2026/2月~3月(68~98)

 後輩から、焼き菓子を貰った。
「彼女が作ってくれたんです。少し多く焼き過ぎたので、幹部殿にもどうぞと!」
 元々、気の良い後輩だった。しかしまさか、順風満帆と噂の恋人が作った焼き菓子を、よもや俺が受け取ることになるとは思っていなかった。彼とは朝方に模擬戦をおこなう同僚というだけで、恋人の顔はもちろん姿だって見たこともないのに。
 断るべきだったろう。しかし俺は、「感謝する」と二つ返事で受け取った。威厳ある幹部役としてあるまじき。しかし、咄嗟にクッキーを頬張る針子の顔が思い浮かんだ。こういう洒落た食べ物、絶対好きに違いない。「あいつも喜ぶと思う」なんて付け足したのは、余計だったかもしれないな。

 それから焼き菓子のことを思い出したのは、業務も終わり、湯浴みついでに装束を脱いだ時のことだった。
 俺の自室で悠々と寛いでいた針子に見せれば、思った通りだ。針子はぱっと身を乗り出し、目を爛々と輝かせてみせた。
「エエッ!? 焼き菓子ですか!? 食べたい食べたい! やった~! 嬉しい~ッ!」
「そんなにか? そこまで喜ぶならお前が全部食べるといい。俺は別に、焼き菓子に興味ないから」
「えっ、ダメですよ! 台座さんがもらったものなんですから一緒に食べましょう! 急いで湯浴みしてきますから、ちょっと待っててくださいね!」
 言うや否や、隅に重ねてあった着替えを抱え、針子は疾風の如き速さで飛び出して行った。小走りの音と跳ねるような鼻歌の高音が、扉越しにだんだんと遠ざかる。相変わらず無邪気な娘だ。想像通りの反応すぎて、思わずふっと笑みが漏れてしまった。
 文机に腰掛け、筆記用具と日誌を広げた。彼女が帰ってくるまでに日課を済まさねばならない。あの様子じゃ、きっと烏の行水ですぐさま戻ってくるはずだ。焼き菓子は机の端に置いておくことにする。

 筆を走らせ始めてから数十分。一旦書き終わり、ふぅと息吐きながら肩の筋を伸ばす。ついでに視線を遣ったのは扉だが、彼女が飛び出して行ってからというもの沈黙したままだ。おかしい。いつもなら、そろそろ帰ってきても良い頃だろうに。
 正面を向いた折、普段は存在しないものに自然と視線が誘われた。もちろんそれは焼き菓子のことで、整然と並んだ帳簿の前にちんまりと座る麻の包みは、なんとはなし作り手の素朴さをも感じさせる。
 日課も終わって手持無沙汰だった。どれ、と思って赤い裂き布の蝶結びを解くと、うっすらと焼き色のついた丸い焼き菓子が二列現れた。ほろりと粉を散らしたそれから、途端に香ばしい粉物のにおいが漂ってくる。夕餉を食ってから暫くが経つ。自然と喉が鳴ったのだって、しようがないことだったに違いない、と思いたい。
 どうせ針子に全部やるんだ。物は試し、とひとつを手に取り、口に放り込んだ。さく、さく、と歯で割る毎に鼻から抜けていく濃厚なバターの香り。それにまるで解けていくような触感で、優しい甘さも悪くない。もう一枚、もう二枚、と無意識に食指が進んだ。
 気付けば一列を食べきっていた。そして二列目に差し掛かる、そのときだった。
「台座さーん、戻ってきましたぁ! ついでにお茶も貰ってきましたよ~! 一緒に食べましょ!」
 急な報せに肩が跳ねる。まるで時間が止まったようだった。いや、戻ってくれと思った。随分きしつく首回りで後ろを振り返ると、湯上りでほかほかになった針子が、ほかほかの笑みで立っている。
「は、針子……」
 はた、と針子の表情から笑みが抜ける。両端の持ち上がった口元が徐々に山を描き、眉が寄っていく様をスローモーションで垣間見た。
 この時ほど「しまった」と思ったことは、後にも先にもない。彼女がワッと大きい声を出すのと俺が謝罪を口にするのは、ほとんど同時であったのだった。
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