2026/2月~3月(68~98)

 一か月くらい前になるだろうか。馬宿で働く下男が増えた。どっかの警備隊をやってたとかでがっしりした体躯、働きぶりも真面目だからか、随分周りからの評判が良い。俺の方がずっと先輩だってのに、「こいつを見習えよ」なんて主人から比較される始末だ。「やだなぁ、先輩に見習えだなんて」と頭を下げつつ見えた軽薄な笑みに、どこかいけ好かない印象を抱いたのは確かだった。
 その下男の、秘密を知った。
 知っちまったのはたまたまだった。サボってるのが見つからないよう、森の奥にションベンしに行ったときのことだ。あの品行方正だと評判の下男が、女とまぐわってるのを偶然に見ちまった。
 女は、うちの馬宿に度々泊まりに来る剣士の姉ちゃんだった。べっぴんだったが、いつでも鼻にかけたようなスンとした態度で、近寄りがたいと思ってた。その女が、木の幹に両手をついて腰を突き出し、風によがり声を流している。
 このときはビックリしちまって、粗方を見届けてからそそくさとその場を立ち去った。どぎまぎしながら掃除をしていると、先に下男が帰ってきて、それから女剣士が戻ってきた。何食わぬ顔でそれぞれの時間を過ごして……いや、女剣士の方は、チラチラと下男に熱視線をくべていた気もするが。
 とにかく、下男は真面目で品行方正な男なんかじゃない。いけ好かない印象が、確信に変わった瞬間だった。
 それからというもの、俺は下男の動向を密かにチェックするようになった。すると、出てくる出てくる。少し先の村に住んでる娘にも手を出しているし、領主の孫とも関係を持っているらしい。そしてあろうことか、馬宿の奥さんともしっぽりやってる事が分かった。さすがに呆れざるを得ない。下半身に脳みそがあるってこういうことか? いくら何でも、同時にいろんな女へ手を出しすぎだろうに。
 いやしかし、いけ好かないあいつを糾弾する算段が整った。これを直接突きつければ、あいつは俺の言いなりになるに違いない。
 馬宿の人間が寝静まった深更。夜番を請け負った俺は、ついに下男を呼び出すことにした。
 場所は例の森の中。月の灯りが葉の間から下男を斑に照らす。
「どうしたのです、こんな夜更けにお呼びとは……。何かありましたか、先輩」
 またあの薄く笑った顔で言う。先輩、だなんて一切実感の籠っていない言葉だ。馬鹿にしてんだろ。下男の言葉にまんまと乗っかってるようだが、腹がたってしょうがない。
 鼻を鳴らし、抉るような角度で下から睨む。
「お前に言いたいことがあってな。お前の、良くないところな」
「良くないところ……なんでしょうか」
 今に見てろ。知らない合間に乾いていた唇を濡らしつつ、一度唾を飲みこんだ。
「へへ……俺、見ちまったんだよ。お前……人と会ってたろ」
「……」
「あれはいけねえよ、いけねえ。そいでな、俺、お前を追っかけたんだ。そこでな、見ちまったんだよ」
「……何をです」
 一段と深く、唇の片端を吊り上げた。
「お前の秘密を知ってるぜ」
 瞬間、下男の表情が変わった。口端へうっすらと乗っていた笑みも、弓月のように曲げられていた眦も、一瞬で消え失せた。
 ざわ、と感じた胸騒ぎを、見逃すべきじゃなかった。
「ああ、そうですか。私の秘密をね」
 冷たい声。氷よりも固く鋭いなにかを吐き出したみたいな。ぞく、と背筋に悪寒が駆け上がる。なんだ、これ。
 下男は腰に手を当て、わざとらしく首を左右に振った。
「素性が割れるとは……私もまだまだですね」
「す……素性……?」
「しかしまぁ、知られたからにはねぇ」
 懐に手を潜り込ませた下男が取り出したのは、刃物。黒くて、手を広げたくらいの大きさの──ちゃ、と握り返した途端、月光が鈍く閃いた。
「なん」言葉に詰まった。後ずさりし、絡むような青草をにじる。「なんだ、それ。お前……はっ……?」踵に、枝が当たった。
「おや、異なことを」下男は、まるで道を尋ねられた時と同じ素振りで、首を傾げた。「貴方が言ったのではありませんか。秘密を知っていると」
「は……!? し、知ってるとは言ったが、それだけで、だからって、それ......っ」
「人に広まっては困るので」
 枝を踏み、乾いた音が鳴った瞬間だった。どん、と胸に重い衝撃。痛い。蹴られた。地面に頭を打ち付け、視界に閃光が散る。ごほ、と咳き込んでから息を吸うと、また改めて胸に圧迫感が襲った。みし、と身体が音を立てた。
 揺れる視界の中、下男が俺を見下ろしている。土のにおいが濃い。いつのまにか、不気味な白い面に挿げ変わっている。
「まッ、待ってくれ……!! 俺は、俺は別に、こんな!!」
「次から気を付けた方がいいですよ。人の秘密を暴くのが、どんなに恐ろしい結末を連れてくるか」
「誰にも言わねえよ......!あんたが何人の女とヤろうが、好きにすりゃいい……! だから、だから……!!」
「……女?」
 ひたり、と冷たくて固い筋が、首を滑る寸前だった。下男が、いや仮面の男が動きを止め、俺の顔に仮面を近づけてくる。
「貴方の暴いた秘密というのは女、ですか」
 よく分からないが、思うところがあるらしい。そうだ。女だ。お前と剣士の姉ちゃんや、領主の孫や、馬宿の奥さんと関係を持ってることを知った。それだけだ。それだけでこんな目に遭うなんてどうかしてる。俺は必死にかき口説いた。
 どれだけはっきりと口にできたか分からない。舌が回らず、唇は震えてまともに合わせられなかった。股座だけやけに暖かい。しかし仮面の男は「ふむ」と頷いて、胸から足の裏をどけた。ひゅう、と音を立てながら息を吸うと、仮面の男が俺の肩を支えて、起き上がらせてくる。
「すみませんでした、どうやら私の早とちりのようで」
 いやに丁寧な手つきで俺のベストの襟を正し、細かな枯れ葉を払った。触れられたくなかったが、払いのけることもできない。手が近づく度、いつまた黒い刃が閃くかと無意識に身が固くなる。
 されるがままに整えられた後、仮面の男は片膝立ちで、人差し指を口元に添えた。
「失態に失態を重ねましたし、今回は引きましょうかね。しかし覚えておきなさいよ。この印を見たら近寄らないこと」
「は……はい」
「貴方には申し訳ないことをしました。今夜の出来事を忘れて過ごせますように。ではお元気で……先輩」
 そうやって下男は、片手の指を立てながら両手を合わせた、と思った瞬間、白煙が周囲に散った。
 咄嗟に瞼を瞑る。ややあっておそるおそる開けると、そこにはもう下男の姿は無くなっていた。
「……」
 ひゅっと湿気た風に撫でられて、股座がやけに冷たかった。

 馬宿から姿を消した下男は、多くの人間に消息を惜しまれている。
「働き者だったのになぁ。お前なにか知らないか?」
 聞かれる度にあの晩のことを思い出す。しかし、俺は決して誰にも、仮面の男の話をしようとは思わなかった。
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