【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
シビレリザルフォスの放電を受けた先生は、俺の腕の中で静かに横たわっていた。
焦げた頬に、半開きとなった唇、時折ビクビクと痙攣を続ける腕。まるで打ち捨てられたぼろきれだ。一つひとつに焦点が合わさるごと、視界が明滅するようにチカチカと瞬き、大きく打ち始める脈動の音しか聞こえなくなる。
焦るな。大丈夫だ。シビレトカゲの放電による一時的な昏睡状態は珍しくない症状であるし、見た目よりはるかに身体への負担は低いと、俺は知っているだろう。いくら肌を焦がし、艶やかな黒髪が燃えカスに変わろうと、つい先ほどまで彼女は勇ましく刀を振るっていたのだ。間近で受けたとて命に別状はないはず。
縮まった胸を押し広げるように、意識してゆっくり深く呼吸を繰り返す。そうすると、寒空に晒され、彼女の肌膚そのものは冷え切っていても、身体の芯には熱がしっかりと残っていること、穏やかに胸が上下していることが理解できてくる。大丈夫だ。彼女は生きている。
知らずの内に強張っていた身体が、まるで氷が徐々に溶けるかのように弛緩し、狭まっていた視界が広がっていく。やっと身体の奥にまで息が届いた最初の一声、堪らずに「先生・・・・・・!」と彼女を呼ぶと、それまで閉じられたままだった瞼が、呼応して薄く持ち上がった。
「ス、パくん・・・・・・?なんで・・・・・・」
「放電を直撃したでござる。大事なさそうだが、・・・・・・あまり無理めされるな」
「あの子・・・・・・、大丈夫だった・・・・・・?」
未だ虚ろな焦点のまま口へした内容に、すぐそこまで出かかっていた心配の声を飲み込んだ。
戦闘中のあの一瞬、彼女はおそらく、庇った弓兵の怪我や動けぬ状況を見抜いていた。そして、無傷の自分ならば一撃に耐えられると咄嗟に判断を下し、あの場へ札術で現れたのだ。自らが放電に焼かれることを覚悟して。
「・・・・・・大丈夫でござった」とだけ返すと、彼女は「そっか、良かった」と微かに表情を緩めてみせた。なにも良くないのに、その声にはひとつの後悔も滲んではいなかった。
彼女のやりきった顔を見て、はっきりと沸き上がったのは大声で責めたてたい衝動だ。しかしそれは、同時に思い起こされた過去の記憶によってすぐさま燻っていく。
泣いてはならぬと困り果てていた幼い時分。あの頃の俺に手を差し伸べてくれた彼女の笑みと、今の表情は同じであった。それだけじゃない。俺が初めて人を手にかけ、自分の道に惑ったときも、彼女は今みたいな優しい声で俺を導いてくれた。
彼女が自らの労を厭わず咄嗟に手を差し伸べられる人間だと、俺はよく知っている。なぜなら、俺こそが彼女の犠牲に生かされている。その俺が、彼女の行いを責める資格などあるわけもない。
何も言わないまま、俺は彼女の肢体を砂地へ厳かに横たえた。
今は彼女にだけ集中して良い時ではない。戦闘を終え、俺たち二人を遠巻きにしていた団員たちに振り返る。どこか不安気な表情で見守る彼ら一人ひとりの顔を見据えながら、安心させるつもりで深く頷いてみせる。
「皆の者、旅疲れの極限でよくここまで動いてくれた。予想外の敵襲には手を焼いたが、どうやら皆、大きな怪我無く対処遂行が叶ったようでござる。これより、帰途を再開する」
リザルフォスが集って座り込んでいたこの丘を越えれば、本拠は目の前だ。「気を抜かぬように!」と一声加えると、疲労や達成感で緩みそうになっていた彼らの表情が、改めて凛々しく引き締まる。
その様子を見届けてから、二人分の荷物を他の団員に預け、立ち上がろうとする先生の傍に寄った。
「貴女の荷物は他の団員に預けた故。残りの道中は、俺がおぶさっていくでござる」
「そ、そんなことまで大丈夫です、火傷したくらいなので」
「あ奴らの放電は身体に残る。麻痺の感覚がある中でカルサーまでの道中は、些か遠すぎるでござる。遠慮は無用、さあ」
それでなくとも、もう太陽は谷の影に落ちている。いくら命に関わるほどの一撃でなかったとしても、怪我をしたことには変わりないのだ。未だ納得できないように「ええと・・・・・・」と困惑する先生に問答無用で背中を差し出すと、躊躇する気色ではあったがしずしずと手が置かれ、やがて体重がかけられた。
ぴったりと背中に纏わりつく体表との接着面がじりじりと熱を持つ。放電の余波が移ったのか、はたまた彼女の火傷が移ったのか。ごめんなさい、と言いながら擦られる頬の形や手の形に、熱が疼きとなっていつまでも体表に残りそうだと考えた。
彼女の息遣いを背中越しに聞きながら、夕闇に沈む砂漠を進む。頼りになるのは、夜の準備として灯されたカンテラの火と、いの一番に目立ちだした、とりわけ明るい星々の明かりのみ。
集団の真ん中を位置取りながら歩いていたが、俺たちと彼らの間には少しばかりの距離が開いている。どうやら団員達が要らぬ気遣いをしているようだが、揃って気配を殺しながら歩くものだから、余計に俺と先生の二人だけで過ごしているような気になった。
体温を感じる距離感は、まるで幼少期に隣り合って座り、ただ眼前に広がる砂漠を指さしたり、空に散りばめられた星の話をした崖上を思い起こさせる。
崖上と違うのは、吐息のような声でも聞こえる距離にも関わらず、俺達は何も喋らなかったということだ。ただの一言も喋らず、ざっざっという冷えた砂漠の砂粒を踏みしめる単調な音を聞くだけの、なんでもない時間になった。
なにかを言えば、きっとどちらもそのままでは居られない。膨れ上がるほど一杯に張った水がたったそれだけの振動で零れ、二度と元には戻らないように。取り返しのつかない憶測が、確かに俺たち二人の間を取り巻いていた。
結局、谷へと帰還できたのは、煌々と明るい月すら頭上に上った夜半前だった。
砂漠の夜は、昼とは別世界と思えるほど気温が下がる。絶えず身体を動かしていたのにすっかり肌を冷やした団員たちは、守衛番に招かれて玄関をくぐったとき、その場に座り込む者もいるほど疲労の極限を迎えていた。
いつもは書庫にて文献と対峙する彼らにとって、体力・精神力共に限界であったのだろう。口々に漏れる言葉は疲れも緊張感もさることながら、一番に何事もなく業務を終えられた安心感の吐露であった。
「先生、一旦おろすでござる」
「はい・・・・・・」
それまでおぶさっていた先生に小さく声をかけて、彼女をその場へ下ろす。
結局、俺たちは道中で一言も言葉を交わさずじまいとなった。服越しに感じる身体の温かさと、微かな彼女の身動ぎだけを頼りに、今どんな表情をしているのか、何を考えているのかを慮りながら黙々と砂漠を歩いてきた。
彼女を隣で見続けていた俺には先生の胸が裂けるような想いを想像できる気がしていたが、結局それは全て思い上がりだと、後々思い知ることになる。
研究班員らの前で仁王立ちすると、俺が何事か言おうとしているのを察したのだろう。座り込んで天井を仰いでいる者も、談笑に耽っている者も、立ち上がって俺へと姿勢を正した。唇を結んで見せつけてくるその表情は、誰もが誰も、やり遂げた晴れやかさに満ちている。
「今日はひとえにご苦労であった。俺はこれからコーガ様へ報告に行くでござる。諜報の任に就く者には明日、個別に連絡を通そうかと思う。これをもって、此度の遠征業務を解散とするでござる。今日はゆるりと休むように」
解散、の締め文句と共に、団員たちが一斉に頭を下げ、今度こそ弛緩しきった談笑が始まった。ぞろぞろと廊下の奥へ連なり、岩壁に反響した賑やかな声の塊が徐々に遠ざかっていく。
「・・・・・・先生はすぐさま医務室に行ってくだされ。軽傷とはいえ、やつらの放電で火傷は必至でござる」
人の塊から外れ、その場には立ち尽くした先生が残っていた。
思いつめたような険しい表情に、何事か言いたいのだろうと検討もつく。この場から今すぐ立ち去りたい気を留め、半身で彼女に振り返った。
「聞きたいことがあります、スッパ様」
「何事を、でござるか」
「諜報員が誰になるのか、聞いても良いでしょうか」
廊下の奥から微かに聞こえる談笑の声を貫くように、その声は真剣で、微かに喉の揺れる音は、今にも堪えきれず泣きだしてしまいそうでもある。その心算を考えると、刃こぼれした刀に裂かれたような、じくじくとした痛みが胸に走る。
昼間に見た自信ありげな顔じゃない。彼女はもう既に、自らが切望した結果が叶わないと、分かっていたのだ。
「・・・・・・今は身体も心も疲れているはず。なにも、今でなくとも」
「今が良いです、今聞かせてください。・・・・・・お願いします、今が良いんです」
「それは・・・・・・分からぬ。全てはコーガ様が決めることでござる」
「だったら、お願いです。私が諜報へいけるようにスッパ様のお口添えを頂きたいのです。お願いします。お願いしますから」
深々と頭を下げた先生の黒髪が、痛々しく焦げているのが目に入る。小さく丸まった背中は、初めて見たときよりも随分小さく、頼りなかった。
行きがけの態度や、彼女が見せる任務への気概は、もはやある種の執着だ。それは決して讃えられるものではないだろう。自分自身にも覚えはあるが、大きな失態を犯す前触れだと思えて仕方がない。
「・・・・・・なにゆえ、そうまでして前線に行こうとするのでござるか」
そもそも彼女なら、なにも前線に行かずとも功をたてられる。知を生かし、策謀家としてアジトに残る手も残されているのだ。ひとつの失態が自らの命運を左右する場所に固執する必要など、どこにもない。彼女も分かっているはずなのに。
先生は頭を下げたまま静々と語り出した。
「今まで大した業務なんてしてこなかったので。・・・・・・内勤のままじゃ、武勲がたてられません」
「武勲だけが全てでは無いはずでござろう。現に、貴女は知識をもって、これからのイーガの道筋を紐解いた。それは今までの研鑽があってこそでござる」
「でも、何十年の研鑽が結んだ功など、その程度です。それより王家の首をひとつ刈った新人団員の方がよっぽど讃えられています。コーガ様のため、大きな成果を得たいと思うのは当然ではありませんか」
「・・・・・・慣れぬ諜報で命を落とす可能性を考えれば、それが最上だと自分は思えぬ」
その瞬間、彼女が息を飲み、ぱっと顔を上げた。見開かれた瞳に、はっきりと皺の酔った眉間。唇が戦慄き、歯を食いしばるのは、いつも朗らかで理性的な先生とは思えない表情だ。
今まで見てきたどの場面の彼女よりも、先生の感情があらわになっていた。
「大げさではありませんか? 慣れないと言っても、私だってイーガの端くれ。諜報くらいできます」
「忍び込むのは敵方の中心地。手練れといえど命の危険のある死地でござる」
「命の危険があるのはどこだって一緒だよ。そもそも命を捨てる覚悟なんてとっくの昔にできてる。今更そんなの理由にならない」
「情報のために命を捨てるつもりでござるか」
「それがイーガの生き方で、スッパ君だってそうしてきたでしょ? 違う!?」
語気荒く、こうまで刺々しい声音を今まで聞いたことがあっただろうか。玄関口、燭台の灯りが揺れるごとに瞬く瞳が、怒気に満ちている。肩で息をしながら俺に向ける顔つきは、まるでリザルフォスの首を刈り取るときと同じ形相だった。
ただそれだけじゃない。握りしめて白くなった爪の先が震えているのは、緊張か、慣れぬ激情故だろうか。
「スッパ君は」と、微かに開いた口元から漏れたのは、喉を絞ったようなか細い声だった。そうしなければきっと、彼女は大人でも、一団員でも、先生でも、その場に居られなかったに違いない。その声を出させたのは、紛れもなく俺だった。
「スッパ君は、私が任務に行くのを喜んでくれないの?」
高い天井の玄関に、彼女の声が反響もせずに吸い込まれていく。そのまま場がしんと静まり返っていくが、かといえ俺の頭の中には、彼女の絞り出した声がいつまでも残り、しっかりと染み付いてしまった。
言えるわけがない。俺は修羅として生き、団員たちの生と死を背負うと決めた身。本来であれば、奥底から湧き上がる思いなど振り切って、此度の遠征すら行うべきではなかった。
やはり呪いなのだ。彼女への想いを自覚してしまった今、振りほどくことなどできない。言い訳を探し、並べ立て、理屈をこね回す。あの時に自覚せねば、こんな唾棄すべき行いなどしなかった。
今まさにその体躯を腕に閉じ込めて、吹きすさぶ数多の砂粒から守りたいなんて、崖上でただ何もせず待って居て欲しいなんて、こんなおぞましい願いを抱かなかった。
彼女は、溢れる好奇心と主君への思慕に、これだけ身を焼いているのに。
任務ひとつでも命を賭けられる彼女と違い、所詮俺はイーガの生まれではない。
仕える主。家族と呼べる同志たち。守るべき大事な人。俺が命を賭し、畜生道に邁進できるのは、彼女と違って結局我欲のためでしかない。
大きく見開かれたまなじりをただ黙って見つめていると、先生がおもむろにふっと口端を歪めた。
「スッパ君はさ、私がコーガ様の役に立つのを、邪魔してるんでしょう?」
思ってもみなかった言葉に、俺は「なに?」と一言聞き返した。
「長年培ってきたくだらない知識をやっと活かせる場が来たのに、その機会まで奪われたら、私はいつコーガ様の役に立てば良いの?」
「くだらなくなど・・・・・・」
「武勲を積んで、コーガ様の目にかけられて、筆頭幹部にまでなったスッパ君には、私の気持ちなんて分からないでしょうね」
感情が沸騰したように次々溢れだす批難に、胸がざわついて仕方ない。これ以上言って欲しくない。これ以上聞きたくない。留めるつもりで「先生」と呼んでも、彼女はそれでも止まらない。
俺に表情を見せつけてくるように、ぐっと詰め寄ってくる。歪み切ったその表情に涙の影は見えない。しかしなぜこうも、今まさに泣いているかのように見えるのか。泣いてくれないと、貴女を慰める理由を得られないのに。
「私は昔、誰かの記憶に残れば隠密の生でも意味になると言った。でも私だって本当は、イーガとしての意味が欲しい。ただ岩屋の中で本と死ぬのなんか嫌だ。外に出て、せめてコーガ様のために、戦場で死にたい!」
「先生ッ!」
肩を掴む。痛みで怯んだようだったが、それでも彼女の瞳孔は開いたままだった。
彼女のこんな顔が見たいわけじゃ無い。彼女にはいつまでも、朗らかに笑っていてほしいだけだった。星空の元、あの崖上で綻ぶ笑みを、俺はいつまでも見ていたいだけだった。
しかし、この思いこそが彼女をこうさせた。俺が彼女を必要としてしまったから。俺が彼女に恋をしてしまったから。俺が彼女に会ってしまったから。俺たちはきっと、最初から会うべきではなかった。
俺の存在自体が、まぎれもなく、彼女を苦しめる元凶になっている。
「なんだなんだ、何の騒ぎだ」
ぴんと細い糸が張ったような緊張感の中、その場に悠々と現れたのは、コーガ様だった。
なぜここに、と頭に浮かんだが、彼の後ろに守衛の幹部殿が控えている。
上役に食って掛かる一構成員など、武力がすべてであるイーガにおいてはあり得ない。しかし、彼は俺と先生の遠すぎない関係を知っている。諌め役にもなれたが、無為に割り込むのが躊躇われたのかもしれない。
だからといってコーガ様を連れてくるとは・・・・・・と一瞬苦く思ったが、結局それほどの揉め事になっていると思わせたのだから、俺が文句を言う筋合いもない。
「なんで揉めてんだ。今日の任務でか?」
「は・・・・・・諜報員に立候補したいとのことで話を。しかし・・・・・・」
「あんだ。何か問題でもあったのか?」
先生に一瞥をくれる。彼女はうつむいたまま何も言わず、拳を握りしめたままだ。
俺の下した決断を今ここで伝えれば、きっと彼女は傷つくだろう。内臓にキリキリした痛みが走るが、それこそが筆頭幹部として背負うべき責務だ。ただ少し、このときばかりは他の道もあったのではないかと思い返してしまう。
俺は一度小さく息を吸って、コーガ様の真正面に向き直った。
「・・・・・・彼女は知に長け、刀の扱いも申し分ない。任務への覚悟も持っています。・・・・・・しかし俺は、敢えて違う者を推薦したい」
言い切った途端、「スッパ君」と物言いたげに先生が顔を上げる。反意の籠った視線に身を焼かれる間、俺はコーガ様の面から目をそらさなかった。
俺たち二人を交互に見やったコーガ様は、落ち着いた様子で「ふむ」と頷いてみせる。
「理由は?」
「彼女は、王家との戦で要になるであろう古代シーカーの知識が豊富であり、先見の明があります。しかしやはり気になるのは経験の浅さ。遠征にて優先順位を違え、このありさまでござる。此度の計画は失敗が許されぬ故、前線よりはアジトにて計画立案の任についた方が、イーガの益になるのではないかと考えた次第」
「ふーん。そいで、お前はそれが不服なわけだ」
次いでコーガ様の面が先生に向けられると、彼女は主君に食って掛かる様に詰め寄った。
「優先順位をはき違えてなどいません!死に至ることが無いと判断したからこそ、私はリザルフォスの攻撃を浴びました。これはそこまでの怪我ではありませんし、計画の失敗なんて・・・・・・。此度の諜報は、古代シーカー族の知識が必要不可欠なはず。知識には自信があります、私に城への諜報をお任せください!」
「確かに、知識に関しちゃあお前はかなり信頼できる。任に当たるのは妥当だろうな」
「なら・・・・・・!」
「しかしスッパの言い分も分かる。バレりゃあ、イーガの計画がおじゃんになるのは目に見えてるし、そんな傷だらけで敵地に入るのは、私は敵です、殺してくださいって言ってるようなもんだ」
穏やかに、しかしきっぱりとした主君の声に対し、「それは・・・・・・」と先生は言葉を詰まらせた。的を射た指摘に言い返す言葉が思いつかなかったらしく、握った拳は力が抜けたように体の横におさまり、徐々に肩を落としていく。その所在無さげな背姿は、まるで頼るべき親を失くした子供のようだった。
「城と四地方への諜報は、早けりゃ明日にでも始めたい急務だ。お前の怪我が完治するのを待つ余裕はねえ。今回は諦めるこった」
「そんな・・・・・・」
「それに、諜報が必要なのは、そこばっかじゃねえしな」
諜報が必要なのはそこばかりではない、とは、おそらく古代王立研究所のことだ。
城と四地方での情報収集が終われば、最終的に向かうのは研究所だ。そしてそこは、城よりもよっぽど危険に満ちている。
先生越しにちらりとくべられた視線に、その場での同意を見せられない。何者も見透かすようなコーガ様の瞳から顔を逸らすと、大袈裟に「はあ」とため息を吐かれた。
「実地任務につきたきゃ、怪我治しながらでもできる別の要件を宛がってもらった方が良い。経験にもなるし、スッパに用立ててもらえよ」
「・・・・・・それってつまり、私はお荷物だから、大した事ない任務でお茶を濁せと、こういうことですか」
ぼそりと漏れ出たのは、コーガ様への反意。「先生!」とすぐさま諫めようとするところ、コーガ様は鷹揚にも「まぁまぁ」と、俺の方こそを手で諫める。
敬愛を示して止まない先生がコーガ様へ口答えをするなど俄かに信じられない。しかし、普段との乖離があればあるほど、先生が理性的でなく、嵐の如き感情にむしばまれていることの証左に思える。
そして俺だけでなくコーガ様も、彼女の嵐に乱されぬ理解があったらしい。
「何もそんな言い方ねえだろ。適材適所って話してんだ」
「・・・・・・適材適所」
「少し落ち着けよ。理性的なお前らしくないぞ」
「・・・・・・」
「いつもだったら、もうちっと冷静に話をするだろ、な」
その声は、崖上で彼女を諫めた時の声によく似ていた。違うのはきっと、俺も先生も、あの時より随分素直さを失い、入り混じる自我を身につけてしまったということだけだ。
最後に微動だにしない先生の肩をポンと叩いたコーガ様は、すれ違い様に俺へ「慰めてやれ」と耳打ちをした。
門前に戻っていた守衛の幹部殿にも目配せをして、そのまま後ろ手に手をひらひらと振りながら行ってしまう。廊下を曲がり、完全にお姿が見えなくなれば、玄関口に改めて沈黙が広がった。
彼女の背中が小さく見える。いや、実際にそれはずっと小さかったのだろう。彼女はどちらかといえば、イーガの中では華奢な体つきをしていた。なぜ頼りがいのある大きな背だと見紛っていたかといえば、7か8のときから続く俺の思い込み。頼りにしたいと考えた、子供の無邪気な甘えの所為だ。
「・・・・・・私らしいって、何かな」
沈黙を破ったのは、先生だった。
「理性的に自分の気持ちに蓋をして、空気を読んで冷静ににこにこしてれば、私らしいのかな」
「先生」
「・・・・・・スッパ様の顔を立てられたんですね。コーガ様は」
俺に寄越した横眼が見たこともないくらい冷たい。「そのようなことは」と返すが、まるで見知らぬ人間と相対している気になり、どこか中身のない言葉にしかならない予感がして、最後まで紡げない。
「コーガ様は、スッパ様が大事なようですから」
「先生・・・・・・」
「いいですね、あなたは。昔から大切にされて。まるで血の繋がりがあるみたい」
「コーガ様は、イーガの団員を例外なく見てくださっている。先生も知っているはずでござろう」
「私は、あなたが特別に扱われているようにしか思えません」
吐き捨てる言葉は、研いだ刃のようだった。俺の思い上がりと、心を確実に削いでいく。
しかし、俺自身が傷を受け、痛みに怯んでいる場合ではない。その刃はきっと抜き身であって、持ち手の彼女は素手だった。他人が困っているのを見て見ぬふりもできぬ彼女が、平気な顔をして他人の心に傷をつけられるとは思えない。
「どうしたでござる。なぜ今日はそこまで」と続けた言葉に、彼女は漸く振り返った。
「コーガ様にとって、私は」
しかし、言葉はそこで途切れてしまう。「・・・・・・いえ、何でもありません」と、また改めて瞳を伏せる姿に、俺も改めて問うことはできなかった。
「・・・・・・任務のこと、よろしくお願いいたします」
小さく会釈して、彼女はおもむろに歩いて行ってしまう。その歩みに惑いはなく、これ以上話したくないと暗に突きつけられた気がした。
彼女の姿が廊下の奥へ消え失せても、後を追うようにすぐさま歩を進める気になれない。とはいえ玄関口には守衛番の幹部殿も残っており、仮面越しではあるが、遠目で視線を送られているのが分かっていた。
彼は俺と先生との間柄をよく知っている。何せ、幼少期から今に至るまで、崖上を訪れるためには彼から外出の許可を貰う必要があり、再三業務外の時間に外へ出る姿を見られている。あまり平時で喋る機会は無いものの、もっとも俺たち二人の関係を知る人物ともいえる。
この場に立ち尽くしていても仕方がない。俺は玄関を騒がしくしたことに頭を下げてから「すみません、自分もこれで・・・・・・」と、片手で応える彼を背にその場から立ち去った。
行燈のみの光で照らされる廊下は窓が一切なく、いつだって薄暗い。しかし夜半過ぎにもなると人気が失せるからか、昼間より暗闇が鬱蒼としている気がする。
玄関口の広間から廊下の闇へと足を踏み入れた瞬間だ。何者の視線からも逃れたと思ったら、途端に身体中の力が抜けて立っていられなくなった。
それまで俺は、何か不思議な力で天井から吊られていたに違いない。体の節々に張られた糸という糸がぷつりと切れでもしたみたいに、壁へ凭れかかってずるずると重力に抗わず座り込んだ。自らの身体が酷く重く、今すぐに自分の力だけで立ち上がって足を動かそうとは、とてもじゃないが思えない。
朝から今に至るまでの出来事が、走馬灯のように頭を駆け巡る。緊迫した顔、思いつめた顔、好奇心にはしゃぐ顔、勇ましい顔、煤で汚れた顔、泣いていないのに涙の痕を空目するような歪んだ顔。
今日は、ただ、疲れた。誰も見ていないのだ。今だけは筆頭幹部と言えど、弱音を吐くことを許されようか。過去さまざまなイーガの団員を見送ったこの冷たい遺跡の壁に、疲労を吐露しても許されようか。
両手で顔を覆い、俺は項垂れながら身体に溜まった息を深く、深く吐ききった。
■
遠征から一夜明け、次の日。
研究班の集まる書庫へいき、コーガ様との相談の末に選出された団員に、諜報任務を言い渡した。
彼らにとってみれば、昨日の朝に初めて聞かされた寝耳に水の話だ。すぐさま発たせようと準備を急かすのは些か強行だが、しかし、遺物を取り巻く現況はイーガにとって芳しくなく、情報取得は早ければ早いほど良い。ばたばたと忙しない一日になったが、なんとか日を跨ぐ前に身支度を終えることができた。
今まで目立つことのない部署として、研究班は何かと団内でお荷物扱いされていた。その研究班の中から、イーガの中でも重役として扱われている諜報任務に就く団員が現れたのだ。彼らはこの出来事をひとつの晴れ舞台として考えているのか、旅立ちの瞬間には、他の研究班員も玄関に集まって見送りをすることになった。
ただひとつ気になったのは、その中に先生の姿がないことだ。見送りの瞬間だけでなく、朝に書庫へ訪れたときから一日中、彼女の姿を見ていない。
否が応にも無意識に目で探してしまう自分に嫌気が差すが、先生は研究班の古株。各団員の世話を焼いていた彼女がこの場に居ないのは些か妙で、団員たちもひそひそと耳打ちしながら、何故いないのかを囁き合っているようだった。
すっかり暗くなったハイラルの地に発つ五人の諜報員を見送った後、呼吸を合わせたように団員たちがぞろぞろと帰っていく。これからの時間はもう寝るばかりで、俺は共寝所に向かおうとする団員の一人を捕まえて、「聞きたいことがあるのだが」と声を掛けた。
「今日一日の間、トカゲの放電を食らったあの構成員の姿が見えぬ。様子を伺いたかったのでござるが・・・・・・」
「スッパ様が先生と慕う彼女ですか?はて、今日は一日書庫でも見てません、療養で暇を頂いていたのだと思っていましたが・・・・・・」
怪我をして、昨日の今日なのだ。共寝所か医務室で療養するのは当然あり得る話だろう。しかし、任務や鍛錬に勤しむ最近の彼女を考えると、あれだけの怪我で一日寝て過ごすとは到底思えない。
団員には感謝と就寝の挨拶を告げて、廊下の奥へと消えていく研究班員の背中を見送った。
玄関には件の守衛番が残るのみで、燭台に灯る蝋燭の燃焼音が耳に届くほどの静けさが広がっている。
守衛の幹部殿に会釈して行こうとするところ、思ってもみなかった「スッパ」という落ち着いた声に呼び止められた。
「あの構成員を探してるんだろう? 外でよく逢引きしてる」
「・・・・・・少し語弊がありますが、左様でござる」
「さっきふらふら出ていったのを見た。帰ってきてないから、たぶんまだ外にいる」
夜半前に、一人で外へ。これだけでも、彼女がいつもの崖上を目指したことは想像に難くない。
いくら命に関わる怪我でなかったとしても、彼女は本来であれば治癒に徹するべき状態である。じっとしていれば身体の芯まで凍える砂漠の夜に、いつもの如く気まま勝手に動かれるのも、俺の立場上看過はできない。
しかし。俺にはこのとき、すぐさま崖上へ向かうのには躊躇いがあった。
話を聞く限り、彼女は今日一日、書庫にも行かず、研究班の誰とも会っていない。間違いなくそれは意図的で、誰にも会いたくなかったからだ。そんな彼女に、おめおめと俺が顔を見せても良いだろうか。
彼女の心に傷をつけたのは、はっきりと俺だろう。その傷口に、今度は塩を塗り込みにでも行くというのか。
「行かないのか。探してたんだろう」と首を捻る幹部殿に、なんと言えば良いか分からない。
昨晩の口争いも見られていたことだし、彼はそれなりに事情を察している。とはいえ、どれほどの頻度で彼女と会っているかを把握しているだけの相手へ、開けっ広げに相談をするのも如何なものか。
結局、何を言うべきかに迷って言葉を紡げずにいると、幹部殿がため息を吐きながら、首を右に左にと振ってみせた。
「昨日口喧嘩になったの、まだ気にしてるのか」
「それは・・・・・・ええ、まあ」
「俺は遠目に見てただけだからよく分からんが、だからといって避けるのは悪手だぞ。取り返しがつかなくなる。お前から縁切りしたいわけじゃあるまい」
「しかし、相手がそれを望むなら、俺は・・・・・・」
それも受け入れるしかない。とても最後まではっきりと言えずに語尾を萎えさせると、幹部殿に「お前なぁ!」とひときわ大きな声で呆れられる。
「バカ言ってないでまず会いに行ってみることだ。居場所の検討がついてるんだろう? その場所に居なければ、それは縁切りしたい証左だろうよ。しかし、お前が考えている場所にいたのなら」
「・・・・・・居たのなら?」
面下で、ふっと笑うように息の漏れる音が聞こえた。
「皆まで言わせるな。いいからとっとと迎えに行ってやれ。お前の女だろう」
肩を叩いたバシン、という乾いた音が岩造りの玄関に反響する。叱咤激励というには些か強すぎる平手打ちだが、寡黙に俺たち二人を見守ってくださっていた人だ。じんじんと肩に残る疼きが、頑張れよと背中を後押しする彼の情が移った証拠に思えた。
「かたじけない」と頭を下げ、見守られながら玄関の戸を抜ける。途端に身を包むのは、カルサーの乾燥した肌寒さだ。俺は、燻る気持ちと共に、ほぉと肺に溜まった息を吐き切った。
空は薄い膜を張ったような雲に覆われており、星明りは元より、月明かりすら期待ができない。いつもより濃い闇の中を躊躇なく進んでいけるのは俺が何十年と通った道だからこそであるが、一歩一歩着実に足が出せるのは、間違いなく幹部殿の手痛い激励のおかげだ。
いつもの崖を登る間、彼女はあの場にいるだろうかと考えた。
彼女との繋がりはそもそも、酷く脆くて、儚いものだった。実体のない雲に隠れるだけで見えなくなる星明りのように、いとも容易く失せてしまうものだった。
雲を散らし、なんとか明りを保ってきたつもりだったのは、今にして思えば地上から必死に息を吹きかけていただけのことだったのかもしれない。
星は季節によって場所を変えるのだと先生から聞いたことがある。やっと雲が晴れた先、俺の愚行に愛想を尽かし、どの星も戻ってこない可能性もあるのだろう。快晴の空だとして、俺には眩しすぎる月の灯りだけが煌々と残るだけかもしれない。
もう、分からない。いつもであれば確信めいた崖上への憶測が、今日はもう、自信を持つことができずにいる。
手をつき、身体を持ち上げ、何者にも遮られない拓けた場所へ出る。そこは俺が待望した崖上だ。
暗闇に沈む荒地。登りきった崖上はいつにも増して風が強く、長く伸ばした俺の髪の毛が、登りきった瞬間から乱れるようにその場で舞った。仮面すらカタカタと音を鳴らすものだから、手で押さえて目を凝らす。
地平線のような崖端に見えたのは、よく見慣れた人型のシルエット、だった。
「・・・・・・筆頭幹部殿」
岩場を切り崩したような崖の端、砂漠を眺めていた先生は、おもむろに振り返って小さく呟く。
月もない暗がりではあまり視認できないが、振り返る折、彼女はそれまで晒されていた口元をイーガの面で覆ったようだ。まるで俺から、彼女の心算そのものを隠すように。
今はそれでも良い。緩く腰を浮かせる彼女に、俺はゆっくりと近づいた。
「なぜここへ?諜報員の見送りがあったはずでは?」
「見届けたからこそ、ここへ。怪我人の様子を伺うのも、筆頭幹部の務めでござる」
こんなのは言い訳に過ぎない。しかし、真っ当な理由がなければ、どうにも彼女へ近づくことを許されない気がしていた。
現に彼女は俺の言葉に納得したのか、警戒に近いひりつくような態度を「そうですか」と少し和らげた。とはいえそれでも油断はできず、野生動物が逃げでもしないくらいの速さで、ゆっくりゆっくり距離を詰めていく。
先生の背後まで辿り着き、そこで初めて違和感に気付く。彼女と出会ってこの方、先生はずっと肩下までの長さに黒髪を保っていた。つむじで結ってもなお靡くほどの長さがあったものだが、それが今は、ばっさりと切られている。
「先生、髪が」と堪えきれず指摘すれば、彼女は「これ?」と、どれだけ短くなったのかを見せつけるように、さらりと襟足に指を通した。
「昨日のシビレリザルフォスの放電で、随分縮れてしまったでしょう。良い機会ですし、これくらい切っても良いかなと思って」
「放電で焦げたのは毛先だけだったでござろう。何もそこまで短くせずとも」
「いいんです。髪の毛を切ると、気持ちも改まりますから」
短い髪の毛を指先で弄びながら呟かれた声は、どこか達観したような、諦めの音が乗っていた。
シーカーの白髪が根元に現れても染髪を差し置く彼女は、今まで髪に執着する様子を見せたことがない。俺が筆頭幹部に就任する以前であれば、崖上で会う時に髪を結っているときの方が稀だったし、結っていたとしても紐でまとめきれなかった髪の毛がまばらに垂れていた。
とはいえ、女人にとって、髪は命と同等に大切なものだとも聞く。あれほどの長髪を育てるには年単位の時間が必要であろうし、どれほどの思いで断髪に臨んだのか一切の想像がつかない。だからこそ、ぎゅっと胸を掴まれるような痛みを感じてしまう。
「・・・・・・怪我の具合は如何様でござるか」と間を繋ぐように問い直せば、先生は髪を遊ぶ手の平を、今度は開いて差し出してきた。
「手の平を火傷しただけです、刀をすぐに手放さなかったから・・・・・・。あとは髪の毛くらいで、麻痺も残っていません」
「それは何より。・・・・・・しかし、今日は特に冷えるでござる。まだ万全でもありますまい。凍える前に戻った方が良いのでは」
「・・・・・・もう少し。せっかく、お酒も用意してきたので・・・・・・」
いつもは身一つでただ砂漠を眺める寝巻き姿の彼女の傍には、確かに見慣れない徳利と猪口が置いてある。一瞬それらに視線を落とした先生は、かと思えばすぐさままた俺に、動かぬ仮面の瞳を向けてきた。
「筆頭幹部殿も、一杯、いかがですか?」
徳利を指先でつまんで下から見上げてくる先生は、無理に作った上ずり声で小首を傾げて見せた。
他の団員から誘われたのなら迷うこともなく断っていた。それでなくとも、普段から頭が覚束なくなる酒など、進んで飲みはしない。
なぜなら、今はいつ何が起こるか分からない戦の機運。いつ敵襲があるかもわからないイーガにおいて、業務終わりの夜半とはいえ酒を飲むなど愚の骨頂だ。俺だけでなく、内勤の最たる研究班といえど同じである。そんなことは彼女だって、もちろん分かっている。
しかし、まともでいれば耐えられぬ夜が、我々にはある。
俺は、返事なくその場で胡坐をかいた。
言葉なき是に、彼女も何も言わず徳利を取った。猪口の飲み口を指の腹で拭い、静々と手ずから酒を注ぐ。
酒を飲むのは、筆頭幹部就任の儀以来やもしれぬ。ましてやツルギバナナを片手に語らうことはあれど、幼少期を共に過ごした彼女と共に晩酌をするなんて、この戦中で考えてもみなかった。
地面に置かれたままの猪口。静謐で揺れもない水面には、ただの星灯りもなく暗闇が蔓延るだけだ。
徳利から注がれたのは、飲み慣れぬ酒か、それとも彼女から滲み出た悲しみか。
「頂くでござる」
注がれた猪口を彼女に掲げ、俺はそれを一口にした。酒精の匂いが鼻を抜け、喉を焼きながら腹の中へと液体が滑っていく。火でも飲み込んだかのように内側から感じるじりじりとした熱は、夜半の乾燥した砂漠で凍えた身体を温めてくれる気がした。
ふぅ、と吐息と共に地面へ猪口を置くと、応じるように先生が改めて酒を注ぐ。
「今日は、出立に相応しい夜ですね。月も星もなくて、静かで」
先生の声は、思ったよりも穏やかだった。
「ここから少しだけ、団員が歩いていくのが見えました。何事もなく帰って来てくれれば良いですね」
「他の研究班員も、無事を祈って玄関口に集まっていたでござる。先生の姿が無いのを不思議がっていたが」
「・・・・・・ちょっと、気持ちがまとまらなくて」
注がれた酒に映りこむ、動かぬイーガの瞳。面の隙間から覗くのも、俺から素顔を隠す闇しか見えない。
慰めるべきだ。俺が彼女を傷つけた。しかし、俺が一瞬でも言動に惑うとき、先に動くのは、いつでも大人である彼女の方だった。
「昨日は本当に、ごめんなさい」
唐突に耳に届いた謝罪が分からず、何も言わずに面を上げる。
膝の上に揃えられた手指、そして俯いた頭の先が目に入り、一拍空けて正式な謝罪の形だと分かって、胸に新しい生傷が付いたように、じく、と痛みだす。
そんなことをして欲しいなどと、俺は一切思っていないのに。俺と彼女との間に、一本線のような溝があると突きつけられるようだった。
「あんなに理性を欠くつもりはなかったんです。コーガ様が仰ったことも、スッパ様が仰ったことも理に適っていると頭では理解できていて・・・・・・。自分なりに精一杯やったことがダメだったと分かって、目の前が真っ白になって」
「・・・・・・」
「でも、だから選ばれなかったんだって腑に落ちました。個を殺し、優先順位を違えず、いつでも無感情に冷静でいなければいけない。隠密としての基礎ができていないんだから当然だって。私はやっぱり、書庫で本に囲まれてるのがお似合いなんだって」
「そんなことは・・・・・・頭を上げてください、先生。そこまでの謝罪は不要でござる」
地面を見つめたまま頭が上がる。縮まった彼女の肩は、寒いからというだけではないだろう。昨日日に焼けたばかりなのに、やけに血の気を失った手先が、謝罪というにはあまりにも自虐的な言葉を飾り立てている。
「・・・・・・その点、スッパ様は隠密の業も心得も完璧ですし、私と比べるのもおかしな話でした。皆も貴方を信頼し、頼りにしています。貴方が居れば、イーガがこれから踏み入れる血の道にも安心ができると」
「それは買いかぶりすぎでござる。俺の存在など、コーガ様があって初めて意味を為す物でしかないでござる」
「コーガ様・・・・・・」ぼんやりと繰り返される呟きで、何かしらはたと思い至ったらしい。それまで膝上へ穏やかに添えられていた拳に突如としてグッと力が入り、彼女は深く俯いた。
「そう、ですね。彼の方あってこそです。私がいるのも、スッパ様がいるのも、皆がいるのも」
「・・・・・・先生」
遠くの砂漠を見遣るように視線を背ける。そのまま膝を抱えるように座り直し、彼女は足の隙間に湛えられた闇に顔を埋めた。微動だにしなくなった首元が、短くなった髪の毛の所為でやけに寒そうに見える。
崖上を吹き抜ける風の冷たさから身を守るためではない。彼女はこの時、この世の見たくないものから、目を背けたかったのだ。
「今日は私、ダメなんです。なんだか感情的になっちゃって。・・・・・・貴方がきてから、余計に」
「・・・・・・」
「貴方に対して真摯でいたかった。私は貴方の先生だから、カッコいい頼れる存在で居たかった。なのに、こんなに情けなくなっちゃった。理想ばっかで、空回りして、結局貴方に頼ろうとして、現実を突きつけられて」
「・・・・・・」
「私、ばかみたいでしょ? なんにもできない私なんかを、貴方が先生って慕ってくれるのがつらい。なんにもできないの。何にも、してこなかったの。ただあの狭い書庫の中で、本を読むこと、しか、ずっと・・・・・・っ」
最後の言葉は、声が震えて何を言っているのか分からない。それでも、鼻を啜る音と、一生懸命に綴られ続けた本心の吐露は、重ねた膝の隙間からしっかりと俺の耳に届いた。自らを抱きしめるように回された手の平は力強い。しかし、嗚咽の音と共に、肩の震えは止まらない。
泣いてほしくない。震えてほしくない。一人で抱え込んでほしくない。彼女の力になりたいと思った。その震えを止めるだけでも、力になりたいと。それが、彼女に生きる道を救われた俺がやるべきことだ。今まで臆病に、彼女に寄り添っていたつもりだった俺は、実際彼女を支えるべきだった。
俺の生に彼女が足を踏み入れたように、彼女の生に、今度は俺が足を踏み入れる番だろう。
一人で震えに抗う健気な肩に手のひらを乗せても、彼女は身じろぎもしない。拒まれていないと分かって、そのまま包み込むように腕を回した。ぎゅう、と背中から抱き締めて、彼女の後頭部を胸板で感じた。
覆いつくして初めて分かる。その凍え切った身体の冷たさに。見た目よりも随分、彼女の震えが大きいことに。頼りがいのある大人だったはずの彼女の背中はすっぽりと覆えるほど小さく、幼少期からその大きさは変わっていないだろうことに。
俺の身体だって、温かくはない。しかし、吹きすさぶ風を二人で凌いでいれば、だんだん内側だけは温かくなってくる。二人で作った熱は、くっついてさえいればそう簡単に冷めることはない。せめて今だけは寄り添っていたくて、俺は強く、強く彼女を抱きしめた。
「・・・・・・スッパ、君は、良い仲の人はいる? 慕ってる人とかは?」
身体の隙間からくぐもった声が聞こえる。何も言わずにいれば、彼女が少しだけ顔を上げて、背中越しの俺に小さく横顔を覗かせた。
「・・・・・・私ね、好きな人がいたの。ここに来る前からずっと好きで、その人のためにここに来た。でももう、諦めたい。あの人のためだけに生きるのをやめたい。期待したくない。ただの、なんでもない人だって思い直したい」
「・・・・・・先生」
「貴方にしか言えない我儘、言っていいかな。ごめん。本当にごめんなさい」
身動ぎした彼女に応じて腕の力を緩めれば、彼女は俯いたまま、俺に向かって身体を反転させる。
「今だけでも、忘れさせてほしいの、お願い・・・・・・お願いだから」
幼少期から今に至るまで、反吐が出るような思いと共に、切望し続けた瞳の色がある。
しかしきっと、その色を求めてはいけなかった。求めるべきは、彼女にそんな顔をさせないと誓う、俺の覚悟の方だった。
今も昔も、彼女が俺に向けるのは、情の籠った朗らかさ。今もそうなのだろうか。これからもそうなのだろうか。もはや、そうであって欲しいと思う。それが俺と彼女が紡いできた、イーガでの繋がりだったから。
「今日は、先生って、呼ばないで」
俺の胸板にとすん、と額を預け、控えめに彼女が体重を預けてくる。その臆病な頼みごとを引き受ける証に、今度はふわりと優しく、彼女の身体を包み込んだ。
早く強く騒ぐ脈動を、薄い装束で誤魔化せるはずもない。きっと俺の昂りは彼女につつがなく伝わっているだろう。しかし構わない。触れ合う肌から、彼女の緊張した拍動も、併せて伝わってきていた。触れ合うことで震えを止めたかった先ほどと違い、今度は俺たち二人が、触れ合うことで心臓の震えが止まらなくなっていた。
俯くばかりだった顔が微かに持ち上がったのを見て、頬に手を添え、ゆるりと下から木の面を掬い上げると、艶やかに潤んだ亜麻色の瞳が間近に飛び込んでくる。
それは憂いでもなく、俺に向けられるいつもの朗らかな瞳だ。良かった。これで良かった。
自らも仮面を口元だけずらし、涙で濡れ切った相好に迫ると、「あ・・・・・・」と小さく視線を逸らす彼女が、ほんの少しだけ胸板を突っぱねる。
「えっと・・・・・・キスは、本当に好きな人とした方が・・・・・・」
言い終わる前に、その口元を己のそれで塞いだ。
「ん」と驚くように漏らす声。唇の柔さだけでは高ぶりを抑えきれず、声すら俺の中に欲しいと思い、そのまま何度も彼女の唇を食んでいく。
逃げないように後頭部へ手の平を回し、彼女の黒髪を乱しながら、これ以上近づけないのに引き寄せる。
口の隙間から吐息と声が漏れていき、外気と程遠く、熟したように熱い舌先を引きずりだした。無理やりに絡ませて唾液を吸えば、腕の中に閉じ込めた彼女の肢体がふるふると震えて跳ねる。
そのまま彼女を土の上に押し倒し、俺はタガの外れた本能のままに、彼女の服の隙間に冷えた指先を潜り込ませた。
「ス、パく・・・・・・っ」
唇が離れた途端に聞こえてくるのは、拒絶だったかもしれない。腕に縋る掌は、幼少期から今に至るまで見せたことのない、俺の欲望そのままの姿に恐怖したからかもしれない。
もう抑えは効かない。更に拒絶を重ねられる前に、再び彼女の唇にかぶりつく。しつこいくらい彼女の唇を食んで、舌先を吸って、嬌声も拒絶も憂いも朗らかさも、全部俺の腹に収めたいと、逃したくないと思って。
「貴女が、忘れさせてほしいと言った」
何度口づけしたか分からない。どれほど彼女の呼吸を止めたか分からない。
蕩けた婀娜な顔を無遠慮にさらす彼女の頬を手の平で包み、上から覗き込みながら、言い聞かせた。
「忘れて欲しい。今この時だけでも、貴女が慕う人を自分にして欲しいでござる。俺は、ずっと貴女に囚われていたので」
ほんの微かに、彼女の亜麻色の瞳が見開かれた気がした。
一度唇が引き絞られて、彼女の眉根が、また泣く寸前みたいに歪んでいく。
この頃、空に薄く広がっていた霞のような雲は散っていたのだろう。はい、と答えた彼女の瞳には、見慣れた星灯りが映りこんでいた。
焦げた頬に、半開きとなった唇、時折ビクビクと痙攣を続ける腕。まるで打ち捨てられたぼろきれだ。一つひとつに焦点が合わさるごと、視界が明滅するようにチカチカと瞬き、大きく打ち始める脈動の音しか聞こえなくなる。
焦るな。大丈夫だ。シビレトカゲの放電による一時的な昏睡状態は珍しくない症状であるし、見た目よりはるかに身体への負担は低いと、俺は知っているだろう。いくら肌を焦がし、艶やかな黒髪が燃えカスに変わろうと、つい先ほどまで彼女は勇ましく刀を振るっていたのだ。間近で受けたとて命に別状はないはず。
縮まった胸を押し広げるように、意識してゆっくり深く呼吸を繰り返す。そうすると、寒空に晒され、彼女の肌膚そのものは冷え切っていても、身体の芯には熱がしっかりと残っていること、穏やかに胸が上下していることが理解できてくる。大丈夫だ。彼女は生きている。
知らずの内に強張っていた身体が、まるで氷が徐々に溶けるかのように弛緩し、狭まっていた視界が広がっていく。やっと身体の奥にまで息が届いた最初の一声、堪らずに「先生・・・・・・!」と彼女を呼ぶと、それまで閉じられたままだった瞼が、呼応して薄く持ち上がった。
「ス、パくん・・・・・・?なんで・・・・・・」
「放電を直撃したでござる。大事なさそうだが、・・・・・・あまり無理めされるな」
「あの子・・・・・・、大丈夫だった・・・・・・?」
未だ虚ろな焦点のまま口へした内容に、すぐそこまで出かかっていた心配の声を飲み込んだ。
戦闘中のあの一瞬、彼女はおそらく、庇った弓兵の怪我や動けぬ状況を見抜いていた。そして、無傷の自分ならば一撃に耐えられると咄嗟に判断を下し、あの場へ札術で現れたのだ。自らが放電に焼かれることを覚悟して。
「・・・・・・大丈夫でござった」とだけ返すと、彼女は「そっか、良かった」と微かに表情を緩めてみせた。なにも良くないのに、その声にはひとつの後悔も滲んではいなかった。
彼女のやりきった顔を見て、はっきりと沸き上がったのは大声で責めたてたい衝動だ。しかしそれは、同時に思い起こされた過去の記憶によってすぐさま燻っていく。
泣いてはならぬと困り果てていた幼い時分。あの頃の俺に手を差し伸べてくれた彼女の笑みと、今の表情は同じであった。それだけじゃない。俺が初めて人を手にかけ、自分の道に惑ったときも、彼女は今みたいな優しい声で俺を導いてくれた。
彼女が自らの労を厭わず咄嗟に手を差し伸べられる人間だと、俺はよく知っている。なぜなら、俺こそが彼女の犠牲に生かされている。その俺が、彼女の行いを責める資格などあるわけもない。
何も言わないまま、俺は彼女の肢体を砂地へ厳かに横たえた。
今は彼女にだけ集中して良い時ではない。戦闘を終え、俺たち二人を遠巻きにしていた団員たちに振り返る。どこか不安気な表情で見守る彼ら一人ひとりの顔を見据えながら、安心させるつもりで深く頷いてみせる。
「皆の者、旅疲れの極限でよくここまで動いてくれた。予想外の敵襲には手を焼いたが、どうやら皆、大きな怪我無く対処遂行が叶ったようでござる。これより、帰途を再開する」
リザルフォスが集って座り込んでいたこの丘を越えれば、本拠は目の前だ。「気を抜かぬように!」と一声加えると、疲労や達成感で緩みそうになっていた彼らの表情が、改めて凛々しく引き締まる。
その様子を見届けてから、二人分の荷物を他の団員に預け、立ち上がろうとする先生の傍に寄った。
「貴女の荷物は他の団員に預けた故。残りの道中は、俺がおぶさっていくでござる」
「そ、そんなことまで大丈夫です、火傷したくらいなので」
「あ奴らの放電は身体に残る。麻痺の感覚がある中でカルサーまでの道中は、些か遠すぎるでござる。遠慮は無用、さあ」
それでなくとも、もう太陽は谷の影に落ちている。いくら命に関わるほどの一撃でなかったとしても、怪我をしたことには変わりないのだ。未だ納得できないように「ええと・・・・・・」と困惑する先生に問答無用で背中を差し出すと、躊躇する気色ではあったがしずしずと手が置かれ、やがて体重がかけられた。
ぴったりと背中に纏わりつく体表との接着面がじりじりと熱を持つ。放電の余波が移ったのか、はたまた彼女の火傷が移ったのか。ごめんなさい、と言いながら擦られる頬の形や手の形に、熱が疼きとなっていつまでも体表に残りそうだと考えた。
彼女の息遣いを背中越しに聞きながら、夕闇に沈む砂漠を進む。頼りになるのは、夜の準備として灯されたカンテラの火と、いの一番に目立ちだした、とりわけ明るい星々の明かりのみ。
集団の真ん中を位置取りながら歩いていたが、俺たちと彼らの間には少しばかりの距離が開いている。どうやら団員達が要らぬ気遣いをしているようだが、揃って気配を殺しながら歩くものだから、余計に俺と先生の二人だけで過ごしているような気になった。
体温を感じる距離感は、まるで幼少期に隣り合って座り、ただ眼前に広がる砂漠を指さしたり、空に散りばめられた星の話をした崖上を思い起こさせる。
崖上と違うのは、吐息のような声でも聞こえる距離にも関わらず、俺達は何も喋らなかったということだ。ただの一言も喋らず、ざっざっという冷えた砂漠の砂粒を踏みしめる単調な音を聞くだけの、なんでもない時間になった。
なにかを言えば、きっとどちらもそのままでは居られない。膨れ上がるほど一杯に張った水がたったそれだけの振動で零れ、二度と元には戻らないように。取り返しのつかない憶測が、確かに俺たち二人の間を取り巻いていた。
結局、谷へと帰還できたのは、煌々と明るい月すら頭上に上った夜半前だった。
砂漠の夜は、昼とは別世界と思えるほど気温が下がる。絶えず身体を動かしていたのにすっかり肌を冷やした団員たちは、守衛番に招かれて玄関をくぐったとき、その場に座り込む者もいるほど疲労の極限を迎えていた。
いつもは書庫にて文献と対峙する彼らにとって、体力・精神力共に限界であったのだろう。口々に漏れる言葉は疲れも緊張感もさることながら、一番に何事もなく業務を終えられた安心感の吐露であった。
「先生、一旦おろすでござる」
「はい・・・・・・」
それまでおぶさっていた先生に小さく声をかけて、彼女をその場へ下ろす。
結局、俺たちは道中で一言も言葉を交わさずじまいとなった。服越しに感じる身体の温かさと、微かな彼女の身動ぎだけを頼りに、今どんな表情をしているのか、何を考えているのかを慮りながら黙々と砂漠を歩いてきた。
彼女を隣で見続けていた俺には先生の胸が裂けるような想いを想像できる気がしていたが、結局それは全て思い上がりだと、後々思い知ることになる。
研究班員らの前で仁王立ちすると、俺が何事か言おうとしているのを察したのだろう。座り込んで天井を仰いでいる者も、談笑に耽っている者も、立ち上がって俺へと姿勢を正した。唇を結んで見せつけてくるその表情は、誰もが誰も、やり遂げた晴れやかさに満ちている。
「今日はひとえにご苦労であった。俺はこれからコーガ様へ報告に行くでござる。諜報の任に就く者には明日、個別に連絡を通そうかと思う。これをもって、此度の遠征業務を解散とするでござる。今日はゆるりと休むように」
解散、の締め文句と共に、団員たちが一斉に頭を下げ、今度こそ弛緩しきった談笑が始まった。ぞろぞろと廊下の奥へ連なり、岩壁に反響した賑やかな声の塊が徐々に遠ざかっていく。
「・・・・・・先生はすぐさま医務室に行ってくだされ。軽傷とはいえ、やつらの放電で火傷は必至でござる」
人の塊から外れ、その場には立ち尽くした先生が残っていた。
思いつめたような険しい表情に、何事か言いたいのだろうと検討もつく。この場から今すぐ立ち去りたい気を留め、半身で彼女に振り返った。
「聞きたいことがあります、スッパ様」
「何事を、でござるか」
「諜報員が誰になるのか、聞いても良いでしょうか」
廊下の奥から微かに聞こえる談笑の声を貫くように、その声は真剣で、微かに喉の揺れる音は、今にも堪えきれず泣きだしてしまいそうでもある。その心算を考えると、刃こぼれした刀に裂かれたような、じくじくとした痛みが胸に走る。
昼間に見た自信ありげな顔じゃない。彼女はもう既に、自らが切望した結果が叶わないと、分かっていたのだ。
「・・・・・・今は身体も心も疲れているはず。なにも、今でなくとも」
「今が良いです、今聞かせてください。・・・・・・お願いします、今が良いんです」
「それは・・・・・・分からぬ。全てはコーガ様が決めることでござる」
「だったら、お願いです。私が諜報へいけるようにスッパ様のお口添えを頂きたいのです。お願いします。お願いしますから」
深々と頭を下げた先生の黒髪が、痛々しく焦げているのが目に入る。小さく丸まった背中は、初めて見たときよりも随分小さく、頼りなかった。
行きがけの態度や、彼女が見せる任務への気概は、もはやある種の執着だ。それは決して讃えられるものではないだろう。自分自身にも覚えはあるが、大きな失態を犯す前触れだと思えて仕方がない。
「・・・・・・なにゆえ、そうまでして前線に行こうとするのでござるか」
そもそも彼女なら、なにも前線に行かずとも功をたてられる。知を生かし、策謀家としてアジトに残る手も残されているのだ。ひとつの失態が自らの命運を左右する場所に固執する必要など、どこにもない。彼女も分かっているはずなのに。
先生は頭を下げたまま静々と語り出した。
「今まで大した業務なんてしてこなかったので。・・・・・・内勤のままじゃ、武勲がたてられません」
「武勲だけが全てでは無いはずでござろう。現に、貴女は知識をもって、これからのイーガの道筋を紐解いた。それは今までの研鑽があってこそでござる」
「でも、何十年の研鑽が結んだ功など、その程度です。それより王家の首をひとつ刈った新人団員の方がよっぽど讃えられています。コーガ様のため、大きな成果を得たいと思うのは当然ではありませんか」
「・・・・・・慣れぬ諜報で命を落とす可能性を考えれば、それが最上だと自分は思えぬ」
その瞬間、彼女が息を飲み、ぱっと顔を上げた。見開かれた瞳に、はっきりと皺の酔った眉間。唇が戦慄き、歯を食いしばるのは、いつも朗らかで理性的な先生とは思えない表情だ。
今まで見てきたどの場面の彼女よりも、先生の感情があらわになっていた。
「大げさではありませんか? 慣れないと言っても、私だってイーガの端くれ。諜報くらいできます」
「忍び込むのは敵方の中心地。手練れといえど命の危険のある死地でござる」
「命の危険があるのはどこだって一緒だよ。そもそも命を捨てる覚悟なんてとっくの昔にできてる。今更そんなの理由にならない」
「情報のために命を捨てるつもりでござるか」
「それがイーガの生き方で、スッパ君だってそうしてきたでしょ? 違う!?」
語気荒く、こうまで刺々しい声音を今まで聞いたことがあっただろうか。玄関口、燭台の灯りが揺れるごとに瞬く瞳が、怒気に満ちている。肩で息をしながら俺に向ける顔つきは、まるでリザルフォスの首を刈り取るときと同じ形相だった。
ただそれだけじゃない。握りしめて白くなった爪の先が震えているのは、緊張か、慣れぬ激情故だろうか。
「スッパ君は」と、微かに開いた口元から漏れたのは、喉を絞ったようなか細い声だった。そうしなければきっと、彼女は大人でも、一団員でも、先生でも、その場に居られなかったに違いない。その声を出させたのは、紛れもなく俺だった。
「スッパ君は、私が任務に行くのを喜んでくれないの?」
高い天井の玄関に、彼女の声が反響もせずに吸い込まれていく。そのまま場がしんと静まり返っていくが、かといえ俺の頭の中には、彼女の絞り出した声がいつまでも残り、しっかりと染み付いてしまった。
言えるわけがない。俺は修羅として生き、団員たちの生と死を背負うと決めた身。本来であれば、奥底から湧き上がる思いなど振り切って、此度の遠征すら行うべきではなかった。
やはり呪いなのだ。彼女への想いを自覚してしまった今、振りほどくことなどできない。言い訳を探し、並べ立て、理屈をこね回す。あの時に自覚せねば、こんな唾棄すべき行いなどしなかった。
今まさにその体躯を腕に閉じ込めて、吹きすさぶ数多の砂粒から守りたいなんて、崖上でただ何もせず待って居て欲しいなんて、こんなおぞましい願いを抱かなかった。
彼女は、溢れる好奇心と主君への思慕に、これだけ身を焼いているのに。
任務ひとつでも命を賭けられる彼女と違い、所詮俺はイーガの生まれではない。
仕える主。家族と呼べる同志たち。守るべき大事な人。俺が命を賭し、畜生道に邁進できるのは、彼女と違って結局我欲のためでしかない。
大きく見開かれたまなじりをただ黙って見つめていると、先生がおもむろにふっと口端を歪めた。
「スッパ君はさ、私がコーガ様の役に立つのを、邪魔してるんでしょう?」
思ってもみなかった言葉に、俺は「なに?」と一言聞き返した。
「長年培ってきたくだらない知識をやっと活かせる場が来たのに、その機会まで奪われたら、私はいつコーガ様の役に立てば良いの?」
「くだらなくなど・・・・・・」
「武勲を積んで、コーガ様の目にかけられて、筆頭幹部にまでなったスッパ君には、私の気持ちなんて分からないでしょうね」
感情が沸騰したように次々溢れだす批難に、胸がざわついて仕方ない。これ以上言って欲しくない。これ以上聞きたくない。留めるつもりで「先生」と呼んでも、彼女はそれでも止まらない。
俺に表情を見せつけてくるように、ぐっと詰め寄ってくる。歪み切ったその表情に涙の影は見えない。しかしなぜこうも、今まさに泣いているかのように見えるのか。泣いてくれないと、貴女を慰める理由を得られないのに。
「私は昔、誰かの記憶に残れば隠密の生でも意味になると言った。でも私だって本当は、イーガとしての意味が欲しい。ただ岩屋の中で本と死ぬのなんか嫌だ。外に出て、せめてコーガ様のために、戦場で死にたい!」
「先生ッ!」
肩を掴む。痛みで怯んだようだったが、それでも彼女の瞳孔は開いたままだった。
彼女のこんな顔が見たいわけじゃ無い。彼女にはいつまでも、朗らかに笑っていてほしいだけだった。星空の元、あの崖上で綻ぶ笑みを、俺はいつまでも見ていたいだけだった。
しかし、この思いこそが彼女をこうさせた。俺が彼女を必要としてしまったから。俺が彼女に恋をしてしまったから。俺が彼女に会ってしまったから。俺たちはきっと、最初から会うべきではなかった。
俺の存在自体が、まぎれもなく、彼女を苦しめる元凶になっている。
「なんだなんだ、何の騒ぎだ」
ぴんと細い糸が張ったような緊張感の中、その場に悠々と現れたのは、コーガ様だった。
なぜここに、と頭に浮かんだが、彼の後ろに守衛の幹部殿が控えている。
上役に食って掛かる一構成員など、武力がすべてであるイーガにおいてはあり得ない。しかし、彼は俺と先生の遠すぎない関係を知っている。諌め役にもなれたが、無為に割り込むのが躊躇われたのかもしれない。
だからといってコーガ様を連れてくるとは・・・・・・と一瞬苦く思ったが、結局それほどの揉め事になっていると思わせたのだから、俺が文句を言う筋合いもない。
「なんで揉めてんだ。今日の任務でか?」
「は・・・・・・諜報員に立候補したいとのことで話を。しかし・・・・・・」
「あんだ。何か問題でもあったのか?」
先生に一瞥をくれる。彼女はうつむいたまま何も言わず、拳を握りしめたままだ。
俺の下した決断を今ここで伝えれば、きっと彼女は傷つくだろう。内臓にキリキリした痛みが走るが、それこそが筆頭幹部として背負うべき責務だ。ただ少し、このときばかりは他の道もあったのではないかと思い返してしまう。
俺は一度小さく息を吸って、コーガ様の真正面に向き直った。
「・・・・・・彼女は知に長け、刀の扱いも申し分ない。任務への覚悟も持っています。・・・・・・しかし俺は、敢えて違う者を推薦したい」
言い切った途端、「スッパ君」と物言いたげに先生が顔を上げる。反意の籠った視線に身を焼かれる間、俺はコーガ様の面から目をそらさなかった。
俺たち二人を交互に見やったコーガ様は、落ち着いた様子で「ふむ」と頷いてみせる。
「理由は?」
「彼女は、王家との戦で要になるであろう古代シーカーの知識が豊富であり、先見の明があります。しかしやはり気になるのは経験の浅さ。遠征にて優先順位を違え、このありさまでござる。此度の計画は失敗が許されぬ故、前線よりはアジトにて計画立案の任についた方が、イーガの益になるのではないかと考えた次第」
「ふーん。そいで、お前はそれが不服なわけだ」
次いでコーガ様の面が先生に向けられると、彼女は主君に食って掛かる様に詰め寄った。
「優先順位をはき違えてなどいません!死に至ることが無いと判断したからこそ、私はリザルフォスの攻撃を浴びました。これはそこまでの怪我ではありませんし、計画の失敗なんて・・・・・・。此度の諜報は、古代シーカー族の知識が必要不可欠なはず。知識には自信があります、私に城への諜報をお任せください!」
「確かに、知識に関しちゃあお前はかなり信頼できる。任に当たるのは妥当だろうな」
「なら・・・・・・!」
「しかしスッパの言い分も分かる。バレりゃあ、イーガの計画がおじゃんになるのは目に見えてるし、そんな傷だらけで敵地に入るのは、私は敵です、殺してくださいって言ってるようなもんだ」
穏やかに、しかしきっぱりとした主君の声に対し、「それは・・・・・・」と先生は言葉を詰まらせた。的を射た指摘に言い返す言葉が思いつかなかったらしく、握った拳は力が抜けたように体の横におさまり、徐々に肩を落としていく。その所在無さげな背姿は、まるで頼るべき親を失くした子供のようだった。
「城と四地方への諜報は、早けりゃ明日にでも始めたい急務だ。お前の怪我が完治するのを待つ余裕はねえ。今回は諦めるこった」
「そんな・・・・・・」
「それに、諜報が必要なのは、そこばっかじゃねえしな」
諜報が必要なのはそこばかりではない、とは、おそらく古代王立研究所のことだ。
城と四地方での情報収集が終われば、最終的に向かうのは研究所だ。そしてそこは、城よりもよっぽど危険に満ちている。
先生越しにちらりとくべられた視線に、その場での同意を見せられない。何者も見透かすようなコーガ様の瞳から顔を逸らすと、大袈裟に「はあ」とため息を吐かれた。
「実地任務につきたきゃ、怪我治しながらでもできる別の要件を宛がってもらった方が良い。経験にもなるし、スッパに用立ててもらえよ」
「・・・・・・それってつまり、私はお荷物だから、大した事ない任務でお茶を濁せと、こういうことですか」
ぼそりと漏れ出たのは、コーガ様への反意。「先生!」とすぐさま諫めようとするところ、コーガ様は鷹揚にも「まぁまぁ」と、俺の方こそを手で諫める。
敬愛を示して止まない先生がコーガ様へ口答えをするなど俄かに信じられない。しかし、普段との乖離があればあるほど、先生が理性的でなく、嵐の如き感情にむしばまれていることの証左に思える。
そして俺だけでなくコーガ様も、彼女の嵐に乱されぬ理解があったらしい。
「何もそんな言い方ねえだろ。適材適所って話してんだ」
「・・・・・・適材適所」
「少し落ち着けよ。理性的なお前らしくないぞ」
「・・・・・・」
「いつもだったら、もうちっと冷静に話をするだろ、な」
その声は、崖上で彼女を諫めた時の声によく似ていた。違うのはきっと、俺も先生も、あの時より随分素直さを失い、入り混じる自我を身につけてしまったということだけだ。
最後に微動だにしない先生の肩をポンと叩いたコーガ様は、すれ違い様に俺へ「慰めてやれ」と耳打ちをした。
門前に戻っていた守衛の幹部殿にも目配せをして、そのまま後ろ手に手をひらひらと振りながら行ってしまう。廊下を曲がり、完全にお姿が見えなくなれば、玄関口に改めて沈黙が広がった。
彼女の背中が小さく見える。いや、実際にそれはずっと小さかったのだろう。彼女はどちらかといえば、イーガの中では華奢な体つきをしていた。なぜ頼りがいのある大きな背だと見紛っていたかといえば、7か8のときから続く俺の思い込み。頼りにしたいと考えた、子供の無邪気な甘えの所為だ。
「・・・・・・私らしいって、何かな」
沈黙を破ったのは、先生だった。
「理性的に自分の気持ちに蓋をして、空気を読んで冷静ににこにこしてれば、私らしいのかな」
「先生」
「・・・・・・スッパ様の顔を立てられたんですね。コーガ様は」
俺に寄越した横眼が見たこともないくらい冷たい。「そのようなことは」と返すが、まるで見知らぬ人間と相対している気になり、どこか中身のない言葉にしかならない予感がして、最後まで紡げない。
「コーガ様は、スッパ様が大事なようですから」
「先生・・・・・・」
「いいですね、あなたは。昔から大切にされて。まるで血の繋がりがあるみたい」
「コーガ様は、イーガの団員を例外なく見てくださっている。先生も知っているはずでござろう」
「私は、あなたが特別に扱われているようにしか思えません」
吐き捨てる言葉は、研いだ刃のようだった。俺の思い上がりと、心を確実に削いでいく。
しかし、俺自身が傷を受け、痛みに怯んでいる場合ではない。その刃はきっと抜き身であって、持ち手の彼女は素手だった。他人が困っているのを見て見ぬふりもできぬ彼女が、平気な顔をして他人の心に傷をつけられるとは思えない。
「どうしたでござる。なぜ今日はそこまで」と続けた言葉に、彼女は漸く振り返った。
「コーガ様にとって、私は」
しかし、言葉はそこで途切れてしまう。「・・・・・・いえ、何でもありません」と、また改めて瞳を伏せる姿に、俺も改めて問うことはできなかった。
「・・・・・・任務のこと、よろしくお願いいたします」
小さく会釈して、彼女はおもむろに歩いて行ってしまう。その歩みに惑いはなく、これ以上話したくないと暗に突きつけられた気がした。
彼女の姿が廊下の奥へ消え失せても、後を追うようにすぐさま歩を進める気になれない。とはいえ玄関口には守衛番の幹部殿も残っており、仮面越しではあるが、遠目で視線を送られているのが分かっていた。
彼は俺と先生との間柄をよく知っている。何せ、幼少期から今に至るまで、崖上を訪れるためには彼から外出の許可を貰う必要があり、再三業務外の時間に外へ出る姿を見られている。あまり平時で喋る機会は無いものの、もっとも俺たち二人の関係を知る人物ともいえる。
この場に立ち尽くしていても仕方がない。俺は玄関を騒がしくしたことに頭を下げてから「すみません、自分もこれで・・・・・・」と、片手で応える彼を背にその場から立ち去った。
行燈のみの光で照らされる廊下は窓が一切なく、いつだって薄暗い。しかし夜半過ぎにもなると人気が失せるからか、昼間より暗闇が鬱蒼としている気がする。
玄関口の広間から廊下の闇へと足を踏み入れた瞬間だ。何者の視線からも逃れたと思ったら、途端に身体中の力が抜けて立っていられなくなった。
それまで俺は、何か不思議な力で天井から吊られていたに違いない。体の節々に張られた糸という糸がぷつりと切れでもしたみたいに、壁へ凭れかかってずるずると重力に抗わず座り込んだ。自らの身体が酷く重く、今すぐに自分の力だけで立ち上がって足を動かそうとは、とてもじゃないが思えない。
朝から今に至るまでの出来事が、走馬灯のように頭を駆け巡る。緊迫した顔、思いつめた顔、好奇心にはしゃぐ顔、勇ましい顔、煤で汚れた顔、泣いていないのに涙の痕を空目するような歪んだ顔。
今日は、ただ、疲れた。誰も見ていないのだ。今だけは筆頭幹部と言えど、弱音を吐くことを許されようか。過去さまざまなイーガの団員を見送ったこの冷たい遺跡の壁に、疲労を吐露しても許されようか。
両手で顔を覆い、俺は項垂れながら身体に溜まった息を深く、深く吐ききった。
■
遠征から一夜明け、次の日。
研究班の集まる書庫へいき、コーガ様との相談の末に選出された団員に、諜報任務を言い渡した。
彼らにとってみれば、昨日の朝に初めて聞かされた寝耳に水の話だ。すぐさま発たせようと準備を急かすのは些か強行だが、しかし、遺物を取り巻く現況はイーガにとって芳しくなく、情報取得は早ければ早いほど良い。ばたばたと忙しない一日になったが、なんとか日を跨ぐ前に身支度を終えることができた。
今まで目立つことのない部署として、研究班は何かと団内でお荷物扱いされていた。その研究班の中から、イーガの中でも重役として扱われている諜報任務に就く団員が現れたのだ。彼らはこの出来事をひとつの晴れ舞台として考えているのか、旅立ちの瞬間には、他の研究班員も玄関に集まって見送りをすることになった。
ただひとつ気になったのは、その中に先生の姿がないことだ。見送りの瞬間だけでなく、朝に書庫へ訪れたときから一日中、彼女の姿を見ていない。
否が応にも無意識に目で探してしまう自分に嫌気が差すが、先生は研究班の古株。各団員の世話を焼いていた彼女がこの場に居ないのは些か妙で、団員たちもひそひそと耳打ちしながら、何故いないのかを囁き合っているようだった。
すっかり暗くなったハイラルの地に発つ五人の諜報員を見送った後、呼吸を合わせたように団員たちがぞろぞろと帰っていく。これからの時間はもう寝るばかりで、俺は共寝所に向かおうとする団員の一人を捕まえて、「聞きたいことがあるのだが」と声を掛けた。
「今日一日の間、トカゲの放電を食らったあの構成員の姿が見えぬ。様子を伺いたかったのでござるが・・・・・・」
「スッパ様が先生と慕う彼女ですか?はて、今日は一日書庫でも見てません、療養で暇を頂いていたのだと思っていましたが・・・・・・」
怪我をして、昨日の今日なのだ。共寝所か医務室で療養するのは当然あり得る話だろう。しかし、任務や鍛錬に勤しむ最近の彼女を考えると、あれだけの怪我で一日寝て過ごすとは到底思えない。
団員には感謝と就寝の挨拶を告げて、廊下の奥へと消えていく研究班員の背中を見送った。
玄関には件の守衛番が残るのみで、燭台に灯る蝋燭の燃焼音が耳に届くほどの静けさが広がっている。
守衛の幹部殿に会釈して行こうとするところ、思ってもみなかった「スッパ」という落ち着いた声に呼び止められた。
「あの構成員を探してるんだろう? 外でよく逢引きしてる」
「・・・・・・少し語弊がありますが、左様でござる」
「さっきふらふら出ていったのを見た。帰ってきてないから、たぶんまだ外にいる」
夜半前に、一人で外へ。これだけでも、彼女がいつもの崖上を目指したことは想像に難くない。
いくら命に関わる怪我でなかったとしても、彼女は本来であれば治癒に徹するべき状態である。じっとしていれば身体の芯まで凍える砂漠の夜に、いつもの如く気まま勝手に動かれるのも、俺の立場上看過はできない。
しかし。俺にはこのとき、すぐさま崖上へ向かうのには躊躇いがあった。
話を聞く限り、彼女は今日一日、書庫にも行かず、研究班の誰とも会っていない。間違いなくそれは意図的で、誰にも会いたくなかったからだ。そんな彼女に、おめおめと俺が顔を見せても良いだろうか。
彼女の心に傷をつけたのは、はっきりと俺だろう。その傷口に、今度は塩を塗り込みにでも行くというのか。
「行かないのか。探してたんだろう」と首を捻る幹部殿に、なんと言えば良いか分からない。
昨晩の口争いも見られていたことだし、彼はそれなりに事情を察している。とはいえ、どれほどの頻度で彼女と会っているかを把握しているだけの相手へ、開けっ広げに相談をするのも如何なものか。
結局、何を言うべきかに迷って言葉を紡げずにいると、幹部殿がため息を吐きながら、首を右に左にと振ってみせた。
「昨日口喧嘩になったの、まだ気にしてるのか」
「それは・・・・・・ええ、まあ」
「俺は遠目に見てただけだからよく分からんが、だからといって避けるのは悪手だぞ。取り返しがつかなくなる。お前から縁切りしたいわけじゃあるまい」
「しかし、相手がそれを望むなら、俺は・・・・・・」
それも受け入れるしかない。とても最後まではっきりと言えずに語尾を萎えさせると、幹部殿に「お前なぁ!」とひときわ大きな声で呆れられる。
「バカ言ってないでまず会いに行ってみることだ。居場所の検討がついてるんだろう? その場所に居なければ、それは縁切りしたい証左だろうよ。しかし、お前が考えている場所にいたのなら」
「・・・・・・居たのなら?」
面下で、ふっと笑うように息の漏れる音が聞こえた。
「皆まで言わせるな。いいからとっとと迎えに行ってやれ。お前の女だろう」
肩を叩いたバシン、という乾いた音が岩造りの玄関に反響する。叱咤激励というには些か強すぎる平手打ちだが、寡黙に俺たち二人を見守ってくださっていた人だ。じんじんと肩に残る疼きが、頑張れよと背中を後押しする彼の情が移った証拠に思えた。
「かたじけない」と頭を下げ、見守られながら玄関の戸を抜ける。途端に身を包むのは、カルサーの乾燥した肌寒さだ。俺は、燻る気持ちと共に、ほぉと肺に溜まった息を吐き切った。
空は薄い膜を張ったような雲に覆われており、星明りは元より、月明かりすら期待ができない。いつもより濃い闇の中を躊躇なく進んでいけるのは俺が何十年と通った道だからこそであるが、一歩一歩着実に足が出せるのは、間違いなく幹部殿の手痛い激励のおかげだ。
いつもの崖を登る間、彼女はあの場にいるだろうかと考えた。
彼女との繋がりはそもそも、酷く脆くて、儚いものだった。実体のない雲に隠れるだけで見えなくなる星明りのように、いとも容易く失せてしまうものだった。
雲を散らし、なんとか明りを保ってきたつもりだったのは、今にして思えば地上から必死に息を吹きかけていただけのことだったのかもしれない。
星は季節によって場所を変えるのだと先生から聞いたことがある。やっと雲が晴れた先、俺の愚行に愛想を尽かし、どの星も戻ってこない可能性もあるのだろう。快晴の空だとして、俺には眩しすぎる月の灯りだけが煌々と残るだけかもしれない。
もう、分からない。いつもであれば確信めいた崖上への憶測が、今日はもう、自信を持つことができずにいる。
手をつき、身体を持ち上げ、何者にも遮られない拓けた場所へ出る。そこは俺が待望した崖上だ。
暗闇に沈む荒地。登りきった崖上はいつにも増して風が強く、長く伸ばした俺の髪の毛が、登りきった瞬間から乱れるようにその場で舞った。仮面すらカタカタと音を鳴らすものだから、手で押さえて目を凝らす。
地平線のような崖端に見えたのは、よく見慣れた人型のシルエット、だった。
「・・・・・・筆頭幹部殿」
岩場を切り崩したような崖の端、砂漠を眺めていた先生は、おもむろに振り返って小さく呟く。
月もない暗がりではあまり視認できないが、振り返る折、彼女はそれまで晒されていた口元をイーガの面で覆ったようだ。まるで俺から、彼女の心算そのものを隠すように。
今はそれでも良い。緩く腰を浮かせる彼女に、俺はゆっくりと近づいた。
「なぜここへ?諜報員の見送りがあったはずでは?」
「見届けたからこそ、ここへ。怪我人の様子を伺うのも、筆頭幹部の務めでござる」
こんなのは言い訳に過ぎない。しかし、真っ当な理由がなければ、どうにも彼女へ近づくことを許されない気がしていた。
現に彼女は俺の言葉に納得したのか、警戒に近いひりつくような態度を「そうですか」と少し和らげた。とはいえそれでも油断はできず、野生動物が逃げでもしないくらいの速さで、ゆっくりゆっくり距離を詰めていく。
先生の背後まで辿り着き、そこで初めて違和感に気付く。彼女と出会ってこの方、先生はずっと肩下までの長さに黒髪を保っていた。つむじで結ってもなお靡くほどの長さがあったものだが、それが今は、ばっさりと切られている。
「先生、髪が」と堪えきれず指摘すれば、彼女は「これ?」と、どれだけ短くなったのかを見せつけるように、さらりと襟足に指を通した。
「昨日のシビレリザルフォスの放電で、随分縮れてしまったでしょう。良い機会ですし、これくらい切っても良いかなと思って」
「放電で焦げたのは毛先だけだったでござろう。何もそこまで短くせずとも」
「いいんです。髪の毛を切ると、気持ちも改まりますから」
短い髪の毛を指先で弄びながら呟かれた声は、どこか達観したような、諦めの音が乗っていた。
シーカーの白髪が根元に現れても染髪を差し置く彼女は、今まで髪に執着する様子を見せたことがない。俺が筆頭幹部に就任する以前であれば、崖上で会う時に髪を結っているときの方が稀だったし、結っていたとしても紐でまとめきれなかった髪の毛がまばらに垂れていた。
とはいえ、女人にとって、髪は命と同等に大切なものだとも聞く。あれほどの長髪を育てるには年単位の時間が必要であろうし、どれほどの思いで断髪に臨んだのか一切の想像がつかない。だからこそ、ぎゅっと胸を掴まれるような痛みを感じてしまう。
「・・・・・・怪我の具合は如何様でござるか」と間を繋ぐように問い直せば、先生は髪を遊ぶ手の平を、今度は開いて差し出してきた。
「手の平を火傷しただけです、刀をすぐに手放さなかったから・・・・・・。あとは髪の毛くらいで、麻痺も残っていません」
「それは何より。・・・・・・しかし、今日は特に冷えるでござる。まだ万全でもありますまい。凍える前に戻った方が良いのでは」
「・・・・・・もう少し。せっかく、お酒も用意してきたので・・・・・・」
いつもは身一つでただ砂漠を眺める寝巻き姿の彼女の傍には、確かに見慣れない徳利と猪口が置いてある。一瞬それらに視線を落とした先生は、かと思えばすぐさままた俺に、動かぬ仮面の瞳を向けてきた。
「筆頭幹部殿も、一杯、いかがですか?」
徳利を指先でつまんで下から見上げてくる先生は、無理に作った上ずり声で小首を傾げて見せた。
他の団員から誘われたのなら迷うこともなく断っていた。それでなくとも、普段から頭が覚束なくなる酒など、進んで飲みはしない。
なぜなら、今はいつ何が起こるか分からない戦の機運。いつ敵襲があるかもわからないイーガにおいて、業務終わりの夜半とはいえ酒を飲むなど愚の骨頂だ。俺だけでなく、内勤の最たる研究班といえど同じである。そんなことは彼女だって、もちろん分かっている。
しかし、まともでいれば耐えられぬ夜が、我々にはある。
俺は、返事なくその場で胡坐をかいた。
言葉なき是に、彼女も何も言わず徳利を取った。猪口の飲み口を指の腹で拭い、静々と手ずから酒を注ぐ。
酒を飲むのは、筆頭幹部就任の儀以来やもしれぬ。ましてやツルギバナナを片手に語らうことはあれど、幼少期を共に過ごした彼女と共に晩酌をするなんて、この戦中で考えてもみなかった。
地面に置かれたままの猪口。静謐で揺れもない水面には、ただの星灯りもなく暗闇が蔓延るだけだ。
徳利から注がれたのは、飲み慣れぬ酒か、それとも彼女から滲み出た悲しみか。
「頂くでござる」
注がれた猪口を彼女に掲げ、俺はそれを一口にした。酒精の匂いが鼻を抜け、喉を焼きながら腹の中へと液体が滑っていく。火でも飲み込んだかのように内側から感じるじりじりとした熱は、夜半の乾燥した砂漠で凍えた身体を温めてくれる気がした。
ふぅ、と吐息と共に地面へ猪口を置くと、応じるように先生が改めて酒を注ぐ。
「今日は、出立に相応しい夜ですね。月も星もなくて、静かで」
先生の声は、思ったよりも穏やかだった。
「ここから少しだけ、団員が歩いていくのが見えました。何事もなく帰って来てくれれば良いですね」
「他の研究班員も、無事を祈って玄関口に集まっていたでござる。先生の姿が無いのを不思議がっていたが」
「・・・・・・ちょっと、気持ちがまとまらなくて」
注がれた酒に映りこむ、動かぬイーガの瞳。面の隙間から覗くのも、俺から素顔を隠す闇しか見えない。
慰めるべきだ。俺が彼女を傷つけた。しかし、俺が一瞬でも言動に惑うとき、先に動くのは、いつでも大人である彼女の方だった。
「昨日は本当に、ごめんなさい」
唐突に耳に届いた謝罪が分からず、何も言わずに面を上げる。
膝の上に揃えられた手指、そして俯いた頭の先が目に入り、一拍空けて正式な謝罪の形だと分かって、胸に新しい生傷が付いたように、じく、と痛みだす。
そんなことをして欲しいなどと、俺は一切思っていないのに。俺と彼女との間に、一本線のような溝があると突きつけられるようだった。
「あんなに理性を欠くつもりはなかったんです。コーガ様が仰ったことも、スッパ様が仰ったことも理に適っていると頭では理解できていて・・・・・・。自分なりに精一杯やったことがダメだったと分かって、目の前が真っ白になって」
「・・・・・・」
「でも、だから選ばれなかったんだって腑に落ちました。個を殺し、優先順位を違えず、いつでも無感情に冷静でいなければいけない。隠密としての基礎ができていないんだから当然だって。私はやっぱり、書庫で本に囲まれてるのがお似合いなんだって」
「そんなことは・・・・・・頭を上げてください、先生。そこまでの謝罪は不要でござる」
地面を見つめたまま頭が上がる。縮まった彼女の肩は、寒いからというだけではないだろう。昨日日に焼けたばかりなのに、やけに血の気を失った手先が、謝罪というにはあまりにも自虐的な言葉を飾り立てている。
「・・・・・・その点、スッパ様は隠密の業も心得も完璧ですし、私と比べるのもおかしな話でした。皆も貴方を信頼し、頼りにしています。貴方が居れば、イーガがこれから踏み入れる血の道にも安心ができると」
「それは買いかぶりすぎでござる。俺の存在など、コーガ様があって初めて意味を為す物でしかないでござる」
「コーガ様・・・・・・」ぼんやりと繰り返される呟きで、何かしらはたと思い至ったらしい。それまで膝上へ穏やかに添えられていた拳に突如としてグッと力が入り、彼女は深く俯いた。
「そう、ですね。彼の方あってこそです。私がいるのも、スッパ様がいるのも、皆がいるのも」
「・・・・・・先生」
遠くの砂漠を見遣るように視線を背ける。そのまま膝を抱えるように座り直し、彼女は足の隙間に湛えられた闇に顔を埋めた。微動だにしなくなった首元が、短くなった髪の毛の所為でやけに寒そうに見える。
崖上を吹き抜ける風の冷たさから身を守るためではない。彼女はこの時、この世の見たくないものから、目を背けたかったのだ。
「今日は私、ダメなんです。なんだか感情的になっちゃって。・・・・・・貴方がきてから、余計に」
「・・・・・・」
「貴方に対して真摯でいたかった。私は貴方の先生だから、カッコいい頼れる存在で居たかった。なのに、こんなに情けなくなっちゃった。理想ばっかで、空回りして、結局貴方に頼ろうとして、現実を突きつけられて」
「・・・・・・」
「私、ばかみたいでしょ? なんにもできない私なんかを、貴方が先生って慕ってくれるのがつらい。なんにもできないの。何にも、してこなかったの。ただあの狭い書庫の中で、本を読むこと、しか、ずっと・・・・・・っ」
最後の言葉は、声が震えて何を言っているのか分からない。それでも、鼻を啜る音と、一生懸命に綴られ続けた本心の吐露は、重ねた膝の隙間からしっかりと俺の耳に届いた。自らを抱きしめるように回された手の平は力強い。しかし、嗚咽の音と共に、肩の震えは止まらない。
泣いてほしくない。震えてほしくない。一人で抱え込んでほしくない。彼女の力になりたいと思った。その震えを止めるだけでも、力になりたいと。それが、彼女に生きる道を救われた俺がやるべきことだ。今まで臆病に、彼女に寄り添っていたつもりだった俺は、実際彼女を支えるべきだった。
俺の生に彼女が足を踏み入れたように、彼女の生に、今度は俺が足を踏み入れる番だろう。
一人で震えに抗う健気な肩に手のひらを乗せても、彼女は身じろぎもしない。拒まれていないと分かって、そのまま包み込むように腕を回した。ぎゅう、と背中から抱き締めて、彼女の後頭部を胸板で感じた。
覆いつくして初めて分かる。その凍え切った身体の冷たさに。見た目よりも随分、彼女の震えが大きいことに。頼りがいのある大人だったはずの彼女の背中はすっぽりと覆えるほど小さく、幼少期からその大きさは変わっていないだろうことに。
俺の身体だって、温かくはない。しかし、吹きすさぶ風を二人で凌いでいれば、だんだん内側だけは温かくなってくる。二人で作った熱は、くっついてさえいればそう簡単に冷めることはない。せめて今だけは寄り添っていたくて、俺は強く、強く彼女を抱きしめた。
「・・・・・・スッパ、君は、良い仲の人はいる? 慕ってる人とかは?」
身体の隙間からくぐもった声が聞こえる。何も言わずにいれば、彼女が少しだけ顔を上げて、背中越しの俺に小さく横顔を覗かせた。
「・・・・・・私ね、好きな人がいたの。ここに来る前からずっと好きで、その人のためにここに来た。でももう、諦めたい。あの人のためだけに生きるのをやめたい。期待したくない。ただの、なんでもない人だって思い直したい」
「・・・・・・先生」
「貴方にしか言えない我儘、言っていいかな。ごめん。本当にごめんなさい」
身動ぎした彼女に応じて腕の力を緩めれば、彼女は俯いたまま、俺に向かって身体を反転させる。
「今だけでも、忘れさせてほしいの、お願い・・・・・・お願いだから」
幼少期から今に至るまで、反吐が出るような思いと共に、切望し続けた瞳の色がある。
しかしきっと、その色を求めてはいけなかった。求めるべきは、彼女にそんな顔をさせないと誓う、俺の覚悟の方だった。
今も昔も、彼女が俺に向けるのは、情の籠った朗らかさ。今もそうなのだろうか。これからもそうなのだろうか。もはや、そうであって欲しいと思う。それが俺と彼女が紡いできた、イーガでの繋がりだったから。
「今日は、先生って、呼ばないで」
俺の胸板にとすん、と額を預け、控えめに彼女が体重を預けてくる。その臆病な頼みごとを引き受ける証に、今度はふわりと優しく、彼女の身体を包み込んだ。
早く強く騒ぐ脈動を、薄い装束で誤魔化せるはずもない。きっと俺の昂りは彼女につつがなく伝わっているだろう。しかし構わない。触れ合う肌から、彼女の緊張した拍動も、併せて伝わってきていた。触れ合うことで震えを止めたかった先ほどと違い、今度は俺たち二人が、触れ合うことで心臓の震えが止まらなくなっていた。
俯くばかりだった顔が微かに持ち上がったのを見て、頬に手を添え、ゆるりと下から木の面を掬い上げると、艶やかに潤んだ亜麻色の瞳が間近に飛び込んでくる。
それは憂いでもなく、俺に向けられるいつもの朗らかな瞳だ。良かった。これで良かった。
自らも仮面を口元だけずらし、涙で濡れ切った相好に迫ると、「あ・・・・・・」と小さく視線を逸らす彼女が、ほんの少しだけ胸板を突っぱねる。
「えっと・・・・・・キスは、本当に好きな人とした方が・・・・・・」
言い終わる前に、その口元を己のそれで塞いだ。
「ん」と驚くように漏らす声。唇の柔さだけでは高ぶりを抑えきれず、声すら俺の中に欲しいと思い、そのまま何度も彼女の唇を食んでいく。
逃げないように後頭部へ手の平を回し、彼女の黒髪を乱しながら、これ以上近づけないのに引き寄せる。
口の隙間から吐息と声が漏れていき、外気と程遠く、熟したように熱い舌先を引きずりだした。無理やりに絡ませて唾液を吸えば、腕の中に閉じ込めた彼女の肢体がふるふると震えて跳ねる。
そのまま彼女を土の上に押し倒し、俺はタガの外れた本能のままに、彼女の服の隙間に冷えた指先を潜り込ませた。
「ス、パく・・・・・・っ」
唇が離れた途端に聞こえてくるのは、拒絶だったかもしれない。腕に縋る掌は、幼少期から今に至るまで見せたことのない、俺の欲望そのままの姿に恐怖したからかもしれない。
もう抑えは効かない。更に拒絶を重ねられる前に、再び彼女の唇にかぶりつく。しつこいくらい彼女の唇を食んで、舌先を吸って、嬌声も拒絶も憂いも朗らかさも、全部俺の腹に収めたいと、逃したくないと思って。
「貴女が、忘れさせてほしいと言った」
何度口づけしたか分からない。どれほど彼女の呼吸を止めたか分からない。
蕩けた婀娜な顔を無遠慮にさらす彼女の頬を手の平で包み、上から覗き込みながら、言い聞かせた。
「忘れて欲しい。今この時だけでも、貴女が慕う人を自分にして欲しいでござる。俺は、ずっと貴女に囚われていたので」
ほんの微かに、彼女の亜麻色の瞳が見開かれた気がした。
一度唇が引き絞られて、彼女の眉根が、また泣く寸前みたいに歪んでいく。
この頃、空に薄く広がっていた霞のような雲は散っていたのだろう。はい、と答えた彼女の瞳には、見慣れた星灯りが映りこんでいた。