【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
戸口の前に立ち、指の関節で壁を叩く。中から椅子の軋む音が聞こえたと思えば、続け様に「あ」という声。
時を待たずして暖簾が押し上げられて、「スッパ様!」と現れたのは医療班の構成員だった。お疲れ様ですとの労いに軽く会釈をすれば、招くでもなく、彼自身がすれ違うように部屋の外へと出てくる。
「俺、暫く出ますね。ごゆっくりなさってください」
いや、自分は。横を通り過ぎていく団員を留める間もなく、彼は廊下を横に曲がって行ってしまった。後に残るのは、薄暗い廊下をぼおぼおと照らす行燈の灯りのみ。その場に置いて行かれたような俺自身の影が、曖昧に壁に映っている。
ここ最近は医務室を訪れる度にこうだった。カルテに筆を走らせていようが、薬籠の整理をしている最中だろうが、まるで決まり事のように団員が部屋から出ていってしまう。
それは些か過剰な気遣いであるに違いない。しかし、結局のところ俺は、毎回彼らの厚意に甘んじている。誰かに耳をそばだてられたいわけでもない。
面の角を掠めないよう手の甲で暖簾を分け、医務室の扉をくぐった。
薬の詰まった小瓶が並ぶ医務室は、砂漠の砂粒がそこかしこに転がるアジトの中で、もっとも清浄な部屋の一つだろう。薬草の複雑なにおいも、輪をかけてここが特殊な場所だと物語るようだ。
机には、開かれた帳面と墨を含んだままの筆記用具があった。やはり団員は作業の最中であったらしく、置いていかれたようなそれらが寂しげにも見える。
今は人の気配もなく、静かだ。誰の息遣いも聞こえない。
しかしそうではないと知っている。数歩先の衝立を見遣る。向こう側に広がる、一組の蒲団を頭に浮かべた。
その上で寝ているのは、紛れもない俺自身の目的で。
「・・・・・・失礼するでござる」
返事のないまま、奥へ進んだ。
小さな区画を埋めるように敷かれた蒲団。半身を蒲団に埋めて座り、俺がやって来たのと同時に本からふと顔を上げたのは、先生だった。
「スッパ君、お疲れ様」と僅かに目を細めてみせる彼女の顔色は、昨日と比べても悪くなかった。頬についていた青あざが、今日また少し薄くなっている気がする。
しかし・・・・・・蒲団の周りに積み重ねられた本の塔に、開きっぱなしの文献、巻物。彼女の手の届く辺りに足の踏み場がない。まるで近くに寄せ付けないための塀のようで、俺はすぐさま動けずに辺りを見回し、息を吐いた。
「先生・・・・・・また本でござるか? 暫し療養に徹してほしいが・・・・・・」
「やることなくってさ、暇なんだ。これくらいしかすることないし」
「今は何もしないことが、やるべきことでござる」
「それは、そうだけど」
そこまで呟くと、先生は広げた文献にゆっくりと視線を落とす。
「・・・・・・こうしてないと、自分が嫌になって」と紡がれた息混じりの声には、諦めの音が滲んでいた。
────あの日。
息も絶え絶えだった彼女を、無事にアジトへ連れ帰った、あの日。
極度の心身疲労と出血。限界を迎えていた彼女は意識を失い、三日三晩昏睡した。
医療班の見立てで命に別状はないことは分かっていた。時が経てば、必ず目を覚ますだろうと。しかしそれは、命に別状がないだけのことだった。
『足首を斬られています』
コーガ様と俺に、医療班員が重く告げた。
彼女が今後、まともに歩くけるかどうかも分からない、とも。
ズ・・・・・・という音で我に返る。それは、雑然と置かれていた本を部屋の端に寄せた音だった。
ふと先生の視線が持ち上がって、暫く何も言わずに見つめ合う。文机に置かれた読書灯で、睫毛の影が揺れている。
やがて、先生は
「せめて、・・・・・・何か役に立てればなって、思ってるんだけどね」
もう幾ばくもしない内に、この世は戦乱の中心へと歩を進めていく。
参謀役は今や居候の占い師が担っており、団員に求められるのは剣客隊や弓兵、諜報員に、伝令兵。
怪我をした団員に残された道はない。
──彼女は数日の内にアジトを去り、イーガの隠れ里へ居を移すことが決まっていた。
じじ、と読書灯の火が明滅する。
彼女は開いていた文献を静かに閉じ、積み重ねた本の一番上へ静かに置いた。
「そういえば・・・・・・何か用事があって来たんじゃないの? 筆頭幹部は忙しいでしょう?」
「いえ・・・・・・容態はどうかと、様子を見に来たのでござる」
これを、と差し出したのは、見回りで外出した際に見つけた一輪の野花だった。紅紫色が鮮やかな、名前も知らない素朴な花だ。
彼女は眦を
「・・・・・・お見舞いに来るの大変でしょ、お花もさ、そんなの摘んでる時間なんてないでしょう」
「ほんの刹那でござる。会わずに過ごすより、貴女を一目見た方が身を入れられる故」
「・・・・・・ありがとね」
彼女はほんのりと笑みを浮かべて、一輪のそれを花瓶へ生ける。
無造作に重なる花から一枚、茶色い花弁がかさりと落ちた。
その翌日も、またその翌日も、俺は彼女の元へと通った。
言葉を交わすのはほんの数刻。様子はどうかと伺い、彼女からは微かな笑みを返される。たったそれだけの逢瀬。
「ありがとう、でも、本当に大丈夫なんだよ。スッパ君は、忙しいだろうから」
「今日も来たんだ。時間ないのにごめんね。コーガ様、待ってるよ。私のことはほっといて、コーガ様のところへ行ってあげて」
「スッパ君・・・・・・。もう来なくて大丈夫。・・・・・・大丈夫だから」
毎日通った。決まっていつも一輪の野花を携えて。
しかしある日。衝立を過ぎた瞬間に、彼女の顔が酷く曇った。
「具合は、どうでござるか」
「・・・・・・スッパ、君」
シーツの上に置かれた手の平が握られる。まるで錆びついた歯車が軋むように、ぎこちない動きで。
「なんで・・・・・・なんでくるの? 大変なんでしょ? 時間ないでしょ? 来なくていいって言ってるのに、なんで来るの? なんで」
「せめて、貴女の気晴らしになればと思って」
「私ッ、そんなの頼んでない!」
思い切り蒲団を叩く。掠れた声が医務室に響いた。
キッと吊り上がった眦の奥、開いた瞳孔が揺れていた。
「こんな姿見たくないでしょ!? 動けなくて
花瓶の花を掴み、俺に向かって投げた。かさついたそれらは、花弁を崩しながら蒲団の上に散らばった。
彼女の荒い息遣いだけが聞こえる。はた、はた、と。白いシーツに水玉模様が零れ落ち、それから彼女は両手で顔面を覆った。支えを失って落ちていくように、ゆっくりと体を曲げて蒲団に埋まった。
『悔しい、お傍に居られない、悔しい』
コーガ様に転居を命じられた彼女が、俺の前で零した言葉が蘇る。
ただ黙って見つめた。荒く上下する肩を、どうすれば良いのかも分からないまま。
しかし・・・・・・ふと思う。思ったことをすれば良いのではないか。俺はいつもそうしないことを、悔いてきた。
音もたてず、その場で腰を折る。それから、ばら撒かれた枝葉を掬い上げる。一つひとつ、もうこれ以上崩れないよう丁寧に。
「・・・・・・貴女のためだけではござらん」
もう既に茶枯れ、花とはいえないものも多い。
それでも俺は一輪たりとも逃さずにまとめ、花瓶へ戻した。今日携えた新しい一輪を添えて。
「自分が人でいるため」
彼女の横で膝をつく。
微かに震え続ける肩にそっと手の平を重ねた。
「それに、・・・・・・貴女にも」
吐息さえ潜め、瞬きもせず、イーガの瞳越しに、彼女を見つめる。揺らぎもしない瞳で、ただ一心に。
ふさぎ込んだ暗闇の中、せめてこの手の平の熱が心細さに寄り添えるようにと、そう思って。
「・・・・・・そ、っか」
やがて伏せた蒲団の隙間から、くぐもった声が聞こえた。
彼女は一度大きく息を吸い、それからゆっくりと、音もたてないままに吐ききる。
「なら、・・・・・・仕方ないのかもね」
その声で、誰を言い聞かせていたのだろうか。
俺は何も言わず、指先へ僅かに力を籠めるだけだった。
彼女が、隠れ里へ旅立つ日がやってきた。
陽の昇る前の払暁。守衛を始めとした夜警以外は未だ床にいる時刻で、岩屋の中はしんと静まり返っている。その暗がりから、先生はゆっくりと姿を現した。
シーカーの旅装束に、背中へ背負った麻の背嚢。頭上で小さくまとめ上げた白髪は、諜報任務で染め落としが為されたそのままだ。
伏し目がちに足を引きずる彼女に「先生」と声をかけると、誘われるように顔が持ち上がる。「スッパく──」と紡ぎかけた口元が、俺を捉えた瞬間にはたりと動かなくなった。
「スッパ君、・・・・・・なんで」
持ち上げた人差し指の先には俺──というよりは、着衣していた服装を指したのだろう。筆頭幹部の証たる襟付きの装束ではなく、小汚い冒険者の服に袖を通した俺は、散歩というには過剰な装備を身に着けていた。
「その恰好、なに? 筆頭幹部が・・・・・・外回り?」と口にした彼女も、きっと本懐を察していたはずだ。
「俺が先生を送っていくので」
えっ! と大袈裟に発せられた声が、玄関の高い天井に反響した。
「何言ってるの!? 私を送ってくれるのは諜報班の団員だったはずじゃ」
「交代したのでござる。俺が貴女を送り届けたいと思ったので」
「この逼迫した状況でそんな時間ないでしょう! それなら私は一人で行きます! じゃないとみんなに迷惑がかる!」
彼女の言葉を遮るように、俺は問答無用で門に手をかけた。
「村へは、スナザラシと馬を使えば一日で往復のできる距離。自分が居らずともイーガは盤石でござるし、既にコーガ様も了承済みでござる」
「そんな・・・・・・でも」
「さ、先生。時間がありませぬ」
開け放った門から朝の風が流れ込み、彼女へ差し出した手の平を撫でていく。
先生は反意の籠った目で差し出したそれを見つめ、それから黙ったまま壁際に立つ守衛の幹部殿に、助言を求めるような視線を向けた。
「そんな目をされてもな」と幹部殿は肩を竦めてみせる。事前に示し合わせたわけではない。ただ、彼が俺を諫めるような発言をしないだろうことは、なんとなく予感があった。
「まぁ、いいじゃないか、ついてきてもらえば。さすがにお前ひとりで村までは無理がある」
「でも、筆頭幹部の時間を取るなんて」
「そりゃ筆頭幹部がついてくって言うんだったら、俺も止めるがな。しかし、他でもない”スッパ”の願いだろう。・・・・・・これが最後になるかもしれん、付き合ってやれ」
俺と先生の関係を、門を開くことで見守ってくれていた幹部殿。先生の肩をぽんと柔らかく叩いたのは、そんな彼が先生に送る餞だったのだろう。
押し出されるように一歩踏み出すものの、それでも納得しかねるように先生は唇を真一文字に結ぶ。文句言いたげに眉間に皺を寄せ、俺と、差し出した手の平の間で視線を振る。
「先生」と、もう一度指先で迫ると、彼女は考えるように「うー」と唸った。幹部殿にもう一度視線を投げると、呼応するように幹部殿は頷いてみせる。
ややあって、先生は観念したように「もうっ」と天井を仰いだ。
一歩、二歩、と危なげに前へ進み、そうして俺の手の平に指先を重ねた。
薄ぼんやりと白み始めたカルサーの坂を、彼女を支えながらゆっくりと下っていく。
会話はほとんどなく、彼女はときおり足を緩めては、アジトへ振り返った。谷間には、道切が擦れるカラカラという音と、高いところで吹きすさぶ風の音が混ざりあうように響いていた。彼女を急かすようなことはしなかった。
足を庇いながらの移動は労力を要する。道祖神も道切の札も姿を消した谷の入り口に到着する頃には、ウメタケ台地の奥から日ざしが覗き始めていた。
煌びやかな太陽光線。手傘を作った彼女は、雄大な砂漠の大地を前に立ち尽くす。
「ゲルドの朝焼けを見るの、これで最後になるかもしれない」
運搬用のスナザラシに荷物を積みながら、彼女の声に耳を傾けた。
「砂漠の景色が好きだった。風化した遺跡に、果てが見えない砂の海。・・・・・・あぁ、海か。きっと私は、海も好きなんだろうな。こんな景色にワクワクするのってなんでなんだろう。昔っからずっとそう。誰も全部を知らないんだ、って思えるからかな」
「・・・・・・」
「もっと見て回りたかったな。業務ついででも、なんでも」
おもむろに谷へ振り返る。
巨大な岸壁の前に佇む彼女が、いやにぽつりとして見えた。
「もっと自由に外へ出たかったし、遠出だって。結局私はこの数十年、ラネールだってアッカレだって、話に聞くことしかなかった。まるで監獄みたいに」
「・・・・・・アジトは、先生にとって憎い場所、でござるか」
彼女ははたと口を噤んだ。谷から吹き下ろす風が、砂粒をザラザラと此方に散らす音が聞こえる。聞き慣れたカラカラ乾いた音も。まるで谷のざわめきみたいに。
先生はゆっくりと、僅かに首を横に振った。
「・・・・・・アジトは私の家だった。窮屈だけど安心できる居場所。ここは私の、家だったよ」
ふと踵を返す。ゲルドの陽射しに白髪が瞬く。
先生はどこか疲れたように微笑んで、「行こう」と言った。
砂漠渡りにはスナザラシを使い、途中でゲルドキャニオン馬宿に預けていた馬に乗り換える。
先生には、馬に引かせた荷台へ荷物と一緒に積まれてもらった。振動で傷口が開いては大事だ。物見遊山をするつもりは毛頭ないが、街道沿いをゆっくりと歩いていく。
先生はまるで、ハイラルの景観を初めて目にしたかのように終始遠い場所を眺めていた。吊り橋から遥か下を流れる川を覗いたり、遠目に見える雄大な双子山に目を瞠ったり、どうにも落ち着かない。
城へ諜報に行った時に見ているはずでは、と問えば、「あの時は、景色を楽しむ余裕なんてなかったし」とやや気まずそうに視線を伏せた。
道中の宿場町で休息を挟んだあとは、大きな休憩もなく進み続ける。ハイリア湖を過ぎ、かつては神殿が祀られていたという台地に沿って歩き・・・・・・。
そうして東の空が紺碧に色付き始めた頃、俺たちは遂に目的地へとたどり着いた。
家がまばらに立ち並ぶ隠れ里は、人目から逃れるように崖の合間に造られた、小さな集落だった。
村の入口には、白布を被っていない蛙の道祖神。夕暮れという時刻で魔物避けの火も焚かれているが、高い崖のつきあたりにあるせいかどこか薄暗かった。
馬から降りて集落を見回せば、家々の隙間には、縫うように作られた小さな畑と井戸がある。ハイリア湖からの湿り気を帯びた風が、ひやりと肌に冷たかった。
水にも草木にも恵まれ、遮蔽物も充分。ここは確かに、イーガの民が余生を過ごす場所として、申し分ないに違いない。
柔らかな青草の上へ降り立った先生も、世間から身を隠すように存在する集落を眺めながら、はあと感嘆の息を吐いた。
「ああ、あんたらお疲れさん、よく来たねえ」
どこかからか見ていたのか、軒先からひょっこりと住人が現れる。毛のない頭皮に反し、たっぷりと蓄えられた顎髭。それなりの歳の老翁だ。
痛みを庇うように腰を曲げ、一歩一歩緩やかな動作で近づいてくる。かつてはハイラルの地を軽やかに駆けた団員だったのだろうが、あまり面影は感じられない。
穏やかな老輩に対し、先生が瞬時に畏まったのが分かった。そわりと指先が宙に浮いたのを横目で見てから、俺は何も言わずに荷台へ乗った。ここからは前へ出ない方が良いに違いない。
ざ、ざ、と近づいてくる足音に、得も言えない緊張感がいよいよ高まっていくのを背中越しに感じ取る。
「今日からお世話になります。よろしくお願いします」
「なに、硬くならなくてもエエんだよ、よろしくなぁ。えーと、なんでも足を悪くさせちまったとか?」
「はい、治る目途がたたないのでここに。ゆっくりだったら歩けるんですけど、引き摺って行くんで、遅くって」
「ほおほおなるほどなぁ。杖は? 持っとらんのか?」
「そう、ですね。ないです」
「だったらわしが使ってたやつをやるよ。たぶん無いよりマシだから」
ありがとうございます、と先生の上ずったような声。つられて視線を向けると、老翁もちょうどこちらを見ていて、その小さな瞳とぶつかった。
「アジトから越してくるのは一人って聞いてたが、あの人は? 旦那さん?」
「だっ・・・・・・」
一度言い淀んだ先生が首を大きく横に振る。
「違いますよ! 筆頭幹部・・・・・・スッパ様です」
荷物を抱えて荷台から降りると、紹介されたタイミングと重なった。それまで穏やかに細められていた彼の瞳が、一瞬の間をあけてぎょっと見開かれる。
「えっ、スッパ様!?」と驚く素振りを隠しもしない老翁に、なんといったものか。少し迷い、結局「邪魔をするでござる」と肩を竦めてみせた。
「な・・・・・・なぜこのような所へ? 今はアジトも大変な時期じゃあ・・・・・・」
「えっと・・・・・・視察を兼ねているみたいで、ついでに荷物を運んでもらうことになりまして」
言葉に迷うように紡がれた説明に、老翁は何度かぱちくりと瞬きをしてみせた。疑問はもっともだろう。彼女の説明も利には適っているが、筋が通っているとは言い切れない。
しかし、彼は「そうですか」と、垂れるほど長く伸びた白い眉を落ち着かせた。それから口元が見えないほどの髭を撫でつけ、「これからここに来る人間も、増えるかもしれませんしなぁ」と独り言のように呟く。どうやら自分を納得させたようだった。
老翁に先導を切られながら、集落の中を歩いていく。
家は決して多くなく、住人もそこまで多いわけではない。老翁が話すことには、皆それぞれ村の中で役割を持ち、どうにか生きていくためにお互いがお互いの面倒を見ながら、ほとんどその日暮らしをしているらしい。
主力は子をもつ母親たちに、怪我によって引退せざるを得なくなった男たち。宿場町に出稼ぎへ行くこともあるが、基本的には畑を耕し、獣を狩り、湖へ行って魚介をとる自給自足によって、村全員の食をまかなっている。
「魚介!」
老翁の話に、先生が目を輝かせた。
「私、ほとんど食べたことないかもっ」
「そうでござるな。アジトは肉かバナナばかりでござる」
「魚介類が主食になるなんて考えたことなかったなぁ! 楽しみ。どんなメニューがあるんだろう」
唇に指を引っかけた先生は、早速飯の想像を始めたらしい。頭の中に焦点を合わせていることは一目瞭然だった。
正直に言って、先生が食に頓着があると初めて知った。彼女と顔を会わせていたのは、ほとんど崖上での逢瀬のみ。会食の機会なぞ一度たりとも無かったわけだが、とはいえバナナ以外に食べ物の話をした記憶もない。
今日一日を考えても、彼女は荷台で揺られながらバナナをもそもそと齧るだけだった。ハイラルの山々を呆けたように見ながらだ。それは食事の風景というより、ただ単にそうせねば生きられぬ故に、仕方なく食べている様子に見てとれた。
しかし今、彼女の瞳の奥にきらと輝く光がある。その顔を見たとき、言いようもない深い安堵感が俺の胸を緩ませたのは確かだ。
「ここだよ」
暫く歩いた先に、漸くそこへ突き当たった。
カンテラを持ち上げた先に浮き上がったのは、集落の中でもっとも奥まった崖際に建つ、小さな一軒家。
他の家々と同じく、木材と漆喰で造られた壁に、茅葺の三角屋根の家だった。玄関灯のランタンに火を灯してから、ギィ、と木扉を開ける。身を引いた老翁と入れ違いで中を覗けば、簡易的な机や椅子、ベッドなどの調度品が眠っているように置かれている。
どうやら一通り揃っているらしい。窓もあることだし、きっと日中であれば明るく過ごせるに違いない。
老翁によると、彼女が来ると聞いてから村の女衆が掃除をし、すぐに住めるよう準備を進めていたとのことだった。
彼へ振り返って「かたじけない、恩に着る」といえば、鷹揚に手を振り返された。
「いえいえ、これくらい当然ですわ。そういう暮らしをしてきとるんで、気になさらず」
朗らかに笑ってみせた老翁は、「ではわしはこれで」と、俺と先生を交互に見遣って首を下げた。
「ありがとうございます」と言いながら先生も深く一礼し、俺もそれに倣う。次に顔を上げたとき、しかし老翁は踏みだそうとした足を引っ込めるような動きをして、「あぁ・・・・・・」と声を漏らした。
まるで行動に迷っているように手を揉み、やがて、「スッパ様」と小さく口にした。
一歩二歩近づいてきて、その乾燥しきった手の平で俺の手を掴みとる。
深く皺の入った肌膚に埋まるような小さい二つの目が、俺をただ真っすぐに見つめた。
「どうか・・・・・・どうかコーガ様をお守りくだされ。あの方さえいれば、わしらはどうにでもなる。ただ、あの方がいらっしゃらねば、わしらは生きる意味がなくなります。だから、どうか」
縋るように力を込めて、老翁は頭皮の剥き出しになった頭で項垂れた。
「あの方を、守ってくだされ」
両の手に籠もる力は強い。あれだけゆるゆると動いていた老翁とは思えないほどに。
暫く何も言わず、立ち尽くした。
この言葉は祈りだ。全てのイーガの民が胸に抱く、ただひとつの祈りだった。
俺にそれが果たせるかどうかは分からない。しかし言うべきことはたった一つだ。それは、悩むまでもない言葉でもある。
俺はもう片方の手で、しわがれた拳を包んだ。
「任されよ」
それだけ伝えると、彼は必死な顔を少し緩ませて、「ありがとう」と呟いた。
老翁が静かに去っていく。かちゃり、と木の扉が閉じられたとき、沈黙と暗闇が一度に押し寄せた。窓のすりガラスから仄かに外光が入り込むだけの、静謐な空間。
まずはランタンに火を灯すべきだろう。夜の準備をせねば──と考え始めた折、ふと先生が長い溜息を吐く。
視線を遣れば、彼女が見ている先にはベッドがあった。足を引きずって近づき、何も言わずに色褪せた生成りのシーツに触れる。
揺らつく外光に撫でられる横顔が、何を考えているかまでは分からない。
「自分のベッドだって・・・・・・考えたことも無かった」
ベッドが支給されるのは一部の幹部役のみ。言われてみれば、先生がベッドへ寝転んだことは一度もないはずだ。俺との閨も敷布団の上だった。
先生は、まるで弾かれたように、身体へ絡みつく外套やベルトを脱いだ。咎める間もなく、下着姿になるのは早かった。恥ずかしげもなくそのままベッドへ倒れ込み、顔を埋めながら唸った。どうやら気に入ったようだった。
バタバタと泳ぐ彼女を尻目に、俺は机のランタンに火を灯す。手持無沙汰に荷物へ手を伸ばした。彼女の私物は、この歳の女性にしては決して多くなく、随分こじんまりとしたものだった。装束が一式と、着替え、武器が一式。一番場所を取るのは本の類だろうか。いくら足に自由の効かない彼女のためと言い訳しても、あまり明け透けに広げるのは憚られる。
結局、いくつかを背嚢から取り出しただけで「ここに置いておくでござる」と声をかけ、俺がこの場でできることはなくなってしまった。
部屋の真ん中に立ち尽くして見つめていると、彼女も気付いたのかもしれない。徐々に動きを止め始め、そして俯せのままぴくともしなくなった。まるで眠ってしまったみたいに。
何も言わずに彼女を見ていた。白い肢体に浮かぶ赤い筋。横腹に三か所、肩に一か所、腕に三か所、そして右の足首に痛々しい赤の名残。
まさか寝てしまったのでは。と頭を掠めた折、漸く彼女が身じろぐ。頬を擦りながらのそりと寝返りを打った。仰向けになった彼女は感情が抜け落ちたような表情だった。ランタンの灯りを映すその瞳は、天井の梁を見ているようで何物も見ていない。
きっとその視線は、彼女自身の内側へ向いている。
「・・・・・・ありがとうね、スッパ君。こんなところまで連れてきてくれて」
ベッドの傍へ立ち、俺は彼女を見下ろした。
影色に染まった瞳だけが動く。彼女の視線の先に、確かに俺がいる。
「もう、行っちゃうんだよね。筆頭幹部殿は、忙しいから」
膝をつき、彼女の瞳を覗き込んだ。何の感情も分からない亜麻色。俺は僅かばかり頷く。
先生は、暫く黙っていた。それから上半身をゆっくりと持ち上げ、ベッドのヘリに腰掛ける。
「行く前に私も、スッパ君に頼みたいことがあるの。聞いてくれるかな、私の、わがまま」
「・・・・・・如何様にも」
「・・・・・・抱いてほしい。今」
「・・・・・・」
「何もできないならせめて・・・・・・貴方の意味でありたい」
吐き出す吐息にさえ揺れる声。胸に迫るものがあったのは確かだ。しかし不思議と、心の内側はしんと凪いでいる。
彼女の、憂いが籠もった目を久しぶりに見たからか。それとも、応えてはいけないと思ってしまったからか。
頬に添えられた指先に手の平を重ねて、握り込む。火傷痕が僅かに残る肌膚がいやに熱い。
俺の向こうに、何かを覗くその瞳。それをまじと見つめながら、深く息を吸った。
「明日から、ゲルドの街へ潜入するでござる」
先生の目が見開かれる。息を飲む音が聞こえ、さっと血の気が失せた気がした。
一瞬で強張った顔のまま、やがて力が無くなったように、視線が落ちる。
「そう・・・・・・」
「もう、会えぬやもしれぬ」
「っ・・・・・・、そう」
だから、俺は彼女の意味になるべきではない。俺は彼女の意味足り得ない。
そんな俺の臆病を、俺は最後まで彼女の前で口に出すことができない。
かたかたと、窓のガラス戸が風に吹かれて音をたてた。
「・・・・・・お元気で、先生」
身を引こうとした瞬間だった。彼女のもう片方の手の平が頬に伸びてくる。
両手で包まれ、眼前に彼女の顔が迫った。
ぱち、と眼前で手の平を打たれたように、彼女は力強く言った。
「生きて。先生からのお願い」
目を瞬かせ、その表情を見返した。
ひどく、真剣な顔だった。
俺は目を細め、小さく息を吐く。
「・・・・・・先生として、でござるか」
言葉にした瞬間、ふ、と先生の表情が崩れた。
泣く寸前みたいな口元のまま端だけを少し持ち上げて、彼女は「ううん」と小さく首を振った。
「私からの、お願い」
両手を広げ、緩く顔の輪郭に沿う。誘われるように近づいて、彼女と額をこつ、と合わせた。人の熱がそこにはあった。
彼女の慈愛が流れ込んでくる。暖かくて居心地が良い。俺が師と仰いだ、最愛の人の朗らかさ。
「・・・・・・落ち着いたら、アジトに戻りたいな」
囁くように彼女が言った。
「歩けなくても、岩戸の中にいるなら充分だろうし」
「必ず迎えに来るでござる」
「・・・・・・うん」
約束は、月光の明かりでさえ消え失せてしまいそうなほどか細い、星灯りのようであった。
その儚さを、俺は何に例えれば良いのだろう。彼女と共にあったことは、はっきりとした事実であるのに。
「気をつけて。・・・・・・待ってるから」
・・・・・・そう。これは事実なのだ。
決して明るみには出ない。100年も経てば、影も形も残らない隠密の生。
しかし、俺達が共に数十年を生きていたのは紛れもない事実であって、覚えてくれさえすればそれが意味になる。
俺は、いつかに告げられた言葉を信じていたかったのだ。