【完結】かつて筆頭幹部には師と仰ぐ人がいた。


 俺にはかつて、師と呼ぶ存在があった。
 生涯で唯一、俺自身の存在意義を捧げる、主たるコーガ様とも違う。
 刀や弓を仕込まれ、イーガでの渡り方を教えられた、往年の幹部殿とも。
 その人は、特別な才や武勇があるわけでもない、ただの平凡な、構成員の一人であった。

 イーガの絶対ともいえる武力も持たない、まごうことなき内勤の一端。しかし俺には確かに師であって、存在せねば今の俺もここには居ないと思うほど、重要な、貴ぶべき人物だった。
 何故、俺が師と仰ぐのか。先生と呼ばれるその人に、首を傾げる団員は数多い。
 筆頭幹部として主の隣を行く俺と師との繋がりは酷く薄く、視線が交わる瞬間すら幾ばくも無い。その疑問は至極もっともだと、俺でも思う。

 決して忘れてはならぬ刹那のようなひととき。俺の礎となった彼女の教え。
 今にして思えば、運命といえば聞こえの良い、必然的な出会いであった。ただ、俺はすべからく、その必然を心に戒めるべきなのだ。
 今改めて、彼女との必然、忘れてはならぬ刹那のひとときを、胸に刻みたいと思う。






[第一幕:齢七か八の時分]

 それは俺が、コーガ様の慈悲を受け、イーガ団に入団した当初の話である。
 イーガは、暗殺などを生業とする隠密の徒。本拠へと身を置く構成員と言えど、いつ何時、不時の戦闘へと巻き込まれるか分からない剣呑な環境であり、つまるところ、招かれざる来客に抵抗のできない人間に、岩戸での居場所はなかった。例えば、妊娠中の婦人、抵抗力のない子供、不随となった団員など。
 イーガの通例に従えば齢一桁の俺など、他の村に隠遁する仲間の元へ送られたとて、何も不思議ではなかった。
 素性を隠し、その時が来るまで鍛錬を続けながら、近くの村々で過ごす幼少期。そして時が熟したとき、隠密の生を生きるか、親との縁を切り、ただ人の生を生きるかを委ねられる。それがイーガの親元で生まれた子の宿命である。
 実際にコーガ様より「スッパも、時が来るまで他の村で過ごすか?」と、提案された機会もあった。そして、その声を押し退け、岩戸に居座ると言ったのは俺だった。
 全てはコーガ様への恩に報いるため。お傍に居られなければ存在意義さえ無いと、幼いながら、当時の俺はそう深く理解していた。

 しかし、俺は弱かった。当然だ。そして、力なき幼子が「居たいから」という、それだけの理由で留まろうとしたところで、主の邪魔にしかならないのは必然だった。
 当時は力に飢えていた。純粋な武力という意味でも、それ以上に、世を一人で生きていけるほどの知力にも。
 文字すら読めない幼子が己の世たる集団に身を置くには、知識なきままでは、あまりにも不都合が多かった。

 そんな俺が当時配属していたのは、本拠の武器や資材を管理する資材班。力が無くとも団の役に立てるだろうという、コーガ様のありがたい配慮による采配である。
 調達された物資を適所に運び、必要に応じて手入れを行うその部署は、おそらくイーガの中ではもっとも戦前と遠い場所だろう。その采配に自分の力のなさを痛感し、戦闘に長けた先達への尊敬を深めたものだった。
 しかし、結果的にはコーガ様のその采配が、俺の人生を少し変えることになる。
 それはおそらく良い方に。僅かだがはっきりと。俺のイーガでの生はたった一寸、変わることになったのだ。


 忘れもしない、業務についた初日のこと。
 俺は資材班を取りまとめる幹部殿にいわれた通り、運ばれてきた物資を、管理する部屋に運び入れる作業を行っていた。

 基本的な物資は、すでに同じものが置いてある部屋に運ぶだけで良い。
 イーガはその昔、カルサー谷にひっそり存在していた古代遺跡に、勝手ながら住み着いたいきさつがあるという。迷路のように入り組んだ内部は、決して幼子が業務のしやすい環境ではないが、それまでの生活で、事前にじっくりと岩戸内を歩き回っていた俺は、迷うことなく資材を振り分ける自信があった。せめて業務に携わる前、自分にできることをしようと思った努力が実を結んだ。
 しかし問題は、運び入れる場所を指定されている物。例えば矢などは、入口や物置、修練場などに分配して保管されている。何処に何本持っていくかなどを詳細に記した紙が物資に貼られており、俺はその存在に酷く狼狽した。
 当時は、張り紙の殴り書きを解読できるような識字能力を持ち合わせておらず、紙を手に持ったまま途方に暮れるしかなくなってしまった。
 結果を言えば、その力のなさが功を奏したのかもしれない。
 彼女と[[rb:見 > まみ]]えるには、俺の無力が絶対に必要であった。
 イーガでの生が、少しばかり様相を変えた瞬間。俺の礎となる、始まりの一瞬だ。

「どうかした?何か困ってる?」

 行き詰った様子を憐れに思ったのか、通りがけの構成員が俺に声をかけた。
 手には抱えきれないほどのたくさんの書物。当時は理解が及ばなかったが、その構成員も武力がない故に内勤を命じられた一人であった。
 俺は先達に迷惑をかけてはならぬと思いこみ、最初は声を掛けられたとて、悩みを遠慮なく吐露するに至らなかった。それはきっと、自分の非力さを開け広げにする行為でもあったから。
 イーガの団員は、末輩に寛容的な人間だけではない。力が全てとばかり、世を渡る腕力が評価に通ずる側面が強かった。俺はそれまでにも、厄介者に向ける言葉をかけられたことがあったのだ。
 ただ、その構成員は武力が全てである集団において、珍しく世話好きであった。
 言葉に詰まり、下を向く俺の手に握られた張り紙を「見せて」と半ば強引に奪い、次の瞬間には「あぁ」と察したように唸って見せた。

「武器庫って書いてあるよ、この廊下の先の部屋。場所は、分かるかな」
「は、はい・・・・・・ありがとうございます!」
「札か矢の仕分け作業だよね、・・・・・・ちょっと待ってて」

 笑みすら感じる声音を残し、そうしてその構成員はパタパタと廊下の先に見えなくなった。
 しばらくの後また廊下の先から現れたとき、彼女が手に抱えていた書物は一切が消えていた。
 俺は驚きを超えて当惑し、それまでジンと痛んでいた目頭が、すっと元に戻っていくのを曖昧に感じ取っていた。

「文字読めないのかなと思ってさ、他にも張り紙あったでしょ?私の仕事はさっきのでおしまいだから、手伝ってあげようかと思って」
「そんな・・・・・・悪いです、僕の仕事ですので」
「いいのいいの。君、コーガ様に助けてもらったって子でしょ?面倒みてやってくれって言われてたんだぁ、だから気にしないで!」
「でも・・・・・・」
「強情だね、これも私の仕事みたいなものだから、いいんです!」

 人当たりが良さそうに笑い、並べられた物資の前に仁王立ちした構成員は「なになに、ふんふん」とひとりごち、続け様に矢の束を俺へと手渡してくる。

「これは入口ね、あとこっちは修練場。私もいくつか持つから、一緒に行こう」
「大丈夫です、一人でできます」
「もう、ちょっとは先輩ぶらせてよ!」

 構成員は札と幾つかの矢束を抱え、その場に留まる俺の前を歩いた。「ほら、早く」と誘う声は明るく、とても隠密の徒とは思えない朗らかさ。
 ただ、その朗らかさが、近い齢もおらず、孤立していた俺にとってはありがたかった。
 「すみません」と謝罪の台詞を繰り返す幼子の俺を、構成員は手招きして先導する。

「君、幾つなの?」
「えと・・・・・・7か、8です」
「そっか、じゃあ私と十違うのかな。すごいね、もうイーガで業務に就いてるなんて。私が8のときは、まだ村にいたよ」
「コーガ様のお役に立ちたくて・・・・・・」
「私もそう!だから、ここに来れた時、嬉しかったぁ。役に立つぞ!と思ってたら、資材班になっちゃって、ほとんど会えないけど・・・・・・」
「あ、資材班なんですね、僕と同じ」
「今は違うけどね。君の業務を前にやってたの、私なんだ。今は研究班で文献整理やってるよ。まぁ、業務はあんまり変わらないんだけどね」

 コーガ様を始め、イーガ団の主要となっているのは知の民と称えられるシーカー族の末裔である。王家に与する一族からは離反したものの、知の民と言われた名残からか、アジト内には古代シーカー文字で書かれた多くの古書が保管されていた。
 とはいえ、全ての団員が古代文字を解読できたわけではない。イーガはどちらかといえば戦闘に長けた集団として、口伝の法をとる者が多かった。
 古代文字を判別し、文献整理に携わっていたその構成員の知性は、腕力に物を言わすイーガにおいて貴重であるのは言うまでもない。
 彼女の行っている業務内容に思い至らない俺は、「へぇ・・・・・・」と気の利いたことも言えず、曖昧な返事をするだけだった。
 入口に到着し、指示された矢を所定の位置に運び入れると、彼女は続け様、今度は修練場のある方を指さした。俺は何も言わずにこくりと頷き、彼女と隣り合って廊下を歩き出す。

「イーガ団は強くないと、まともに外へ出られないでしょ?文献整理ばっかりしてたら、いつまで経っても外回りができないなーって思うんだよね」
「僕も、強くなりたいって思います。でもその前に、業務すらまともに出来ないから・・・・・・」
「そうだよね。せめて文字だけでも読めるようにならないと。7か8だったら、学校には行かなかった?」
「行かなかったです。その余裕は、無かったので」

 「そっか」と返す彼女は、恐らく俺の境遇に思いを馳せていた。当然だろう。明確な齢も分からぬ。この年齢では当然知っているはずの識字も儘ならぬ。
 しかし俺はこの時、彼女の心づもりなど一切意識することなく、事実として過去を回顧していた。なるべく思い出したくない過去である。しかし、隠すような話でもない。
 その構成員は、よくよく面倒見の良い性格だった。十違うというだけの後輩が肩を落とし、ふさぎこむ姿を見て見ぬふりできなかったのだ。
 その提案が自分の首を絞めることになると分かり切っていたはず。イーガにしては珍しい親切心を持ち合わせていたがために、彼女は俺の生に踏み込むこととなってしまった。

「私が文字を教えてあげようか」

 突拍子もなく、思ってもみない助け船に、俺ははっきりと救われた心算となった。

「え?いいんですか?」
「いいよ、文献整理でどうせ机に向かうし、ついでに文字を教えるくらいだったら、問題ないと思う」
「助かります!僕、本当に困ってて・・・・・・ありがとうございます!」

 まさに、渡りに船、闇夜の提灯。俺は相手の負担を考えもせずに、ただ純粋に彼女の親切心につけいってしまった。
 この邂逅が、この契約が、俺たちの生を少し変えることになるとは露とも思わずに。彼女の生にどれほど変化をもたらすのか、後ろめたくなるとも思わずに。
 無邪気に喜ぶ七の子供を、十しか違わない彼女はただ気前よく受け入れた。

「じゃあ、今日から僕の先生ですね。先生と呼ばせてください」

 今思えばあまりに唐突だったのだが、気付けばその愛称を口にしていた。
 集団の中では歳の近い彼女と、団員というだけでなく、特別な何かを築きたかったのかもしれない。
 先生と呼ばれた構成員は「えっ!」と驚いた様子だったが、結局は照れ臭そうに頭を掻いて、「まいったなぁ」と満更でもない様子を見せた。

「じゃあ、私のことは先生で!君のことは、何て呼べば良いかな。生徒君?」
「僕はスッパといいます。呼び捨てでも、なんでも」
「じゃあ、スッパ君って呼ぶよ。今日からよろしくね、スッパ君」

 彼女の表情は、イーガの習わしによって、もちろん仮面によって隠されている。
 しかし、面の存在などまったく感じさせないほど、そして面があったと記憶に残っていないほど、この時の彼女は笑顔であった。
 朗らかで、何者も受け入れてくれるであろう、ただ寛容的な、笑顔であったのだ。

 これが、相手の生に踏み込み、僅かばかりの変わり目となった、俺と先生の邂逅の物語である。

[newpage]

 先生は、俺の仕事が終わったころを見計らって、日課とばかり様子を見に来てくれた。そのまま先生が仕事場とする書庫へと通され、彼女が文献整理をするついでに、読み書きを教わる毎日。
 彼女は教え方が上手かった。加えて、俺も必死だった。彼女からの教えがイーガでやっていくには必須だと、幼心にも理解していたのだ。
 彼女の手を借りずとも難なく業務をこなせるようになったとき、先生はひどく喜んでくれたのを覚えている。

 では、文字を教わったらそこで関係が切れたかというと、先生の面倒見の良さは、それだけに留まらなかった。

「先生、これって」

 文字を読めるようになった俺は、先生と共に書庫へ入り浸り、書物や古書に目を通すようになっていた。とはいえ、内容までも理解できるかと言われれば話は別。俺は書物を彼女の隣で広げながら、理解のできない箇所に指をさす。
 すると「ああ、これはね」と、業務の傍ら、文句も言わずに彼女は内容を解きほぐしてくれるのだ。
 この世の歴史や地理にまで通じていた彼女は、まごうことなき教師であった。

 例えば、イーガ団の成り立ち。王家に裏切られた過去。血を分けた同胞との別れ。修羅の道を選んだ祖先・・・・・・。
 詳細に語られる迫害の歴史は、恨みや祟りを末代までの誓いとするには充分だろう。忠誠を捧げながらも、彼らが圧伏される必要など皆無だったはず。
 俺自身にその血が流れているわけではないものの、幼心に「ひどいです」と、主の祖先に思いを馳せた。
 しかし、先生は違った。彼女こそ嘗て迫害の歴史を受けた祖先と同じ血が通っているはずなのに、語り口調に恨み節は聞かれない。

「そうだね。でも怖かったんだよ。特別なはずの自分たちを遥かに上回る圧倒的な力が、王家には理解できなかったんだよ」

 あろうことか王家の肩を持つようにも感じられ、当時の俺は理解が及ばなかった。

 彼女の思慮深さの一端に触れられたのは、学びの繰り返しにより、識字を会得したときのこと。
 自らの力で歴史の古書に目を通し、俺は驚いた。そこにはかつて先生から聞いた言葉とは裏腹に、王家への恨みつらみが連なっていたからだ。
 怨嗟の声。行き場のない怒り。屈辱の日々。先生は俺に分かりやすく内容を解いてくれたが、彼女の口からここまでの呪いの言葉が出たことはない。
 彼女は、何をもって王家の肩を持ったのだろうか。幼い俺への、配慮だろうか?
 恨みを持たぬよう。常に平静の目を持つよう。イーガに囚われすぎぬよう。
 俺はいまだに、先生が敢えて紡いだ言葉の数々を、ふと思い起こすのだ。

「あ、スッパ君、ここにいたんだ」
「先生」

 彼女の聡明さ、先見の明を垣間見たのは、決して教えを乞うているだけに留まらない。
 それは、すっかり文字が読めるようになり、一人でも知識を得られるようになった時分。俺は寝る前に、書庫で古書を読みふけるのが日課となっていた。
 本来、時間が余れば先達の業務に手を貸すのが通例だったのだろう。しかしコーガ様は、俺に知識を得る時間を与えてくださっていた。それが今できる最善とばかり、日々の鍛錬に加え、寝る前には必ず書庫の書物に目を通した。

 その日、夜も更けた時間に俺を訪ねてきた先生は、既に夜着に着替えていた。
 初めて見るイーガスーツ以外の軽装に、幼いながら落ち着かなくなったのをよく覚えている。あどけなさを感じる普段の振る舞いとは対照的に、夜着の彼女がやけに大人びて見えたのだ。
 俺にとって、親しい妙齢の女人は先生だけであったが、その感情が何なのか、まだ幼い時分では知る由もないことである。

「熱心だね、いつも勉強してて。何読んでるの?」
「赤い月についての文献です。これによると厄災さまと魔物の黄泉がえりに、何か関連があるとか・・・・・・。そうなんですか?」

 今しがた目にした信じられない一文を口にすると、彼女は「厄災さま、ね」と小さく繰り返し、かぶりを振って見せた。

「そもそも魔物は生物じゃなくて、瘴気が凝り固まったものだって話があるの。赤い月のときは厄災の力が強まって、霧散した瘴気がまた集まるんじゃないかって」
「なるほど・・・・・・ということは、塵と化した魔物は死んだわけではなく、空気中に漂っているかもしれないのですね」
「・・・・・・スッパ君はすごいね、まだ8歳だなんて、信じられない」

 当時の俺は、純粋に褒められたのだと理解したが、彼女の本意は決してそうではなかった。

 今ならわかる。先生の声に、憐みのような色が称えられていた理由に。
 おそらく、妄信的に前へと突き進む様に、そして誰が書いたとも分からない知識に左右される俺の将来に、同情をしていた。そうしなければ生きられない、そんな境遇の俺を憐れんでいた。
 彼女は聡明で、彼女は、俺の生に踏み込みすぎていた。
 だからこそ、次の瞬間に屈託ない笑みを浮かべてしまうくらい、彼女は強くあろうとしたのかもしれない。

「たまには、外に行ってみない?」

 何を、と咄嗟に浮かんできた。力のない内勤は、魔物や獣が活発になる夜分での外出はご法度。地形に限らず現れると聞くスタル共に襲われでもしたら、どうするというのか。
 いくら先生の提案とはいえ、二つ返事で受け入れるには、自分も彼女も非力であった。

「それは規則に背きます。危ないですよ」
「大丈夫大丈夫。すぐ近くだったら、コーガ様も見逃してくれるから」
「そうではなく、魔物に襲われでもしたら・・・・・・」
「すぐに逃げれば平気だよ。夜に気を付ければ良いのは、スタルだけだから」

 「ね、行こうよ」と半ば強引に迫られれば、俺もそこまで強く断ることもできない。
 内勤として外出の機会もなく、当時は外への興味も強かった。書物で得た知識がどの程度正しいのか、照らし合わせたい気もある。
 なにより、日々鍛錬した成果を試したい。
 俺が言葉なく浮き腰になったのが伝わったのだろう。先生は「行こう!」と俺の手を取り、駆け出した。
 彼女はいつだって、どんなときだって屈託ない。初めて繋がる先生の手は暖かく、傷のない肌が柔らかかった。


■ ■ ■


 夜分に内勤だけでアジトを出るのはご法度だが、そこまで厳しい監視の目があるわけでもない。外へ出るにはカルサー谷の玄関口から抜けるか、コーガ様のお部屋から出るかの二通りが考えられる。
 通常の団員であれば、所属の幹部殿に一言入れれば、玄関を通り抜けるのは何の苦もない。
 しかし、我々は齢一桁の幼子と、十代の非力な女人。何かあれば大事となり、迷惑もかけるのは自明の理。幹部殿に願ったところで外出が叶わないのは、はなから分かり切っていた。
 それも全て理解した上で、先生はあろうことか、コーガ様のお部屋を抜けて外へ出ようと提案してきたのだ。

「さすがにそれは・・・・・・コーガ様も、今はお休みになられているのでは」
「正解!だからこそ、寝ている隙を狙って外出すれば大丈夫」
「先生・・・・・・」
「大丈夫大丈夫、私、度々やってるから」

 真面目なようで、年相応にやんちゃな一面を持つのが、彼女の魅力であった。
 齢17。年齢としては、将来を見据えて嫁入りを考える時期なのだろう。しかし彼女は、イーガへの入団を見据え、幼い頃から訓練と、世の理への知識を蓄えていたという。
 自分と同じく、きっと子供らしい時分などなかったのかもしれない。当時そこまで思い至ったわけでもないが、俺は自分とどこか通じる彼女に、近しさを感じていた。

 突拍子もない先生の提案を断り切れず、俺は彼女に招かれて、コーガ様のお部屋へと侵入した。
 戸口でも聞こえる主のイビキ。こそりこそりと、それまでの訓練で身に着けた隠密の業を生かし、布団の横をすり抜けていく。
 敬愛する主君を騙すような心算に気が気でなかった。が、俺はそれ以上に、なかなか機会のない外出に対し、高鳴る心臓を感じていた。

 戸口に立つと、アジト内では全く感じることのない夜風が俺を包み、キンとした涼やかさが身を震わせる。
 アジトの外に広がっていたのは、音が全て死んでしまったかのような静寂。開けた空間を囲む壁にはイーガの伝統装飾が飾られ、広間の中心には見たこともないような大穴が、ただぽっかりと空いている。
 いつかの文献で見たその非現実的な存在に、落ちる可能性など一切ない距離にもかかわらず、足がすくむ。見れば穴の中にも、祖先が手掛けたのだろう装飾が施されていた。執念ともいえる伝統への拘り。ここで何が行われていたのかを考えるだけで、幼いからこその幼稚な妄想が膨らみ、恐怖が足から登ってくる感覚すらあった。

「すごいよね。私も見るたびにびっくりする」

 俺の背へ安心させるような声をかける先生は、「危ないから」と言いつつ俺の腕を引っ張った。過ぎた子ども扱いで少しばかり抵抗もしたくなったが、危ないという言は正しい。
 まるで底が見えない大穴は、何のために存在しているのかすら皆目見当がつかない。当時も、そして今も、大穴がイーガにもたらす重要な意味に、俺は心当たりがないのだ。
 俺は視線を逸らさず、先生に引かれるまま、素直に後ずさりをした。

「これは、一体何なのでしょうか?古書にも、そこまでは載っていませんでした」
「私も分からないんだよね。私だけじゃなくて、きっと誰にも。・・・・・・ううん、コーガ様は知ってるかも」

 確かに、コーガ様ならば、ご存知なのだろう。あの方は底が知れないが、恐らくどの団員よりも聡明で、豊富な経験があった。その知見の広さこそ、どこの馬の骨とも分からぬ俺を迎え入れた、懐の大きさに繋がっている。

 「行こう」と手を取られ、彼女に引かれて大穴を通り過ぎ、ほぼ崖のような岩肌を登り始める。
 夜着でひょいひょいと身軽に登り始める彼女に面食らう思いであったが、「度々やっているから」という先ほどの言もある。きっと、彼女にとっては珍しくない散歩の一環なのかもしれない。いつも真面目に業務へと打ち込み、知識に豊富な先生の、新たな一面を垣間見た思いであった。
 崖を登りきった先には、上下に波打つ荒山が広がっている。青草こそないものの、タンブルウィードが風に吹かれてそこかしこに転がっており、きっと季節によっては景色が一変するのだろうと思わせた。とはいえ、この時の俺に、そこまでの知識があったわけではない。
 野を進む先生は、「あっちあっち」と荒山の方を指し示す。俺は多少息を切らしながらも、全く平然とした様子の彼女に辟易した。

「先生、どこまで行こうというんですか」
「あの崖の向こうに、見せたいものがあるの。きっと良い勉強になるよ!」
「また崖を登るのですか?遠い場所へ行くとさすがに危ないのでは・・・・・・」
「大丈夫、慣れてるから!」

 先生は、良くも悪くも楽観主義者である。隠密集団にとって、その楽観さが仇となるからこそ、きっと彼女は内勤を命じられていた。苦労や人生の酸いを知らぬからこその能天気だと、コーガ様には見抜かれていたのだろう。
 しかし、明るい声で「大丈夫」と言われると、どうにかなるような思いに包まれる。一桁の年数しか生きていない俺には、彼女の言葉が心地良かった。今までの不運すら抱きとめられるような抱擁感を、彼女は齢17にして持ち合わせていたのだ。
 俺は安心を求め、彼女はそれを、他者に与えられた。本来決して不可能であるはずなのに、欠けた茶碗の断片が嵌ってしまったのは、俺たちの不幸であったのだろう。

 彼女の力を借りつつ、俺はまたも崖のような足場を登り始める。遠目ではほぼ垂直のようにも見える岩肌だったが、彼女が選ぶ道筋をたどると、不思議とそこまでの苦労なく頂に近づくことができた。
 明らかに慣れている足取りに、彼女は本当に、夜の散歩が日課なのだと確信していた。歳に見合わずお転婆な一面に、呆れる思いと尊敬を同時に感じる。俺に、年相応と言われるようなやんちゃな振る舞いはできなかったから。

 息を切らしながら崖を登りきると、今度は平面の荒野が広がっている。少し行った先は、反対側の崖だろうか?「あと少しだよ、がんばろ!」と励ます先生も、さすがに呼吸が乱れているようだった。
 山を登った高所ということもあり、空気はひどく冷たい。全身を覆うスーツを着る俺は良いが、先生は地肌が幾分晒される夜着であった。寒くはないのだろうか。思ったことを素直に口にする器量が、俺にもあれば良いのにと今でも思う。

 膝に手を着いて呼吸を整えていると、「やっぱり、ちょっと休憩しようか」とくすくす笑われた。ただ、齢一桁の幼子といえ、男としての矜持もある。
 「いえ、大丈夫です」と言いながら汗ばんだ首元を拭い、面を少しばかりずらして、肺に空気を送り込んだ。

 イーガの面は呼吸がしやすいように、職人による工夫が様々施された逸品である。とはいえ、俺はその時、面の扱いに慣れてはいなかった。
 そもそもが、戦闘に慣れた熟練者を想定して作られた面だからだ。しかし、もちろんのこと隠密の道を征くならば、敵方に顔を晒すなど言語道断。だからこそ、遠慮した上でのずらす仕草だったというのに。

 おもむろに先生も面に手をかけたかと思ったら、あろうことか、面を全て取り去った。
 普段の振る舞いと同じく、どこか幼さの残る顔立ち、初めて見る亜麻色の瞳。それまでの想像とほとんど変わることのない相好が、そこにはあった。

 当時、面の下を晒すことが、どれほどの禁忌に値するのか理解していなかった俺は、彼女の行動にうろたえた。
 事実としては、仲間内で面下を晒す禁忌など存在しない。しかし、いたずら気味に笑う彼女の振る舞いに、理由も分からず早鐘を打ち始めた脈動を、確かに自覚した。

「まだイーガの面に慣れないんだぁ。・・・・・・みんなには、ナイショだよ」

 月光を背に笑う彼女。俺はどうしても、目を逸らせなかった。
 今考えれば、俺は全てにおいて未熟だった。女の扱いもそう。彼女に抱く、知らない感情に対してもそう。大丈夫だといわれただけで信頼した、警戒心もそう。
 そして何より、自分ともう一人すら守れない未熟さが、この時はっきりと、俺の罪になった。

 月光が陰る。彼女の亜麻色に引き寄せられ、注意を怠った罰だった。音もなく現れた巨大なスタルが、気づけば彼女の背をとっていた。
 このような近さで初めて見る魔物に、体中の筋が固まって、ただただ俺は動けなくなった。
 錆びた片手剣を大振りに引き、言葉なくした俺に気を取られる先生を討たんとする。その緩慢な動きの隙に、俺は弾かれたように彼女へとびかかり、スタルの後方へと退いた。

「大丈夫ですか!?」

 動揺する彼女の顔を見る。目を丸くさせ、半開きになった口元。彼女は俺など見ていなかった。
 陰で彼女の素顔が曇る。途端、ぎゅっと彼女に引き寄せられたかと思えば、身を翻し地面へと押さえつけられた。
 冷えた体は、高所故だろうか。力強く抱きしめられ、近くで見る瞑られた彼女のまつ毛は、震えていた。

 ここへ来るのは間違っていた。俺たちは非力だった。
 魔物の中でもスタルは、不死とはいえ脆く、決して強くないと文献には書いてある。その一文こそ、俺が己の力量を侮り、彼女の提案に乗った最大の過誤。いや、それはあまりに責任転嫁であろう。俺自身の未熟さだけが、今生における唯一の罪なのだ。

「どっせい!」

 俺は震えていた。彼女も。それは来るべき痛みと、未知への恐怖から。しかし、突如として響き渡った声は、助かったと理解するのに充分すぎた。
 頼りがいのある御声。それだけでも彼女の背で何が行われたのか、俺たちがどうなったのか、明確に分かる。決して震えた身が鎮まることなどなかったが。

「いててて・・・・・・大丈夫かお前ら。ダメじゃねぇ~か!武器も持たんで外をほっつき歩くなんて!」

 叱責の声は大きく、カルサー谷に反響するのではないかと思うほど。
 ただその御声の温かみは、俺をひどく安心させた。それは先生も同じだったのだろう、途端に弛緩する腕の隙間から覗くと、青白い光に照らされる神々しい御姿。
 唯一敬愛する俺の主君がそこにいた。
 「コーガ様・・・・・・!」と口にする先生の瞳は揺れている。未だ俺を抱く腕は震え、唇を噛む力は強い。今にも零れんとする瞳の水を、せめて我慢しようとすればこそ。
 主は震える先生の頭を、その大きな手のひらで撫でつけた。

「泣くな泣くな。お前ら、ここで何してんだ?玄関の奴に許可貰ってんだろうな」
「ううぅ・・・・・・ごめんなさい・・・・・・っ」
「待て待て、貰ってねーのか?ダメだろ、子供だけでこんなとこ来たら」
「こ、子供じゃないですぅ・・・・・・」
「子供だろ、ばかたれッ!」

 主の声は、責めるようでいて優しい。それは正に、子供をあやすように。過ちを言い聞かせるように。
 コーガ様に撫でられる間、十違うという先生が泣きじゃくる様相は、彼女が自分と同じ若輩者なのだと思わせた。
 そこで初めて目の当たりにしたのだ。先生は俺にとって大人であったが、コーガ様にしてみれば、ただ十代の、娘であるのだと。
 先生の頭をなでながらも、主の面が今度はこちらに向けられる。俺も叱責されると思い緊張でびくりと体が固まったが、その声音は想像とは全く違うものだった。

「スッパ、よくやったな。見てたぞ、スタルの攻撃、躱したところ」
「僕なんて・・・・・・」
「いや、普段から訓練を頑張ってるからこそだぞ。お前の歳であそこまで動けりゃ、上等だ」

 「よくやったな」と念押しされると、じわりとした暖かさが胸に染む。
 初めて、主君に認められた。そう自覚するだけで胸へ溢れるこの気持ちは何だろうか?決意と、覚悟と、矜持。そのすべてを揺るぎないものにさせる、たった一つの言辞。
 良かった。主からの言葉に、それまでの後悔や苛みは、嘘のように溶け落ちていった。
 ここに来たのは、間違いだったのかもしれない、ただ、俺のとった行動は、決して間違いではなかった。俺はこの時、許された気になった。
 この記憶は、俺のこれからを形作る大切な一助となっている。決して忘れたくない、俺の礎のひとつになったのだ。

「俺様が通りかかってよかったな。感謝しろよ、お前ら」
「はい、この御恩は必ず・・・・・・。ただ、コーガ様は何故この場に?」
「俺様はまぁ・・・・・・散歩だ。で、結局お前らは何するつもりだったんだ」
「えっと・・・・・・この先の景色を、スッパ君に見せたくて」
「あー、アジト内にいたんじゃ息が詰まるしな、仕方ねえ。俺様もついてってやる」
「それは・・・・・・申し訳なく・・・・・・」
「なに言ってんだ!一回襲われてる癖に、文句言ってんじゃねぇ!」

 「とっとと行くぞ」と、コーガ様はのしのし先を行かれてしまう。言葉少なに背で語る主君は、頼りがいのある逞しさを醸していた。
 確かに、今まさに襲われた手前、コーガ様が付き添ってくれるというならば、安心できるというもの。引き返すという手もあったが、目標としている場所はもう目の前だった。道のりが険しかったこともあり、ついでと言っては何だが、目的を叶えたい。
 俺と先生は顔を見合わせ、決して早くない主君の背中を追いかけた。

「スッパは、この先に行ったこと、ねぇのか?」
「はい、初めて崖を登りました。この先には一体何があるんです?」
「面白いもんなんてねぇぞ、砂漠があるだけだ」
「あっ、コーガ様ひどいです。スッパ君には内緒にしてたのに」
「内緒ったってなぁ、大体予想つくだろ。カルサーは砂漠か雪かしかないんだから」
「確かに、そうかな、とは思ってましたよ、先生」
「いいんです、きっと実際に見たらびっくりするだろうから」
「・・・・・・先生って?」
「あ、文字の読み書きを教えてもらったので、先生と呼んでるんです」
「そうかそうか。スッパをこれからも頼むぞ、先生」
「はいっ」

 和やかなひと時だった。まるで隠密集団とは思えない時間。そして、決して日々の力不足を悩むでもない、安穏の時間。
 主の頼れる背を追って、今にして思えば一切の畏れなく言葉を紡げたのは、きっと先生がその場にいたからだ。
 彼女は不思議な人だった。暗殺を主たる隠密の団員とは思えない、平凡な村娘の如く態度。ずっと昔から知っていたかのような親近感。彼女がいなければ、信仰心ともいえる情を抱くコーガ様と、このように話をすることはなかっただろう。

 未だ空気に晒されたままの彼女の表情は、ひどく楽しげだった。遠慮がちに笑う口元は、年相応の生娘そのもの。コーガ様を見る目は情に満ちており、月光に晒された頬は朱色に染まっていた。
 彼女は今までも、このような顔をしていたのだろうか?楽し気に、年相応に、純朴に。
 だとしたら良いのに。不意に頭へ浮かんできた自分勝手な考えを、幼い俺は信じて疑わない。

「こっちだよ、ここからの景色をスッパ君に見せたかったんだ」

 崖の向こうに到着し、眼下に広がっていたのはゲルドの砂漠だった。
 砂漠は今までにも見たことがある。何せ、イーガ団のアジトに足を踏み入れるのであれば、どうやっても通らねばならぬ場所だ。
 しかし、崖の上から眺める砂漠は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
 どこまでも広がる果てしない砂地。数多くの遺跡と自然の造形物が、過ぎし時の流れを醸し、遠目にちらほらと見える現世の灯りは、記憶に残る蛍の如く。
 地平線を境とし、夜空には数多くの星が散る。その様は、むしろ砂漠よりも明るいとさえ思わせる。
 高所から見た砂漠がこれほど雄大とは思わず、俺は「わぁ・・・・・・」と阿呆のように感嘆の息を吐いた。

「すぐ近くに見えるのが、カラカラバザール。ゲルド族が管理してるオアシスで、人が賑わってるところだよ」
「先生、じゃあ、あっちに見えるのは?」
「あれは、ゲルドの街。男子禁制で、男の人が入ろうとすると門前払いになっちゃうんだって。女王は雷を操る力を持ってるとか」
「あ、先生!あそこで魔物が寝ています」
「ボコブリンかなぁ。砂漠の魔物は徒党を組んでるのが多いみたいだから、他にも周りにいるかもね」
「先生、砂漠の向こうには何があるんでしょうか」
「それは私にも分からないなー。どこまで広がってるんだろうね」

 俺はすっかり興奮し、気になるもの全てを指さした。
 もちろん、カラカラバザールだって、ゲルドの街だって、ボコブリンだって、知識としては知っている。ただそれはあくまで書物の中での話であった。初めて触れる実際に、この目で見る現実に、俺は書物で読んだ文字の羅列と蓄えた知識が、途端に結びついていくような感覚を、しっかりと味わった。

 俺の興味が夜空の星にまで行こうとするところ、突如として、後ろで腕組をしながら俺たちを見ていたコーガ様が、くつくつと喉奥で笑い出した。振り返ると、遠慮なしに主の肩が揺れている。俺にとっても先生にとっても、身に覚えのない笑みだった。

「すっかり懐かれちまってんだな、先生」

 どこか揶揄うような声色。俺にはその理由が思い当たらない。「もう!コーガ様、からかわないでください!」と、返す彼女の立腹はもっともで、どこか緩んだ口元には、妙な気恥ずかしさが漂っていた。

「ほれ、満足したなら帰るぞ~。あんま遅くなっても、明日に障るだろ」
「確かにそうですね、またいつでも来られますし」
「今度出るときは、しっかり武器持って出ろよ。別に外出が禁止されてるわけじゃねーんだから」

 「行くぞ」と、先を歩かれるコーガ様に添うように、先生も後へ続いていく。
 俺だけは初めての絶景に後ろ髪惹かれる思いであったが、二度と見られない景色というわけでもない。最後に一度振り返り、二人に遅れる形で、帰宅の途に着いた。

 世界は、それまでの俺が考えているより広かった。砂漠の一端を見ただけでもそう思ったのだから、俺の見識など塵芥に等しい。
 書物だけでは実際が分からぬ。爪の先ほどの文字を盲目的に追ったところで、それに振り回されてはならぬ。彼女の一言によって、両の目で見る重要さを痛感した。
 帰り道、コーガ様と先生が話をする後ろで、俺は世界の広さへの高揚感を静かに噛み締めていた。

 コーガ様に連れられて、今度は玄関口からアジト内に戻ると、扉の守衛は酷く驚いた様子だった。
 「俺が連れ出したんだ」と断る主の口調は明るく、俺たち二人を庇っているとは微塵も感じさせない。黙って非力な二人が抜け出したともなれば、本来、叱責だけでは済まなかったはず。しかし、幹部殿はコーガ様の言に「左様でしたか」と納得したようだった。

「じゃあな、今度からは玄関から出るんだぞ」

 後ろ手に手を振りながら、コーガ様はのしのしと自室へと向かわれた。
 俺たち二人は「ありがとうございました」と、そのお姿が廊下の先へと消えていくまで頭を下げ続け、つと、顔を見合わせる。

「・・・・・・私たちも、寝よっか」
「そうですね」

 彼女の表情は、面によって分からない。しかし、その声は明るく、先ほどまで晒されていた亜麻色の瞳を眼前に見るようだった。

「今日は、ごめんね、・・・・・・油断しちゃって」
「いえ、先生のせいでは無いです、僕も同じなので」
「もっと強くならなきゃね、私たち」
「はい。もっと強く、強くなります」

 強さへの渇望を、今日ほど感じたことはなかった。逃げることしか出来なかった、己の無力。先生に守られた苦味。そして、武器も持たずに魔物を一蹴した、我が主への羨望。
 「強くなります」と何度も繰り返す、それは俺の決意であった。強くなると、俺はその時、先生に誓ってしまった。
 ただ一方的な宣言ではあったが、またも俺は、自分の生に彼女を巻き込んでいた。この頃の俺はとにかく幼稚で、何かに縋らなければ何も出来ぬほどの、未熟者だったのだ。

 俺の心算など分からないのは当然。彼女はいつものように朗らかに笑って「じゃあ、また明日、スッパ君」と、俺の頭を撫でつけた。
 その暖かな手の平を感じた瞬間、胸にもじわりと暖かな感覚が広がっていく。まるでいつかの母のように。いや、コーガ様が彼女にそうしたように、彼女の振る舞いは慈愛に満ちていた。
 寄りかかってしまいたいと無邪気に思うほど、俺は彼女が特別だった。
 踵を返して女部屋へと向かっていく先生の背中は、決して主ほど大きくはない。しかし、当時の俺にとっては、コーガ様と同じような、頼りがいを感じてしまっていたのだ。


 これらは俺が7、もしくは8つの歳の、出来事である。

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