があった。なんで、泣いてる」

 事実を口にするのは憚れる。しかし、肩を掴む彼の指が強く、それがいかに深刻に思っているのかを物語っていた。いつも壊れ物を扱うような指先で繊細に触れてくる彼にしては、あり得ない強さだ。
 女は勝手にひくつく喉元を押さえながらその場に居直って、何度か深呼吸をする。遠い昔、両親になじられ、しゃくりあげながら弁明したときの心持ちが蘇る。

「貴方と、別れた後、ね、寝れなくて、鍛錬場にっ、来ました」
「あいつは・・・?知り合い、ってわけじゃないだろう?」
「鍛錬の音が、気になったようで、話を少し」
「・・・なぜ、君が座り込んで、泣くことに?」
「・・・上官命令だからと、慰安所の真似事を、言われて・・・」

 途端、肩を掴む指にグッと力がこもる。「あいつ・・・ッ」と口走った言葉にははっきりと殺意が滾る。しかし、その衝動を女の縋る手がとめた。

「でも・・・できなくて・・・ッ、命令なのに、イーガのためなのに・・・!私は、私の存在意義が、分からなくなって・・・!」
「できなかった、のか?」
「嫌だったんです。触れたくなかった。触られたくなかった。命令でも、嫌だと思ってしまった。上官の、命令なのに・・・!」

 嗚咽を憚らずにあげ、その先は言葉にならなかった。
 自らの心が、刃に割かれたようにバラバラになってしまった気がした。一度拒絶したイーガの道を、二度と歩む権利がなくなってしまった気がした。
 こんな生き方しかできないのに、それすらも真っ当にこなせない自分。決して難しい命令ではなかったのに、身体が拒絶した自分。そんなのはいらない。自分はいらない。
 あの時、鳶に攫われるべきだったのはきっと、自分だった。友人の方では、無かった。

「イーガのためにならぬ私なんて、もう、意味なんか・・・」
「違う。そうじゃない」

 太くて暖かい腕が女を包み込む。そのまま後頭部を優しく手の平で撫でられ、筋肉質な胸板に押し付けられた。
 苛む女を止めたのは、いつも耳にする心地よい彼の声だった。

「それで良い、君はここに居て良いんだ。自分の意味を見出すには、自分がなにを考えてるか、選択するかが重要なんだ。責任の伴う怖いことだ。でも、その責任こそ、自分が自分で居て良い理由になるんだよ」

 自分が、自分で居て良い意味? 小さく仮面の中で繰り返すと、「そうだ」と声を潜ませる彼に、緩く仮面を取られる。
 今度はしっかりと額で彼の体温を感じ、女は心地よさに瞼を伏せた。

「イーガだからなんて関係ない。俺たちは、イーガである以前に人だから。嫌だった思いを大切にして欲しい。俺たちは駒じゃない。傀儡じゃない。人なんだよ。心も意思もある、人なんだ」

 頭を撫でられ、耳元でささやかれる声は酷く優しい。まるで、夜泣きが収まらない赤子を寝かしつけるみたいに。いや、彼が心に染み入ったハイラルの景色を語るときみたいに。
 彼が一言喋るごと、彼と食堂で過ごした穏やかな心境が鮮やかに蘇って、女は低音の声に聞き入った。
 「大丈夫だよ」と繰り返す彼の声につられ、あれだけバラバラに引き裂かれた心の断片が、もう一つになりつつある。大丈夫と言われるだけで、本当に大丈夫な気がしてくる。勝手に痙攣する喉も、あれだけ震えていた指先も、ぽんぽんとあやされる彼の手先を感じている間に、すっかりと落ち着きを取り戻した。
 濡れた頬を幹部の指先が滑り、涙を拭われる。真正面から覗き込まれて、見慣れたイーガの仮面に、とくん、と心臓が高鳴った。

「なあ、なんで嫌だったのか、聞いても良いか?」

「・・・なんで、嫌だったのか」と繰り返しながら、女は先ほどの心算を頭に思い描いた。

「・・・触れたくなかったんです」
「上官だったのに?命令と言われて、それを反故するほど?」
「・・・はい」
「俺の時は、あれだけ躊躇なく脱いだのに」
「・・・」
「期待して良いのかな」
「・・・貴方じゃ、なかったから」
「・・・」
「貴方じゃない、と思ったら、触れたくなくなりました。肌を見せるのも、嫌だと思いました」
「・・・」
「触れられるなら、貴方が良くて」

 途端、幹部が改めて女を抱きしめる。今までで一番強く。一度高鳴ってから徐々に早くなっていた拍動が、彼に伝わってしまうのではないかと思うほど大きくなる。

「口づけして良いか?」
「・・・命令、ならば」
「違う、命令じゃない。ちゃんと聞きたい。ちゃんとどう思ってるか、じっくり考えて欲しい」

 また正面から覗き込まれて、女は唇を小さく噛んだ。幹部の温かい指先が、女の柔らかい唇に添えられる。

「さっきみたいに、嫌な気持ちになるか? 俺が君のここに、唇を押し当てても。想像してごらん」

 想像してごらんなんて、命令じゃなくても、命令みたいなものだ。だからこそ、拒否なく受け入れられる。
 女は伏し目がちに、彼との口づけを想像する。

「・・・想像すると、鼓動が早くなります。お風呂に入ってるみたいに、頬が熱い。これ以上どうなるのか分からなくて怖い」

 緊張で乾いたそこを舌で小さく舐め、それから遠慮がちに彼のことを見返した。

「でも、それが知りたい」

 熱の籠った瞳を受け、唇を滑っていた幹部の指先が、そのまま女の顎をとる。まるで宝物を扱うみたいに、大切そうに。そして、丁寧な動きで幹部も、仮面から顔の下半分を空気に晒した。
 ふわりと、躊躇なく唇同士が重なり合う。最初、柔らかくて暖かいそれは、ただ押し付けられるように触れ合うだけだった。そこから彼が、女の上唇を挟み込み、その血色良くなった口元に吸い付いてくる。
 初めての口づけに、知らない間に瞼を伏せていた女は、触れ合う摩擦に集中していた。少しの身動ぎと彼の吐息にさえ、そわ、と背中に得体の知れない衝動が駆けていく。
 寝処で感じた衝動とほとんど同じ疼きを感じる。あのとき指で刻まれた導火線に火が灯り、今まさに触れられている唇や顎、撫でられる頬でぱちぱちと弾ける錯覚を覚えた。だけれど彼に触れられたことのない場所も同時に疼いて、自分は本当にどうかしてしまったんだと思った。じんじんと身体は熱を持っている。あの時見せられなかったはしたない場所にまで指を這わして欲しいだなんて、そんなことを初めての口づけで思うなんて。

 彼が身を引き、唇がふっと離れていく。薄く瞼を開けた彼女の視界に移るのは、真剣な彼の口元。
 「どうだった」と穏やかに問われた質問にどう答えるか。感じたままを伝えて良いのだろうか。女は今まさに重ねられていた口元に手を添えて、一度大きく深呼吸をした。

「・・・嫌です」
「嫌だったか・・・」
「嫌です、だって・・・」

伝えても良いのだろうか。いや、伝える。それは責任。イーガの傀儡ではなく、一人の人として。

「心臓が痛い。頬っぺたが熱い。息も出来ないし、苦しかった、です」
「・・・」
「体中が火照って、疼いて、離れたく、ないのに、離れちゃう」
「・・・」
「だから、嫌です」

 彼の様子は見られない。これでもかというくらいに俯いて、彼の視線から逃れた。
 駒としての生き方しか知らない彼女が、自らの意思を伝えることは恐怖そのものだ。だから、彼がどう感じたかなど、想像できるわけもなかったのだ。その感じたままの声に、どれほどの激情が走ったかなんて、彼女には想像できるわけもなかった。

「嬉しい」

 そのたった一言は酷く上ずっている。改めて抱き留められる力は強く、女は「うぅ」と少し唸った。
 と同時にお腹の奥、凍えて冷めきった深いところが、じんわりと温められて溶けていくのを感じ取っていた。

















 イーガの傀儡として生を受けた彼女は、今日も上役の命令を従順に守っている。
 直属の上司でもある隠密班幹部とのやり取りは、カラクリのように無機質で、冷静。非道な命令にも嫌な顔ひとつせず応じるのは、さすがエリートを両親にもつ子というところ。
 しかし、ひとたび業務が終われば、彼らも人になる。自身の恋人でもある幹部との逢瀬、面を剥いだ先の顔は、覚束ない笑顔がいつも浮かべられている。
 口端を無理に上げたようなその顔は、傀儡から人に成ったばかりの娘にしては、上出来なのではなかろうか。

 傀儡娘は駒として夜を駆ける。
強く吹く春風に煽られながら、女は穏やかに季節を語る男の声を思い出し、野に咲く花へ口端を持ち上げて見せるのだ。

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