イーガ団員相手の夢

 彼女は、イーガの傀儡として生を受けた存在であった。

 彼女の父と母は、時の王権に逆らい、国家の転覆を狙うイーガの団員である。身と心の全てをイーガ団の総長・コーガ様へと捧げた優秀な人材。それは二人が子を為し、次代を育む役目となってからも変わらなかった。
 自らの長子をイーガの支えとして育てるべく、精を尽くす。その目的のために厳格な両親からずっと説かれてきたのは、とにかく身を粉にしてコーガ様のため、イーガ団のために働きなさいという、単純な教えである。
 気を許せるような友人を作ることは許されなかった。人形で遊ぶことも、花を摘んで編むことも、同じく許されなかった。両親は寝る前に絵本を読みきかせるのではなく、どれだけコーガ様が素晴らしいか、イーガの持つ理念が尊ぶべきかを滾々と説いた。
 ただ人の生を生きる人間であれば、疑問に思うだろう。そこまでの窮屈な道を進むことに、抵抗はなかったのか、と。しかし彼女も、全くの反意無しに傀儡の道を歩んだわけでは無い。
 あれは彼女が7の頃のことである。年の近い人間との遊びを禁止されていた彼女は孤独だった。自らの境涯を相談できる相手もおらず、幼心に抱く、外界への興味に共感する相手もいない日々。
 せめてとばかり家の畑で育てていた野菜へ親切にすることで溜飲を下げていたのだが、時にぬくもりが欲しくなる。野菜が身体を温かくしてくれるのは、シチューやスープとして身体へ入った時だけだ。彼女は、皮膚に触れ、体の外からじんわりと温めて欲しかった。両親が最後に彼女を抱きしめたのは、もはや数年前のことだったから。
 野菜の世話をしていた折、迷い犬がやってきた。まだ子犬とおぼしきその毛玉は、毛の色が何色か分からないほど泥だらけである。くうんと鳴く声は細く、どうやら飢えているのだと、野菜しか心を許せる存在のいない少女にも理解が及ぶ。
 足下にそろりそろりと近づき、頭を下げて尾を振る様に少女は心を掴まれた。孤独であった世界にやってきたその毛玉が、自らの目を見ながら「助けて欲しい」と、縋ってきたように思えたからだ。
 彼女は無意識に、毛玉を抱き上げていた。泥でカサつき固まった毛の奥に、温かい皮膚があった。自らの体温よりも幾分高いその熱が、誰かに包まれたいと考えていた彼女の冷えた心を溶かした。反対する両親を押しきり、彼女は子犬を友人として家に迎え入れる。
 数か月を共に過ごした後、毛玉の友人は鳶に攫われ、そのまま二度と帰ってこなくなった。
 まだ彼は子犬で、放し飼いをするべきではなかったし、柵にきちんと繋いでおくべきだったのだ。毛玉の彼が彼女に懐き、雨を凌げるひさしの下に居ついていたから、それで良いと思ったのがいけなかった。

 両親に夜ごとなじられ、責められ、罵られている間、彼女は悟る。
 自らの意思を持ち、選択をすると、責任が発生する。イーガのために存在する一団員たる自分は、何かの責任を負えるような立場にない。子犬の命ですら荷が重い。自分は何かの責を背負う立場なのではなく、自らが、誰かに背負われる立場なのだと。
 こうして彼女が17の成人を迎える頃には、意思を持たぬ傀儡と成り果てた。
 両親の望み通り、そして幼少期からつぶさに思い描いていた通り、彼女はカルサー谷の間にある本拠でイーガの団員として従事するようになる。
 初めて仮面を常態する生活になって、戸惑う同志がたくさんいた。その中で、彼女は村にいる時分より面に慣れていた甲斐もあり、苦も無く隠密の生活に溶け込めた。新人とは思えぬ隙のない振る舞いに、配属先は精兵が集うと言われる隠密部隊に決められた。
 血と泥にまみれる毎日に多くの新人がやつれる中で、彼女の生活は今までと変わらない。父と母という皮を被った上官が、幹部に変わっただけ。叱責され、監視され、怒鳴られることは無くなれど、自らの繰り手がいることに彼女は慣れきっていたのだ。


「今度の休み、一緒に飯でも食いに行かないか」


 イーガの一団員として生活する内、一人の男から声をかけられ、彼女は「かしこまりました」と二つ返事を返した。
 なぜなら、声をかけてきたのは、自らが所属する隠密班の幹部。上官の命令は絶対、と厳格な両親から言い聞かせられていた彼女に、断るにべはなかったのだ。ただ聞かれたから、イエスと答えるまで。
 幹部はその途端に拳を握り、ひどく上ずった声で「楽しみにしてるな」と残して去っていった。
 彼女には分からなかった。彼がなぜ、いつもの穏やかな声色とは程遠い堅い声で話しかけてきたのか、なぜ落ち着かないように手を揉みながら自分の返答を待っていたのか、なぜ立ち去る両脚が慌てたように素早かったのか。上官の令につうと言えばかあと応えたまでの彼女には、彼の心情に思い当たるふしが一切ありはしなかった。

 その日がやってきた。素性を隠すため、冒険者の扮装をして二人は砂漠へ降り立つ。
 イーガは単独での業務が多いから、上官と二人で行動を共にすることなど滅多にない。
 彼女はそれでも、普段と同じように周囲への警戒を怠らず、ただ黙々と黄金の砂漠を踏みしめ行く。彼も同じく黙々と彼女の前を行く。彼女と彼とでは言葉を発さない理由が違うことに、二人は全く気付かない。
 目的地は、アジトからもっとも近い巷であるカラカラバザールだった。
 どこまでも続く砂地に湛えられた水場を中心に、ゲルドの民が癒やしの場として発展させた歴史がある場所である。女傑・ゲルド族が住まう街までの休息場としても活用されており、多種族がのんびりと緑地に腰を下ろす様は、種族間のいざこざや、厄災への懸念を感じさせない穏やかさが漂っている。

街に唯一存在する飯屋では、意思無き傀儡である彼女の代わりに、彼が気を利かせて料理を注文してくれた。

「スパイシー焼肉がイチオシらしい。食べるか?」
「はい、いただきます」
「ここら辺の名産といったらやっぱり果物だ。蒸し焼き料理もいこうか」
「はい、いただきます」
「せっかくだから飲もう!酒飲めるよな」
「はい、いただきます」

 彼は良く喋った。幹部役にしては若く、親しみやすいともっぱらの評判であった彼は、ただ受け答えに徹する彼女に対しても愛想がよかった。
 叱責と厳しさを固めたような上官像しか持っていなかった彼女は、彼の気安さに閉口せざるを得ない。しかし、どんな相手だろうと上官である。粛々と応対する選択肢しか彼女には毛頭無い。
 酒を交わし、頬を血色良くさせた幹部は、いろいろなことを聞いてきた。イーガへ入団してどうだ。無理をしていないか。悩み事はないか。どんなところで育ったのか。親はどうだったのか。恋人や好きなやつはいるか。俺のことをどう思っているのか。聞かれたことはただ淡々と、全て正直に答えた。
 店の者が持ってきた料理を全て平らげる頃には、時刻は既に夜更けであった。冷えた風が窓から入ってくるのを感じ、いつまでこうしているのかと視線を遣った瞬間、幹部はしっかりとその瞳の意味に気付いたらしい。「じゃあ、そろそろ行くか」と呟いた声は少し名残惜しそうであったが、女はここでも「はい」と答えるだけだった。

 そのまま、二人はまた砂漠を歩き始めた。空にはぽっかりと半分欠けた月が浮かんでおり、いつもの如くゲルドの空には、宝石を散らばせたような星が瞬いている。
 しかし、その光だけで砂地を歩くのは覚束なく、実際に幹部の進みは、来た足よりも随分ゆっくりであった。酒を飲んだ所為でもあるのだろう。理解はできるが、ゆるりと進む合間に魔物に襲われでもしたら面倒だ。
 「幹部殿」と急かすつもりで声を掛けたのと、上気した顔で「綺麗だなぁ」と彼が振り向いたのは、ほとんど同時だった。
照れたように頭を掻く彼の表情が、この時彼女には不可思議だった。

「ごめん、どうした?」
「いえ・・・、このようにゆっくり進んでいては、魔物に襲われます」
「あぁ、確かにそうだな。星が綺麗で見惚れてた」
「いつも見る星と同じかと思いますが」
「俺には、いつもより随分綺麗に見えたんだ」

 次いで「一人じゃこうは思わなかったろうな」とぽつり呟いた言葉の意味が分からず、あとは黙った。

「俺は、お前を気に入ってるんだ。いつも真面目に業務に打ち込んでるだろ?まるでカラクリみたいに正確に」
「ありがとうございます」
「俺は結構いい加減なところがあるって自分で分かっててな、だから、いつでも冷静で、失敗なく任務を遂行する奴を見ると尊敬を感じるんだ。お前みたいな」
「恐縮です」
「入団してから、ずっと気になってた。男連中の間でも話題になってて、早くしなきゃって思ってたんだ。だから、ちょっと強引で申し訳ないんだが、その」

 喋りながら、それでもゆっくりと足を動かしていた幹部が、つと立ち止まる。女も合わせたように止まり、振り返った彼の、赤くなった肌を見た。その赤は決して酒の所為ではなかったわけだが、女にその理由を慮る気概など、持ち合わせているわけもない。

「付き合ってくれないか」
「はい、分かりました」

 二つ返事を返したが、幹部は真剣な面持ちから変わらない。一拍、二拍、と間が空いて、漸く脳に言葉の意味が届いたらしい。
 「え?なんて?」と首をかしげる彼に、「はい、分かりました、と言いました」と繰り返すと、苦い顔を返された。

「いいのか?急な話だ、きちんと考えて欲しい」
「考えるまでもありません。お受けいたします」
「それは、・・・お、お前も俺に好意があった、ということだろうか?」
「恐れ多いことです。駒如きが好意などと」
「いや、駒とかではなく、俺はお前の真剣な姿に、心を奪われてだな」
「何か、問題があるでしょうか」
「嫌なら断ってくれても良いんだ。俺は無理強いしたくない」
「嫌ではありません。断る選択などありません。上官殿の仰ることですから」
「上官が、じゃなくて、お前が実際にどう思ってるかで決めて欲しいんだ」

 女は弱った。「どう思ってる・・・」と口にしながら、そのままの質問を頭の中でも繰り返す。
 彼は上官で、上官が言うことは絶対である。上官に対して好意も悪意も存在しない。彼が右といえば右だし、是といえば是なのだ。上官の令こそが、イーガの、コーガ様の意思と同義。末端の構成員がその理由に愚考をめぐらす必要などないだろう。
 自らの意思を考え、伝え、それにより彼の令が果たされなかったら?かつて毛玉の友人が帰ってこなかったように、自らの意思が原因で取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったら?

 彼の真剣な瞳が自分を貫いている。同じく真剣な眼差しを返して、女は少し頭を傾げた。

「どうとも。これに私の意思は必要でしょうか?」
「・・・」

 彼は、唇を真一文字に結んだ。さっきまで見せていた上気した頬は既にないが、女は気付かず無遠慮に言葉を続ける。

「コーガ様のため、イーガのために生きろと言われて育てられました。私と貴方が付き合い、子を為し、イーガの繁栄を続けていくのは主も望まれることでしょう。断る選択肢などありません」
「イーガの繁栄とか、今はどうでも良い。俺は君の気持ちが欲しいって言ってるだけなのに」
「上官殿の提案に前向きです。これは上官殿の言う、気持ちではないのですか?」
「違う。上官とか幹部じゃなくて、君自身が、俺に対して好意があるかどうかを聞きたいんだ」

 彼女は分からなかった。上官でもなく、幹部でもなく、俺、とは。
 彼はイーガの幹部。自分の上官という以外に、なにをもって「俺」とするのか。
 
 「・・・よく分かりません」と小さく答えると、幹部は表情を変えずに「そうか、分かった」と呟いた。それから困ったように表情を崩して、曖昧な笑みを浮かべた。まるで無理やり口端を上げるみたいに。

「じゃあ、それでも良いから付き合って欲しい。付き合ってく中で、君に本気で好きだって思われるよう努力するから」

 彼女に断る選択肢はない。「分かりました、よろしくお願いします」と応えると、これからよろしくなと答えた幹部が、またゆっくりと歩き始める。女も合わせて、その後ろをついていく。
 砂漠の夜風はひやりと冷たくて心地よい。それは酒によって上がった熱を冷ますのにも丁度良い気温であった。しかしそれ以上に、指先足先がなぜか凍えるように堅くなっている。加えて、前を歩く彼の背中がどうにも小さく見える。
 このときの彼女にその理由なんて、到底分かるわけがなかった。






 その日から、なにかと自らの上官が、甲斐甲斐しく女の元へやってくるようになった。
 隠密から帰ってくれば、いの一番に出迎えられて、「おかえり」と穏やかな声で労ってくれる。上司ゆえに彼女の行動を把握しているからこそ為せる振る舞いで、都合がつく日は、そのまま食事を共にとることが定番となった。
 相槌しか打たない彼女に対し、やはり彼は健気にも積極的に話を振った。自分のことばかり話すのでなく、彼女にも良い塩梅で質問をして、お互いの情報をほどよく交換する。
 それによれば、どうやら彼も彼女と同じく両親をイーガに持つという。とはいえ、共通点はそれだけだ。
 友人も多く、虫取りが好きで、活発に過ごした少年時代。上に年の離れた姉がおり、両親と姉からよく世話されたと恥ずかし気に話す。隠密技術の鍛錬は厳しかったが、愛を感じる家族からの手ほどきに、文句や反意はなかったとも。

「コーガ様のため、イーガのために尽くせよ、とは俺の両親の口癖だった。だから君の出自も、多少は理解できると思う」

 彼はこう話すが、全く共感のできない経験の数々に、彼女は過去が後ろめたくなった。

 幹部の話を聞くのは、何も本人からだけではない。彼は若く、才があり、誰に対しても分け隔てなかったからだ。
 女部屋に居ると、彼に対する噂話が聞いてもいないのに耳へ届いて来る。

「隠密班の幹部さん、素敵だよね・・・」
「明るくて、気遣いができて、かっこいいし」
「私、隠密班に所属したら好きになっちゃうと思う、たぶん」

 どうやら自らの上官は、男としても魅力的で、数多の異性を引き寄せているらしい。
 「この前、弓矢の鍛錬をつけてもらった」ともったいぶって話す構成員に、きゃあきゃあとその場が色めき立つ。 彼女はそれを布団の中から聞くだけで、特に興味も情感も沸かなかった。頭の中にあるのは、眠気を追い払う彼女たちの口元に、どうか錠がかかりますようにということだけである。

 夕餉を食べている際中、彼女は女部屋での出来事を彼に伝えた。

「寝床の女性たちが、貴方の話をしていましたよ。とても素敵で、好きになってしまいそうだと」

 彼女にとってそれは、何の気なしに呟いただけで、特別な意味などない。彼が気を遣って口を回してくれるから、ひとつこちらからも情報を提供しようかと思ったまで。
 ただ、幹部は彼女が想像しているよりも、そわつく様子を見せる。

「そ、そうなのか。嬉しいけど、まぁ、俺には必要ない評価だな。だって君がいるし」
「あれだけ女性陣に好かれているのであれば、何も私にこだわる必要もないのでは?私は部下として優秀な自覚はありますが、女としての魅力があるとは思っていません」
「本気で言ってるのか?君が好きだと言ってる、俺の前で」
「はい。だって貴方も最初、私の冷静さと完璧さに憧れると仰ったではありませんか。それは女性の魅力と程遠いはず」
「じゃあ改めて君の好きなところを挙げていくよ」
「それに意味は無いでしょう。改めるなんて」
「いや、聞かせるね。第三者から聞いた自分の魅力を把握すれば、隠密の任務に役立つはず。客観視は重要だから」

人差し指を立てて説明する彼に、彼女はすんなり納得した。「ではお願いします」とだけ伝えると、幹部は得意げに腕を組んでみせる。

「冷静で、真面目で、カラクリみたいに正確なところが魅力的、と前に言ったろ?あとは、理性的に物事を分析できるところとか、知的で飾り気のない言葉遣いも素敵だ」
「ありがとうございます」
「物怖じしないところも好きだ。新人の多くはコーガ様を前にすると萎縮するもんなんだが、君はいつでも堂々と任務報告をしてて惚れ惚れする。これぞイーガの模範、って感じで」
「ありがとうございます」
「ご飯の食べ方も綺麗だよな、魚の骨だけ残して身が一つも残ってないのを見てびっくりした。俺は上手に食べられないから、きっとご両親にしっかり育てられたんだろうなと思った」
「ありがとうございます」
「あとは、変装してても、君の瞳が美しくて吸い込まれそうになる。宝石みたいで、静かで、凛とした瞳。俺だけを見ていて欲しくなるんだ。あとは、細くて柔らかい指先も素敵だ。俺にたくさん触って欲しいと思うほど、魅力的で、こっちからも、触れたくなる」

 言葉を徐々に潜ませながら、幹部は彼女の指先を恭しく下から掬い上げた。仮面を少しだけ持ち上げて、荒れた指先に小さく口づけをする。
 薄い唇に触れた瞬間、その柔らかさと温かさに、女は目を見開く。そのまま彼の頬へ指先を誘われ、上から大きな手の平で包み込まれた。
 触れた頬はひどく熱く、手の平は汗で湿っぽい。彼の脈動も一緒に伝わってきて、それは信じられないほど早かった。何も言えずに押し黙っていると、彼の空いた片手が女の仮面を滑り取っていく。

「・・・君はいつでも冷静なんだな」

 苦笑いの声。彼の言っている意味に見当もつかない女は、ただ眉尻を下げることしかできなかった。


 彼と自分は恋人同士だという。しかし彼は、女にそれ以上の口づけを施すことをしなかった。
 まるで試すように頬へ触れたり、頭を撫でたり、きゅっと軽薄に手を繋いだり。そんな微かな触れ合いをしては、その度に仮面を剥いで、真正面から瞳を覗き込む。そしていつも困ったように「これでもだめかぁ」と自嘲する笑みで、小さく肩を竦めてみせるのだ。
 彼女といえば、なにがだめなのか、彼が自分に何をしてほしいのかが分からない。残念そうな声を聞く度に「不思議な人」だという印象が強くなり、同時にざわざわと居心地の悪くなる感覚を味わった。


 ある日、外回りから帰ってきた彼が、花を摘んできた。
 五枚の花弁は白く縁どられた空色で、日を浴びるとそれ自体が発光しているみたいに輝き、まるで野草とは思えない高貴な印象がある。ハイラルの大地を歩くようになって久しいが、今までにこんな花を見た記憶はない。
 彼は、「ヒメシズカ」という名前で、絶滅危惧種の珍しい花なのだと女に教えた。

「君に似合うと思って摘んできたんだ。この辺りではまず生えない花だから」

 女に、花を愛でる趣味はない。それどころか、雄大な大地や季節の移ろいといった、感性にしみじみと染み入ってくるものに興味がなかった。何故かと言えば、隠密の道に不必要だと聞かされ、育てられたからである。
 もっとも最近は、外回りをする度に彼は土産話をたくさん聞かせてくれるので、多少なりとも理解が深まっている。最初こそとりとめもない景色の話に、上役の発言だという以上の意味を見出せなかったものだが、彼を通して語られるこの世界は酷く美しく、面白く、興味深いものだった。同じ物を見て、触って、感じているとは到底思えない。

 その彼が「綺麗だろ」と評しながら、自分に花を差し出してくる。
 女はまじまじと見つめた後、「綺麗です」と繰り返した。

「女性はとかく花好きが多いだろう。君はどうだ?」
「効能のあるものも多く、打倒王家には必要な薬効だと思っています」

 どうやら求めていた答えとは違ったらしい。彼は「薬効ねぇ」と肩を竦めて、女が身に着ける仮面のベルトに花を挿し込んだ。

「薬効じゃあないが、花は人を癒す効果もあるぞ。やっぱり君に良く似合ってる」
「これで私が癒やされているとは、到底思えませんが・・・」
「君に似合ってるのを見て、俺が癒されてるんだ」

 つと呟かれる彼の言い訳がましい言葉に、女は素直に「ならば良かったです」と頷いた。
 顎に手を当て、女と花の組み合わせをまじまじと見つめた後、幹部は何も言わず、ベルトの隙間から花を抜き取っていった。躊躇もせずに、自らの髪の毛に花を挿し入れて、「ほら」と彼女に見せつける。

「俺には、似合ってるか?」

 ぴょん、と飛び出す髷に可憐な花が沿う様は奇妙だ。ただその姿を見て、摘んできた花を頭に散らす数人の子供の画が、ふっと頭に映し出された。
 それは自分ではなく、はるか昔に遠目で眺めていた村の子供達の光景。甲高い笑い声と、いつまでも終わらない遊びの応酬、完熟を迎えたトマトのような赤ら顔。
 おどけた様子を見せる幹部の振る舞いに、それらの光景と、彼らを羨ましく見るだけだった悔しさが、色鮮やかに蘇る。
 正直、雄々しく身体を発達させた大の大人が、花一つではしゃいでいる様子は、似合っていると言い難い。
 返答に詰まって、女は「・・・花が乗ってるな、とだけ」と言葉尻を濁らせた。

「笑ってくれるかと思った」
「幹部殿を笑うなんて、とても」
「笑って欲しかったんだ、俺は」

 花を彼女に返しながら、幹部はまた、困ったように口端を持ち上げる。
 その声と、愛おしげに女の頭巾を撫でる丁寧な手つきに、彼女はなぜだか胸がくっ、と痛くなった。
 と同時に、自己嫌悪の気持ちが胸の底からじわじわ滲み出てくるのを感じとっていた。


 この頃、甲斐甲斐しくやってくる彼の存在が、彼女にとって少々の重荷になっていたのは間違いない。
 どれだけ彼から愛の言葉を囁かれようとも、充分に応えられない自分。そんな女などすぐさま見限れば良いのに、長い外回りから帰ってくると、彼は必ず女の元へやってきて「早く会いたかった」と笑みを零すのだ。
 会えない期間がどれほど寂しかったか。美しいハイラルの景色を前にして、一緒に見られないのが残念だと思ったか。
 あと何日で会えるかを指折り数えて、寝る前には決まったように女の顔が浮かぶのだと話す。健康を祈り、そうして毎日、瞼を閉じるのだと。

 上司たる彼は、自分の気持ちが欲しいと言った。感謝は伝えている。自分なりの意見も。
 ただ、彼とは違い、会えなくて寂しいと思うことも、寝る前に顔が浮かぶことも、会えるまであと何日かを数えることも全く無いのだ。
 「君はどうだった」と聞かれる度に、ちくりと胸が痛む。アジトを出てから業務を終え、帰ってくるまでの話を淡々と説明して、彼の持ち上がった口端を後ろめたく眺めた。

 自分はきっと、彼の、幹部役のお眼鏡にかなう人間じゃなかったに違いない。いつも寂しさの滲む表情をさせてしまう自分は、イーガでの存在意義を失ってしまうに違いない。イーガの、上司の意思を汲むことも出来ない傀儡に、ここでの居場所など無いのだから。
 だからこそ、せめてとばかり彼の命令には完璧に従いたいと、強く心に誓ってしまった。
 その誓いが、結局彼を追い詰めるとは、露とも思い至らない。


「・・・君は本当に、上官の言うことだったら拒否しないんだな」


 夜を主戦場とする隠密の輩なりに、一人残らず出払った夜の共寝所。
 彼から言われたのは、「湯浴みを済ませて、男部屋に来てくれ」という命令。彼女は何一つ疑いもせず、指示通りの状態で、壁際のベッドに座る彼の元へやってきた。
 指示を出したのは彼のくせに、彼女が何の遠慮も無しに男部屋へ入ってきた途端、苦笑いを零した。その神妙な声色は、命令通りではダメだったことを彼女が悟るのに十分だ。
 肩を縮ませ、背中を丸まらせる筋骨隆々の男の姿を、彼女は今まであまり見たことが無かった。

「まさか本当に、男部屋に来るなんて」
「・・・そういう命令だったはずでは」
「命令が正しいかどうか、考えたりしないのか?俺の言うことだったらなんでも正しいのか?」
「そうですね、現に貴方の言う通りにして、間違ったことがありませんし」
「・・・自分の優秀さが嫌になるな」

 幹部は喉奥ではっきりと自嘲した。

「今ここで服を脱いで裸になれ、って言っても、拒否しなさそうだ」
「はい。ご命令とあらば」
「本当に?嫌だと一分も思わずに?」
「私は、幹部殿の令に従うだけです」

 彼女の言葉に狼狽えや不安は一切滲んでいない。凛とした芯のある言葉を聞いて、幹部は考え込むように両手で顔を覆う。
 暫くそのまま微動だにしなかったが、「脱いでくれ、今すぐ」という言葉。仮面越しのくぐもった声でも、彼女の耳にははっきりと届いた。
 聞くや否や、女は逡巡も見せずにその場でイーガの装束を取り払っていく。頭巾を脱ぎ、上衣も、袴下も、その下に纏っていた肌着も、全て。
 胸当てと下穿きだけを残し、イーガへ来てから随分傷だらけになった白い素肌を、彼の前に晒した。
 幹部がぎし、とベッドを軋ませながら立ち上がる。裸に近い姿の彼女を上から見下ろし、おもむろにイーガの仮面を攫っていく。顔すら彼に素を晒し、それでも女はいつもと同じように平易な表情のまま、彼の動かない面の瞳を見上げるだけだった。

「下着も、全部」

 この先は、彼女にとっても恥ずべき、秘めやかな場所である。今まで誰にも見せたことが無い姿だ。それを、大人の男に見せる。
 そしてきっと、親から聞かされたことも無い、二人だけの任務をおこなう。
 行燈の灯を逆光にした彼の陰の中で、彼女は胸当てに手をかけた。なぜだか手が震えた。はらりと脱いだ先にあった自らの胸が、呼吸に合わせて上下している。酷く他人事に思えるが、その胸はまがうことなく自らの乳房であり、それが晒されて小さく震えていると自覚して、徐々に呼吸が浅くなった。
 傷だらけで、寒さに粟立つ肌表面や、可愛げのない突起、呼吸の動き一つひとつさえ、彼にはっきり見られている。日の元を避けて生きてきた白い肌が、うっすらと桃色に色づく。ただの駒で居たいのに。熱を帯びていく身体に気付かれたくなくて、続けてすぐ様、下穿きへ手をかける。
 そうして随分時間はかかったが、女は命令通り、一糸纏わぬ姿になった。
 唇を結び、彼を凛とした瞳で見返す。胸の前で合わせたい拳を、懸命に体の横で握りながら。

「このまま君は、俺に抱かれる」

 彼の大きな手の平が頬を包み、それからゆっくり、下へと滑っていく。

「身体中に口付けをして、俺の証を刻み込む」
「はい」
「なんにも知らないこの身体に、快楽を教え込む。君すら見たことない場所を、俺に開け広げにする」
「はい」
「無理やり俺の陰茎を中に押し込んで、勝手に抜き差しをして精を出して、俺の子を孕んでもらう」
「はい」
「これで子を宿したら、君の人生は俺のものになる」

 呼吸で萎んだり膨らんだりしている胸の中央を指先が通り、傷と痣のある腹を摩られ、強く湾曲した細い腰へと到達する。
 沿う指先は熱かった。熱が身体を滑る度、連なった線がこそばゆい痺れに変わって、身体中に伝播していくようだった。
 こうまで低くて、真剣で、無機質な声は、今まで二人きりで過ごす間に聞いたことが無い。業務中でさえ、温かい綿のような柔らかさを失わない人だった。目線を合わせて屈み、しっかりとイーガの仮面で覗き込まれると、その木の面に隠された鋭い視線に射抜かれて、胸の深いところがぎゅう、と縮まっていく感覚がある。
 耳元に唇を寄せて、「いいな?」という了承の確認。彼女に反対の意思はない。
 ただ、どうにも上がってしまう息の所為で、「わかりました」と答えた声は、頼りなく揺れる。まるで泣く直前、抑制が効かなくなったみたいに。

「俺はずっと我慢してた。生娘だって容赦しない」
「構いません、幹部殿の好きになさってください」
「そうだよな、上官の命令だもんな」
「はい。貴方は幹部で、私はイーガを形作る傀儡です。指示に従います」
「俺が、幹部で、君は、構成員だから」
「イーガの女として、正しい道です。幹部殿の子を為すため、抱かれるならば」
「違うッ」

 唐突に、彼が腰に添えた指先に、くっと力が籠った。

「そんなのは正しくない」

 それまでの無機質さが姿を消し、かといっていつもの穏やかさもない。
 それは酷く悲しげで、痛々しい声だった。

「正しくないんだよ・・・」

 幹部は縋るように項垂れた。頭巾が形作る陰の中、すまない、と小さな声が聞こえる。それもまた、聞いたことが無いほど悲しげで、弱弱しい。
 鍛え上げられた腕に包まれ、強く力を込められる。気配を殺して生きる隠密にしてはあり得ないほど、吐息の音が耳につく。熱そのもののように思えた指先から、徐々に体温が無くなっていくのが分かる。
 でも、初めて抱き留められる太い腕に、押し付けられる筋肉質な胸板に、どこか気持ちが落ち着いた。同時に、鼓動の音がうるさくなった。自分でも驚くほどの脈拍で、押し付けられた胸板の拍動も同じくらい早くて、それにも驚かされた。
 この暖かさには既視感がある。昔に帰ってこなかった友人の暖かさと、瓜二つではないだろうか。まるで自分の冷めきった心まで、穏やかな日の光で溶けていくような暖かい心地よさ。

 無意識に瞼を伏せて、彼と自分の熱が分かち合うのを感じていれば、彼の腕がおもむろに離れていく。何も言わずに見返すと、ベッドのシーツを広げた彼に、頭からくるまれた。もうこれ以上傷つかないようにと、布でガラスを包む手つきに酷く似ていた。
 しかし、女へ見せた柔らかさとは裏腹に、幹部は寝具台へ脱力したように座り込む。深く息を吐きながら、荒々しく両手で顔を覆った。
 その面の奥に、深く刻まれた眉間の皺や、強く閉じられた瞼があることなど、女には知る由もない。 

「・・・すまない。今日は、もう寝よう。部屋に戻ると良い。呼び出しといて申し訳ないが」

 精一杯の穏やかな声に内包されたのは、隠しきれない遣る瀬無さだ。その声には、後悔がはっきりと滲んでいた。
 彼女は人の機微に疎いが、それでも幹部が、自分の所為で背中を丸めるに至ったことは分かっている。
 上官を悩ませた責任を取るべきだろう。いやそれ以上に、そんな姿をして欲しくない。どうにかしたかった。しかしどうすれば良いのか分からない。それまで身体の横で握っていた拳で、彼を摩れば良いのだろうか。
 傀儡たる一団員が、繰り手である幹部役を?
 すかさず割り込んでくる常識が、伸ばしかけた指先を押しとどめる。そうしてまた、ゆっくりと体の横に収める。
 シーツの陰で最低限の装束に袖を通し、彼女は彼に頭を下げてから、静かに部屋を後にした。


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