2026/2月~3月(68~98)
彼女はむすくれていた。意気揚々と、軽やかにキッチンの棚を開けたときのことだった。
「……なんで」
そこにあるはずのクッキーがない。少し厚めの、ほっくりとした四角いやつ。お隣さんからお裾分けされて、家人がバクバク食べるのを尻目に、家事の最中を理由に我慢していたクッキーだった。
洗濯、朝餉作り、弁当の準備、子どもの登校の見送り、鶏の世話、畑の水やり、雑草抜き、やっと一息つけると家に戻ってきて、ついに食べられると楽しみにしていたのに。
クッキーの乗った小皿がそこにあったことは、瓶詰めの乾き物や茶葉の合間にできた空閑地が確かに物語っている。
突然の悲劇だ。しかし、彼女には犯人の目星がついていた。
夫だ。
あの大食漢酒飲み大男が、目敏く見つけて食べたに違いない。
わなわなと指を開閉し、彼女はぎゅっと拳を握った。実は初めてのことではなく、だからこそ彼女には分かっていた。自分がどれほど沸々怒りながら彼の帰宅を迎えたとしても、彼は何食わぬ顔で「そうだったか?」ととぼけるに決まってる。そして次の瞬間には「今日の夕飯はなんだ?」と聞いてくるだろう。子供みたいにワクワクした顔で。そして自分は、アラフォー男の期待の籠った瞳に毒気をすべて抜かれる。
……腹立たしい。腹立たしいと思う。だからせめて、自分は怒ってるんだという事実を伝えたい。
意趣返しだ。何をしてやろうか、と考えて閃いた。
数年前に交わした会話が、ふと頭の中に蘇ったのだ。
『あなた、苦手なものは無いんですか』
あれは確か、イーガのアジトで寝泊まりをしていたころ。なんでもかんでも美味しいと評する彼へ、素朴な疑問を口にした。
この時に晩酌のお供になっていたのは、砂糖と塩を間違えた砂肝のバター炒めだった。明らかな失敗作なのに、まだ恋人関係にあった彼は、文句も言わずに酒をあおった。
当時イーガの炊事だった彼女としてはありがたく思える一方で、これでは単に味音痴なだけではないかと訝しく思っていた。
「苦手なもの?」きょとん、と顔を上げ、それから人生相談でも受けたときのように重々しく顎に手を当てた姿を、彼女はよく覚えている。
「文句を言ってられるような環境じゃないが……そうさなぁ、しいて言えば、マックスドリアンとか?」
「マックスドリアン?」
ツルギバナナと同じく、フィローネ地域で採れるフルーツだ。南国独特のねっとりとした甘みでフアンも多いが、腐ったミルクのような臭いが強烈で人の好みをよく分ける。
「独特ですよね、あのにおい」と共感を示すが、彼女の思惑は少し外れていた。
「昔食ったときにな、虫がたかってるのに気付かなかったんだ。まぁ飲み込む直前で吐き出したが」
「それは……確かにトラウマになっちゃう……」
「あと、確かにニオイも気になるな。酒にも合わんし」
「……貴方の好みの基準ってそればっかり!」
くすくす呆れながらも酒瓶を差し出せば、打って響くように彼が瓶口へ猪口を宛がう。
あの時は「ん、すまん」と頭を下げるくらいには遠慮があったのに、今や妻が取っておいたクッキーを盗み食いする人非人だ。結婚って人を変えてしまうものなのか、それとも自分が見抜けなかっただけなのか。
しかし、彼女だってされっぱなしじゃ終われない。目には目を。歯には歯を。食べ物の恨みであるのなら、食べ物で晴らすべきだろう。
皿すらなくなった棚の前で、彼女は一人、力強く頷く。愛してやまない夫に復讐を誓う彼女は、まごうことなくイーガの団員であるのだ。
■
数日後。カルサー谷の赴任先から、珍しく日が沈み切らないうちに夫が帰ってきた。
子供らの出迎えを受けつつお土産のツルギバナナを渡し、帰宅の挨拶をハグついでに交わした彼は、あっけらかんと二の句を継いでみせる。
「腹が減った。今日の夕飯はなんだ?」
ホラキタヤッパリ!! 予想通りの展開である。
十数年を共にしてきたのだ。彼の反応を想像するなんて朝飯前。彼だってそうだろう。きっと「自分の好物を準備してくれているに違いない」と考えているはず。だって彼が帰ってくるときはいつもそうしていた。
今日はその、妻の優しさに胡坐を搔いた報いを受けてもらおう! ゆらりとキッチンに進んだ彼女は、ニッコリ顔で振り返った。「今日は珍しいものを手に入れたんですよ。この」
ドンッ!
「マックスドリアンを使った、酢肉炒めです!」
小麦粉をはたいた食材を揚げ焼きし、酢と醤油で味付けた酢豚。いつもならモリモリ食べて欲しいと願うところだが、今日はクッキーの恨みがある。
さあ、存分に困るがいい……! 清楚な妻としてウフフとほほ笑むその裏で、彼女は人知れず拳を握る。
彼は「おお……」と唸った。
「美味そうだな」
そうでしょ、美味そうでしょ。……ん? なんだかその言葉は想像と違う。彼女は目を瞬かせた。しかし口に入れた瞬間に苦い顔をするかもしれない。と踏んで観察を続ける。
子供たちの「おいしそー!」という歓声をバックに、彼はドリアンを箸でつまんでパクリだ。その俊敏な動きには遠慮がなく、相変わらず一口が大きいし、ドリアンの切れ端が三つは箸に摘まれていた。その後ガツガツと米を運んでいって、……おかしいな。おかずの減りが早い。
「ご馳走様。美味かったなぁ、今日も最高だった。 まさかマックスドリアンと酢豚がこんなに相性いいなんて驚きだ」
あっという間にご飯はなくなり、お皿は空になった。あれ~なんでぇ? グルグル考え込んでいる間に夫はお風呂場へ消えていき、彼女は薄茶のタレだけが微かに残るお皿を見つめる。
あの男、一切の躊躇なく食べた。美味しそうに。お代わりまでして。
「……なんでそんな難しい顔してるんだ」
夫が険しい顔の理由について指摘したのは、夫婦の寝室で二人きりになってからのこと。ベッドに横並びで潜り込んだ折、本から視線を上げる夫の瞳が、そわそわと顔色を伺ってきた。
きっと彼は心配をしているのだ。自分が居ない間に何かあったのではなかろうかと。もしくは子供たちに何かあったのではなかろうかと。彼は普段から、妻に難しい顔をさせている原因が自分だとは、あまり考えない性質だった。
なんだか黙ってるのもバカらしい。もはや洗いざらい白状しても良いか、という気がして「実は……」と彼女は語る。
全てを聞いた夫は、「はあー、なるほどなぁ」と怒りもせず、感心したように腕を組んでみせた。
「確かに苦手と言ったかもしれんなぁ。まぁ、今も特別に好きでないのは確かだ。あれだけで酒に合うとは思えん」
「そこは変わってないわけですね?」
「しかし苦手だと言ったのだって、もう何年も前の話だ。ずっと同じだと思ってもらっちゃ困る」
「じゃあ、好きになってたってことですか?」
「お前が作ったものなら、そりゃ食うだろ。なんでも」
答えになってるような、なっていないような。相変わらずの口ぶりに「なんですか、それ」と呆れた笑いが零れた。
彼も「ふふ」と笑って見せて、しかし次の瞬間、なぜだかすうっと眦を眇める。
「じゃ、遠慮なくていいわけだな」
「……遠慮?」
「そういうことだろう。夜にマックスドリアンを食べるってのは。俺はてっきり誘われてるんだと思ったが」
言うや否や、夫の太い腕がさっと腰に回され、ぎゅうと力強く引き寄せられた。彼女が「わっ」と漏らす合間に、夫に太もも辺りで跨がれる。凭れていた壁を背に、まるで囲われるように。
ぐっ、とお腹に突きつけられたのは、なにか堅いもの──既に張りつめた彼自身だ。布越しにびくびくと跳ねている。まるで、初めて会って夜を共にした、若い時のように。
ひゅ、と思わず息を吸った。
「な、なんでもうこんなになって……」
「ヤる気満々なのかと思って。妻から誘われるのは興奮するもんだ」
「誘ってたわけじゃ……!」
「じゃあマックス食材を晩飯に出す意味について、よーく理解しておくことだ」
彼の顔がグッと近づいてきて、ほんの指先分ほどの距離で瞳を覗き込まれる。
「収まるまで今日は付き合ってもらうからな」
報復は、イーガの民に刻まれた蛮風。彼もまた自分と同じ血が通っているのだ。これから身に起こるクッキーの報復の報復を考えて、彼女は唇を引き攣らせた。
「……なんで」
そこにあるはずのクッキーがない。少し厚めの、ほっくりとした四角いやつ。お隣さんからお裾分けされて、家人がバクバク食べるのを尻目に、家事の最中を理由に我慢していたクッキーだった。
洗濯、朝餉作り、弁当の準備、子どもの登校の見送り、鶏の世話、畑の水やり、雑草抜き、やっと一息つけると家に戻ってきて、ついに食べられると楽しみにしていたのに。
クッキーの乗った小皿がそこにあったことは、瓶詰めの乾き物や茶葉の合間にできた空閑地が確かに物語っている。
突然の悲劇だ。しかし、彼女には犯人の目星がついていた。
夫だ。
あの大食漢酒飲み大男が、目敏く見つけて食べたに違いない。
わなわなと指を開閉し、彼女はぎゅっと拳を握った。実は初めてのことではなく、だからこそ彼女には分かっていた。自分がどれほど沸々怒りながら彼の帰宅を迎えたとしても、彼は何食わぬ顔で「そうだったか?」ととぼけるに決まってる。そして次の瞬間には「今日の夕飯はなんだ?」と聞いてくるだろう。子供みたいにワクワクした顔で。そして自分は、アラフォー男の期待の籠った瞳に毒気をすべて抜かれる。
……腹立たしい。腹立たしいと思う。だからせめて、自分は怒ってるんだという事実を伝えたい。
意趣返しだ。何をしてやろうか、と考えて閃いた。
数年前に交わした会話が、ふと頭の中に蘇ったのだ。
『あなた、苦手なものは無いんですか』
あれは確か、イーガのアジトで寝泊まりをしていたころ。なんでもかんでも美味しいと評する彼へ、素朴な疑問を口にした。
この時に晩酌のお供になっていたのは、砂糖と塩を間違えた砂肝のバター炒めだった。明らかな失敗作なのに、まだ恋人関係にあった彼は、文句も言わずに酒をあおった。
当時イーガの炊事だった彼女としてはありがたく思える一方で、これでは単に味音痴なだけではないかと訝しく思っていた。
「苦手なもの?」きょとん、と顔を上げ、それから人生相談でも受けたときのように重々しく顎に手を当てた姿を、彼女はよく覚えている。
「文句を言ってられるような環境じゃないが……そうさなぁ、しいて言えば、マックスドリアンとか?」
「マックスドリアン?」
ツルギバナナと同じく、フィローネ地域で採れるフルーツだ。南国独特のねっとりとした甘みでフアンも多いが、腐ったミルクのような臭いが強烈で人の好みをよく分ける。
「独特ですよね、あのにおい」と共感を示すが、彼女の思惑は少し外れていた。
「昔食ったときにな、虫がたかってるのに気付かなかったんだ。まぁ飲み込む直前で吐き出したが」
「それは……確かにトラウマになっちゃう……」
「あと、確かにニオイも気になるな。酒にも合わんし」
「……貴方の好みの基準ってそればっかり!」
くすくす呆れながらも酒瓶を差し出せば、打って響くように彼が瓶口へ猪口を宛がう。
あの時は「ん、すまん」と頭を下げるくらいには遠慮があったのに、今や妻が取っておいたクッキーを盗み食いする人非人だ。結婚って人を変えてしまうものなのか、それとも自分が見抜けなかっただけなのか。
しかし、彼女だってされっぱなしじゃ終われない。目には目を。歯には歯を。食べ物の恨みであるのなら、食べ物で晴らすべきだろう。
皿すらなくなった棚の前で、彼女は一人、力強く頷く。愛してやまない夫に復讐を誓う彼女は、まごうことなくイーガの団員であるのだ。
■
数日後。カルサー谷の赴任先から、珍しく日が沈み切らないうちに夫が帰ってきた。
子供らの出迎えを受けつつお土産のツルギバナナを渡し、帰宅の挨拶をハグついでに交わした彼は、あっけらかんと二の句を継いでみせる。
「腹が減った。今日の夕飯はなんだ?」
ホラキタヤッパリ!! 予想通りの展開である。
十数年を共にしてきたのだ。彼の反応を想像するなんて朝飯前。彼だってそうだろう。きっと「自分の好物を準備してくれているに違いない」と考えているはず。だって彼が帰ってくるときはいつもそうしていた。
今日はその、妻の優しさに胡坐を搔いた報いを受けてもらおう! ゆらりとキッチンに進んだ彼女は、ニッコリ顔で振り返った。「今日は珍しいものを手に入れたんですよ。この」
ドンッ!
「マックスドリアンを使った、酢肉炒めです!」
小麦粉をはたいた食材を揚げ焼きし、酢と醤油で味付けた酢豚。いつもならモリモリ食べて欲しいと願うところだが、今日はクッキーの恨みがある。
さあ、存分に困るがいい……! 清楚な妻としてウフフとほほ笑むその裏で、彼女は人知れず拳を握る。
彼は「おお……」と唸った。
「美味そうだな」
そうでしょ、美味そうでしょ。……ん? なんだかその言葉は想像と違う。彼女は目を瞬かせた。しかし口に入れた瞬間に苦い顔をするかもしれない。と踏んで観察を続ける。
子供たちの「おいしそー!」という歓声をバックに、彼はドリアンを箸でつまんでパクリだ。その俊敏な動きには遠慮がなく、相変わらず一口が大きいし、ドリアンの切れ端が三つは箸に摘まれていた。その後ガツガツと米を運んでいって、……おかしいな。おかずの減りが早い。
「ご馳走様。美味かったなぁ、今日も最高だった。 まさかマックスドリアンと酢豚がこんなに相性いいなんて驚きだ」
あっという間にご飯はなくなり、お皿は空になった。あれ~なんでぇ? グルグル考え込んでいる間に夫はお風呂場へ消えていき、彼女は薄茶のタレだけが微かに残るお皿を見つめる。
あの男、一切の躊躇なく食べた。美味しそうに。お代わりまでして。
「……なんでそんな難しい顔してるんだ」
夫が険しい顔の理由について指摘したのは、夫婦の寝室で二人きりになってからのこと。ベッドに横並びで潜り込んだ折、本から視線を上げる夫の瞳が、そわそわと顔色を伺ってきた。
きっと彼は心配をしているのだ。自分が居ない間に何かあったのではなかろうかと。もしくは子供たちに何かあったのではなかろうかと。彼は普段から、妻に難しい顔をさせている原因が自分だとは、あまり考えない性質だった。
なんだか黙ってるのもバカらしい。もはや洗いざらい白状しても良いか、という気がして「実は……」と彼女は語る。
全てを聞いた夫は、「はあー、なるほどなぁ」と怒りもせず、感心したように腕を組んでみせた。
「確かに苦手と言ったかもしれんなぁ。まぁ、今も特別に好きでないのは確かだ。あれだけで酒に合うとは思えん」
「そこは変わってないわけですね?」
「しかし苦手だと言ったのだって、もう何年も前の話だ。ずっと同じだと思ってもらっちゃ困る」
「じゃあ、好きになってたってことですか?」
「お前が作ったものなら、そりゃ食うだろ。なんでも」
答えになってるような、なっていないような。相変わらずの口ぶりに「なんですか、それ」と呆れた笑いが零れた。
彼も「ふふ」と笑って見せて、しかし次の瞬間、なぜだかすうっと眦を眇める。
「じゃ、遠慮なくていいわけだな」
「……遠慮?」
「そういうことだろう。夜にマックスドリアンを食べるってのは。俺はてっきり誘われてるんだと思ったが」
言うや否や、夫の太い腕がさっと腰に回され、ぎゅうと力強く引き寄せられた。彼女が「わっ」と漏らす合間に、夫に太もも辺りで跨がれる。凭れていた壁を背に、まるで囲われるように。
ぐっ、とお腹に突きつけられたのは、なにか堅いもの──既に張りつめた彼自身だ。布越しにびくびくと跳ねている。まるで、初めて会って夜を共にした、若い時のように。
ひゅ、と思わず息を吸った。
「な、なんでもうこんなになって……」
「ヤる気満々なのかと思って。妻から誘われるのは興奮するもんだ」
「誘ってたわけじゃ……!」
「じゃあマックス食材を晩飯に出す意味について、よーく理解しておくことだ」
彼の顔がグッと近づいてきて、ほんの指先分ほどの距離で瞳を覗き込まれる。
「収まるまで今日は付き合ってもらうからな」
報復は、イーガの民に刻まれた蛮風。彼もまた自分と同じ血が通っているのだ。これから身に起こるクッキーの報復の報復を考えて、彼女は唇を引き攣らせた。