【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
アジトのあるカルサー谷は、下った先が砂漠、崖を登りつめれば雪原が広がる、荒涼とした土地である。
高い山々が影となり、気温は高いがゲルド砂漠ほどではない。しかしそれも日中の話で、乾燥地帯にはありがちだが朝晩が冷える。特に外界へ通じている総長室と玄関口は気温が低く、布地の薄いイーガの装束だけでは、如何に鍛え上げた身体を持つ我等と言えど、指先がかじかむほどだ。
カルサーの朝。開け放たれ戸口を背に座椅子へ座るコーガ様もまた、本来であれば身体を擦り、摩擦熱ですらありがたがって堪えていたはず。主君は自分の知る限り、寒いと言って布団から出てこないことが度々あった。布団が恋しいだけだったかもしれないが、それでも主君は寒さに苦手意識がある素振りを見せていた。
しかし、この日の主君は違った。キンと冷えた空気を風格として身に纏い、朝の静けさは彼を称える囃子のようだ。窓から差し込む光は筋となり、後光として彼を飾り立てている。
俺の前へ威風堂々と座す姿は、集団をまとめる人物に相応しい佇まい。この地を作ったという女神すら平伏する、神の如き御姿だった。
俺が腿に手をつき、深く頭を垂れたのは、コーガ様の神々しさに身体が自然と動いていたからに他ならない。
誓いをたて、自らの命を預けた主。俺の存在意義そのものといえる、人生最大の恩人だ。
「本当に、これで良いんだな」
重々しく呟いたその言葉に、いつもの気安い音色は含まれていなかった。
肺にとどまった空気を吐き、代わりに新しい空気を取り込む。身体に入った冷たい外気が、肺の存在を如実に知らせてくれる気さえする。
生き物として、今ここに自分は存在しているのだと。息を吸い、吐き、生きているのだと。
敬愛を一心に捧ぐ御方の前で、自分は正に、存在できているのだと。
「これで、お願いしたいでござる」
床を見つめる俺の視線の先には、ひとつ、イーガの仮面が置いてある。
木製のそれは、この国を統べる王家へ、反逆を誓った同志が身に着ける象徴。
しかし他と違うのは、真っ白な半球状の面に走った亀裂のような裂傷痕。木の繊維が随分かさついているのは、長い年月そのままであったからだ。傷痕の周囲に散った薄い斑点は一種の模様にも見えるが、その実、無数の血痕だと俺は知っている。ほとんどが、・・・・・・いや、全てが、無力だった当時の俺由来のものだった。
天井を一心に見つめるイーガの瞳を裂かんとする傷は、イーガという存在へ刻まれた王家の烙印そのものにも思えた。
・・・・・・成人を迎え、王家直属の騎士部隊とぶつかったあの日。
俺の人生唯一の負け戦として記憶に、そして記録に残ることとなった、浅葱色の修羅から受けた傷がこれである。
新しい面を手配されてからも、ずっとこの傷痕の残った面を手元に残していた。誰にも見られないように寝具台下の隙間に隠し、思い出したように取り出しては、強さへの渇望を新たにした。全ては、あの時の苦味を忘れぬために。
浅葱色の兵士は、人を捨てていた。なにが彼奴をそうさせたかは分からぬ。俺よりもだいぶ幼く見えた彼奴は、まだふくら顔のくせをして、獰猛な猛禽類の如き瞳を同時に宿していた。
民のためにあるべき騎士部隊は、子どもでもない、人でもない、修羅の兵を擁していたのだ。大多数のため、子供に人を捨てさせた王家のやり方におぞましさを覚える。しかし、それは結局、俺自身に足りないものでもあった。
かさつき、随分汚れた木面を差し出され、コーガ様は腕を組んだまま動かない。受け取りかねる、と言いたいのかもしれないが、俺はただ、身動ぎせずに主の返答を待つだけだ。
しんと静まり返った空気が張り詰める中、イーガの瞳は確かに真中でかち合っている。呼吸さえ最低限に押し留めて主の動きに注視すれば、彼は観念したとでも言いたげに、ふっと息を鋭く吐いてみせた。
「スッパは頑固だな。なにもあンときの面じゃなくても良いだろ」
「これは自分への戒め。更なる飛躍と、二度と遅れを取らぬという、誓いそのものでござる」
「示しがつかなくねえか?事情を知らねえ団員に、傷痕を晒すなんざ」
「新参に舐められるのなら、その度実力を示せば良いだけのこと。不平を漏らす手抜かりなど、自分は毛頭考えてござらん」
主は底の見えない御人ではあるが、部下の固く誓った考えを頭ごなしに否定するほど、傍若無人な長ではない。
主に伝えた言葉は、自分の嘘偽りない心根。増して、腹の底から言い切りでもすれば、コーガ様が呆れたように天井を仰ぐだろうことは、長年彼に仕えた俺が分からないわけがなかった。
はぁー、と大仰に深く息を吐き、肩を落としてから動かなくなる。それは、俺の我の強さに呆れたからかもしれない。ただ、その我の強さ、言わば覚悟を評価してくださったのは、他でもないコーガ様ご自身である。
それからも指先ひとつ動かさずに彼を見つめ続けていたら、コーガ様はやにわに、ぱしんと膝を叩いた。
「分かった!数日待ってろ。様になるよう職人に頼んでやる」
膝前に置かれた修羅への覚悟は、そうして主に引き渡された。
お願いするでござる、と呟いた声は、床に広がる自分の影に、吸い込まれでもしていくようだ。頭を下げた拍子、イーガの象徴でもある結った黒髪が主の前に枝垂れ、言葉を含んだ影共々、彼に全てを明け渡すようだった。
俺はこの機会、筆頭幹部の称号を与えられることとなった。
コーガ様のお傍で彼を支え、イーガの力を盤石にする役どころである。
世界は、厄災復活のお告げがなされたと王家から公式に発表されたことにより、大きく動き始めていた。国全体が、惑いながらも戦乱へと進むこの状況で、対抗策として最も期待されていた姫巫女の力が目覚めないのは、我らにとって好機でしかない。
敵方が二の足を踏む間に、こちらの結束をより強固にし、来るべき時を待つ。
対抗策として、コーガ様がすぐに采配なされた筆頭幹部の号。俺は王家との闘いにおいて、支柱となるべき荊の道を歩み出した。
コーガ様へ差し出した面には、これから筆頭幹部の証となる意匠を施すのだという。
「これに意匠を施して欲しい」と迷いなく差し出した裂傷痕のある面。どれほど渋い声を出されようと、これ以外の選択肢は毛頭あるはずもなかった。
「それでだ、お前の筆頭幹部就任の儀なんだがな、赤い月が二度昇った晩にしようかと思ってる」
先ほどより日が少し昇り、肌を刺すような寒さが和らいだからだろうか。くつろぐように後ろ重心に座り直したコーガ様が、おもむろに呟いた。
その言葉に、少し思うところがある。「赤い月の晩、でござるか」と繰り返す声音は無感情を貫いたつもりだったが、コーガ様には、納得しかねたように思われてしまったらしい。
「なんだ、不満か?」と腕を組み直されて、俺は咄嗟に「いえ」と面を僅かにあげる。
「ガノン様復活を願う俺様たちが、ガノン様の力が満ちる赤い月にめでたいことをやろうってんだから、おかしいこと一つもねえだろ?」
「文句など毛頭ありませぬ。・・・・・・しかし、そもそも筆頭幹部就任の儀、というのが、隠密らしからぬのではないかと・・・・・・」
長いイーガの歴史上、総長の次を担う役目がいたとの記録は残っていない。そも、イーガは紙に記録を残すことを得意としておらず、文字だけで言えば虫食いの如き歴史ではあるのだが。
いくらまとめ役の上をいく、とはいえ「筆頭幹部就任の儀」などと、事を大仰にしようという話には些か反対したいところだ。口にした通り、隠密らしからぬという理由に加え、俺の性分でもない。
しかし、提案はコーガ様の「あのなぁ」という不満に満ちた一言に掻き消される。グッと前かがみになって面を突き出してくる様に、思わず身を引いて口を噤んだ。幼少期に俺へ滾々と説教をする姿そのもので、過去に覚えた萎縮の感覚がさっと蘇ったからだ。
「筆頭幹部ったら、総長権限があるに等しい。お前の威光を知らしめるためにはパフォーマンスが必要なんだ。最近は団員も増えてる。今後はそういうことも考えにゃならんってこった」
「・・・・・・」
「とはいえ、無骨なスッパが、そういうやり方に不得意っちゅーのも分かってる。暫くは俺様がサポートしてやるから、大人しく言うこと聞いとけ」
「・・・・・・かたじけないでござる」
「それにだ」と間髪入れず続けるコーガ様の声音に、暗がりが増す。先ほどと格好こそ同じであるが、勝手口から差し込む日の光が、弱くなった気がした。太陽が雲に隠れたのかもしれない。前かがみになったコーガ様の面に陰が差し、まるで妖気を纏いでもしているかのような。
見慣れたイーガの印が不気味に閃いた気がして、俺は身動ぎもせずに、ただ主君の瞳へ視線を注いだ。
「これは俺様の威光を示す意味もある。各地に散らばってる団員にも通達するからな。俺様の命令がどれほど即座に伝わるか、分かりもするわけだ」
「はい」
「当日に来るのが難しいやつも把握できてる。それ以外が応じなきゃ、そのときは」
ぴっ、と部屋中に広がっていく重々しい空気。言葉を続けずに床を見るコーガ様に皆まで言わせないよう、俺は黙って深く頷いてみせた。
「まっ、そういうこった。お前の性分じゃないってのは百も承知だが、こればっかは付き合ってくれ」
面を上げた途端、陽の声音が戻る。「御意に」と返しながら一度深く頭を下げ、俺は知らずの内に硬くなっていた筋肉を弛緩させた。
「今日は行っていいぞ」の声に合わせて立ち上がり、一度頭を下げた。日はすっかり昇り、そろそろ朝餉の時刻となる。
バナナを持った団員たちが総長室へやって来る前に、俺は「失礼するでござる」と、廊下へ続く岩戸を抜けていった。
ほの明るくなった総長室から抜けると、窓もない岩廊下はいつものように暗く寒い。暫く身動きもとらずにいた身体は冷え切っていたが、歩いていれば暖まりもするだろう。
歩を進めるうちに頭へ巡ったのは、これからやってくる赤い月の晩についてのことばかり。
赤い月の晩。・・・・・・この世の理として、誰もが知っている特別な一夜だ。
屠ったはずの魔物が顕現し、世界がガノンの怨恨に満たされる時間。得も言えないおぞましさと恐怖が背中を這いずり回る感覚は、恐らくハイラルの生あるものであれば、誰もが体感のあることだろう。それは、王家に仇なすイーガとしても、同じくに。
俺はその日をもって、人ではなく、修羅になる。確かに、筆頭幹部への就任として、これほど丁度良い機会も無いのかもしれない。
赤い月の晩に良い印象が無いというだけで、こればかりは俺がどうこう言う問題でもないだろう。
いよいよか、と感慨に耽る間など俺にない。日取りが決まったとあらば、組織を形作る各班の幹部にいち早く伝令し、各地に散らばる団員に連絡しなければならない。
月が昇る晩の機会を、イーガでははっきりと把握している。あと三日も経てば一度目の赤い月が昇り、その七日後には二回目の赤い月が昇るはず。
イーガは現在、コーガ様を始めとして樹状に連なる組織体系となっており、それぞれを取りまとめる幹部役に伝えれば、つつがなく伝令が広まるようになっていた。外回りの人間だろうと、内勤の人間だろうと、それは変わらない。
不平を漏らす手抜かりなど許さない。自分で言った手前、まずはこの筆頭幹部就任の儀を滞りなく進められるように、俺は伝令を取り仕切る幹部の元へ向かった。
[newpage]
■ ■ ■
「日取りが決まったのですね、おめでとうございます」
儀式の日取りが決まったとアジト内に通達すれば、当然声を掛けてくる団員が居るだろうと予測していた。
まず初めに声をかけてきたのは、装束類の縫製を引き受けているお針子の女であった。筆頭幹部就任に合わせて装束も特別な装いに変えようというコーガ様の発案が為されてからというもの、身体の採寸をおこなったり、装束の意匠について相談したり、何かと頻繁に会っている女だ。祝いの言葉を投げかけられたとして、何も不思議ではない。
とはいえ、まさかこれほど早く話が回るとは思っていなかった。つい10分ほど前に幹部役へ事の次第を伝え、朝餉を食った足でここへ来ただけだというのに、もう内勤の最たる縫製班にまで話が回ってきている。
イーガは隠密。王家に劣らず確固とした組織体系をしていれば、話の回りが早いのもうなずける。とはいえ彼女が日取りを知っているのは、情報収集に長けたイーガだから、というだけでは決してないのだろう。
とかく女衆は話好きが多く、業務の裏方として従事しているにもかかわらず戦線の詳細を知っており、目を丸くすることが度々あった。幼少期から接するあの人が代表だ。今更驚くこともないはずなのに。
「ご苦労」という挨拶に続けてすぐさま業務の話へ入ろうかと思っていたものだから、突然の祝い言に面食らい、咄嗟に言葉が続かなかった。「うむ・・・・・・かたじけない」と小さく返すに留まったが、女はそれでもはしゃいだ様子を見せる。
「スッパ様が筆頭幹部に就任すれば、イーガも安泰ですね」
「自分は今までと同じく、できることをするまで。むしろ就任を機に、盤石であったイーガの地盤が緩まねば良いが」
「何をおっしゃいます、スッパ様ほど人望も厚く、武力に加えて知力まで携えたお方を知りません!コーガ様の右腕となるに相応しいお方です」
「右腕、となれるかは、今後の自分次第。だがまぁその言葉、ありがたく受け止めるでござる」
出会ったばかりの頃は口数少なく緊張した声音だったものだが、最近はやけに親し気に軽口を叩くようになっている。
楽しげな声音を憚りもしないのはイーガの理と程遠いが、そも主君があまり個を押し殺すことを良しとしていない。これほどの逸脱であれば目を瞑るほどの親近感が、俺と女には確かに出来上がっていた。
座るように促され、肩回りを採寸される。その後も何かと耳元で喋り続ける女の声は、小動物でも鳴いているのかと思うほど華やかで賑々しい。
女人の声とは、おしなべてこのようなものなのだろうか。女の高い声を聞いていると、いつも崖上でのひとときを思い出す。俺は簡単に相槌を返すばかりだが、時折クスクスと笑って見せるのも、なんとなくあの人との逢瀬を彷彿とさせた。
お針子の女と過ごす刹那の時間は穏やかで、存外嫌いではない。採寸の合間に肌へ触れる細い指や、屈んだ拍子、ささやかに揺らめく黒髪、動く度に立ち昇る甘いにおいの向こう側に、心が星月夜を見ている気になる。
「スッパ様の門出となる装束を、私が手掛けられるなんて夢みたい」
はっきりと陶酔が滲んだ声音で肩に手を置かれ、その温かさに我へ返った。言葉に惑い、微かに視線を向けると、面の奥で笑った気配。
「同じお針子の子に自慢できます。私がスッパ様の装束を縫ったんだぞ、って」
「お主にとっても名誉であろうな。コーガ様自ら決めた筆頭幹部役の装束を手掛けたとあらば」
「もう、違いますよ。スッパ様の装束だから、自慢できるんです」
「自分の、でござるか」
「そうです。筆頭幹部ではなく、スッパ様の装束を手掛けたことに、です」
意味がよく分からなかった。その言葉に、どんな違いがあるというのか。眉を潜ませると、何も言えなかった俺の様子がおかしかったのか、女が「ふふ」と微かな笑い声をたてる。少女のようで、ただそこまで押しつけがましくない、お淑やかな笑い声だった。
「就任の儀が楽しみです。私も」
上ずった声に覚えはない。その代わり、肩に置かれた手の平に、より熱が籠った気がした。
女が身動きしなくなり、賑々しい声色が無くなる。肩越しに見えるのはイーガの瞳だが、おそらく女は、面越しに存在する俺の双眼を射抜いていた。俺も恐らくだが、彼女の瞳を見つめていた。
妙な沈黙が辺りを包み込む。いや、肩に置かれた手先から拍動の音が伝わる。随分早く、彼女の心臓は高鳴っていた。
ひとつ、彼女が息を吸う。「す」と、聞こえた瞬間に、俺はその場で立ち上がった。
「そろそろ行く。続きはまた明日にでも」
「す・・・・・・すみません、また明日」
勢いよく下げられ枝垂る艶やかな黒髪を背に、俺は部屋から立ち去った。
未だ背へ向けられる瞳は、憂いだろうか。きっと、数年前には気付きもしなかった、情の籠った色だろう。
気付かない方が良い。そのままにしていた方が良い。頭に浮かぶのはこれからの業務の数々と、・・・・・・女とのやり取りで思い起こされた、先生の無邪気な明るい声色だったから。
■ ■ ■
日を跨ぐかどうかという夜半。
俺が崖上に辿り着いた途端にパっと後ろを振り返った先生の瞳は、やはり真夜中だというのに爛々と輝いていた。
「おめでとうスッパ君!日取りが決まったんだね!」
いつもと比べ、輪をかけて明るい声音で出迎えられて、俺はただ小さく顎で頷いてみせた。
上気した頬に、キラキラと月光を返す大きな瞳。遠慮も無く曲げられた口元は、出会ったばかりの彼女を思い出す、幼い時分の如し。
彼女と相まみえる度に、この表情が新鮮に映る。お針子の女と過ごす間に「先生のようだ」と感じた時間が、本物を前にしていつも霧散していく。
先生との時間は唯一無二だ。だからこそ大切にしたい。この時間に代わりはないのだと、ここへきていつも思いを新たにする。
とはいえ、先生の反応は、今日一日の間に想像していた通りであった。俺は彼女と一間空けて座り込みながら「かたじけない」と、ただ一言返した。
「筆頭幹部なんて話を聞いたときは信じられない気持ちだったけど、日付が決まるといよいよか~って実感しちゃうね。今日も準備してたんでしょう?」
「うむ・・・・・・。日取り決定の連絡を団員に通達し、あとは装束の打ち合わせを」
「そうだったそうだった。お針子の子から聞いたよ。スッパ君、身体が大きいからやりがいがあるって!」
「やりがい・・・・・・でござるか」
「そうそう。どんなデザインにしようか考えるのも楽しいって」
「・・・・・・確かにあの娘は、いつもやる気に溢れているでござる」
毎日顔を合わせているからこそ、お針子の女がどれほど真面目に仕事へ向き合っているかよく分かる。俺よりも若いと聞いていたが、針子の腕も申し分ないし、年齢に見合わず穏やかな喋り声にも悪い印象がない。
思ったままの評価を口にしただけだったのだが、それが先生にとっては珍しかったらしい。「でしょう!?」と急に迫られて、俺は勢いに押され身を引くことになった。
「凄く良い子なんだよ、一途だし、仕事熱心だし、優しいし。思わず応援したくなっちゃう感じ」
「応援」
「そうそう。筆頭幹部の装束作りも、寝る間を惜しんで考えてるみたいで」
「・・・・・・寝ては欲しいが」
「でも健気だよね。頑張れ、って思っちゃう。スッパ君もそう思うでしょ?」
「自分としては、そもそもこのような些事に、手を割くべきではないと考えているでござる」
いわば、いつ戦が起こってもおかしくない機運。それでなくともカルサーは物資の運搬に労力を要し、どの団員も節制を心がけるのが常だ。
装束など言わずもがな、ちょっとやそっとの理由で新調など許されていない。平生、穴が開けば糸を重ね縫いして塞ぎ、裂ければ布を[[rb:継ぎ接ぎ > つぎはぎ]]してくっつけているのだ。ボロ切れと判断されたとしても、分解して再利用できる部分を選別し、別の装束を縫製する際の材料として取ってあるのだから、物資の節制は徹底されている。
筆頭幹部に就任するとはいえ、全く新しい装束に変えようなどと、許されない贅沢のように思えて仕方がない。ましてや、人一人の労力を、たかが装束の新調に費やしている。いくらコーガ様の命令とは言え素直に大手を振れないのには、有り余る理由だと思う。
常日頃感じていた気後れを漏らした途端、先生は腰に手を当てながら「何言ってるの!」と呆れた声を上げた。
「コーガ様をお支えする幹部役の、更にまとめ役になるんだよ!カッコいい格好しないと、示しがつかないでしょ」
「うむ・・・・・・」
「スッパ君が筆頭幹部になるって決まってから、皆やる気になってる。儀式が嫌でも装束が嫌でも、しっかりお披露目したら、みんなの士気も高まるよ」
先生の言を、頭では理解している。いわばこれは、朝にコーガ様が申された「パフォーマンス」なのだ。
しかし、どうにも心で納得できない。イーガは無感情に過ごすことを良しとする集団だが、この時ばかりは結局、心算が駄々洩れだったのだろう。
「そう、なのでござろうな」と繰り返す俺に対し、先生がふぅとため息を吐き、「でもさ」と屈みこんだ。下から無理やりに面を覗き込まれれば、素面を晒す彼女の顔が嫌でも視界に入ってくる。
「私も、スッパ君の晴れ姿、とっても楽しみなんだよ」
臆する風もなく先生が笑って見せて、思わず目を反らした。
月光を映す瞳が瞼に隠され、その代わりに頬へ落ちた睫毛の影を、真正面から見られない。弓なりになった口元から覗く白い歯も、なだらかな山を描く眉も。
「かたじけない」とせめて返した言葉は、正しかっただろうか。彼女と二人きりの崖の晩。他愛ないやり取りを求めてやって来ているはずなのに、いつも俺は臆病に、彼女を正面から受け止められないでいる。それは、あの時からずっと。
ふいと逸らされ、また不変の砂漠と星空に視線を戻す彼女の横顔は、いつにも増して嬉しそうに見えた。
「赤い月が二度昇った晩だよね、あと10日かな?あんなに小さかったスッパ君が、夢みたい」
もう、そうではないと知っているはずなのに、未だに幼子だと強調するような物言いには、反射的に「もう大人だ」と言葉を返したくなる。きっと数年前であったらそうしていた。
しかし俺は「そうでござるな」と、彼女が強いた「子ども」の札を貼られるばかりだ。彼女と出会った7歳か8歳か、もしくは12歳か13歳の時分でも良い。彼女の前でなら、俺はいつでも子供になれる。もう成人して何年も経つのに。
わざとだと知っている。俺たちは変わっていないと思いたいがための名札だと知っている。あの日、コーガ様に言われ、俺と彼女が繋がった日を、俺たちはずっと見ないふりしている。敢えて触れず、誤魔化すように、先生と生徒の関係を演じている。
そうしないとこの時間はきっと、砂漠に盛った砂山のように、一瞬で崩れ去るだけなのだ。
そんな予感がずっと、胸の真ん中に居座っていた。
「コーガ様を支えて、皆に認められて、強くなって、すごい。私も先生として、誇らしい」
時折他人の話はすれど、彼女の何でもない話を聞き、俺が外で見た世界の話をする日々が戻ってきた。
これで良かった。これを求めていた。油の抜けた歯車のように軋みながらでも、俺たちの関係はこのまま回っていく。回っていってほしいと、願っている。
畜生道に身を落としても、人であらねばならぬと教わった言葉を、守ろうとしているのかもしれない。それは無意識に、無自覚に。俺だけでなく、先生も。
「あと、10日かあ」
その時が来るのを楽しみに待つ彼女の声音が、いつかのように砂漠の風に流されていった。
俺たちは分かっていた。戻ってきた平穏な毎日が、今後も続いていく保証などどこにもなく、俺からでも、彼女からでも、簡単に壊せてしまうのだということを。
それでも、乾いた大地に身を寄せて星を見る彼女と俺は、この時ばかり、ただ自由でいたかった。
幼い時分、初めて崖上に登って砂漠を見たあの時のように、ただ、自由な二人でいたかった。
■ ■ ■
赤い月が一度昇り、それから更に7日が経った。
山影から覗いた月は地のように赤く、大地に、空気に、得も言えぬおどろおどろしい力が入り混じる。
この感覚は何なのだろう。自らに流れる血が逆流でもしているような、産毛の全てが逆立っているような、細胞のひとつひとつが気圧で膨らんでいるような。
それらすべてが、大地に満ちる赤い月の力によって引き起こされている気がして、俺はこの晩が好きじゃない。
新調された専用の衣装に初めて袖を通すと、それは驚くほど俺の体躯にぴったりと纏わった。
身体の隅々まで長さを計り、就任の儀直前までこだわって作業をしていたのだから当然だろう。限界まで軽量化された布地は他の団員と同じだが、俺の要望である肩鎧が足されたことで、防御力にも期待ができる。代わりに、襟まわりの派手な装飾は好みではないが、コーガ様に「これも沽券だ」と言われれば文句の言いようもない。
「よくお似合いです」と、これまで尽くしてくれたお針子の女に頷き返し、俺は漸く舞台の前に身を置いた。
総長室の勝手口から眺める光景は、圧巻の一言だった。
深穴を中心とし、イーガの団員一同が、谷間を埋め尽くさんばかりに座している。
いずれも見つめているのは、ただ、俺だ。王家に逆襲を誓った隠密集団の瞳が、全て俺に向いている。
俺は一度、怨恨の力が満ちる空気を深く肺に入れ、そして吐き出した。
一歩、深穴の直前にまで続く、一筋の花道へ踏み出す。先で待っているのは、今生でただ一人、命を捧げるコーガ様だ。
シーカー族を思わせる装飾を施した櫓の上で胡坐を掻く姿には、いつか見た妖しさと神々しさがはっきりと漂っていた。
今この場にいる全ての人間が、この花道の先で待つ彼に、身命を賭している。その中で俺は、筆頭幹部に就任する。
ゆっくりと、遠慮なく、歩を進めた。これだけの人間が潜んでいるとは思えぬしじまの中を、しっかりと。
まるで夢だ。現実味のない現実。数多の視線が注がれるが、その目は決して身体を突き刺す針でなく、身体を包む絹糸のようだった。期待と親愛、猜疑や願意の糸に包まれ繭となり、赤い月の力と溶けて、生まれ変わる。そんなばかみたいな空想を、今この場でなら信じそうになる。
足音でさえ崖壁に反響する静寂の中、俺は主君の元へと辿り着いた。
大勢の人間に囲まれ、見守られ、主君と視線を交わし、ただ心で頷く。
「きたな、スッパ。漸く、お前の晴れ舞台だぜ」
主君が胡坐を掻く膝の前。そこに鎮座してあったのは、綿の敷物へ厳かに乗せられた、傷の入った面だ。
コーガ様へ預けたときとは違い、白い塗料で斑の血痕が隠され、イーガの瞳が描き直されている。乾燥で毛羽立っていた木の繊維も丁寧に削られており、痛々しかった裂傷痕が、勲章のような重みを醸していた。
しかし、俺の目をもっとも誘ったのは、筆頭幹部にのみ許された意匠。こめかみから伸びる1対の角はコーガ様の面を思わせるが、より魔物の角を彷彿とさせた。
これから踏み入るのは、ハイラル王家と交わされる戦乱。なるほど、血みどろの修羅へ生きる証に相応しい。
俺はその場へ膝をつき、それまでの面を外し、続け様に修羅の面を被さった
あの日ぶりに身に着ける面は、驚くほど俺の輪郭に馴染んだ。乾いた塗料のにおいに混ざり、微かに感じる血のにおい。隠密としてハイラルを走り、数多の人間の血と自らの血を吸ったこの面には、怨念が込められているのだろう。
それもまた、俺がこの先に歩む道に相応しいではないか。
「似合ってるじゃねえか」
満足げな笑み声に思わず身震いしたのは、俺の行く先で彼が待っているのだと、今まさに確信を持てたからだ。
コーガ様はゆったりとした動きで、横に置いてあったベンガラの盃に、徳利で透明の液体を注ぐ。瓶口を真下に向けて揺らし、酒を全て注ぎ終わると、気品ある動作で大きな盃を両手で持ち上げた。
皆々へ掲げて見せた後、微かに覗いた仮面の隙間から口をつけ、傾けたとほぼ同時にグビリと喉仏を動かせる。そしてもう一度皆々へ掲げ、更にもう一口。
随分外連味のある振る舞い。その仕草全てが芝居のように大仰で、指先一つにすら、意識があった。
これも一種の「パフォーマンス」とやらなのだろう。分かっていながら、俺は一瞬の隙も、コーガ様から目を離せない。
彼にくぎ付けとなり、陶酔してしまうのは、それだけ俺たちが、常日頃からコーガ様に魅せられているからに違いない。
「親子盃だ。存分に味わえ」
差し出された盃に頭を垂れ、両手で受け取る。引き寄せた酒の中には、角の意匠が閃くイーガの面。
そして、煌々と輝く赤い月が、ぽっかりと水面に浮かんでいた。
今なら月ごと、身体の中へ取り込めそうだ。
それは単なる夢想だが、決して無為にできる夢想ではなかった。魔物の如く、俺は不死身となる。赤い月が昇れば、何度だって蘇る化け物となる。コーガ様のために、俺の誓いは死ぬことがなくなる。
俺はこれをもって、修羅となる。
ただ飾り気なく、音もたてずに艶やかな赤い盃の縁に口を付け、ゆっくりと傾けた。
酒には飲み慣れていない。口に含んだ途端に、舌根からえぐみが沸き上がる。喉を滑れば、内側から熱に焼かれていく。身体が酒を拒絶する感覚に、平生から飲んでおけば良かったと小さく後悔する羽目になるとは思わなかった。
一気に飲み干し、はぁ、と吐いた息は随分熱く、台の上へ盃を戻す距離さえ覚束ない。急に訪れた視界の歪みには参ったが、俺はグッと腹に力を込めてふらつくことなく、その場で身を翻した。
「お控えなすって、皆の衆!」
立ち上がったコーガ様が、その場に反響する声を轟かせる。俺は、膝前に両の手で拳をつき、俺に注がれる動くことのない数多の瞳に、修羅の面を晒した。
「手前、生国と発しまするはこのハイラルの国。おめえらもご存知の通り、泣く子も黙るイーガ団総長コーガ様たあ俺のこと!!!」
白地に赤い塗料の瞳は、心血を模しているのだろう。先祖から継がれた恨みや呪いを、この印は背負って伝わったのだ。
徐々に昇る月に照らされ、地上全てが赤く染まる中、そもそも赤い装束を着る我々は、なるほど確かに、魔物と同じであった。
「此度はハイラル方々から集ってもらってあいすまねえ!故あってこのスッパを筆頭幹部へ任命する運びとなった!」
浅葱の瞳を持つ男は、今もきっとこの世界で剣を振っている。王家という絶対的な集団に属し、自らを捧げ、人を捨てたようなあの男と見えるときが、必ずやってくる。
滾りを、奔りを、今また胸に刻んで俺は進む。次こそ決して遅れを取らぬと、誓いの面に己の獣を宿して。
「末席から駆け出し担った若造が、おいそれ筆頭名乗るなんぞと不平不満も出るだろう。しかし俺様ぁ、スッパに託しとる!」
人、で居続けるのは、確かにこの世で、難しいことだった。
人を、捨てねばならぬときが来た。
微かによぎる思い。この刹那、未だ縋ってしまう俺を見ないでほしい。
俺が人でなくなって、彼女はそれでも、崖上で待っていてくれるだろうか。
「面の傷は修羅への誓い!イーガ率いる幹部頭、筆頭幹部スッパの誕生を、てめえら全員で盛大に祝いやがれェ!!」
コーガ様が両手を掲げると同時、ざ、という地響きのような鳴動と共に、団員が一斉に立ち上がる。
右手を胸に、左手を背に、直立不動となるのは、コーガ様への忠誠と、信仰を捧げる姿だ。
いや、今日ばかりは違った。国の頂へ復讐を掲げる瞳が射貫いているのは、俺たちの主君へではない。まごうことなく、俺だった。
深穴を囲み、谷間を埋め尽くさんとする[[rb:同胞 > はらから]]は、正に俺に向け、仁義を切っているのだ。
コーガ様の声が空に吸い込まれ、またしじまが辺りを包む。しかし俺の心臓は、一心に仁義を切る同胞の姿に高鳴っていた。血沸き肉躍る、とは、こんな感覚なのかと初めて知った。
自らに流れる血が逆流でもしているような、産毛の全てが逆立っているような、細胞のひとつひとつが気圧で膨らんでいるような。それは七日に一度、赤い月が昇る晩に感じる高ぶりと、同じであった。
一心に向けられる瞳の責は重い。しかし同時に心地良い。今日この日をもって修羅となった俺は、その重荷すら越えるべき壁になり、目標になり、生き甲斐になるに違いない。
確信がある。俺には分かる。イーガへ、今までとこれからを賭した俺には。
隠密に足を踏み入れたばかりの力無き子どもは、もう影もない。
コーガ様に、イーガの団員に、俺は認められた。
俺は今このときをもって、筆頭幹部として、イーガに生を与えられたのだ。
高い山々が影となり、気温は高いがゲルド砂漠ほどではない。しかしそれも日中の話で、乾燥地帯にはありがちだが朝晩が冷える。特に外界へ通じている総長室と玄関口は気温が低く、布地の薄いイーガの装束だけでは、如何に鍛え上げた身体を持つ我等と言えど、指先がかじかむほどだ。
カルサーの朝。開け放たれ戸口を背に座椅子へ座るコーガ様もまた、本来であれば身体を擦り、摩擦熱ですらありがたがって堪えていたはず。主君は自分の知る限り、寒いと言って布団から出てこないことが度々あった。布団が恋しいだけだったかもしれないが、それでも主君は寒さに苦手意識がある素振りを見せていた。
しかし、この日の主君は違った。キンと冷えた空気を風格として身に纏い、朝の静けさは彼を称える囃子のようだ。窓から差し込む光は筋となり、後光として彼を飾り立てている。
俺の前へ威風堂々と座す姿は、集団をまとめる人物に相応しい佇まい。この地を作ったという女神すら平伏する、神の如き御姿だった。
俺が腿に手をつき、深く頭を垂れたのは、コーガ様の神々しさに身体が自然と動いていたからに他ならない。
誓いをたて、自らの命を預けた主。俺の存在意義そのものといえる、人生最大の恩人だ。
「本当に、これで良いんだな」
重々しく呟いたその言葉に、いつもの気安い音色は含まれていなかった。
肺にとどまった空気を吐き、代わりに新しい空気を取り込む。身体に入った冷たい外気が、肺の存在を如実に知らせてくれる気さえする。
生き物として、今ここに自分は存在しているのだと。息を吸い、吐き、生きているのだと。
敬愛を一心に捧ぐ御方の前で、自分は正に、存在できているのだと。
「これで、お願いしたいでござる」
床を見つめる俺の視線の先には、ひとつ、イーガの仮面が置いてある。
木製のそれは、この国を統べる王家へ、反逆を誓った同志が身に着ける象徴。
しかし他と違うのは、真っ白な半球状の面に走った亀裂のような裂傷痕。木の繊維が随分かさついているのは、長い年月そのままであったからだ。傷痕の周囲に散った薄い斑点は一種の模様にも見えるが、その実、無数の血痕だと俺は知っている。ほとんどが、・・・・・・いや、全てが、無力だった当時の俺由来のものだった。
天井を一心に見つめるイーガの瞳を裂かんとする傷は、イーガという存在へ刻まれた王家の烙印そのものにも思えた。
・・・・・・成人を迎え、王家直属の騎士部隊とぶつかったあの日。
俺の人生唯一の負け戦として記憶に、そして記録に残ることとなった、浅葱色の修羅から受けた傷がこれである。
新しい面を手配されてからも、ずっとこの傷痕の残った面を手元に残していた。誰にも見られないように寝具台下の隙間に隠し、思い出したように取り出しては、強さへの渇望を新たにした。全ては、あの時の苦味を忘れぬために。
浅葱色の兵士は、人を捨てていた。なにが彼奴をそうさせたかは分からぬ。俺よりもだいぶ幼く見えた彼奴は、まだふくら顔のくせをして、獰猛な猛禽類の如き瞳を同時に宿していた。
民のためにあるべき騎士部隊は、子どもでもない、人でもない、修羅の兵を擁していたのだ。大多数のため、子供に人を捨てさせた王家のやり方におぞましさを覚える。しかし、それは結局、俺自身に足りないものでもあった。
かさつき、随分汚れた木面を差し出され、コーガ様は腕を組んだまま動かない。受け取りかねる、と言いたいのかもしれないが、俺はただ、身動ぎせずに主の返答を待つだけだ。
しんと静まり返った空気が張り詰める中、イーガの瞳は確かに真中でかち合っている。呼吸さえ最低限に押し留めて主の動きに注視すれば、彼は観念したとでも言いたげに、ふっと息を鋭く吐いてみせた。
「スッパは頑固だな。なにもあンときの面じゃなくても良いだろ」
「これは自分への戒め。更なる飛躍と、二度と遅れを取らぬという、誓いそのものでござる」
「示しがつかなくねえか?事情を知らねえ団員に、傷痕を晒すなんざ」
「新参に舐められるのなら、その度実力を示せば良いだけのこと。不平を漏らす手抜かりなど、自分は毛頭考えてござらん」
主は底の見えない御人ではあるが、部下の固く誓った考えを頭ごなしに否定するほど、傍若無人な長ではない。
主に伝えた言葉は、自分の嘘偽りない心根。増して、腹の底から言い切りでもすれば、コーガ様が呆れたように天井を仰ぐだろうことは、長年彼に仕えた俺が分からないわけがなかった。
はぁー、と大仰に深く息を吐き、肩を落としてから動かなくなる。それは、俺の我の強さに呆れたからかもしれない。ただ、その我の強さ、言わば覚悟を評価してくださったのは、他でもないコーガ様ご自身である。
それからも指先ひとつ動かさずに彼を見つめ続けていたら、コーガ様はやにわに、ぱしんと膝を叩いた。
「分かった!数日待ってろ。様になるよう職人に頼んでやる」
膝前に置かれた修羅への覚悟は、そうして主に引き渡された。
お願いするでござる、と呟いた声は、床に広がる自分の影に、吸い込まれでもしていくようだ。頭を下げた拍子、イーガの象徴でもある結った黒髪が主の前に枝垂れ、言葉を含んだ影共々、彼に全てを明け渡すようだった。
俺はこの機会、筆頭幹部の称号を与えられることとなった。
コーガ様のお傍で彼を支え、イーガの力を盤石にする役どころである。
世界は、厄災復活のお告げがなされたと王家から公式に発表されたことにより、大きく動き始めていた。国全体が、惑いながらも戦乱へと進むこの状況で、対抗策として最も期待されていた姫巫女の力が目覚めないのは、我らにとって好機でしかない。
敵方が二の足を踏む間に、こちらの結束をより強固にし、来るべき時を待つ。
対抗策として、コーガ様がすぐに采配なされた筆頭幹部の号。俺は王家との闘いにおいて、支柱となるべき荊の道を歩み出した。
コーガ様へ差し出した面には、これから筆頭幹部の証となる意匠を施すのだという。
「これに意匠を施して欲しい」と迷いなく差し出した裂傷痕のある面。どれほど渋い声を出されようと、これ以外の選択肢は毛頭あるはずもなかった。
「それでだ、お前の筆頭幹部就任の儀なんだがな、赤い月が二度昇った晩にしようかと思ってる」
先ほどより日が少し昇り、肌を刺すような寒さが和らいだからだろうか。くつろぐように後ろ重心に座り直したコーガ様が、おもむろに呟いた。
その言葉に、少し思うところがある。「赤い月の晩、でござるか」と繰り返す声音は無感情を貫いたつもりだったが、コーガ様には、納得しかねたように思われてしまったらしい。
「なんだ、不満か?」と腕を組み直されて、俺は咄嗟に「いえ」と面を僅かにあげる。
「ガノン様復活を願う俺様たちが、ガノン様の力が満ちる赤い月にめでたいことをやろうってんだから、おかしいこと一つもねえだろ?」
「文句など毛頭ありませぬ。・・・・・・しかし、そもそも筆頭幹部就任の儀、というのが、隠密らしからぬのではないかと・・・・・・」
長いイーガの歴史上、総長の次を担う役目がいたとの記録は残っていない。そも、イーガは紙に記録を残すことを得意としておらず、文字だけで言えば虫食いの如き歴史ではあるのだが。
いくらまとめ役の上をいく、とはいえ「筆頭幹部就任の儀」などと、事を大仰にしようという話には些か反対したいところだ。口にした通り、隠密らしからぬという理由に加え、俺の性分でもない。
しかし、提案はコーガ様の「あのなぁ」という不満に満ちた一言に掻き消される。グッと前かがみになって面を突き出してくる様に、思わず身を引いて口を噤んだ。幼少期に俺へ滾々と説教をする姿そのもので、過去に覚えた萎縮の感覚がさっと蘇ったからだ。
「筆頭幹部ったら、総長権限があるに等しい。お前の威光を知らしめるためにはパフォーマンスが必要なんだ。最近は団員も増えてる。今後はそういうことも考えにゃならんってこった」
「・・・・・・」
「とはいえ、無骨なスッパが、そういうやり方に不得意っちゅーのも分かってる。暫くは俺様がサポートしてやるから、大人しく言うこと聞いとけ」
「・・・・・・かたじけないでござる」
「それにだ」と間髪入れず続けるコーガ様の声音に、暗がりが増す。先ほどと格好こそ同じであるが、勝手口から差し込む日の光が、弱くなった気がした。太陽が雲に隠れたのかもしれない。前かがみになったコーガ様の面に陰が差し、まるで妖気を纏いでもしているかのような。
見慣れたイーガの印が不気味に閃いた気がして、俺は身動ぎもせずに、ただ主君の瞳へ視線を注いだ。
「これは俺様の威光を示す意味もある。各地に散らばってる団員にも通達するからな。俺様の命令がどれほど即座に伝わるか、分かりもするわけだ」
「はい」
「当日に来るのが難しいやつも把握できてる。それ以外が応じなきゃ、そのときは」
ぴっ、と部屋中に広がっていく重々しい空気。言葉を続けずに床を見るコーガ様に皆まで言わせないよう、俺は黙って深く頷いてみせた。
「まっ、そういうこった。お前の性分じゃないってのは百も承知だが、こればっかは付き合ってくれ」
面を上げた途端、陽の声音が戻る。「御意に」と返しながら一度深く頭を下げ、俺は知らずの内に硬くなっていた筋肉を弛緩させた。
「今日は行っていいぞ」の声に合わせて立ち上がり、一度頭を下げた。日はすっかり昇り、そろそろ朝餉の時刻となる。
バナナを持った団員たちが総長室へやって来る前に、俺は「失礼するでござる」と、廊下へ続く岩戸を抜けていった。
ほの明るくなった総長室から抜けると、窓もない岩廊下はいつものように暗く寒い。暫く身動きもとらずにいた身体は冷え切っていたが、歩いていれば暖まりもするだろう。
歩を進めるうちに頭へ巡ったのは、これからやってくる赤い月の晩についてのことばかり。
赤い月の晩。・・・・・・この世の理として、誰もが知っている特別な一夜だ。
屠ったはずの魔物が顕現し、世界がガノンの怨恨に満たされる時間。得も言えないおぞましさと恐怖が背中を這いずり回る感覚は、恐らくハイラルの生あるものであれば、誰もが体感のあることだろう。それは、王家に仇なすイーガとしても、同じくに。
俺はその日をもって、人ではなく、修羅になる。確かに、筆頭幹部への就任として、これほど丁度良い機会も無いのかもしれない。
赤い月の晩に良い印象が無いというだけで、こればかりは俺がどうこう言う問題でもないだろう。
いよいよか、と感慨に耽る間など俺にない。日取りが決まったとあらば、組織を形作る各班の幹部にいち早く伝令し、各地に散らばる団員に連絡しなければならない。
月が昇る晩の機会を、イーガでははっきりと把握している。あと三日も経てば一度目の赤い月が昇り、その七日後には二回目の赤い月が昇るはず。
イーガは現在、コーガ様を始めとして樹状に連なる組織体系となっており、それぞれを取りまとめる幹部役に伝えれば、つつがなく伝令が広まるようになっていた。外回りの人間だろうと、内勤の人間だろうと、それは変わらない。
不平を漏らす手抜かりなど許さない。自分で言った手前、まずはこの筆頭幹部就任の儀を滞りなく進められるように、俺は伝令を取り仕切る幹部の元へ向かった。
[newpage]
■ ■ ■
「日取りが決まったのですね、おめでとうございます」
儀式の日取りが決まったとアジト内に通達すれば、当然声を掛けてくる団員が居るだろうと予測していた。
まず初めに声をかけてきたのは、装束類の縫製を引き受けているお針子の女であった。筆頭幹部就任に合わせて装束も特別な装いに変えようというコーガ様の発案が為されてからというもの、身体の採寸をおこなったり、装束の意匠について相談したり、何かと頻繁に会っている女だ。祝いの言葉を投げかけられたとして、何も不思議ではない。
とはいえ、まさかこれほど早く話が回るとは思っていなかった。つい10分ほど前に幹部役へ事の次第を伝え、朝餉を食った足でここへ来ただけだというのに、もう内勤の最たる縫製班にまで話が回ってきている。
イーガは隠密。王家に劣らず確固とした組織体系をしていれば、話の回りが早いのもうなずける。とはいえ彼女が日取りを知っているのは、情報収集に長けたイーガだから、というだけでは決してないのだろう。
とかく女衆は話好きが多く、業務の裏方として従事しているにもかかわらず戦線の詳細を知っており、目を丸くすることが度々あった。幼少期から接するあの人が代表だ。今更驚くこともないはずなのに。
「ご苦労」という挨拶に続けてすぐさま業務の話へ入ろうかと思っていたものだから、突然の祝い言に面食らい、咄嗟に言葉が続かなかった。「うむ・・・・・・かたじけない」と小さく返すに留まったが、女はそれでもはしゃいだ様子を見せる。
「スッパ様が筆頭幹部に就任すれば、イーガも安泰ですね」
「自分は今までと同じく、できることをするまで。むしろ就任を機に、盤石であったイーガの地盤が緩まねば良いが」
「何をおっしゃいます、スッパ様ほど人望も厚く、武力に加えて知力まで携えたお方を知りません!コーガ様の右腕となるに相応しいお方です」
「右腕、となれるかは、今後の自分次第。だがまぁその言葉、ありがたく受け止めるでござる」
出会ったばかりの頃は口数少なく緊張した声音だったものだが、最近はやけに親し気に軽口を叩くようになっている。
楽しげな声音を憚りもしないのはイーガの理と程遠いが、そも主君があまり個を押し殺すことを良しとしていない。これほどの逸脱であれば目を瞑るほどの親近感が、俺と女には確かに出来上がっていた。
座るように促され、肩回りを採寸される。その後も何かと耳元で喋り続ける女の声は、小動物でも鳴いているのかと思うほど華やかで賑々しい。
女人の声とは、おしなべてこのようなものなのだろうか。女の高い声を聞いていると、いつも崖上でのひとときを思い出す。俺は簡単に相槌を返すばかりだが、時折クスクスと笑って見せるのも、なんとなくあの人との逢瀬を彷彿とさせた。
お針子の女と過ごす刹那の時間は穏やかで、存外嫌いではない。採寸の合間に肌へ触れる細い指や、屈んだ拍子、ささやかに揺らめく黒髪、動く度に立ち昇る甘いにおいの向こう側に、心が星月夜を見ている気になる。
「スッパ様の門出となる装束を、私が手掛けられるなんて夢みたい」
はっきりと陶酔が滲んだ声音で肩に手を置かれ、その温かさに我へ返った。言葉に惑い、微かに視線を向けると、面の奥で笑った気配。
「同じお針子の子に自慢できます。私がスッパ様の装束を縫ったんだぞ、って」
「お主にとっても名誉であろうな。コーガ様自ら決めた筆頭幹部役の装束を手掛けたとあらば」
「もう、違いますよ。スッパ様の装束だから、自慢できるんです」
「自分の、でござるか」
「そうです。筆頭幹部ではなく、スッパ様の装束を手掛けたことに、です」
意味がよく分からなかった。その言葉に、どんな違いがあるというのか。眉を潜ませると、何も言えなかった俺の様子がおかしかったのか、女が「ふふ」と微かな笑い声をたてる。少女のようで、ただそこまで押しつけがましくない、お淑やかな笑い声だった。
「就任の儀が楽しみです。私も」
上ずった声に覚えはない。その代わり、肩に置かれた手の平に、より熱が籠った気がした。
女が身動きしなくなり、賑々しい声色が無くなる。肩越しに見えるのはイーガの瞳だが、おそらく女は、面越しに存在する俺の双眼を射抜いていた。俺も恐らくだが、彼女の瞳を見つめていた。
妙な沈黙が辺りを包み込む。いや、肩に置かれた手先から拍動の音が伝わる。随分早く、彼女の心臓は高鳴っていた。
ひとつ、彼女が息を吸う。「す」と、聞こえた瞬間に、俺はその場で立ち上がった。
「そろそろ行く。続きはまた明日にでも」
「す・・・・・・すみません、また明日」
勢いよく下げられ枝垂る艶やかな黒髪を背に、俺は部屋から立ち去った。
未だ背へ向けられる瞳は、憂いだろうか。きっと、数年前には気付きもしなかった、情の籠った色だろう。
気付かない方が良い。そのままにしていた方が良い。頭に浮かぶのはこれからの業務の数々と、・・・・・・女とのやり取りで思い起こされた、先生の無邪気な明るい声色だったから。
■ ■ ■
日を跨ぐかどうかという夜半。
俺が崖上に辿り着いた途端にパっと後ろを振り返った先生の瞳は、やはり真夜中だというのに爛々と輝いていた。
「おめでとうスッパ君!日取りが決まったんだね!」
いつもと比べ、輪をかけて明るい声音で出迎えられて、俺はただ小さく顎で頷いてみせた。
上気した頬に、キラキラと月光を返す大きな瞳。遠慮も無く曲げられた口元は、出会ったばかりの彼女を思い出す、幼い時分の如し。
彼女と相まみえる度に、この表情が新鮮に映る。お針子の女と過ごす間に「先生のようだ」と感じた時間が、本物を前にしていつも霧散していく。
先生との時間は唯一無二だ。だからこそ大切にしたい。この時間に代わりはないのだと、ここへきていつも思いを新たにする。
とはいえ、先生の反応は、今日一日の間に想像していた通りであった。俺は彼女と一間空けて座り込みながら「かたじけない」と、ただ一言返した。
「筆頭幹部なんて話を聞いたときは信じられない気持ちだったけど、日付が決まるといよいよか~って実感しちゃうね。今日も準備してたんでしょう?」
「うむ・・・・・・。日取り決定の連絡を団員に通達し、あとは装束の打ち合わせを」
「そうだったそうだった。お針子の子から聞いたよ。スッパ君、身体が大きいからやりがいがあるって!」
「やりがい・・・・・・でござるか」
「そうそう。どんなデザインにしようか考えるのも楽しいって」
「・・・・・・確かにあの娘は、いつもやる気に溢れているでござる」
毎日顔を合わせているからこそ、お針子の女がどれほど真面目に仕事へ向き合っているかよく分かる。俺よりも若いと聞いていたが、針子の腕も申し分ないし、年齢に見合わず穏やかな喋り声にも悪い印象がない。
思ったままの評価を口にしただけだったのだが、それが先生にとっては珍しかったらしい。「でしょう!?」と急に迫られて、俺は勢いに押され身を引くことになった。
「凄く良い子なんだよ、一途だし、仕事熱心だし、優しいし。思わず応援したくなっちゃう感じ」
「応援」
「そうそう。筆頭幹部の装束作りも、寝る間を惜しんで考えてるみたいで」
「・・・・・・寝ては欲しいが」
「でも健気だよね。頑張れ、って思っちゃう。スッパ君もそう思うでしょ?」
「自分としては、そもそもこのような些事に、手を割くべきではないと考えているでござる」
いわば、いつ戦が起こってもおかしくない機運。それでなくともカルサーは物資の運搬に労力を要し、どの団員も節制を心がけるのが常だ。
装束など言わずもがな、ちょっとやそっとの理由で新調など許されていない。平生、穴が開けば糸を重ね縫いして塞ぎ、裂ければ布を[[rb:継ぎ接ぎ > つぎはぎ]]してくっつけているのだ。ボロ切れと判断されたとしても、分解して再利用できる部分を選別し、別の装束を縫製する際の材料として取ってあるのだから、物資の節制は徹底されている。
筆頭幹部に就任するとはいえ、全く新しい装束に変えようなどと、許されない贅沢のように思えて仕方がない。ましてや、人一人の労力を、たかが装束の新調に費やしている。いくらコーガ様の命令とは言え素直に大手を振れないのには、有り余る理由だと思う。
常日頃感じていた気後れを漏らした途端、先生は腰に手を当てながら「何言ってるの!」と呆れた声を上げた。
「コーガ様をお支えする幹部役の、更にまとめ役になるんだよ!カッコいい格好しないと、示しがつかないでしょ」
「うむ・・・・・・」
「スッパ君が筆頭幹部になるって決まってから、皆やる気になってる。儀式が嫌でも装束が嫌でも、しっかりお披露目したら、みんなの士気も高まるよ」
先生の言を、頭では理解している。いわばこれは、朝にコーガ様が申された「パフォーマンス」なのだ。
しかし、どうにも心で納得できない。イーガは無感情に過ごすことを良しとする集団だが、この時ばかりは結局、心算が駄々洩れだったのだろう。
「そう、なのでござろうな」と繰り返す俺に対し、先生がふぅとため息を吐き、「でもさ」と屈みこんだ。下から無理やりに面を覗き込まれれば、素面を晒す彼女の顔が嫌でも視界に入ってくる。
「私も、スッパ君の晴れ姿、とっても楽しみなんだよ」
臆する風もなく先生が笑って見せて、思わず目を反らした。
月光を映す瞳が瞼に隠され、その代わりに頬へ落ちた睫毛の影を、真正面から見られない。弓なりになった口元から覗く白い歯も、なだらかな山を描く眉も。
「かたじけない」とせめて返した言葉は、正しかっただろうか。彼女と二人きりの崖の晩。他愛ないやり取りを求めてやって来ているはずなのに、いつも俺は臆病に、彼女を正面から受け止められないでいる。それは、あの時からずっと。
ふいと逸らされ、また不変の砂漠と星空に視線を戻す彼女の横顔は、いつにも増して嬉しそうに見えた。
「赤い月が二度昇った晩だよね、あと10日かな?あんなに小さかったスッパ君が、夢みたい」
もう、そうではないと知っているはずなのに、未だに幼子だと強調するような物言いには、反射的に「もう大人だ」と言葉を返したくなる。きっと数年前であったらそうしていた。
しかし俺は「そうでござるな」と、彼女が強いた「子ども」の札を貼られるばかりだ。彼女と出会った7歳か8歳か、もしくは12歳か13歳の時分でも良い。彼女の前でなら、俺はいつでも子供になれる。もう成人して何年も経つのに。
わざとだと知っている。俺たちは変わっていないと思いたいがための名札だと知っている。あの日、コーガ様に言われ、俺と彼女が繋がった日を、俺たちはずっと見ないふりしている。敢えて触れず、誤魔化すように、先生と生徒の関係を演じている。
そうしないとこの時間はきっと、砂漠に盛った砂山のように、一瞬で崩れ去るだけなのだ。
そんな予感がずっと、胸の真ん中に居座っていた。
「コーガ様を支えて、皆に認められて、強くなって、すごい。私も先生として、誇らしい」
時折他人の話はすれど、彼女の何でもない話を聞き、俺が外で見た世界の話をする日々が戻ってきた。
これで良かった。これを求めていた。油の抜けた歯車のように軋みながらでも、俺たちの関係はこのまま回っていく。回っていってほしいと、願っている。
畜生道に身を落としても、人であらねばならぬと教わった言葉を、守ろうとしているのかもしれない。それは無意識に、無自覚に。俺だけでなく、先生も。
「あと、10日かあ」
その時が来るのを楽しみに待つ彼女の声音が、いつかのように砂漠の風に流されていった。
俺たちは分かっていた。戻ってきた平穏な毎日が、今後も続いていく保証などどこにもなく、俺からでも、彼女からでも、簡単に壊せてしまうのだということを。
それでも、乾いた大地に身を寄せて星を見る彼女と俺は、この時ばかり、ただ自由でいたかった。
幼い時分、初めて崖上に登って砂漠を見たあの時のように、ただ、自由な二人でいたかった。
■ ■ ■
赤い月が一度昇り、それから更に7日が経った。
山影から覗いた月は地のように赤く、大地に、空気に、得も言えぬおどろおどろしい力が入り混じる。
この感覚は何なのだろう。自らに流れる血が逆流でもしているような、産毛の全てが逆立っているような、細胞のひとつひとつが気圧で膨らんでいるような。
それらすべてが、大地に満ちる赤い月の力によって引き起こされている気がして、俺はこの晩が好きじゃない。
新調された専用の衣装に初めて袖を通すと、それは驚くほど俺の体躯にぴったりと纏わった。
身体の隅々まで長さを計り、就任の儀直前までこだわって作業をしていたのだから当然だろう。限界まで軽量化された布地は他の団員と同じだが、俺の要望である肩鎧が足されたことで、防御力にも期待ができる。代わりに、襟まわりの派手な装飾は好みではないが、コーガ様に「これも沽券だ」と言われれば文句の言いようもない。
「よくお似合いです」と、これまで尽くしてくれたお針子の女に頷き返し、俺は漸く舞台の前に身を置いた。
総長室の勝手口から眺める光景は、圧巻の一言だった。
深穴を中心とし、イーガの団員一同が、谷間を埋め尽くさんばかりに座している。
いずれも見つめているのは、ただ、俺だ。王家に逆襲を誓った隠密集団の瞳が、全て俺に向いている。
俺は一度、怨恨の力が満ちる空気を深く肺に入れ、そして吐き出した。
一歩、深穴の直前にまで続く、一筋の花道へ踏み出す。先で待っているのは、今生でただ一人、命を捧げるコーガ様だ。
シーカー族を思わせる装飾を施した櫓の上で胡坐を掻く姿には、いつか見た妖しさと神々しさがはっきりと漂っていた。
今この場にいる全ての人間が、この花道の先で待つ彼に、身命を賭している。その中で俺は、筆頭幹部に就任する。
ゆっくりと、遠慮なく、歩を進めた。これだけの人間が潜んでいるとは思えぬしじまの中を、しっかりと。
まるで夢だ。現実味のない現実。数多の視線が注がれるが、その目は決して身体を突き刺す針でなく、身体を包む絹糸のようだった。期待と親愛、猜疑や願意の糸に包まれ繭となり、赤い月の力と溶けて、生まれ変わる。そんなばかみたいな空想を、今この場でなら信じそうになる。
足音でさえ崖壁に反響する静寂の中、俺は主君の元へと辿り着いた。
大勢の人間に囲まれ、見守られ、主君と視線を交わし、ただ心で頷く。
「きたな、スッパ。漸く、お前の晴れ舞台だぜ」
主君が胡坐を掻く膝の前。そこに鎮座してあったのは、綿の敷物へ厳かに乗せられた、傷の入った面だ。
コーガ様へ預けたときとは違い、白い塗料で斑の血痕が隠され、イーガの瞳が描き直されている。乾燥で毛羽立っていた木の繊維も丁寧に削られており、痛々しかった裂傷痕が、勲章のような重みを醸していた。
しかし、俺の目をもっとも誘ったのは、筆頭幹部にのみ許された意匠。こめかみから伸びる1対の角はコーガ様の面を思わせるが、より魔物の角を彷彿とさせた。
これから踏み入るのは、ハイラル王家と交わされる戦乱。なるほど、血みどろの修羅へ生きる証に相応しい。
俺はその場へ膝をつき、それまでの面を外し、続け様に修羅の面を被さった
あの日ぶりに身に着ける面は、驚くほど俺の輪郭に馴染んだ。乾いた塗料のにおいに混ざり、微かに感じる血のにおい。隠密としてハイラルを走り、数多の人間の血と自らの血を吸ったこの面には、怨念が込められているのだろう。
それもまた、俺がこの先に歩む道に相応しいではないか。
「似合ってるじゃねえか」
満足げな笑み声に思わず身震いしたのは、俺の行く先で彼が待っているのだと、今まさに確信を持てたからだ。
コーガ様はゆったりとした動きで、横に置いてあったベンガラの盃に、徳利で透明の液体を注ぐ。瓶口を真下に向けて揺らし、酒を全て注ぎ終わると、気品ある動作で大きな盃を両手で持ち上げた。
皆々へ掲げて見せた後、微かに覗いた仮面の隙間から口をつけ、傾けたとほぼ同時にグビリと喉仏を動かせる。そしてもう一度皆々へ掲げ、更にもう一口。
随分外連味のある振る舞い。その仕草全てが芝居のように大仰で、指先一つにすら、意識があった。
これも一種の「パフォーマンス」とやらなのだろう。分かっていながら、俺は一瞬の隙も、コーガ様から目を離せない。
彼にくぎ付けとなり、陶酔してしまうのは、それだけ俺たちが、常日頃からコーガ様に魅せられているからに違いない。
「親子盃だ。存分に味わえ」
差し出された盃に頭を垂れ、両手で受け取る。引き寄せた酒の中には、角の意匠が閃くイーガの面。
そして、煌々と輝く赤い月が、ぽっかりと水面に浮かんでいた。
今なら月ごと、身体の中へ取り込めそうだ。
それは単なる夢想だが、決して無為にできる夢想ではなかった。魔物の如く、俺は不死身となる。赤い月が昇れば、何度だって蘇る化け物となる。コーガ様のために、俺の誓いは死ぬことがなくなる。
俺はこれをもって、修羅となる。
ただ飾り気なく、音もたてずに艶やかな赤い盃の縁に口を付け、ゆっくりと傾けた。
酒には飲み慣れていない。口に含んだ途端に、舌根からえぐみが沸き上がる。喉を滑れば、内側から熱に焼かれていく。身体が酒を拒絶する感覚に、平生から飲んでおけば良かったと小さく後悔する羽目になるとは思わなかった。
一気に飲み干し、はぁ、と吐いた息は随分熱く、台の上へ盃を戻す距離さえ覚束ない。急に訪れた視界の歪みには参ったが、俺はグッと腹に力を込めてふらつくことなく、その場で身を翻した。
「お控えなすって、皆の衆!」
立ち上がったコーガ様が、その場に反響する声を轟かせる。俺は、膝前に両の手で拳をつき、俺に注がれる動くことのない数多の瞳に、修羅の面を晒した。
「手前、生国と発しまするはこのハイラルの国。おめえらもご存知の通り、泣く子も黙るイーガ団総長コーガ様たあ俺のこと!!!」
白地に赤い塗料の瞳は、心血を模しているのだろう。先祖から継がれた恨みや呪いを、この印は背負って伝わったのだ。
徐々に昇る月に照らされ、地上全てが赤く染まる中、そもそも赤い装束を着る我々は、なるほど確かに、魔物と同じであった。
「此度はハイラル方々から集ってもらってあいすまねえ!故あってこのスッパを筆頭幹部へ任命する運びとなった!」
浅葱の瞳を持つ男は、今もきっとこの世界で剣を振っている。王家という絶対的な集団に属し、自らを捧げ、人を捨てたようなあの男と見えるときが、必ずやってくる。
滾りを、奔りを、今また胸に刻んで俺は進む。次こそ決して遅れを取らぬと、誓いの面に己の獣を宿して。
「末席から駆け出し担った若造が、おいそれ筆頭名乗るなんぞと不平不満も出るだろう。しかし俺様ぁ、スッパに託しとる!」
人、で居続けるのは、確かにこの世で、難しいことだった。
人を、捨てねばならぬときが来た。
微かによぎる思い。この刹那、未だ縋ってしまう俺を見ないでほしい。
俺が人でなくなって、彼女はそれでも、崖上で待っていてくれるだろうか。
「面の傷は修羅への誓い!イーガ率いる幹部頭、筆頭幹部スッパの誕生を、てめえら全員で盛大に祝いやがれェ!!」
コーガ様が両手を掲げると同時、ざ、という地響きのような鳴動と共に、団員が一斉に立ち上がる。
右手を胸に、左手を背に、直立不動となるのは、コーガ様への忠誠と、信仰を捧げる姿だ。
いや、今日ばかりは違った。国の頂へ復讐を掲げる瞳が射貫いているのは、俺たちの主君へではない。まごうことなく、俺だった。
深穴を囲み、谷間を埋め尽くさんとする[[rb:同胞 > はらから]]は、正に俺に向け、仁義を切っているのだ。
コーガ様の声が空に吸い込まれ、またしじまが辺りを包む。しかし俺の心臓は、一心に仁義を切る同胞の姿に高鳴っていた。血沸き肉躍る、とは、こんな感覚なのかと初めて知った。
自らに流れる血が逆流でもしているような、産毛の全てが逆立っているような、細胞のひとつひとつが気圧で膨らんでいるような。それは七日に一度、赤い月が昇る晩に感じる高ぶりと、同じであった。
一心に向けられる瞳の責は重い。しかし同時に心地良い。今日この日をもって修羅となった俺は、その重荷すら越えるべき壁になり、目標になり、生き甲斐になるに違いない。
確信がある。俺には分かる。イーガへ、今までとこれからを賭した俺には。
隠密に足を踏み入れたばかりの力無き子どもは、もう影もない。
コーガ様に、イーガの団員に、俺は認められた。
俺は今このときをもって、筆頭幹部として、イーガに生を与えられたのだ。