かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。

 スッパ君は、とても聡い子だった。最初に約束した文字の読み書きは数回の勉強会で身に着けて、すぐに仕分け業務を一人でこなすようになった。
 元来、真面目な性格なんだろう。空き時間ができれば書庫にやってきて、机の隅にちんまりと座りながら書物を読みふける。
 「ガキを連れ込むな」って声を荒げた研究班の先輩も、気付けばバナナを分けてあげるくらいには、彼は私たちに馴染んでいた。

 単に本を読みたい、というだけじゃない。イーガを・・・・・・もっと言えば、この世の中を渡っていくには知識が必要なのだと、幼いながらも分かっているみたいで。
 彼がここへやってきたとき、飢えて死ぬ寸前だったのだと人伝に聞いた。彼はきっとその経験を通して、生存本能を研ぎ澄ませたに違いない。

 私は、彼の良い先生で居続けた。

「先生、これって・・・・・・」
「あ、それはね」

 文献作業の傍ら、彼が本の一節を指させば、すぐさま視線を上げて滾々と説明した。
 彼はまるで、乾いたゲルドの台地みたいだった。ぐんぐんと底なしに水を吸い込んでいくように、教えたことを次々に自らの血肉に変えていく。
 見ていて気持ちが良かった。こっちが楽しくなって、業務そっちのけで教えたくなるくらいに。
 暫くしてから、お気に入りスポットの崖上にも招待した。
 岩屋に閉じこもってる彼の、ちょっとした気晴らしになれば良いなと思っただけ。予想通り、彼は「わぁっ」と喜んでくれた。胸の内がそのまま漏れ出たような声で。
 ああ、連れてきて良かった。心の底から思った。初めて見る年相応の反応に、私まで胸が温かくなるようだった。

 それからというもの、今まで私が独り占めしていた夜の崖上は、二人の秘密の場所になった。
 ここでは、人目を気にせずケラケラ笑って、なんでもない話をたくさんする。話し手は、大概私だ。彼は月光を白い面で跳ね返しながら、真剣に十代の娘の話を聞いてくれた。

 ──束の間、役立たずの研究班という肩書きがなくなる時間に、私は浮かれすぎていたのだと思う。
 彼から与えられた先生という表札が、本来は分不相応だと、私は分かってたはずなのに。
 最初に覚えた違和感を覚えていれば、ここまでショックを受けることもなかった。

「今度、資材班から補給班に変わることになったんです」

 あれは、出会ってからちょうど一年経ったあたりの頃。
 暗がりの中から駆け足でやってきた彼は、興奮冷めやらない様子でそういった。年齢なりの、上ずり声で。
 私は、彼を迎えたままの笑みが、ひくりと引き攣るのを感じた。

「そっか」

 暫くして口にできた言葉。このとき私は、ちゃんと笑えていただろうか。

「おめでとう! スッパ君、一歩成長だね!」

 可愛らしく頬を掻いてみせるスッパ君が、なんだか邪気の無い妖精みたいに見える。月の光も彼を祝っているようで。
 ──彼はいつまでも、子供でいるわけじゃない。そんなの今更疑問に思うこともない事実なのに、改めて突きつけられたみたい。
 でもきっとそれは、いつまでも子供でいてほしいって、私がそう思いたかっただけ。彼を照らす月光が、仮面で隠していた私の影を引き伸ばした。
 彼は一歩ずつ努力を重ね、実力をつけた。
 私と違って彼には才能があって、時間があって、自分を信じて努力ができる信念があった。
 そしてなにより、周囲が寄せる、純粋な期待も。
 

 次の日、私は書庫に行かなかった。
 
 一人前になりたい。
 コーガ様の役に立ちたいんです。

 幹部に頭を下げて、必死に頼み込んだ。
 暗殺の任務が決定したのは、そのすぐ後のことだった。







 平原を涼やかな風が渡る。綿を敷き詰めたような厚い雲が、月も星も隠す漆黒の夜。
 冒険者の男に扮装した私は、ハイラルの交易所にやってきていた。
 昼間には人でごった返しているだろう街道沿いの交易所は、しかし深更にもなれば人影もまばらで、歩いている人はほとんどいない。

 フードを目深にかぶり、事前に聞いていた情報を頼りに、岩作りの建物の合間を縫っていく。
 やがて、他の建物から距離をとった場所に、うら寂れた施設が見えてきた。
 交易所で見かける他の施設とは違い、横に長く、看板もなければ窓もない。玄関に掛けられた一本の松明が、異世界の入り口みたいに扉を浮き上がらせている。

 間違いない、ここだ。
 交易所の片隅で、ひっそりと拓かれている慰安所。業務の対象は、この中にいる。 
 私と同じく冒険者に身を扮した団員──私の御守り役を任された幹部と、視線を交わして頷く。
 彼は、研究班を取り仕切る直属の幹部ではないけれど、アジト内で見かけたことのある人だった。たぶん、普段は暗殺専門の隠密班。暗器の取り扱いや殺人のコツは、ここへ来る道中に彼から教わった。

 コツコツ、と幹部が指の節で古臭い木扉をノックし、暫くしてから押し開ける。隙間から漏れ出てくるのは、むわりとした生ぬるい熱気。それに、虫が寄ってきそうなほどの甘ったるいニオイ。
 思わず強張る表情のまま、私は扉を抜けた。
 慰安所の中は、酷く簡素なものだった。調度品も置かれていない岩づくりの空間にカウンターがひとつ。緩んだベストをだらしなく着る壮年の男が立っている。
 その先には廊下が伸びており、一列に並ぶ同じような扉が、床に置かれた蝋燭の灯りに揺れていた。

 いくつもある扉の先々で、今まさに、恋人でもない男女の逢瀬が交わされている──。
 先輩から冗談めかして、情事の話を無理やり聞かされたこともある。だから、何をするかは知ってるけれど、でも私自身は、それを一度も経験したことがない。相手だってもちろんいない。
 幹部が受付を済ませている間、私は居てもたってもいられない気持ちで裾を掴みながら、視線を泳がせることしかできなかった。

 暫くして、カウンターの男から部屋の鍵を渡される。一番奥の部屋だ。幹部に視線で促され、そのまま進みだす彼を慌てて追いかける。
 扉を過ぎる度、女のよがり声が波のように強弱して聞こえる。
 相変わらず花の蜜を煮詰めたような甘いニオイも相まって、ああ、頭がおかしくなりそう。

 先に奥へと辿り着いた幹部さんが、迷いのない動きで扉の鍵をカチャリと開ける。
 ぎ、と開け放たれた先に居たのは、ソファに枝垂れる一人の女だった。
 板についたようにキセルをふかし、煙の隙間から、片眉だけを吊り上げてじろりと睨みつけてくる。

 「おや、二人組かい。・・・・・・なんとまぁ、骨が折れること」

 高い鼻筋に、切れ長なアイライン。隠しきれない皺やくすみはあるけれど、キレイな顔立ちの人だった。
 シフォン生地のドレスからは、胸の形や突起の色、くびれのラインがくっきりと透けている。・・・・・・男の人は、こういうのに興奮するんだろうか。
 正直、どこを見て良いのか分からない。私は視線を右往左往させながら、こわごわと鼻先に視線を留める。

「メインはどっち?まさか同時に、なんて言わないだろうね」

 酒焼けしたような掠れ声に促され、煙をかき分けながら幹部がぬっと前へ出る。
 見下ろす幹部と、見上げる女。影の落ちたその瞳が、一気にランと輝き出した。
 いいねぇと舌なめずりをするその顔は、数日ぶりのご飯にありつく浅ましい野獣のようだった。

 上半身を近づけた幹部の首に、ひっしりと女の細腕が回される。ちゅ、ちゅ、と熱烈な水音をたてながら彼女が頬にキスをして、どんどんと顎や首へと落ちていく。
 幹部のごわついた手先がシフォン生地の上からくびれを撫でる。「あン」と大げさな声を上げた女は、胸を差し出すように背を反らし、幹部を抱きながらベッドへと倒れ込んだ。
 粘っこい声で彼を誘いながら、女は片方の口端だけを曲げたようないやらしい笑みを浮かべていた。細い手先が彼の中心を撫で上げ、それに呼応するように、幹部がシフォンのドレスをたくし上げ──。

 私は、裾を握り込んで、何もできずに扉の前で立ちすくんでいた。
 初めて見る、男女の情交。いつかは私も、と思っていたけれど、いざ他人の色事を目の前にしてバクバクと騒ぐ心臓が止まらない。人は、人に対してこんなにも貪欲になれるものなの?
 視線を逸らせずにいると、女が横目でちらりと私を捉える。

「そっちの子は鑑賞ってわけ?見せつけたいんだ?まったくいい趣味だこと」

 ケタケタと笑う声が魔女みたいだ。膝立ちになった幹部の腹を、女の長い舌がツツツと這い上がった。まるで私に見せつけるように。

「いいよ、あたし激しくされるの好きだから。見せて興奮するんだったらそっちの方がいいし。それに・・・・・・」
「砂漠に住まう赤き集団について、知ってることを全て教えてもらいたい」

 女の声を遮るように、幹部の低い声が部屋に響いた。
 情事に耽る甘い表情から一転、女は両目を見開いて、眉を吊り上げる。
 それから「はっ」と鼻で笑い、彼を突き飛ばした。

「なーんだ。そっち!? せっかく久しぶりに楽しめると思ったのに。私より情報が目当てってわけ!?」
「・・・・・・」
「二人で聞くならルピーは弾んでもらうよ。全く、最初っからそう言いなッ。面倒のくさい、これだから男は」

 ぶつぶつと文句を口にしながら衣服を整える女に、「で、何か知ってることはあるのか?」と幹部が問い直す。
 女は、乱れたシフォン生地を、荒い手つきで整えた。

「そうさねぇ、そこまで多くを知ってるわけじゃないけど。・・・・・・でも、ほんとにやばい情報だし、先に貰うもん貰わなきゃあ、ちょっとね」

 改めてキセルに煙草を詰め、どっかりと壁に凭れて座り込んだ女は、先ほどのいやらしさは毛ほども残ってはいなかった。接客はおしまい、ということなのかもしれない。
 幹部の目配せを合図に、懐に準備していた銭袋を取り出す。無造作に突き出してくる女の手のひらに乗せると、彼女は重さを測るように袋を上下させてから「ま、いいか」と呟いた。

「今から言うことは他言無用だ。・・・・・・砂漠のやつらは、あすこら辺を仕切ってるゲルドの民も手を焼くヤバい連中さ。血を模した赤い衣に、瞳を模した白い仮面がトレードマークでね、なんでもシーカー族が分派した輩って話だよ。シーカーってのは、そもそもが王家の暗部だった連中だろ? 砂漠のやつらは、その頃の暗殺の技を磨き上げた精鋭ぞろいなのさ」
「・・・・・・なるほど。他には?」
「コーガって男を中心に、なんでも王家への謀反を企ててるって噂だが・・・・・・客から教えてもらった話にゃ、かなりの数が既に城下に入ってるとか?そいつは酔っ払ってたんで、真偽不明だけどね」
「ふむ・・・・・・そいつらと接触する方法は分かるか」
「接触する気なのかい? なんと物騒な・・・・・・。そうさねぇ・・・・・・砂漠にあるっていうアジトを途方もなく探すか、城下にいるっていうお仲間を探すか・・・・・・。あぁ! やつらツルギバナナを大量に仕入れてるみたいだから、交易所で張ってたらどうだい? たまにそういう輩がやってきてるって聞くけどね」

 そういって、女は手を打ちながらひゃひゃっと笑ってみせた。女は冗談のつもりで口にしたみたいだけど、おそらくその交易所に来ているというのは、イーガの団員だと思う。
 女はここで身体を売りながら、情報屋としての顔も持っている。それが確認できれば充分だ。
 私は、幹部と目配せし合い、頷いた。

「その情報、今後はあまり口外せぬように約束してくれないだろうか」

 幹部の言葉に、女が「はぁ?何言って・・・・・・」と口元を拭う。
 そして、はたと、言葉をなくした。
 彼女は気付いたのだ。目の前の男が、なんの集団に所属していて、誰にその話をしていたのか。
 いつの間にか、幹部の顔が、一つ目の仮面で覆われている。
 目を見開き、見る見るうちに顔が白くなっていく女。「あ、あんた、あんたは」と言葉を縺れさせたが、続きを紡ぐ前にその首を大きな手の平が掴む。
 苦しそうにあうあうと上下する口元へ薬を仕込んだ布巾を宛がうと、女は瞼を半開きにしてかっくりと脱力した。

 ベッドに寝かせ、仰向けの胸が微かに上下している。音もなく後ずさった幹部と入れ替わるように女の元へ歩み寄り、私は腰のクナイを力強く握った。

「一度で仕留めろ」

 そのずっしりとした低音が、肺の底に沈み、浅い呼吸を深くさせていく。
 頭の中には、力の入れ方、クナイを刺す場所、何を抉って、何を切り取るのかが順番に巡っていた。全部道中で聞いたことだ。
 私は、あられのない姿をさらす女の心臓めがけて、クナイを振りかぶった。




 気付いたら、森の中にいた。
 ごつごつとした木の幹に手をついて、はぁはぁと呼吸を繰り返した。私一人の息切れの音が、やけに耳について聞こえる。
 明かりなんてひとつもない真っ暗闇だ。それでも地を這う根っこに足を取られなかったのは、隠密の血がそうさせてくれたのか。
 でも、手が震える。どうしようもなく止まらない。
 クナイが突き破った肉の感触と、ゴリとつきあたって止まった骨。それらを掠め、ひと際固い肉の塊に達した感触────手のひらに全部生々しく蘇ってきて、何かがお腹の底からこみあげてくる。その感覚に抗わず、私は大きく屈みこみながら胃の中の物を吐き出した。

「ここまで来ればもう追えまい。あとはアジトへ帰るのみだな」

 木の影から辺りを警戒していた幹部が戻ってくる。傍まで寄って私の様子に気付いたらしく、「大丈夫か?」と背中を摩ってくれた。
 人の体温がこの時は酷くありがたくて、撫でおろされるのと共に嘔吐感も収まっていく気がした。

「すみ、ません・・・・・・想像より、その・・・・・・」
「まぁ、そんなものだ。だから皆、魔物退治で鳴らしてから業務に出るもんだが・・・・・・お前、外の経験がないのによくやったなぁ」

 幹部にとって、こんなのは日常の業務でしかないのだろう。身体中汗みどろの私と違い、彼は来るときと寸分違わぬ落ち着いた声を保っている。
 やっぱり、現場の人間は違う。背中を摩りながらも辺りへの警戒心を解いていないのが、手慣れた熟達者の振る舞いに違いなかった。
 暗がりに浮く白い仮面を見上げていると、その視線に気付いたらしい。笑ったときのような息を吐いて、今度は頭をぽんぽんと撫でながら、彼が密やかに言った。

「アジトに戻って、コーガ様に報告だ。・・・・・・晴れてお前も、一人前の仲間入りだな」

 一人前の仲間入り。一陣の風が抜けたように、喘ぐほどの気持ち悪さがすっと引いていく。
 コーガ様に報告をすれば、やっと、私も褒められる。
 よくやったなって。今認めてもらったみたいに。
 私だって彼の方の役にたてると、これで証明できる────。


「そうか。ご苦労さん」


 アジトへ戻って報告を終えた後、コーガ様から返ってきたのは、たったそれだけだった。
 まとめられた報告書に視線を落として、はらりと頁を捲る。待っても待っても、返ってくるのは紙の上を滑る指先の音だけだ。一人前とか、よくやったとか、そんな言葉はひとつもない。
 「コーガ様、私・・・・・・」と痺れを切らして口を開いたら、「もう下がって良いぞ」と一言。報告書から、顔も上げずに。
 まるで、衝立でも一枚、挟んであるみたいだった。その衝立を境に、コーガ様と私が見えてる世界が全く違っている。
 だって人を殺したと報告したのに、コーガ様は明日の天気の話でも聞いてるみたいなんだもの。頭の先がサッと冷たくなった。血の気が引くって、こういうことを言うんだってぼんやり思った。
 拳を握り、一度ぎゅうっと下唇を結んでから、「失礼いたします」と三つ指をつく。
 扉を抜ける寸前、「ゆっくり休めよ」と、コーガ様の小さな労いだけが追いかけてきた。

 足を引きずりながら薄暗い廊下を少し進むと、行燈の明かりの下に、業務を共にした幹部の姿があった。
 私を見つけた途端、壁から身体を持ち上げて「お疲れ」と片手をあげる。

「今日の任務はこれで終いだな。三日ほど、コーガ様から休息をとるように言われている。今日はゆるりと休めよ」
「・・・・・・」
「俺からの助言だが、初任務は精神的にがっくり来るからな。美味いもんでも食べて、ぼおっと何も考えないのが肝要だぞ」
「・・・・・・」
「・・・・・・ほんとに大丈夫か?お前」

 何も言わず、ただ拳を握って廊下の隅を見つめる私は、異様だったかと思う。でも、顔を上げられるほど、彼の声に返事を返せるほど、このとき元気でいられなかった。

 たった一言でも良い。ただ、褒められたかった。
 私は、彼のためにここに居る。彼のために、イーガへ入ってきた。なのに彼のために何もなってない。居ても居なくても、殺しても殺さなくても、彼の中の私という存在は、何も変わらなかった。変えられなかった。
 彼のためならなんでもできる。なんでもできるのに、それを肯定も否定も、されないなんて。
 主君にとって私は、ただの一瞬も興味をひけない、駒でしかないんだろうか。

 ちり、と行燈の蝋燭が、あざ笑うような音をたてた。

「かんぶ、さん・・・・・・」
「おい・・・・・・」

 声が震えた。
 頭の中で、女の細められた瞳が浮かんでる。
 理由は、汚らわしくて、自分だって言葉にしたくない。
 
「抱きしめて、くれませんか」

 暖かくて、大きな身体に、凭れかかる。

「一晩・・・・・・だけで、いいので」

 息を呑む音。強張る胸板。とくとくと早打ちを始める鼓動。
 お願いします。小さく口にすると、森の中で背中を摩ってくれた大きな手の平が、そろそろと私の両肩を包む。
 厚い胸板に、頬を擦り寄せる。それから、男の人の太い腕が、這うように背中へ絡みついた。




 これは、私が一人前になった日。
 ・・・・・・そして、大人への階段をひとつ上った日の、お話である。
11/18ページ
スキ