かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
微睡みの中で瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは天井の梁。暗闇の中にそれが浮き上がって見えるのは、障子窓が仄かに白んでいる所為だ。指先でほんの少し押し開ける。途端、朝の風が滑り込んできて、熱の籠った頬を冷たく撫でていく。
布団の外は寒いし、今日を始めるにもまだ早い。一度布団の中で寝返りを打ち、柔らかな綿を抱きしめるように縮まった。もう少しだけ。もう少しだけだから。でも私が動かなければ、私の支度は終わらない。
起きよう。と、心の中で宣言してからは早かった。一、二、三。と声を出さずに数を数え、弾けるように起き上がる。
素足で床板に降り立った瞬間、つま先から這い上がってきた寒気にふるっと身が震えた。
カルサーのアジトからイーガの隠れ里へやってきて、早ひと月になる。
移動も儘ならない身体だけど、時間さえ経てばなんとかなるものだ。最近は漸く、自分一人での生活に慣れてきた。居を移したばかりの頃とは大違いだ。
当初は、朝の支度にすら随分苦労した。まず誰も起こしてくれないし、水の調達や食料の配分、一日のうちで何をこなせば生活ができるのか、てんで想像がついていなかった。
集落民の手は借りられるとは言っても、ここでは自分のことは全て自分で面倒見なくてはいけない。
手桶を抱え、外に出る。
未だ太陽も見えてない仄闇の時刻だ。朝まだきの空には、泡雪を敷き詰めたような雲が一面に広がっている。ゲルドでは一切見ることのなかった、雨の予感のする雲が。
ゆっくりと歩きながら、ぽつぽつと浮かぶ窓の明かりを通り過ぎていく。
暗い中でも集落は目を覚ましているようで、何人もの人影が同じ方向へ歩いて行く姿が見て取れた。軒先から聞こえる女たちの高い喋り声や、畑で鍬を振り上げる男たちの姿も。朝が早いのは、それがイーガという集団の習癖だからだろう。
「おはようございます」と声をかけると、誰からも「おはよう」と穏やかな声が返ってくる。なんだかこのやり取りそのものが、妙に慣れず視線の置き場所に困ってしまう。みんな素顔の瞳で、しっかりと視線を交わしながら微笑みかけてくれるんだから。
この村唯一の井戸には、既に数人の住民が集っていた。
「ああ、おはよう。今日も冷えるねぇ」
その内の一人、隠れ里へやって来た時に案内してくれたおじいさんが、声をかけてきた。
彼は私の家のお隣さん。村で一番の老年で、ここへきてから既に数十年になるんだそうだ。井戸端へ座り込み、全員に「おはようさん」と声をかけるのを日課にしている。
私も、井戸で水汲みをしながら、「おはようございます」と挨拶を返す。
「今日はちょっくら冷えるなぁ。風が冷てぇや」
「ですね。それになんだか、雨が降りそうです。早めにお仕事終わらさないと」
「だなぁ。・・・しかし、やっぱ歩くのに慣れなそうだ。代わりに水、持ってってやろうかい?」
顔を洗おうと手に水を掬った折、おじいさんが続け様に言う。頬を濡らす直前に、私は「え?」と顔を上げた。
歩くのに慣れない、とは、杖のことを言っているんだろう。ここへ来た初日に彼から託されたおさがりは、彼が足を悪くさせたときに手ずから削り出して作ったものだそうだ。
右手に杖を持ち、左手に手桶を抱えてのそのそと歩く様子は、きっと傍から見てて歪だったに違いない。だからといってたかが水を運ぶのを手伝ってもらうなんて。おじいさんだって、亀かカタツムリの歩みくらいのっそりとしか歩かないのに。
私は恐縮して肩を窄めた。
「いえ、大丈夫ですよ、このくらい自分でしないと! 別に急ぎでもないですし」
「いやあ、慣れるまではワシらに頼ったらエエんだよ。怪我してんだから無理はするもんじゃない」
「でも・・・」
「いいっていいって! ほれ、ちょいと手伝っとくれよ! 水持って行きたいんだと!」
ぱんぱん、とおじいさんが手を打つと、すぐ傍で談笑に耽っていた男性が振り返った。この人、誰だっけ。なんて考えている間に彼はことを察したのか、あれよあれよという間に手際良く手桶を水で満たしていく。
「俺、先に行って置いとくから」と気の良い笑顔を浮かべたと思ったら、さっと身を翻した彼はずんずんと進んでいってしまった。
私は、ただ呆然。ややあってハッとなって、「すみません」と慌てた声を投げた。しゃきしゃきと去っていく背中のまま、後ろ手にひらひらと手を振るのが仄闇の合間でも見えた。
「気にしなさんなよ。みんなお互いにできることやってるだけだから」
片手の杖にすらまごつく私に、おじいさんの穏やかな声がむしろ申し訳なかった。
杖をつきつつ、えっちらおっちら歩いて帰宅する。
道中でさっきの住人とすれ違いつつ、家へ到着する頃には、太陽が輝かしい頭を覗かせていた。
玄関先に置かれた手桶を回収して家へ入り、まずは火鉢に石を打つ。住人からのおさがりである陶製のポットで湯を沸かし、淡緑色の茶を煎れた。ここへ来てから、ハイラル草を炒って私が作ったお茶だ。
朝ごはんは、昨日寄り合いで分けてもらったパンの残りもの。火で炙って表面をカリカリに焼くと、小麦の味がしっかりたって、青々しいお茶と相性が良い。
黙々と咀嚼する。すると、ちちち、という小鳥の囀りと、青草の揺れるさわさわという音が聞こえてくる。アジトで過ごすのとまるで違う。この時間が、村での私の朝だ。
この頃にはもうすっかり、外は明るくなっていた。
朝餉を終え、片付けものを済ませた私は、窓から外を仰ぎ見た。相変わらず薄い雲が陽光を遮っているけれど、どうやら陽は高いらしい。そろそろ出掛けても良い頃合いだろうか。
足に固く布を巻き、外着に着替えてから、文献を小脇に抱えて家を出た。
杖をつきながら、ゆっくりと目的地へ歩いた。向かう先は広間だ。だけど足を進める内、どうやら私は遅刻しているらしいと理解する。
だって遠目でも、既に子供達が集まっているのが見えてしまったのだ。
「早くー!」一人が私に向かって手を振る。座り込んで地面をじっと見ていた子や、木の枝にぶら下がっていた子も気付いたみたいだ。一列になって、皆しておーいと叫ぶものだから、私も杖ごと掲げてぶんぶんとそれに応える。せめておちゃらけた仕草で遅刻を誤魔化したかった。
だけど子供達は手厳しい。「お待たせ、ごめんね。遅くなっちゃって」と息を切らしながらたどり着いた瞬間、「遅いよセンセー!」「待ちくたびれちゃった!」という途切れない文句の数々。確かに遅刻をしたのは私なので、どんな文句を言われようと受け入れるしか術がない。
苦笑いと共に一度大きく深呼吸しながら、椅子替わりの丸太に腰を降ろした。
「ごめんごめん、まだ杖の使い方に慣れなくてさ」
「だったらもっと早く家を出たらいいじゃんかぁ、遅いの分かってるんだし」
「もうっ、君たちが早すぎるんだよ! 私としてはもう少し遅く集まっても良いくらいなんですけど!」
「えー? だって暇だし、なぁ?」
子供同士で顔を寄せて、「なぁ?」と言い合う。
「でもセンセーの言うこともソンチョーしてあげようよ、足痛いんでしょ?」
「そうですよ、傷口が開いたら大変ですもの。あんまり急いで治りが遅くなったら、困るのは先生ですからね。無理いわないの!」
口々に続く無邪気な提案。そこへ一石を投じてくれたのは、私と一緒になって見守り役を任されているおばあさんだった。彼女は私の家の隣に住む老輩で、村へやって来た時に案内をしてくれたおじいさんの、奥さまでもある。
柔和な言葉遣いだけど、どこか有無を言わさない雰囲気があった。子供たちは首を窄めて「はーい」と返事する。
間髪入れず、私はぱんぱんと手を打った。
「さ、授業を始めます! 今日は実際に筆を持って、文字を書いてみようね」
子供達はまた「はーい」とあどけなく返事をし、空いている丸太椅子に腰を降ろす。
輪切りにした丸太を椅子替わりに並べた、簡易的な集会所。筆記用具を準備し始める彼らを眺め、私は黒板代わりの木の板を幹に立てかける。
小さく振り返ったとき、彼らの真ん丸に見開かれた瞳は、既に私の指先に集まっていた。
「じゃあみんな、書き順を説明するよ。まずは────」
朗々と続けつつ、私は石灰岩を木の板へ滑らせた。
イーガの隠れ里は、なにかしらの問題を抱える人間の寄合だ。一人で生きていくには、みんなどこか欠けていて、あるいは自由が効かなくて。
だからこそ、全員がお互いのために、自分のできる役割を請け負ってなんとか命を繋いでいる。
アジトでの十数年間、私はまともな業務に携わってこなかった。ここへやってきて「何かの役割についてもらう」と説明されたときは、こんな私に何ができるだろうかって不安だった。
そんな私が任されたのは、子供たちへ勉強を教える先生役。
まさか、アジトから引っ越した先で、またもや人に文字を教えることになるとは思ってもみなかった。
村の子供達は、ハイラル文字を一つ二つ読める子もいれば、鳥や魚の絵だと表現した子もいる。シーカーの術は多くの場合、口伝で継承をする。生活の知恵さえ口で教えられてきたからこそ、識字の術が備わっていない。
「先生! 上手く書けたよ、見て!」
もちろん、隠密の道へ進むのなら、武功が評価に通ずるのはよく分かってる。きっと文字の習得なんて無意味に違いない。識字が出来ずとも、コーガ様から認められている団員なんて、今までごまんと見てきたのだ。
・・・だけど私は、それだけが全てじゃないって思いたい。彼らにも、いろんな道があるって伝えてあげたい。
「わあ上手! 跳ねるところと止めるところ、上手く書けたね」
「ねえ、先生。こっち来て。分からないとこあるの、早くー」
「はいはいちょっと待っててね、どこが分からないのかな」
素直で真面目な子供たち。そのまっすぐ伸びた背筋が、昔の教え子と重なって見えた。
なんだか不思議だ。このあだ名に中身があるのは、たった一人の生徒が口にしたときだけだったはず。他の団員が口にするとき、これは必ず揶揄の響きを伴っていた。
今ではこの隠れ里のみんなが、私のことを「先生」と呼んでいる。揶揄じゃない。嘲笑でもない。かつての彼と同じ目線で。敬意の籠った声色で。
耳にする度、なんだか胸が擽られるようで気恥ずかしかった。だけど抵抗なく心の奥底にまで降りていって、身体全体に馴染んでいくようだった。
先生と呼ばれて、すぐさま返事が返せる。改めてみんなから与えられた「先生」の役割が、こんなにも私を支えてくれている、なんて。
「やあ先生、調子どうだい」
「あ、こんにちは」
授業が終わり、一旦各々の家に戻る昼餉の時刻。
お隣のおじいさんが、井戸のすぐ横でパンを齧っていた私に声をかけてきた。彼は奥さんと同じく、村人が出払っている間の子供の面倒を見や役割を請け負っているのだ。
朝の湿気た空気が、今となっては微かな汗を作り出している。しっとりと汗ばむ首元を拭いながら、おじいさんが「よっこらせ」と座るのを見守る。
「今日もワーワー言われてたねぇ、やる気満々でいいことだが」
「子供達、凄いですよ! 本格的に文字を教え始めて数日なのに、もう本が読めるようになったって子もいて。吸収力が全然違うなって!」
「そうだなあ、今まで語り聞かせしかしてやれんかったからなぁ。ほれ、わしらもう近くが見えんから」
「口伝も大事ですよ、耳が敏くなりますし」
おじいさんは、ほほと柔らかく笑い皺を作ってから、「ああ、そうだった」と視線を下げた。そして、手に抱えていた籐の籠をごそごそと弄る。
「これな、今貰ったんだわ。あんたにもやろう」
出てきたのは黄色い果実。まさか、と思った。アジトでは散々食べていたツルギバナナがそこにある。
思ってもみなかった好物の登場に、思わず「わぁっ!」と上ずった声が漏れた。村に来て初めてだ。「どうしたんですか、これ」と年甲斐もなくはしゃぐと、彼は真っ白な顎髭を撫でつけながらほほ、と笑った。
「今息子が来てな、これだけ置いて行きおったんだわ。任務帰りによく寄るんだが、その土産でなあ」
息子。その単語に思わず固まって、「息子さんが来てたんですかっ?」と声が裏返った。
アジトに行き来のある団員がやって来た。これも、私が村へ来てから初めてのこと。
カルサー谷がどうなっているのか。コーガ様はご無事なのか。作戦は。占い師は。城への諜報は。そして、スッパ君は。詳しい話が聞けるかもしれない。
今まで心の奥底に埋まっていた不安が弾けたみたいだった。次々に飛び出す問いで、おじいさんに詰め寄った。
けど彼は、「あぁ・・・」とどこか申し訳なさそうに眉尻を下げるだけだ。
「あいつは業務の話をあんまりせんから・・・。そういやアジトの中で魔物を飼うようになったとは言ってたなぁ。なんでもやけに顔色の悪い占い師の提案とかで・・・気味悪がっちゃあいたが・・・」
「魔物・・・。魔物ですか。それをスッパ君・・・筆頭幹部殿やコーガ様が許したと・・・?」
「そうなんじゃないか、ワシには分からんよ。すまんがね」
「そう・・・ですね、ごめんなさい・・・。他は?」
「飛脚だからなぁ、あいつも大してアジトの事情は分かってなさそうだった。すまんねぇ」
おじいさんはそうまで言って、籠の中のバナナに視線を落とした。
「しかし、気の利くやつなんだよ? アジトついでに、よく寄ってくれてなぁ。村の人らで分けてくれって土産まで携えて」
「・・・ありがたいですね。ここは情報が来ないから」
「ああ。それに今も『大丈夫か、無理してないか』って、甲斐甲斐しくてなぁ」
「ご両親思いの、良い息子さんじゃないですか」
「そう思うだろ。先生にも紹介したかったんだが、バナナだけ置いてすぐ行っちまって」
ぶつくさと続く文句に、私はさも愛想の良い感じで笑みを作る。
「また今度機会があれば、ぜひ」
「良い奴なんだがどうもシャイなとこがあって・・・だからか嫁さんのキテが無くて困っててなぁ」
「嫁・・・ですか。今は確かに、誰かと、っていうのは難しそうですよね」
「まあ時代がそうと言われればそうなんだが、しかし顔も悪くないのに、あんまりじゃないか」
「はぁ」
「そこでものは相談なんだが、先生」
おじいさんの瞳が、きらと光る。
「引き取り手が居らんなら、ひとつうちのとどうだ?」
「・・・えっ!?」
突拍子もない話に、思わず彼を見返した。
なにかの冗談・・・と思ったけれど、おじいさんはいつもと同じようにたっぷりとした顎髭を撫でるだけ。伸びっぱなしの白い眉毛をゆるりと垂れさせて、私の前向きな返事を穏やかに待っていた。奥さんと共に過ごし、子どもを育て切った人間特有の、悪気のない顔だ。
「私は・・・」
世間的に言えば、私は所謂「行き遅れ」に違いない。まともに動けるようになるかも怪しい、30過ぎの独り身。私みたいな女が、これから誰かのお嫁さんになるだなんて誰も想像できないに違いない。私もそうだ。
結婚、なんて。人であれば当然のぼるその選択肢を、私は今まで、自分に無関係であると思っていた。コーガ様に身を捧げる人生で、誰かの妻という役目を負って良いわけがないと。
口ごもって、言葉が出ないまま、一度唇を閉じた。
・・・そうか。私はもう、彼の方を支える役目を降りたのだ。
おじいさんは、人当たりの良い笑みを浮かべて私の返事を待っている。
なんと言えば良いだろう。でも私はどうしても、この気まぐれな提案に対して、素直に首を縦に振ることができない。
笑い皺の入った目尻から、視線を落とした。
「・・・待ってる人が、いますので」
引き取り手と思ったわけじゃない。だけど、私の頬を包んでくれた大きな手の平の感触が、まざまざと残ってる。
私と彼との、約束だから。
待ってると、私自身が告げたから。
おじいさんは眉を下げ、どこか残念そうに「そうかあ」と頭を掻いた。
午後の授業を終えた後、夕餉づくりの手伝いをして一日が終わった。
みんなで作ったスープとパン。カンテラをひとつだけ灯した薄暗い家の中、一人で食べた。その後は沸かしたお湯を桶にはって、身体を布で拭き上げた後に足をつけいれる。なるべく温めた方が傷の治りが早いのだと聞いて、寝る前にはいつもそうしてた。
アジトだったら、食事を食べるのも、湯浴みをするのも、他に人がいた。今はたった一人きり。窓から差し込む月明かりが、床に私の影を真っ黒く落としている。それをぼんやりと眺める私。
寝支度を終えた後、ベッドに正座して、星月夜を仰いだ。手を組んで祈りを捧げる。これも村に来てからの日課だ。
ここから見る空は随分狭い。それに、遠かった。崖上で見上げていた空と全然違う。だけどきっと、彼の頭上に広がる星空と、確かに同じものであるはずなのだ。
彼はまた、ここへ戻ってきてくれるだろうか。そして私は、家に帰れるだろうか。
果てなく続く砂漠の地平線と、書庫のにおいが恋しかった。
どうなるか分からない日々。私たちはそれでも賢明に毎日を過ごす。
朝起きて、顔を洗い、食事をして、子どもたちに文字を教える。夜には、湯を沸かして身体を拭き、祈りを捧げ、床に入る。
日を重ねるにつれ、足は少しずつ良くなっていった。杖があればハイラル湖のほとりまでは散歩ができるようになった。畑の手伝いをしたり、パンの焼き方やスープの作り方を教わる。
だけどみんな分かっていた。そろそろ大きな変化が訪れることを。井戸で水を汲んでいるときや、野菜を収穫しているとき、ふと嫌な気配を感じる瞬間がある。そんなときに周りを見回すと、じいっと空を眺めていた住人と視線が合う。
「なんか、空気が重いなと思って」
取り繕ったみたいな笑みを浮かべなきゃ不安が誤魔化せないことに、きっとみんな気付いていたのだ。
それは突然に訪れた。
子どもたちの面倒を見ながら、みんなで夕餉作りに勤しむ夕方のことだった。
ドンッ、と地面から突き上げるような激しい地響きがあった。子供たちが「キャアッ」と甲高い悲鳴を上げた。それからも続く微かな振動を足裏から感じ、みんなに座るよう言いながら杖を握りこむ。
落ちかけの太陽。その前を通り過ぎ雲の動きが、随分早い。まるで遥か高い天上に、見たことのない巨大な魔物が蠢いているみたいに。
ただの地震じゃない。
なにか、とてつもなく嫌な気配がする。
その場にいる全員で目を合わせていると、息を切らした集落民が駆けてきた。村の外へ食料調達に出ていた人たちだ。
みんな一様に鼻白んだ顔をしていて、やはり外で何かが起こったんだとすぐさま分かった。
「俺、丁度見たんだ。ハイラル城から禍々しい暗雲が飛び出して、天高く上ったと思ったら城自体に纏わりついて・・・」
「それから、城の周りに変なデカいものが突き出してきた! 初めて見る、城と同じか、それ以上にデカい何かが」
「城から出てきたのは四つ足の動物・・・まるで猪みたいな影。おそらく、あれは────」
怨念ガノンの復活。
伽話に伝えられる、この世界の厄災そのもの。
それは私たち一族が、今まで目標に据えていた出来事だ。
恩を仇で返した王家に復讐を誓った父祖から万年続く、我らの本願が、ついに。
「や・・・やったんだ。コーガ様がやってくださった。ついに、俺らの宿願が」
張りつめた空気の中、震える声で誰かが紡ぐ。
視線を向けた先、紡いだ集落民は瞬きもせず、地面の一点を見つめていた。
「そうだ。俺たちはこれを望んでいた。ついに、これで・・・王家の郎党共に、一泡吹かすことができる」
「遥か彼方から続いてきたこの怨念を、晴らすことができる」
「コーガ様の大願を、これで、漸く・・・!」
口々に募る厄災への希望。そう、それはきっと、希望であったはずだった。
でも、なんでだろう。その声はみんな、どこか上ずっている。震えている。まるで、自分に言い聞かせているように。少なくとも、私にはそうとしか聞こえなかった。
拳を握って、目をギラつかせて。目の前に迫る現実に、そうに違いないって希望を当てはめている。
私たちは、どうしようもない不安を見ないふりしたかった。
赤い月の晩に感じる禍々しい力が、実態を伴って頬を撫でていく。
この大地に満ちる、押し潰されるような圧迫感と、身体中を細長く、生温かい何かが這いまわるような気持ち悪さ。
子供たちだけが、色めく大人を不安げに仰ぎながら、母のエプロンに顔を埋めていた。
布団の外は寒いし、今日を始めるにもまだ早い。一度布団の中で寝返りを打ち、柔らかな綿を抱きしめるように縮まった。もう少しだけ。もう少しだけだから。でも私が動かなければ、私の支度は終わらない。
起きよう。と、心の中で宣言してからは早かった。一、二、三。と声を出さずに数を数え、弾けるように起き上がる。
素足で床板に降り立った瞬間、つま先から這い上がってきた寒気にふるっと身が震えた。
カルサーのアジトからイーガの隠れ里へやってきて、早ひと月になる。
移動も儘ならない身体だけど、時間さえ経てばなんとかなるものだ。最近は漸く、自分一人での生活に慣れてきた。居を移したばかりの頃とは大違いだ。
当初は、朝の支度にすら随分苦労した。まず誰も起こしてくれないし、水の調達や食料の配分、一日のうちで何をこなせば生活ができるのか、てんで想像がついていなかった。
集落民の手は借りられるとは言っても、ここでは自分のことは全て自分で面倒見なくてはいけない。
手桶を抱え、外に出る。
未だ太陽も見えてない仄闇の時刻だ。朝まだきの空には、泡雪を敷き詰めたような雲が一面に広がっている。ゲルドでは一切見ることのなかった、雨の予感のする雲が。
ゆっくりと歩きながら、ぽつぽつと浮かぶ窓の明かりを通り過ぎていく。
暗い中でも集落は目を覚ましているようで、何人もの人影が同じ方向へ歩いて行く姿が見て取れた。軒先から聞こえる女たちの高い喋り声や、畑で鍬を振り上げる男たちの姿も。朝が早いのは、それがイーガという集団の習癖だからだろう。
「おはようございます」と声をかけると、誰からも「おはよう」と穏やかな声が返ってくる。なんだかこのやり取りそのものが、妙に慣れず視線の置き場所に困ってしまう。みんな素顔の瞳で、しっかりと視線を交わしながら微笑みかけてくれるんだから。
この村唯一の井戸には、既に数人の住民が集っていた。
「ああ、おはよう。今日も冷えるねぇ」
その内の一人、隠れ里へやって来た時に案内してくれたおじいさんが、声をかけてきた。
彼は私の家のお隣さん。村で一番の老年で、ここへきてから既に数十年になるんだそうだ。井戸端へ座り込み、全員に「おはようさん」と声をかけるのを日課にしている。
私も、井戸で水汲みをしながら、「おはようございます」と挨拶を返す。
「今日はちょっくら冷えるなぁ。風が冷てぇや」
「ですね。それになんだか、雨が降りそうです。早めにお仕事終わらさないと」
「だなぁ。・・・しかし、やっぱ歩くのに慣れなそうだ。代わりに水、持ってってやろうかい?」
顔を洗おうと手に水を掬った折、おじいさんが続け様に言う。頬を濡らす直前に、私は「え?」と顔を上げた。
歩くのに慣れない、とは、杖のことを言っているんだろう。ここへ来た初日に彼から託されたおさがりは、彼が足を悪くさせたときに手ずから削り出して作ったものだそうだ。
右手に杖を持ち、左手に手桶を抱えてのそのそと歩く様子は、きっと傍から見てて歪だったに違いない。だからといってたかが水を運ぶのを手伝ってもらうなんて。おじいさんだって、亀かカタツムリの歩みくらいのっそりとしか歩かないのに。
私は恐縮して肩を窄めた。
「いえ、大丈夫ですよ、このくらい自分でしないと! 別に急ぎでもないですし」
「いやあ、慣れるまではワシらに頼ったらエエんだよ。怪我してんだから無理はするもんじゃない」
「でも・・・」
「いいっていいって! ほれ、ちょいと手伝っとくれよ! 水持って行きたいんだと!」
ぱんぱん、とおじいさんが手を打つと、すぐ傍で談笑に耽っていた男性が振り返った。この人、誰だっけ。なんて考えている間に彼はことを察したのか、あれよあれよという間に手際良く手桶を水で満たしていく。
「俺、先に行って置いとくから」と気の良い笑顔を浮かべたと思ったら、さっと身を翻した彼はずんずんと進んでいってしまった。
私は、ただ呆然。ややあってハッとなって、「すみません」と慌てた声を投げた。しゃきしゃきと去っていく背中のまま、後ろ手にひらひらと手を振るのが仄闇の合間でも見えた。
「気にしなさんなよ。みんなお互いにできることやってるだけだから」
片手の杖にすらまごつく私に、おじいさんの穏やかな声がむしろ申し訳なかった。
杖をつきつつ、えっちらおっちら歩いて帰宅する。
道中でさっきの住人とすれ違いつつ、家へ到着する頃には、太陽が輝かしい頭を覗かせていた。
玄関先に置かれた手桶を回収して家へ入り、まずは火鉢に石を打つ。住人からのおさがりである陶製のポットで湯を沸かし、淡緑色の茶を煎れた。ここへ来てから、ハイラル草を炒って私が作ったお茶だ。
朝ごはんは、昨日寄り合いで分けてもらったパンの残りもの。火で炙って表面をカリカリに焼くと、小麦の味がしっかりたって、青々しいお茶と相性が良い。
黙々と咀嚼する。すると、ちちち、という小鳥の囀りと、青草の揺れるさわさわという音が聞こえてくる。アジトで過ごすのとまるで違う。この時間が、村での私の朝だ。
この頃にはもうすっかり、外は明るくなっていた。
朝餉を終え、片付けものを済ませた私は、窓から外を仰ぎ見た。相変わらず薄い雲が陽光を遮っているけれど、どうやら陽は高いらしい。そろそろ出掛けても良い頃合いだろうか。
足に固く布を巻き、外着に着替えてから、文献を小脇に抱えて家を出た。
杖をつきながら、ゆっくりと目的地へ歩いた。向かう先は広間だ。だけど足を進める内、どうやら私は遅刻しているらしいと理解する。
だって遠目でも、既に子供達が集まっているのが見えてしまったのだ。
「早くー!」一人が私に向かって手を振る。座り込んで地面をじっと見ていた子や、木の枝にぶら下がっていた子も気付いたみたいだ。一列になって、皆しておーいと叫ぶものだから、私も杖ごと掲げてぶんぶんとそれに応える。せめておちゃらけた仕草で遅刻を誤魔化したかった。
だけど子供達は手厳しい。「お待たせ、ごめんね。遅くなっちゃって」と息を切らしながらたどり着いた瞬間、「遅いよセンセー!」「待ちくたびれちゃった!」という途切れない文句の数々。確かに遅刻をしたのは私なので、どんな文句を言われようと受け入れるしか術がない。
苦笑いと共に一度大きく深呼吸しながら、椅子替わりの丸太に腰を降ろした。
「ごめんごめん、まだ杖の使い方に慣れなくてさ」
「だったらもっと早く家を出たらいいじゃんかぁ、遅いの分かってるんだし」
「もうっ、君たちが早すぎるんだよ! 私としてはもう少し遅く集まっても良いくらいなんですけど!」
「えー? だって暇だし、なぁ?」
子供同士で顔を寄せて、「なぁ?」と言い合う。
「でもセンセーの言うこともソンチョーしてあげようよ、足痛いんでしょ?」
「そうですよ、傷口が開いたら大変ですもの。あんまり急いで治りが遅くなったら、困るのは先生ですからね。無理いわないの!」
口々に続く無邪気な提案。そこへ一石を投じてくれたのは、私と一緒になって見守り役を任されているおばあさんだった。彼女は私の家の隣に住む老輩で、村へやって来た時に案内をしてくれたおじいさんの、奥さまでもある。
柔和な言葉遣いだけど、どこか有無を言わさない雰囲気があった。子供たちは首を窄めて「はーい」と返事する。
間髪入れず、私はぱんぱんと手を打った。
「さ、授業を始めます! 今日は実際に筆を持って、文字を書いてみようね」
子供達はまた「はーい」とあどけなく返事をし、空いている丸太椅子に腰を降ろす。
輪切りにした丸太を椅子替わりに並べた、簡易的な集会所。筆記用具を準備し始める彼らを眺め、私は黒板代わりの木の板を幹に立てかける。
小さく振り返ったとき、彼らの真ん丸に見開かれた瞳は、既に私の指先に集まっていた。
「じゃあみんな、書き順を説明するよ。まずは────」
朗々と続けつつ、私は石灰岩を木の板へ滑らせた。
イーガの隠れ里は、なにかしらの問題を抱える人間の寄合だ。一人で生きていくには、みんなどこか欠けていて、あるいは自由が効かなくて。
だからこそ、全員がお互いのために、自分のできる役割を請け負ってなんとか命を繋いでいる。
アジトでの十数年間、私はまともな業務に携わってこなかった。ここへやってきて「何かの役割についてもらう」と説明されたときは、こんな私に何ができるだろうかって不安だった。
そんな私が任されたのは、子供たちへ勉強を教える先生役。
まさか、アジトから引っ越した先で、またもや人に文字を教えることになるとは思ってもみなかった。
村の子供達は、ハイラル文字を一つ二つ読める子もいれば、鳥や魚の絵だと表現した子もいる。シーカーの術は多くの場合、口伝で継承をする。生活の知恵さえ口で教えられてきたからこそ、識字の術が備わっていない。
「先生! 上手く書けたよ、見て!」
もちろん、隠密の道へ進むのなら、武功が評価に通ずるのはよく分かってる。きっと文字の習得なんて無意味に違いない。識字が出来ずとも、コーガ様から認められている団員なんて、今までごまんと見てきたのだ。
・・・だけど私は、それだけが全てじゃないって思いたい。彼らにも、いろんな道があるって伝えてあげたい。
「わあ上手! 跳ねるところと止めるところ、上手く書けたね」
「ねえ、先生。こっち来て。分からないとこあるの、早くー」
「はいはいちょっと待っててね、どこが分からないのかな」
素直で真面目な子供たち。そのまっすぐ伸びた背筋が、昔の教え子と重なって見えた。
なんだか不思議だ。このあだ名に中身があるのは、たった一人の生徒が口にしたときだけだったはず。他の団員が口にするとき、これは必ず揶揄の響きを伴っていた。
今ではこの隠れ里のみんなが、私のことを「先生」と呼んでいる。揶揄じゃない。嘲笑でもない。かつての彼と同じ目線で。敬意の籠った声色で。
耳にする度、なんだか胸が擽られるようで気恥ずかしかった。だけど抵抗なく心の奥底にまで降りていって、身体全体に馴染んでいくようだった。
先生と呼ばれて、すぐさま返事が返せる。改めてみんなから与えられた「先生」の役割が、こんなにも私を支えてくれている、なんて。
「やあ先生、調子どうだい」
「あ、こんにちは」
授業が終わり、一旦各々の家に戻る昼餉の時刻。
お隣のおじいさんが、井戸のすぐ横でパンを齧っていた私に声をかけてきた。彼は奥さんと同じく、村人が出払っている間の子供の面倒を見や役割を請け負っているのだ。
朝の湿気た空気が、今となっては微かな汗を作り出している。しっとりと汗ばむ首元を拭いながら、おじいさんが「よっこらせ」と座るのを見守る。
「今日もワーワー言われてたねぇ、やる気満々でいいことだが」
「子供達、凄いですよ! 本格的に文字を教え始めて数日なのに、もう本が読めるようになったって子もいて。吸収力が全然違うなって!」
「そうだなあ、今まで語り聞かせしかしてやれんかったからなぁ。ほれ、わしらもう近くが見えんから」
「口伝も大事ですよ、耳が敏くなりますし」
おじいさんは、ほほと柔らかく笑い皺を作ってから、「ああ、そうだった」と視線を下げた。そして、手に抱えていた籐の籠をごそごそと弄る。
「これな、今貰ったんだわ。あんたにもやろう」
出てきたのは黄色い果実。まさか、と思った。アジトでは散々食べていたツルギバナナがそこにある。
思ってもみなかった好物の登場に、思わず「わぁっ!」と上ずった声が漏れた。村に来て初めてだ。「どうしたんですか、これ」と年甲斐もなくはしゃぐと、彼は真っ白な顎髭を撫でつけながらほほ、と笑った。
「今息子が来てな、これだけ置いて行きおったんだわ。任務帰りによく寄るんだが、その土産でなあ」
息子。その単語に思わず固まって、「息子さんが来てたんですかっ?」と声が裏返った。
アジトに行き来のある団員がやって来た。これも、私が村へ来てから初めてのこと。
カルサー谷がどうなっているのか。コーガ様はご無事なのか。作戦は。占い師は。城への諜報は。そして、スッパ君は。詳しい話が聞けるかもしれない。
今まで心の奥底に埋まっていた不安が弾けたみたいだった。次々に飛び出す問いで、おじいさんに詰め寄った。
けど彼は、「あぁ・・・」とどこか申し訳なさそうに眉尻を下げるだけだ。
「あいつは業務の話をあんまりせんから・・・。そういやアジトの中で魔物を飼うようになったとは言ってたなぁ。なんでもやけに顔色の悪い占い師の提案とかで・・・気味悪がっちゃあいたが・・・」
「魔物・・・。魔物ですか。それをスッパ君・・・筆頭幹部殿やコーガ様が許したと・・・?」
「そうなんじゃないか、ワシには分からんよ。すまんがね」
「そう・・・ですね、ごめんなさい・・・。他は?」
「飛脚だからなぁ、あいつも大してアジトの事情は分かってなさそうだった。すまんねぇ」
おじいさんはそうまで言って、籠の中のバナナに視線を落とした。
「しかし、気の利くやつなんだよ? アジトついでに、よく寄ってくれてなぁ。村の人らで分けてくれって土産まで携えて」
「・・・ありがたいですね。ここは情報が来ないから」
「ああ。それに今も『大丈夫か、無理してないか』って、甲斐甲斐しくてなぁ」
「ご両親思いの、良い息子さんじゃないですか」
「そう思うだろ。先生にも紹介したかったんだが、バナナだけ置いてすぐ行っちまって」
ぶつくさと続く文句に、私はさも愛想の良い感じで笑みを作る。
「また今度機会があれば、ぜひ」
「良い奴なんだがどうもシャイなとこがあって・・・だからか嫁さんのキテが無くて困っててなぁ」
「嫁・・・ですか。今は確かに、誰かと、っていうのは難しそうですよね」
「まあ時代がそうと言われればそうなんだが、しかし顔も悪くないのに、あんまりじゃないか」
「はぁ」
「そこでものは相談なんだが、先生」
おじいさんの瞳が、きらと光る。
「引き取り手が居らんなら、ひとつうちのとどうだ?」
「・・・えっ!?」
突拍子もない話に、思わず彼を見返した。
なにかの冗談・・・と思ったけれど、おじいさんはいつもと同じようにたっぷりとした顎髭を撫でるだけ。伸びっぱなしの白い眉毛をゆるりと垂れさせて、私の前向きな返事を穏やかに待っていた。奥さんと共に過ごし、子どもを育て切った人間特有の、悪気のない顔だ。
「私は・・・」
世間的に言えば、私は所謂「行き遅れ」に違いない。まともに動けるようになるかも怪しい、30過ぎの独り身。私みたいな女が、これから誰かのお嫁さんになるだなんて誰も想像できないに違いない。私もそうだ。
結婚、なんて。人であれば当然のぼるその選択肢を、私は今まで、自分に無関係であると思っていた。コーガ様に身を捧げる人生で、誰かの妻という役目を負って良いわけがないと。
口ごもって、言葉が出ないまま、一度唇を閉じた。
・・・そうか。私はもう、彼の方を支える役目を降りたのだ。
おじいさんは、人当たりの良い笑みを浮かべて私の返事を待っている。
なんと言えば良いだろう。でも私はどうしても、この気まぐれな提案に対して、素直に首を縦に振ることができない。
笑い皺の入った目尻から、視線を落とした。
「・・・待ってる人が、いますので」
引き取り手と思ったわけじゃない。だけど、私の頬を包んでくれた大きな手の平の感触が、まざまざと残ってる。
私と彼との、約束だから。
待ってると、私自身が告げたから。
おじいさんは眉を下げ、どこか残念そうに「そうかあ」と頭を掻いた。
午後の授業を終えた後、夕餉づくりの手伝いをして一日が終わった。
みんなで作ったスープとパン。カンテラをひとつだけ灯した薄暗い家の中、一人で食べた。その後は沸かしたお湯を桶にはって、身体を布で拭き上げた後に足をつけいれる。なるべく温めた方が傷の治りが早いのだと聞いて、寝る前にはいつもそうしてた。
アジトだったら、食事を食べるのも、湯浴みをするのも、他に人がいた。今はたった一人きり。窓から差し込む月明かりが、床に私の影を真っ黒く落としている。それをぼんやりと眺める私。
寝支度を終えた後、ベッドに正座して、星月夜を仰いだ。手を組んで祈りを捧げる。これも村に来てからの日課だ。
ここから見る空は随分狭い。それに、遠かった。崖上で見上げていた空と全然違う。だけどきっと、彼の頭上に広がる星空と、確かに同じものであるはずなのだ。
彼はまた、ここへ戻ってきてくれるだろうか。そして私は、家に帰れるだろうか。
果てなく続く砂漠の地平線と、書庫のにおいが恋しかった。
どうなるか分からない日々。私たちはそれでも賢明に毎日を過ごす。
朝起きて、顔を洗い、食事をして、子どもたちに文字を教える。夜には、湯を沸かして身体を拭き、祈りを捧げ、床に入る。
日を重ねるにつれ、足は少しずつ良くなっていった。杖があればハイラル湖のほとりまでは散歩ができるようになった。畑の手伝いをしたり、パンの焼き方やスープの作り方を教わる。
だけどみんな分かっていた。そろそろ大きな変化が訪れることを。井戸で水を汲んでいるときや、野菜を収穫しているとき、ふと嫌な気配を感じる瞬間がある。そんなときに周りを見回すと、じいっと空を眺めていた住人と視線が合う。
「なんか、空気が重いなと思って」
取り繕ったみたいな笑みを浮かべなきゃ不安が誤魔化せないことに、きっとみんな気付いていたのだ。
それは突然に訪れた。
子どもたちの面倒を見ながら、みんなで夕餉作りに勤しむ夕方のことだった。
ドンッ、と地面から突き上げるような激しい地響きがあった。子供たちが「キャアッ」と甲高い悲鳴を上げた。それからも続く微かな振動を足裏から感じ、みんなに座るよう言いながら杖を握りこむ。
落ちかけの太陽。その前を通り過ぎ雲の動きが、随分早い。まるで遥か高い天上に、見たことのない巨大な魔物が蠢いているみたいに。
ただの地震じゃない。
なにか、とてつもなく嫌な気配がする。
その場にいる全員で目を合わせていると、息を切らした集落民が駆けてきた。村の外へ食料調達に出ていた人たちだ。
みんな一様に鼻白んだ顔をしていて、やはり外で何かが起こったんだとすぐさま分かった。
「俺、丁度見たんだ。ハイラル城から禍々しい暗雲が飛び出して、天高く上ったと思ったら城自体に纏わりついて・・・」
「それから、城の周りに変なデカいものが突き出してきた! 初めて見る、城と同じか、それ以上にデカい何かが」
「城から出てきたのは四つ足の動物・・・まるで猪みたいな影。おそらく、あれは────」
怨念ガノンの復活。
伽話に伝えられる、この世界の厄災そのもの。
それは私たち一族が、今まで目標に据えていた出来事だ。
恩を仇で返した王家に復讐を誓った父祖から万年続く、我らの本願が、ついに。
「や・・・やったんだ。コーガ様がやってくださった。ついに、俺らの宿願が」
張りつめた空気の中、震える声で誰かが紡ぐ。
視線を向けた先、紡いだ集落民は瞬きもせず、地面の一点を見つめていた。
「そうだ。俺たちはこれを望んでいた。ついに、これで・・・王家の郎党共に、一泡吹かすことができる」
「遥か彼方から続いてきたこの怨念を、晴らすことができる」
「コーガ様の大願を、これで、漸く・・・!」
口々に募る厄災への希望。そう、それはきっと、希望であったはずだった。
でも、なんでだろう。その声はみんな、どこか上ずっている。震えている。まるで、自分に言い聞かせているように。少なくとも、私にはそうとしか聞こえなかった。
拳を握って、目をギラつかせて。目の前に迫る現実に、そうに違いないって希望を当てはめている。
私たちは、どうしようもない不安を見ないふりしたかった。
赤い月の晩に感じる禍々しい力が、実態を伴って頬を撫でていく。
この大地に満ちる、押し潰されるような圧迫感と、身体中を細長く、生温かい何かが這いまわるような気持ち悪さ。
子供たちだけが、色めく大人を不安げに仰ぎながら、母のエプロンに顔を埋めていた。