かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。

 厄災復活の狼煙が上がり、一日が経った。
 昨日からずっと、谷間は不気味なほど静まり返っている。風音もなく、動物の声も。今にも落ちてきそうな厚い雲が、ずっと頭上に滞っていて薄暗い。
 物見役が、ハイラル湖よりも遠く向こう側に濛々とした黒煙が昇り始めた、と報告したときだ。
 それまでぴんと張りつめていた緊張感が千切れ、みんなの不安が堰を切ったように流れ出た。

「おそらく城下は既に焼け野原だ。・・・・・・いや、城下だけじゃない、たぶんあの辺りの村が全部。・・・・・・ここは大丈夫なんだろうか、本当に」
「何言ってるんだ! ガノン様復活のために今までやってきたんだぞ!? 俺達が襲われる道理があるか!」
「しかし見境みさかいがあるのか、相手は力の化身だぞ!? そのまま巻き込まれる可能性だって・・・・・・」
「そうだったとして、コーガ様が俺達を見捨てるわけがないっ」
「ほ・・・・・・ほんとに言い切れるのか、コーガ様が来てくれるって・・・・・・」
「お前──ッ!」

 語気を荒げ、胸倉を掴む。一気に緊張感が高まる。
 掴まれた村民が咄嗟に首を振り、「違うっ」と切羽詰まった形相で叫んだ。

「俺が言いたいのは、もし、コーガ様が巻き込まれてたらってことだッ!!」

 声が崖あいに反響する。しん、と場が静まり返った。
 何も返せない。──頭の隅にずっとあった嫌な憶測。今まで、それを誰も口にできなかっただけだ。
 力の神は本当に私たちを救ってくれるのか。コーガ様は無事なのか。
 このままでは、動くに動けない。幾ら不自由を抱えた集落の人間にだって、同胞のためにできることがあるはずだ。
 私たちには、情報が必要だった。

「・・・・・・斥候を出そう」

 隠密に生きる人間として、当然の選択だった。
 斥候には諜報の経験者が選ばれ、集落の火を絶やさないこと。交代の見張り番を増員することが、その場で取り決められた。

 それから数日後。斥候が、無事に戦況を掴んで帰ってきた。
 泥にまみれ、焦げた装束からところどころ素肌を露にした斥候。万一のためにと携えた鬼円刃も刃こぼれで既に使い物にならなかった。彼女が帰ってきた喜びより先に、現況の苛烈さが眼前に迫ってきて足がすくむ。
 斥候は、震える指で煤のついたイーガの仮面を外した。頬が真っ白だった。良いお母さんをしている普段の彼女とはまるで別人のように。

「アジトが・・・・・・壊滅した」

 息を飲んだ。場の空気が凍った。
 ──アジトの壊滅。目を瞠り、ただただ斥候を見返す。
 集落の人間全員が何も言えない中、斥候は地面に視線を落としたまま唇を震わせる。

「神獣の所為だ。それに・・・・・・コーガ様の懐に居た占い師が裏切った。その後で厄災が復活した」

 掠れた声に滲むのは悔しさ。戦慄わななく拳を握る。

「・・・・・・何人も既に、もう・・・・・・」

 何人も、既に。視界が、ぱちぱち弾けるみたいに白くなって、頭の中もそうなって。
 どういうこと。なんで、どうして。疑問だけが次々浮かび、声に出せないまま消えていく

『先生』

 頭の中に、懐かしい声が浮かんできた。低くて艶のある、私を呼ぶ声。頬を包んでくれた大きな手。

「スッパ君は・・・・・・スッパ君は、無事、ですよねッ?」

 弾かれたように彼女の腕へ縋った。斥候の虚ろな瞳が、動揺したように揺れる。
 暫く瞳をうろつかせた彼女は、やがて微かに顔を背けた。小さく動いた唇が紡いだのは、「いや・・・・・・」という掠れた言葉。

「実は・・・・・・スッパ様も、行方知れずになっているようで」

 行方知れず──スッパ君が?
 がん、と頭痛がした。全ての文字が身体から出て行って、なんの言葉も出てこない。

 あのスッパ君が、どうなったか分からないって。なに、それ。
 生きてるに決まってる。だってそういう人だから。なのになんで、行方知れずなんて言うの。

 困惑したようなどよめき。でも、見えない壁に囲われたように、それらが全部遠く聞こえる。

 傷の入った白い面。暗闇の中で、私だけを見つめるイーガの瞳。
 彼はイーガで、一番強くて、一番、頼りになって。
 普通の人には無茶なことでも、スッパ君ならできるって、そう、信じさせてくれる人で。
 その彼がどこかで──野垂れ死んだかも、なんて。

 ずるりと腕を下げ、一歩、二歩、たたらを踏んで後ずさる。
 斥候は、仕切り直すように大きく息を吸い、それから一気に嘆息した。

「ただ、コーガ様はご無事だ。仲間の無念を晴らすため今は、・・・・・・王家の残党に混ざり、コーガ様自ら前線に立たれているらしい」
「コーガ様が・・・・・・!?」
「ああ。・・・・・・これは弔い合戦だ。もはや王家は敵ではない。我らは・・・・・・厄災に刃を向ける集団と変わった」
「そ、そんな・・・・・・」
「なんてことだ・・・・・・ああ、コーガ様・・・・・・」

 アジトの壊滅。行方知れず。生死が分からない。今聞いたばかりの言葉が何度も耳に聞こえる。──スッパ君はどうなったの。まるで頭の中で反響しているみたいだ。跳ね返るたびに音が大きくなる。──死んでしまったの? ざらついた雑音が混じって、濁流になって、飲み込まれて、私は、沈んで。
 息、吸わなきゃ。
 痙攣したような胸で呼吸する。水の中で上り立つ泡に縋るように。すると、鈍くぼやけていたざわめきが輪郭を伴って耳に入ってくる。水面から顔を出せた。そんな気がした。

「大丈夫かい・・・・・・先生」

 ふと、肩に温かな感触。心配そうに間近で瞳を覗き込んでくるのは、隣のおばあさんだ。
 心配してくれてる。でも唇が戦慄くだけで、咄嗟に言葉が出ない。鼻も痛いし、目の奥から何かがせり上がってきている。このままじゃだめ、と思った瞬間だ。
 顔が、ぎぎぎと勝手に歪んだ。奇妙に口端を持ち上げた取り繕い。彼女には、笑顔に見えただろうか、それとも引き攣りに見えただろうか。
 ぎこちなくも頷くと、おばあさんも小さく、首を振ってくれた。分かってるよ、と言いたげに。そして優しく、背中を撫でてくれた。

 ────今、この大地の上で、ハイラルの存亡を賭けた戦いが起こっている。
 そして仲間たちが懸命に、明日をも省みず刃を振るっている。

「・・・・・・せめて祈ろう。黄泉の川を渡った同胞に。そして今この時、我らの御霊に報いるため、身命を捧げている同胞に」

 誰ともない呼びかけが響く。それから、痛いくらいの沈黙が降りた。谷間に吹き降りる鋭い風の音だけが、耳鳴りみたいにずっとある。
 ふと視線を持ち上げると、みんな手を組んで、瞼を伏せている。私が縋りついた斥候も。隣に立っていたおばあさんも。
 私も彼女達に倣い、ゆっくりと手を合わせた。
 どうか安らかに。そして、どうか戦場を駆ける同胞を守ってください、と。

 そうして一人、また一人、各々の家に散らばっていく。家族の手を引きながら、重々しい顔つきで。私も隣人の老夫婦と共に、杖をつきながら帰路につく。
 別れ際まで「大丈夫か」と心配されたけど、機械的な会釈をして、彼らと別れた。
 既に夕方の時刻で、家の中はほとんど夜のよう。外で焚かれた松明の灯りが、障子窓にゆらゆらと映っている。
 夜を過ごすには物足りない光源だ。きっとカンテラを灯すべきなのだろう。だけどどうしても、人間らしいいつもの暮らしを送ろうという気にはなれない。
 杖を壁に立てかけてから、窓辺のベッドへ腰をおろす。
 やけに家がしんとしていた。普段なら虫の声や、青草が揺れるサラサラとした音が外から聞こえてくるのに。そんな音すら耳に入ってこない。
 ・・・・・・一人。私は一人だ。唐突にそう思った。

「・・・・・・スッパ君」

 手が氷みたいに冷たい。ぎゅうと指を絡めて握りしめる。こうしていないと、身体の芯まで冷めきって、千々に砕けてしまいそう。私が、私でいられない。

 斥候の、喉の奥で詰まったような声が蘇る。

『スッパ様も、行方知れずになっているようで』

 行方知れず。行方知れずだ。それは、死んだと決まったわけじゃない。そんなことをはっきり言われたわけじゃない。だけど、決して希望ではなかった。むしろ整理のつけようがない、恐怖そのものでしかなかった。
 絡めた手の平で額を打ちながら、瞼の裏側に彼の背中を描く。

 今、どこにいるの。まさか本当に、いってしまったの。
 約束したのに。約束なんて、一度も破ったことなんかないのに。
 お願い。
 お願い。
 どうか嘘だって。どうか。

 どれほどそうしていたか分からない。突然、こんこん、という遠慮がちな音。耳に割り込んできたその音で、ぬかるむ泥のような意識から現実へと引き上げられる。
 こんな時間に誰が・・・・・・と、ふと視線を上げて気付く。
 部屋の中が薄明るい。わずかに開けた窓からの外光が、細い筋になって床を照らしている。朝が来ていたのだ。
 丸めていた背中を伸ばすと、節々が随分きしついた。そういえば昨晩は身体も拭いていないし、足も温めてない。一瞬で頭を駆ける後悔をとりあえず見ないふりして、まず入口に向かう。
 ぎぃ、と開いた先にいたのは、いつものおじいさんだった。

「ああ、先生」私の顔を見るや否や、安堵したように皺だらけの頬を緩めてみせる。

「おはようございます、えっと・・・・・・なにかありましたか?」
「いや、朝になっても姿が見えなかったから心配で。なんもないならエエんだ。昨日の今日だから、ちょっとな」
「ごめんなさい・・・・・・朝が来たって、気付かなくて」
「エエんだエエんだ。そんなら今から井戸まで行こうや、朝餉にスープ作ったでな」

 それから、杖と桶を携えて外へ出た。相変わらず今にも落ちてきそうな曇天で、辺りは夕方みたいに薄暗い。
 井戸までの道をおじいさんとゆっくり歩いて行く。昨晩の過ごし方を彼から聞きつつ、どうしても気になってしまったのは、昨日と打って変わった村の様子だった。
 村の入り口にはかがり火が赤々と焚かれ、一軒一軒の玄関先に、松明が揺らついている。慎ましく生活するこの村では物資の無駄遣いを避け、夜に灯りをともすだけだった。
 それに、畑にも軒先にも、人の姿が見えない。昨日まで鍬を振るっていた村民は、矢筒と二連弓を携えて高台に上っている。平原の奥を睨みつける彼らからは、戦場に立つ人間から発される緊張感がまざまざと滲みだしていた。

「まずは守りを固めようって話でな、あり合わせで鹿砦ろくさいも作るんだと」

 ほれ、と指さした先に、村民が集まっている。数人がかりで木の幹を持ち上げ、その隙に縄を通す連携作業。いつもの穏やかな村民とはまるで違う。殺気立つような物々しい雰囲気だった。
 ああいった仕掛けが、私たちをどの程度守ってくれるか分からない。だけど生きるため、私たちができることを、ここでする。
 今この瞬間にも、ハイラルのどこかで仲間たちがそうしているように。彼らが無事に戦場を生き抜いたとき、ここが寄る辺になれるように。

「・・・・・・しかし先生、酷い顔してるなぁ」

 ぼんやりと集落の様子を眺めていたら、おじいさんが下から覗き込んできた。
 酷い顔。と聞いて一瞬面食らう。けれどすぐに、それは目の前に映るおじいさんのことだと思った。
 老年らしい眼窩がんかの窪みがいっそう深くなってるし、力が入らないのか垂れた瞼が落ちている。彼は背中を曲げて歩くけれど、いつにも増して背骨を丸め、まるで一回り萎んだみたいだった。
 桶の水鏡くらいでしか自分の顔を見ることがないから、彼も気付いていないのかも。そしてきっと、私にとっての鏡が目の前の彼だった。いや私だけじゃなく、他の集落民だってそう。みんな眠れない一夜を過ごしただろうから。
 自分がどれほど疲れてるか突きつけられたみたいで、嘆息と同時に苦笑いが出る。

「寝れなくて・・・・・・ここだっていつどうなるか分かりませんし、私はあまり・・・・・・動けないから」
「そうだな。襲われたらひとたまりもねぇだろうなぁ、きっと」
「それに・・・・・・団員のことも、心配で」

 おじいさんは「あぁ・・・・・・」と同調して頷く。

「コーガ様、ご無事だといいが・・・・・・心配だよなぁ」

 コーガ様。その瞬間、はたとなった。
 コーガ様。コーガ様だ。私がまず心配すべきは、コーガ様のはずだった。
 なのに、今の今まで忘れていた。なぜ? その代わりに、ずっと考え続けている人がいる。
 口の中で名前を唱えたのは無意識。誰にも聞かれず、風の音に掻き消えていく。
 おじいさんはなんにも気付いていないように、息混じりに続けた。

「息子もどうなっちまったか・・・・・・。あいつは昔っから脚だけは早かった。逃げ切ってくれりゃ・・・・・・なんて、情けねえな、親の業だわ。こういうときこそ命を賭けろって言うべきなんだろうがねぇ・・・・・・。全員助かってて欲しいよなぁ」
「・・・・・・」
「先生も、恋人のこと、待ってるって言ってたもんなぁ」

 置いてけぼりにされた頭の中で、戸惑いながら「恋人、というわけでは・・・・・・」と口ごもる。
 待ってる人がいる、とは言ったけど、恋人と表現した覚えはない。
 おじいさんは意外そうに、「えっ?」と白い眉を持ち上げてみせた。

「そうなんか? もしかして、旦那だったかね?」
「・・・・・・」
「いずれにせよ、大事な人なんだろ? 心配だよなぁ」

 慰めるように肩をぽんぽんと叩いて、おじいさんは先に進んでいってしまった。
 私は返事もできないまま、今交わした会話と胸に湧き出た違和感を、ただ頭の中で反芻させるだけだった。

 朝の支度を済ませて、家に戻ってきた。
 火鉢に火打石を打って、ポットでお湯を沸かす。いつもの朝の日課だ。
 沸騰するまでまだまだかかるけど、椅子にも座る気になれず立ちんぼのまま待った。
 ぱちぱちと炭が弾ける音。その度、ちらちらと赤が明滅する。まるで呼吸をして生きてるみたい。私はすっかり、息を殺して生きるのがクセになっているのに。
 赤。・・・・・・赤。それは私たちの装束の色だ。誇りの色でもあった。
 新しく新調された鮮やかな赤が見えた。いつでも燦然と視線を奪う、彼の姿が。
 ────大事な人。何気なく発されたおじいさんの声が耳に蘇る。

「・・・・・・スッパ君」

 おかしい、昨日から私、ずっとスッパ君のことばっかり考えてる。
 コーガ様に認められたくて今までやってきた。それは、主君を慕っていたから。それ以外の生き方を、知らなかったはずだった。
 なのに今、大きな背中が、私に触れてくれる温かな手の平が、心の真ん中にいる。ずっと隣に座ってくれていた彼。ずっと一緒にいてくれた彼。
 それは単に、成り行きだったはずだった。いつからだろう。彼が傍に居てくれると安心する自分がいた。求められて満たされる気持ちがあった。この人がいればもういいか、と思った瞬間も、この人には、とにかく幸せになって欲しい、と思ったことだって。
 私のこれは何? 主君に感じるものとは違う、全然知らない感情。だけど今は、彼が頭から出て行かない。ただただ、心配で、今、会いたくって──。

 水の沸くしゅうしゅうという音に続き、蓋がカタカタ震える。
 ふと気づく。無意識に指を絡めてることに。炭の明滅がゆっくりと落ち着いていく。星の瞬き、みたいだ。

 額に手を添え、私は祈った。

 ・・・・・・お願い、スッパ君。
 またあなたと、崖上に昇りたい。
 星空を、砂漠を、世界を見たい。
 迎えに来てくれるって、私と、約束したんだから。







 一日ごと時間が経つにつれ、村に居ながらも戦場の空気を感じるようになってきた。
 村を満たす野焼きの匂い。そこへ、時折妙に甘い生臭さを感じるようになった。喉がやけにひりつくし、一日のうちに咳ばらいをすることが増えた。
 見張り役が言うには、アデヤ村や宿場町からも黒煙が上がっているらしい。湖風がザラつく灰を運んできているのかもしれない。
 北東の空が赤く濁り、火の手がだんだんと、隠れ里に近づいている。

「村の外れに、例のカラクリ兵が出た」

 食料調達に出ていた村民が青白い顔で告げた。

「たぶん戦地の取りこぼしだ。壊れかけだったから良かったが・・・・・・素のままだったらどうなってたか」
「ここが今無事なのは、崖に囲まれた陸の孤島だからだ。しかし、いつ迷い込んでくるか分からない」
「防衛の手を広げた方が良い。なんとしても、あんなのを村に入れさせるわけにいかない!」

 子を持つ母も、現役を退いていた男たちも、重く頷きあう。覚悟の時間がやってきたのだ。
 夜目の効くものは高台へ登り、二連弓に矢を番えて平原を見張った。足に自信のある者は防衛線の一番前に立ち、それぞれが得意な得物を構えた。
 かがり火は一層勢いを強め、ありったけの松明を燃やす。

 室内に身を潜めるのは老夫婦と子供達、そして足を引きずって歩く、私だけだ。
 隠密の人間として生を受けて、これほど悔しいことなんてない。だけど、こんな私にだってできることはある。それをこの集落で教えてもらった。
 村で一番大きな家に集まり、子供達の見守り役を負うことになった。

「先生・・・・・・私たち、どうなっちゃうんだろう」

 部屋の一か所に固まって、子供達が縮こまる。頭からかぶったブランケットから、二つの小さな瞳が私を見つめていた。
 不安そうな、怯えた色。当たり前だ。時折感じる地響きと、真っ赤に染まった遠くの空、微かな火事の匂い。そのどれもが、状況の詳細を知らされていない子供達に、死を予感させている。
 恐怖は、未知が連れてくるのだ。
 私は顔の強張りをできる限り緩め、彼らに不安が伝播しないよう、笑みに努める。

「大丈夫だよ! みんな必死にここを守ろうとしてくれてる。私たちは強いし、崖に囲まれてるでしょ? だから絶対大丈夫!」
「でも、もし魔物がたくさん来たら?」
「脚のたくさん生えた、変なやつがいたって聞いた!」
「やだぁ・・・・・・怖いよ、先生」

 口々に呟かれる言葉はほとんど泣きそうに聞こえた。「ほらほら、落ち着いて」と、共に面倒を見ることになったおばあさんが手で制すものの、上ずった細い声ではパニックになりつつある彼らに届かない。おじいさんは困った顔で視線を投げかけてくる。つつがない説明が、彼らの不安の払拭に繋がるとは到底思えない。

 でも、私は彼らの先生だ。怖い思いをずっとさせるわけにいかない。
 一度大きく腕を広げ、それから手の中で空気を破裂させるように、バチンッと大きな音を鳴らした。

「授業を始めます!」

 伏し目がちだった子供達が、「えっ」と素っ頓狂な声で顔を上げた。
 空気が変わった今が好機。部屋の隅に寄せてあった荷物をずりずり引き寄せて、中身を弄る。
「じゃじゃーん」とおどけて取り出したのは、私がアジトから持ってきたありったけの秘蔵本だった。

「今日は、君たちが寝るまで読み聞かせをしたいと思います! 今まで読み聞かせってしてこなかったでしょ? 私の秘蔵本、好きなの選んでね」

 言うや否や、子供たちが「いいの!?」と瞳を輝かせる。この村にあるのは、対象年齢の低い絵本ばかりだと聞いていた。お話に飢えていた彼らにとって、これ以上の気分転換は無いと前々から思ってたのだ。
 子どもたちは一度にブランケットを放り、床に広げた本に向かって四つん這いで近づいた。荒い手つきで次々ひっ掴みながらパラパラと頁を捲っていく。

「なにこれ、先生こんなにたくさん持ってたの!?」
「えーっ知らない本ばっかり! どれにしようっ」

 私が持参したのは、小説や辞書、先祖が書いた文献や神話・・・・・・ちょっと難しいかなと心配だったけど、子供達は瞳をランと輝かせて夢中になっている。
 良かった。空気が一気に弛緩して、私はほっと胸を緩ませた。

「先生、これが良い!これ読んで!」

 もはや子供達の試読会と化した中、一人がぱっと一冊を持ち上げた。
 視線の先、目に飛び込んできたのは、墨絵で描かれた表紙絵の、古い本。

「あっ・・・・・・それ、は」

 節ばった大きな指と、ほっそりとした華奢な指が重なり合う、墨絵の表紙──『恋の話』
 私が彼らと同じくらいの年齢のとき、父からお土産で貰った思い出の本だ。

 私へ差し出す腕の横から、別の男の子が顔を覗かせて、「えー」と唇を尖らせる。

「こいの・・・・・・はなし? なんだよこれ、俺やだよ。こっち読んで欲しいよ先生」
「やだ! 私絶対これがいい! ねえ先生いいでしょ、こういうときって早い者勝ちでしょ? これがいい、読んで読んでーっ」
「うわ始まったよ、わがまま言えば通ると思ってる。やだやだ、一番年上のくせして」
「うるさい! じゃあ分かった、けんかして勝ったらでもいいよ! ぜったい勝つけどね!」

「ほらほらお前ら静かになさい。全部読んでもらったらいいだろう、騒ぐんじゃないよ!」

 え、全部? おじいさんの窘める言葉に異を唱えようとしたものの、鶴の一声によって子供達は「はーい」と戻っていく。
 構わないと言えば構わないけれど、この本一冊だけでも、それなりに文章量があるんだけどな。
 おじいさんは、私の苦笑いに気付かないようだった。しょうがないからそのつもりの覚悟をして、子供達がブランケットを被る間に、暖炉の火を消した。
 柔らかな読書灯の元、手の中に収まる思い出の本を眺める。新品で買ってもらったはずのこれは、随分色褪せ、黄ばんでしまった。絵は掠れているし、表紙の隅だって毛羽立ってる。けれど私にとって、これは父の遺品として唯一無二の本だった。
 ラグの上にギュウギュウと固まり、ブランケットをお腹にかけた子供達が視線を送ってくる。どうやら準備ができたらしい。
 表を撫でると、埃っぽいザラリとした触感が指に残る。
 そのかさついた表紙を捲り、私は短く、息を吸った。

「────恋の話」


とある村に住む、女の子のお話です。
女の子は、のどかなで何にもない村に、お父さんとお母さんの三人で暮らしていました。
お友達は、村のみんなでお世話をしている山羊が3匹、それに幼馴染の男の子が一人。
野山を駆けて、いたずらをして、笑い合って。みんなで過ごす毎日は、女の子にとってとても楽しく幸せでした。

しかし、女の子は村での生活が、少し物足りない気もしていました。
お父さんは優しいけれど、いつも畑仕事が大変そうです。
お母さんは真面目だけれど、お話が上手ではありません。
山羊は可愛いけれどメエメエしか言わないし、男の子は剣を振って、身体を鍛えるばかりです。

一方、女の子は、本が大好きでした。文字の中には、女の子の知らない世界がたくさんたくさん詰まっていたからです。
不思議な夢見の力で未来を見透かすお城の王女様の話や、海の果てまで大冒険を繰り広げる変哲もない少年の話。魔物を統べ、強大な力を持ったことで封印されてしまった影の王の話。
そして、お姫様と王子様が手を取り合い、恋をして、いつまでも幸せに暮らす話。
女の子は想像しました。恋って、どんな気持ちになるんだろう。いつか私も恋をするのかしら。いつしか私の元にも、そんな人がやってきてくれたら良いのになぁ。

そんなある日のこと。村に見知らぬ旅人がやってきました。
女の子は旅人を見た瞬間、どきん、と胸が高鳴りました。バクバクと心臓がうるさくなって、頬がぽっぽっと照りました。
恋だ。女の子は迷わずにそう思いました。



「素敵っ」

 仄闇の中から、突然に声が飛んできた。この話を読むようにせがんだ女の子の声だ。

「恋って確信できるなんて、運命の出会いじゃないっ? いいな、私もしたい! きっと旅人さんは王子さまみたいだったのね、とっても素敵!」
「ちょっと静かにしろよ、騒ぐと続きが進まない!」

 今度飛んできたのは男の子の声だ。ぶっきらぼうな言い方。だけど一理あると思ったのか、素直に「あ、ごめん」と小さな声が続く。
 思わずくすっと笑ってしまった。それから「続き読むね」と断って、文字にまた目を落とした。



女の子は、旅人のことが知りたくて堪りません。
どうしてここにきたのか。何をするために旅をしてるのか。どこから来て、どこへ向かうのか。
何度も声をかけようと思いましたが、どうしても勇気が出ません。いつも遠目に手を振るだけです。それも、旅人が見てくれているかどうかは分かりません。
しかし、女の子はついに決心します。今日こそ声をかけよう!と。
そう思って旅人の泊まっている宿へ向かうと、そこはもうもぬけの殻になっていました。
彼は昨日の晩のうちに、次の村へと旅立ってしまったのです。


「いつまでもうだうだやってるから」

 男の子の小馬鹿にするような声。しっ、と鋭く窘める声が続き、また部屋が静かになる。
 私は続けた。



女の子は部屋に籠りました。
お父さんがやってきて言いました。『どうして落ち込んでるの。何があったの』けれども女の子は応えません。
お母さんがやってきて言いました。『落ち込まないで。元気を出して』けれども女の子は元気が出ません。
3匹の山羊はメエメエと彼女を励まして、男の子は彼女の肩を叩きます。けれども女の子の瞳には、いつまでもうっすらと涙が湛えられているのでした。

『恋ってつらいのだわ。つらいのは、私が動かなかったからなのだわ』
女の子は自分を責めました。そして、恋のつらさを知りました。旅人の姿が、こびりついた影のように真っ黒く、女の子の胸に残っています。

ある日女の子は、自分を責めるのをやめました。
『旅人を追いかけたら良いのじゃないかしら』と思ったからです。
女の子は恋のため、旅をすることに決めました。



「すご・・・・・・」「行動力あるね・・・・・・」という感嘆の声が密かやに聞こえた。
 この頃には、寝息が一つ、子供達のいる暗闇から聞こえてきていた。たぶん一番幼い末の子の寝息だろうか。
 一枚、頁をめくって文字を辿る。



お父さんとお母さんは心配しました。山羊もめえめえと心配しました。
魔物や動物に襲われないよう、身体を鍛えていた男の子が、女の子の旅についてくることになりました。
小さい頃から剣を振っていた彼が一緒なら、百人力です。
2人の旅が始まりました。
深い谷や高い山、時には切り立った崖や、吊り橋もわたりました。
凍てつく極寒の白い土地、見果たす限り砂と空が続く砂漠、怪しい木々の笑う深い森、絶え間ない湧き水で潤う光の都、生命の源のような熱く溶け滾る血脈。
村を出るのは二人にとって初めてのことでした。しかし男の子の強さと女の子の賢さによって、旅は楽しく、進めることができました。
そうして苦労の末、女の子は旅人のふるさとへとたどり着くことができたのです。


「なんで到着できたんだ」
「たぶん聞いてたんだよ、宿の主人とかにさ。どこどこ出身らしいよ、とか」
 寝息が増える中、こそこそと話をしているのは、けんかの多い女の子と男の子の二人だろうか。
 彼女達はなんだかんだ仲が良くて微笑ましい。
 口元を緩ませながら、次の一節を口にする。


旅人は、帰ってきておらず、女の子は彼に会えませんでした。
しかし、村の人間は、旅人の話をすると随分喜んでくれ、村で待っていれば良いと言いました。
彼はたびたび村に帰ってきては暫く家で過ごし、そうしてまた旅に出るのだそうです。

『ここで待っていれば、いつか彼に会える』

女の子は、そこで暮らすことにしました。
男の子も、最後まで見届けたいと言い、そこで暮らすことになりました。
男の子は相変わらず剣ばかりを振って、女の子は本を読みました。それでも旅人は帰って来ません。
畑を耕し、野菜を育てることにしました。恋をした旅人に食べて欲しかったからです。でも旅人は帰って来ません。
鶏を飼い、お友達を増やすことにしました。恋をした旅人のいない寂しさを紛らわせたかったからです。それでも旅人は帰って来ません。

しかしある日、遂に、旅人が帰ってきたと聞かされました。
そこには、旅人の持っていた短剣を抱えた、知らない人が立っていました。
「これしか残ってなくて」と、知らない人は言いました。



「・・・・・・え?」
「短剣? 旅人の?」
「・・・・・・どういうこと?」



女の子は泣きました。
わんわんと泣きました。

『恋って、つらいことなのだわ。これほどつらいのならば、しなければ良かったのだわ』

彼女の声は村中に響き、きっと故郷の村にまで届いたことでしょう。
彼女の涙は家の中に溢れかえり、きっとこのまま家を腐らせてゆくことでしょう。
布団の中でも、朝ごはんを食べているときも、畑を耕しながらも、鶏の世話をしながらも、彼女はずっとずっと、泣き続けました。

そんな彼女の傍には、いつでも、男の子がいました。
男の子は彼女の肩を優しく叩きました。背中を優しく撫でました。時には花を持ってきて、何もできなくなった彼女に、本を読み聞かせてやりました。
女の子は、恋を知らない男の子に何をされても、泣き続けるだけでした。ときには彼に怒って、いきばのない悲しみを、彼にぶつけることもありました。
それでも男の子は、何日も何日も、女の子を慰め続けてやりました。
だからでしょうか。不思議なことに、女の子が涙を流す時間が、ほんの少しずつ少なくなっていきました。
涙が溢れそうになったとき、ほんの一滴、ぽとりと落ちるだけで済むようになりました。
男の子は、それでも変わらずに、女の子の傍へ居てくれました。

ある日、女の子は、男の子に言いました。

『君は、もう村に帰っても良いんだよ。なんでいつまでも傍にいてくれるの?』

男の子は、ほんのりと笑って、こう答えました。



 紙に視線を落としたまま、開きかけた唇を噤む。
 私は、頁を繰るのをやめた。正確に言えば、頁を、繰れなかった。頁が、無いから。

 読んでいて気が付いた。きっと私たちは、男の子と同じだった。
 なぜずっと一緒にいてくれたのか。彼も私も、ずっと、そうだったんだ。
 やっと。・・・・・・やっとわかった。

「・・・・・・? 先生、続きは?」

 女の子の声。私は本から視線を離さず、唇だけを微かに動かす。

「続きは・・・・・・なくて」
「えっ、どういうこと?」
「えっと・・・・・・破れてて、最後のページ、無いの」

 曖昧な笑みを浮かべつつ、ブランケットの隙間から顔だけを向けてくる女の子に中身を見せる。
 本の中央には、無理やり引きちぎったような破線があるだけだ。小さい頃。子飼いの山羊に食べられたから。
 女の子は「うそーっ」と、ひどく残念そうに吠えた。あれだけ最初は文句を言っていた男の子も、信じられないというような顔つきで見返してくる。

「よりにもよって最後の頁って・・・・・・。先生、物持ち悪いね・・・・・・」
「仕方ないんでしょっ、凄く古いんだよ、この本・・・・・・!」
「えー? でもさ、昔に読んだなら、続き覚えてないの? クライマックスだよ?」

 その瞬間、ふんふんと鼻を鳴らしながら女の子が頷く。
 確かにそう。続きはしっかり覚えてる。男の子がなんて答えるか。この後二人が、どうなるかまで全部。
 だけど、私はあえて困った素振りを見せる。

「それがねぇ、いまいちはっきり覚えてないんだよね。なんて言ったんだったか」
「お気に入りの本なんじゃないのぉ?」
「あっ、じゃあ逆に私から聞きたいと思います。女の子の質問に、男の子はなんて答えたと思う?」

 人差し指をたてて茶目っぽく問えば、二人は鳩が豆鉄砲を食らったように目をパチパチと瞬かせた。そして素直に「うーん」と唸る。

「やっぱりここは、『僕は君に恋してるから』とかじゃない!? だって恋の話だし」
「いいね。恋にまつわる話だったんだもん。そういう感じだよね、きっと」
「合わせる顔がなくて・・・・・・とか」
「そうだね、男の子はきっと、申し訳ない気持ちもあったよね。お父さんとお母さんも、村で待ってるだろうし」

 その後も、「離れたくない! って言ったんじゃない?」とか「ここの居心地が良くってさ。とか?」とか。二人の応酬が続く。
 眠気を誘えればと思った読み聞かせだったけれど、二人にとってはそうならなかったみたい。秘密の会話をするように、談義がだんだんとにぎにぎしくなっていく。
 私は、「みんな寝てるから、静かに・・・・・・!」と密やかな声で叫んだ。子供達はさることながら、その奥で、椅子に丸まってる老夫婦も二人揃って船を漕いでいる。本格的に寝る準備を整えた方が良いだろう。

「そろそろ灯りを消して、寝ようと思います。 いいかな」
「え、もう寝るの? 読み聞かせはおしまい?」
「灯りを消してから、何か話してあげるよ。伝承とかなら任せて」

 そういうと、「伝承か~」と文句は出たけど、二人は素直にブランケットの中へもぐりこんでいった。仰向けになって、だけど耳だけは私の声にそばだっているのが、気配で分かる。
 ふっ、と読書灯を吹き消し、私もブランケットを肩から被った。ラグに寝転がる彼らとは違い、私は窓から外を眺められる位置取りで、壁に凭れる。ちらと見遣っても星は一つも見えなかったけど。

 視線を空に留めながら、私はひっそりと寝物語を紡ぎだした。大した話ではない。遥か彼方昔に、母が私に聞かせてくれた古い伝承の童話だ。ぽつぽつと、記憶の断片を、覚束ない足取りで辿っていくように言葉を紡ぐ。
 次第に、すうすうと微かな寝息が部屋の中に一つ増えた。それからまた暫くして、起きてる気配がなくなって。

「・・・・・・みんな、寝ちゃった?」

 ひっそりとした声で聞く。けれど返事はなく、返ってくるのは人数分の寝息だけ。
 かたかた、と家鳴りがした。地面が揺れてる所為だった。さっきからずっと、微細な縦揺れがお尻からはっきりと伝わってくる。昼間と比べても、その間隔が短くなっている気がする。
 膝を抱えて蹲った。小さく、ぎゅっと固まるみたいに。なんの灯りもない暗闇の中、そうでもしていないと心細くて、もやもやとした黒に取り込まれてしまいそう。私が子どもたちを支えにならなきゃいけないのに、当の私には支えがない。支えが無くても気丈で居られるほど強ければ良かった。

 今自分は、瞼の裏を見ているのだろうか、それとも暗闇のどこかを、虚ろに眺めているのだろうか。でも、じいっとしていると、やがて子どもたちの輪郭が暗闇に浮かんでくる。
 それがなんだか、やけに懐かしいような気がしてつい目を凝らしてしまった。
 スッパ君に似ている。
 真っ暗な崖上で彼を見たときと同じような既視感が、確かにそのあどけない形には宿っていた。

「・・・・・・スッパ君」

 彼のことを思い出すだけで、なんとなく、まだ私はここに居て良いんだと思えるから不思議だ。
 小さな時から、彼は随分真面目だった。
 文字を覚えるのも早くて、隣で読み聞かせをしたこともたくさんあった。「恋の話」もその内のひとつだ。
 彼には、結末を教えなかったんだっけ。あの時は確か、真面目に恋の話をしてるのがなんとなく気恥ずかしかった。うやむやに誤魔化しちゃったんだった気がする。

 うつらうつらと瞼が揺れる。外からの空気が頬にあたってる。砂漠と違う湿っぽい風。嫌いじゃないけど、まだ慣れない。

 本を読んだ後、彼とどんな話をしたんだっけ。彼は真面目だし、どこか私と似たところがある。恋ってなんなんでしょうか、って聞かれたんだった? それとも、そんな下らないことに現を抜かすなんて、って怒ったんだった? ああ、どうだったんだっけ。いまいち、記憶が上手く、辿れない。
 彼の落ち着く低い声は、すぐに思い出せるのに。

「先生」

 声がした。耳をふわりと撫でるような、幼い声。・・・・・・男の子。だけど、村の子じゃない。でも私、この子をとっても良く知ってる。ずっと昔から。

「先生」

 顔を上げると、一人の子どもが立っていた。
 輪郭よりも大きいイーガの仮面と、骨の浮いた赤い装束。頭の上では、結った黒い剛毛が、二股に小さく割れて揺れている。
 ──スッパ君だ。私がアジトで出会った頃の、幼い彼だった。
 なんで? 問おうとしたけど、声が出ない。唇も上手く開けない。だから代わりに、手を伸ばした。すると、おかしいな。視界に入った自分の手の平が随分小さい。むっくりとした肉付きで、両手をひらひらと裏返した。子供の手の平だ。
 立ち上がると、視線の先がちょうど窓のさっしを捉えた。そこで突然に、7歳だから仕方ないか、って気付いた。私は7歳。そして目の前のスッパ君も、7歳だ。
 7歳のスッパ君と同い年になるのは初めてだ。照れくさくて裾を掴むと、スッパ君はゆっくり近づいてきて、「先生」と柔らかく、私の名を呼んだ。

「行きましょう、先生」
「どこに?」
「もちろん、僕らの崖上です」

 それからスッパ君は、家の扉を開けた。その途端に風がわあっと入ってきて、思わず顔を手の平で覆う。指の隙間から覗くと、私たちはアジトの崖上に立っていた。
 彼は既に崖の端で、細くて筋ばった肩の輪郭が、星月夜に濡れていた。
 隣に座って、砂漠と夜空を眺めながら、二人でお喋りした。ツルギバナナは美味しいね。母様から面白いお話を聞いたんだよ。スッパ君、大変だったね。コーガ様ってすごいよね。私たちも頑張りたいね。
 キラキラ散らばる街の灯りと、お星さま。真ん丸で真っ白なお月さまのおかげで、砂漠の夜はとっても明るかった。すると、いつしか遠くの方で、ほうき星が流れた。それがこてん、こてん、と砂漠を転がって、そのままになっている。スッパ君が先に見つけた。何にもない砂漠の真ん中で、ひとつだけぴかぴか光る小さな粒を指さす。

「先生、行きましょう!」

 彼は、私の手を取って歩き出した。崖に向かって足を踏み出して、階段を駆け下りるみたいに、空を渡った。二人で手を繋ぎながら、私はきゃらきゃらと楽しくて笑った。彼は困ったように、強く手を握り返してきた。自由だった。持て余すほど、とてつもなく。
 お星さまに辿り着いて、私が拾い上げる。手の平に包めるくらいの、暖かい色。なんだか私、これをずっと、スッパ君にも見せてあげたいと思ってたんだった気がする。

 名前を呼んで振り返る。だけど、そこに幼い彼はいなかった。二対の刀を佩いて、襟付きの装束を身に纏ってる。傷のついた仮面の、大人の彼。
 咄嗟に動けなかった。
 先生、と落ち着いた声で彼が囁く。待って、と手を伸ばした先、その指先は彼を捕まえられなかった。仮面の視線を残して、するする滑り上がっていく。
 彼が、空の方へと。私をその場に残して。
 だめ、だめだよ。行かないで。私との、約束は────。

 ふと、意識の暗がりに柔らかな橙色が揺れる。
 瞼の隙間から覗くと、床に窓越しの外光が零れていた。朝まで眠っていたらしい。
 やけに視界がぼやけてる。まどろみの残る目尻を擦って、私は気付いた。
 枕にしていた自らの腕が、ぐっしょりと濡れている。泣いていた。私は夢を見ながら、泣いていたのだ。


 外へ出ると、山瑞から昇り始めた太陽が、私たちの崖あいを燦燦と照らしていた。
 こんな天気、久しぶりだ。あれだけ固そうだった雲の天井は一切がなくなり、引き伸ばされた綿埃のような雲が、すうと浮かんでいる。久しぶりの青が目に痛くて、手傘を作った。
 なんだか、空気が澄んでいる。ここ最近を取り巻いていた赤い月の晩の空気が、すっぱりと無くなっている気がした。
 ただ、そんなのは「そうだったら良いな」という都合の良い思い込みだと思っていた。

 広場の方が騒がしい。人だかりができてる。未だにブランケットに包まる子供達を放ってもおけずにその場で目を凝らしていると、村人が一人気付いたのか、手を振って近づいてくる。

「ああ、先生! 大変なことになった!!」

 頬を蒸気させた彼は、ひどく興奮していた。

「何かあったんですか?」
「何かなんてもんじゃない! 厄災が滅されたんだ!」

 えっ、と声を上げて、目を見開く。

「コーガ様が、俺たちを救ってくださったんだよ!!」

 湿気を含んだ涼風が、腕に残る涙の湿り気を撫でてくれた気がした。








 うらうらとした太陽が照る、のどかな昼下がりだった。
 いつもの広間に集まり、私は木の傍に座り込んでいた。
 周囲を取り囲むのは、私がお世話を任されている子供達。今日は文字の書き方ではなく、本の読み聞かせで、時間を潰していた。もちろん私がアジトから持ってきた、秘蔵本のひとつだ。

「いつ来るのかな、もうそろそろ来ても良い頃じゃないのかな」

 章の継ぎ目に、男の子がそわついた声を差し込む。小さく顎を上げながら遠くを見遣って、たぶん彼は、本の読み聞かせなんてこれっぽっちも耳に入っていない。
 他の子も一斉に村の入り口に視線を遣った。「そうだね、来ないね」「まだまだかかるのかなぁ。緊張するっ」と口々に続ける。
 私も、狭い崖あいをパタパタと走り回る住人に、視線を向けた。

「そうだねぇ、夕方になる前には、来るんだろうけれど」

 ──同胞を引き連れたコーガ様が、集落に立ち寄られる。

 そんな報告を集落民が受けたのは、厄災が消滅してから数日後のことだった。
 情報収集のために派遣した調査員は、無事にハイラル平原でコーガ様一向と再会することができた。姫巫女が率いる新設ハイラル連合軍と共に、多少不本意ではあるものの厄災を打ち倒したこと。しかし王家と完全に和解したつもりはなく、完全に落ち着きをとり戻す前にずらかるつもりであること。

 カルサー谷のアジトが破壊された今、イーガの再起を図るには、身体を休める止まり木が無ければ難しい。
 一旦、この集落へ身を寄せるという話にまとまり、調査にたった人間は一度帰宅の途につくこととなったようだった。

 そして今日。未明前に使者が先んじてやってきて、本日村に立ち寄るつもりだと言伝を受けた。
 それから女衆も男衆も、歓迎の準備に追われて大わらわ。相変わらず子供達のお世話を、私が見ることになったのだった。
 いつ頃コーガ様が来られるのか、正確な時間は分からない。でも、使者の団員はコーガ様たちと合流するために戻っていったという話だ。それほどの時間はかからないはず。

 子供たちに本の読み聞かせをしながらも、私だって何度も村の入り口の奥に視線を遣った。身体の奥底がそわつき、どうも落ち着いていられない。文章を読もうにも一文字一文字が躍っているようで、目が滑って仕方なかった。

 そうしていると、遠く、崖際からの地平線から、赤の人影がぽつ、と現れたのが見えた。

「あっ、もしかして!」

 次第に赤の人影が、地平線を埋めていく。
 それははっきりと、私たちの懐かしい、同輩の姿だった。

「俺、先に行ってくる!!」
「私も!」
「あ、こら! ここで待ってなさい!」

 触ったら弾ける花の種子のように、子供たちが一斉に駆け出し、行ってしまった。
 さわあ、と優しい風が吹いて、青草と土のにおいが流れてくる。それから、気の所為かもしれないけど、甘いバナナの香りも。コーガ様たちが運んでいるのかもしれない。

 それまで背後で静かに座っていたおじいさんが、やにわに立ち上がり、脚を縺れさせながら駆け寄っていく。家の中で作業をしていた女衆や男衆も。一人残らず飛び出して、みんな一様に村の入り口に向かっていく。

「おめえらあッ、帰ったぞ~~~!!」

 村に辿り着くや否や、コーガ様が両手を天に掲げて吠えた。
 崖に反響し、続けざまに、住人たちのわあっという歓声の声。全部全部、空に吸い込まれていく。

 お帰りなさい、コーガ様。よくぞご無事で。ありがとうございます。良かった。本当に良かった。

 遠目で見てもよく分かる。あれだけ絢爛な装束であったのに、コーガ様の白い襟首はすっかり黒くなって、切られて。さんざんな格好だ。他の団員も同じだった。
 でも生きてる。コーガ様がいれば、私たちにはそれだけで十分。いつかに聞いた言葉だ。

 それからみんな、各々の大切な人を探した。お隣の老夫婦は、飛脚をしていたという息子さんと抱き合って再会を喜んでいる。子供たちは、お父さんを見つけられただろうか? 引退していた男衆が話し込んでいるのは同僚かな。
 みんな涙でグチャグチャだ。仮面の下に腕を潜り込ませて、ぐしぐしと拭う現役の団員たちの、感動した様子と言ったら。

 ひしめく人いきれの中、私も探した。たった一人を探した。イーガの中で一番の上背を持つ彼だ。見つけるのなんて簡単なはずだった。けれど、見つけられない。遠目から眺めるだけじゃ、分からないだけかなあ。
 みんなの元へ混ざる気になれなかった。でも、行かないと。指先足先に血の気がなくなっていて、どうにも冷たい。そのまま杖を掴もうと腕を伸ばすと、おかしい。立てかけておいたはずの杖がない。
 あれ、と思って視線を向ければ、いつの間にか地面に倒れて転がっている。子供たちが走って行った折、きっと誰かがぶつかって倒しちゃったのかも。
 凭れていた木に掴まりながら立ち上がって、ゆっくりと、腕を伸ばした。
 そのとき、大きな影が落ちた。

「手を、貸すでござる」

 私の横を通っていって、私より先に、杖を掴む掌がある。
 よく見慣れた手だ。節ばってゴツゴツした指先に、鉄の手甲。筋がありありと分かる、太い腕。
 強い谷風が一陣、青草をさわさわと吹きすさんでいった。黒檀のように艶やかな黒髪がゆらゆらと靡く。
 イーガの面から両脇に伸びる角が、日差しを浴びて、光っていた。

────ああ、良かった。
生きてた────。

 漏らした息は、無意識だった。

「待たせたでござるな。先生」

 私は、唇をかみしめる。
 そこにいたのは、私の唯一の幼馴染。

「おかえりなさい────っ」

 茶色く汚れ切ったその逞しい胸に飛び込む。
 その温かい身体から、土埃のにおいがした。




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