【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。


 恋、について初めて意識したのは、イーガへ来てから幾分もない、幼少期のころ。
 あれはまだ、俺が識字を完全に習得するかどうかという時分であったかと思う。

 文献を解読する先生の隣で読書することが日課となっていた俺は、積まれた本の中に、その日初めて目にする表紙を見つけた。
 男女の手が重なり、絡めるように結ばれた指先の表紙絵。墨絵独特の情のような暖かさに興味を惹かれ、おもむろに掴み、頁を繰る。
 絵は少なく、分かりやすい言葉選びはされていたが、文字ばかりの本だ。表題も「・・・・・・の話」と書かれているのは理解できたが、如何せん崩し字で読めない。
 それでも、他の本との異質さが無視できず、机に向かって文献整理を続ける先生へ「これって・・・・・・」と差し出した。
 「あッ、それは!」と、先生が面越しにも分かるほど狼狽してみせたのが印象的だった。「しまった」とでも言いたげな声の上ずりを、未だによく覚えている。

「良い絵だなと思って。題名になんと書いてあるんですか?」
「うーん、スッパ君にはまだ早いと思うよ、この話。私は好きだけど」
「良いです、知らないままでいるよりは、全然」

 この時俺は、7か8。過剰な子ども扱いに対し、反感を覚える幼稚さがあった。
 それを分かっていたからか、先生は面の隙間から苦笑の息を漏らし、ポンポンと小さく隣の座布団を叩く。俺は促されるままに正座をし、解読中の文献を端にずらした彼女へ、身を寄せた。
 俺が読めなかった文字の部分を指さしながら、先生は内緒話をするように密やかな声で囁く。

「恋の話、って書いてるの」
「こい?」
「恋愛、人のことが好きって気持ちのことかな」

 恋。その言葉を、俺は齢7か8で初めて耳にした。今にして思えば、恋などという言葉を日常で使うような環境ではなかったし、子供へ聞かせるには難しい概念であった。ただ、単純ながら口馴染みの良い発音に、なぜ今まで聞いたことがなかったのかと、その当時は不思議に思った。

「人を好き、というのは、僕がコーガ様に思うような?」
「ふふ・・・・・・、それは恋とは違うかもねぇ。尊敬とかが近いかなぁ」
「では、先生に抱く好きは?」
「それもどうかな?でも、そっちの方がまだあり得るかも」

 先生は、可笑しそうにくすくすと笑みを漏らす。なぜそんなに楽しそうなのか、そしてコーガ様と彼女とで、なにが違うのかも分からない。全く要領を得ないまま首を傾げる俺に構わず、先生は墨絵の表紙を捲る。

物語の主人公は、牧歌的な村に住む一人の女だった。
ある日、女は村へやってきた旅人に恋をする。
彼が去っていってから、来る日も来る日も彼のことが忘れられず、彼女はついに旅へ出た。
心配だからと着いてきたのは、彼女と幼少期から共に過ごしてきた幼馴染の男。
二人は苦労の末、旅人の故郷へ到着することができた。
「ここで待っていればいつか出会える」と居を構え、二人でいつまでも彼を待つ日々。
彼は帰ってこなかった。それでも彼女は希望を捨てなかったが、ついに旅人は死んだと聞かされた。
泣くしかない彼女を幼馴染の男は慰めた。いつまでも泣く彼女を、いつまでも慰めた。
女は、男がなぜいつまでも自分を慰めてくれるのかが不思議だった。
「貴方は村に帰っても良いんだよ。なぜいつまでも傍に居てくれるの?」
すると、男は──。


 最後の頁を繰ったとき、俺たちは「あれ」と小さく驚いた。
 明らかに話が終わっていないのに、続くはずの頁が無い。開き切った本の中心に、無理やり千切ったような紙の波があるだけだ。
 「あ、忘れてた。破れてたんだっけ」と先生が頭を掻くので、俺は紙の凹凸を指で撫でながら、彼女の面に視線を送る。

「最後がどうなるのか、先生はご存知なんですか?」
「どうだったっけなぁ、結構、いい終わり方だったと思うけど」
「でも、主人公の女はずっとツラそうでした」
「恋だからねぇ。仕方ないんだよ」
「誰かを好きになるのが、ツラいんですか?なら恋などしない方が良いのでは」
「選べないんだよ、急に落ちるものだから」

 先生は、幼稚で浅はかな考えを口に出し続ける俺の頭を、ぽんぽんと優しく撫でて、「すぐ分かるようになるよ」と笑った。
 過剰な幼子扱いに眉を顰めても、面下で朗らかに目を細めているだろう彼女には敵わない。
 このとき、温かな手の平で撫でられた頭だけでなく、胸の深いところも一度に温かくなった気がした。その理由がまさに恋の実感だったわけだが、齢7か8の俺では、到底気付くことなどできなかった。

 今にして考えてみても、恋なぞ俺たちには不要だろう。それは修羅の道を征く俺たちにとって弱みになる。
 相手を思ったときだけ心臓が耳の傍に寄ったような気になり、首から上が日光に晒されたようになる。彼女の瞳が宝石のように瞬いて見え、裾の一部でも視界に入れていないと、いつまでも眠れない夜のように不安が襲う。
 恋心を抱き、なにになるというのか。恋とは叶わない幻想だ。胸に抱いたとして、成就までの道のりは果てしなく遠い。あの本の主人公と同じように、その苦難の多さに打ちひしがれるだけなのではないか。
 自覚すらしなければ良かったと、今でも後悔しか残っていないのに。

 しかし、彼女は違った。古書や文献を読み漁り、この世の、とかくイーガの暗い歴史に造詣の深い彼女は、明るく救われるような夢物語に飢えていた。思慮深くて、自分なりの解釈を突き詰められる頭の良さと知識を持ち、目の前の現実に向き合えるほど写実的でありながら、・・・・・・いや、だからこそ、理想と空想への憧れを止めることが出来なかった。
 その歪みが、将来の彼女を傷つけることになると、このときどちらかが分かっていれば良かった。



 俺が筆頭幹部に就任してから、数か月が経った。
 先生は、面を取ることをやめた。

「コーガ様に昔、そういうところから変えていかないと、って言われたでしょ。外回りの任務に就くなら、もっと私生活からしっかりしなきゃと思って」

 彼女はいつだって、イーガの不文律から外れていた。無感が常という集団の中で、俺と過ごす間ではいつだって朗らかに笑っていたし、先祖が受けた恥を語る口調は、王家への弁護すら感じさせる物言いだった。自由さが疎ましい時期もあったが、何物にも縛られていない先生が憧れだった。
 その彼女が、夜着で出歩くことをやめた。長い髪をそのままにすることをやめた。根が白くなった黒髪を見ることもなくなった。常に刀を持ち歩くようになった。いつも埃と汗のにおいが漂うようになった。
 彼女は、個を捨てた。

「苦手な鍛錬もきちんとしてるし、魔物に臆することもなくなった。これで、いつ業務を言い渡されても、コーガ様の役にたてるはず」

 いつまでも内勤から変わらず、文献整理と近場の研究にだけ赴く彼女は、自らの境涯に嫌気がさしていたのだ。
男であれば、知力と武力を兼ね備える者として、戦の最前へ行く機会も得られただろう。しかし、彼女には同等の武力がない。そして彼女の知力は、イーガという集団において稀有だった。他に類を見ない知力こそが、彼女をアジトに縛り付ける理由になる。

「きちんと実力を認めてもらえれば、きっと私だって、文献整理以外のことができるよ」

 彼女が膝を抱えて地面に座り込み、俺は立ったままで砂漠の夜を眺める寸暇。
 女の話ももうしない。なんでもない日常の話ももうしない。彼女が語るのは、変わり始めた先生自身の話と、これから先を見据えた戦場の話だけ。

「この前、幹部さんにお願いしたんだ。もっと外回りを増やしてください!って」

 「スッパ君からもお願いして欲しいな」と呟いた声は、最後まで朗らかだ。しかし、隠しきれない切なさがあった。切実で、無力感に溢れた、情けない大人の声だった。
 これはきっと、彼女が俺に願う、初めての頼み事だ。いつまでも彼女は、”先生”としての振る舞いに縛られていたのだから。
 少し前なら、二つ返事で言葉を紡げたろう。しかし彼女が求めているのは、幼馴染としての俺ではなく、生徒としての俺でもなく、そして、男としての俺でもない。”筆頭幹部”への頼りだ。
 彼女へのはっきりとした心根に蓋をした今、その言葉は心臓を突き刺すような鋭さを伴っている。
 「分かった」とも、ただ頷くことも、首を振ることも、俺には出来なかった。

「強くなりたいなあ。スッパ君みたいに」

 蟻が餌を崩していくように、じわじわとだがはっきり移りゆく心算に気付くべきだった。なぜ気付けなかったのだろうか。彼女はこんなにも、自分の話をしてくれていたというのに。

 面の奥には、朗らかな笑みがあったのだろうか。痛ましいほどの、朗らかな笑みだったのだろうか。
 その木で出来た薄いイーガの面が、飛び越せない圧倒的な壁のように思えて仕方ない。



■ ■ ■


 目下、一番の悩みは、王家が実用に向けて研究を進める古代遺物”神獣”についてだ。
 一万年前に厄災の対抗策として、古代シーカー族により生み出されし遺物。伽話にも語られるそれを、王家が此度の厄災の備えとして地中深くから発掘させたのは、もう何年も前のことになる。
 当時、誰もが知る伽話は事実であったのだと、世間では激震が走ったものだ。しかし、それらが伽話通りに動く気配は毛ほどもなく、所詮は過去のものだと長らく放置されていた。
 それがこの頃、例の姫率いる研究員らにより、運用の目途が立つようになったらしい。

 火薬樽で爆破したとして傷一つつかず、自然物としてはあり得ない触感でよじ登ることも叶わない未知の材質を持ち、近場で見上げればあまりの巨躯に全てを視界に収めることもできぬ、神の名を冠するカラクリ。
 あれが動き、伝え聞く通りの力を秘めているとするならば、厄災が復活した際の脅威になるのは間違いない。
 イーガの発端とも言える忌まわしい代物でもある。世界を混沌に陥れることも叶う脅威を利用し、あまつさえあれが起因となった迫害の歴史を持つシーカーを矢面に立たせているという話なのだから、王家のやることには虫唾が走る。

 しかし、状況が動いたこの機を、みすみす見逃すわけにはいかない。どうにかしてあれを無力化、もしくは手中に収めることさえできれば、王家との間に埋められない優位を築けるはず。
 大きく変わり始める戦況を把握するには、何事にも情報が必要だった。

「ちと危険だが、研究班の人間に諜報させるしかねえだろ。腕に覚えがあったって、無知が原因でソッコーバレちゃあ意味がねえし」

 じりじりという蝋燭の燃焼音さえ耳に入る静寂の中、コーガ様が口にしたのは、当然ともいえる提案であった。

 先生も所属する研究班は、イーガに持ち込まれた古代シーカー族の文献を整理し、内容を解きほぐすことを業務にしている。
 戦の要にもなるだろう遺物の現況を把握するには、彼らのように理解力のあるものが内部に潜り込み、必要な情報の取捨選択をするのが一番であろう。
 ただ、主の提案に二つ返事を出せない。彼らが知に足る集団というだけでなく、その実、武力に頼りないからこそ配属された人間の多さが、逡巡の原因となった。
 不測の事態へ巻き込まれれば、帰らぬ人となる可能性も考えられる。

 とはいえ、悠長なことを言っていられる猶予も無い今、下すべき決断は目に見えている。不安は残るが、そもコーガ様の采配を拒む権利など、俺にない。
 暫しの沈黙の後、炎に揺らぐ影を見つめながら、おもむろに頷く。呼応するようにコーガ様は手書きの地図を眼前に開き、神獣を擁する各地方と、城の描かれた地図の中心、そして城から西に位置する場所へ、目印となる碁を置いた。

「諜報が必要なのは各四地方と城、それから古代王立研究所だ。しかし、研究所に直接間者を送るのは、さすがにリスクが高すぎる。例の姫が入り浸ってる機関っつー話だ。よっぽど護衛の多い可能性が高いし、少数精鋭でやってるだろうからな。情報は喉から手が出るほど欲しいが、とりあえず様子見した方が良いだろ」
「手始めに四地方と城、計5人の間者を研究班から選出する、ということでござるな」
「そういうこった。あちらさんの内部情報が分かりゃあ、研究所に潜り込む隙もつけるはずだしな」

 都には、既に何名かの間者が潜み、敵方の信頼を掴んでいる。このときのために長年築き上げてきたそれを利用すれば、新しく研究員に扮装した団員とて潜り込むのは容易であろう。
 城の間者と連携をとりながら、遺物にまつわる情報を収集していく。四地方へ出向く団員は、その場で暫く待機し、神獣にまつわる新たな情報の取得に励むこととなる。

「で、誰をどこにって話だな」 

 コーガ様の言葉に誘われ、真っ先にとある人物が思い浮かんだが、面下で口を噤んだまま声を発することはできなかった。
 何も言わない俺の心算は、結局のところコーガ様に筒抜けだったのだろう。じっと面を見つめられた気配に続き、主君が少し、呆れたようなため息を吐く。

「四地方はともかく、城に行かせるやつは腕達者じゃなきゃなんねえぞ。誰に行かせるかはスッパ、お前に任せる」

 知力も武力も望める団員を選び、誰を行かせるべきか。
 状況を考えれば、俺には主君へ推薦するべき人物がいる。武勲を望み、鍛錬を続け、知力を持ち、コーガ様の役に立ちたいと望む、俺の恩人。
 ・・・・・・先生以外に、城の間者に相応しい人物など存在しないだろう。

 彼女からも頼まれている。俺はただ、この場で彼女の話を持ちだせば良いだけだった。
 しかし良いのか。いくら王都へ既に団員が潜り込んでいようとも、彼女は実績のない内勤の人間。イーガにとって今後の足掛かりともなる重要な計画だ。彼女の経験不足があだとなり、失敗に終わる可能性だって否定できない。
 この戦時、敵方に捕まった人間の末路は死のみだ。それもただの死ではない。想像に絶する恐怖と痛みを与えられ、情報を抜かれるだけ抜かれ、苦しみと孤独の中で殺される。
 時の王政に反旗を翻す意味を、イーガの団員はおしなべて理解し、覚悟している。コーガ様だろうと、先生だろうと、一人残らずだ。
 だからといって、それだけで彼女の名を易々と口に出すのは憚った。

 総長室の夜半は、扉を閉めていても酷く冷える。しかし、急激に身体から体温が無くなったのは、決してそれだけが理由では無かったと思う。

「・・・・・・提案が、あるでござる」

 俺がコーガ様へ口にしたのは、苦し紛れではあっても、理に適った提言だったと信じたい。

「研究班の人間は、実地に乏しい者ばかり。一度彼奴等を引き連れて、ゲルドキャニオンに存在する神獣の偵察に行くでござる。そこでの動きを見て、どの団員をどこへ派遣するか決めようかと」
「なるほどな。お前も生の遺物を知る機会になるし、団員の力量がどの程度のもんかも知れるってわけだ。それで派遣先を決めるなら、あいつらからも文句なんて出ねえかもな」
「コーガ様が良ければ、明日にでも」
「分かった。行ってこい。くれぐれも用心しろよ」

 「御意」と重く返し、そのまま立ち上がる。既に日を跨いだ時刻。日課ともなっている会議だったが、議題さえまとまればお開きになるのが常態であった。
 「それでは」と断って踵を返すと、しかし思ってもみない「待て、スッパ」という主君の声に呼び止められる。
 身体を斜めに振り返ると、前かがみに影を下ろしたコーガ様の一つ目に、面越しの双眼が睨まれていた。

「公平な眼でな」

 それはまるで、耳元で呟かれたような声だった。
 彼に面など関係ない。はっきりと覗かれるその瞳には、俺の後ろめたさが映っているのだろう。胸中の奥に鍵をかけた思いにすら、主へ隠し通すことはできない。
 何も言わず頷く。その後、喉を絞って出せたのは「失礼いたしまする」という去り際の挨拶だけだった。


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