【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
天高く上りつめた赤い月。それが徐々に下り始めた折、本拠の岩戸内で半夜の宴が始まった。
狭い岩戸に、これほどの人間が一同に会するのを見たのは初めてだ。儀式に参列した団員の内、半数は任務に就く地方へとんぼ返りしたにもかかわらず、食堂は隠密集団とは思えないほどの活気に包まれている。
いつもは壁際に座敷卓が並ぶだけだが、今日ばかりは床一面に敷物が敷かれ、多くの団員が床に腰を下ろして酒と飯を食らっていた。
宴が始まる前に告げられた、コーガ様の「無礼講で」という一言に全員が甘えている。さすがにコーガ様へ絡み酒をする団員は居ないが、幹部だろうと、構成員だろうと、いずれもこの祝い事を謳歌していた。そこかしこで笑い声が聞こえるし、円を組んで噺家の真似をする者や、歌をうたう者までいた。
多くの者が面を取り、素顔を晒す光景は、これから先で考えるならば悲願を叶えたときくらいなのだろう。
地べたに座り込む団員の中には、先生の姿もある。背を向けていたから顔は見えなかったが、どれだけ多くの人にまみれようと分かる。そこだけ色が違って見え、自然と目が行ってしまう。
共にいたのは馴染みの団員だろうか、時折楽しげに肩を揺らし、酒の席を楽しんでいる。先生とはほとんど二人きりでしか会ったことがなかったから、団員たちと過ごす彼女が少し意外だった。
正直に言えば、儀式を終えた高揚のまま彼女の元へ行き、言葉にならない高ぶりを聞いて欲しい気があった。俺は彼女と違って、心算を言葉で形作るのが得意ではない。ただ、きっと彼女だったら「うんうん」と朗らかな笑みで聞いてくれるはず。
彼女ならばきっと、力ない子供から団員に認められた俺の成長を受け止め、ただ静かに喜んでくれると確信がある。
「なにボーッとしてんだ。スッパ、ちゃんと飲んでるかぁ?」
それができないのは、正に俺がこの宴の主役だったからだ。
宴が始まって、早や数時間ほどが過ぎる。俺はイーガの団員達に囲まれ、遠慮しつつもお酌を受け続けていた。
周囲に並ぶのは、見知った先達ばかり。家族と言っても申し分ない近さで接してきた相手で、良くも悪くも俺の今までを知り過ぎている相手だ。
「スッパも立派になったな」「これからよろしく頼むな」と次々に酒を猪口へと注ぐのは、この場で飲酒を断れないことが分かっているからに違いない。
しかし、筆頭幹部に至った俺の功績を褒め称えていた口は、酒が進むにつれ「お前はいつまでも堅すぎてなぁ」と苦言の様相を呈し始める。それだけならまだ、苦々しく相槌を打つだけで躱すことができた。
彼らの話題が、業務や幼少期の話に留まらないことなど、少し考えれば分かっただろうに。
「あの女とはどうなったんだ」
食堂を満たす騒めきの中を掻い潜り、俺の耳へと届いたその言葉に、思わずぎくりと固まった。
あの女、とは、誰のことだろうか。いや、そんな考えは不毛だ。ニヤついた声は明確に、ある人物を指しているに違いない。なぜなら、俺にははっきりと覚えがある。
しかし腑に落ちない。先生との情事は、コーガ様と先生の二人しか預かり知らぬことのはず。
幼い時分には、彼女との関係を先達に揶揄われたこともあったが、それもほんの一時だ。俺たちの間に何もないことが分かり、加えて俺の反応にも面白みがなかったのもあり、誰からも何も言われることは無くなっていた、はずなのに。
「お、その話をするか」とその場の全員が俄かに浮き腰立つ。
まさか、いくら情報の取得に長けた諸兄といえど、この秘匿を知られていたのかと、俺は面の陰で嫌な汗が流れるのを感じた。これからも、酒の席では俺を末輩のように扱ってくるのだろうかと考えている場合などでは無かった。
「スッパ、最近随分、あの女団員と距離が近いだろ?何かあったに違いねえって、噂してたんだよ」
「何かあったとは・・・・・・何が」
「とぼけンなよ!よく二人で居るだろ!最近こそこそやって、楽し気にしてるのを見た」
「俺も見たぞ。用事があったのに声をかけられなかった。邪魔しちゃわりいと思って」
「邪魔ってお前」と、どっと場が沸き上がったように先達が笑った。
意地の悪い声音だ。俺がどれだけ面下で顔を顰めているのか、素顔を知る諸兄らはつぶさに想像できるに違いないのに。
未だからからと笑いながら酒を煽り、手酌で次を注ぐ幹部殿がグッと顔を近づけてくる。
「向こうも楽しげだったし、ありゃ絶対気があるって思ってたんだ」
「・・・・・・ありえぬ。それだけは」
「かーっ、お前は鈍感か!?分かるだろ!相手にどう思われてるかくらい!」
いくら食堂の騒めきに紛れるとはいえ、酔っぱらいの声は大きい。
下世話を先生に聞かれたらと思うと、心臓の内側から凍り付いていくように寒々しくなる。面下で彼女を遠目で伺うと、こちらの話に反応した風はなく、それだけが救いに思えた。
ただ、急激に酔いが醒めた。いや、この時ばかり、酒精が下世話で中和されただけかもしれない。
まだ酔っていたくて、暫し手の中で温めていた冷酒を一度に煽ると、腹に収めた瞬間に世界が視界についてこなくなる。儀式で飲んだ水の如き飲み口と比べると、この酒は低級のものなのだろう。吐き気のするような酔いが、今の話題に丁度良かった。
とはいえ、「いいねぇ」と言いながら、酒が消えた瞬間に次を注いでくる幹部殿には、何の冗談かと返しそうにはなったが。
「ともかく、これから戦も熾烈になってく。筆頭幹部なんて大役担うんだ。人生に後悔だけは作るなよ」
「後悔など、自分は・・・・・・」
「いーや、お前は本能に不誠実だ。いつ死ぬか分かんねえんだぞ?欲求を見て見ぬふりするべきじゃない。いいなと思った女は、しっかりモノにしとけ!」
ばし、と肩を叩かれた折、注がれたばかりの酒が足に零れ落ちた。諸兄は酩酊状態にあるからか、そんな粗相にすら気付いていないらしい。
俺だって、普段だったらこのような間抜けな姿は見せなかった。間抜けになってしまったのは、彼の言葉が図星を射抜いていたからだ。「ばかなことを」と一笑に付せないほど、その台詞は頭の中で、反響を続けていた。
俺は確かに、自らの欲求を見ないふりすることが、当たり前だった。しかし、そもそも死と欲求を結びつけるのに、理解が全く無いわけではない。それだけ我等は剣呑な生活を送っているし、諸兄らが日々、「しない後悔ではなく、した後悔を」と笑い合っているのを聞いていた。
俺にも、許されるのだろうか。いつ死ぬかも分からない剣呑を理由に、そして、酔って理性を失っていたと言い訳をして、彼女の手を捕まえたとしても。
何も言わず、零れて雀の涙ほどしか残っていない酒を見つめていたのが、どうにも奇妙だったらしい。
急にグイと腕を首へ回されて、幹部殿に引き寄せられる。彼が手壁を作った瞬間、周囲の先達が一斉に、じり、と距離を詰めてきた。
「ほら!スッパだって良いと思ってるんだろ!?傍から見ても良い雰囲気なんだ、今日にでもキメて来い!」
「しかしそれは、・・・・・・どうすれば」
「簡単なことだ、自分のものにしたいって腕を掴んで引き寄せれば良い。しっかり相手の目を見て、拒否されなければそのまま接吻でもしろ!あとは成り行きで、・・・・・・分かるだろ?」
口端のにやつきを一切押さえない囁き声で、幹部殿は耳打ちをした。
それは、あまりに無理やりでは、と応じかねると、「分かった分かった」と呆れた声が返ってくる。
「相手のことを褒めちぎって、良いなと思ってるところを伝えて、好きだって言っちまえ。あとは、お堅いスッパだって、雰囲気でどうにかなるだろ」
「・・・・・・できるでしょうか、自分に」
「できるかじゃなくて、やるんだよ!女だってきっと待ってる。男になれ、スッパ!」
女人と契ることが、なぜ男になる・・・・・・つまり、一人前の男として認められる、という話に繋がるのか、皆目自分には見当がついていない。
しかし、諸兄のみならず、コーガ様も同じ言葉を口にする。以前も言われた通り、ある一定の覚悟を持てと、そういうことなのだろうと思う。
いつもであれば、決して頷きはしなかった。しかし、今日初めて腑に落ちた感覚に、やっと「はい」と、返せる気にもなっていた。
「ちょっといいかぁ、皆の衆~」
逡巡する合間をぬって突如部屋に鳴り響いたのは、手を打つパンパンという乾いた音。目をやると、部屋の奥で飲んでいたコーガ様が「どっこいせ」と立ち上がる瞬間であった。
気付けば、コーガ様の卓盆からつまみが全て姿を消している。食堂の様子を肴に、主君は一人で静々と酒を煽り続けていたらしい。いつの間に無くなったのか。であれば一言言ってくだされば良いのに。と思ったが、コーガ様は結局、先達に囲まれる俺に気を遣ってくださったのだろう。
腹に何も入れずに飲み続ければ、酒仙だろうと酔いは回る。「うい・・・・・・」と一度フラついて、コーガ様は後頭部を掻いた。
「外はもうすぐ白み始める時間だぁ。俺様はさすがに寝る!ちゅーわけで、これにて宴は終了!飲みたいやつはまだ飲んでて良いが、無理はすんなよ。寝たいやつは寝ろ!じゃあな!」
そのまま、自然と戸口にまで出来た花道を通って、コーガ様は「おとと」と呟きながら、危ない足取りで去っていった。
この時ばかり、頭を垂れる団員たちの姿は凛として美しい。まるで身体に残る酒精を感じさせない振る舞いである。
しかし、足音が廊下の先に消える前に、一瞬の静けさを湛えた食堂は、堪えきれないように「わっ」と活気づいた。ただそれは、主君が去って改まった賑やかさではなく、解散に向けた、後始末の音だ。
一人、また一人と食堂から人が去っていく。多くの人間に紛れて、先生も食堂の後片付けをおこなっているのが微かに見えた。
このタイミングで解散になるなら、丁度良い。気の昂りのままに傍へ寄り、先ほどの助言を試そうか。
「待て待てスッパ、どこ行こうってんだ。お前は主役だろうよ」
膝を立てようとしたところ、首に回されたままになっていた腕に力が込められる。
酒の所為で身体に力が入らず、いとも簡単に引き寄せられたのが情けない。加えて、遠慮も無しに幹のような腕が喉ぼとけを圧迫するものだから、思わず「ぐ」と、潰された声が漏れた。
「そうだぞ、スッパ。さすがにこのタイミングで解散は早すぎる。朝まで付き合え」
「いえ、しかし、自分は」
「バカヤロウ!飲む機会なんて今後無くなるのに、これで解散なんてできるか!」
「特にスッパ、お前と酒を飲むなんて、二度とあるかどうか分からん。もっと飲ませてやる」
「そうだそうだ、せめてもう一瓶・・・・・・」
「あ、あの」
やいのやいのと、諸兄に取り押さえられて身動きの出来なくなった俺の前に、小さな足が止まる。
頭を抑えられ、地面しか見られない体勢だったが、無理くり顔を上げれば、そこには構成員の姿があった。
如何にイーガの団員が同じ装束、同じ面をつけていても、頻繁に会っていれば誰かすぐに分かる。申し訳なさそうに足を揃え、胸の前で手のひらを合わせるその構成員は、ここ一ヶ月で何かと世話になった針子の女だった。
「あっ・・・・・・」「しッ!」と、周囲の諸兄が一瞬波立つが、今までの幼稚な騒ぎはどこに行ったのかと思うほど、皆一様に雄々しく黙り込む。今更、幹部役の威厳でも表さねばならないと感じたのだろうか。普段は自然と尊敬の念が滲むものだが、調子の良さには睥睨を堪えきれない。
何事も無かったかのように酒を煽り始める諸兄を面下で眺めながら、俺は女に「何用でござるか」と向き直った。
「スッパ様、この度は大変におめでとうございました。装束もお似合いで、私としても嬉しい限りです」
「うむ、全てはお主の研鑽の賜物。急な話であったのに、よくぞここまで付き合ってくれたでござるな。感謝する」
「そんな・・・・・・。私もスッパ様と一緒に、楽しく針仕事ができました。ありがとうございます」
実際、針子の女はよく尽くしてくれた。日中夜の区別なく唐突に訪れる俺に応じ、嫌な顔ひとつせず、希望通りの装束を仕立て上げた。
まだ若いにもかかわらず、俺と主君からの要望で板挟みにされていたのだから、きっとその心労は相当だったはず。出来る限りの労いをかけてやろうかと、酒で覚束ない頭ながら言葉をひねり出す。
「戦が佳境に入るにつれ、手直しの仕事は増えるかもしれぬ。今後もコーガ様への忠を尽くし、一層業務に励んでもらいたい」
「はい!・・・・・・えっと、それで、あの」
用事は終いかと思えば、まだ何かあるらしい。心地よい澄んだ声とは裏腹に、唐突に素直さが消え失せる。
「なんだ」と訝しむと、女は肩を縮ませて、深く面を俯かせた。
「私、スッパ様に、お伝えしたいことがあって」
「聞こう。今、話すと良いでござる」
「いえ、ここでは、少し・・・・・・。人目がありますので」
「む・・・・・・」
「あの、後で、玄関口に来ていただきたいのです。・・・・・・待っておりますから」
小さく、弱弱しげな声だったが、全ての言葉は俺の耳にしっかりと届いた。しかしなにを言うべきかも分からず狼狽した一瞬、女は勢いよく頭を下げて、逃げるように喧騒の中へと紛れていく。
食堂はもうほとんどが解散状態だ。多くの団員が立ち上がって戸口へと向かう中、こちらを振り返る彼女が見える。俺の視線に気付いていたのか、深く一礼した後、彼女は戸の奥へと姿を消した。
「おい、今のは、まさか」
「とんでもない場面に居合わせちまったぜ・・・・・・」
それまで雄々しさを保っていた先達が、前かがみになって声を潜ませた。
なにを、と問おうとした瞬間、またもや幹のような腕が俺の首にかけられる。相も変わらず的確に急所を圧迫され、「ぐっ」と唸りながらも引き寄せられた。
「おいおいおい、向こうから来るとはまさかだな・・・・・・!絶対行けよ!モノにしてこい!」
「じ、自分は、別に」
「バカ言ってるな!このチャンスを逃すなよ!」
「欲求に素直じゃないスッパには願ったり叶ったりな状況だろ、これ以上のチャンスなんてないぞ・・・・・・!」
存外、幹部殿が腕に込める力が強い。まともに呼吸のできないほど首を絞められ、正直窒息気味である。まずは腕を引き剥がそうかと指をかけるが、びくともしないのにも驚いた。さすが幹部殿、と言いたいところ、酩酊も相まってこれでは意識が落ちる。
その時すでに、食堂は多くの団員が既に立ち去り、残っていたのは俺たちと、片付けものをおこなっていた数名の女衆のみ。その団員たちも、幹部殿の腕にもがく間に戸口の方へ連なっていく。
戸口から左に向かえば共寝所だ。女衆の多くは左へ向かうが、そのうちの一人が集団から外れて右へ曲がるのが見えた。
もしや、あれは。 「わり、力入れ過ぎた」と先達の腕から力が抜けた拍子、俺は戸口から視線を離さず、そのまますっくと立ち上がる。
「お!行くのか!?」
「行け行けスッパ!階段登ってこい!」
わっ、と宴の真っ最中を思わせる盛り上がりを見せた先達に、面下で苦い笑みを浮かべつつ、小さく会釈する。立った瞬間、一気に酒が身体中へ回った感覚があり、視界が酷く揺らめいた。が、一歩一歩に力を入れて地面を踏みしめれば、コーガ様のように体がフラつくことは決してありえぬはず。
開け放したような遠慮ない笑い声を背中に受けながら、俺は食堂の戸口を抜けた。
岩廊下は食堂と違って、随分冷えている。いや、人の熱気で蒸された食堂が異常で、この岩廊下こそイーガの常態だろう。酒で火照った身体にはありがたい冷やかさだった。
共寝所の方角からは、人の喋る声が廊下を反響して聞こえてくる。これから寝床で飲み直す輩もいるに違いない。しかし俺の目的は寝所ではなく、戸口を出た右側だった。
急ぐつもりはない。先ほどの人影が、俺の見間違いの可能性だってある。しかし、どうも気が逸った。
右側に曲がるその団員が先生で、俺のことを崖上で待ってくれているんじゃないかと思ってしまったのだ。
少しでも早くいかねば機会を逸する。それは空想かもしれない。急ぐ必要だってきっとない。ただどうしても、コーガ様に呼びたてられたときと同じように両脚が慌てて仕方ない。
冷ややかな岩廊下を抜け、更に気温の低い玄関に辿り着く。
いつもであれば守衛の幹部役が一人立っているが、今日は戸口の鍵を閉めているので誰も居ない。松明に灯だけを灯した広間は、音が死んだような静寂に包まれるのみだ。
「スッパ様」と突如鈴の音のような声が俺を呼んだ。刀も持たずに居た俺は刹那に緊張が走ったが、その声には聞き馴染みがあった。
イーガの装束も、仮面も身に着けずに俺の元へ駆け寄ってきたのは、嬉しそうに顔を綻ばせる針子の女だった。
「来てくださったんですね、嬉しいです!」
「針子でござるか?なぜそのような恰好を・・・・・・」
「えっと・・・・・・、こっちの方が良いかなと思って」
いつもは結っている黒髪を垂らし、目を泳がせる針子はおそらく、変装でなく素面であった。
ふっくらとした顔つきはあどけなく、まだこの世の暗い理を知らないと思わせる朴訥さ。酩酊していたから余計だろうが、頬に乗る桜色など生まれて間もない赤子のようで、まるでイーガに似つかわしくない相好に思える。
「お呼びたてして申し訳ありません。私、スッパ様にお伝えしたいことがあって・・・・・・」
「待て、先に聞きたいことがあるでござる。構成員の一人がこっちに来たかどうか見ておらぬか?」
五本の指先をそれぞれの指先に当て、俯き加減に唇を引き絞る針子の女。俺の言葉に刹那、きょとんと目を丸くしたかと思うと、その顔がどんどんと強張っていく。
呼吸さえやめたのではないかと思うほど、彼女は突如として顔色を悪くした。散った桜はどこにいったのか、まるで春も夏も過ぎ、唐突に冬が訪れたように景色が変わる。
また唇を引き絞る。そして再び開けられた時、すっかり血の気を失ったそこは、微かに震えているようにも見えた。
「構成員、というと、スッパ様がいつも、先生と慕う」
「そうでござる。あの人がこっちに来たかと思ったのだが、見ておらぬか」
雪景の顔で視線を落とす。もじもじと捏ねていた指先は、ぎゅっと胸の前で絡まり、その力強さに皮膚が白くなっている。
彼女は逡巡する様子を見せたが、最後にはちらりと視線を玄関口へと向けて、泣きでもしそうな表情を上げた。
「あの方は、玄関を抜けて外へ行かれました。酔ってしまったから、夜風に当たりたいと・・・・・・。つい先ほどのことです、今まだいらっしゃるのではないでしょうか」
「そうか、かたじけない。して、お主の用事とは」
「えっと・・・・・・、いえ、私は・・・・・・もう・・・・・・」
尻蕾に語尾の消える声を聞き、針でチクリと心臓を刺された気になった。すまないと胸の内で謝ったとして許されることではないだろう。彼女の言葉を、決心を失せさせた。まごうことなき、俺の言葉で。
「分かった」と去ろうとするところ、彼女の「あの」という言葉が俺を止める。顔だけ向けると、彼女は唐突にも思える質問を投げかけた。
「スッパ様は、どうしてあの方を先生と慕っておられるのでしょうか」
それは単に間を繋ぐ質問であったかと思う。しかし、返事を咄嗟に形作れなかった。
俺が、先生を慕う理由。改めて聞かれると分からない。先生は幼い時分より先生で、それが当たり前の存在だった。尊敬や慕情を持って然るべき、と思っていた。
しかし事情を知らぬ団員にとっては、俺たちは全く理解のできぬ関係性であったらしい。
「幼いころ、文字を教わったのでござる。それだけでなく、この世の理や、イーガでの生き方も。だから先生と慕っている」
「でも、それだけですよね?体術も暗器術も、あの方はそれほど・・・・・・。武勲も聞いたことがありませんし、文字や理を教わっただけでいつまでも先生と慕うなど、違和感に思えます」
「・・・・・・」
「それだけでは、無いのではありませんか?」
「なに?」
「スッパ様は、あの方を好いておられるのですよね」
揺らついた瞳の奥、芯ある光りに見つめられ、俺は押し黙った。
その言葉は、いつまでも形にできなかったものなのだろう。曖昧に見ないふりを続けていた、彼女への思いそのものだ。
朗らかな笑みをいつまでも見ていたいと思った。憂いの籠った瞳に目を奪われた。その星光の宿った瞳を、俺に向けて欲しいと思った。
いつまでも彼女と過ごす時間を、手放したくないと思った。彼女と一緒にいるときだけ、人として生きることを許されている気になった。
俺は先生を、好いていた。
今までずっと曖昧に、彼女のことを考えるときにだけ、胸に内に染み出してきた霞の名前だ。
刹那の静寂、俺は彼女の澄んだ瞳を見つめながら、ただ深く、一度だけ頷いた。
それまでも泣きそうな顔をしていた彼女が、一度強く顔を歪ませて目を伏せる。
「分かりました。聞きたかったのは、それだけです。お休みなさい、スッパ様。・・・・・・ご幸運を」
無理やりに曲げた口元を歪ませて、女は深く一礼し、面を上げると共に俺の横を素通りしていった。
一瞬だったが確かに見た。彼女の丸くてキラキラした宝石のような瞳に、憂いの色が宿ったのを。
針子の気配が完全に消え、俺は静かに玄関口の扉から外に出た。
崖間から覗く空は、既に白け始めている。きんと冷えた空気が酒を帯びた体に忍びより、俺は微かに身震いした。
寒すぎるのはどうも苦手だ。筋肉が自由に動かなくなるし、イーガに来る前、一人で凍えながら過ごした夜のことを思い出す。どれだけ身体を鍛え上げ、団内で随一の巨体となったとしても、芯の部分がそのままだと突きつけられている気がして苦々しくもある。
寒々しい静けさの中、崖上までの岸壁を、俺はゆっくりと登り始めた。
イーガへ来てからの十数年、彼女と話をするために登り続けた岸壁には、足を掛けるのに丁度良いくぼみが作られている。未だ酒の抜けきらない頭には、過去の自分の所業がありがたい。
何も考えずに崖を登り始めたが、彼女がいる保証はどこにもなかった。あるのは、微かな確信だけ。彼女がいつもそこで待ってくれるからという、今までの経験だけが目的を支えている。
彼女の後ろ姿を見たら、俺はどうしてしまうのだろうか。好きだという、陳腐な言葉をはっきりと自覚した今、心臓がやけに騒ぐのは、身体を動かしていることだけが理由ではないだろう。酒で弛緩したはずの筋肉が強張るのは、きっと朝方の冷え切った空気だけの所為ではない。一つの覚悟を決めてしまった故の、緊張だ。
岩壁を登り切ったその先。急に視界を遮るものが無くなると、いつも小さな達成感を覚える。
拓けた空は、先ほど見たときよりも白みが強くなり、夜明けが近いことを示していた。僅かに残る星の輝きは、きっとあと少しで消え失せる。
空と、乾いた砂地の境。 彼女はいつもの場所へ、座っていた。
頭巾を取り払い、結った黒い髪の毛を解いている。穏やかな風に黒髪を靡かせるのは、いつも見る景色と同じだ。
しかし、思えば、空が白み始める時間に崖上へ登ったのは初めてだ。星明りではない空の下で見る彼女の姿が、なぜかこのとき新鮮だった。
先生、と声をかけて、彼女が振り向いた先、きっとそこにはいつも見る、朗らかな笑顔があるだろう。なぜならいつも彼女は笑っていた。俺と一緒に過ごす間は、いつでも口元に笑みがあった。星の瞬きを宿す彼女の瞳に憂いはなく、慈愛に似た優しさを秘めるだけだった。
それで良い。俺と彼女が築いてきた関係に後ろめたさを感じる必要などない。俺はこのまま、彼女に思いを伝えたい。
「先生」と、声をかける。彼女が身動ぎし、髪を乱しながら振り返る。
ただ、彼女が俺に向けたのは、それまでに頭へ思い描いていた顔ではなかった。
「スッパ君、・・・・・・いえ、筆頭幹部殿、こんばんは」
その場へ立ち上がった先生は、イーガの面をつけていた。
なぜ、と咄嗟に上った。彼女がこの場で面を着けたことなどなく、異様に思ってしまった俺は、結局思い上がっていたのだ。
思ったことを素直に口へ出せる素直さが、俺にあれば良かった。
「やめてくだされ、筆頭幹部殿など」と呟きながら、彼女に近寄ると、先生は微かに俯いた。
「貴女にはこれまで通り、同じように呼ばれたい」
「・・・・・・お針子の子が、玄関に居たでしょう。スッパ君、に・・・・・・用事があるって」
「うむ。用事を済ませた上で、ここにいるでござる」
「・・・・・・そっか」
ふっ、と風が強く吹き、先生は髪の毛を押さえた。その拍子に視線が砂漠へと移り、僅かに身体が崖に向く。
ただそれだけの、何でもない仕草だったのに、やけに自分との距離が開いたように思えた。
せっかく、先生への好意を自覚し、押し付けられた形とはいえ、諸兄からいろはも学んだというのに。少しの焦りがあったのは確かかもしれない。
「自分がこうなれたのは、先生のおかげでござる。先生が、俺にこの世の理を説いてくれたから」
仮面越しにでも、なぜ俺を見てくれないのか。いつもであれば、朗らかな笑顔を見せつけるように、俺の顔を覗き込む癖に、今日はむしろ、自分自身の姿を見られたくないとでも言うようだ。
彼女の顔を、誘いたかった。俺は言葉が拙い。ただそれでも、自分の思いを伝えるにはこれしかない。「ありがとうございます」と口にすると、僅かに面が振り返って少しほっとした。
「スッパ君の実力だよ。私はなんにも、してないから」
「貴女と出会っていなかったから、今の自分はいないでござる」
「それは、どうかな。私じゃなくても、他の人が文字の読み方なんかは教えただろうし」
「この世の理を、貴女ほど教えるのが上手い人を俺は知らないでござる」
「買いかぶり過ぎだって。私は実体験の伴ってない内勤だよ。今じゃ、スッパ君の方がよっぽど世界を知ってる」
「いえ、はっきり言えます。俺は貴女じゃないと、駄目だった」
一歩前に出ると共に、砂漠へ向けられていた先生の面が、こちらに動く。
音は無い。いやきっと、ひゅうひゅうという聞き慣れた風の音に、この場は包まれていた。俺は先生の声以外を、耳の外に追い出していただけなのだ。静寂の中で、自分が息を吸った音だけ、やけに大きく聞こえたのだから。
「俺は、貴女のことが」
「やめてよ」
俺の言葉に重なったのは、今まで、この場では聞いたことがないほど強く、鋭い先生の声だった。
「本当に、・・・・・・私は関係ないんだよ」
関係ないのだと、彼女に言い聞かせられている。
途端に、砂漠へ吹く風の音が耳に入ってくる。乾き、荒れ、寂しさの籠る音だった。体温を奪う冷たさに、ただその場で立ち尽くした。
彼女は、俺の言葉を聞きたくないのだ。いや、思いを受け取りたくないとすら、考えているのだろう。
俺が彼女を無理やり抱いたから。俺が修羅へと足を踏み出したから。俺が彼女を、好いてしまったから。
全て、彼女は、求めていなかった。彼女は俺の生に、関係ないと思いたいのだ。
何も返せない。それ以上近寄れない。そのまま二枚の仮面越しに見つめ合っていると、ふぅと先生が肩で息を吐く。
ゆっくりと再び砂漠へ視線を戻す先生は、本当に、いつまでも続く地平を見ていたのだろうか。その瞳にはまた、呆けたような憂いを宿し、彼女が本当に得たかった自分の生を見ているのではなかろうか。
「最近、スッパ君が羨ましくて」
彼女は、人と自らを比べるような人間ではなかった。イーガの不文律の中で、できる限り自分がしたいことをして、個で居続けようとした。それは、自らに誇りがあるからなのだと、満足しているからなのだと思っていた。
口にした言葉の真意を探りたくて面を覗き込むが、そこにはまばたきすらしない、赤い瞳があるだけだ。
「俺が・・・・・・羨ましい?」
「めきめき力をつけて、筆頭幹部なんて役職を与えられて、実際に凄く強いし、みんなにも認められてる」
「・・・・・・俺など、まだまだでござる」
「スッパ君はそう言うけど、武勲も実力もあるのは事実だからさ。・・・・・・私も頑張らなきゃなと思って」
俺がここへきてからずっと、彼女は研究班として、古書の文献整理に携わっている。時折砂漠へ降りていって、遺跡や遺物を見に行く業務に携わることはあっても、如何せん武術が苦手なので「近場まで」と区切られていたようだった。
彼女が、くるりと向き直る。手を広げ、髪を振り乱すその仕草は、年齢を感じさせない彼女の陽気さを感じさせる。先ほどまでに取り巻いていた拒絶感は、このとき確かに消え失せた。
「いうの忘れてた!筆頭幹部就任の儀、お疲れ様!おめでとう!」
「・・・・・・かたじけない」
「角の面も、すごく様になってるし、新しい装束もカッコイイね。似合ってるよ」
「うむ」
「明日から、もっと忙しくなる。お互いにできることを頑張ろうね」
わざとらしい明るい声が、谷間に響く。
面下で、彼女は声の通り、朗らかな笑顔を浮かべていてくれただろうか。
それにすら確信の持てない俺は、きっとこの時から既に、彼女に顔向け出来なくなっていたに違いない。
「はい」と呟いた酒焼けの声は星灯りと共に、やっと顔を出した日の所為で失せてしまった。
狭い岩戸に、これほどの人間が一同に会するのを見たのは初めてだ。儀式に参列した団員の内、半数は任務に就く地方へとんぼ返りしたにもかかわらず、食堂は隠密集団とは思えないほどの活気に包まれている。
いつもは壁際に座敷卓が並ぶだけだが、今日ばかりは床一面に敷物が敷かれ、多くの団員が床に腰を下ろして酒と飯を食らっていた。
宴が始まる前に告げられた、コーガ様の「無礼講で」という一言に全員が甘えている。さすがにコーガ様へ絡み酒をする団員は居ないが、幹部だろうと、構成員だろうと、いずれもこの祝い事を謳歌していた。そこかしこで笑い声が聞こえるし、円を組んで噺家の真似をする者や、歌をうたう者までいた。
多くの者が面を取り、素顔を晒す光景は、これから先で考えるならば悲願を叶えたときくらいなのだろう。
地べたに座り込む団員の中には、先生の姿もある。背を向けていたから顔は見えなかったが、どれだけ多くの人にまみれようと分かる。そこだけ色が違って見え、自然と目が行ってしまう。
共にいたのは馴染みの団員だろうか、時折楽しげに肩を揺らし、酒の席を楽しんでいる。先生とはほとんど二人きりでしか会ったことがなかったから、団員たちと過ごす彼女が少し意外だった。
正直に言えば、儀式を終えた高揚のまま彼女の元へ行き、言葉にならない高ぶりを聞いて欲しい気があった。俺は彼女と違って、心算を言葉で形作るのが得意ではない。ただ、きっと彼女だったら「うんうん」と朗らかな笑みで聞いてくれるはず。
彼女ならばきっと、力ない子供から団員に認められた俺の成長を受け止め、ただ静かに喜んでくれると確信がある。
「なにボーッとしてんだ。スッパ、ちゃんと飲んでるかぁ?」
それができないのは、正に俺がこの宴の主役だったからだ。
宴が始まって、早や数時間ほどが過ぎる。俺はイーガの団員達に囲まれ、遠慮しつつもお酌を受け続けていた。
周囲に並ぶのは、見知った先達ばかり。家族と言っても申し分ない近さで接してきた相手で、良くも悪くも俺の今までを知り過ぎている相手だ。
「スッパも立派になったな」「これからよろしく頼むな」と次々に酒を猪口へと注ぐのは、この場で飲酒を断れないことが分かっているからに違いない。
しかし、筆頭幹部に至った俺の功績を褒め称えていた口は、酒が進むにつれ「お前はいつまでも堅すぎてなぁ」と苦言の様相を呈し始める。それだけならまだ、苦々しく相槌を打つだけで躱すことができた。
彼らの話題が、業務や幼少期の話に留まらないことなど、少し考えれば分かっただろうに。
「あの女とはどうなったんだ」
食堂を満たす騒めきの中を掻い潜り、俺の耳へと届いたその言葉に、思わずぎくりと固まった。
あの女、とは、誰のことだろうか。いや、そんな考えは不毛だ。ニヤついた声は明確に、ある人物を指しているに違いない。なぜなら、俺にははっきりと覚えがある。
しかし腑に落ちない。先生との情事は、コーガ様と先生の二人しか預かり知らぬことのはず。
幼い時分には、彼女との関係を先達に揶揄われたこともあったが、それもほんの一時だ。俺たちの間に何もないことが分かり、加えて俺の反応にも面白みがなかったのもあり、誰からも何も言われることは無くなっていた、はずなのに。
「お、その話をするか」とその場の全員が俄かに浮き腰立つ。
まさか、いくら情報の取得に長けた諸兄といえど、この秘匿を知られていたのかと、俺は面の陰で嫌な汗が流れるのを感じた。これからも、酒の席では俺を末輩のように扱ってくるのだろうかと考えている場合などでは無かった。
「スッパ、最近随分、あの女団員と距離が近いだろ?何かあったに違いねえって、噂してたんだよ」
「何かあったとは・・・・・・何が」
「とぼけンなよ!よく二人で居るだろ!最近こそこそやって、楽し気にしてるのを見た」
「俺も見たぞ。用事があったのに声をかけられなかった。邪魔しちゃわりいと思って」
「邪魔ってお前」と、どっと場が沸き上がったように先達が笑った。
意地の悪い声音だ。俺がどれだけ面下で顔を顰めているのか、素顔を知る諸兄らはつぶさに想像できるに違いないのに。
未だからからと笑いながら酒を煽り、手酌で次を注ぐ幹部殿がグッと顔を近づけてくる。
「向こうも楽しげだったし、ありゃ絶対気があるって思ってたんだ」
「・・・・・・ありえぬ。それだけは」
「かーっ、お前は鈍感か!?分かるだろ!相手にどう思われてるかくらい!」
いくら食堂の騒めきに紛れるとはいえ、酔っぱらいの声は大きい。
下世話を先生に聞かれたらと思うと、心臓の内側から凍り付いていくように寒々しくなる。面下で彼女を遠目で伺うと、こちらの話に反応した風はなく、それだけが救いに思えた。
ただ、急激に酔いが醒めた。いや、この時ばかり、酒精が下世話で中和されただけかもしれない。
まだ酔っていたくて、暫し手の中で温めていた冷酒を一度に煽ると、腹に収めた瞬間に世界が視界についてこなくなる。儀式で飲んだ水の如き飲み口と比べると、この酒は低級のものなのだろう。吐き気のするような酔いが、今の話題に丁度良かった。
とはいえ、「いいねぇ」と言いながら、酒が消えた瞬間に次を注いでくる幹部殿には、何の冗談かと返しそうにはなったが。
「ともかく、これから戦も熾烈になってく。筆頭幹部なんて大役担うんだ。人生に後悔だけは作るなよ」
「後悔など、自分は・・・・・・」
「いーや、お前は本能に不誠実だ。いつ死ぬか分かんねえんだぞ?欲求を見て見ぬふりするべきじゃない。いいなと思った女は、しっかりモノにしとけ!」
ばし、と肩を叩かれた折、注がれたばかりの酒が足に零れ落ちた。諸兄は酩酊状態にあるからか、そんな粗相にすら気付いていないらしい。
俺だって、普段だったらこのような間抜けな姿は見せなかった。間抜けになってしまったのは、彼の言葉が図星を射抜いていたからだ。「ばかなことを」と一笑に付せないほど、その台詞は頭の中で、反響を続けていた。
俺は確かに、自らの欲求を見ないふりすることが、当たり前だった。しかし、そもそも死と欲求を結びつけるのに、理解が全く無いわけではない。それだけ我等は剣呑な生活を送っているし、諸兄らが日々、「しない後悔ではなく、した後悔を」と笑い合っているのを聞いていた。
俺にも、許されるのだろうか。いつ死ぬかも分からない剣呑を理由に、そして、酔って理性を失っていたと言い訳をして、彼女の手を捕まえたとしても。
何も言わず、零れて雀の涙ほどしか残っていない酒を見つめていたのが、どうにも奇妙だったらしい。
急にグイと腕を首へ回されて、幹部殿に引き寄せられる。彼が手壁を作った瞬間、周囲の先達が一斉に、じり、と距離を詰めてきた。
「ほら!スッパだって良いと思ってるんだろ!?傍から見ても良い雰囲気なんだ、今日にでもキメて来い!」
「しかしそれは、・・・・・・どうすれば」
「簡単なことだ、自分のものにしたいって腕を掴んで引き寄せれば良い。しっかり相手の目を見て、拒否されなければそのまま接吻でもしろ!あとは成り行きで、・・・・・・分かるだろ?」
口端のにやつきを一切押さえない囁き声で、幹部殿は耳打ちをした。
それは、あまりに無理やりでは、と応じかねると、「分かった分かった」と呆れた声が返ってくる。
「相手のことを褒めちぎって、良いなと思ってるところを伝えて、好きだって言っちまえ。あとは、お堅いスッパだって、雰囲気でどうにかなるだろ」
「・・・・・・できるでしょうか、自分に」
「できるかじゃなくて、やるんだよ!女だってきっと待ってる。男になれ、スッパ!」
女人と契ることが、なぜ男になる・・・・・・つまり、一人前の男として認められる、という話に繋がるのか、皆目自分には見当がついていない。
しかし、諸兄のみならず、コーガ様も同じ言葉を口にする。以前も言われた通り、ある一定の覚悟を持てと、そういうことなのだろうと思う。
いつもであれば、決して頷きはしなかった。しかし、今日初めて腑に落ちた感覚に、やっと「はい」と、返せる気にもなっていた。
「ちょっといいかぁ、皆の衆~」
逡巡する合間をぬって突如部屋に鳴り響いたのは、手を打つパンパンという乾いた音。目をやると、部屋の奥で飲んでいたコーガ様が「どっこいせ」と立ち上がる瞬間であった。
気付けば、コーガ様の卓盆からつまみが全て姿を消している。食堂の様子を肴に、主君は一人で静々と酒を煽り続けていたらしい。いつの間に無くなったのか。であれば一言言ってくだされば良いのに。と思ったが、コーガ様は結局、先達に囲まれる俺に気を遣ってくださったのだろう。
腹に何も入れずに飲み続ければ、酒仙だろうと酔いは回る。「うい・・・・・・」と一度フラついて、コーガ様は後頭部を掻いた。
「外はもうすぐ白み始める時間だぁ。俺様はさすがに寝る!ちゅーわけで、これにて宴は終了!飲みたいやつはまだ飲んでて良いが、無理はすんなよ。寝たいやつは寝ろ!じゃあな!」
そのまま、自然と戸口にまで出来た花道を通って、コーガ様は「おとと」と呟きながら、危ない足取りで去っていった。
この時ばかり、頭を垂れる団員たちの姿は凛として美しい。まるで身体に残る酒精を感じさせない振る舞いである。
しかし、足音が廊下の先に消える前に、一瞬の静けさを湛えた食堂は、堪えきれないように「わっ」と活気づいた。ただそれは、主君が去って改まった賑やかさではなく、解散に向けた、後始末の音だ。
一人、また一人と食堂から人が去っていく。多くの人間に紛れて、先生も食堂の後片付けをおこなっているのが微かに見えた。
このタイミングで解散になるなら、丁度良い。気の昂りのままに傍へ寄り、先ほどの助言を試そうか。
「待て待てスッパ、どこ行こうってんだ。お前は主役だろうよ」
膝を立てようとしたところ、首に回されたままになっていた腕に力が込められる。
酒の所為で身体に力が入らず、いとも簡単に引き寄せられたのが情けない。加えて、遠慮も無しに幹のような腕が喉ぼとけを圧迫するものだから、思わず「ぐ」と、潰された声が漏れた。
「そうだぞ、スッパ。さすがにこのタイミングで解散は早すぎる。朝まで付き合え」
「いえ、しかし、自分は」
「バカヤロウ!飲む機会なんて今後無くなるのに、これで解散なんてできるか!」
「特にスッパ、お前と酒を飲むなんて、二度とあるかどうか分からん。もっと飲ませてやる」
「そうだそうだ、せめてもう一瓶・・・・・・」
「あ、あの」
やいのやいのと、諸兄に取り押さえられて身動きの出来なくなった俺の前に、小さな足が止まる。
頭を抑えられ、地面しか見られない体勢だったが、無理くり顔を上げれば、そこには構成員の姿があった。
如何にイーガの団員が同じ装束、同じ面をつけていても、頻繁に会っていれば誰かすぐに分かる。申し訳なさそうに足を揃え、胸の前で手のひらを合わせるその構成員は、ここ一ヶ月で何かと世話になった針子の女だった。
「あっ・・・・・・」「しッ!」と、周囲の諸兄が一瞬波立つが、今までの幼稚な騒ぎはどこに行ったのかと思うほど、皆一様に雄々しく黙り込む。今更、幹部役の威厳でも表さねばならないと感じたのだろうか。普段は自然と尊敬の念が滲むものだが、調子の良さには睥睨を堪えきれない。
何事も無かったかのように酒を煽り始める諸兄を面下で眺めながら、俺は女に「何用でござるか」と向き直った。
「スッパ様、この度は大変におめでとうございました。装束もお似合いで、私としても嬉しい限りです」
「うむ、全てはお主の研鑽の賜物。急な話であったのに、よくぞここまで付き合ってくれたでござるな。感謝する」
「そんな・・・・・・。私もスッパ様と一緒に、楽しく針仕事ができました。ありがとうございます」
実際、針子の女はよく尽くしてくれた。日中夜の区別なく唐突に訪れる俺に応じ、嫌な顔ひとつせず、希望通りの装束を仕立て上げた。
まだ若いにもかかわらず、俺と主君からの要望で板挟みにされていたのだから、きっとその心労は相当だったはず。出来る限りの労いをかけてやろうかと、酒で覚束ない頭ながら言葉をひねり出す。
「戦が佳境に入るにつれ、手直しの仕事は増えるかもしれぬ。今後もコーガ様への忠を尽くし、一層業務に励んでもらいたい」
「はい!・・・・・・えっと、それで、あの」
用事は終いかと思えば、まだ何かあるらしい。心地よい澄んだ声とは裏腹に、唐突に素直さが消え失せる。
「なんだ」と訝しむと、女は肩を縮ませて、深く面を俯かせた。
「私、スッパ様に、お伝えしたいことがあって」
「聞こう。今、話すと良いでござる」
「いえ、ここでは、少し・・・・・・。人目がありますので」
「む・・・・・・」
「あの、後で、玄関口に来ていただきたいのです。・・・・・・待っておりますから」
小さく、弱弱しげな声だったが、全ての言葉は俺の耳にしっかりと届いた。しかしなにを言うべきかも分からず狼狽した一瞬、女は勢いよく頭を下げて、逃げるように喧騒の中へと紛れていく。
食堂はもうほとんどが解散状態だ。多くの団員が立ち上がって戸口へと向かう中、こちらを振り返る彼女が見える。俺の視線に気付いていたのか、深く一礼した後、彼女は戸の奥へと姿を消した。
「おい、今のは、まさか」
「とんでもない場面に居合わせちまったぜ・・・・・・」
それまで雄々しさを保っていた先達が、前かがみになって声を潜ませた。
なにを、と問おうとした瞬間、またもや幹のような腕が俺の首にかけられる。相も変わらず的確に急所を圧迫され、「ぐっ」と唸りながらも引き寄せられた。
「おいおいおい、向こうから来るとはまさかだな・・・・・・!絶対行けよ!モノにしてこい!」
「じ、自分は、別に」
「バカ言ってるな!このチャンスを逃すなよ!」
「欲求に素直じゃないスッパには願ったり叶ったりな状況だろ、これ以上のチャンスなんてないぞ・・・・・・!」
存外、幹部殿が腕に込める力が強い。まともに呼吸のできないほど首を絞められ、正直窒息気味である。まずは腕を引き剥がそうかと指をかけるが、びくともしないのにも驚いた。さすが幹部殿、と言いたいところ、酩酊も相まってこれでは意識が落ちる。
その時すでに、食堂は多くの団員が既に立ち去り、残っていたのは俺たちと、片付けものをおこなっていた数名の女衆のみ。その団員たちも、幹部殿の腕にもがく間に戸口の方へ連なっていく。
戸口から左に向かえば共寝所だ。女衆の多くは左へ向かうが、そのうちの一人が集団から外れて右へ曲がるのが見えた。
もしや、あれは。 「わり、力入れ過ぎた」と先達の腕から力が抜けた拍子、俺は戸口から視線を離さず、そのまますっくと立ち上がる。
「お!行くのか!?」
「行け行けスッパ!階段登ってこい!」
わっ、と宴の真っ最中を思わせる盛り上がりを見せた先達に、面下で苦い笑みを浮かべつつ、小さく会釈する。立った瞬間、一気に酒が身体中へ回った感覚があり、視界が酷く揺らめいた。が、一歩一歩に力を入れて地面を踏みしめれば、コーガ様のように体がフラつくことは決してありえぬはず。
開け放したような遠慮ない笑い声を背中に受けながら、俺は食堂の戸口を抜けた。
岩廊下は食堂と違って、随分冷えている。いや、人の熱気で蒸された食堂が異常で、この岩廊下こそイーガの常態だろう。酒で火照った身体にはありがたい冷やかさだった。
共寝所の方角からは、人の喋る声が廊下を反響して聞こえてくる。これから寝床で飲み直す輩もいるに違いない。しかし俺の目的は寝所ではなく、戸口を出た右側だった。
急ぐつもりはない。先ほどの人影が、俺の見間違いの可能性だってある。しかし、どうも気が逸った。
右側に曲がるその団員が先生で、俺のことを崖上で待ってくれているんじゃないかと思ってしまったのだ。
少しでも早くいかねば機会を逸する。それは空想かもしれない。急ぐ必要だってきっとない。ただどうしても、コーガ様に呼びたてられたときと同じように両脚が慌てて仕方ない。
冷ややかな岩廊下を抜け、更に気温の低い玄関に辿り着く。
いつもであれば守衛の幹部役が一人立っているが、今日は戸口の鍵を閉めているので誰も居ない。松明に灯だけを灯した広間は、音が死んだような静寂に包まれるのみだ。
「スッパ様」と突如鈴の音のような声が俺を呼んだ。刀も持たずに居た俺は刹那に緊張が走ったが、その声には聞き馴染みがあった。
イーガの装束も、仮面も身に着けずに俺の元へ駆け寄ってきたのは、嬉しそうに顔を綻ばせる針子の女だった。
「来てくださったんですね、嬉しいです!」
「針子でござるか?なぜそのような恰好を・・・・・・」
「えっと・・・・・・、こっちの方が良いかなと思って」
いつもは結っている黒髪を垂らし、目を泳がせる針子はおそらく、変装でなく素面であった。
ふっくらとした顔つきはあどけなく、まだこの世の暗い理を知らないと思わせる朴訥さ。酩酊していたから余計だろうが、頬に乗る桜色など生まれて間もない赤子のようで、まるでイーガに似つかわしくない相好に思える。
「お呼びたてして申し訳ありません。私、スッパ様にお伝えしたいことがあって・・・・・・」
「待て、先に聞きたいことがあるでござる。構成員の一人がこっちに来たかどうか見ておらぬか?」
五本の指先をそれぞれの指先に当て、俯き加減に唇を引き絞る針子の女。俺の言葉に刹那、きょとんと目を丸くしたかと思うと、その顔がどんどんと強張っていく。
呼吸さえやめたのではないかと思うほど、彼女は突如として顔色を悪くした。散った桜はどこにいったのか、まるで春も夏も過ぎ、唐突に冬が訪れたように景色が変わる。
また唇を引き絞る。そして再び開けられた時、すっかり血の気を失ったそこは、微かに震えているようにも見えた。
「構成員、というと、スッパ様がいつも、先生と慕う」
「そうでござる。あの人がこっちに来たかと思ったのだが、見ておらぬか」
雪景の顔で視線を落とす。もじもじと捏ねていた指先は、ぎゅっと胸の前で絡まり、その力強さに皮膚が白くなっている。
彼女は逡巡する様子を見せたが、最後にはちらりと視線を玄関口へと向けて、泣きでもしそうな表情を上げた。
「あの方は、玄関を抜けて外へ行かれました。酔ってしまったから、夜風に当たりたいと・・・・・・。つい先ほどのことです、今まだいらっしゃるのではないでしょうか」
「そうか、かたじけない。して、お主の用事とは」
「えっと・・・・・・、いえ、私は・・・・・・もう・・・・・・」
尻蕾に語尾の消える声を聞き、針でチクリと心臓を刺された気になった。すまないと胸の内で謝ったとして許されることではないだろう。彼女の言葉を、決心を失せさせた。まごうことなき、俺の言葉で。
「分かった」と去ろうとするところ、彼女の「あの」という言葉が俺を止める。顔だけ向けると、彼女は唐突にも思える質問を投げかけた。
「スッパ様は、どうしてあの方を先生と慕っておられるのでしょうか」
それは単に間を繋ぐ質問であったかと思う。しかし、返事を咄嗟に形作れなかった。
俺が、先生を慕う理由。改めて聞かれると分からない。先生は幼い時分より先生で、それが当たり前の存在だった。尊敬や慕情を持って然るべき、と思っていた。
しかし事情を知らぬ団員にとっては、俺たちは全く理解のできぬ関係性であったらしい。
「幼いころ、文字を教わったのでござる。それだけでなく、この世の理や、イーガでの生き方も。だから先生と慕っている」
「でも、それだけですよね?体術も暗器術も、あの方はそれほど・・・・・・。武勲も聞いたことがありませんし、文字や理を教わっただけでいつまでも先生と慕うなど、違和感に思えます」
「・・・・・・」
「それだけでは、無いのではありませんか?」
「なに?」
「スッパ様は、あの方を好いておられるのですよね」
揺らついた瞳の奥、芯ある光りに見つめられ、俺は押し黙った。
その言葉は、いつまでも形にできなかったものなのだろう。曖昧に見ないふりを続けていた、彼女への思いそのものだ。
朗らかな笑みをいつまでも見ていたいと思った。憂いの籠った瞳に目を奪われた。その星光の宿った瞳を、俺に向けて欲しいと思った。
いつまでも彼女と過ごす時間を、手放したくないと思った。彼女と一緒にいるときだけ、人として生きることを許されている気になった。
俺は先生を、好いていた。
今までずっと曖昧に、彼女のことを考えるときにだけ、胸に内に染み出してきた霞の名前だ。
刹那の静寂、俺は彼女の澄んだ瞳を見つめながら、ただ深く、一度だけ頷いた。
それまでも泣きそうな顔をしていた彼女が、一度強く顔を歪ませて目を伏せる。
「分かりました。聞きたかったのは、それだけです。お休みなさい、スッパ様。・・・・・・ご幸運を」
無理やりに曲げた口元を歪ませて、女は深く一礼し、面を上げると共に俺の横を素通りしていった。
一瞬だったが確かに見た。彼女の丸くてキラキラした宝石のような瞳に、憂いの色が宿ったのを。
針子の気配が完全に消え、俺は静かに玄関口の扉から外に出た。
崖間から覗く空は、既に白け始めている。きんと冷えた空気が酒を帯びた体に忍びより、俺は微かに身震いした。
寒すぎるのはどうも苦手だ。筋肉が自由に動かなくなるし、イーガに来る前、一人で凍えながら過ごした夜のことを思い出す。どれだけ身体を鍛え上げ、団内で随一の巨体となったとしても、芯の部分がそのままだと突きつけられている気がして苦々しくもある。
寒々しい静けさの中、崖上までの岸壁を、俺はゆっくりと登り始めた。
イーガへ来てからの十数年、彼女と話をするために登り続けた岸壁には、足を掛けるのに丁度良いくぼみが作られている。未だ酒の抜けきらない頭には、過去の自分の所業がありがたい。
何も考えずに崖を登り始めたが、彼女がいる保証はどこにもなかった。あるのは、微かな確信だけ。彼女がいつもそこで待ってくれるからという、今までの経験だけが目的を支えている。
彼女の後ろ姿を見たら、俺はどうしてしまうのだろうか。好きだという、陳腐な言葉をはっきりと自覚した今、心臓がやけに騒ぐのは、身体を動かしていることだけが理由ではないだろう。酒で弛緩したはずの筋肉が強張るのは、きっと朝方の冷え切った空気だけの所為ではない。一つの覚悟を決めてしまった故の、緊張だ。
岩壁を登り切ったその先。急に視界を遮るものが無くなると、いつも小さな達成感を覚える。
拓けた空は、先ほど見たときよりも白みが強くなり、夜明けが近いことを示していた。僅かに残る星の輝きは、きっとあと少しで消え失せる。
空と、乾いた砂地の境。 彼女はいつもの場所へ、座っていた。
頭巾を取り払い、結った黒い髪の毛を解いている。穏やかな風に黒髪を靡かせるのは、いつも見る景色と同じだ。
しかし、思えば、空が白み始める時間に崖上へ登ったのは初めてだ。星明りではない空の下で見る彼女の姿が、なぜかこのとき新鮮だった。
先生、と声をかけて、彼女が振り向いた先、きっとそこにはいつも見る、朗らかな笑顔があるだろう。なぜならいつも彼女は笑っていた。俺と一緒に過ごす間は、いつでも口元に笑みがあった。星の瞬きを宿す彼女の瞳に憂いはなく、慈愛に似た優しさを秘めるだけだった。
それで良い。俺と彼女が築いてきた関係に後ろめたさを感じる必要などない。俺はこのまま、彼女に思いを伝えたい。
「先生」と、声をかける。彼女が身動ぎし、髪を乱しながら振り返る。
ただ、彼女が俺に向けたのは、それまでに頭へ思い描いていた顔ではなかった。
「スッパ君、・・・・・・いえ、筆頭幹部殿、こんばんは」
その場へ立ち上がった先生は、イーガの面をつけていた。
なぜ、と咄嗟に上った。彼女がこの場で面を着けたことなどなく、異様に思ってしまった俺は、結局思い上がっていたのだ。
思ったことを素直に口へ出せる素直さが、俺にあれば良かった。
「やめてくだされ、筆頭幹部殿など」と呟きながら、彼女に近寄ると、先生は微かに俯いた。
「貴女にはこれまで通り、同じように呼ばれたい」
「・・・・・・お針子の子が、玄関に居たでしょう。スッパ君、に・・・・・・用事があるって」
「うむ。用事を済ませた上で、ここにいるでござる」
「・・・・・・そっか」
ふっ、と風が強く吹き、先生は髪の毛を押さえた。その拍子に視線が砂漠へと移り、僅かに身体が崖に向く。
ただそれだけの、何でもない仕草だったのに、やけに自分との距離が開いたように思えた。
せっかく、先生への好意を自覚し、押し付けられた形とはいえ、諸兄からいろはも学んだというのに。少しの焦りがあったのは確かかもしれない。
「自分がこうなれたのは、先生のおかげでござる。先生が、俺にこの世の理を説いてくれたから」
仮面越しにでも、なぜ俺を見てくれないのか。いつもであれば、朗らかな笑顔を見せつけるように、俺の顔を覗き込む癖に、今日はむしろ、自分自身の姿を見られたくないとでも言うようだ。
彼女の顔を、誘いたかった。俺は言葉が拙い。ただそれでも、自分の思いを伝えるにはこれしかない。「ありがとうございます」と口にすると、僅かに面が振り返って少しほっとした。
「スッパ君の実力だよ。私はなんにも、してないから」
「貴女と出会っていなかったから、今の自分はいないでござる」
「それは、どうかな。私じゃなくても、他の人が文字の読み方なんかは教えただろうし」
「この世の理を、貴女ほど教えるのが上手い人を俺は知らないでござる」
「買いかぶり過ぎだって。私は実体験の伴ってない内勤だよ。今じゃ、スッパ君の方がよっぽど世界を知ってる」
「いえ、はっきり言えます。俺は貴女じゃないと、駄目だった」
一歩前に出ると共に、砂漠へ向けられていた先生の面が、こちらに動く。
音は無い。いやきっと、ひゅうひゅうという聞き慣れた風の音に、この場は包まれていた。俺は先生の声以外を、耳の外に追い出していただけなのだ。静寂の中で、自分が息を吸った音だけ、やけに大きく聞こえたのだから。
「俺は、貴女のことが」
「やめてよ」
俺の言葉に重なったのは、今まで、この場では聞いたことがないほど強く、鋭い先生の声だった。
「本当に、・・・・・・私は関係ないんだよ」
関係ないのだと、彼女に言い聞かせられている。
途端に、砂漠へ吹く風の音が耳に入ってくる。乾き、荒れ、寂しさの籠る音だった。体温を奪う冷たさに、ただその場で立ち尽くした。
彼女は、俺の言葉を聞きたくないのだ。いや、思いを受け取りたくないとすら、考えているのだろう。
俺が彼女を無理やり抱いたから。俺が修羅へと足を踏み出したから。俺が彼女を、好いてしまったから。
全て、彼女は、求めていなかった。彼女は俺の生に、関係ないと思いたいのだ。
何も返せない。それ以上近寄れない。そのまま二枚の仮面越しに見つめ合っていると、ふぅと先生が肩で息を吐く。
ゆっくりと再び砂漠へ視線を戻す先生は、本当に、いつまでも続く地平を見ていたのだろうか。その瞳にはまた、呆けたような憂いを宿し、彼女が本当に得たかった自分の生を見ているのではなかろうか。
「最近、スッパ君が羨ましくて」
彼女は、人と自らを比べるような人間ではなかった。イーガの不文律の中で、できる限り自分がしたいことをして、個で居続けようとした。それは、自らに誇りがあるからなのだと、満足しているからなのだと思っていた。
口にした言葉の真意を探りたくて面を覗き込むが、そこにはまばたきすらしない、赤い瞳があるだけだ。
「俺が・・・・・・羨ましい?」
「めきめき力をつけて、筆頭幹部なんて役職を与えられて、実際に凄く強いし、みんなにも認められてる」
「・・・・・・俺など、まだまだでござる」
「スッパ君はそう言うけど、武勲も実力もあるのは事実だからさ。・・・・・・私も頑張らなきゃなと思って」
俺がここへきてからずっと、彼女は研究班として、古書の文献整理に携わっている。時折砂漠へ降りていって、遺跡や遺物を見に行く業務に携わることはあっても、如何せん武術が苦手なので「近場まで」と区切られていたようだった。
彼女が、くるりと向き直る。手を広げ、髪を振り乱すその仕草は、年齢を感じさせない彼女の陽気さを感じさせる。先ほどまでに取り巻いていた拒絶感は、このとき確かに消え失せた。
「いうの忘れてた!筆頭幹部就任の儀、お疲れ様!おめでとう!」
「・・・・・・かたじけない」
「角の面も、すごく様になってるし、新しい装束もカッコイイね。似合ってるよ」
「うむ」
「明日から、もっと忙しくなる。お互いにできることを頑張ろうね」
わざとらしい明るい声が、谷間に響く。
面下で、彼女は声の通り、朗らかな笑顔を浮かべていてくれただろうか。
それにすら確信の持てない俺は、きっとこの時から既に、彼女に顔向け出来なくなっていたに違いない。
「はい」と呟いた酒焼けの声は星灯りと共に、やっと顔を出した日の所為で失せてしまった。