2026/2月~3月(68~98)
「許さない」と耳にしたとき、腹の奥でうずと震え沸き立つ熱があった。微かに震え始める指先を握り込むが、今度は拳そのものが震えてどうにもならなくなった。
家族から貰って肌身離さなかったというスカーフの断片。華やかな鳶色だったそれが、今やかさついた赤茶色になって祭壇に横たわっている。血だまりの中にこれだけあったと話す村の人間は、魔物に襲われたのだろうと続けた。
許さないとは、それをぢっと見つめていた息子が発した。暗い目をして、その柔らかそうな薄い唇からとは思えないほど、低い声で。
恨み言を聞いた途端、ずうと胸の奥底から黒い感情があふれだしてくるのが分かった。それに従い、今この場で白い首筋に手をかけでもしてやろうかと思った。もしくはあれと同じように、ナイフを心臓に突き立てれば小うるさい言葉は潰えるのだろうと思った。
幸せだろう。父の所業を知らないまま、残った血の痕だけを見て怨恨を抱けるなどと。その浅慮な覚悟を私が折るのは容易いだろうなぁ。
「大丈夫?」
肩に触れられ、ふと我に返る。自分は今、なにを考えていた。
疲れてるよね、と勝手に胸中を察したらしい奥方から労われ、私は曖昧に濁す言葉で返事をする。それ以外に返事を思いつかなかった。
葬儀が終わると、すぐに家中の火は消され、就床の時間となった。
家人は彼を偲ぶため、一つの部屋に集まって眠るらしい。私も家政をそこそこに終わらせ、自室とは言えないが閨でもある納戸に入った。
布団を広げると、間に挟んであったものと目があう。
白い木の面だ。中央に大きく、赤い絵の具で描かれた一つ目の。
おもむろに手へ取る。かさついた表面を撫でたとき、私は、ああ、と得心したような理解を覚えた。
子供の首に手をかけようとした一瞬。あの人が言ったことは、正しかったのだ、と。
林の中、父の形見のナイフを男に突き立てたのは、ほとんど衝動的な行動でしかなかった。
胸の肉は固かった。しかし肌を破って骨に当たり、その先の固い肉を更に通過するのに、余分な力は必要がなかった。ただ自らの体重を短刀の切っ先に押し込めれば、簡単に薄い鉄の刃は中へと吸い込まれた。
最初男は、胸の中に収まったナイフが信じられないとでも言うように目を見開き、吐血し、それからじくじくと洋服に広がっていく赤い色に震える指を添えた。震える呼吸音が耳元で聞こえる。彼はすぐに死ななかった。体当たりで地面に押し倒し、馬乗りになってナイフを抜いた。それからまた振り下ろした。されるがままに切っ先を何度も身に受け、その度に男はうめき声を上げた。私の手に縋り、爪を立て、足先をばたつかせたが、何度ナイフを刺したときだか、彼は静かに動かなくなった。細切れになった肉の隙間から血液が溢れ出していた。
殺した。
人を殺した。
儘ならない呼吸と、ナイフを持ったまま緩められない指先。彼から滑り落ちるように地面に座り直すと、湿気た土のにおいが唐突に鼻に入った。
梢の隙間から差し込む月の光に、顔が白く照る。開きっぱなしの瞼。
もう限界だったのだ。それをせねば、私自身の精神が腐り果て、心が死ぬと思った。落ち窪んだ眼窩の奥に映っていたのは、汚れ切った私だった。
「ああ、やっちまったんだな、お前」
ひゅっと心臓を掴まれたような寒気に振り返ると、林の暗がりになにかいた。
人の形の影。魔物ではない。一歩足を踏み出した折、まず顔を覆う仮面が影の中にぬぼ、と浮かんだ。面には、赤い一つ目の印が乗っている。いつかに本で見たシーカー族の紋章に似ているが、しかしどこか違う気もした。ぴったりと纏わりつくような赤い装束は肌をひとつも露出させず、男か女かはっきりと分からない。おそらく、男だ。声が低くがさついていた。
立ち上がりもせず身を固くさせていると、仮面の人は悠々と死体の傍へ座り込んだ。
「すげぇな、こりゃ。仕事が楽になってありがたいが、ちとやりすぎじゃあねえか?」
へらへらと笑った。血で溢れる胸の穴を覗き込む仕草は優雅でさえある。なんでそんなに落ち着いてる? 人が、死んでるのに。
そうだ、人が死んでる。私が殺したところを、彼に見られてる。どうしたらいい。このまま仮面の人に告げ口されたら、私は即刻お縄だ。それどころか、打ち首になる可能性だって。
ふと、死体の横に落ちたナイフが視界に入る。ぎらと鈍く光るそれの役目は終わったはず。終わった、はずだった。
生唾を呑み込む。
「お前さん、これからどうするつもりだ?」
仮面の人が立ち上がって言った。
「このままこの死体がここに落ちてるのはちょっとまずいよなぁ、お前さんも血まみれだし、その細腕でこの死体を、誰にも見られず処理するなんてできんのか? 難しいよなぁ、常識的に考えて」
確かにそうだ。骸の男は、胴回りだけで言えば私の二倍はあろうかという体躯をしていた。上背も高い。伸し掛かられたら、なにもできなくなるくらい。よく知ってる。きっと私だけじゃ、引きずることもできない。
「そこで物は相談なんだが、俺が少し手伝ってやっても良い。どうだ?」
手伝う?私の隠ぺい工作を?
仮面の人は軽薄に笑って、軟体動物を思わせる仕草で、ゆらあと真横に首を傾げる。見上げるような格好だ。月の光が全面に降り注いで、夜なのにその白が眩しかった。
「あんたの考えてること、分かるぞお。俺になんの利益があるのかって聞きたい顔だ。まあ、この男は俺も殺そうとしてた相手でね、どのみち死体処理は、しなきゃいけない仕事だったわけだ。ただ、まぁ、俺が手をかけるんだったら、もうちっと川に近いところでやっただろうが」
「……」
「俺としちゃあこのままでも良いぜぇ。困るのはあんたの方だ。そうだろ? 俺は死体処理に慣れてる。ただ、処理すんならあんたの手も借りたい。衛兵に疑われないために、ちょいと工作をするんだわ。なあ、どうする?」
滔々と慣れたように、仮面の人は笑み混じりに舌を回す。私が突然現れた人間を信頼する道理はない。あまりに怪しすぎる。が、今このとき、彼以外に頼る人間がいないのも確かだった。
魔が、刺したのだ。
どぼん。塊を川に投げ入れると、水面が大きく揺れて沈み込み、それからぷかあと白い塊が浮かんできた。流れに沿ってゆっくりと遠ざかっていくそれは、どこか遠い外国へと向かっていく船のようだった。
「この川は海に繋がってる。トカゲもいるしな。見つかる前に無くなんだろ」
彼はそう言って、私に向かって手を差し出してきた。「俺が来ていた洋服だ。着替えねえと、お前さんの家に着く前にお縄になる」
そこで、自分がどれほど赤色に染まっているかが分かった。既に乾き始めた斑は、染みの端から茶色くなりつつある。洋服を脱ぐのに向こうを向いていて欲しいと言えば、「人殺してるとこより、裸見られんのが嫌なのかよ」と笑われた。それも、確かにそうだ。
川の水で血を流し、彼から受け取った服に袖を通す。埃と、土と、気のせいかもしれないけれど、甘い果実のにおいがする。血生臭いよりずっといい。
「洋服は川に流しちまいな。もしくは焚火で燃やしてもいいが、燃えきる前に誰それに見つかったらつまんねえだろ」
この頃、彼の言葉に疑念を抱く余地はなく、言われた通りに服を川へ流した。座ったままの私のほんの傍で見守っていた彼は、これで終いだなと肩を叩いていった。まるで最初から二人でやったみたいに。
けれど本当は違う。本当は私一人ですべて対処しなきゃいけなかった。なのに、彼はなんで。
「……どうして、手伝ってくれたんですか」聞かないわけに、いかなかった。
仮面の人は一仕事終えたことを実感するように「そうさなぁ」と首を掻く。
「めった刺しだったろ、あの男」
「……」
「よっぽど恨みがあったんだなと思ってな。そうだろ?」
「……昔、あの男に騙されて、私の父は首を吊りました。母は梅毒で死に、私はあいつに身を売ることになって、毎晩……」
「ひでえ話で笑えるな。好きだぜ、そういうの」
それは嘲りだったろう。けど次の瞬間、その言葉が同情のようにも思えた。本懐が悟れないのは仮面があるからだろうか。
でももう、どうでもいい。不幸な女の話は、終わったのだ。ふっと息を吐く。
「でも、これであとは、静かに暮らせます」
私を閉じ込めるものはなくなった。こうして証拠も隠滅した。ようやく、これで、
「お前さん、もうそっちじゃ生きらんねえと思うけどねぇ」
息とも声ともつかない音が漏れる。え、と言ったんだったか、は、と言ったんだったか。
振り返れば、月を負い、影を濃くした赤い瞳に見下ろされていた。
「……どういう」
「これ、やるよ。その時になったらまたここに来てみな。歓迎してやるぜ」
背中に手を回した彼は、顔に被さるものと同じ一つ目の面を取り出した。同じ道を辿れと言われている? これから平穏な毎日が送れるのに?
「私は……その……」
「まあ。今決めなくたっていい。しかしな、俺には分かるぜ。お前はきっと、数日も経てばきっと俺達の元へやってくる。きっと。きっとな」
ひひひと、笑い声を残してまず赤い装束が消え、白い仮面が消え、最後に瞳の赤が暗闇に溶けていく。
白い仮面を半ば無理やり受け取らされた私は、きっと自分でも薄っすらと分かっていた。一度外れた閂を、もう私は元に戻せない。別の首に手をかける前に、私は仮面を身に付け、屋敷を出ることになると。
仮面の人が最後に残した言葉が、頭にこびりついて離れなかったのだから。
「だってお前さん、ずうっと清々したって顔してんだからなぁ」
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