かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。


 スッパ君と会えたのは、すっかり陽が落ちた崖上でのこと。春嵐のつれてきた砂埃が、少し頬に引っ掛かる夜だった。
 空には、すっとした細い月が小さく浮かんでいる。月光を淡く返す果てしない砂原を眺めていると、暫くして背後に人の気配。まるで火がふわっと灯ったように、ふと気が付いた。
 振り向けば、数歩先の暗がりに浮かぶ、スッパ君の姿。
 私は笑って「おかえりなさい、スッパ君」といつもの調子で迎えた。

「今回は、随分間が空いたね、どこに行ってたの?」
「城でござる。城下にて排斥を」

 隠密班の幹部になったスッパ君は、この頃なにかと物騒な業務にばかりついている。隠密班だからそうなのか、それとも厄災復活が近いからなのか。27にもなって、未だほとんど外へ出る機会のない私には分からない。
 一間分空けて座り込む彼に「そっかぁ、大変だったね。お疲れ様」と労うと、返ってきたのは「うむ、かたじけない、先生」って返事。
 当たり前に紡がれる「先生」ってあだ名に、思わず山なりに口を結んだ。
 スッパ君が幹部に昇格したのは、もう随分前のことだ。そんな彼に下っ端の私が教えることなんてこれっぽっちもなく、期待の新星から「先生」なんて呼ばれるのはお門違いもいいとこだった。既にこのあだ名は、役目を終えているも同然だろう。
 でも彼はこういう変なところで強情っぱりなのだ。形だけは「もう、先生はやめてよ。スッパ君」と窘めるけれど、やめる素振りは一向に見られない。最近はすでに、この名前で一生呼ばれるのかと、諦め始めているのが正直なところだった。

 さわ、と風が吹いて、スッパ君の黒檀みたいな髪の毛が、黒々とした波を立てながら靡いていく。
 私を見てるのか、砂漠を見てるのか分からない仮面。ずっしりと座り込む大きな体躯は、大きな石を削ってここに建てられた建造物みたいな風格がある。
 随分、逞しくなっちゃったな。幹部役にしか許されていないフードや釣り針型の耳飾りが目に入ると、感慨深くなる。これは歳の所為かしら。
 外を回りだした頃は、あんなにいろいろ喋ってくれたのに、近頃のスッパ君は妙に落ち着いていて、無口だ。それに随分大人びている。
 いつくらいからだろう。一人前になったあの晩に、彼は少しずつ変わり始めた。隠密班に異動したのも原因かな。私に言えないことがたくさんあるに違いないから。
 最近の語り手は口数が少なくなった彼ではなく、もっぱら私に変わっていた。

「聞いてよ、この前ね、幹部さんが新しい業務を持ってきたんだけど・・・・・・」

 彼のいない間の出来事を、なるべく抑揚をつけて、楽しそうに話して聞かせた。
 だってじゃないと、研究班の一環で近場の遺跡を見に行ったとか、道中でボコブリンを倒したとか、今更驚きもしないしワクワクもしないだろう。口を回しながら聞き覚えがある気がしてしまうのは、数年前に同じような話を彼が話して聞かせてくれたからに他ならない。それでも、ただ黙ったまま砂漠の夜を過ごすよりよっぽど良い。

 なのに彼は、私の話に相槌もしないし、頷くこともしなかった。耳をそばだてて、そして最後に「平穏無事のようで、なによりでござる」とだけ呟いて解散になる。それが私には些か不満だった。
 つまらないなら、つまらないって言ってくれれば良いのに。もっと違う話はないのかって。そうしたら私だって、彼の前で格好つけたい気持ちを蹴っ飛ばして、「そんなのないよ!」って喚けたかもしれない。黙ったままの砂漠の夜に甘んじられるようになったかもしれない。
 先達の話を邪魔しない優秀な彼に対して、「何か一矢報いたい」と、つい意地悪の気持ちが顔を出してくる。ぢりぢりと胸の内側から火で炙られてるみたいな、焦げた気持ち。
 私はゆったりとしたわざとらしい動きで、彼の石みたいな面を下から覗き込んだ。

「・・・・・・そういえば、聞いたよ。コーガ様に怒られたって」

 その途端だ。それまで微動だにしなかったスッパ君が、咄嗟にぎくりと仮面を向けてきた。イーガの瞳が見開かれでもしたように見えた。
 「・・・・・・何のことでござるか」と、影の隙間から漏れ出てくる声が唸るように低い。まるで私に対して怒ってるような雰囲気で気圧されそうだ。
 けど、負けじと「ほら、あれだよ・・・・・・実力不足!」と言い切った。なんといったって私も年長者。睨まれたくらいで、そう簡単に萎縮できるわけがない。
 すると彼は、また石みたいに数秒動かなくなって、ややあって小さく空を仰いだ。ふー・・・・・・と息を吐き出す音が随分細かった。

 何も言わない。ということは、コーガ様の仰っていた「生息子」という話は、本当だったということかな。
 コーガ様の言葉を疑っていたわけじゃないけれど、こうして彼の何も言えない様子を目の当たりにすると、胸にすとんと落ちるものがある。コーガ様から信頼されていて、幹部になって活躍していて、誰からも頼りにされてるあのスッパ君が困ってる。
 申し訳ないけど、くすくすと笑みが漏れるのを我慢できなかった。

「びっくりしちゃった、スッパ君はもうてっきり・・・・・・。幹部さんたちも、そんな話してたから」
「自分は・・・・・・」
「あ、ごめんね。手が早いって言いたいわけじゃないんだよ。ほら、イーガの男の人って、度々そういうとこ行くみたいだから・・・・・・。スッパ君、女の子にも人気があるみたいだし」
「・・・・・・」
「スッパ君がまだなんて、意外だったかも」

 ふ、と砂漠にイーガの視線を逃がす彼。つい調子に乗って、追いかけるように正面へ回り、身を乗り出す。

「良い仲の人はいないの?」
「・・・・・・ござらん。斯様な下らぬことに現を抜かすほど、暇では無い故」
「くだらなくなんかないよ。とっても大切なことだと思う。特に、イーガは、人で居続けるのが難しい環境だから・・・・・・」
「人で?」
「人間らしさって言うかさ。だから、恋愛って大事だと思う」

 頭の中を掠めていく片影。私だって、気持ちを捧げる人がいるから、今みたいに自分のままで居られる。
 「・・・・・・もう少し経ったら分かるよ」と続けた言葉は、思った以上に掠れてしまった。
 崖上を吹き抜ける風はひゅうひゅうと音を立てているはず。なのに、そんなの気にできないくらい、二人を取り巻く空間がしんと静かになる。
 私は、無理に口端を持ち上げて、笑みを作った。

「今度、良い人、紹介するね」
「心配ご無用でござる。先生の手を借りずともこのような些事、自分一人で片付けるべきであろう」
「不器用なスッパ君には、難しいと思うなー」
「・・・・・・難しくともどうにかするのが、実力を伴うに必要な業務でござる」
「任務のひとつとしか思ってないでしょ。コーガ様は、そういうことを言いたいんじゃ無いと思うけど」
「・・・・・・先生には、おらぬのでござるか」

 はたと、打ち返す言葉が無くなる。
 唐突だ。朴念仁の彼から、そんな話が出るとは思わなかった。嫌だな。それは私の一番軟くて、脆い部分だって彼は分かっていない。爪の先が掠っただけのことなのに、そこがほろりと崩れてしまう。
 彼とは幼馴染だ。小さい頃からずっと一緒にいて、今更私の、そんな恋の話なんて。

「・・・・・・いないよ、ずっとね」

 さぁ、っと一段と強い風が二人の間を通っていって、髪の毛が散った。スッパ君の頭の上で結った綺麗な黒髪も、風に流されて揺れていた。
 頭の中に浮かぶ人。私が落ちた恋の人。どうすれば這い上がれるかも分からない。この感情の行く末だって。
 だけど私が私でいるために、きっと必要な存在だった。そう思わないとやっていられない。

 彼を見遣る。彼も仮面の奥から私を見ている。だから微笑んだ。いつもみたいに笑えたか、ちょっと自信がない。

「だから私も、恋愛したいな」

 その声に返ってくる声はなく、その場にはただ、物寂しい静寂が降りた。
 誰よりも強くなった彼が、弱いままでいる私の言葉に共感できないのは、当たり前だったのかもしれない。
 でも。できることなら、私がそういう人間だって分かっていて欲しい。私も貴方のことを、分かる人間でありたい。
 だって私たちは、他に代わりのいない幼馴染なのだから。

 それから、冷ややかなくらい細い三日月に視線を移した。二人でただ、ぼんやりと青白く滲む月を眺めた。
 この時きっと、私たちの首には月の刀がかけられていた。
 心の一部分が刈られる前に、・・・・・・私たちはもっと、世界が大きなうねりの中にあるのだと、分かっておくべきだった。





 あれは、随分生温い風が吹く夜のこと。
 朝からずっと妙な胸騒ぎがあった。文献整理をしてるときも、ご飯を食べてるときも。こんなことしてる場合じゃないって、漠然と頭にのぼってくるような。
 それは私だけじゃなく、アジトの中も同じだった。幹部やコーガ様すらも。ここ数日どこかそわそわと浮足立っているような空気が、岩屋の中に満ちている。
 心がさざめいているみたいで、業務が終わっても休む気になれない。崖上にでも行こうかと思って玄関へ向かった。
 薄暗い廊下を抜けたとき、それまでの胸騒ぎがはっきりとした形になって、目の前に突きつけられた。

「早く担架もってこいッ、急げ!」
「何やってんだ!!人手回せ!!他のやつら叩き起こしてこい!!」
「しっかりしろッ、大した傷じゃねえ!意識保て!!!」

 広い玄関ホールの端っこに、一塊になって喚く団員たち。大きな足音をたてて、構成員がすぐ横を通り過ぎていく。
 なにかがあった。目に入った瞬間にそれが分かって、さっと身体の末端から血の気が失せていく。耳に水を張ったときみたいに、外の音がぼおっと遠のいた。自分の吐息の音しかよく分からない。彼らが何を叫んでいるのか、上手く聞こえない。
 「スッパ!」「しっかりしろ、スッパ──!」それでも捉えた、聞き覚えのある名前。私は、ハッとなってそこへ駆け寄った。
 団子状にひしめく団員の隙間から、微かに赤い人が見える。でもその赤は、決して装束の赤なんかじゃない。
 ──濡れてる。血に染まってる。よく見知った彼が、スッパ君が、玄関先で血まみれになりながら、横倒れになっている。

「な・・・・・・なんで」

 どん、と後ろから大きくぶつかられた。邪魔だ、と怒鳴られた。でも身体が動かない。白い面を汚すべったりとした黒い赤が、目に焼き付いたように視界に広がっていく。
 不意に、誰かに腕を掴まれて大きく身を引っぱられた。よろめきながら顔を上げればすぐそこに担架がやってきていて、自然と開けた空閑地の先に彼の全身が見えた。
 まるで、倒れた枯れ木。役目を終え、あとは朽ちるのを待つしかないみたいな。周囲には真っ赤な葉が散り落ちたような血が広がっている。遠目で見るだけでは、胸の微かな動きすら分からない。生きてるのかどうかも。
 三人がかりで担架に乗せられた彼が、騒めきの中で運ばれていく。目の前を傷だらけの彼が通り過ぎていくとき、その無惨な姿に、思わず彼の名を呼んでいた。スッパ君。声にならない息の音じゃ、彼には聞こえないに違いないのに。
 後には、生臭い鉄の匂いが残った。私は暫く動けずに、彼の行き先を見つめることしかできなかった。

 それから暫く、何も手につかない、長い時間があった。
 血まみれで帰ってきた彼は重体で、命に別状はないと聞いたけど俄かに安心できなかった。だって意識が戻らない。気力も体力も限界のまま歩き続けたから、回復までに時間がかかるんだろうとは聞いたけど。

 書庫での作業が終わってから、毎日医務室に通った。
 薬品のにおいに満たされる医務室の中、彼は寝息もたてずに白い布団に横たわっている。口元に手を当てると微かな微風。この瞬間、いつも少しだけほっとする。良かった、ちゃんと生きてるって。
 目元には包帯が巻かれ、身体中にガーゼが貼り付けられていた。そこここに見える白い引き攣れも合わさって、彼がいつもどんな仕事を請け負っているのか、心が痛くなる。

 それになにより、枕元に置かれた彼の仮面だ。
 入団してからずっと彼の顔を覆い続けてきたそれに、見慣れない袈裟型の傷がついていた。魔物の爪や牙の痕じゃなく、研がれた剣で切り付けられたような細い筋。それに、色落ちした白い面に散る血の痕。・・・・・・生々しい戦いの軌跡を、それらは静かに語っている。

 私は布団の外に出された白い手の平を、そっと握った。しっかりと体温のある、人の掌だった。
 なにがあったのかは分からない。スッパ君はイーガの中でも強くて、頼りがいがある。それに真面目で。
 だからこそ、がむしゃらだった。

「・・・・・・無理しちゃだめだよ、本当に」

 そうしなければここに居場所がない、と思っているからだろうか。そう思ってるんじゃないかなって、漠然と前から思ってた。
 彼はもう、ここが居場所のはずなのに。自分を投げ捨てるような無理なんて、しなくたっていいはずなのに。

 彼の頬を、指の先で撫でた。冷えた表面の奥に感じる、柔らかな熱。
 ・・・・・・彼がこのまま目を覚まさなかったら、どうなってしまうんだろう。
 まるで想像がつかない。そうなることは、決してあり得ない環境じゃないって分かってるはずなのに。
 きっと、そうなったとしても私の人生は続いていく。変わらずに書庫で仕事をして、ご飯を食べて、眠りにつく。だけどそこには、私の話を聞いてくれる人は居らず、きっと緩やかに、私が私ではなくなっていく。崖上にのぼることをやめ、日々の嬉しかったことを気に留めず、星を見ても綺麗だと思わず、誰かが居なくなっても抵抗感のない、私じゃない私。
 彼が目を覚まさなければ、そうやって私も、きっと失せていく。

「スッパ君に何かあったら、わたし・・・・・・」

 視界が滲む。ごしごしと擦って、口端を無理やり持ち上げた。
 大丈夫。彼は少し疲れて、眠っているだけなんだから。彼の先生が泣いていてはだめ。
 最後に彼の額を一撫でする。また来るねと残して、私は医務室を後にした。


 スッパ君が目を覚ましたと聞いたのは、その次の日のこと。業務を始める前にお見舞いへ行こうとして、ばたばたと廊下を駆ける団員が「目を覚ましたらしい」と口にしたのを聞いた。
 駆け足で医務室に辿り着くと、既に団員たちでぎゅうぎゅう詰めになっている。「良かったなぁ!」と歓喜に憚らない声がひっきりなしに響いていて、まるで小さな祝賀会みたいだった。
 彼はここに来てから長いし、先輩も、同僚も、部下も、みんながみんなスッパ君に信頼を置いている。一団員が目覚めた、というだけでなく、なんだか家族の一人が息を吹き返したような、そんなほっとした空気が辺りを取り巻いていた。

 私もそこに混ざりたかった。だけど、私は彼の幼馴染というだけで、業務上でかかわりがあるわけでも、所属する班が同じというわけでもない。彼の元へ行くのは、きっと仕事の終わった夜の方が良いだろう。少し残念だったけど、書庫へ向かう足取りは随分軽かった。それも、半日足らずのことではあったけど。

「コーガ様がお呼びだぞ」

 そぞろな気持ちで文献に向き合う最中、私を手招きしてきたのは研究班の幹部。
 このときの私には、総長室でどんな話を打ち明けられるのか、一切思い当たってはいなかった。

 総長室には、扉越しでもわかるような重々しい空気が漂っていた。
 いつもだったら外からの風を入れている扉が、今日は閉められている。その中で座椅子に座り、腕を組んでじっと佇むコーガ様の姿。仮面の暗がりが一層濃くなっている。なんだかいつもより不気味だ。
 入りたくない。思わず身構えてしまう静かな部屋。しかし「来たか、まぁ座れ」と促されれば、一礼して部屋に入るしか術がない。
静々と主君の前で正座をして、膝の上で小さく掌を合わせた。
 ひゅう、と鋭い風の音が外扉越しに聞こえる。主君は睨むような仮面のまま、すぐに喋り出さなかった。その重い口に、説明のつかない嫌な予感が背中を這うのを、私は確かに感じ取っていた。

「・・・・・・スッパが大怪我して、意識不明になったろ。それが今日、目を覚ましたんだ。お前も知ってるか?」

 今日一日を通して、食堂でも湯浴み場でも、もちきりとなっていた話題だ。きっとアジトに常駐している団員ならば、知らない者は一人もいない。
 「はい」と神妙に相槌を打つ。コーガ様は、「よかったよな、ほんと」と息交じりに呟いた。少しお疲れのような声だった。

「今日スッパと喋ったんだがな、あいつ、とんでもねえ大バカモンなんだ。目が覚めたときに何て言ったと思う? もう少し足掻いていれば、もっと情報を引き出せたのに、だとよ」
「・・・・・・彼らしいですね、良くも悪くも」
「な。馬鹿だよなぁ。そのために死んでもいいって言ってるようなもんだ。確かにそりゃ重要だろうが、死んじまったら元も子もねぇよなぁ。あいつはこの世に未練がなさ過ぎる。あの未練のなさが強いわけだが、覚悟とはまた意味が違うよなぁ」

 じり、と行燈の火が滲んだ音をたてた。
 コーガ様が大きくため息を吐きながら、指を絡めて握り込む。

「でもこのままじゃあいつ、死んじまうんだ。俺様は、スッパがいねえとこの戦い、勝ち目はねえと踏んでいる。業務のために簡単に死なれちゃ困るわけだ。だからよ、せめて・・・・・・あいつの、心の拠り所があって欲しいと思ってんだ、俺様は」
「それ、は」
「あいつの、面倒みてやってくんねぇか」

 急に体温が下がっていって、指先が凍えるように冷たくなった。
 「面倒、って」声が上ずって、笑ってるみたいになっちゃう。どういう、とだけいって、最後までは言い切れない。

「・・・・・・初体験の相手、ってことだ」

 どくん、と心臓が一度高鳴った。
 初体験。彼の相手を、私にしろと言っている?
 幼少期からずっと一緒に過ごしてきた彼と? 私が?
 コーガ様が口にした言葉が、ゆっくりと耳の中に入ってきて、頭の中に沁み込んでくる。拳をぎゅうっと、力いっぱいに握り込んだ。
 彼をそんな目で見たことなんかない。確かに彼は、頼りがいがある。カッコいいと思う。でも、彼に抱きしめられたりとか、見つめられたりとか、そんなときに感じるのはいつだってドキドキじゃない。安心感でしかなかった。そんな風に思えない人物と肌を合わせたって、彼だって嬉しくないに決まってる。
 断わろう。断わらなきゃいけない。そう思って、口を開きかけた瞬間だった。

「あいつの、先生だろ?」

 耳を掠めていったのは、彼との間にできた契約の名前。
 それをここで持ち出す主君の狡さに目を瞠る。唇を噛む。

「・・・・・・頼む、お前にしか頼めない」
「・・・・・・なぜ、ですか」
「あいつにとって、お前が特別だからだ」

 苦い笑いが出た。
 特別? 特別だからこそできないこともあるはずなのに。

「スッパ君も嫌ですよ、ずっと顔を突き合わせてきた私とするのなんか」
「することが目的なんじゃない。あいつの未練になってくれって頼んでんだ。初めて顔を突き合わせたやつじゃ、意味がねえ」

 黙り込むと、コーガ様は「頼む」と重ねた。
 主君の言葉に、ただ頷くのが、イーガという集団だ。断われない。断わっちゃいけない。それをすれば、私がここにいる根幹を失う。
 小さく、頷く。微かな息で返事する。はい。仮面の外にも、音はちゃんと漏れていったろうか。
 コーガ様は、またひとつ、小さく息を吐いた。

「苦労かけるな」
「コーガ様の、御命令ですから」
「・・・・・・すまんな」
「・・・・・・謝るなら、命令しないでくださいよ」

 今このとき、あなたのことを慕っていると口に出せれば、どれだけ良かったろう。
 このコーガという男をたった一度でも狼狽えさせることができただろうか。一度でも報いることができただろうか。
 結局私は、彼の手の平で踊るだけだ。イーガの民であれば一人残らず、彼の思ったように彼の手足となって、この生を捧げる。スッパ君だって同じはず。そこに情はあるのか、それとも感慨すらないのか、私にはもう分からない
 狡いなぁ。私たちの主君は、狡い。
 でも、だから焦がれてしまった。どうしようもなく、憧れてしまった。頭を撫でられるだけで良いのにと、虚しい切願を抱いてしまった。彼が悪いのではなく、これは私がただ、強くいられなかっただけのこと。

 スッパ君が布団から起き上がれるようになり、身体を動かすために外へ出たと聞かされた。
 幹部伝いに、コーガ様からお呼びがかかった。心臓が飛び跳ねるように痛む。ついに、その日がやってきたのだ。

 私は言われた通りに夜着を見に纏い、ある部屋に通された。
 使わなくなった本や壊れた武器が雑然と置かれていた物置。今は随分と片付けられ、掃除までされて無機質な空間になっていた。部屋の真ん中に置かれた二組の布団が、行燈の淡い光に照らされてやけに白く見える。
 ご丁寧なことだ。私のときは、堅い廊下の上でだった。それも誰が来るとも分からない物陰の隅で、声を漏らさないように口を塞いでた。
 スッパ君は私と違って、こんな場所を宛がわれるほど大切にされている。

 布団に足を投げ出して座り、その柔らかな綿の感触を指で辿った。
 これから私は、ここで彼と夜伽をする。
 ・・・・・・いや、彼に夜伽の仕方を教える。
 不思議なものだ。小さな頃から知ってる彼と肌を合わせるなんておぞましいことのはずなのに、嫌、とも、良い、とも思わなかった。魚も泳いでいない僻地の湖面みたいな心象だった。
 イーガの面をつけるということは、私という個人を殺すこと。
 面を付けている間だけ、私は無になれる。人でなくなる。例え面下で泣こうとも、嗚咽をかみ殺そうとも、私という個人は消え失せる。

 唐突に、すぅ、と引き戸が開く音がした。
 仮面を上げる。淡い照明に浮かび上がるのは、装束のままのスッパ君。とても驚いている。彼の狼狽したところなんて初めて見た。
 その経験のなさが、そしてコーガ様に覚える信頼の強さが、眩しく見える。
 貴方は私を糧にして、これからもイーガで輝き続ける。みんながそれを、望んでる。
 私もそんな存在になりたかった。


「今日は、よろしくお願いいたします」


 伏せた仮面の内側は、砂漠の夜より暗く、ただ虚ろだった。


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