【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
いい天気だった。真っ青な空には、紙を丸めたような二つの白い雲。登り切った太陽が崖間の集落を煌々と照らしてくる、まさに農作日和だ。さく、さく、と鍬を突き立てる小気味よい音が、家の中にいても微かに土の匂いを運んでくる。
こんな日には、ハイラル湖まで歩くと気持ち良いんだけどな。頭の中に澄み渡る湖面を描いて、頭を振る。生憎、散歩をしているような時間は残されていない。私には散歩よりも日向ぼっこよりも、まずやるべきことがある。
部屋の隅から隅までを、シャッシャッと箒で掃いた。いつもは見ないふりをするようなベッドの下まで念入りに。私がここに来てから溜まったのか、それ以前からあったものなのか、大きな埃の塊がほろりと出てきて驚いた。
最後に、集めた砂と埃をちりとりに掃き入れる。掃いても掃いてもちりとりに乗っかってくれない小さな砂は、もういいや。玄関扉から箒で搔きだした。
机も窓も拭き上げてシーツも洗った。布団も干した。暖炉の炭はお隣さんが見てくれるらしいし、今できることは、このくらいかな。
戸口に立って部屋を見回す。今朝まで私が生活していた、木の匂いに満ちる素朴な空間だ。今朝もこの生成りのベッドから起きて、この角の削れた机で食事をした。元々調度品は揃っていたし、掃除前と変わったところと言えば、棚から私の書籍が消えただけだった。
なのに、なんでだろうな。柔らかな障子の光を取り込むこの部屋が、もうそっぽを向いているように見える。道に迷って声をかけた人が、笑みを残したまま通り過ぎていくみたいに。
そこまで長く居たわけじゃなかった。だけどここでやっと、自分のできることとやるべきことに向き合えた。この小さな空間は、私にとって大事な場所だった。
ややあって、なんだか居てもたってもいられずに小さく足踏みした。胸がぎゅうっと詰まってきて、と同時にそわそわもしてる。喉の奥で小さく唸りながら、握った拳を上下に振った。
だってやっとこの日がやってきた。私は今日、カルサー谷のアジトに帰ることが決まっていたのだから。
「やあ、準備はどうだね」
お隣さんへ箒とちりとりを返しに行くと、ご夫婦で揃って草むしりの最中だった。
手傘の下で、おじいさんの長い白眉が緩み切っている。私は用具を家の壁へ立てかけて、同じく手傘をしながら微笑みかけた。
「部屋の掃除は終わって、荷物もまとめました。あとは皆に挨拶するだけです」
「そうかそうか。寂しくなるなぁ。子供らも懐いとったのに」
「はい・・・・・・私も寂しいです。みんな良い子だったから」
「そうだよなぁ、わしはてっきり、このまま居つくんだと思っとった。うちのとも、ちょうど釣り合ってると思っとったのに」
この前、頭をさげて挨拶し合った団員の姿が脳裏をよぎる。思わず「ははは・・・・・・」と乾いた笑いを漏らしてしまった。
『うちのとどうだ』と提案されていた息子さん。実際に顔を合わせたら妙に緊張して、世間話をするでもなくギクシャクと口端を持ち上げることしかできなかった。息子さんからも顎での会釈を返されただけ。たぶんおじいさんが、『嫁の来手が・・・・・・』と彼にも話していたのかもしれない。
そんな息子さんを含め、現役の団員たちが村を去って行ったのは、もう一ヶ月ほど前になる。
彼らを見送る前日の送迎会は盛り上がったな。と記憶を辿っていると、黙って私とおじいさんに視線を振っていたおばあさんが「でもねぇ」と口を挟んできた。
「そんな足でアジトに帰って大丈夫なの? 杖がいらなくなったって、まだ痛むこともあるでしょうに・・・・・・」
つい昨日まで相棒として持ち歩いていた杖。おじいさんから借りうけていたそれを、つい今朝方、彼へ返したのだった。
確かにここに居る間、彼の杖には大変お世話になった。でももう足を引き摺ることはなくなったし、身一つでどこへだって行ける。朝晩の冷えるときとか、雨の降る前に鈍くズキズキすることがあるくらい。許容範囲というやつだ。
「飛んだり跳ねたりしなければ大丈夫です! ここに来る前は研究班で、たぶん元のさやに戻るんだろうし。遺跡を調べたり、古い術を研究したり、・・・・・・ほら、復興に使えるかもしれないじゃないですか」
「収まる場所があるなら良いよなぁ。俺たちゃさすがに足手纏いだし。コーガ様が必要としてくれるなら、これほどありがたいことはないねぇ」
何気なく呟かれたおじいさんの言葉が、ずしっと伸し掛かる。必要としてくれてる、なら、確かに良いんだけど。
そうですね、と摘み上がった雑草の山に視線を逸らすと、おじいさんは「でもなぁ」と顎をしゃくった。
「まさか一人で行くわけじゃないだろう? 落ち着いたとはいえ、魔物もまだいるんだし。どうやって帰るんだ」
「アジトから、団員が迎えに来てくれることになっているんです。たぶん来た時と同じ、馬で」
「へえ! そりゃ親切だ。よっぽど歓迎されてるじゃないか」
「でもいつ頃来るのかしら? このままだとお昼になるけれど」
私がここへ来るときも朝一でアジトを出て、陽が沈む頃に漸く到着した。そろそろ村を発たないと、アジトに到着するのが真夜中になってしまう。
「そろそろ来るはずなんですけど──」と、村の奥に視線を遣って、漸く気付く。
門のところに、村人が集まってる。──巨大な黒馬だ。艶やかなたてがみには、数か月前に見た覚えがある。
それから集落民の人垣を掻き分け、見慣れた赤い人影が、確かな足取りで近づいてくるのが見えた。
「あ、来たみたい!」
おーい、と高く手を挙げて彼を呼ぶと、すぐに気が付いたようで向こうも片手を挙げてくれた。
ザラァ、と一陣の風が吹きこんできて、おろしたままの白い毛先が流されていく。彼の二股に割れた黒い剛毛も、同じ風に流されて揺れていた。
「少々遅くなったでござる。申し訳ござらん、先生」
相変わらずの生真面目な声で小さく会釈したのは、私の幼馴染、筆頭幹部のスッパ君だった。
吸い込んだ青草の空気が、胸の中でいっぱいに膨らむ。詰まったまま出てこなくなって、何も言わずに見つめ合った。私は仮面もない素の顔で。彼は、傷の入ったイーガの瞳で。
やっと。やっとこの日が来たんだなって。そう思って。
「まさか・・・・・・スッパ様がお迎えに?」
夫婦そろって、慌てた素振りで立ち上がる。きっと思ってもみない登場だったに違いない。今はアジト復興の真っ最中。コーガ様から指揮系統を任されてる彼がわざわざ村までやってくるなんて、どれほどおかしな話なのか。
けれどスッパ君は、彼らのぽかんとした表情を気にした風もなく、平然と顎を引いてみせた。
「ああ、団員了承の上、コーガ様からアジトに戻る同輩を迎えに行くようにとのお達しで」
「コーガ様からの? ・・・・・・まさか、一構成員にそんな手厚い保護をするなんてなぁ。筆頭幹部直々に」
困惑したように手を擦り合わせていたおじいさんも、ややあって納得したらしい。最終的には「良かったなぁ、先生」と目を細め、やんわりと皺を深めた。人の良さが溶け込むような、駆け回る子供たちを見守るときの表情と瓜二つだった。
頷き返してから、ここでの住み家に視線を遣る。お迎えが来てしまった。荷物は最後に積み込むとして、やり残したことが、もうあとひとつ。
「じゃあ私、挨拶周りに行ってきます」
ざ、と右足で土を踏みしめた、その時だった。
「先生、脚が。自分も行きます故」
目敏い彼が、その太い腕を咄嗟に伸ばして、肩に添えてきた。
彼に言わせてみれば、私の身体はまだ完治とは言えない状態なのだろう。でも既に歩きなれた村の中を、地位も体躯もある彼に支えてもらいながら挨拶周りするなんて、耳目を集めて仕方ないに違いない。
まっぴらごめん・・・・・・と一瞬頭に浮かんで、それはさすがに酷いなと思い直す。けれどこのまま二人三脚するのも嫌で、思わず「もう!」と手先を掴まえた。払おうとしてもびくともしなかったけど。
「大丈夫です、そこまでするほどじゃありません!」
「しかし、脚を引き摺って」
「引き摺ってません! ほとんど治りかけなんだから、一人で平気です」
「杖もないのでござろう、なら」
「あのねえっ、スッパ君ってさぁ、ほんとに・・・・・・」
おせっかいだよね、と腕で突っぱねようとして、はたと気付く。彼の後ろでお隣さんが目を丸くさせ、ぱちぱちと瞼を瞬かせている。
しまった。平の構成員が軽口をたたくなんて、彼の沽券にかかわる。すぐそこまで出かかっていた文句をごくんと飲み込んで、代わりに「ん、んん」と居住まいを正した。
「ありがとうございます。しかし大丈夫です。筆頭幹部殿は長旅でお疲れでしょうし、暫しお休みください。その間に私一人で、あいさつ回りを済ませますので」
しばしの沈黙。息を殺したような視線だけは真上から降り注いでくるけれど、私は胸の前できっぱりと指を組むだけ。
ややあって、躊躇ったような声で「先生」と呼ばれたので、「なんでしょうか」と淡泊に顎を上げた。
「なぜ、急にそのような敬語を・・・・・・」
「分かりませんか。貴方が筆頭幹部で、私は下っ端だからです」
「・・・・・・」
「挨拶周りに筆頭幹部を連れ回すなんて、私の立場も考えてください・・・・・・!」
こそ、と悲鳴じみた声で告げると、彼はむっつりと考え込むような沈黙の後、肩へ沿わせた腕を解いてくれた。それから、しずしずと傍の木に凭れる。仮面の上で、梢の影がしゃらしゃら笑ってるみたいに揺れていた。
すっかり風景と同化した彼を見遣り、それからおじいさんとおばあさんと目を合わせて笑った。「じゃあ、行ってきます」と会釈を残した私は、方々に挨拶するべくゆっくりと歩み出した。
集落の人たちは、みんな私のことを心配してくれた。足の具合や、アジトでの生活のこと。けれど最後には、口を揃えて「いつでも戻っておいで」と微笑みかけてくれた。アジトでの役割を失ってここに押し込められた私が、こんなにも温かな送迎を受けることになるなんて当時は想像もしていなかった。
それに、村の子供たち。これから発つことを告げると、皆して大きな瞳を遠慮なく揺らめかせて、みるみるうちに頬を赤くさせて。「さよならは嫌だよ」なんて。堪えきれずに喉をひくつかせる子や、私と抱き着いてくれる子もいた。
喉の奥がつんとする。でも、私は先生だ。上ずる喉元に力を入れながら、彼らの目線に合わせてしゃがみ込む。
「さよならじゃないよ。会おうと思えば、会える場所に行くだけだから」
「また、会えるの?」
「もちろん! 数年後、砂漠の谷で待ってるからね」
かつて子供だった私がそうやって誘われたように。泣き顔だった彼らもごしごしと水気を拭って、最後には「うんっ」と笑顔を作ってくれた。
口にした言葉は純粋な私の気持ちそのもので、嘘や建前なんてひとつも入れてない。けれど私たち一族の居場所は薄暗く、時に日向が恋しくなることだってきっとある。
私は、彼らを導く大人として正しかっただろうか。ほんの僅かでも、私たち大人が日差しを作ることができたなら──。
でも少なくとも今は、後悔のない場所から「待ってる」と言えて良かった。
挨拶を終えてから家の方へ戻ると、さっきまで置物みたいだったスッパ君の姿が見当たらない。
辺りを見回れば、草むしりを終えたのか陰間に座り込んでいたおじいさんが「スッパ様なら、荷物を運び入れてくるってさ」と教えてくれた。
「スッパ様から聞いたよぉ! 先生、あの人の幼馴染なんだって?」
興奮したように素早く手招きするおじいさんから、思いもよらない言葉が飛び出す。「えっ!?」と素っ頓狂な一声をあげて、二度三度瞼を瞬 かせてしまった。
スッパ君が幼馴染だと漏らしたということ? 私にすら隠し事をする、あの彼が?
俄かに信じられなかったけれど、おじいさんは悪気ない顔でにこにこしたままだ。
「え、ええ、そうです。・・・・・・珍しいですね、筆頭幹部・・・・・・彼が、そんなことを話すなんて」
「なぁに、根掘り葉掘り聞いちまってな、わりと無理やりに。あの人、意外と押しに弱いところがあるだろ」
ウィンクして見せるおじいさんの茶目っ気に、自然と表情が崩れた。私も昔、書庫に入り浸る彼を無理やり外に連れ出したことがあったっけ。「確かに」と相槌を打ちながら、あの時の彼の困惑した反応が頭に浮かんだ。
それからおじいさんはくつくつ笑ってみせて、一度「はぁー」と肩を持ち上げてから、すとんと落とした。座ったままの姿勢で私を見上げてくる。緩められた眦には、単なる隣人とは思えない慈愛が滲んでいるようで。
「道中、スッパ様がいれば問題ないだろうがなあ。先生、脚が悪いんだから気ぃつけて」
「ええ。短い間でしたけど、本当に、ありがとうございました。またいつか顔出しますね」
「きっと。きっとな。先生、お幸せにな」
紡がれた言葉に、きょとんとした。
お幸せに? 片手を挙げるおじいさんを見返すけれど、疑問を込めた視線に気づく素振りはない。
スッパ君と話した、と彼は言った。なにを話したんだろう。問いかけようとして口を開きかけ、そして何も言わずに、ゆっくりと閉じた。私たちのことを知る人が一人増えた。ただそれだけのことだ。
私は唇を引き絞り、目尻にウィンクの余韻を残すおじいさんへ、深々と頭を下げた。
スッパ君は、村の入り口で私のことを待っていた。
荷車には既に荷物が運び込まれていて、私の数少ない私物でパンパンになった背嚢や、道中で食べるようにと集落民から渡された畑の野菜や干し肉が、即席の木箱に詰められている。
「スッパ君」と名を呼ぶ。労わるように馬の首筋を撫でていた彼が、黒髪を風に流しながら振り返った。
「お待たせ。ごめんね、そろそろ行こっか」
勇み足で荷車のヘリに手を添えようとした瞬間だった。
すぐ傍で僅かに屈んだ彼が腕を滑らせ、私の腰を捕らえた。反応する暇もなく、膝裏へ通したもう片一方の腕が遠慮なくぐん、と浮かび上がり、足先が地面から遠のく。
急な浮遊感。「わっ・・・・・・!」と漏らしながら、思わず彼の胸ベルトに掴まった。がっちりした筋肉質な体躯。彼の濃いにおい。瞬時にカッと頬が照ったと思ったら、そのままひょいひょいと段差を乗り越えた彼が、荷車を揺らしながら片膝をつく。
静かに、まるでお姫様でも花畑の中へ下ろすように、ゆっくりと。一瞬にして、私は荷車の中に座らされていた。
けれど事実としては、私は良い歳を過ぎた女で、下ろされたのはこぢんまりとしたガタガタの荷車だ。スッパ君だけ颯爽と王子様のように踵を返しても、全然つり合いが取れてない。そそくさと馬へ跨る背中を、あんぐりと口を開きながら見つめたけれど、まるでそうするのが当然だとでも言わんばかりに、彼は気にもしてないようだった。
彼は昔から少し強引なところがある。しかもその強引さは、年々増している気がする。他人事のようにすっと伸ばされた背中を睨むけれど、彼はどこ吹く風だ。スッパ君は白々しく「行くでござる」と告げ、使いこまれた手綱を引いた。
揺れと共に、風景が動き始める。それと同時に、風が照った頬を包み込んできた。ハイラル湖の湿気を含む、冷涼な風だ。遠くの湖面ではきらきらと、光の粒が視線を誘う。
「おーい」と声が聞こえた。振り返ると、村の入り口に子供たちが集まっているのが見えた。
お隣のおばあさんとおじいさんも、お世話になった女衆も、男衆も、手を振ってくれていた。
子供たちが、「またねー!」と精一杯の声を放っている。私も「元気でー!」と声を限りに返した。大きく大きく、手を振った。崖の影に隠れるまで振り続け、姿が見えなくなってからも、遠ざかっていく崖あいを、いつまでも見つめ続けた。
きっとまたいつか帰ってくる。そんな確信がある。その時はもっと、私が私でいることに誇りを持てていますように。胸を張って、みんなにまた会えますように。
古びた遺跡を曲がり、景色が一変する。崖も湖もあっという間に隠れてしまったけれど、私にはその奥の景色が見えるようだった。いつまでも、だんだんと遠ざかっていくそこを眺め続けていた。
■
カポカポと蹄が砂粒を踏みしめる音を辺りに響かせながら、アジトまでの道を進んでいく。
隠れ里へ引っ越しをした日以来、久しぶりに目にするハイラルの景色。しかし平原の様子は、記憶に残る青々しい様子とは一転していた。
一面に広がっていた緑色の平原は、ところどころが抉れて茶色のまだらになっている。それに不自然に傾いて植わる、真っ黒に焦げた木々。以前立ち寄った宿場は破壊の限りを尽くされ、辛うじて残っているのは建築の基礎部分だけだ。
厄災との戦禍が残る景色。まるで初めて訪れる場所みたいだった。未だに鼻腔を刺してくる焦げたにおいに、荷車の端を掴む手に力が籠る。
きっと、当時は地獄のようだったに違いない。そんな中で、私たちは生き残った。スッパ君もだ。これがどれほど奇跡に近いことなのか。失ったと思った当時の、あの冷たくなった指先の感覚がまざまざと蘇ってくるようで。
こんなときでも空の高いところでは、シマオタカのひょろろという歌声が響いている。それが荒れ果てた平原に虚しさを添えていた。
しかし復興の兆しもある。王都を中心に治安組織が結成され、衣食住に困る被災者を受け入れているらしい。終戦の証に、イーガの民にもその手を差し伸べようという話が出ているとか。
神獣に破壊されたアジトを立て直そうにも、物資は全く足りていない。一旦は彼奴らの提案を受け入れよう、というのがコーガ様のお考えなのだそうだ。
「そこまでは、以前送ってくれた書簡で読んだね」 ホームレスとなった彼とは、度々送られてくる書簡でやり取りをしていた。数日前に寄越された手紙の内容を思い出して、荷車のへりに凭れる。
「あくまで表向き、という話でござるが、王家はイーガとの和解を喧伝したいのでござろう。昨今はコーガ様が、復興途中の城へ呼ばれる機会が多くなっているでござる。あすこの執政補佐官はシーカーの出。手と手を取り合い、またひとつになって影から支えてほしいのだと」
殺し合いをしていた敵同士が成行きで難局を乗り越えたからといって、すぐさま一緒になれると思えない。裏切りの悲しみを怒りに変えて、私たちは代々一万年に渡って陰に身を落としてきた。厄災はきっかけに過ぎないし、王家の言ってることは単なる日和見だ。
「はぁ、とんでもない夢物語だね」と相槌を打ちながら、手持無沙汰に右の足首を撫でた。
スッパ君も、「全くでござる」と淡々と言い切る。
「コーガ様が王家と手を取り合うことにしたのは、弔いのためでしかない。・・・・・・しかし、戦力を大幅に失った今、女神の力に目覚めた姫巫女擁する王家と敵対するのは、あまりに分が悪い」
「・・・・・・そうだね」
「それに加え、此度の戦いでは家を無くし、強盗と化した者も多いと聞く」
彼はそこで、自らの内側に溜まった疲労を全部追い出すみたいに、溜息をついた。
「王家はイーガに、そやつらの収め役をやってほしいと、暗に提案してきているでござる」
突拍子もない話に、「そんな無茶な」と咄嗟に身を乗り出した。彼に言ったってしょうがない。でも黙っていられなかった。
どの種族よりも戦闘に身を投じてきたイーガには、確かに武力がある。だからといって手に余るあらくれものを押し付けるだなんて、臭い物に蓋をしたいだけじゃないか。それでなくとも王家とイーガの関係性は、危うい均衡でしか成り立っていないというのに。
けれどスッパ君は、諦めたように首を緩く横に振ってみせた。
「とはいえ、コーガ様は前向きでござる。元より脛に傷のある人間がイーガの土台となってきた事実がある。今後のことはまだわからぬが、コーガ様に忠誠を誓う同志を増やすには、自らの元へ人が集まるように仕向けた方が良いだろうと、王家の提案を飲むつもりでござる」
「・・・・・・」
「今は暫し、忍ぶ時。寝首を搔くにせよ、このまま彼奴らと迎合の道を辿るにせよ、状況を見定め、場を整えねば為せることも為せぬまま」
「・・・・・・そう、だね」
イーガもこれからきっと、変わっていく。確かにそれは、朧気に考えていたことだった。だからってこんな無理やりに形を変えることになるとは思ってもみなかったけど。
荷車のヘリに腕をつき、そのまま寄りかかった。手の甲に顎をつき、揺れる馬の尾を漠然と視線で追う。
不意におじいさんの言葉を思い出す。収まる場所があるならいい、と彼は言った。収まる場所、本当に私にあるのだろうか? 他の団員のように軽やかに動けず、自信のあることといえば古代の知識が少しあることだけ。こんな私が、復興で大わらわになってるアジトで収まる場所?
「アジトに戻って、私ができることってなんだろうなぁ」
唇の隙間から滑った言葉は、小石道の上を回り続ける車輪の音に消えていく。ふと枝垂れたまま暫く馬の歩む足に視線を留め、それから空へと移した。鮮やかな縹色の空に、ちぎれたように尾を引く白い雲が浮かんでる。
視界の端で、黒髪が揺れた。私の白髪もさらさら揺れていた。季節の分かれ目に吹くような、生温かい風の所為だった。
「・・・・・・おそらく、でござるが」
スッパ君が、微かに面を向ける。
「今後、読み書きのできぬ団員が増えるはずでござる」
そもそも厄災の備えとして、王都でも文字の読み書きは蔑ろにされていたと聞いている。
「そうだね。たぶん」と少しく身体を起こすと、彼は身じろぎもしないまま続けた。
「しかしイーガは文字での伝令事項も多い。読めぬ書けぬでは、指揮をするにも限界があるはず。団員には識字能力を基礎としたい、と考えており」
「うん」
「その場合、先生役は必要でござろう、と」
「・・・・・・わたし?」
イーガ印の端しか見えていなかった彼が、改めて振り返ってくる。暫く何も言わずにじっと見つめ合った後、彼は緩やかな動作で深く首肯してみせた。
ざあ、と一陣の風が吹き抜けた。はためく白髪が視界を覆う。彼の遠回しな言葉を頭の中でぼんやりと繰り返す。一切表情の変わらない仮面の下で、彼はどんな顔をしてるんだろう。どんな気持ちで「先生役は必要でござろう」なんてとぼけてみせたのか。
唐突になにかこみ上げてきたと思ったら、それが口先で「ぷっ」と漏れる。そばを横切る梢から、さわわとし心地いい音が聞こえた。まるで一緒になって笑ってくれてるみたいに。
「ふふ!・・・・・・そうだね、その役目は、私にぴったりかも!」
「適材適所でござるな」
「うん、適材適所! それなら、私もコーガ様の役に立てるよね、団員の役にも!」
最後に一度小さく息を吐いてから、改めて頬を緩める。
うららかな日ざしに溶ける彼の仮面。眩しくて、目を細めた。
「・・・・・・スッパ君の役にも」
予想外に掠れた声。慰めてくれるようなピチチ、と小鳥の声が続く。
暫く、二人で黙り込んだ。それから、先生、とどこか切羽詰まったように鞍に手をかけるスッパ君が、正面から見据えてくる前に荷車の隅へ視線を逃した。
彼はずっと、私に気持ちを伝えてくれていた。今更、なんて思うかな。指先を擦り合わせながら、荷車の隅に溜まった砂粒が跳ねる様子を見つめる。奇妙な沈黙が、彼との間を糸みたいに繋いでくれてる感じがした。けれど、もう彼の態度に甘えるのは終わりにしたい。
視線をさ迷わせたあと、急に血の気が失せてしまった指先を膝の上で重ね、握りしめた。
「・・・・・・私、今までスッパ君に助けられてばっかりだったなって思って」
「・・・・・・そのようなこと。気にせずとも」
「ううん。私、スッパ君がいなかったら、今こうなってないと思うの。だからせめて恩返し、したいなと思って」
「そも俺が、先生の情に助けられた身でござる」
言葉が上手く出てこない。彼の方は見られなかった。
「そう、かな。そんな覚え、私はあんまりなくって」
「文字を教わり、イーガで生きる術を教わったでござる。自分自身を捨てる必要がないことも。俺がここにいるのは、貴女がいたからだと確信がある」
ぐ、と身を乗り出したスッパ君は、凛と言った。
「俺は、貴女がいたから、戦場で死ねなかった」
「・・・・・・」
思わず上げた顔。仮面の奥の双眼が、私をしっかりと射貫いている。一瞬なんの音も聞こえなくなった。ただ、彼の仮面だけが視界一杯に広がっていた。
あんなに白かったのに、随分汚れた彼の面。出会った頃は、輪郭よりも大きくて体とのバランスがおかしかった。今は筆頭幹部の角の意匠と、袈裟傷が、彼の今までを表しているようで。
やがてふいと正面に向き直ったスッパ君は、力強く手綱を引いた。がたん、と音を立てながら、ほんの少しだけ景色の流れる速さが変わる。それは、照れ隠し? 私の耳も熱くなっていて、頬も同じで。車輪の回る音と蹄の音が、その時に漸く耳に入ってきた。
普段は言葉少なの癖に、言うときははっきりと口にする彼。それは、ずけずけとデリカシーの無いことでも平気で口にする主君に似たからなのかな。
「・・・・・・スッパ君て、さぁ」
「うむ」
「一途だよね。・・・・・・私の方が照れちゃうよ。そんな台詞、まじまじと言われたら」
思えば昔から素直な人だった。それが隠密の生きざまに染まっていくごと、息を潜めるようになっただけ。彼は意外と嘘を吐けないし、嘘を吐くくらいなら無反応に徹する。そういう人だった。
だから、彼の言葉が更に重ねられることに、私は思い至ってもおかしくなかったのに。
「俺は貴女に、恋をしているので」
さらりと言ってのけるんだもの。恋。そんな可愛らしい言葉を、今改めて。
でもそれより、なんだか妙な既視感があった。いつかに言われたからってだけじゃない。
口先に「え・・・・・・?」と心の中そのものが漏れる。
「恋とは、そういうものなのでござろう。いつかの本に書いてあったでござる」
「もしかして、恋の話って本? 私と読んだ」
「はい、まさに。思慕について書かれていた、墨絵の」
男の人と女の人の手が重なった表紙の本──私はそれを、鮮明に脳裏に結ぶことができる。だって最近、実際に目にした。色褪せた背表紙。毛羽ついた紙の繊維。本の内容も、登場人物の思いも。そして、スッパ君に結末を教えてないことも、全部。
返事を返さなかった私を訝しく思ったのだろう。「先生?」と小さく振り返る。
それまで曖昧だった焦点を仮面の瞳に合わせて、私は緩やかに首を振った。
「・・・・・・違うよ、スッパ君。きっとこれは、恋じゃない」
「恋、じゃない?」首をひねる彼は素直だった。
私は一度唇を閉じた。どうやって伝えようか頭で整理しながら、古めかしく欠けた荷車の端を、指で撫でる。
「・・・・・・あの話、続きがあったの。覚えてる? 最後のページは、破れていてさ」
「・・・・・・はい」
「主人公が泣き暮らすのを、幼馴染は傍で支えてくれていた。そのおかげで彼女は元気になった。けれど、男の子が故郷に帰らないのを不思議がって、彼に質問する。『どうして自分の元にいてくれるの?』って」
ふっと笑う。「スッパ君はその後のお話、知らないよね」
彼は、静かに首肯した。
むせ返るような青草の香りと共に、風が髪の毛を掬っていく。スッパ君の黒髪と、私の白髪を撫でつけるように。
暫くして、私は小さく口を開いた。
「男の子はこう答える。『僕は、君に笑っていて欲しいんだ。だって、君を愛してるから』」
「・・・・・・」
「男の子は、女の子の幸せを願って彼女を支えてた。それは恋じゃなく、愛があったから」
口にした瞬間、なぜだか視界がぼやけ始めた。なんでだろう。今までのこと全部、流れ込んでくるみたいに頭を巡っていく。
彼との書庫の日々。崖上でたくさんお喋りしたこと。怪我をしたときは心配したし、私のことも心配してくれた。助けてくれた彼に、お花を貰って、気持ちを貰った。
ずうっと心の深いところで支え合ったあの日々が、私に降り積もるこの記憶が、彼と私を確かに繋いでる。
「だからさ、思うんだよ」 風の音が、今だけは途切れて聞こえなくなった。
「私たちの間にあったのは、愛なのかなって」
「・・・・・・愛?」
「たぶん君も私も、ずっとずっと前から、愛し合ってたんじゃないかな、って」
馬の歩みがゆっくりと止まる。
先生、って彼が呼んだ。低いけれど、優しい声だった。でもなぜだか、聞き慣れたはずのその言葉を耳にした途端、私は大きな違和感を抱いてしまった。
ほお、と息を吐いて、首を傾げる。
「先生って、そろそろやめない?」
「・・・・・・なぜ?」
「だって今度から、貴方だけの先生じゃ、なくなるかもしれないのだし」
胸の前で指を絡める。それはなんだか心細さがあったからだけど、ふと祈りの姿になっていると、少しして気付いた。
「ね、スッパ君。今度から、本名で呼んでくれないかな」
先生という呼び名と共に、私とスッパ君の関係は築かれてきた。けれど私には、彼に呼ばれたことのない本当の名前がある。
「覚えてるよね? 私の名前」
彼には小さな頃、興味本位で聞かれて答えたことがあった。
肩を縮めると、彼は小さく天を仰ぎ、深く息を吸ってみせた。
「 」
初めて紡がれた私の名前。
つんと痛み出す鼻先のまま、彼に破顔する。
「これからもよろしくね、スッパ君」
差し出した手の平を、傷だらけになった大きな手の平が、柔らかく掴んでくれた。
──これは、かつて筆頭幹部に師と仰がれた女の物語。
そして、そんな女を傍で支え続けてくれた、筆頭幹部の物語。
二人の関係は、きっと今から、違ったものになる。
・・・・・・さあ、次のお話は、なにを読もっか。
おしまい。
こんな日には、ハイラル湖まで歩くと気持ち良いんだけどな。頭の中に澄み渡る湖面を描いて、頭を振る。生憎、散歩をしているような時間は残されていない。私には散歩よりも日向ぼっこよりも、まずやるべきことがある。
部屋の隅から隅までを、シャッシャッと箒で掃いた。いつもは見ないふりをするようなベッドの下まで念入りに。私がここに来てから溜まったのか、それ以前からあったものなのか、大きな埃の塊がほろりと出てきて驚いた。
最後に、集めた砂と埃をちりとりに掃き入れる。掃いても掃いてもちりとりに乗っかってくれない小さな砂は、もういいや。玄関扉から箒で搔きだした。
机も窓も拭き上げてシーツも洗った。布団も干した。暖炉の炭はお隣さんが見てくれるらしいし、今できることは、このくらいかな。
戸口に立って部屋を見回す。今朝まで私が生活していた、木の匂いに満ちる素朴な空間だ。今朝もこの生成りのベッドから起きて、この角の削れた机で食事をした。元々調度品は揃っていたし、掃除前と変わったところと言えば、棚から私の書籍が消えただけだった。
なのに、なんでだろうな。柔らかな障子の光を取り込むこの部屋が、もうそっぽを向いているように見える。道に迷って声をかけた人が、笑みを残したまま通り過ぎていくみたいに。
そこまで長く居たわけじゃなかった。だけどここでやっと、自分のできることとやるべきことに向き合えた。この小さな空間は、私にとって大事な場所だった。
ややあって、なんだか居てもたってもいられずに小さく足踏みした。胸がぎゅうっと詰まってきて、と同時にそわそわもしてる。喉の奥で小さく唸りながら、握った拳を上下に振った。
だってやっとこの日がやってきた。私は今日、カルサー谷のアジトに帰ることが決まっていたのだから。
「やあ、準備はどうだね」
お隣さんへ箒とちりとりを返しに行くと、ご夫婦で揃って草むしりの最中だった。
手傘の下で、おじいさんの長い白眉が緩み切っている。私は用具を家の壁へ立てかけて、同じく手傘をしながら微笑みかけた。
「部屋の掃除は終わって、荷物もまとめました。あとは皆に挨拶するだけです」
「そうかそうか。寂しくなるなぁ。子供らも懐いとったのに」
「はい・・・・・・私も寂しいです。みんな良い子だったから」
「そうだよなぁ、わしはてっきり、このまま居つくんだと思っとった。うちのとも、ちょうど釣り合ってると思っとったのに」
この前、頭をさげて挨拶し合った団員の姿が脳裏をよぎる。思わず「ははは・・・・・・」と乾いた笑いを漏らしてしまった。
『うちのとどうだ』と提案されていた息子さん。実際に顔を合わせたら妙に緊張して、世間話をするでもなくギクシャクと口端を持ち上げることしかできなかった。息子さんからも顎での会釈を返されただけ。たぶんおじいさんが、『嫁の来手が・・・・・・』と彼にも話していたのかもしれない。
そんな息子さんを含め、現役の団員たちが村を去って行ったのは、もう一ヶ月ほど前になる。
彼らを見送る前日の送迎会は盛り上がったな。と記憶を辿っていると、黙って私とおじいさんに視線を振っていたおばあさんが「でもねぇ」と口を挟んできた。
「そんな足でアジトに帰って大丈夫なの? 杖がいらなくなったって、まだ痛むこともあるでしょうに・・・・・・」
つい昨日まで相棒として持ち歩いていた杖。おじいさんから借りうけていたそれを、つい今朝方、彼へ返したのだった。
確かにここに居る間、彼の杖には大変お世話になった。でももう足を引き摺ることはなくなったし、身一つでどこへだって行ける。朝晩の冷えるときとか、雨の降る前に鈍くズキズキすることがあるくらい。許容範囲というやつだ。
「飛んだり跳ねたりしなければ大丈夫です! ここに来る前は研究班で、たぶん元のさやに戻るんだろうし。遺跡を調べたり、古い術を研究したり、・・・・・・ほら、復興に使えるかもしれないじゃないですか」
「収まる場所があるなら良いよなぁ。俺たちゃさすがに足手纏いだし。コーガ様が必要としてくれるなら、これほどありがたいことはないねぇ」
何気なく呟かれたおじいさんの言葉が、ずしっと伸し掛かる。必要としてくれてる、なら、確かに良いんだけど。
そうですね、と摘み上がった雑草の山に視線を逸らすと、おじいさんは「でもなぁ」と顎をしゃくった。
「まさか一人で行くわけじゃないだろう? 落ち着いたとはいえ、魔物もまだいるんだし。どうやって帰るんだ」
「アジトから、団員が迎えに来てくれることになっているんです。たぶん来た時と同じ、馬で」
「へえ! そりゃ親切だ。よっぽど歓迎されてるじゃないか」
「でもいつ頃来るのかしら? このままだとお昼になるけれど」
私がここへ来るときも朝一でアジトを出て、陽が沈む頃に漸く到着した。そろそろ村を発たないと、アジトに到着するのが真夜中になってしまう。
「そろそろ来るはずなんですけど──」と、村の奥に視線を遣って、漸く気付く。
門のところに、村人が集まってる。──巨大な黒馬だ。艶やかなたてがみには、数か月前に見た覚えがある。
それから集落民の人垣を掻き分け、見慣れた赤い人影が、確かな足取りで近づいてくるのが見えた。
「あ、来たみたい!」
おーい、と高く手を挙げて彼を呼ぶと、すぐに気が付いたようで向こうも片手を挙げてくれた。
ザラァ、と一陣の風が吹きこんできて、おろしたままの白い毛先が流されていく。彼の二股に割れた黒い剛毛も、同じ風に流されて揺れていた。
「少々遅くなったでござる。申し訳ござらん、先生」
相変わらずの生真面目な声で小さく会釈したのは、私の幼馴染、筆頭幹部のスッパ君だった。
吸い込んだ青草の空気が、胸の中でいっぱいに膨らむ。詰まったまま出てこなくなって、何も言わずに見つめ合った。私は仮面もない素の顔で。彼は、傷の入ったイーガの瞳で。
やっと。やっとこの日が来たんだなって。そう思って。
「まさか・・・・・・スッパ様がお迎えに?」
夫婦そろって、慌てた素振りで立ち上がる。きっと思ってもみない登場だったに違いない。今はアジト復興の真っ最中。コーガ様から指揮系統を任されてる彼がわざわざ村までやってくるなんて、どれほどおかしな話なのか。
けれどスッパ君は、彼らのぽかんとした表情を気にした風もなく、平然と顎を引いてみせた。
「ああ、団員了承の上、コーガ様からアジトに戻る同輩を迎えに行くようにとのお達しで」
「コーガ様からの? ・・・・・・まさか、一構成員にそんな手厚い保護をするなんてなぁ。筆頭幹部直々に」
困惑したように手を擦り合わせていたおじいさんも、ややあって納得したらしい。最終的には「良かったなぁ、先生」と目を細め、やんわりと皺を深めた。人の良さが溶け込むような、駆け回る子供たちを見守るときの表情と瓜二つだった。
頷き返してから、ここでの住み家に視線を遣る。お迎えが来てしまった。荷物は最後に積み込むとして、やり残したことが、もうあとひとつ。
「じゃあ私、挨拶周りに行ってきます」
ざ、と右足で土を踏みしめた、その時だった。
「先生、脚が。自分も行きます故」
目敏い彼が、その太い腕を咄嗟に伸ばして、肩に添えてきた。
彼に言わせてみれば、私の身体はまだ完治とは言えない状態なのだろう。でも既に歩きなれた村の中を、地位も体躯もある彼に支えてもらいながら挨拶周りするなんて、耳目を集めて仕方ないに違いない。
まっぴらごめん・・・・・・と一瞬頭に浮かんで、それはさすがに酷いなと思い直す。けれどこのまま二人三脚するのも嫌で、思わず「もう!」と手先を掴まえた。払おうとしてもびくともしなかったけど。
「大丈夫です、そこまでするほどじゃありません!」
「しかし、脚を引き摺って」
「引き摺ってません! ほとんど治りかけなんだから、一人で平気です」
「杖もないのでござろう、なら」
「あのねえっ、スッパ君ってさぁ、ほんとに・・・・・・」
おせっかいだよね、と腕で突っぱねようとして、はたと気付く。彼の後ろでお隣さんが目を丸くさせ、ぱちぱちと瞼を瞬かせている。
しまった。平の構成員が軽口をたたくなんて、彼の沽券にかかわる。すぐそこまで出かかっていた文句をごくんと飲み込んで、代わりに「ん、んん」と居住まいを正した。
「ありがとうございます。しかし大丈夫です。筆頭幹部殿は長旅でお疲れでしょうし、暫しお休みください。その間に私一人で、あいさつ回りを済ませますので」
しばしの沈黙。息を殺したような視線だけは真上から降り注いでくるけれど、私は胸の前できっぱりと指を組むだけ。
ややあって、躊躇ったような声で「先生」と呼ばれたので、「なんでしょうか」と淡泊に顎を上げた。
「なぜ、急にそのような敬語を・・・・・・」
「分かりませんか。貴方が筆頭幹部で、私は下っ端だからです」
「・・・・・・」
「挨拶周りに筆頭幹部を連れ回すなんて、私の立場も考えてください・・・・・・!」
こそ、と悲鳴じみた声で告げると、彼はむっつりと考え込むような沈黙の後、肩へ沿わせた腕を解いてくれた。それから、しずしずと傍の木に凭れる。仮面の上で、梢の影がしゃらしゃら笑ってるみたいに揺れていた。
すっかり風景と同化した彼を見遣り、それからおじいさんとおばあさんと目を合わせて笑った。「じゃあ、行ってきます」と会釈を残した私は、方々に挨拶するべくゆっくりと歩み出した。
集落の人たちは、みんな私のことを心配してくれた。足の具合や、アジトでの生活のこと。けれど最後には、口を揃えて「いつでも戻っておいで」と微笑みかけてくれた。アジトでの役割を失ってここに押し込められた私が、こんなにも温かな送迎を受けることになるなんて当時は想像もしていなかった。
それに、村の子供たち。これから発つことを告げると、皆して大きな瞳を遠慮なく揺らめかせて、みるみるうちに頬を赤くさせて。「さよならは嫌だよ」なんて。堪えきれずに喉をひくつかせる子や、私と抱き着いてくれる子もいた。
喉の奥がつんとする。でも、私は先生だ。上ずる喉元に力を入れながら、彼らの目線に合わせてしゃがみ込む。
「さよならじゃないよ。会おうと思えば、会える場所に行くだけだから」
「また、会えるの?」
「もちろん! 数年後、砂漠の谷で待ってるからね」
かつて子供だった私がそうやって誘われたように。泣き顔だった彼らもごしごしと水気を拭って、最後には「うんっ」と笑顔を作ってくれた。
口にした言葉は純粋な私の気持ちそのもので、嘘や建前なんてひとつも入れてない。けれど私たち一族の居場所は薄暗く、時に日向が恋しくなることだってきっとある。
私は、彼らを導く大人として正しかっただろうか。ほんの僅かでも、私たち大人が日差しを作ることができたなら──。
でも少なくとも今は、後悔のない場所から「待ってる」と言えて良かった。
挨拶を終えてから家の方へ戻ると、さっきまで置物みたいだったスッパ君の姿が見当たらない。
辺りを見回れば、草むしりを終えたのか陰間に座り込んでいたおじいさんが「スッパ様なら、荷物を運び入れてくるってさ」と教えてくれた。
「スッパ様から聞いたよぉ! 先生、あの人の幼馴染なんだって?」
興奮したように素早く手招きするおじいさんから、思いもよらない言葉が飛び出す。「えっ!?」と素っ頓狂な一声をあげて、二度三度瞼を
スッパ君が幼馴染だと漏らしたということ? 私にすら隠し事をする、あの彼が?
俄かに信じられなかったけれど、おじいさんは悪気ない顔でにこにこしたままだ。
「え、ええ、そうです。・・・・・・珍しいですね、筆頭幹部・・・・・・彼が、そんなことを話すなんて」
「なぁに、根掘り葉掘り聞いちまってな、わりと無理やりに。あの人、意外と押しに弱いところがあるだろ」
ウィンクして見せるおじいさんの茶目っ気に、自然と表情が崩れた。私も昔、書庫に入り浸る彼を無理やり外に連れ出したことがあったっけ。「確かに」と相槌を打ちながら、あの時の彼の困惑した反応が頭に浮かんだ。
それからおじいさんはくつくつ笑ってみせて、一度「はぁー」と肩を持ち上げてから、すとんと落とした。座ったままの姿勢で私を見上げてくる。緩められた眦には、単なる隣人とは思えない慈愛が滲んでいるようで。
「道中、スッパ様がいれば問題ないだろうがなあ。先生、脚が悪いんだから気ぃつけて」
「ええ。短い間でしたけど、本当に、ありがとうございました。またいつか顔出しますね」
「きっと。きっとな。先生、お幸せにな」
紡がれた言葉に、きょとんとした。
お幸せに? 片手を挙げるおじいさんを見返すけれど、疑問を込めた視線に気づく素振りはない。
スッパ君と話した、と彼は言った。なにを話したんだろう。問いかけようとして口を開きかけ、そして何も言わずに、ゆっくりと閉じた。私たちのことを知る人が一人増えた。ただそれだけのことだ。
私は唇を引き絞り、目尻にウィンクの余韻を残すおじいさんへ、深々と頭を下げた。
スッパ君は、村の入り口で私のことを待っていた。
荷車には既に荷物が運び込まれていて、私の数少ない私物でパンパンになった背嚢や、道中で食べるようにと集落民から渡された畑の野菜や干し肉が、即席の木箱に詰められている。
「スッパ君」と名を呼ぶ。労わるように馬の首筋を撫でていた彼が、黒髪を風に流しながら振り返った。
「お待たせ。ごめんね、そろそろ行こっか」
勇み足で荷車のヘリに手を添えようとした瞬間だった。
すぐ傍で僅かに屈んだ彼が腕を滑らせ、私の腰を捕らえた。反応する暇もなく、膝裏へ通したもう片一方の腕が遠慮なくぐん、と浮かび上がり、足先が地面から遠のく。
急な浮遊感。「わっ・・・・・・!」と漏らしながら、思わず彼の胸ベルトに掴まった。がっちりした筋肉質な体躯。彼の濃いにおい。瞬時にカッと頬が照ったと思ったら、そのままひょいひょいと段差を乗り越えた彼が、荷車を揺らしながら片膝をつく。
静かに、まるでお姫様でも花畑の中へ下ろすように、ゆっくりと。一瞬にして、私は荷車の中に座らされていた。
けれど事実としては、私は良い歳を過ぎた女で、下ろされたのはこぢんまりとしたガタガタの荷車だ。スッパ君だけ颯爽と王子様のように踵を返しても、全然つり合いが取れてない。そそくさと馬へ跨る背中を、あんぐりと口を開きながら見つめたけれど、まるでそうするのが当然だとでも言わんばかりに、彼は気にもしてないようだった。
彼は昔から少し強引なところがある。しかもその強引さは、年々増している気がする。他人事のようにすっと伸ばされた背中を睨むけれど、彼はどこ吹く風だ。スッパ君は白々しく「行くでござる」と告げ、使いこまれた手綱を引いた。
揺れと共に、風景が動き始める。それと同時に、風が照った頬を包み込んできた。ハイラル湖の湿気を含む、冷涼な風だ。遠くの湖面ではきらきらと、光の粒が視線を誘う。
「おーい」と声が聞こえた。振り返ると、村の入り口に子供たちが集まっているのが見えた。
お隣のおばあさんとおじいさんも、お世話になった女衆も、男衆も、手を振ってくれていた。
子供たちが、「またねー!」と精一杯の声を放っている。私も「元気でー!」と声を限りに返した。大きく大きく、手を振った。崖の影に隠れるまで振り続け、姿が見えなくなってからも、遠ざかっていく崖あいを、いつまでも見つめ続けた。
きっとまたいつか帰ってくる。そんな確信がある。その時はもっと、私が私でいることに誇りを持てていますように。胸を張って、みんなにまた会えますように。
古びた遺跡を曲がり、景色が一変する。崖も湖もあっという間に隠れてしまったけれど、私にはその奥の景色が見えるようだった。いつまでも、だんだんと遠ざかっていくそこを眺め続けていた。
■
カポカポと蹄が砂粒を踏みしめる音を辺りに響かせながら、アジトまでの道を進んでいく。
隠れ里へ引っ越しをした日以来、久しぶりに目にするハイラルの景色。しかし平原の様子は、記憶に残る青々しい様子とは一転していた。
一面に広がっていた緑色の平原は、ところどころが抉れて茶色のまだらになっている。それに不自然に傾いて植わる、真っ黒に焦げた木々。以前立ち寄った宿場は破壊の限りを尽くされ、辛うじて残っているのは建築の基礎部分だけだ。
厄災との戦禍が残る景色。まるで初めて訪れる場所みたいだった。未だに鼻腔を刺してくる焦げたにおいに、荷車の端を掴む手に力が籠る。
きっと、当時は地獄のようだったに違いない。そんな中で、私たちは生き残った。スッパ君もだ。これがどれほど奇跡に近いことなのか。失ったと思った当時の、あの冷たくなった指先の感覚がまざまざと蘇ってくるようで。
こんなときでも空の高いところでは、シマオタカのひょろろという歌声が響いている。それが荒れ果てた平原に虚しさを添えていた。
しかし復興の兆しもある。王都を中心に治安組織が結成され、衣食住に困る被災者を受け入れているらしい。終戦の証に、イーガの民にもその手を差し伸べようという話が出ているとか。
神獣に破壊されたアジトを立て直そうにも、物資は全く足りていない。一旦は彼奴らの提案を受け入れよう、というのがコーガ様のお考えなのだそうだ。
「そこまでは、以前送ってくれた書簡で読んだね」 ホームレスとなった彼とは、度々送られてくる書簡でやり取りをしていた。数日前に寄越された手紙の内容を思い出して、荷車のへりに凭れる。
「あくまで表向き、という話でござるが、王家はイーガとの和解を喧伝したいのでござろう。昨今はコーガ様が、復興途中の城へ呼ばれる機会が多くなっているでござる。あすこの執政補佐官はシーカーの出。手と手を取り合い、またひとつになって影から支えてほしいのだと」
殺し合いをしていた敵同士が成行きで難局を乗り越えたからといって、すぐさま一緒になれると思えない。裏切りの悲しみを怒りに変えて、私たちは代々一万年に渡って陰に身を落としてきた。厄災はきっかけに過ぎないし、王家の言ってることは単なる日和見だ。
「はぁ、とんでもない夢物語だね」と相槌を打ちながら、手持無沙汰に右の足首を撫でた。
スッパ君も、「全くでござる」と淡々と言い切る。
「コーガ様が王家と手を取り合うことにしたのは、弔いのためでしかない。・・・・・・しかし、戦力を大幅に失った今、女神の力に目覚めた姫巫女擁する王家と敵対するのは、あまりに分が悪い」
「・・・・・・そうだね」
「それに加え、此度の戦いでは家を無くし、強盗と化した者も多いと聞く」
彼はそこで、自らの内側に溜まった疲労を全部追い出すみたいに、溜息をついた。
「王家はイーガに、そやつらの収め役をやってほしいと、暗に提案してきているでござる」
突拍子もない話に、「そんな無茶な」と咄嗟に身を乗り出した。彼に言ったってしょうがない。でも黙っていられなかった。
どの種族よりも戦闘に身を投じてきたイーガには、確かに武力がある。だからといって手に余るあらくれものを押し付けるだなんて、臭い物に蓋をしたいだけじゃないか。それでなくとも王家とイーガの関係性は、危うい均衡でしか成り立っていないというのに。
けれどスッパ君は、諦めたように首を緩く横に振ってみせた。
「とはいえ、コーガ様は前向きでござる。元より脛に傷のある人間がイーガの土台となってきた事実がある。今後のことはまだわからぬが、コーガ様に忠誠を誓う同志を増やすには、自らの元へ人が集まるように仕向けた方が良いだろうと、王家の提案を飲むつもりでござる」
「・・・・・・」
「今は暫し、忍ぶ時。寝首を搔くにせよ、このまま彼奴らと迎合の道を辿るにせよ、状況を見定め、場を整えねば為せることも為せぬまま」
「・・・・・・そう、だね」
イーガもこれからきっと、変わっていく。確かにそれは、朧気に考えていたことだった。だからってこんな無理やりに形を変えることになるとは思ってもみなかったけど。
荷車のヘリに腕をつき、そのまま寄りかかった。手の甲に顎をつき、揺れる馬の尾を漠然と視線で追う。
不意におじいさんの言葉を思い出す。収まる場所があるならいい、と彼は言った。収まる場所、本当に私にあるのだろうか? 他の団員のように軽やかに動けず、自信のあることといえば古代の知識が少しあることだけ。こんな私が、復興で大わらわになってるアジトで収まる場所?
「アジトに戻って、私ができることってなんだろうなぁ」
唇の隙間から滑った言葉は、小石道の上を回り続ける車輪の音に消えていく。ふと枝垂れたまま暫く馬の歩む足に視線を留め、それから空へと移した。鮮やかな縹色の空に、ちぎれたように尾を引く白い雲が浮かんでる。
視界の端で、黒髪が揺れた。私の白髪もさらさら揺れていた。季節の分かれ目に吹くような、生温かい風の所為だった。
「・・・・・・おそらく、でござるが」
スッパ君が、微かに面を向ける。
「今後、読み書きのできぬ団員が増えるはずでござる」
そもそも厄災の備えとして、王都でも文字の読み書きは蔑ろにされていたと聞いている。
「そうだね。たぶん」と少しく身体を起こすと、彼は身じろぎもしないまま続けた。
「しかしイーガは文字での伝令事項も多い。読めぬ書けぬでは、指揮をするにも限界があるはず。団員には識字能力を基礎としたい、と考えており」
「うん」
「その場合、先生役は必要でござろう、と」
「・・・・・・わたし?」
イーガ印の端しか見えていなかった彼が、改めて振り返ってくる。暫く何も言わずにじっと見つめ合った後、彼は緩やかな動作で深く首肯してみせた。
ざあ、と一陣の風が吹き抜けた。はためく白髪が視界を覆う。彼の遠回しな言葉を頭の中でぼんやりと繰り返す。一切表情の変わらない仮面の下で、彼はどんな顔をしてるんだろう。どんな気持ちで「先生役は必要でござろう」なんてとぼけてみせたのか。
唐突になにかこみ上げてきたと思ったら、それが口先で「ぷっ」と漏れる。そばを横切る梢から、さわわとし心地いい音が聞こえた。まるで一緒になって笑ってくれてるみたいに。
「ふふ!・・・・・・そうだね、その役目は、私にぴったりかも!」
「適材適所でござるな」
「うん、適材適所! それなら、私もコーガ様の役に立てるよね、団員の役にも!」
最後に一度小さく息を吐いてから、改めて頬を緩める。
うららかな日ざしに溶ける彼の仮面。眩しくて、目を細めた。
「・・・・・・スッパ君の役にも」
予想外に掠れた声。慰めてくれるようなピチチ、と小鳥の声が続く。
暫く、二人で黙り込んだ。それから、先生、とどこか切羽詰まったように鞍に手をかけるスッパ君が、正面から見据えてくる前に荷車の隅へ視線を逃した。
彼はずっと、私に気持ちを伝えてくれていた。今更、なんて思うかな。指先を擦り合わせながら、荷車の隅に溜まった砂粒が跳ねる様子を見つめる。奇妙な沈黙が、彼との間を糸みたいに繋いでくれてる感じがした。けれど、もう彼の態度に甘えるのは終わりにしたい。
視線をさ迷わせたあと、急に血の気が失せてしまった指先を膝の上で重ね、握りしめた。
「・・・・・・私、今までスッパ君に助けられてばっかりだったなって思って」
「・・・・・・そのようなこと。気にせずとも」
「ううん。私、スッパ君がいなかったら、今こうなってないと思うの。だからせめて恩返し、したいなと思って」
「そも俺が、先生の情に助けられた身でござる」
言葉が上手く出てこない。彼の方は見られなかった。
「そう、かな。そんな覚え、私はあんまりなくって」
「文字を教わり、イーガで生きる術を教わったでござる。自分自身を捨てる必要がないことも。俺がここにいるのは、貴女がいたからだと確信がある」
ぐ、と身を乗り出したスッパ君は、凛と言った。
「俺は、貴女がいたから、戦場で死ねなかった」
「・・・・・・」
思わず上げた顔。仮面の奥の双眼が、私をしっかりと射貫いている。一瞬なんの音も聞こえなくなった。ただ、彼の仮面だけが視界一杯に広がっていた。
あんなに白かったのに、随分汚れた彼の面。出会った頃は、輪郭よりも大きくて体とのバランスがおかしかった。今は筆頭幹部の角の意匠と、袈裟傷が、彼の今までを表しているようで。
やがてふいと正面に向き直ったスッパ君は、力強く手綱を引いた。がたん、と音を立てながら、ほんの少しだけ景色の流れる速さが変わる。それは、照れ隠し? 私の耳も熱くなっていて、頬も同じで。車輪の回る音と蹄の音が、その時に漸く耳に入ってきた。
普段は言葉少なの癖に、言うときははっきりと口にする彼。それは、ずけずけとデリカシーの無いことでも平気で口にする主君に似たからなのかな。
「・・・・・・スッパ君て、さぁ」
「うむ」
「一途だよね。・・・・・・私の方が照れちゃうよ。そんな台詞、まじまじと言われたら」
思えば昔から素直な人だった。それが隠密の生きざまに染まっていくごと、息を潜めるようになっただけ。彼は意外と嘘を吐けないし、嘘を吐くくらいなら無反応に徹する。そういう人だった。
だから、彼の言葉が更に重ねられることに、私は思い至ってもおかしくなかったのに。
「俺は貴女に、恋をしているので」
さらりと言ってのけるんだもの。恋。そんな可愛らしい言葉を、今改めて。
でもそれより、なんだか妙な既視感があった。いつかに言われたからってだけじゃない。
口先に「え・・・・・・?」と心の中そのものが漏れる。
「恋とは、そういうものなのでござろう。いつかの本に書いてあったでござる」
「もしかして、恋の話って本? 私と読んだ」
「はい、まさに。思慕について書かれていた、墨絵の」
男の人と女の人の手が重なった表紙の本──私はそれを、鮮明に脳裏に結ぶことができる。だって最近、実際に目にした。色褪せた背表紙。毛羽ついた紙の繊維。本の内容も、登場人物の思いも。そして、スッパ君に結末を教えてないことも、全部。
返事を返さなかった私を訝しく思ったのだろう。「先生?」と小さく振り返る。
それまで曖昧だった焦点を仮面の瞳に合わせて、私は緩やかに首を振った。
「・・・・・・違うよ、スッパ君。きっとこれは、恋じゃない」
「恋、じゃない?」首をひねる彼は素直だった。
私は一度唇を閉じた。どうやって伝えようか頭で整理しながら、古めかしく欠けた荷車の端を、指で撫でる。
「・・・・・・あの話、続きがあったの。覚えてる? 最後のページは、破れていてさ」
「・・・・・・はい」
「主人公が泣き暮らすのを、幼馴染は傍で支えてくれていた。そのおかげで彼女は元気になった。けれど、男の子が故郷に帰らないのを不思議がって、彼に質問する。『どうして自分の元にいてくれるの?』って」
ふっと笑う。「スッパ君はその後のお話、知らないよね」
彼は、静かに首肯した。
むせ返るような青草の香りと共に、風が髪の毛を掬っていく。スッパ君の黒髪と、私の白髪を撫でつけるように。
暫くして、私は小さく口を開いた。
「男の子はこう答える。『僕は、君に笑っていて欲しいんだ。だって、君を愛してるから』」
「・・・・・・」
「男の子は、女の子の幸せを願って彼女を支えてた。それは恋じゃなく、愛があったから」
口にした瞬間、なぜだか視界がぼやけ始めた。なんでだろう。今までのこと全部、流れ込んでくるみたいに頭を巡っていく。
彼との書庫の日々。崖上でたくさんお喋りしたこと。怪我をしたときは心配したし、私のことも心配してくれた。助けてくれた彼に、お花を貰って、気持ちを貰った。
ずうっと心の深いところで支え合ったあの日々が、私に降り積もるこの記憶が、彼と私を確かに繋いでる。
「だからさ、思うんだよ」 風の音が、今だけは途切れて聞こえなくなった。
「私たちの間にあったのは、愛なのかなって」
「・・・・・・愛?」
「たぶん君も私も、ずっとずっと前から、愛し合ってたんじゃないかな、って」
馬の歩みがゆっくりと止まる。
先生、って彼が呼んだ。低いけれど、優しい声だった。でもなぜだか、聞き慣れたはずのその言葉を耳にした途端、私は大きな違和感を抱いてしまった。
ほお、と息を吐いて、首を傾げる。
「先生って、そろそろやめない?」
「・・・・・・なぜ?」
「だって今度から、貴方だけの先生じゃ、なくなるかもしれないのだし」
胸の前で指を絡める。それはなんだか心細さがあったからだけど、ふと祈りの姿になっていると、少しして気付いた。
「ね、スッパ君。今度から、本名で呼んでくれないかな」
先生という呼び名と共に、私とスッパ君の関係は築かれてきた。けれど私には、彼に呼ばれたことのない本当の名前がある。
「覚えてるよね? 私の名前」
彼には小さな頃、興味本位で聞かれて答えたことがあった。
肩を縮めると、彼は小さく天を仰ぎ、深く息を吸ってみせた。
「 」
初めて紡がれた私の名前。
つんと痛み出す鼻先のまま、彼に破顔する。
「これからもよろしくね、スッパ君」
差し出した手の平を、傷だらけになった大きな手の平が、柔らかく掴んでくれた。
──これは、かつて筆頭幹部に師と仰がれた女の物語。
そして、そんな女を傍で支え続けてくれた、筆頭幹部の物語。
二人の関係は、きっと今から、違ったものになる。
・・・・・・さあ、次のお話は、なにを読もっか。
おしまい。