1000字練習

 のどかな陽射しの、穏やかな日和だった。集落を渡る柔らかな風が、庭に干した洗濯物をゆらゆらと揺らしていく。私のエプロンと娘のワンピース。それにもう一つ、一回り大きな旅装束。普段は遠い砂漠の土地で仕事に就く夫が、数十日ぶりに家へ帰ってきていたのだ。
 ふと、遠くの方で笑い声が聞こえた。箒を掃く手を止めて顔を上げれば、夫と娘が見えた。楽しくって仕方ないみたいに高い声を響かせながら、肩車の頭にしがみついている。
 遠目に片手を振ると、夫が気付いたらしく、すぐに大きく手を振り返してくれた。
「ただいま! 川向いまで行ってきた! 食べられそうな野草たくさん採ってきたぞ!」
 疲れた素振りを露とも見せずあっけらかんと言ってのけた言葉に、私は肩を竦めた。
 川向い? それはまたなかなか距離のある所まで行ったものだ。散歩がてら食料調達に行くと言って一時間ほど経っている。全然帰ってこないのにも納得だ。
 袋の中は、ゴーゴーハスの実にガンバリ草、キノコなんかも入っていて盛りだくさんだった。彼が持って帰ってきてくれたモリイノシシもある。今日の夕飯は炒め物に決定かな?
 ありがとう、と微笑みながら、夫の手をぷらぷら揺らしていた娘に視線をやった。
「じゃあ、パパはちょっと休憩してもらうから、今度はママのお手伝いしてくれる? ゴーゴーハスから実を取り出して、お夕飯の支度を」
「えーっ、やだあ!」
 ポーンと響く声を放ると、娘は狼狽える夫の背中へ隠れるように回り込んだ。腕を抱えて、じっ、と片目だけを覗かせる。
「まだパパと遊ぶ! お手伝いしたくないもん!」
「こらっ、パパはずっとお仕事で疲れてるの! 昨日も遅かったのに朝から引っ張るんだから……ヘトヘトになっちゃうでしょ!」
「やーだーっ、まだ遊ぶーっ」
「ワガママ言わない!」
 一度聞かん坊となったら、彼女に母の声は届かない。このガンコさ、一体誰に似たんだろう? 夫の背中にぐりぐりと顔を押し付ける娘に、押し付けられてる当の本人は「まあまあ」と困ったように笑った。
「俺は平気だから、遊ぶのも構わないぞ。帰ってきた時じゃなきゃ遊べやしないしな。さあ、何したい?」
「かけっこ! また肩車して!」
「よおし分かった。肩車でかけっこな!」
 一も二もなく娘をまた抱きあげて、夫はがっしりとした肩に彼女を跨らせる。それから大股で一歩踏み出すのはすぐだった。私が文句を投げる間もなく、ひと際高い肩車を作った彼らは、そのまま駆けて行ってしまう。
 キャアキャアと楽し気な声がだんだん遠ざかる。家々の奥に姿が見えなくなっても、高い青空にいつまでも響いて、耳に届いてきて。
 夫の走っていった方をしばらく見続け、それからひとつ、息を吐いた。また結局、私が一人になっちゃうんだから。
 臆することなくワガママを出してくれる娘は可愛らしい。夫も全力で家族のために動いてくれて頼もしい。
 幸せだな。そう思うのと同時、ああ、なんだろう、この感じ。
 なんでかその場でジタバタ地団駄を踏みたい気になってしまって。
「……ん~……!」
 結局、幾分か唸るだけ唸って、気持ちを納得させてから家の中へ入ることにした。



 夕食を食べ、寝支度を済ませてからほんのしばらく。昼間に散々遊び倒したからか、娘が寝付くのは随分早かった。
 ベッドに連れて行き、娘の耳元で小声を響かせていた夫が、ものの数分でリビングの机へ戻ってきた。
 繕い物から視線を上げると、夫が不意を打たれたような顔で肩を竦めてみせる。
「あっという間に寝た。……よっぽど疲れてたのか?」
「ふふ……貴方が帰ってきたのが嬉しいんでしょ。いつもより数倍、はしゃいでましたもん」
 昼間の様子を思い出すと微笑ましい。いつもはスンとすまし顔で家政を手伝ったり本を読んだりするのに、結局彼女は起きている間中、夫から離れることがなかった。鍛練をするといえば「私も」と木を振って、ちょっと昼寝をすると言えば「私も」と寝転んだ。その方が甘えられるってよく分かってるみたい。私でもできないのに。ほんと、誰に似たんだか。
 そうか、と頭を掻く夫は満更でもないみたい。お茶でもいれようかと、私はキッチンに立った。
「普段甘えられないからか、ここぞとばかりって感じですよ。私にはあんな顔見せないのに」
「常に一緒にいるから仕方ないんじゃないか? 俺も普段から一緒にいてやれればいいんだが」
「それこそ仕方ないことでしょ、こうして帰ってきてくれることが、もう十分ありがたいですから」
「うーん」と返す彼の声は悩ましげで、それではあまり納得ができないらしい。
 ゴーゴースミレで作ったお茶っぱをポットにいれる。お湯が沸くまで、もう暫くだ。
「アジトは、どんな様子ですか? 業務は大変?」もう随分足を踏み入れていない砂漠の洞穴。あの頃が懐かしい。
「そうだなぁ、最近は幹部を目指したいってやつが多くなってきてるから……練度が上がってて、キツイといえばキツイな」
「いいことですね。幹部役が増えれば、あなたの仕事も少しは楽になるかもしれないし」
「どうだろうなぁ。人に鍛錬をつけるってのは、また違う能力が必要だから……人手が足りないのは支部の方だし」
「そっか……都合よく鍛練班に回ってくることなんてないかぁ……」
 イーガの男の人と結婚すればこうなるなんてことは、当然一緒になる前から分かってた。この生活に不満があるわけでもなく、そもそも不満を言うつもりなんて毛頭ない。コーガ様には感謝してるし、忙しい中なんとか時間を作って帰宅してくれる夫にも。
 けど、もう少し、ほんの少しだけ、もっと一緒にいられたら──。なんてワガママは、このまま無かったことにして胸にしまってしまいたい。
 くあ、ととぼけた欠伸の声が後ろで聞こえた。「眠いですか?」と問えば、「いや」と即座に返ってきた。眠いんだろうな。昨日は随分遅かったのだし、これも当然のこと。
「寝ちゃっても良いですよ。私も家政は終わってるし……ちょっと本を読んだら寝ようかなと思うので」
「いや……眠くない。それより、お前の話が聞きたい」
 急に話を振られて、言葉に詰まる。「……私の?」
「そう、お前の」
 振り返ると、彼と視線が合う。眠そうに蕩けた瞳。けれど、随分楽しそうな瞳。
「最近どんなことがあったか聞きたいんだ」
 まるで、娘が微睡みに落ちるのを眺めるときみたいな表情で。
 突如渡された語り手のバトン。けれど、何を話せば良いか分からない。そのまま一言も発さずに背を向けて、とぽとぽと淹れたてのお茶を注いだ。私、最近なにがあっただろう。
「えっと……最近、あの子が計算できるようになったから、お使いを頼みました。50ルピーだけ持たせて、山羊のバターを買ってきて欲しいって。随分寄り道をしたみたいなんだけど、ちゃんと買ってこれたんですよ、余ったお金でキビザトウも買ってきてたけど……」
「違う違う、それはお前の話じゃないだろ? 俺が聞きたいのは、俺がいない間の、お前の話」
 ぎし、と椅子の軋む音。ゆっくりと立ち上がった夫は、ラグの敷かれた部屋の隅に腰を降ろす。
 狼狽えて肩を縮める私へ向けて、ゆったりとした動作で、両手を広げた。
「こっち来て。話、してくれ」
「……」
「ほら、おいで」
 低くて、穏やかに誘われた途端、ぎゅ、と胸が詰まる。手の中に納まるスミレ茶の湯気が、私の身体をぽっぽっと照らしていって。
 「ん?」ともう一度両手を持ち上げる彼。それから、静々と近づく。目の前まで辿り着いて、ゆっくりと膝をつくと、太い彼の腕が柔らかく身体に回される。
 胡坐の中心に腰を落ち着けてから顔を上げると、とろりと蕩けた顔の彼と視線が交わった。
「……で、今日はどんな一日だったんだ?」
 パパの顔じゃない。これは、私の夫の顔。髪を梳く指先に、これでもかってくらい甘やかされていく。
「今日は、ね」
 私は彼の胸板に頭を預け、思いつくことをぽつぽつ話し始めるのだった。

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