【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
初めて人を手にかけた日から数年が経ち、俺は隠密を担当とする幹部の役職をいただいた。
いつか先生が口にした「最年少で幹部になれるかもしれない」という言葉を、まさか体現するとは誰が思っただろう。俺が嘗て感じていた無力への焦りは、その頃漸く、過去の遺物となっていた。
歳をとるごと身体も成長し、団の中でも一番の上背となった俺は、恐らく異質な存在だったはず。団の中心であったシーカー族でないにもかかわらず、幼き頃よりカルサー谷の岩戸をねぐらとし、自己研鑽に励む異邦者。
ただ、イーガが異質な人間を受け入れ、あまつさえ導いてくれたからこそ、今の俺がある。
無力な幼子を拾ってくれた主への御恩は元より、このイーガそのものに報いるためにも、俺はがむしゃらに任務をこなす日々を送っていた。
「スッパお前、これから幹部でやってくんなら、ちょいとばかし人生経験が足りねぇよなあ」
だからこそ、唐突ともいえる主のその言葉に、動揺を隠せなかった。
イーガ殲滅を目論み、怪しい動きをしていた王家側の人間の排除。支障なく終えた任務の報告へ訪れた先、まさか苦言ともとれる声音でコーガ様に言われるなど、想像できるわけもない。
「それは、どういう・・・・・・」
正座のまま、膝で握った拳に力が入る。主の声音は穏やかだが、足りないものがあるとの言葉は、責められているようにしか感じられない。
この数年、イーガの先駆けとして支えてきたつもりだった。暗殺、隠密、ありとあらゆることを経験し、できないことはないという自負もあった。
何が未だ俺に足りぬのか、全く見当がつかない。
・・・・・・いや、次にコーガ様が発する言葉など、若造たるこの時の俺がどれほど考えを巡らせたところで、そもそも思い当たるはずもなかった。
「女の経験ねーだろ。すぐわかるぞ」
びし、と突き立てられる指先。同時に向けられた言葉に、頭での理解が遅れる。
「は、あ、え、女の経験・・・・・・で、ござるか」と、狼狽が全て声に出る。隠密としてあるまじき恥で、主に晒すなど言語道断。
だが、この時の俺には、その狼狽をどうすることもできぬほどの、突拍子もない言葉だった。
「生息子でも別に良いんだけどな・・・・・・お前の場合は、如実に実力不足になってるかんな」
コーガ様は腕を組み、俺の面を真正面から睨んでくる。
いつも口にされる冗談ではないと、思い当たる節があるかの如く口調が物語っている。
しかし、幹部でやっていくことと経験不足、そして今しがたの実力不足という言。全てがいまいち繋がらず、俺はただ動揺し、体躯を縮ませるばかり。
「お前の歳で幹部になるやつは、そうそういるもんじゃない。だからこそな、経験しとくかしないかで、はっきり差が出ちまうもんなんだよ」
「は・・・・・・面目ないでござる・・・・・・」
「外のねーちゃんで済ましても良いし、引っかけて来ても良い。なんなら、団の中で俺が見繕ってやっても良い。誰か良い仲のやついねーのか?」
コーガ様の言葉に、心臓が跳ねたように痛んだのは事実だった。
咄嗟に頭に思い浮かんだ人物。それは恐らく、あってはならない考えなのだろう。
幼少期に椅子を並べ、文字やこの世の理を教わったあの人。憧れにも似た切なさを覚える、細められた亜麻色の瞳。
母や姉にも近しい、俺の嘗ての想い人。
「・・・・・・」
ただ、黙り込むしか術がなかった。
俺の曖昧な態度を腹に据えかねたのだろう。コーガ様は「このままじゃ、いつまで経っても変わりそうにねえなぁ」と深く大げさに息を吐き、胡坐を搔いた膝をぱしんと打った。
「分かった。下がって良い。ただこの話、決して忘れんなよ」
「は・・・・・・」
情けなくも主の問いかけへ何も返せずに、すごすごと部屋を後にした。
最後に頭を垂れて廊下へ出た後、俺はその場に立ち尽くした。そして一間の後、酷く乾燥した岩戸の廊下を歩きながら考えたのは、もちろんコーガ様が口にした先ほどの言。
人生経験が足りない。女の経験がない。それが、如実に実力不足となっている・・・・・・。
いくら頭の中で反芻すれど、言葉と言葉の糸を繋げることができず、良い考えも纏まらない。
知力と武力、そして暗殺や隠密の技の鍛錬に時間を費やしてきた俺にとって、主の言葉は今までを否定されるような厳しい響きを伴っていた。
とはいえ、女の経験だ。・・・・・・実は今までも、問われたことがないわけではない。
あれは、俺が成人を迎えた日。16の齢の可能性もあったのだが、コーガ様を始めとし、多くの団員に生誕を祝われた日のこと。
夕餉を皆で囲んだ後、俺は普段から世話になっていた幹部殿に連れられて、夜の外界へと繰り出した。
向かったのはカラカラバザール。昼は観光客で賑わうが、夜は全く違う様相を見せる場所だ。
商店は軒並み店じまいをし、茣蓙の上で寝転ぶものは居れども、閑散とした寂しい雰囲気。魔物を避けるためか、灯だけは常に焚いたままだが、それでも広大な砂漠の中で頼りなく光る蝋燭のようなものだ。変装をしていたとはいえ、俺たちがいくら真横を過ぎようと、屈強なゲルドの兵は露ほど気付かない。
それほどまでに、灯りが照らしきれない砂漠の闇は濃く深かった。
「こっちだ」と先を行く幹部殿に連れられたのは、とある建物の影だった。人目を避けるように掘られた地下へ続く階段を、幹部殿は慣れた足取りで進んでいく。
砂が積もる階段を降りた先、現れた簡素な木戸へ2回、間を空けてもう2回ノックをすると「どうぞ」というしゃがれ声が聞こえた。
戸を開け、奥に広がっていたのは、なんとも怪しげな空間だった。
紫の照明で照らされた部屋に立ち込めるのは、鼻にへばるような甘いにおい。部屋へと入って来た俺たちへ、一斉に向けられる女人の視線。
くすくすと密やかな笑い声が部屋を満たす中、俺は周囲を警戒しながらも、幹部殿の背中を追う。
「成人を迎えたんだ。いい女を見繕ってやってくれ」
カウンター越しに幹部殿が声を掛けたのは、取りまとめ役、といったところだろうか。他の女たちがやけに露出の高い煌びやかな衣装を纏う中、取りまとめ役は目元だけを出すようにベールで顔を覆い、落ち着きのある黒い服を身につけていた。
ベールの隙間から俺に一瞥をくれ、その後、女の一人を手招きする。猫のような足取りでやってきたのは、口元を橙色のベールで覆った、おそらくゲルドの民だった。
その女は、俺のことを見上げつつ、何も言わず腕に手を絡ませてきた。その慣れた仕草と、近づいた途端に強くなった甘ったるいにおいに、息が詰まりそうだった。上官たる幹部殿が機嫌良く手で「しっしっ」と払うのだから、幹部になりたての俺は、彼に従う他どうしようもない。
仕方なく、腕を抱く女に促されるまま、幹部殿をその場に残し、奥の部屋へと進んでいった。
掛け布団も準備されていないベッドがひとつ置いてあるだけで、窓も何もない、非常に簡素で窮屈な部屋だ。
ぱたん、と女が木戸を閉め、無遠慮にベッドへ寝転ぶので、俺は戸の前から動きもせずにその場で彼女を見下ろした。
「成人を迎えたんだってね、おめでとう。今日はお祝いね」
「祝いなら、既に済ませたでござる」
「これも、お祝いのうちってことでしょ、違う?」
「知らぬ女人に祝われる謂われは無いが・・・・・・」
「酷い人、そういう言い方するんだ?」
初めて会ったとは思えぬほどの馴れ馴れしい笑みに、寄せた眉間の皺が戻らない。
女は俯せに寝転がり、なお品の無い笑みをベールの奥に隠して、俺をただ見上げてくる。
「きて・・・・・・貴方の好きにして良いから」
「何をすれば良いのか分からぬ」
「こんなに逞しい体で、もしかして、まだ一度も?何人も泣かせてるのかと思った」
下品な笑みが濃くなる。先ほど同様、猫のようなしなやかさで立ち上がると、女は俺の身体にすり寄った。
ゲルドの民特有の張った胸肉を押し付けながら、頭を預けてくる。つむじで結った派手な髪に香油でも仕込んであるのだろう。ベタつくにおいが鼻をつき、思わず息を止める。においがこれほどまでに気分を害するものだと、俺はこのときまで知らなかった。
「私が貴方の初めてになるの、・・・・・・なんだか嬉しい」
「・・・・・・」
「教えてあげるね?・・・・・・夜伽の仕方」
ベールを取り払うと、紅の引かれた唇を女は舌で濡らした。薄暗い中でやけにそれが目を引いて、だから品がないのかと思うに至った。
腹に添えられた女の指先が、袴下へと進んでいく。その指先は、目的を持っていた。おそらく、多くの男にとっては、決して悪い話ではない、いかがわしい目的が。
俺は黙って腰に腕を回し、女の骨ばった顎を掴んだ。
その振る舞いに呼応するかのように、つ、と女が唇を突き出し、瞼を伏せる。やけに長い睫毛が、墨で彩る目元に影を落としているのが目に入った。
焦らすように下腹部を撫でまわすその指先に覚えたのは、こそばゆさと、止まらない胸のざわめき。
俺は、顎にかけた手を滑らせ、首へと回し、躊躇なく指先へ力を込めた。
「うぐッ・・・・・・・・・・・・!」
突如見開かれる女の瞳。ものの数秒で瞳孔の開き切った瞳が上向きに回り、白目となる。
力が抜けきり、だらんと崩れ落ちる女を回した腕で抱き留めて、俺は静かにベッドへ横たえた。
口元に手を翳すと、僅かながら吐息の微風を感じられる。
隠密でよく使う手ではあるが、まさか幹部殿に連れられた店で用いることになるとは、誰が思っただろうか。
俺は深く息を吐き、女へ一瞥をくれた後、窮屈で簡素な部屋から抜け出した。
木戸を閉める音に反応し、顔を上げた取りまとめ役と視線がぶつかった。丸く見開かれた瞳の理由が、思い当たらないわけでもない。
「あんた、もう終わったってのかい?あの子は?」
「連れ合いは[[rb:何処 > いずこ]]でござるか」
「あんたの連れなら、奥でお楽しみだが・・・・・・」
くっと親指で指した先には、先ほどと同じ木戸。
成人祝いと言いつつ、恐らく幹部殿が訪れたかったということなのだろう。そういえばやけにそわついていたと、日頃の彼を知る俺は、腑に落ちる思いであった。
「彼が出てきたら、連れは一通り終わらせて帰ったと伝えて欲しいでござる」
「一通り?あんた、本当に・・・・・・」
「これは少しばかりでござるが」
幾らかの袖の下を机に置くと、取りまとめ役の目色が変わる。品性に欠ける目つきと、遠慮も無しに差し出された拳を目視して、俺はその胸が悪くなるようないかがわしい空間から抜け出した。
階段を上り、砂漠の風に吹かれると、今までいた場所は夢なのではないかとも思えた。昼は皮膚が焼けるように暑いのに、砂漠の夜は別世界かと思うほど身体を冷やす。
天井には、数えきれないほどの星空が散っていたが、寝静まったカラカラバザールは誰も居らず、侘しさに沈むだけだ。
ふと、カルサー谷を見た。谷を形作る出っ張った崖の上。いつもあの人と他愛ない話をするあの場所に、自然と目がいってしまった。
今日もあの人は、ここからでも見えるあの場所に座っているのだろうか?いつもと変わらない砂漠の景色を眺めながら、物思いに耽る、切なさを瞳に灯して。
関係ないはずのあの人に、そのときばかりは見られている気がした。
何をしてるんだ俺は、と、この日ほど思ったことも無い。
アジトへ戻り、後からやってきた幹部殿に叱責されるかと思いきや、彼はやはり、酷く楽し気な様子だった。
「どうだった?」と高揚したように問われたので、返事は「はい、ありがとうございました」とだけ。
お前も大人の仲間入りだな、男になったんだなと[[rb:滔々 > とうとう]]と言われたが、正直疲労感しか覚えていない。
男であれば、当然興味の沸く話。実際それまでにも、先達から女の何たるかについて話を聞いたことが、ないわけではない。
しかし、どうしても、俺には全く関係ない、遠い世界の話としか思えなかった。下品で淫猥な場所に、堕ちたくないとすら。
そんな俺の振る舞いを、コーガ様は見逃さなかった。
自らの行為に後悔があるわけではないが、とはいえ、今更どうすれば良いのかも分からない。
またあの宿場へ向かうのか?いやおそらく、女の首へ手をかけたことは、宿場の間で広まっているはず。また頼むと、どの口が言えるだろうか。
では他の宿場はどうだ。先達へ聞けば、恐らく情報を知っている者も居ようが、なるべくであれば秘密裏にことを済ませたい。大人の男になったと喜んだ先達の顔へ、泥を塗るような真似は許されまい。
コーガ様の言葉を思い出す。外で引っかけて来ても良い。団の中で見繕ってやっても良い。どちらもやはり、遠い世界のことのように思える。酷く非現実的に感じる。
では、良い仲のやつは。頭に浮かんだ、幼い時分から歳を取るごと付き合いを変えてきた、あの人の姿。
確かに、彼女と、と考えるだけで、心臓がきりと痛む。この事実だけでも、目を逸らしてきた俺の本意を突きつけられるようで、遣る瀬無い。
これは任務だと言い訳を伝えれば、彼女は俺にも、憂いの瞳を向けてくれるだろうか。
汚いやり口を覚えた自分への嫌悪が、俺の胸を抉るようだった。
■ ■ ■
コーガ様から苦言を告げられた日の晩。
その当時、隠密業務から帰って来た晩は、あの崖の上を訪れるのが俺の中での決まり事になっていた。
示し合わせたかのように崖端へ座る先生へ会いに。今までの通例通り、俺は崖を上った。
「おかえりなさい、スッパ君」
相変わらず仮面を取った顔。月光に照らされ、瞳に星光を宿す彼女は、いつも俺を崖上で出迎えてくれるのだ。
彼女と出会ってから、10年の月日が流れた。彼女も、もう齢27。すっかり大人の女性へと変貌を遂げた彼女の顔は、年齢を思わせない笑みが良く似合っていた。
頷き返し、夜着だけを纏う彼女と、いつも一間あけて座り込む。
腕を伸ばしても、彼女に触れられない距離。これが今は丁度良く、眼前に広がる悠然な砂漠の如く、平静でいられる距離だ。
「今回は、随分間が空いたね、どこに行ってたの?」
「城でござる。城下にて排斥を」
「そっかぁ、大変だったね。お疲れ様」
「うむ、かたじけない、先生」
幹部となった今、彼女から教わることなど、なに一つもなくなった。
彼女は相変わらず、構成員のまま。役職にもつき、それなりの地位の俺が、ただの内勤に対して「師」と呼び、敬いを見せるのは、他からしてみれば訝しい以外の何物でもなかったろう。
しかし俺はいつまでも、先生と親しみを込め、彼女を呼ぶ。
「もう、先生はやめてよ。スッパ君」
照れたように呟く先生の声に、さわりと身体をくすぐられるようだった。
しかしこの頃は、先生に聞かせられないことも増えてきた。隠密部隊という手前、コーガ様にしか流せない情報がたくさんある。
本来なら、誇らしく思うべきことなのだろう。それは、成長の証、中枢へと駆け上がった証明のようなもの。
しかし、彼女との間に見えない溝ができたようで、もどかしくも思ってしまう。
「聞いてよ、この前ね、幹部さんが新しい業務を持ってきたんだけど・・・・・・」
そんな俺の心情を察してか、最近はむしろ、彼女が話をすることが多くなっていた。
内容は、他愛もない世間話や近況報告。上手く仕事が片付いたとか、魔物と戦うのに慣れてきたとか、俺がずっと前に経験し、彼女に聞かせてきた内容の追体験。聞き覚えのある、何のことは無い日々の話ばかり。
ただ、なぜだろうか。月光を返す瞳で静かに語る彼女の声は、胸のさざ波を凪ぎへと変えた。
日々血に染まり、泥にまみれる自分には、この時間が必要なのだと、確信すら持っていた。
「そういえば、聞いたよ。コーガ様に怒られたって」
その穏やかな時間。いつもの如きひとときになると思い込んでいた俺に届いたのは、耳に痛い話題。
「・・・・・・何のことでござるか」と聞き返せば、彼女が身を乗り出し、随分楽し気な様相で俺の面を覗き込んでくる。
「ほら、あれだよ・・・・・・実力不足!」
首を傾げる亜麻色の瞳に、心臓が一度大きく跳ね上がった。
突拍子のない話で俺を振り回すのも、昔から変わらない。先生は一度、くすりとおかしそうに笑って見せた。
「びっくりしちゃった、スッパ君はもうてっきり・・・・・・。幹部さんたちも、そんな話してたから」
「自分は・・・・・・」
「あ、ごめんね。手が早いって言いたいわけじゃないんだよ。ほら、イーガの男の人って、度々そういうとこ行くみたいだから・・・・・・。スッパ君、女の子にも人気があるみたいだし」
「・・・・・・」
「スッパ君がまだなんて、意外だったかも」
いたずらっぽく笑って見せる彼女の髪を、生ぬるい夜風が撫でていく。季節感のない砂漠ではあるが、もう世の中は春だった。
まさか、先生とこのような下世話な話をするなんて。露ほども考えていなかった事態で、咄嗟に言葉を返せなかった。
それまで彼女は、依然として手の届かない女性だった。高潔で、清純、どこまでも無垢。俺に向けられる瞳はいつだって真剣で、朗らかな、優しい色を宿していた。
そんな女性が、俺の目の前で、俗な話を口にする。
彼女が途端に、目の前へ堕ちてきたかのような感覚に、内心で酷く狼狽した。
しかし、その狼狽こそ見せては、イーガの恥。だからこそ実力不足なのだという、証左に他ならない。
腕を組み、恥ずかし気もなく艶っぽく口端を曲げる先生から、面下で視線を背けるのみである。
「良い仲の人はいないの?」
「・・・・・・ござらん。斯様な下らぬことに現を抜かすほど、暇では無い故」
「くだらなくなんかないよ。とっても大切なことだと思う。特に、イーガは、人で居続けるのが難しい環境だから・・・・・・」
「人で?」
「人間らしさって言うかさ。だから、恋愛って大事だと思う」
最後、付け足すような「もう少し経ったら分かるよ」という笑みの意味。確かに俺は理解できなかった。
「今度、良い人、紹介するね」
「心配ご無用でござる。先生の手を借りずともこのような些事、自分一人で片付けるべきであろう」
「不器用なスッパ君には、難しいと思うなー」
「・・・・・・難しくともどうにかするのが、実力を伴うに必要な業務でござる」
「任務のひとつとしか思ってないでしょ。コーガ様は、そういうことを言いたいんじゃ無いと思うけど」
嘗て俺に物を教える際の口調に戻りつつある。久しぶりに聞いたその声色に、どこか懐かしさが胸に広がった。
ただ、懐古している場合ではない。先生と、あまりこのような話をしたいとも思えなかった。むしろ、胸奥に収めるべき俺の心算が、彼女に露呈するのは避けたい。俺ですら認めたくない彼女への心願が、頭をもたげる感覚さえある気がして、更に動揺を重ねてしまう。
「先生には、おらぬのでござるか」
せめて、話を変えたいと思っただけだ。
問うた内容を、心根から知りたかったわけではない。少しの後悔が残ると、童心の如き憧れしか知らぬ俺には予想もつかなかったのだ。
情けないと笑えば良い。結局俺には、経験がない。経験があればこそ、このようなくだらない質問などしなかった。
生ぬるい春風が、彼女の髪を靡かせる。押さえることもせず、乱れた髪をそのままにする彼女は、大人と言うには酷く、幼く見えた。
「・・・・・・いないよ、ずっとね」
逡巡。一間の静寂。紡がれる言の葉。・・・・・・その刹那で、応えは充分なのだろう。
口元には朗らかな笑み。そして、瞳に宿すのは、いつかに見た憂いの輝き。
俺と二人きりで過ごす中、一度たりとも、俺へと向けたことのない、美しい、切なさ。
ああ、やはりそうなのか、と。彼女の瞳の意味が、臓腑に染み入るようだった。
「だから私も、恋愛したいな」
ぼやいた言葉が、夜風と共に流されていく。掻き消えていく。
それならば、と、問えれば良かったのかもしれない。
しかし、あまりにも狡いだろう。いくら大人になったからとはいえ、俺はそこまで、狡猾になりきれない。
彼女と、と考えるだけで胸がキリと痛むこの事実に蓋をするべきなのだろう。何も言わずに。何も願わずに。
二人でただ、月に目をやった。大きく欠けた弓張り月は、砂漠の闇を照らすのに頼りない。
それでも、彼女の頬に散った朱を確かめるには、充分な灯りであったろう。
後ろ手に座り、月を見上げる彼女の、小さな手の平が目に入る。
土に手をつく隙だらけの手の平は、いつだって無邪気に、俺の傍に置かれていた。
その細く綺麗な指先に、触れてみようかと頭に巡る。
まだ汚れを知らない彼女の指先に触れ、任務だと言い訳すれば、その瞳の憂いは、そのまま俺に向けられるだろうか。
いや、手の届かない距離に腰を据えたのは、他でもない自分であった。
それならば、あまりに自分勝手な心願を、どうか今だけ許して欲しい。
月を浮かべるその瞳に、俺を映してくれれば良いのにと、いつかに覚えた独占欲が、また頭を掠めていくばかり。
いつか先生が口にした「最年少で幹部になれるかもしれない」という言葉を、まさか体現するとは誰が思っただろう。俺が嘗て感じていた無力への焦りは、その頃漸く、過去の遺物となっていた。
歳をとるごと身体も成長し、団の中でも一番の上背となった俺は、恐らく異質な存在だったはず。団の中心であったシーカー族でないにもかかわらず、幼き頃よりカルサー谷の岩戸をねぐらとし、自己研鑽に励む異邦者。
ただ、イーガが異質な人間を受け入れ、あまつさえ導いてくれたからこそ、今の俺がある。
無力な幼子を拾ってくれた主への御恩は元より、このイーガそのものに報いるためにも、俺はがむしゃらに任務をこなす日々を送っていた。
「スッパお前、これから幹部でやってくんなら、ちょいとばかし人生経験が足りねぇよなあ」
だからこそ、唐突ともいえる主のその言葉に、動揺を隠せなかった。
イーガ殲滅を目論み、怪しい動きをしていた王家側の人間の排除。支障なく終えた任務の報告へ訪れた先、まさか苦言ともとれる声音でコーガ様に言われるなど、想像できるわけもない。
「それは、どういう・・・・・・」
正座のまま、膝で握った拳に力が入る。主の声音は穏やかだが、足りないものがあるとの言葉は、責められているようにしか感じられない。
この数年、イーガの先駆けとして支えてきたつもりだった。暗殺、隠密、ありとあらゆることを経験し、できないことはないという自負もあった。
何が未だ俺に足りぬのか、全く見当がつかない。
・・・・・・いや、次にコーガ様が発する言葉など、若造たるこの時の俺がどれほど考えを巡らせたところで、そもそも思い当たるはずもなかった。
「女の経験ねーだろ。すぐわかるぞ」
びし、と突き立てられる指先。同時に向けられた言葉に、頭での理解が遅れる。
「は、あ、え、女の経験・・・・・・で、ござるか」と、狼狽が全て声に出る。隠密としてあるまじき恥で、主に晒すなど言語道断。
だが、この時の俺には、その狼狽をどうすることもできぬほどの、突拍子もない言葉だった。
「生息子でも別に良いんだけどな・・・・・・お前の場合は、如実に実力不足になってるかんな」
コーガ様は腕を組み、俺の面を真正面から睨んでくる。
いつも口にされる冗談ではないと、思い当たる節があるかの如く口調が物語っている。
しかし、幹部でやっていくことと経験不足、そして今しがたの実力不足という言。全てがいまいち繋がらず、俺はただ動揺し、体躯を縮ませるばかり。
「お前の歳で幹部になるやつは、そうそういるもんじゃない。だからこそな、経験しとくかしないかで、はっきり差が出ちまうもんなんだよ」
「は・・・・・・面目ないでござる・・・・・・」
「外のねーちゃんで済ましても良いし、引っかけて来ても良い。なんなら、団の中で俺が見繕ってやっても良い。誰か良い仲のやついねーのか?」
コーガ様の言葉に、心臓が跳ねたように痛んだのは事実だった。
咄嗟に頭に思い浮かんだ人物。それは恐らく、あってはならない考えなのだろう。
幼少期に椅子を並べ、文字やこの世の理を教わったあの人。憧れにも似た切なさを覚える、細められた亜麻色の瞳。
母や姉にも近しい、俺の嘗ての想い人。
「・・・・・・」
ただ、黙り込むしか術がなかった。
俺の曖昧な態度を腹に据えかねたのだろう。コーガ様は「このままじゃ、いつまで経っても変わりそうにねえなぁ」と深く大げさに息を吐き、胡坐を搔いた膝をぱしんと打った。
「分かった。下がって良い。ただこの話、決して忘れんなよ」
「は・・・・・・」
情けなくも主の問いかけへ何も返せずに、すごすごと部屋を後にした。
最後に頭を垂れて廊下へ出た後、俺はその場に立ち尽くした。そして一間の後、酷く乾燥した岩戸の廊下を歩きながら考えたのは、もちろんコーガ様が口にした先ほどの言。
人生経験が足りない。女の経験がない。それが、如実に実力不足となっている・・・・・・。
いくら頭の中で反芻すれど、言葉と言葉の糸を繋げることができず、良い考えも纏まらない。
知力と武力、そして暗殺や隠密の技の鍛錬に時間を費やしてきた俺にとって、主の言葉は今までを否定されるような厳しい響きを伴っていた。
とはいえ、女の経験だ。・・・・・・実は今までも、問われたことがないわけではない。
あれは、俺が成人を迎えた日。16の齢の可能性もあったのだが、コーガ様を始めとし、多くの団員に生誕を祝われた日のこと。
夕餉を皆で囲んだ後、俺は普段から世話になっていた幹部殿に連れられて、夜の外界へと繰り出した。
向かったのはカラカラバザール。昼は観光客で賑わうが、夜は全く違う様相を見せる場所だ。
商店は軒並み店じまいをし、茣蓙の上で寝転ぶものは居れども、閑散とした寂しい雰囲気。魔物を避けるためか、灯だけは常に焚いたままだが、それでも広大な砂漠の中で頼りなく光る蝋燭のようなものだ。変装をしていたとはいえ、俺たちがいくら真横を過ぎようと、屈強なゲルドの兵は露ほど気付かない。
それほどまでに、灯りが照らしきれない砂漠の闇は濃く深かった。
「こっちだ」と先を行く幹部殿に連れられたのは、とある建物の影だった。人目を避けるように掘られた地下へ続く階段を、幹部殿は慣れた足取りで進んでいく。
砂が積もる階段を降りた先、現れた簡素な木戸へ2回、間を空けてもう2回ノックをすると「どうぞ」というしゃがれ声が聞こえた。
戸を開け、奥に広がっていたのは、なんとも怪しげな空間だった。
紫の照明で照らされた部屋に立ち込めるのは、鼻にへばるような甘いにおい。部屋へと入って来た俺たちへ、一斉に向けられる女人の視線。
くすくすと密やかな笑い声が部屋を満たす中、俺は周囲を警戒しながらも、幹部殿の背中を追う。
「成人を迎えたんだ。いい女を見繕ってやってくれ」
カウンター越しに幹部殿が声を掛けたのは、取りまとめ役、といったところだろうか。他の女たちがやけに露出の高い煌びやかな衣装を纏う中、取りまとめ役は目元だけを出すようにベールで顔を覆い、落ち着きのある黒い服を身につけていた。
ベールの隙間から俺に一瞥をくれ、その後、女の一人を手招きする。猫のような足取りでやってきたのは、口元を橙色のベールで覆った、おそらくゲルドの民だった。
その女は、俺のことを見上げつつ、何も言わず腕に手を絡ませてきた。その慣れた仕草と、近づいた途端に強くなった甘ったるいにおいに、息が詰まりそうだった。上官たる幹部殿が機嫌良く手で「しっしっ」と払うのだから、幹部になりたての俺は、彼に従う他どうしようもない。
仕方なく、腕を抱く女に促されるまま、幹部殿をその場に残し、奥の部屋へと進んでいった。
掛け布団も準備されていないベッドがひとつ置いてあるだけで、窓も何もない、非常に簡素で窮屈な部屋だ。
ぱたん、と女が木戸を閉め、無遠慮にベッドへ寝転ぶので、俺は戸の前から動きもせずにその場で彼女を見下ろした。
「成人を迎えたんだってね、おめでとう。今日はお祝いね」
「祝いなら、既に済ませたでござる」
「これも、お祝いのうちってことでしょ、違う?」
「知らぬ女人に祝われる謂われは無いが・・・・・・」
「酷い人、そういう言い方するんだ?」
初めて会ったとは思えぬほどの馴れ馴れしい笑みに、寄せた眉間の皺が戻らない。
女は俯せに寝転がり、なお品の無い笑みをベールの奥に隠して、俺をただ見上げてくる。
「きて・・・・・・貴方の好きにして良いから」
「何をすれば良いのか分からぬ」
「こんなに逞しい体で、もしかして、まだ一度も?何人も泣かせてるのかと思った」
下品な笑みが濃くなる。先ほど同様、猫のようなしなやかさで立ち上がると、女は俺の身体にすり寄った。
ゲルドの民特有の張った胸肉を押し付けながら、頭を預けてくる。つむじで結った派手な髪に香油でも仕込んであるのだろう。ベタつくにおいが鼻をつき、思わず息を止める。においがこれほどまでに気分を害するものだと、俺はこのときまで知らなかった。
「私が貴方の初めてになるの、・・・・・・なんだか嬉しい」
「・・・・・・」
「教えてあげるね?・・・・・・夜伽の仕方」
ベールを取り払うと、紅の引かれた唇を女は舌で濡らした。薄暗い中でやけにそれが目を引いて、だから品がないのかと思うに至った。
腹に添えられた女の指先が、袴下へと進んでいく。その指先は、目的を持っていた。おそらく、多くの男にとっては、決して悪い話ではない、いかがわしい目的が。
俺は黙って腰に腕を回し、女の骨ばった顎を掴んだ。
その振る舞いに呼応するかのように、つ、と女が唇を突き出し、瞼を伏せる。やけに長い睫毛が、墨で彩る目元に影を落としているのが目に入った。
焦らすように下腹部を撫でまわすその指先に覚えたのは、こそばゆさと、止まらない胸のざわめき。
俺は、顎にかけた手を滑らせ、首へと回し、躊躇なく指先へ力を込めた。
「うぐッ・・・・・・・・・・・・!」
突如見開かれる女の瞳。ものの数秒で瞳孔の開き切った瞳が上向きに回り、白目となる。
力が抜けきり、だらんと崩れ落ちる女を回した腕で抱き留めて、俺は静かにベッドへ横たえた。
口元に手を翳すと、僅かながら吐息の微風を感じられる。
隠密でよく使う手ではあるが、まさか幹部殿に連れられた店で用いることになるとは、誰が思っただろうか。
俺は深く息を吐き、女へ一瞥をくれた後、窮屈で簡素な部屋から抜け出した。
木戸を閉める音に反応し、顔を上げた取りまとめ役と視線がぶつかった。丸く見開かれた瞳の理由が、思い当たらないわけでもない。
「あんた、もう終わったってのかい?あの子は?」
「連れ合いは[[rb:何処 > いずこ]]でござるか」
「あんたの連れなら、奥でお楽しみだが・・・・・・」
くっと親指で指した先には、先ほどと同じ木戸。
成人祝いと言いつつ、恐らく幹部殿が訪れたかったということなのだろう。そういえばやけにそわついていたと、日頃の彼を知る俺は、腑に落ちる思いであった。
「彼が出てきたら、連れは一通り終わらせて帰ったと伝えて欲しいでござる」
「一通り?あんた、本当に・・・・・・」
「これは少しばかりでござるが」
幾らかの袖の下を机に置くと、取りまとめ役の目色が変わる。品性に欠ける目つきと、遠慮も無しに差し出された拳を目視して、俺はその胸が悪くなるようないかがわしい空間から抜け出した。
階段を上り、砂漠の風に吹かれると、今までいた場所は夢なのではないかとも思えた。昼は皮膚が焼けるように暑いのに、砂漠の夜は別世界かと思うほど身体を冷やす。
天井には、数えきれないほどの星空が散っていたが、寝静まったカラカラバザールは誰も居らず、侘しさに沈むだけだ。
ふと、カルサー谷を見た。谷を形作る出っ張った崖の上。いつもあの人と他愛ない話をするあの場所に、自然と目がいってしまった。
今日もあの人は、ここからでも見えるあの場所に座っているのだろうか?いつもと変わらない砂漠の景色を眺めながら、物思いに耽る、切なさを瞳に灯して。
関係ないはずのあの人に、そのときばかりは見られている気がした。
何をしてるんだ俺は、と、この日ほど思ったことも無い。
アジトへ戻り、後からやってきた幹部殿に叱責されるかと思いきや、彼はやはり、酷く楽し気な様子だった。
「どうだった?」と高揚したように問われたので、返事は「はい、ありがとうございました」とだけ。
お前も大人の仲間入りだな、男になったんだなと[[rb:滔々 > とうとう]]と言われたが、正直疲労感しか覚えていない。
男であれば、当然興味の沸く話。実際それまでにも、先達から女の何たるかについて話を聞いたことが、ないわけではない。
しかし、どうしても、俺には全く関係ない、遠い世界の話としか思えなかった。下品で淫猥な場所に、堕ちたくないとすら。
そんな俺の振る舞いを、コーガ様は見逃さなかった。
自らの行為に後悔があるわけではないが、とはいえ、今更どうすれば良いのかも分からない。
またあの宿場へ向かうのか?いやおそらく、女の首へ手をかけたことは、宿場の間で広まっているはず。また頼むと、どの口が言えるだろうか。
では他の宿場はどうだ。先達へ聞けば、恐らく情報を知っている者も居ようが、なるべくであれば秘密裏にことを済ませたい。大人の男になったと喜んだ先達の顔へ、泥を塗るような真似は許されまい。
コーガ様の言葉を思い出す。外で引っかけて来ても良い。団の中で見繕ってやっても良い。どちらもやはり、遠い世界のことのように思える。酷く非現実的に感じる。
では、良い仲のやつは。頭に浮かんだ、幼い時分から歳を取るごと付き合いを変えてきた、あの人の姿。
確かに、彼女と、と考えるだけで、心臓がきりと痛む。この事実だけでも、目を逸らしてきた俺の本意を突きつけられるようで、遣る瀬無い。
これは任務だと言い訳を伝えれば、彼女は俺にも、憂いの瞳を向けてくれるだろうか。
汚いやり口を覚えた自分への嫌悪が、俺の胸を抉るようだった。
■ ■ ■
コーガ様から苦言を告げられた日の晩。
その当時、隠密業務から帰って来た晩は、あの崖の上を訪れるのが俺の中での決まり事になっていた。
示し合わせたかのように崖端へ座る先生へ会いに。今までの通例通り、俺は崖を上った。
「おかえりなさい、スッパ君」
相変わらず仮面を取った顔。月光に照らされ、瞳に星光を宿す彼女は、いつも俺を崖上で出迎えてくれるのだ。
彼女と出会ってから、10年の月日が流れた。彼女も、もう齢27。すっかり大人の女性へと変貌を遂げた彼女の顔は、年齢を思わせない笑みが良く似合っていた。
頷き返し、夜着だけを纏う彼女と、いつも一間あけて座り込む。
腕を伸ばしても、彼女に触れられない距離。これが今は丁度良く、眼前に広がる悠然な砂漠の如く、平静でいられる距離だ。
「今回は、随分間が空いたね、どこに行ってたの?」
「城でござる。城下にて排斥を」
「そっかぁ、大変だったね。お疲れ様」
「うむ、かたじけない、先生」
幹部となった今、彼女から教わることなど、なに一つもなくなった。
彼女は相変わらず、構成員のまま。役職にもつき、それなりの地位の俺が、ただの内勤に対して「師」と呼び、敬いを見せるのは、他からしてみれば訝しい以外の何物でもなかったろう。
しかし俺はいつまでも、先生と親しみを込め、彼女を呼ぶ。
「もう、先生はやめてよ。スッパ君」
照れたように呟く先生の声に、さわりと身体をくすぐられるようだった。
しかしこの頃は、先生に聞かせられないことも増えてきた。隠密部隊という手前、コーガ様にしか流せない情報がたくさんある。
本来なら、誇らしく思うべきことなのだろう。それは、成長の証、中枢へと駆け上がった証明のようなもの。
しかし、彼女との間に見えない溝ができたようで、もどかしくも思ってしまう。
「聞いてよ、この前ね、幹部さんが新しい業務を持ってきたんだけど・・・・・・」
そんな俺の心情を察してか、最近はむしろ、彼女が話をすることが多くなっていた。
内容は、他愛もない世間話や近況報告。上手く仕事が片付いたとか、魔物と戦うのに慣れてきたとか、俺がずっと前に経験し、彼女に聞かせてきた内容の追体験。聞き覚えのある、何のことは無い日々の話ばかり。
ただ、なぜだろうか。月光を返す瞳で静かに語る彼女の声は、胸のさざ波を凪ぎへと変えた。
日々血に染まり、泥にまみれる自分には、この時間が必要なのだと、確信すら持っていた。
「そういえば、聞いたよ。コーガ様に怒られたって」
その穏やかな時間。いつもの如きひとときになると思い込んでいた俺に届いたのは、耳に痛い話題。
「・・・・・・何のことでござるか」と聞き返せば、彼女が身を乗り出し、随分楽し気な様相で俺の面を覗き込んでくる。
「ほら、あれだよ・・・・・・実力不足!」
首を傾げる亜麻色の瞳に、心臓が一度大きく跳ね上がった。
突拍子のない話で俺を振り回すのも、昔から変わらない。先生は一度、くすりとおかしそうに笑って見せた。
「びっくりしちゃった、スッパ君はもうてっきり・・・・・・。幹部さんたちも、そんな話してたから」
「自分は・・・・・・」
「あ、ごめんね。手が早いって言いたいわけじゃないんだよ。ほら、イーガの男の人って、度々そういうとこ行くみたいだから・・・・・・。スッパ君、女の子にも人気があるみたいだし」
「・・・・・・」
「スッパ君がまだなんて、意外だったかも」
いたずらっぽく笑って見せる彼女の髪を、生ぬるい夜風が撫でていく。季節感のない砂漠ではあるが、もう世の中は春だった。
まさか、先生とこのような下世話な話をするなんて。露ほども考えていなかった事態で、咄嗟に言葉を返せなかった。
それまで彼女は、依然として手の届かない女性だった。高潔で、清純、どこまでも無垢。俺に向けられる瞳はいつだって真剣で、朗らかな、優しい色を宿していた。
そんな女性が、俺の目の前で、俗な話を口にする。
彼女が途端に、目の前へ堕ちてきたかのような感覚に、内心で酷く狼狽した。
しかし、その狼狽こそ見せては、イーガの恥。だからこそ実力不足なのだという、証左に他ならない。
腕を組み、恥ずかし気もなく艶っぽく口端を曲げる先生から、面下で視線を背けるのみである。
「良い仲の人はいないの?」
「・・・・・・ござらん。斯様な下らぬことに現を抜かすほど、暇では無い故」
「くだらなくなんかないよ。とっても大切なことだと思う。特に、イーガは、人で居続けるのが難しい環境だから・・・・・・」
「人で?」
「人間らしさって言うかさ。だから、恋愛って大事だと思う」
最後、付け足すような「もう少し経ったら分かるよ」という笑みの意味。確かに俺は理解できなかった。
「今度、良い人、紹介するね」
「心配ご無用でござる。先生の手を借りずともこのような些事、自分一人で片付けるべきであろう」
「不器用なスッパ君には、難しいと思うなー」
「・・・・・・難しくともどうにかするのが、実力を伴うに必要な業務でござる」
「任務のひとつとしか思ってないでしょ。コーガ様は、そういうことを言いたいんじゃ無いと思うけど」
嘗て俺に物を教える際の口調に戻りつつある。久しぶりに聞いたその声色に、どこか懐かしさが胸に広がった。
ただ、懐古している場合ではない。先生と、あまりこのような話をしたいとも思えなかった。むしろ、胸奥に収めるべき俺の心算が、彼女に露呈するのは避けたい。俺ですら認めたくない彼女への心願が、頭をもたげる感覚さえある気がして、更に動揺を重ねてしまう。
「先生には、おらぬのでござるか」
せめて、話を変えたいと思っただけだ。
問うた内容を、心根から知りたかったわけではない。少しの後悔が残ると、童心の如き憧れしか知らぬ俺には予想もつかなかったのだ。
情けないと笑えば良い。結局俺には、経験がない。経験があればこそ、このようなくだらない質問などしなかった。
生ぬるい春風が、彼女の髪を靡かせる。押さえることもせず、乱れた髪をそのままにする彼女は、大人と言うには酷く、幼く見えた。
「・・・・・・いないよ、ずっとね」
逡巡。一間の静寂。紡がれる言の葉。・・・・・・その刹那で、応えは充分なのだろう。
口元には朗らかな笑み。そして、瞳に宿すのは、いつかに見た憂いの輝き。
俺と二人きりで過ごす中、一度たりとも、俺へと向けたことのない、美しい、切なさ。
ああ、やはりそうなのか、と。彼女の瞳の意味が、臓腑に染み入るようだった。
「だから私も、恋愛したいな」
ぼやいた言葉が、夜風と共に流されていく。掻き消えていく。
それならば、と、問えれば良かったのかもしれない。
しかし、あまりにも狡いだろう。いくら大人になったからとはいえ、俺はそこまで、狡猾になりきれない。
彼女と、と考えるだけで胸がキリと痛むこの事実に蓋をするべきなのだろう。何も言わずに。何も願わずに。
二人でただ、月に目をやった。大きく欠けた弓張り月は、砂漠の闇を照らすのに頼りない。
それでも、彼女の頬に散った朱を確かめるには、充分な灯りであったろう。
後ろ手に座り、月を見上げる彼女の、小さな手の平が目に入る。
土に手をつく隙だらけの手の平は、いつだって無邪気に、俺の傍に置かれていた。
その細く綺麗な指先に、触れてみようかと頭に巡る。
まだ汚れを知らない彼女の指先に触れ、任務だと言い訳すれば、その瞳の憂いは、そのまま俺に向けられるだろうか。
いや、手の届かない距離に腰を据えたのは、他でもない自分であった。
それならば、あまりに自分勝手な心願を、どうか今だけ許して欲しい。
月を浮かべるその瞳に、俺を映してくれれば良いのにと、いつかに覚えた独占欲が、また頭を掠めていくばかり。