1000字練習

 アジトから久しぶりにわが家へ帰ってきた。夕餉を家族と共に団欒し、夜には妻と夫婦の時間を満喫する。これほどじっくり彼女と向き合えたのは、いつぶりだろうか。精も根も尽き果てたらしい妻は、汗ばんだ身体のまま寝息を立て始めた。
 さっきまでの婀娜な様子と打って変わり、どこかあどけない顔で寝付いている。ベッドに散る柔い髪の毛を指で梳かしながら、今日一日の余韻に浸った。
 いや、しかし、なんだ。
 冷たくなってきた腹を押さえる。
 腹が減った。
 夕飯が早かったからだろうか。やけに腹がさもしく、抗えない空腹感があった。アジトにいるときであれば見ないふりするかと思うが、今は家だ。食料はある。バナナでもリンゴでも、何かしらで腹を膨らませてから微睡みに落ちたい。
 よし、食おう。そろりそろりとベッドから抜け出して、下穿きとズボン、それに羽織りを肩にかけてキッチンに向かった。

 さて、なにを食うか。と辺りを見回した瞬間、視界に飛び込んできたものにはハッとなる。
 炊事場に吊り下げられている肉の塊──ベーコンだ。ベーコンが俺を誘っている。
 フライパンでカリカリに焼いた旨味の塊。舌に広がる香ばしさと肉肉しさが一瞬で頭の中に広がって、自然と喉が鳴った。
 ベーコン。お前に決めた。心の中で宣言し、ひっつかんだ。
 フライパンを十分に熱し、良さそうな塩梅でベーコンを乗せると、ジュウッと油の跳ねる派手な音がする。思わず寝室の扉に視線を遣ったが、妻が起きたような気配はない。その後も、ベーコンと寝室の扉に視線をさ迷わせながら、旨そうな香ばしいニオイを含むモヤを合図に、ベーコンをひっくり返した。
 黒い。結構焦げた。じくじくと音を立てるベーコンは、どうやら少々焼き過ぎたらしい。いや、しかし、俺はカリカリベーコンが好きだから問題ないか。
「・・・とおさま・・・?何してるの・・・?」
 突然の声に振り向けば、部屋の奥に目を擦る長男が立っていた。
 物音で起こしてしまったか。ゆっくり近づいてきた長男は、「ベーコン? 食べるの?」とフライパンの中を遠目に覗く。
「ああ、腹が減ってな。お前も食べるか?」
「母様に怒られない?大丈夫?」
「なに、もし怒られても俺が全部食べたというから、お前は気にするな」
 長男は琥珀色の瞳を細め、悪戯っぽくほくそ笑んだ。
 脂で照り照りと濡れるベーコンが焼けるのを、ただ二人でじっと見つめる。
「学校はどうだ。楽しいか」
「うん、そこそこ。勉強より、剣の練習の方が好き」
「俺も昔はそうだった。でもな、最低限の知識はつけとかないとな」
「サイテーゲンって?」
「生きるための芯になる知識だ。なにを信じて、なにを守ってくか」
「ふうん、よく分かんない」
「たとえば、なにが食えてなにが食えないか知っとかないと、腹を壊すだろう?」
「うん」
「なんでもそうだ。自分の中に取り入れるとき、腹を壊さないために知識をつけとくんだ」
「それならまあ、分かるかも」
「そら、焼けたぞ」
 ちょうど良くカリカリになったところで皿に引き上げ、半分にカットする。二人でベーコンにフォークを突き刺し、乾杯と言ってから噛みついた。
 口の中に広がる脂性の甘み。鼻を抜ける香ばしいにおい。こんな夜更けに贅沢にもベーコンを焼いて食っている。美味い。背徳感とは、最高の調味料だな。
「ああ・・・酒が飲みたい・・・」つい口に出た言葉に、長男は首を傾げる。
「お酒って・・・そんなに美味しいの?」
「ああ、最高だぞ。特に母様の作った飯と酒の相性たるや。もうそれ以外は必要ない。お前もすぐに分かるようになる」
「飲んでみたいな。でも母様、許してくれないんだ」
「そうだなぁ、まだ少し早いだろうな。大人になったら、飲み方を教えてやろう。失敗するととんでもないことになる」
「お酒って、失敗とか成功とかあるんだ」
「ある。俺は失敗して成功して、母様と一緒になったから」
 長男がくすくす笑う。なあにそれ、と呟く言い方が、まるでそっくりなんだから。
 それから使い終わった食器類を洗い、「他の家族には内緒だぞ」と約束をしてから、俺達は寝室へ戻っていった。
 ベーコンを焼く音と、長男の声。頭の中で反芻しながら、そういえば、長男とこうまでゆっくり話したのは初めてかもしれないと思った。満たされた気持ちで、この日は微睡みに落ちていった。

 次の日。洗い落とせなかったフライパンの焦げと、朝食のメニューを失った妻によって、俺は激しい雷を落とされることになる。
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