かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。
「スッパ君に良い人・・・・・・ですか?」
あれは確か、朝晩の冷え込みが少し和らいできた、春先のことだった。
うららかな陽光が裏口から差し込む総長室。コーガ様から呼び出しを受けた私が聞かされたのは、かつての教え子についての、突拍子もない悩み事。
スッパに良い奴いねえかな。
一瞬なにを言っているのか分からなかった。だからついオウム返しに聞き返してしまった。冗談か何かだと思ってしまって、でも、石像みたいに丸まって腕を組む主君は、私が考えているよりずっと真剣な様子で。
こちらに真っすぐ伸びた結元が、外からの風でみょんと揺れていた。
「あいつ忠誠心が高いのは良いんだが、死ぬことに躊躇がなさすぎてな・・・・・・。せめて一回でも女の経験がありゃあ、ちっとは考え方も柔らかくなるんじゃねえかって思ってるんだが」
「ちょ、ちょっと待ってください。せめて一回だけでもって・・・・・・その、スッパ君、は・・・・・・」
「なんも経験ねえだろうな。ありゃ生息子だ」
けろっと言ってのけるんだもの。その気後れのなさときたら。
私は面の下でぽかんと口を開けるしかなく、暫くして、額を押さえた。彼に確固たる忠誠を誓うかつての教え子が、あまりに不憫で。
不慮とはいえ、幼馴染が勝手に聞いて良い話だとは思えない。「あーあー」って言いながらこの場を去りたかった。だけど我らが主君は、女だろうがなんだろうが、居住まいが悪いからという理由だけで口を留めてくれるほど、生易しい御人じゃない。
コーガ様はつらつらと続けた。
「若え男は、したことあるか無いかで腰が据わるもんなんだ。俺はあいつを買ってる。実力不足やらをどうにかするには、さっさと初体験済ませてもらわんと、と思ってな」
「は、はぁ・・・・・・そういうものですか?」
「で、誰か良いやつ居ねえか。お前なら、なんとなくスッパの好みとか分かんだろ? あいつのこと好いてる団員の心当たりとかよぉ」
「えーと・・・・・・ないことはないですが、その・・・・・・本人の了承は・・・・・・」
コーガ様なら、本人が嫌だと言っていたとして、無理に見合いを持ち掛けかねない。まるで「暴君だ」と言っているようなものだけど。
そんな含みに主君も気付いたのか、「もちろん取ってるに決まってるだろ!」と拳を握って憤慨した。良かった、私がコーガ様のデリカシーについて、勘違いしていただけみたいだ。
「外で済ますか、団内で済ますかって段階だ。ただ、あいつの性分考えたら、知らねえ奴とワンナイトするとは到底思えねえ。だから、できればお前がイイヤツを紹介してやって欲しいわけだ」
「はぁ・・・・・・ワンナイト・・・・・・」
「まぁ、・・・・・・もしくは、そうだな」
気の利いた返事ができずに肩を竦めていると、コーガ様が露骨に視線を向けてきた。
顎を撫で、腕を組み、上から下までをじろじろ見まわす・・・・・・あからさまな目つき。
こんなの品定めだ。いくらコーガ様相手だって許されない。背中の辺りがぞわりとして、身を引いた。
「ちっさい頃からスッパと通通の、”先生”が教えてくれてもいいんだが?」
咄嗟に「まさか!」と、つむじを突き抜けるような声が出た。
10も違う彼と。しかも、幼い頃から一緒に過ごしてきた幼馴染だ。どうしてそんな間柄で、”そんなこと”ができるだなんて思えるんだろう。
そういうことをする相手として、私は彼を知りすぎているし、彼だって私を知りすぎている。とてもじゃないが妙案だと思えなくて、私は勢いよく首を左右に振った。
いつもの笑えない冗談。そう思っていたけれど、その後に続いた声は「ん、そうか・・・・・・」とキレがない。存外本気だったのだと、その一言に滲んでいるようだった。
まったく、主君の考えることにはびっくりだ。頬を掻いて誤魔化そうとする仕草に呆れてしまう。私たちがどういう関係なのか、コーガ様だってよくご存知のはずなのに。
「じゃ、まあスッパに良いやつを紹介してやる件、くれぐれもよろしく頼むな」
空気を切り替えるみたいに膝を叩く。パシンという乾いた音は、扉を抜けて外にも響いていった。
清々しい余韻とは対照的に、私の気は重い。だけど、主君に「頼んだ」と言われれば、「はい」と返すのがイーガという集団だ。私は渋々頭を下げて、その場を退散することにした。
総長室から廊下に出て、洞穴のような暗がりが伸びる奥へと進む。
書庫では、相変わらず文献の山が私を待っている。だけど、頭を巡っていくのは、見飽きた本や古代知識のことじゃない。
床に散らばった砂をなんとなく蹴り飛ばして歩く最中、悶々と考え続けてしまったのは、コーガ様が口にした「業務」についてのことだった。
ワンナイトで考え方が柔らかくなる。腰が据わる。・・・・・・実力不足。
コーガ様は実感をもって口にしていたようだけど、正直言ってどれもこれもピンと来ない。それは私が女だからで、若い男性とは違うから、だろうか?
自分自身が清らかさを捨てた日が、自然と頭に浮かんでくる。だけど、あれを機に考え方が柔らかくなったり、腰が据わったりという実感や記憶はない。ある意味、自分に見切りがついた感じはしたけれど。
スッパ君が誰かとの初体験を済ませたら、彼はもっと上へいくのだろう。そうなれば私にはもう、一切追いつかない人になるのだろうな。それはとても感慨深くもあるし、焦る感じも、確かにある。
それにしても。書庫に辿り着いた私は、文献を広げた。親しみ慣れた古い紙の匂いが鼻を掠めていく。
スッパ君に、良い人かぁ。
崖上での会合。いつも無味乾燥という風に佇むヌボッとした彼を、頭の中に思い描いた。
あの石仏みたいな彼が、誰かに恋をして、言葉を尽くして、結ばれて。一切合切淡泊で、他人に興味のないあの彼がだ。そんなの本当に、ありえるんだろうか?
もしそんな彼が心を寄せる相手が現れるのなら、それは本当に素敵なことだと思う。彼の幼少を知る幼馴染として、心から祝福したいし手伝いをしたい。
けれど、経験を積むためだけの相手を見繕って、まるで宛がうみたいに二人を近づけるのはどうなんだ。いくらコーガ様の提案とはいえ、心の伴わない男女の睦合を演出しろなんて乗り気になれない。私が彼に説いてきたこととも反する。もちろんコーガ様の言いつけを反故にするようなものだから、こんなの誰にも言えないことだけど。
でも、そっか。・・・・・・恋か。
掠れ文字を走らせた筆を引き上げる。
改めて墨を含ませようとして──でも、やめた。
一口で紡げてしまうほど単純なその言葉に、ふと思うことがあった。
私が初めてそれを意識したのは、まだ村に住んでる6歳の頃。
行商人という体でハイラル各地を回っていた父からもらった、一冊の本がきっかけだった。
「恋の話」
それは、いつもお土産が詰め込まれている”魔法の鞄”の中へ、隠すようにしまい込まれていた。
なんとなく分かっていても、実感なんてしたことのなかった「恋」という言葉。頭の中へ唐突に割り込んでくるみたいに、背表紙の綴りに視線が引き寄せられる。
「父様、これなあに?」と、勝手に引きずり出して掲げると、優しい父は呆れたように目尻を緩めてみせた。
「若い子の間で流行ってるんだってさ。ほら、いつも辞書ばかりをお土産にするから」
「私、辞書も好きだよ。気にしなくていいのに」
「おやおやそうかい、じゃあ、こういう本の方が興味なかったかな」
イーガの子供が目にできる本はあまり多くない。世の中の潮流は、女神ハイリアへの信仰を元に作られた本ばかりであって、それらはイーガの民にとって都合が悪かった。コーガ様へ捧げる忠義の緩みになりかねないからだ。
「恋の話」は、父の検閲を通過できた数少ない本だった。確かに辞書とは随分勝手が違っていて、これを読んでも何かが分かることは無いに違いなかった。
だけど、ぱらぱらと捲る内、これはこれで面白そうだと、持ち前の好奇心が擽られた。
「ううん、面白そう。ありがとう、父さま!」
私は笑って、父様も笑った。温かな風が、ふわりと間を抜けていった。そんな些細なことをよく覚えている。
「恋の話」という本は、しばらくの間、私の愛読書になった。
旅人に恋した主人公が、幼馴染の男と一緒に冒険をする物語。簡潔な言葉運びで、時折挿絵を挟んでいるから読みやすい。それに、変わり映えの無い村での生活で、「恋」はまざまざと新しい感情だった。同年代の異性と会ったことのない私には到底無関係で、だからこそ興味深かった。
恋はどうやら、好きという思いと関係が深いらしい。父様や母様に対して「好きだ」と思うのと、主人公の女が旅人に抱いた「好き」は違うのだろうか。知識を得ることが「好きだ」と思うのを、「恋」したとは言わないのだろうか。実感の湧かない「恋」について、幼い私は、それがどんな感情なのか紐解きたかった。
ただ、残念ながら私には、恋について語れる相手がいない。食卓で「恋ってなあに」と聞く勇気なんか無かったし、村で一番のお友達は、「あれなに、これなに」という尽きない質問の虜になっている幼子だけ。6歳の私ですら未知の感情を、飽き性の子供と膝を揃えて語り合うことなんて出来っこない。
だから私は、私自身と恋について語り合った。
この村に、とびきり素敵な人がやってきたらどうなるんだろう。
私も恋をするんだろうか。そんな彼が人知れず旅立ったら、再会を求めて村を離れたくなるんだろうか。
主人公を自分に見立てて考えることもあった。でも何度やっても、主人公の女と意見が衝突することで終わりを迎える。
私なら、世の中を見ている内に恋をした相手なんてどうでもよくなるに違いない。そして、幼馴染の男の子と一緒に、世界の果てを見に行きたくなるに違いない。
それだけこの世は、不思議と興味に満ちている。
女は旅の道中で全てのものを素通りしたけれど、それが信じられなかった。そんなことができるほど、恋は人を狂わせてしまうものなんだろうか。
「恋って分かる? 他のものが、何にも目に入らなくなっちゃうらしいよ」
子飼いの山羊に愛読書を捲ってやると、なんと数枚の頁を食べられた。泣いて怒ったけど、「小屋に紙を持って入るからでしょ!」と母様に怒られたのは私の方だった。
いつまでも考えたって分からない「恋」に実感が伴ったのは、色づいた葉が落ち始めた季節。
あれは、父様が亡くなって、村でお葬式をした日のことだった。
帰ってくると言った日に帰ってこなくて、母様と「遅いね、どうしたんだろうね」と言い合っていた。それから、見たことのない大きな男の人が家にやってきて、母様になにかを手渡した。受け取る前にその場へ崩れ落ちた母が嗚咽を始め、幼いながらも何かあったんだと悟った。
母様が受け取ったのは、木でできた白い仮面。そこに描かれていた赤い一つ目のマークは茶色く汚れ、たくさんの亀裂が走っている。
それが、母を見つめてた。
お葬式までは早かった。
お葬式といったって、父様の身体がそこにあるわけじゃない。列席者も、顔なじみの村民が十名ほどで、みんなお祈りを捧げ、母様と私に一言かけて去っていく。たったそれだけの粗末な式。
小さな祭壇には、父様が大事にしていた本やパイポ、洋服なんかをひとまとめにして置いた。あとは、男の人から受け取った一つ目の仮面も。
泣き続ける母様の代わりに、村民への挨拶は私がやった。母から教えてもらった挨拶の言葉はすぐに覚えて言えるようになったけど、みんな小さく会釈するだけで、すぐさま母様の肩を抱きしめに移った。
私はそれを隣で眺めているだけ。なんだか自分だけ、違う場所にいるんじゃないかって思えて仕方なかった。
すっかりあたりが暗くなって、夜の帳が降り始めたころ。
隣のおばさんから貰ったお裾分けを食べようかとぼおっと考えていると、突然、扉をノックする音があった。
村の住人たちは、全員やってきていたはず。こんな時間に誰だろう。不思議に思いながらも、「はい」と返事して、扉を開けた。
暗がりにぬっと立っていたのは、縦にも横にも大きい男の人だった。
ぴたりと身体に沿う赤い衣服は肌の一切を隠し、大きい襟首がひと際に目立つ派手な様相。頭の上からは、ボンボンみたいな黒髪がぴょんと飛び出ている。なんといっても視線を奪われたのは、でっぷりとしたお腹だ。何かが詰め込まれているんじゃないかと思うくらい丸々としていて、迫ってくる初めての肉圧に目ぱちぱちと瞬いた。
どう見たって怪しい。
だけど、警戒はしなかった。
なぜなら男の顔に、見慣れた白い仮面が張り付いていた。それは、父の形見として持ち込まれた仮面と、赤い瞳の意匠が全く同じだった。
「随分遅くなっちまったなぁ、別れの挨拶しに来たぜ」
声に反応し、それまで俯いていた母様が「コーガ様!」と飛び起きた。
コーガ様。その名前を聞いて私も目を瞠った。寝物語には必ず聞かされていた偉大な人の名前だ。
先祖の血を今世へと繋げてくださった崇高なお役目。苦難多き我らを導く標であると同時に、私たちは、この人のためにあるのだと。
散々両親から聞かされていた人物が、今まさに、目の前にいる。
本当に、この人が? にわかに信じられずにまじまじと見つめたけれど、今まで想像を膨らませていた神のような厳かさとは、いまいち結びつかない。目をぱちくりさせている間に、コーガ様は母様に連れられて、のしのしと奥へ進んでいってしまう。
それから、他の村民がそうしたみたいに、コーガ様は父様の祭壇に手を合わせた。ごにょごにょと不明瞭な言葉でなにかを唱え、一度、二度と深く頭を下げる。おもむろに振り返った彼は音もなく母様の元へと近づいて、元気づけるみたいに優しく背中を叩いた。母は暫くの間、また子供のように泣きじゃくった。
どれくらいそうしていただろう。漸く母が落ち着き始めた頃合いに、コーガ様は緩やかな動作で立ち上がる。「今日は村でお休みになっては」と引き留める母の言葉で、コーガ様がこれから帰るつもりなのだと悟った。彼がどこからやって来たかは分からないが、母の慌てぶりを見ると、決して近い距離ではないらしい。
しかし、鷹揚に「いいからいいから」と手を振ってみせるコーガ様を、それ以上引き留めることはできない。母様が村の出入り口までお見送りに行くというので、私は家の留守を任されることになった。
「この度は、御足労頂きありがとうございました。父もさぞ喜んでいることだと思います」
玄関を抜けていくコーガ様へ深々と頭を下げる。
何度口にしたか分からないこの挨拶で、今日の私のお役目はおしまいのはずだった。
「おかげで母も少し元気になったようです。お帰りの際はどうかお気を付けください。貴方様にご多幸あらんことをお祈り申し上げます」
「・・・・・・嬢ちゃんは、あいつに似てるなぁ」
唐突に、ぐっ、と一つ目が近づいてくる。私は急な圧迫感にたじろいだ。
でも、彼が口にしたあいつ──きっと、父のことだ。
「父をよくご存知なのですか」と思わず問うと、コーガ様は「もちろん」と大きく頷いてみせる。
「あいつはうちの中でも、落ち着いてて、理性的でなぁ。冷静なところなんか、まるで嬢ちゃんと瓜二つだ」
「私と、瓜二つ」
「ああ、そうだ。・・・・・・それに、ちいとばかし、無理するところもな」
思ってもみない言葉に首を傾げると、ぽん、と頭の上に、大きな手の平が降ってくる。
そのまま遠慮なしにわしゃわしゃと撫でつけられて、されるがままになった。
唐突のことに目を白黒させていると、気付けばあの一つ目に、顔を覗き込まれてる。
「無理すんなよ。まだガキンチョなんだ。そんな強張った顔、お前の年齢じゃ似合わねえぞ」
「・・・・・・」
「そうだな。もし寂しくなったらよ、俺様があいつの代わりにでもなってやる」
柔らかな声音。血の通った言葉。コーガ様の全部が、冷え切った胸の底までするりと入ってくるようだった。一人で暗闇に座り込む私の隣に、そっと寄り添って座ってくれたような。
まるで、いつも私のことを心配していた、父のような。
ふと気づくと、目の前の赤い瞳がぼやけている。白と赤が混ざり合って、なんの輪郭もなくなって。そうして歪んだ世界がぼろぼろと落ちていく。落ちても落ちても、だからって視界が戻るわけじゃない。そうこうしてるうちに呼吸もままならなくなってしゃくりあげ、私はわんわんと遠吠えのような声を上げた。
「おうおう泣け泣け」と、さっき母にそうしていたように、背中をぽんぽんと叩かれた。父とは違って筋の目立つ指だったけど、父と同じように、温かい掌だった。
いつしか、背中を擦る手の平が緩やかになっていた。もうその頃にはひとしきり泣いて、私の呼吸も収まり始めたときだった。
コーガ様が、仮面越しに視線を合わせてくる。その裏側でニッとした笑みを浮かべて、精一杯の優しい声で言った。
「お前みたいなしっかりしたやつが来てくれたら、うちも安泰だ。数年後、谷で待ってるからな」
最後にぽんと、頭を撫でていく、暖かな手の平。それからコーガ様が、よっこいせと身体を持ち上げる。
母の先導を受け、大きな背中が、夜の闇に沈んでいく。左右に揺れるように歩くのしのしとした姿が見えなくなるまで、あの時の私はずっと、目を外さなかった。
その後ろで、父様の仮面もコーガ様を見送っていた。
今でもしっかりと思い出せる。頭を撫でられたときの体温。声の柔らかさ。
それらが全部、ゆくゆく落ち続けることになる深淵の入り口だなんて、この時の私はまだ分かっていなかった。