【完結済】イーガの男は忘却女の首を刈れるのか?
布団で寝息を立てる女に跨り、首にクナイを宛がったとき、目を覚ました彼奴の反応はやけに鈍かった。新月の晩。月の灯りさえ無い完全な闇が支配する中で、突如として降って沸いた死の瞬間だろう。しかし女はまどろみに抗いもしない様子で、薄く開いた瞼の隙間からこちらを覗くだけだ。
寝ぼけているのか、と考えた。しかしそうではない。闇に慣れた瞳には俺が映り、しっかと状況を認識している様子も見て取れる。
いや、それでなくとも、跨られれば一切抵抗もできないだろう体躯の差だ。知らない大男から、月のない夜に、跨られている。通常の女なら、言葉にならない声で喚くか、声も出さずに泣くかだ。貞操の危機すら感じていないこの女の反応には、いささか覚えがない。
このまま刃に体重をかけるか。逡巡の刹那、女の口端がゆるりと持ち上がって紡がれたのは、「こんばんは」と、およそこの場に似つかわしくない穏やかな挨拶だった。
「初めまして。何もお構いできませんが」
「随分余裕だな、この状況で」
「どういう状況です?」
「死の間際だ。分かるだろう、首に宛がう刃が」
「私、なにかしましたか?」
「・・・覚え無きことで死ぬのも歯痒かろう。冥途の土産に聞かせよう」
それは酔狂な気まぐれだった。恐怖もなく、この場の理解もしていない目で見返され、女を少し気の毒に思ったまで。俺は命を奪いに来た理由を女に語って聞かせた。
といっても、あまり褒められた内容じゃない。俺は、俺のヘマを返上するためにここへ来ていたのだ。
俺は、神の住まう土地と言われるハイラルに居ながら、神の血統筋と言われる王家転覆を狙う隠密集団「イーガ団」に所属しているしがない暗殺者である。
一週間ほど前に、唯一命の誓いを立てるイーガ団総長・コーガ様から、とある人間の暗殺業務を言い渡された。正直、なんてことはない日常業務である。もう何年もイーガに身を置いている俺としては、全く難しくない仕事のはずだった。実際、暗殺自体は滞りなく捗った。
問題は、その後だ。やはり新月の晩だったが、人気のいない林の中での暗殺業務だったから、人目への意識が疎かになっていた。物となった目標の後処理をしているとき、ガサリと、背中の方で林を揺らす音がした。
振り返ると、一目散に駆けていく人の影。暗殺の現場を見られたと理解するのは一瞬だった。俺は咄嗟に遺体へ出来る限りの葉を重ね、走る背を追った。
しかし、いくら我々が闇に生きる隠密で、暗がりに目が慣れていたとしても、木の根が蔓延る闇の中を全力疾走などできぬ。その点、恐らく逃げる人影は地の利があったようだ。林から平原へと抜ける頃には、その人影が近場の馬宿に駆け込んでいくのが見えた。
事情を話し、人を引き連れてこの場へ戻ってくるだろう。俺は風の如く舞い戻り、暗殺の形跡を全て掻き消した。本当であれば野生動物に供えるものを、仕様が無いので遺体は川へ流した。海が近い地域だ。きっとそのまま誰にも見つからず、藻屑に変わるだろうと確信があった。
その後、松明を手に数人の集団がやって来る。俺の見込んだ通り、様子を見に来たのだろう。しかし何もないことを悟り、どうやら件の人間は、随分責められているようだった。
「本当に、ここで見たんです、大男が、人の首を撥ねているところを!」
「そもそもこの暗がりで、そんな光景が見られるわけないんだ」
「これだから身寄りのない女は・・・」
「本当なんです、信じて・・・!」
悲痛に叫ぶのは、確かに女の声だ。そして確信した。この女は、はっきりと暗殺の現場を見ている。
周囲にその事実を信用されていないのは僥倖だった。松明が徐々に平原へと帰っていく。女も一緒だろうか、と思ったが、気付いた時には女の姿が消え失せていた。
一度ならず、二度までも失態。まさかヨロヨロと集団の後を付いていくだけの女を見落とすなど、まったくもって考えていなかった。辺りを歩き回っても、影も形も見えない。
参った。今回首を落とした目的は城から派遣された騎士の一人。この辺りの地方を取り仕切る人間だ。女が明日にでも暗殺の事実を城の人間に伝えれば、ゆるゆると削いでいた戦力が増強されてしまう。女の口を封じるために、俺は行方を追った。
そしてつい昨日だ。漸く女の家を突き止めた。
いつ騎士隊に連絡されるかと警戒していたが、女はどうやら出歩かなかったらしい。殺しの瞬間を見たのだ。騎士隊に連絡することよりも、この女こそ辺りを警戒し、息を潜めていたに違いない。
今日は丁度、月の無い晩。俺は満を持して、寝首を掻くために女の家へとやってきた、というわけだ。
「はぁ、そんなことがあったのですか」
一通り語って聞かせた女の反応は、あまりにも薄かった。
これから殺すという話をしているのだが、いまいち自覚が持てない様子。俺は他人事ながら拍子抜けする思いで、要領を得ない女の顔へ迫った。
「そんなこととは、あまりにも他人事。お前のことだと理解しているのか、いないのか」
「理解はしました。納得も。しかし、覚えと言われれば、いまいち」
「馬宿に駆けていき、夜というのに喚き散らしたあの出来事を、よもや忘れたというんじゃないだろうな」
「ええ、そうですね。記憶にありません」
「そのような戯言、記憶喪失でもあるまいに」
「・・・」
「え、本当に?」
信じられない。しかし、今度は女が静々と語り出した。
気付いたら朝露に濡れる林の中で寝ており、一切合切を忘れていた。自分の名前も、境遇も、なぜ寝ているのかも、ここがどこなのかも。
フラフラと歩いていたら、集落の住人に話しかけられた。相手は自分を知っているようだったが、自分は覚えておらず、とにかく自分の家へと案内された。困ったときだけ頼るようにと釘を刺され、住人は去っていった。余所余所しい雰囲気で不思議だったが、どうやら自分は集落のお荷物であったらしい。
記憶を失う前の自分は意外とマメな性質だったらしく、机の上には日記があった。
それを見て、両親は居らず天涯孤独、燃えるような真っ赤な髪を気味悪がられ、村民とは没交渉、庭の畑仕事で得た野菜を売りに出し、なんとか生計を立てている人間だと知った。
「日記を読んでも、他人の人生みたいで、いまいち自覚はありませんが」
机の上を見ると、確かに日記が開いたままになっている。刃を向けたまま女の上から降り、注意を払いながら日記を手に取った。月光も無い暗がりではあるが、中にはびっしりと、几帳面な性格を思わせる小さい字が書きこまれているのが見て取れた。頼りない星光を頼りに文字を追い、断片ながらも女の語った境遇は間違っていないようだとも分かる。中には思わず目を疑うような残酷な出来事までも記載されていた。
集落民が「困ったときだけ頼るように」と釘を刺した話は、日記に記された過去の仕打ちを考えれば合点がいく。
「あまり、良い人生ではなかったようですね」
瞼を伏せて見せたが、その声もどこか他人事に聞こえた。淡泊で、まるで自分には関係ないと言い切っているようだ。
更にパラパラとページを読み進めるが、確かに彼奴の言う通り、良い人生ではなかったらしい。日記というには、あまりに恨みつらみが多すぎる。感情の吐露先だったのだろう。この日記は女の陰を一身に受け止めていた。
なぜ、そうまで劇的な人生を一切合切忘れているのか。察するに、暗殺現場を目撃した恐怖が原因で、記憶を失ったのではなかろうか。あまりに強い心的外傷は心を壊しかねないので、身体が勝手に均衡を保とうとするのだと聞いたことがある。その防御反応で、一時的に記憶を失い、衝撃から身を守るのだと。
日記をパタンと閉じ、未だ布団で寝たまま俺を見上げもしない女を、頭上から見下ろした。
「口封じしたいのですよね、どうぞ、殺してください」
「なぜ、そこまで他人事なのだ」
「私の今までは酷く暗く、記憶を失い、頼る場所もありません。人生に絶望した故です」
「まだ若いだろう。記憶や人づてなど、これから作れば良いとは思わんのか」
「だからって、あまりに険しい道でしょう。まず貴方をどうにかしなきゃいけないし」
「そうだとしても、命を投げて良い理由にはならん」
「・・・貴方、私を殺しに来たのでは?なぜ、手をかけないのです」
問いはもっともだ。このような問答など不要だった。イーガの不文律を考えれば、危ない芽は摘むのが鉄則。己の失態を同志に悟らせないためにも、ここで手を下した方が、イーガのためにも、俺のためにもなるだろうことは分かり切っている。
しかし、俺には迷いがあった。既に女は、記憶を失い、殺人の現場を覚えていない。今まさにぬけぬけと喋り、上塗りした失態故に殺すのか?女を巻き込んで。
加えて、女の達観した様子にも腹が立った。
地を這い、泥をすすり、脛に傷のある人間を集めてどうにか生きながらえているイーガを前にして、殺してくださいだと。
俺たちは世情から弾かれ、情けなくも生になんとかしがみ付き、汚れ仕事もなんでもやって漸くこの世の隅に居場所を得ているというのに、こいつは自身の家を、帰るべき居場所を持ちながら、死んでも良いと言っているのか。俺の目の前で。
殺されても良いと言われれば、むしろ殺したくないと思ってしまうものだ。俺は右手に携えていたクナイを腰ベルトへと戻した。
「殺す理由に足りない」
それまで薄く開いていた瞼が微かに開き、きょとんと間抜けな反応を返された。今までの中では一番、人間じみた反応だった。
「記憶を失い、殺す理由がない以上、手をかけられん。しかしこのまま野放しにもできない。俺と共に来い。いや、来てもらう」
咄嗟に思いついたにしては、上出来な結末だろう。イーガは脛に傷のある者の寄せ集め。天涯孤独の身で記憶をなくし、加えて集落民にも疎まれているのであれば、こいつも似たようなものだ。葬るよりもよっぽど、引き入れた方が片付けやすい。
何より、イーガという闇に身を賭すことに、目の前の女は抵抗なく受け入れるだろうとも予感があった。何せ、死さえ抵抗なく受け入れて見せたのだから。
「いいですよ。私には、何も無いので」
期待通りの応えを聞いて、俺は寝たきりのまま差し出された女の手を引いた。その手は、ちゃんと人並みに温かった。感情の抜け落ちた冷たい声音に表情だったから、その温かさにむしろ、人だったのかと安心した。
この酔狂な気まぐれが、この先に大きな転機となったことを、俺は一切気づいていなかった。
寝ぼけているのか、と考えた。しかしそうではない。闇に慣れた瞳には俺が映り、しっかと状況を認識している様子も見て取れる。
いや、それでなくとも、跨られれば一切抵抗もできないだろう体躯の差だ。知らない大男から、月のない夜に、跨られている。通常の女なら、言葉にならない声で喚くか、声も出さずに泣くかだ。貞操の危機すら感じていないこの女の反応には、いささか覚えがない。
このまま刃に体重をかけるか。逡巡の刹那、女の口端がゆるりと持ち上がって紡がれたのは、「こんばんは」と、およそこの場に似つかわしくない穏やかな挨拶だった。
「初めまして。何もお構いできませんが」
「随分余裕だな、この状況で」
「どういう状況です?」
「死の間際だ。分かるだろう、首に宛がう刃が」
「私、なにかしましたか?」
「・・・覚え無きことで死ぬのも歯痒かろう。冥途の土産に聞かせよう」
それは酔狂な気まぐれだった。恐怖もなく、この場の理解もしていない目で見返され、女を少し気の毒に思ったまで。俺は命を奪いに来た理由を女に語って聞かせた。
といっても、あまり褒められた内容じゃない。俺は、俺のヘマを返上するためにここへ来ていたのだ。
俺は、神の住まう土地と言われるハイラルに居ながら、神の血統筋と言われる王家転覆を狙う隠密集団「イーガ団」に所属しているしがない暗殺者である。
一週間ほど前に、唯一命の誓いを立てるイーガ団総長・コーガ様から、とある人間の暗殺業務を言い渡された。正直、なんてことはない日常業務である。もう何年もイーガに身を置いている俺としては、全く難しくない仕事のはずだった。実際、暗殺自体は滞りなく捗った。
問題は、その後だ。やはり新月の晩だったが、人気のいない林の中での暗殺業務だったから、人目への意識が疎かになっていた。物となった目標の後処理をしているとき、ガサリと、背中の方で林を揺らす音がした。
振り返ると、一目散に駆けていく人の影。暗殺の現場を見られたと理解するのは一瞬だった。俺は咄嗟に遺体へ出来る限りの葉を重ね、走る背を追った。
しかし、いくら我々が闇に生きる隠密で、暗がりに目が慣れていたとしても、木の根が蔓延る闇の中を全力疾走などできぬ。その点、恐らく逃げる人影は地の利があったようだ。林から平原へと抜ける頃には、その人影が近場の馬宿に駆け込んでいくのが見えた。
事情を話し、人を引き連れてこの場へ戻ってくるだろう。俺は風の如く舞い戻り、暗殺の形跡を全て掻き消した。本当であれば野生動物に供えるものを、仕様が無いので遺体は川へ流した。海が近い地域だ。きっとそのまま誰にも見つからず、藻屑に変わるだろうと確信があった。
その後、松明を手に数人の集団がやって来る。俺の見込んだ通り、様子を見に来たのだろう。しかし何もないことを悟り、どうやら件の人間は、随分責められているようだった。
「本当に、ここで見たんです、大男が、人の首を撥ねているところを!」
「そもそもこの暗がりで、そんな光景が見られるわけないんだ」
「これだから身寄りのない女は・・・」
「本当なんです、信じて・・・!」
悲痛に叫ぶのは、確かに女の声だ。そして確信した。この女は、はっきりと暗殺の現場を見ている。
周囲にその事実を信用されていないのは僥倖だった。松明が徐々に平原へと帰っていく。女も一緒だろうか、と思ったが、気付いた時には女の姿が消え失せていた。
一度ならず、二度までも失態。まさかヨロヨロと集団の後を付いていくだけの女を見落とすなど、まったくもって考えていなかった。辺りを歩き回っても、影も形も見えない。
参った。今回首を落とした目的は城から派遣された騎士の一人。この辺りの地方を取り仕切る人間だ。女が明日にでも暗殺の事実を城の人間に伝えれば、ゆるゆると削いでいた戦力が増強されてしまう。女の口を封じるために、俺は行方を追った。
そしてつい昨日だ。漸く女の家を突き止めた。
いつ騎士隊に連絡されるかと警戒していたが、女はどうやら出歩かなかったらしい。殺しの瞬間を見たのだ。騎士隊に連絡することよりも、この女こそ辺りを警戒し、息を潜めていたに違いない。
今日は丁度、月の無い晩。俺は満を持して、寝首を掻くために女の家へとやってきた、というわけだ。
「はぁ、そんなことがあったのですか」
一通り語って聞かせた女の反応は、あまりにも薄かった。
これから殺すという話をしているのだが、いまいち自覚が持てない様子。俺は他人事ながら拍子抜けする思いで、要領を得ない女の顔へ迫った。
「そんなこととは、あまりにも他人事。お前のことだと理解しているのか、いないのか」
「理解はしました。納得も。しかし、覚えと言われれば、いまいち」
「馬宿に駆けていき、夜というのに喚き散らしたあの出来事を、よもや忘れたというんじゃないだろうな」
「ええ、そうですね。記憶にありません」
「そのような戯言、記憶喪失でもあるまいに」
「・・・」
「え、本当に?」
信じられない。しかし、今度は女が静々と語り出した。
気付いたら朝露に濡れる林の中で寝ており、一切合切を忘れていた。自分の名前も、境遇も、なぜ寝ているのかも、ここがどこなのかも。
フラフラと歩いていたら、集落の住人に話しかけられた。相手は自分を知っているようだったが、自分は覚えておらず、とにかく自分の家へと案内された。困ったときだけ頼るようにと釘を刺され、住人は去っていった。余所余所しい雰囲気で不思議だったが、どうやら自分は集落のお荷物であったらしい。
記憶を失う前の自分は意外とマメな性質だったらしく、机の上には日記があった。
それを見て、両親は居らず天涯孤独、燃えるような真っ赤な髪を気味悪がられ、村民とは没交渉、庭の畑仕事で得た野菜を売りに出し、なんとか生計を立てている人間だと知った。
「日記を読んでも、他人の人生みたいで、いまいち自覚はありませんが」
机の上を見ると、確かに日記が開いたままになっている。刃を向けたまま女の上から降り、注意を払いながら日記を手に取った。月光も無い暗がりではあるが、中にはびっしりと、几帳面な性格を思わせる小さい字が書きこまれているのが見て取れた。頼りない星光を頼りに文字を追い、断片ながらも女の語った境遇は間違っていないようだとも分かる。中には思わず目を疑うような残酷な出来事までも記載されていた。
集落民が「困ったときだけ頼るように」と釘を刺した話は、日記に記された過去の仕打ちを考えれば合点がいく。
「あまり、良い人生ではなかったようですね」
瞼を伏せて見せたが、その声もどこか他人事に聞こえた。淡泊で、まるで自分には関係ないと言い切っているようだ。
更にパラパラとページを読み進めるが、確かに彼奴の言う通り、良い人生ではなかったらしい。日記というには、あまりに恨みつらみが多すぎる。感情の吐露先だったのだろう。この日記は女の陰を一身に受け止めていた。
なぜ、そうまで劇的な人生を一切合切忘れているのか。察するに、暗殺現場を目撃した恐怖が原因で、記憶を失ったのではなかろうか。あまりに強い心的外傷は心を壊しかねないので、身体が勝手に均衡を保とうとするのだと聞いたことがある。その防御反応で、一時的に記憶を失い、衝撃から身を守るのだと。
日記をパタンと閉じ、未だ布団で寝たまま俺を見上げもしない女を、頭上から見下ろした。
「口封じしたいのですよね、どうぞ、殺してください」
「なぜ、そこまで他人事なのだ」
「私の今までは酷く暗く、記憶を失い、頼る場所もありません。人生に絶望した故です」
「まだ若いだろう。記憶や人づてなど、これから作れば良いとは思わんのか」
「だからって、あまりに険しい道でしょう。まず貴方をどうにかしなきゃいけないし」
「そうだとしても、命を投げて良い理由にはならん」
「・・・貴方、私を殺しに来たのでは?なぜ、手をかけないのです」
問いはもっともだ。このような問答など不要だった。イーガの不文律を考えれば、危ない芽は摘むのが鉄則。己の失態を同志に悟らせないためにも、ここで手を下した方が、イーガのためにも、俺のためにもなるだろうことは分かり切っている。
しかし、俺には迷いがあった。既に女は、記憶を失い、殺人の現場を覚えていない。今まさにぬけぬけと喋り、上塗りした失態故に殺すのか?女を巻き込んで。
加えて、女の達観した様子にも腹が立った。
地を這い、泥をすすり、脛に傷のある人間を集めてどうにか生きながらえているイーガを前にして、殺してくださいだと。
俺たちは世情から弾かれ、情けなくも生になんとかしがみ付き、汚れ仕事もなんでもやって漸くこの世の隅に居場所を得ているというのに、こいつは自身の家を、帰るべき居場所を持ちながら、死んでも良いと言っているのか。俺の目の前で。
殺されても良いと言われれば、むしろ殺したくないと思ってしまうものだ。俺は右手に携えていたクナイを腰ベルトへと戻した。
「殺す理由に足りない」
それまで薄く開いていた瞼が微かに開き、きょとんと間抜けな反応を返された。今までの中では一番、人間じみた反応だった。
「記憶を失い、殺す理由がない以上、手をかけられん。しかしこのまま野放しにもできない。俺と共に来い。いや、来てもらう」
咄嗟に思いついたにしては、上出来な結末だろう。イーガは脛に傷のある者の寄せ集め。天涯孤独の身で記憶をなくし、加えて集落民にも疎まれているのであれば、こいつも似たようなものだ。葬るよりもよっぽど、引き入れた方が片付けやすい。
何より、イーガという闇に身を賭すことに、目の前の女は抵抗なく受け入れるだろうとも予感があった。何せ、死さえ抵抗なく受け入れて見せたのだから。
「いいですよ。私には、何も無いので」
期待通りの応えを聞いて、俺は寝たきりのまま差し出された女の手を引いた。その手は、ちゃんと人並みに温かった。感情の抜け落ちた冷たい声音に表情だったから、その温かさにむしろ、人だったのかと安心した。
この酔狂な気まぐれが、この先に大きな転機となったことを、俺は一切気づいていなかった。
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