1000字練習

「台座さん、お髭痛い!」
 布団の中でのことだった。ふにゃふにゃな笑みで首元に擦り寄ってくる恋人。その柔もちのような頬に仕返しとばかり吸い付いた瞬間、彼女がハッとするような悲鳴を上げた。
 面食らって目を瞬かせると、間を置かずに小さな手の平が頬を掴んでくる。湿っぽい熱。俺とは違う滑らかな感触に頬を緩める暇もなく、髭を弾くようにジャリジャリ撫でつけられる。
「今日剃らなかったんですかっ? これじゃチューのとき痛いです!」
「む……すまん、これぐらい、別に良いかと思って……」
「よくない! これじゃすりすりできませんしイヤですっ。毎日きちんと剃ってください!」
 仮面で素顔を隠すイーガの男に、髭を毎日剃る習慣なんてない。彼女と一緒になったからこそなるべく剃るようになったとはいえ、そもそも俺としては髭を育てたい気を押し殺しているのだ。それを毎日だなんて。
 しかし、つやつやの眉間を一所懸命に顰める彼女にこうまで言われては、反論の言葉が消えていく。「……善処する」ともごもご応えると、針子は「分かればよろしい」と満足げに鼻を鳴らした。
 かくして、十数年に渡る俺の隠密生活が、僅かに変化を遂げることになった。
 朝起きて手水場に向かい、洗顔と歯を磨くついでにクナイで髭を剃る。たびたび皮膚を削いだり発疹ができたり、肌を傷めてまいった。やめていいかと弱音に近い相談をすれば、「これ塗るといいですよ!」とポカポカハーブ入りの軟膏を悪気なく差し出された。しようがないので、剃毛の後の塗布を続ける毎日。
 ・・・約一週間後。
「いいですねぇツヤツヤ! これならチューできますね!」
 歓声に近い声で抱き着きながら、針子が頬に擦り寄ってくる。彼女の柔もちをこれほど近くで感じたのも初めてかもしれない。
「まぁ…感触としては悪くはないな」
「でも、今度は唇がガサガサしてるの気になりますねぇ・・・それに指も相変わらず荒れてるし、爪も」
「お前なぁ・・・キリがないだろう、そんな事言ってたら」
 一つひとつを確認するように、唇や指先をつまんでいた針子が、「そうだ!」と手を打った。
「ついでだから、唇に蜜蝋も塗りましょう! 指先にも軟膏を塗って、爪もやすりで磨いて・・・あとは髪の毛に香油とか!」
「そ、そこまでするのか? 俺がっ?」
「でもツヤツヤになったらもっと男前になれますよっ、チューもし放題! ね!」
 彼女が自身の小さな唇を指さす。血色の良い、艶やかな赤色。グッと押し黙って「・・・うむ」と頷く俺の声は、彼女以外に明かせない情けなさの表れだった。

 アジトの守衛中のことだった。玄関に立っていると、妙に肌がちりちりと疼いて痛痒い。肌に触れると、粉吹いているような感覚。
「今日は、随分乾燥してるな」
「そうですか? いつもと同じじゃないっすか」
「失礼」
 会話の途中だったバナナ売りに一言断って、俺は懐から陶器の小さな壺を取り出した。もちろん中身は、ポカポカハーブ入りの軟膏だ。小指の先で掬って、薄く唇に広げる。
「な、なにしてるんですか、旦那」
「これを塗っておくと具合がいいんだ」
「え!? なんでそんなもん持ってるんですか!?」
「針子が、ガサガサしてるから塗った方が良い、と」
 ひゅう。門の奥から谷風の音。バナナ売りの視線が、俺に向けられているのは痛いくらいに分かってる。
「旦那、あんた……」
「皆まで言うな、ほっといてくれ」
 隙間風が、俺とバナナ売りの間を流れていった。
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